実戦教師塾・琴寄政人の〈場所〉

震災と原発で大揺れの日本、私たちにとって不動の場所とは何か

志賀原発 実戦教師塾通信九百一号

2024-02-23 11:24:43 | 福島からの報告

志賀原発

 ~「想定内」だと?~

 

 ☆初めに☆

カテゴリーは「福島からの報告」ですが、能登半島地震における、原発関連の報告です。一昨日、新聞(朝日)に「頼みの原発避難路 断たれた」という記事が、ようやく載りました。「ようやく」とは、今月に入ってすぐに、脱原発を目指す市民団体「たんぽぽ舎」(山崎久隆)のレポートが、私に舞い込んでいたからです。前に書いたように、原発に多少のトラブルはあったものの、危機的状況ではないとニュースは伝えていました。でも、たんぽぽ舎のレポートは、緊急事態まであと一歩という事実を伝えていました。福島の時も思い起こし、検証しなければなりません。

 1 避難方法

志賀原発が事故を起こした時のため、金沢から能登・穴水町を結ぶ「のと里山海道」は、避難の重要ルートだった。地図は紫色の道路である。原発から半径30キロで「のと里山海道」が終わっているのは、偶然なのだろうか。

これがずたずたに寸断され、全く使い物にならなかった。原発が重大事態とならなかったのは幸いというものの、半島は交通不能状態となった。福島と違うのは、海側の方に避難するルートが志賀原発にはあったことだ。

穴水から北側へ避難すれば「陸の孤島」という不安にならないわけがない。それで思い起こさないといけないのが、伊方原発だ。伊方原発は、愛媛県・佐多岬半島の根元にある。半島は原発から30キロ圏内にすっぽり収まる。

このエリアの住民が、一体どうやって避難するのだろう。愛媛県の出した避難計画のひとつが、半島住民が本島方向に国道を使って避難する経路だ。もちろんこの場合、半島住民は本島方向に避難する際、原発の前をわざわざ横切るようにして避難しなければならない。つまり「陸路が使用可能で」「放射線放出までに時間の余裕がある場合」という想定なのだ。しかし、この「時間の余裕」の目安は計画には示されていない。同じことが、能登半島地震でも問われた。原発事故に際して、石川県は「臨機応変に対応すべき」と言って、海路や空路の利用、屋内避難などの方法を考慮するというのだが、これこそが伊方原発が事故を起こした場合に「不可能」とされたものだ。屋内避難に関しては、福島原発事故で全く現実的でなかったことは、すでに実証済みである。「臨機応変」という物言い自体が、いかに役に立たない計画であるかということを物語っている。まるで、いま起きていることを見たくないとでも言っているかのようだ。福島の事故の際「臨機応変」が出来たのは、原発現場にいた職員だけだ。政府も本社も無能だった。

 2 「臨機応変」

 「臨機応変」で思い出さないといけないことがある。福島原発事故の時、県内の自治体は振り回され、対応が分かれた。安定ヨウ素剤の配布を巡って振り返っておきたい。ご存知の通り、安定ヨウ素剤を被曝に先立って服用すれば、ヨウ素が甲状腺に蓄積するのを予防できる。福島県・三春町は原発事故が起きて、この安定ヨウ素剤の配布・服用指示を決定。防災無線で周知し、薬剤師の立ち合いのもと住民に配布した。3号機が爆発した翌日だ(いわき市では、この5日後の20日に配布を決定)。ところが、福島県はこの日の夕、国からの指示がないという理由で、三春町に配布の中止と回収を指示するが、三春町は従わなかった。三春町は「臨機応変」の対応をしたと言えるし、国の指示がないという理由に固執した福島県が誤っていたのである。石川県の「臨機応変」は、このような過去の教訓を踏まえたものでないといけない。そうでない「臨機応変」は、現場や自治体への丸投げとなる。

志賀原発の北陸電力は、原発の変圧器から漏れたオイルを、はじめは3500リットルと発表するが、のちに5倍以上の2万リットルと訂正。このお陰で外部電源が使えなくなり、非常用発電機の1台が停止したことも判明する。もっけの幸いは、志賀原発が10年以上も停止中だったことだ。恐らく、安定ヨウ素剤の配布は検討されていないだろう。そして、地盤が大きく揺らいで甚大な被害を受けた珠洲市に原発がなかったことも幸いだった。珠洲市に原発立地計画が持ち上がったのは1975年。住民の粘り強い運動で、これが2003年に撤回される。北陸電力は一貫して能登一帯の活断層の存在を否定していた。しかし、今回の地震規模を、なぜか「想定内」としている。

