実戦教師塾・琴寄政人の〈場所〉

震災と原発で大揺れの日本、私たちにとって不動の場所とは何か

『いつかは米俵百俵』 Ⅰ  実戦教師塾通信四百四号

2014-08-29 11:38:46 | 福島からの報告
『いつかは米俵百俵』 その1
    ~私たちの濃(こ)い一日~


 1 「私たちは忘れられていない」

「こんなに狭(せま)い、窓の小さい部屋にいる」
「入り口の戸を開けると、家の中が全部見えてしまう」
「家の窓からは、すぐ向かいの家」
「お年寄りがひとり暮らし」
「入り口に小さい子や大人のたくさんの靴」

この日遠くから、そして朝早くからやって来たメンバー。『いつかは米俵百俵』の半分近くが集まった。お味噌を配ったあと、メンバーは口々に仮設住宅での暮らしを見て、その印象を口にした。そして、

「たったひとつのお味噌なのに、こんなに感謝してくれる」
「深々(ふかぶか)お辞儀をされた」
「こっちが恐縮(きょうしゅく)してしまった」

と、驚きを語った。私が感じてきたことを、みんなも感じている。私自身、この日ある部屋を訪(おとず)れた時、頭を下げられ、
「今まで本当にありがとうございました。お陰さまであと少しで(仮設住宅を)出られることになりました」
と言われた。今さらだが、仮設暮らしの大変さを考えないわけには行かなかった。そしてこの時のありがたさを何度も思い返す。
 メンバーは、
「これなんですね『私たちは忘れられていない』っていう皆さんの気持ちは」
と言った。そして、会長さんの、地震と津波からの日々の話に耳を傾けた。被災者の方の話を直接聞くのは、ほとんどが初めてだ。
「聞けて良かった」
とみんな言った。
      
      集会所入口。お味噌とおばちゃんたちとメンバー。右後方が仲村トオル


 2 浜風に吹かれて
 「ニイダヤ水産」に到着したのは、予告した時間より早かった。ランチの準備をしていた従業員が慌(あわ)てる。
 暑い日差しが照りつけるが、パラソルの陰で浜風を受けると涼しい。味噌汁は、氷を浮かせた「冷や汁」だった。美味しい。
      
みんなはほとんどが「ニイダヤ水産」を初めてだ。サイズは教室がふたつほどの小さな工場。そこから運ばれる焼きたての干物。
 食べるみんなを前に、社長が「あの日」の話をする。そして、ここ四倉でも進む防潮堤(ぼうちょうてい)構築に語る。
「高くしても波は乗り越える。大切なのは避難する道の整備だ」
      
        「ニイダヤ水産」から皆で海を臨(のぞ)む


 3 「餓死(がし)と殺処分」
         
         楢葉町仮設住宅でみんなに話す牧場主さん(左)。右側は私
 消防団だった牧場主さんが消防車で小学校を転々と避難した話。そこでみんなの「水」をやりくりした話。東電とのやり切れない、延々(えんえん)と続くやりとり。これからのこと。すでにブログで書いてきたことだが、今までのことを牧場主さんはよどみなく無駄(むだ)なく話した。
「牛さんたちはどうしたんですか」
メンバーが聞いた。
「餓死と殺処分だよ」
主さんが答える。つい最近、総理大臣の「殺処分」通達が出たらしい。私は把握(はあく)してなかった。今まで殺処分は、所有者の同意がないと出来なかったはずだ。ほとんどの農家が殺処分をした。でも被曝した牛を飼い続ける農家がいたのは、同意をしなかったからだ。それが出来なくなるのだろうか。
「東電から恩恵(おんけい)をうけた覚えはない」
「金じゃないんだよ」
6代続いて来た牧場のことを、主さんは悔(くや)しそうに話した。


 4 仲村トオル
 いつも本当にありがたい。仲村トオルは、いわきに来るのは三度目、この第一仮設住宅には二度目だ。物資支援では、一昨年のバレンタインは、本人が直接チョコレートをみんなに手渡した。昨年のクリスマスは、気持ちだけですが、とチョコレート(クッキー)をメッセージとともに、送ってくれた。そしていつもみんなと一緒に味噌/醤油を送ってもらっている。
 本人が来る時は、カメラはもちろんのこと、マネージャーも来ない。仲村は、この日もお味噌を配る合間(あいま)、仮設住宅の路地で撮影に応じ、集会所に詰(つ)めかけたみんなに、気軽にサインに応じた。しかし、これらはこの業界で簡単なことではない。そのことを私はこの支援活動の中で知ることとなった。これは以前書いた。仲村の姿勢は変わっていなかった。
      
昨年のクリスマスに寄せたメッセージもそうだったが、この日も仲村は『いつかは米俵百俵』の一員であることを通しているかのようだった。
 第一仮設住宅の皆さんは、
「いつかまた来てくれるのかしら」
と、二年以上ずっと仲村トオルを待っていた。
 仲村をバックに、私はおばちゃんおじちゃんにカメラを向ける。みんなのこわばった顔に、私は思わず、
「固くなってるなあ」
とひと言。どっと集会所が沸(わ)く。笑顔になったところでシャッターを押すが……
      
