『いつかは米俵百俵』 その1
~私たちの濃(こ)い一日~
1 「私たちは忘れられていない」
「こんなに狭(せま)い、窓の小さい部屋にいる」
「入り口の戸を開けると、家の中が全部見えてしまう」
「家の窓からは、すぐ向かいの家」
「お年寄りがひとり暮らし」
「入り口に小さい子や大人のたくさんの靴」
この日遠くから、そして朝早くからやって来たメンバー。『いつかは米俵百俵』の半分近くが集まった。お味噌を配ったあと、メンバーは口々に仮設住宅での暮らしを見て、その印象を口にした。そして、
「たったひとつのお味噌なのに、こんなに感謝してくれる」
「深々(ふかぶか)お辞儀をされた」
「こっちが恐縮(きょうしゅく)してしまった」
と、驚きを語った。私が感じてきたことを、みんなも感じている。私自身、この日ある部屋を訪(おとず)れた時、頭を下げられ、
「今まで本当にありがとうございました。お陰さまであと少しで(仮設住宅を)出られることになりました」
と言われた。今さらだが、仮設暮らしの大変さを考えないわけには行かなかった。そしてこの時のありがたさを何度も思い返す。
メンバーは、
「これなんですね『私たちは忘れられていない』っていう皆さんの気持ちは」
と言った。そして、会長さんの、地震と津波からの日々の話に耳を傾けた。被災者の方の話を直接聞くのは、ほとんどが初めてだ。
「聞けて良かった」
とみんな言った。
集会所入口。お味噌とおばちゃんたちとメンバー。右後方が仲村トオル
2 浜風に吹かれて
「ニイダヤ水産」に到着したのは、予告した時間より早かった。ランチの準備をしていた従業員が慌(あわ)てる。
暑い日差しが照りつけるが、パラソルの陰で浜風を受けると涼しい。味噌汁は、氷を浮かせた「冷や汁」だった。美味しい。
みんなはほとんどが「ニイダヤ水産」を初めてだ。サイズは教室がふたつほどの小さな工場。そこから運ばれる焼きたての干物。
食べるみんなを前に、社長が「あの日」の話をする。そして、ここ四倉でも進む防潮堤(ぼうちょうてい)構築に語る。
「高くしても波は乗り越える。大切なのは避難する道の整備だ」
「ニイダヤ水産」から皆で海を臨(のぞ)む
3 「餓死(がし)と殺処分」
楢葉町仮設住宅でみんなに話す牧場主さん(左)。右側は私
消防団だった牧場主さんが消防車で小学校を転々と避難した話。そこでみんなの「水」をやりくりした話。東電とのやり切れない、延々(えんえん)と続くやりとり。これからのこと。すでにブログで書いてきたことだが、今までのことを牧場主さんはよどみなく無駄(むだ)なく話した。
「牛さんたちはどうしたんですか」
メンバーが聞いた。
「餓死と殺処分だよ」
主さんが答える。つい最近、総理大臣の「殺処分」通達が出たらしい。私は把握(はあく)してなかった。今まで殺処分は、所有者の同意がないと出来なかったはずだ。ほとんどの農家が殺処分をした。でも被曝した牛を飼い続ける農家がいたのは、同意をしなかったからだ。それが出来なくなるのだろうか。
「東電から恩恵(おんけい)をうけた覚えはない」
「金じゃないんだよ」
6代続いて来た牧場のことを、主さんは悔(くや)しそうに話した。
4 仲村トオル
いつも本当にありがたい。仲村トオルは、いわきに来るのは三度目、この第一仮設住宅には二度目だ。物資支援では、一昨年のバレンタインは、本人が直接チョコレートをみんなに手渡した。昨年のクリスマスは、気持ちだけですが、とチョコレート(クッキー)をメッセージとともに、送ってくれた。そしていつもみんなと一緒に味噌/醤油を送ってもらっている。
本人が来る時は、カメラはもちろんのこと、マネージャーも来ない。仲村は、この日もお味噌を配る合間(あいま)、仮設住宅の路地で撮影に応じ、集会所に詰(つ)めかけたみんなに、気軽にサインに応じた。しかし、これらはこの業界で簡単なことではない。そのことを私はこの支援活動の中で知ることとなった。これは以前書いた。仲村の姿勢は変わっていなかった。
昨年のクリスマスに寄せたメッセージもそうだったが、この日も仲村は『いつかは米俵百俵』の一員であることを通しているかのようだった。
第一仮設住宅の皆さんは、
「いつかまた来てくれるのかしら」
と、二年以上ずっと仲村トオルを待っていた。