      すぐに固い表情に戻(もど)ってしまう皆さん
お味噌を配る時、
「仲村トオルさんに似てますねえ」
という方もいたそうだ。
「よく言われます」
と、本人は絶妙(ぜつみょう)に返したらしい。
 母が仲村トオルさんのファンで、とおばちゃんが来る。仲村は、動けないその母親の部屋まで出向くのだった。

 第一仮設住宅をあとにする。集会所入り口から、皆さんの中に混(ま)じった一人のおじちゃんは、いつまでも手を振っている。


 ☆☆
このあとどこからか、なぜかしょうもない話が必ず舞い込んで来ます。だから、仲間や仲村トオルの名誉(めいよ)のために、あらかじめ断(ことわ)っておきます。
今回の仲村トオル参加に関して、私は仮設住宅の皆さんにも『いつかは米俵百俵』のメンバーにも、当日まで知らせませんでした。みんなの驚きはひと通りではなかった。
「売名行為ではないか」
「人集めのために『呼んだ』のか」
「支援メンバーは、仲村トオルが目当てで来たんだろう」
等々の下衆の勘繰り(げすのかんぐり)は、いつも出て来ます。
「なぜ仲村トオルだけ特別に語るのか」
なんてのも来ますね。別になるのはしょうがないんですよ。被災者の皆さんも仲村トオルを特別な思いで迎(むか)えるんだから。大きなお世話だよ、とこいつらに言っときましょう。
10年ぐらい前からのネット技術の飛躍(ひやく)的「進歩」によって、いわれのない誹謗(ひぼう)中傷(ちゅうしょう)は、メディアから一般人にまで伝染しました。根も葉もないことだと放置すると、知らない多くの人がそれを事実だと思う。
だからここでも、やれることはやっておきます。

 ☆☆
ずいぶん頑張ったのですが、今回の報告、一回ではすみませんでした。やっぱりひとりで動く時とは違うもんだ。次回もこの報告の続きとします。夕方、旅館「ふじ滝」でみんなとにぎやかな団欒(だんらん)のひと時を過ごしました。その報告が中心となります。まるで私の教員生活を振り返るような気分でした。

『GODZILLA』  実戦教師塾通信四百三号

2014-08-22 11:34:05 | 思想/哲学
 『GODZILLA』
    ~<類>は消滅しない~


 1 「GOD」

            
 驚いた。紛れもなく、米国版『GODZILLA』には「GOD」が燦然(さんぜん)と冠してあった。アメリカはゴジラに「神」の名を与えていた。しかし、 第一弾(米国版)のゴジラは、どう見ても単なる恐竜(きょうりゅう)だった。
「あれはホントにGODZILLAだったのか」
とはアメリカでも議論になったそうだ。そう言われるくらいに、GODZILLAの存在はアメリカでも超越性(ちょうえつせい)を与えられていた。しかし、華奢(きゃしゃ)でユーモラスとも言える姿を与えられた第一弾のGODZILLAは、この超越性とまったく縁(えん)がなかった。『ジュラシックパーク』(1993年)の続編を出ない内容を委(まか)され、単に都市ニューヨークを脅(おびや)かす怪獣として振る舞った。最後はミサイルの前にあっさりと息絶えるのだ。どこにも「神」を見いだせないその姿に、私は第一弾を見た時、無意識だったが「GODZILLA」のスペルから「D」をはぎ取っていた。
 だが、第二弾は期待を裏切らなかった。それで「GOD」に気づいた。

「King of Monsters Savoiur of our city?」(死神は我々の救世主なのか)

は、ラストで流れるニュースのテロップだ。今回のゴジラは謎めいて、魅惑的(みわくてき)でさえあった。それは「神」がどんなものなのか示しているようだった。


 2 和製『ゴジラ』
      
 1954年に「誕生」したゴジラが、

「一体なんのために、そしてどこから来たのか」

を私たちは知らない。確かにゴジラは、ジュラ紀から白亜紀にかけての生物で、アメリカのビキニ環礁(かんしょう)における水爆実験で蘇(よみがえ)った、という設定だ。しかし、それらを認めないというわけではないが、私たちの恐怖(きょうふ)は、もう少し深かったように記憶している。幼少(ようしょう)だった私たちは、この映画を「面白かった」とは評しなかった。、みな一様(いちよう)に、
「怖かった」
と言ったはずだ。『GODZILLA』(もちろん第二弾の方)では、館内で拍手が出る場面があったようだ。この怪獣に対して、だ。しかし、和製の第一作はそうではない。くりくり坊主ばかりが居並ぶ映画館で、同じくまだ小学校の低学年だった私は、ゴジラが登場する場面のほとんど、顔を伏(ふ)せており、見ていない。
 この映画の批評で、誰も(大人もだ)かつての広島や長崎を取り上げて、アメリカや原(水)爆のことを批判しなかった。前にも書いたが、作中、
「広島(長崎だったかな)から逃げてきたと思ったら、今度はゴジラよ」
の、電車乗客が語っていたことを思い出す。
 おそらくはもっと自分たち自身の問題に引きつけてゴジラを見ていた。それは映画の中で登場するひとり目の博士、山根恭平(志村喬)の発言に顕著(けんちょ)だ。山根もアメリカ非難はおいて、「人間のしてしまったことの重大さ」を、国会の証言で繰り返す。

○私たち(人間)は取り返しのつかないことをしでかした
こうなった以上は、
○何が起こるか分からない

と言うのだ。山根の「予言」は、ゴジラの「予言」でもあった。それが一番の正解のように思える。ゴジラは、「なんのために、どこから来たのか」が分からない「未知」で「未開(解)」の存在だった。
 あとの方の作品で、ゴジラが餌(えさ:放射能)を求め原発を襲う話も出て来たが、こうなればもうゴジラは「神」ではない。「霞を食べて生きる」のが「神」だったはずだ。ゴジラは二億年近い地球の歴史を抱えていた。たかだか百年ちょっとの原子力の歴史が、二億年の時間を揺(ゆ)るがす危(あや)うさを示していたのは、この1954年の第一作だけではなかっただろうか。


 3 生物との違い
      
 一方『GODZILLA』は、怪獣「ムートー」から人類を助けるために現れたように見える。そうではない、と芹沢博士(渡辺謙)が言う。芹沢の説明によれば、GODZILLAは自分の餌(放射能)を奪(うば)う相手の制圧に動いた。「正義の味方」ではないのだ。さらにGODZILLA/ゴジラが別格であることは、「餌」とは別なところではっきりする。
 「ムートー」は、餌を求める「普通」の生物である。何より、卵から生まれ成長し生殖/繁殖(はんしょく)するという、生物宿命の唯一(ゆいいつ)の「目的/生死」を、ムートーが背負っているからだ。天敵に遭遇(そうぐう)したとか餌にありつけないとか、そんな条件の違いはあっても、これらの生物は「たったひとつの生きる道」を持つ。カエルが蛇ににらまれた時に、もうアカンと思うのは、親や経験で教わったというものではない。それが「唯一の目的と生死を持っている」生物の生業(なりわい)だ。それを人類で考えれば、例えば私たちは見ず知らずの女性に妄想(もうそう)を抱くし、仕事に支障をきたすとなればウンコも我慢する。こんなことは生物世界には絶対ない。まさに「人生」は「いろいろ」だ。
 一方、GODZILLAの「道/目的」は分からない。そして和製ゴジラはもっと「未知」なのだ。
 無数の卵を持った巣が焼き尽くされようとした時、このムートーはGODZILLAとの戦いも忘れて巣に向かうのだ。もう笑っちまった。『ゴジラ』も『GODZILLA』も、一般的生物にありがちなこんな通俗的な姿を持っていない。和製の作品でゴジラの息子が登場したのもあるが、そんなのありかよ、ふざけんな、だ。ゴジラの歴史をどうしようってんだ。
            
            『ゴジラ』のミニミニフィギアです
 この映画の始まりとなる原発事故が、静岡の浜岡原発であったこと、でも原発建屋だけはスリーマイル島のものだったこと。東日本大震災の津波、そして突然の9,11ニューヨークの連続テロとしか思えないシーンに、こっちは思わず座席から飛び上がった。
 様々なメタファが散りばめられた『GODZILLA』が終わったあと、私はなぜか、

「神様って助けてくれないんだよねえ」

としみじみ言ういわき仮設住宅のおばちゃんを思い出した。


 ☆☆
『ゴジラ』と同じ年に封切られた『七人の侍』(黒沢明監督)の最後に、あの山根博士を演じた志村喬は、
「私たちだけ生き残ってしまいました」
「この戦いで勝ったのは私たちじゃない」
と言うのです。同じく黒沢の『生きる』(1952年)のラストでは、さめざめと泣きながら歌います。雪が降る公園のブランコで歌うのは、「命短し/恋せよ乙女」でした。いいんですよねえ。どうしてあんなに胸に響くのでしょう。

 ☆☆
ニュースでご存じかも知れません。先週、あの館山中2自殺事件の遺族が、事件を検証するため、第三者委員会の設置を市に要求しました。困難な道を選ぶ決断をしたのです。どうなっているかレポートしないのか、という問い合わせをいくつかいただきましたが、少し先にやろうと思います。9月に入るとすぐ、S君の7回忌があります。そのあとに報告したいと思っています。

 ☆☆
いつの間に『若者たち2014』を見るのを忘れている私です。それより、初回から見ている『ペテロの葬列』の怖さにはまってます。見てますか。さすが宮部みゆき、深いですね。人間の醜(みにく)い性ばかりを追いかけるグロテスクな話とは、一味もふた味も違う。お勧めです。
頑張れ、孝太郎!
頑張れ、純一郎!!

 ☆☆
では明日いわきで仲間とともに。行って参ります。

『坊ちゃん』Ⅲ  実戦教師塾通信四百二号

2014-08-15 11:34:02 | 子ども/学校
 夏目漱石『坊ちゃん』を読む Ⅲ
     ~子ども、または佐世保事件~


 1 初めに

            
 写真は、北海道札幌は大通り公園。東日本大震災の年に行って以来三年ぶりである。この時大通り公園は、たまたま雨もやんで曇天(どんてん)の日和だった。美瑛や富良野のツーリングをあきらめる苦渋(くじゅう)の決断だったが、それで良かったみたい。八月に入って本降りの雨ばかりだった北海道。しかし、フェリー「さんふらわあ号」のビュッフェと、大通り公園のビール(祭り)美味しかった!