仲村をバックに、私はおばちゃんおじちゃんにカメラを向ける。みんなのこわばった顔に、私は思わず、
「固くなってるなあ」
とひと言。どっと集会所が沸(わ)く。笑顔になったところでシャッターを押すが……
すぐに固い表情に戻(もど)ってしまう皆さん
お味噌を配る時、
「仲村トオルさんに似てますねえ」
という方もいたそうだ。
「よく言われます」
と、本人は絶妙(ぜつみょう)に返したらしい。
母が仲村トオルさんのファンで、とおばちゃんが来る。仲村は、動けないその母親の部屋まで出向くのだった。
第一仮設住宅をあとにする。集会所入り口から、皆さんの中に混(ま)じった一人のおじちゃんは、いつまでも手を振っている。
☆☆
このあとどこからか、なぜかしょうもない話が必ず舞い込んで来ます。だから、仲間や仲村トオルの名誉(めいよ)のために、あらかじめ断(ことわ)っておきます。
今回の仲村トオル参加に関して、私は仮設住宅の皆さんにも『いつかは米俵百俵』のメンバーにも、当日まで知らせませんでした。みんなの驚きはひと通りではなかった。
「売名行為ではないか」
「人集めのために『呼んだ』のか」
「支援メンバーは、仲村トオルが目当てで来たんだろう」
等々の下衆の勘繰り(げすのかんぐり)は、いつも出て来ます。
「なぜ仲村トオルだけ特別に語るのか」
なんてのも来ますね。別になるのはしょうがないんですよ。被災者の皆さんも仲村トオルを特別な思いで迎(むか)えるんだから。大きなお世話だよ、とこいつらに言っときましょう。
10年ぐらい前からのネット技術の飛躍(ひやく)的「進歩」によって、いわれのない誹謗(ひぼう)中傷(ちゅうしょう)は、メディアから一般人にまで伝染しました。根も葉もないことだと放置すると、知らない多くの人がそれを事実だと思う。
だからここでも、やれることはやっておきます。
☆☆
ずいぶん頑張ったのですが、今回の報告、一回ではすみませんでした。やっぱりひとりで動く時とは違うもんだ。次回もこの報告の続きとします。夕方、旅館「ふじ滝」でみんなとにぎやかな団欒(だんらん)のひと時を過ごしました。その報告が中心となります。まるで私の教員生活を振り返るような気分でした。
~私たちの濃(こ)い一日~
1 「私たちは忘れられていない」
「こんなに狭(せま)い、窓の小さい部屋にいる」
「入り口の戸を開けると、家の中が全部見えてしまう」
「家の窓からは、すぐ向かいの家」
「お年寄りがひとり暮らし」
「入り口に小さい子や大人のたくさんの靴」
この日遠くから、そして朝早くからやって来たメンバー。『いつかは米俵百俵』の半分近くが集まった。お味噌を配ったあと、メンバーは口々に仮設住宅での暮らしを見て、その印象を口にした。そして、
「たったひとつのお味噌なのに、こんなに感謝してくれる」
「深々(ふかぶか)お辞儀をされた」
「こっちが恐縮(きょうしゅく)してしまった」
と、驚きを語った。私が感じてきたことを、みんなも感じている。私自身、この日ある部屋を訪(おとず)れた時、頭を下げられ、
「今まで本当にありがとうございました。お陰さまであと少しで(仮設住宅を)出られることになりました」
と言われた。今さらだが、仮設暮らしの大変さを考えないわけには行かなかった。そしてこの時のありがたさを何度も思い返す。
メンバーは、
「これなんですね『私たちは忘れられていない』っていう皆さんの気持ちは」
と言った。そして、会長さんの、地震と津波からの日々の話に耳を傾けた。被災者の方の話を直接聞くのは、ほとんどが初めてだ。
「聞けて良かった」
とみんな言った。
集会所入口。お味噌とおばちゃんたちとメンバー。右後方が仲村トオル
2 浜風に吹かれて
「ニイダヤ水産」に到着したのは、予告した時間より早かった。ランチの準備をしていた従業員が慌(あわ)てる。
暑い日差しが照りつけるが、パラソルの陰で浜風を受けると涼しい。味噌汁は、氷を浮かせた「冷や汁」だった。美味しい。
みんなはほとんどが「ニイダヤ水産」を初めてだ。サイズは教室がふたつほどの小さな工場。そこから運ばれる焼きたての干物。
食べるみんなを前に、社長が「あの日」の話をする。そして、ここ四倉でも進む防潮堤(ぼうちょうてい)構築に語る。
「高くしても波は乗り越える。大切なのは避難する道の整備だ」
「ニイダヤ水産」から皆で海を臨(のぞ)む