 そんな残暑見舞い的導入で失礼。さて、

「オマエのブログ、近頃(ちかごろ)難しくないか」

と、複数の方からお叱(しか)りを受けた。そうか、そう言われて反省する次第である。私が「熱くなっている」証拠である。熱くなるとこうなる。うまくかみ砕(くだ)かないまま投稿している。こうなれば漢字にかなを振ろうが関係ないぞ、と言われてしまうわけである。『坊ちゃん』シリーズのⅠはまだ良かったようだが、Ⅱは「学校的対応」を書いた。こうなると多分に熱くなる。腹が立つんだから。
 今回は『坊ちゃん』に見る「子ども」のことなので、というか、漱石の「孤独」を書くのでいいかもしれない。でもそのあと、佐世保高校生殺人事件をめぐる話に転じるので、これは熱くなる。かもしれない。


 2 坊ちゃんの「孤独」
 『坊ちゃん』最後の部分は前にも触れたが、そのまま書き抜きたい。圧巻(あっかん)なのだ。角川文庫版でいうと最後から9行目である。

「清(きよ)のことを話すのを忘れていた。--おれが東京へ着いて下宿へも行かず、カバンをさげたまま、清や帰ったよと飛び込んだら、あら坊ちゃん、よくまあ、早く帰って来て下さったと涙をぽたぽたと落とした。おれもあまり嬉しかったから、もう田舎(いなか)へは行かない、東京で清とうちを持つんだといった」

松山に出発する前は、気がかりというより「不思議な」存在だった清は、今や坊ちゃんにとって唯一(ゆいいつ)と言ってもいい、「信頼のおける」「愛すべき」存在となっていた。坊ちゃんが「飛び込んだ」清の部屋は、日も差さない北向きの三畳間である。清は、親戚筋(しんせきすじ)の居候(いそうろう)として、遠くにいる坊ちゃんをそこで待っていた。すると一年もたたず(「もたず」と言った方がいいか)坊ちゃんが帰って来た。ずっと待つつもりだったに違いない。坊ちゃんはここで、
○もうどこにも行かない
○オマエと暮らしたい
と言っている。お世辞を言っているのではない。
 坊ちゃんにとって、どこにも信用できる奴が居なかった、というだけではない。おそらく「不器用」で「打ち解けない」自分のことをもてあましている。あれほど腹を割り、語り合った山嵐とも、東京に帰って以来まったく連絡をとらなかった坊ちゃんなのだ(まあ山嵐もなのだが)。世間を疎(うと)んでは苦(にが)り切っている、そんな自分が暮らせるのは、清のそばしかない、そう思った。
 おれは少々そそっかしいとか頭が悪いとか、そんなことをチラと思ったりはするが、あとは相手を爽快なまでに罵り(ののしり)続ける坊ちゃんだ。それで私たちは、坊ちゃんを「向こう見ずの正義感」と温かく見守る。しかし、最後のこのくだりに来て、私たちは坊ちゃんの孤独を知るような気がしている。おそらくは、小さいころに受けた傷をそのままに大きくなり、あるいは大きくなれずに、坊ちゃんがここにいる。坊ちゃんの「場所」と言えるようなものがあるとすれば、それはここだ。
 だから私たちは、繰り返しここに戻って来る。


 3 「子どものもと」へと
            
            本降りの雨に煙る北海道旧庁舎
 佐世保の高校生殺人事件について、前回ブログの☆マークで少しレポートした。大体のところ間違いなかったようだ。
 事件を起こした少女の父親が、メディアから総攻撃と言ってもいいような非難を受けている。16歳の少女にどんな責任があったのかと考えれば、メディアのスタンスは正しいと言える。でも少年犯罪史上で、親がこれだけ激しいバッシングを受けたのは、初めてのように思う。今まで多く場合、犯行の残虐性(ざんぎゃくせい)と「異常性」ばかりが取り上げられた。議論のすえ、あるいは議論の前に実名や写真の公開がされたのも「犯人」自身を非難攻撃する姿勢から来ていた。

「人間の壊(こわ)れやすさを確かめるための『聖なる実験』をしました」

というメモに覚えがあるだろうか。酷似(こくじ)してはいるが、今回の「犯人」の彼女ものではない。1997年に神戸で起きた事件の「犯人」、酒鬼薔薇聖斗のものである。この時の事件の様相(ようそう)も信じられないものだった。しかし、親への批判や攻撃はほとんどなかったように思う。わずか吉本隆明と芹沢俊介から、はっきり「これは母親の問題だ」と指摘があったように記憶している。
 私の悪い癖(くせ)で、総攻撃を受けているものを見ると、そっちの側に立てないかと思う。今回の事件の場合、自分の子どもが信じられないことをしでかした時、一体親はどうするのだろう、何が出来るのだろう、ということが手がかりにならないかと思った。それで、事件のあとに出された父親の謝罪文に、私は父親の「自分の娘」への気持ちを見たい思った。

「○○のしたことは決して許されることではありませんが、その原因を作り追いつめたのは紛(まぎ)れもなくわたしです。大人の都合で幼少時より複雑な家庭環境に置き……知らず知らずのうちに精神的な極限状態に追い込んでしまいました。(略)どうしてよく話し合って本当の気持ちを聴きだそうとしなかったのかと後悔ばかりです。(略)父子関係の本来のあり方を一生懸命学(まな)び、○○の更生(こうせい)に今後の人生をささげ、二人で死ぬまで罪を背負っていくことが……唯一の償(つぐな)いだと思います」

読者をだまそうとしたわけではない。分かったと思うが、これは佐世保事件の父親のものではない。このブログ上でも何度か書いた、2006年の奈良自宅放火殺人事件「犯人」の父親のものである。○○は「長男」である。あの時私たちはこれを読んで、どうか道が開けますように、希望という火が灯(とも)りますようにと思った。何事も遅すぎるということはないのだ、と驚きにも似た思いを持ったはずだ。
 そんなわけで私は、佐世保事件の父親の手記に、「自分の娘」への気持ちを見たいと思った。しかし、それはかなわなかったと思える。
 私には佐世保事件の動機は、

「解体していく自分とのバランスをとるために、別な対象を解体する」

ことだったとしか思えない。解体途上(とじょう)の娘がどんなだったか、父親が思い当たらないはずがない。父親が勇気と愛情をもって、この作業に手をつけて欲しいと願うばかりだ。

「あいつはどうしようもない奴だ。死刑になればいい」

と面会にも出向かず、知人や周囲にこう触(ふ)れ回ったのは、金川(2008年土浦連続殺傷(さっしょう)事件)の父親だ。こんなふるまいを繰り返すことのないようにと願うのだ。


 ☆☆
福島から帰ってくると、なぜかいつも、
「自信を持ちなさい」
「オマエは正しいことをやってるんだ」
と言われているような気分になってます。支援に限らずに、人生全般に対してそう言われてるような気がするんです。不思議でありがたいといつも思います。
来週は初めての「土曜日」の支援活動なんです。仲間がたくさん来てくれるのがありがたい、そして楽しみです。
      
      これも手賀沼そばの朝。陸田です。朝日の筋が見えます。

 ☆☆
米国版『ゴジラ』第二弾、今日これから見てきます。楽しみで仕方がありません。第一弾の方ももちろん見たんですが、ティラノザウルスの変種でしかなく、しかもめちゃくちゃ弱っちかった。今度は違う。そんな予感です。次回ブログは『ゴジラ』かな。

去るもの/戻るもの  実戦教師塾通信四百一号

2014-08-08 11:58:53 | 福島からの報告
 去るもの/戻るもの


 1 去るもの

            
            いわきNHKそばの木陰でたたずむ愛車
「この人が、ここの蕨(わらび)はダメだって言ったんだよ」
広野町二つ沼の直販所のおばちゃんが言う。首から名札をかけた、県の職員が首をすくめて笑っている。この日は県からの飛び込みで、品物にチェックが入ったらしい。
「いや、栽培したものはいいんですよ」
とあわてたように職員さんは言う。しかし、今まで野生の山菜を楽しみに摘(つ)んでいた人たちが、わざわざ栽培などするものか、と私は聞いている。おばちゃんたちは、
「私たちは『自己責任』で、勝手にとって食べてるよ」
などと言っている。
 ここで栽培すれば米も野菜も高くつきますね、たいへんですよね、と私は切り出した。
「サンプル調査で、五百グラム必ずミンチにされるしね」
「ゼオライトとカリウムを撒(ま)くしね」
そうか、畑にも撒くのだ、と私は当たり前のことに気づいた。

 コーヒーを出された私は、テーブルに腰掛けておばちゃんの話を聞く。戦争が終わり、
「ここに帰って来た父は、なんにもしてくれない国をあてにせず、自分で木を切って切り株(きりかぶ)を掘って農地にしたんだよ」
「その父の跡(あと)を継(つ)ぐのは私たちで終わり」
「私たちの子どもらが農業を出来るわけがない」
「箸(はし)より重いものを持ったことがないんだから」
「原発事故はちょうどいい機会だ、ぐらいにしか思ってないよ」
「いわきにマンション買って、あの子たち出てったよ」
これが日本の歩んできた道なのかと、私は思ってしまう。手塩にかけた農地は、ダイナミックな力の前にまったく為す術(すべ)なく、人々は離散(りさん)していく。
「でも、広野の米はおいしいよ」
またこの日もおばちゃんたちは言う。
「川の水がきれいだからね」
と言う。広野の川は浅見川だったかな。放射能は不検出だ。楢葉町が、ダムにたまるセシウムで汚(よご)された泥を片づけて欲しいと言っているが、あのダムの川は木戸川だ。そんな牧場主さんの話を思い出して、私が言った。
「東電の補償金だけで生活をしてたら人間としてダメになっちまうって言うんです」
「でも、働いた分、補償金を削(けず)られるんですよね」
私がそう言うと、ここ広野の、つまり双葉地区おばちゃんたちもうなずいて、それに付け足す。
「それにさ、働けば年末調整に給料分の税金がかかるんだよ」
そうだった。また目が覚(さ)める。