3 「餓死(がし)と殺処分」
楢葉町仮設住宅でみんなに話す牧場主さん(左)。右側は私
消防団だった牧場主さんが消防車で小学校を転々と避難した話。そこでみんなの「水」をやりくりした話。東電とのやり切れない、延々(えんえん)と続くやりとり。これからのこと。すでにブログで書いてきたことだが、今までのことを牧場主さんはよどみなく無駄(むだ)なく話した。
「牛さんたちはどうしたんですか」
メンバーが聞いた。
「餓死と殺処分だよ」
主さんが答える。つい最近、総理大臣の「殺処分」通達が出たらしい。私は把握(はあく)してなかった。今まで殺処分は、所有者の同意がないと出来なかったはずだ。ほとんどの農家が殺処分をした。でも被曝した牛を飼い続ける農家がいたのは、同意をしなかったからだ。それが出来なくなるのだろうか。
「東電から恩恵(おんけい)をうけた覚えはない」
「金じゃないんだよ」
6代続いて来た牧場のことを、主さんは悔(くや)しそうに話した。
4 仲村トオル
いつも本当にありがたい。仲村トオルは、いわきに来るのは三度目、この第一仮設住宅には二度目だ。物資支援では、一昨年のバレンタインは、本人が直接チョコレートをみんなに手渡した。昨年のクリスマスは、気持ちだけですが、とチョコレート(クッキー)をメッセージとともに、送ってくれた。そしていつもみんなと一緒に味噌/醤油を送ってもらっている。
本人が来る時は、カメラはもちろんのこと、マネージャーも来ない。仲村は、この日もお味噌を配る合間(あいま)、仮設住宅の路地で撮影に応じ、集会所に詰(つ)めかけたみんなに、気軽にサインに応じた。しかし、これらはこの業界で簡単なことではない。そのことを私はこの支援活動の中で知ることとなった。これは以前書いた。仲村の姿勢は変わっていなかった。
昨年のクリスマスに寄せたメッセージもそうだったが、この日も仲村は『いつかは米俵百俵』の一員であることを通しているかのようだった。
第一仮設住宅の皆さんは、
「いつかまた来てくれるのかしら」
と、二年以上ずっと仲村トオルを待っていた。
仲村をバックに、私はおばちゃんおじちゃんにカメラを向ける。みんなのこわばった顔に、私は思わず、
「固くなってるなあ」
とひと言。どっと集会所が沸(わ)く。笑顔になったところでシャッターを押すが……
すぐに固い表情に戻(もど)ってしまう皆さん
お味噌を配る時、
「仲村トオルさんに似てますねえ」
という方もいたそうだ。
「よく言われます」
と、本人は絶妙(ぜつみょう)に返したらしい。
母が仲村トオルさんのファンで、とおばちゃんが来る。仲村は、動けないその母親の部屋まで出向くのだった。
第一仮設住宅をあとにする。集会所入り口から、皆さんの中に混(ま)じった一人のおじちゃんは、いつまでも手を振っている。
☆☆
このあとどこからか、なぜかしょうもない話が必ず舞い込んで来ます。だから、仲間や仲村トオルの名誉(めいよ)のために、あらかじめ断(ことわ)っておきます。
今回の仲村トオル参加に関して、私は仮設住宅の皆さんにも『いつかは米俵百俵』のメンバーにも、当日まで知らせませんでした。みんなの驚きはひと通りではなかった。
「売名行為ではないか」
「人集めのために『呼んだ』のか」
「支援メンバーは、仲村トオルが目当てで来たんだろう」
等々の下衆の勘繰り(げすのかんぐり)は、いつも出て来ます。
「なぜ仲村トオルだけ特別に語るのか」
なんてのも来ますね。別になるのはしょうがないんですよ。被災者の皆さんも仲村トオルを特別な思いで迎(むか)えるんだから。大きなお世話だよ、とこいつらに言っときましょう。
10年ぐらい前からのネット技術の飛躍(ひやく)的「進歩」によって、いわれのない誹謗(ひぼう)中傷(ちゅうしょう)は、メディアから一般人にまで伝染しました。根も葉もないことだと放置すると、知らない多くの人がそれを事実だと思う。
だからここでも、やれることはやっておきます。
☆☆
ずいぶん頑張ったのですが、今回の報告、一回ではすみませんでした。やっぱりひとりで動く時とは違うもんだ。次回もこの報告の続きとします。夕方、旅館「ふじ滝」でみんなとにぎやかな団欒(だんらん)のひと時を過ごしました。その報告が中心となります。まるで私の教員生活を振り返るような気分でした。