 2 戻るもの
            
            自立生活センターの「パオ」
 この間は気がつかなかったが、パオがカラフルに模様替えしていた。今年の二月の大雪で屋根が落ちてしまったという。
「早く広野に帰りてえ」
中でポータブルタイプのゲームをしながら、タカシが言う。タカシは今年、いわきの定時制高校に入学して、ここの仮設住宅から通(かよ)っている。震災当時のことを克明(こくめい)に話してくれた。
「(3月)12日(一号機が爆発)は逃げなかったんスよ。みんな逃げてましたけど」
「すごかったですよ、サイレンや人の声が。町がバスを出しました」
「でも、14日(三号機が爆発)はさすがのオヤジもこれはヤバいって」
「町のバスで逃げようとしたんだけど、そん時はもうなかったんですよね」
「あわてて(町)役場に行ったらまだ職員の人がいて」
「じゃ、町の車を手配するからって言ってくれたんです」
「そして、高専(いわき高等専門学校)に行って、避難所暮らしです」
「初めは体育館で、そのあと体育館は使うからって、次は図書館」
「図書館で飯(めし)づくりしましたよ。コンロが使えたんですよ」
「次は家庭科室だったかな。あちこち学校のなかを回(まわ)されましたね」
「そしたらある日、湯本の旅館に移れって。もう旅館は最高でしたね」
「避難所では固くなったおにぎりだったのが、次はお弁当」
「それが最後は旅館の豪華なご飯」

 タカシの父は、川俣(かわまた)で除染(じょせん)の仕事をしている。前から東電の関連会社で働いていたという。
「オヤジは富岡と浪江の検問を通って川俣の仕事場まで行くんですよ」
川俣は二つの町より北にある。第一原発は、富岡町と浪江町の間にある。だから、富岡→第一原発(の横)→浪江を縦断して初めて川俣に着くのだ。国道6号線を使ってだ、と私はまた思い出した。その高線量の区間を毎日通って、タカシの父は仕事場に向かっている。
「オヤジは家のちっこいワゴンに、もうオレたちを乗せてくれないッス」
「(放射能が)危なくて乗せられねえってことらしいです」
 まあ、Jビレッジ付近で作業員は大型バスに乗り換えるはずだが、そういう父親の気持ちは当然と思われる。その父が、それまで持っていなかったバイクの免許を、この震災後に取得(しゅとく)したという。
「カワサキのゼファー(400)ですよ」
「ハンドルをこうやって曲(ま)げてね。また音がいいんスよ」
その後、絶対あたらないと思っていた町営復興住宅の抽選(ちゅうせん)に当たった。
「早く帰りてえ。ここはもうあきた」
「前みてえに広野で遊びてえ」

 私はゆっくりバイクの身支度(みじたく)をし、もういないだろうと思って小高い場所のパオを見上げた。すると、外で立ったままタカシがまだこっちを見ている。私は手を振って走り出したが、タカシはずっとそのままだった。


 ☆☆
佐世保の高一女子殺人事件、あっと言う間に加害生徒の本名と写真が掲載(けいさい)されたといいます。そして、この近辺の教員むけ夏期研修会では、バカな講師が、
「犯行に及(およ)んだ生徒は『発達障害』である」
と、いい気な顔してしゃべくっているそうです。バカですよ。「発達障害」だったらなんだ? ということです。「発達障害」だから、「人を殺した」「人を解剖(かいぼう)」するとでも言うのですかね。「発達障害」でなければ、人殺しはしないとでも言うのでしょうか。言い出したらきりがない。大体「発達障害」そのものは、病気でもなんでもない。それは50以上に及ぶ項目、衝動(しょうどう)性/多動性/挑戦(ちょうせん)的/頑固(がんこ)/自己肯定(こうてい)の低さ等々、それらの傾向にいくつあてはまるか、という「判定」です。こんな「人の傾向/性格」に、<病気>のレッテルが貼(は)られている。私の友人など、やってみたらこれらの半分以上もあてはまった。もう立派な「発達障害」です。でも、だからなに?なんです。
 まだ続けます。私の教え子に「ウ・メ・ボ・シ」しか言わない生徒がいました。奇声(きせい)と多動で周囲を振り回していたこの生徒は、でも「みんな分かっていた」。私は、そうかこれが、
「input(受けいれる)ことが出来ても、それをうまくoutput(外に出す)ことが出来ない障害というのか」
と思ったものです。でもそこまでですよ。だからなに? なんです。この生徒は周囲を愛し、そして周囲から愛されて卒業していった。テストには暗号めいた字・答?しか書かない奴でしたが、高校に行ってしまった!のです。

「人を殺してみたかった」
「誰でもよかった」
「殺したのは仲良しだった」
「新しいお母さんが来てよかった」
などという加害生徒の発言にメディアは飛びついていますが、これらの発言が少女の心の葛藤(かっとう)を反映していることは明白だと思われます。おそらくは、だいぶ前から彼女は「仮面状態」にあったと思われます。そして母の亡くなったあと、充分に多感な少女は、独り暮らし(父親の「緊急避難」のためだとか)を始めて一体どのような思いでいたのか、そんなことは私たちが考えるにあたっての一丁目一番地です。
      
      手賀沼沿い、早朝の田んぼ。まだ春先のような緑の稲です

 ☆☆
福島原発事故検察審議会が「起訴相当(きそそうとう)」の議決を出しましたね。先日の福井地裁の判決といい、「司法の良心」が続いています。これを「当然」とは思えず、喜んでいる私です。原発事故告訴団の副団長・佐藤和良いわき市議に、「お祝い」のメッセージを送りました。
            
            2日の手賀沼花火大会。家の近くで見ました

『坊ちゃん』Ⅱ  実戦教師塾通信四百号

2014-08-01 11:34:57 | 子ども/学校
 夏目漱石『坊ちゃん』を読む Ⅱ
     ~学校的対応~

            四百号記念!てわけではないけど
            
            「祭りの華」神輿(みこし)7/26柏祭り
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この日、神輿担(かつ)ぎ手の教え子たちと、胸をたたき腕を取り合って、久しぶりの再会を喜びました。若頭(わかがしら)は、私の書『学校幻想をめぐって』(1991年岡崎勝氏との共著)に、そして担ぎ手の二人も同じく『学校をゲームする子どもたち』(2005年)にみんな登場します。こうしてまた会えるのは「硬派」な連中なんだなあ、と思いました。

 1 赤シャツ

 このシリーズ「Ⅰ」で子育てに思うことを書いた。今回の「学校的対応」とは、
「現象(見かけ上のこと)を、静止した状態で把握(はあく)」
した上で、
「自分(学校)の正当性を主張する」
姿勢のことだ。
 書き出しから小難(こむずか)しい言い方になって恐縮だが、漱石の坊ちゃんは、松山の中学でこのことを繰り返し経験する。坊ちゃんはこれを、
「とんでもなくひどい野郎だ」
と、相手に憤る(いきどおる)のだが、私たちが見れば、それが学校というものの持つ体質であることは一目瞭然(いちもくりょうぜん)である。分かりやすい部分で考えてみよう。
 英語の古賀という教師(ぼっちゃんは「うらなり」と呼んだ)が、突然九州に送られることになる。とんでもない山奥だ。顔色の悪いうらなり君は人が良く、多くを語らずいつも笑っている教師である。下宿屋の婆さんからの情報によると、うらなり君は見かけによらず実家が地元の資産家だ。しかし、親が死んでから、うらなり君の人のいいことにつけ込んだ周囲が、よってたかって資産を散らかした。そこに目をつけたのが教頭の赤シャツである。うらなり君の婚約者で、とびっきり美人のマドンナを、

「あの教頭さんがお出でて、ぜひお嫁にほしいとお言いるのぢゃがなもし」

と、下宿屋の婆さんが言ったからたまらない。坊ちゃんは赤シャツ宅に飛び出す。でも坊ちゃんは、婚約者横取りの卑怯(ひきょう)を追求するため飛び出したのではない。うらなり君の転任で生じる自分の昇給を受けるわけにはいかん、と飛び出すのだ。この辺がいかにも坊ちゃんらしい。
 赤シャツはちっとも動じない。古賀君は自分の意思で転任するのだ、と落ち着きはらっている。坊ちゃんは、話が下宿屋の婆さんのとは違う、とバカ正直に反論するのだが、これではもう赤シャツの土俵である。

「それは失礼ながら少し違うでしょう。あなたのおっしゃる通りだと、下宿屋の婆さんの言うことは信ずるが、教頭の言うことは信じないというように聞こえるが、そういう意味に解釈して差し支(つか)えないでしょうか」

もう半分威し(おどし)である。私と婆さんのどちらを信じるのか、というのだ。
 読者もお察しの通り、坊ちゃんは日頃の赤シャツの言動や、うらなり君への対し方をみて、本当は総合的に判断し態度を決定している。しかし、坊ちゃんはうかつにもそれらを忘れ、うらなり君の転任の意思だけを訴(うった)えた。しかも、それを「又聞き」だと言ってしまった。渡りに舟とばかり、赤シャツは胸を張って、

「古賀君はまったく自分の希望で転任するんです」

と、坊ちゃんにしたり顔で言う。年度途中での転任である。地元に暮らす人間を山奥に、しかもそんな人事を年度途中に行うというのは尋常(じんじょう)ではない、それが動機で坊ちゃんは勇み立ったはずだが、さっさと後悔する。しかしもう遅い。赤シャツは坊ちゃんの出鼻をくじいたのでもう楽ちんである。
 うらなり君の実際の希望とは、すっかり実家の資産を食い散らされたもので、
「なんとか給料を上げてほしい」
というものだった。それを受けいれる条件が「九州の山奥」に「今すぐ転任」だったのである。つまり、うらなり君の希望は「転任」でも「山奥」でもなかった。こんな赤シャツの下心はすっかり見抜いていたはずなのに、坊ちゃんはことごとく、そして「ねちねち」とやりこめられる。負け惜しみなのだが、坊ちゃんは、
「人間は好き嫌いで働くものだ。論法(ろんぽう)で働くものぢゃない」
と言い残し、赤シャツ宅をあとにするのである。


 2 因果関係
「この事実を重く受け止めねばならないと思っています」
夏休みを前に自殺した中学生(父親の虐待で自殺した東京の事件ではない。お間違えのないように)。その学校関係者の、相も変わらぬ記者会見での発言である。この連中の「悲しい出来事が起きてしまった」という発言が、このニュースのかげにあっただろうか。私にそうは思えない。このあとはお約束通り、
「いじめがあったかどうか」
そして、
「いじめと自殺の因果関係」
を「調査します」という展開となる(なっている)のは間違いない。
 こいつらは、さすがに口にできないが、
「自殺とは殺人(殺された)とは違う」
「自分の意思でやったものです」
という卑怯でかつ最後の逃げ道を、暗黙の了解としている。赤シャツの「うらなり放出」で使った方法、いやこの場合は「態度」だな、あの「態度」と変わるものではない。

 ここで「館山中2いじめ自殺事件」のことを繰り返す。学校側の言い分だ。
「部活遠征の時、バスの中で『くさい』と生徒が騒いだのは、S君に対してではなく、この時バスの中でまかれたスプレーのことだと分かったので、本人の誤解を解いた」
だと? 今まで一体どれだけ同じことがあったと思うのだ、と生徒をたしなめる大人(教師)はひとりもいなかったのか、と腹立たしいばかりだ。挙げ句の果てに「本人の『誤解を解いた』」だ? ふざけるな、である。
 さらに「考える会」の情報公開請求によって明らかになった2012年10月付けの文書には、
「教育委員会では、(自殺の)因果関係は決められない。裁判所が決定するもの」
という、委員会担当の弁護士の度し難い(どしがたい)発言が記録されている。「因果関係」という不誠実な発想も解(げ)せないのだが、それを「決めるもの」だと言う。トンマども、恥を知れ、である。


 3 『爆音列島』
            
           『爆音列島』第一巻・内表紙
 以前登場いただいたこの作品、教え子に返却(へんきゃく)した後ずっと気になって、結局、自分も買うことにした。あらためてこの話のリアルさに感心した次第である。この作品がそれほどブレイクしなかったのは、発表が遅かったからだ。『月刊アフタヌーン』に連載が始まったのは2002年。暴走族はもう充分かげりが出ていた。もっと早く書けば間違いなく大ブレイクしたはずだ。しかし、それが出来なかった。作者の経験を書いたからだ。「終わってから」書いたからだ。主人公のタカシが「走る」ことへの緊張と不安にのめり込む流れは、もう見事としか言えない。そして作中、学校生活の部分はあんまりないのだが、たまに出てくる学校は、これも見事にその姿を見せている。何がと言って、例えば教師のやり口が、ホントにこのまんまなのだ。
 中三の年の暮れ、進路をめぐる三者面談のところだ。「特別に」生徒指導主任が同席する。タカシが退屈そうに窓の外を眺めるのを見て、生徒指導主任が切り出す。
「そんなに暴走族がカッコイイか」
しばしの沈黙のあと、タカシは絶妙(ぜつみょう)に返す。
「さあ……」
つまり、アンタがそんなことを聞いてどうする、関係ねえだろ、という答えだ。これに腹を据(す)えかねたように主任が話しだす。
「オレの見たところ」
「お前は不良の器(うつわ)じゃない」
「本物の不良はもっと大きな寂(さび)しさを抱えた目をしている」
「お前は普通の子だ」
と言う。まるで「不良」を承認するかのように気取った主任の姿は、実にリアルだ。必ずと言っていいくらいこうなんだから。
 まだ「筋金(すじがね)入り」ではないタカシは、思わず気おくれするのだが、本当は不良に「本物」も「偽物(にせもの)」もない。「大物/小物」があるだけだ。人間も同じで、それは「本物/偽物」なんかでなく「美醜(びしゅう)」いろいろだ。ありもしない「本物の不良」などと並べ立てる大人(教師)は、相手を「大物」にしたくないだけだ。
 タカシたちの先に、どんなものが待ち受けていてどんな傷を負(お)うのか、たかだか教師の私たちには、ちっぽけなものしか提示(ていじ)出来ない。でも大切なことは、ここに登場する主任のように分かったふうをしないことだ。そのちっぽけな姿をさらすしかない。そして相手が「それでも行く」というのなら、私たちは相手を止めることは出来ないのだ。分かったふうを演じることは、子どもに「(どうでも)いいと思う道」を用意する。

 ダメな大人は、見かけの一部にしがみつく。そこに「逃げ道」や「正当性」があると思っているからだ。私たちはそこに注意を払い、坊ちゃんのそしりを免(まぬが)れないといけない。


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日曜日、仲間が亡くなりました。まだ50歳の純生(じゅんなま)は、若い時から続く無茶もさることながら、去年の秋に遭遇(そうぐう)した交通事故に、体力を奪(うば)われてたみたいです。意識不明の状態から、純生は「いつも通り」驚異的な回復をしたのです。今年の春、仲間と三人で行った熱海。純生は首をふらつかせながらも、楽しそうでした。地面を引き擦(ず)り、㎝刻み(きざみ)で歩く純生のお陰で、私たちは行く先々、人々のやさしさを受けた気がします。稲取温泉で私たちはキンメを食べたのですが、箸(はし)が使えないもんで、と純生はやっとスプーンで、でも、美味しそうに鉄火丼を食べていました。
これでピンクフロイドの話を出来る人が居なくなりました。ピンクフロイド(ロジャーウォーター)がプロデュースした映画『ザ・ウォール』貸したのに、感想言わずに行ってしまいました。
明日の手賀沼花火大会の日に告別式なんです。一緒に昇っていくんですね。
            
            手賀沼の蓮、だいぶ咲きました