 

 ☆後記☆

立命館の安斎育郎先生から「伝言館に能登半島地震・志賀原発の展示をしました」という一報が入りました。来週ようやく福島に行けそうです。今年に入って初めてなんです。先生には会えませんが、しっかり確認して来ます。

先週の「うさぎとカメ」です。ふる協のお手伝いで参加しました。福島県・只見町の雪まつりは大盛況⛄

提供するリンゴに「傷んでますが……」と説明すると、そうですか?という返事。温かいものを感じます❤

 ☆☆

町田市の調査委員会が、2020年のいじめ事件の報告を出しました。まだ詳細は分かりませんが、恐らく、大人(学校)の責任がどれほど問われたのか、と思われる内容です。これが、取手や旭川の報告の後に出たものかと思うと、暗澹たる気持ちになります。また、前にレポートしましたが、柏市の中学校で2015年にあったいじめ事件の訴訟が、学校の設置者・柏市との間で和解となりました。当時の同級生だった4人との間では、まだ裁判が続いています。


堂々巡り 実戦教師塾通信九百号

2024-02-16 11:19:30 | 子ども/学校

堂々巡り

 ~「専門家の必要」と言う前に~

 

 ☆初めに☆

節目の九百となりました。前に、千号まで生きているだろうかと書きました。このペースだと、あと2年で到達します。その時は喜寿となっていますが、行けそうです。嬉しい。内容をさらに充実させたいものです。変わらぬフォローとサポートを、よろしくお願いします。節目の今回は、学校や子どもを取り巻く「医療的包囲網」のことです。前回言及した「興奮状態」に学校も真っただ中というか、先頭切ってます。一服するためには、という話です。

 1 冗談ではないぞ

 「ちゃんとしろと言ってちゃんと出来ないなら、入院させるぞ!」とは、アメリカの精神科医の有名なジョークだそうだ。「ちゃんと出来ない」訳を、病院で診てもらえないのである。読者は笑えただろうか。学校の先生の中には「いるいる、こういうの!」と思って、複雑な気分となった方もいるのではないだろうか。以前、音や臭いや話の内容などを過度に受容してしまう子どもが、巷で問題になっていたことをレポートした(731号)。「HSC(High Sensitive Child)」である。すると今度は、別な「聴き取り困難症(LiD)」が流行していることを知った。もちろん「流行している」とは、病気が流行っているというのではない。流言飛語=戯言(ざれごと)がいい気になってる、という意味だ。先だっては「過敏」だったが、今度は「鈍感」が取り上げられたというわけだ。熱心な読者は覚えているかもしれないが、ブログで「治療」とした号(881号)は、非職業的医療者(生徒)が自分の友人を見事に治療したいきさつを書いたものである。この時の「症状」がまさに「聴き取り困難症」であって、ニュースになる前のレポートだったのが笑えた。「聞こえているのに理解できない」小中高生が1%いるというのだ。決定的に間違っているのは、「原因は自分の(聞く)側にあるのかもしれない」と洞察する態度がないことだ。常に「どうして君は/オマエは/子どもたちは」とする態度のことだ。私の体験から言っても現在の現場からでも、いっぱい報告できる。先生ね、それはアイツがあなたを嫌いだからです/あの子はお父さんと話したくないんですよ、きっと等々と、私は数多くのこういうケースに言っている。本人は本当に聞こえない様子なので、相手(教師や親)は「聴き取り困難」となった当事者を病人扱いする。しかし、出来事や相手を「拒む」身体的反応はある。「病人扱い」は、その状態を許さないことを意味する。もう少し続けていいですか。私の「あなたを嫌い」という指摘に、言われた教師が結構不満を持つ。「私が嫌いだからというのと、授業は別です。授業は聞かないといけない」(⁉)と漏らす、または言い淀む。こんなことを言ってる教師が、方や「人権教育」を生徒に!向かって語る風景は、ブラックと言えるのではないだろうか。

 2 「どうしたの?」というアプローチ

 病状の「発見」と「捏造(ねつぞう)」、そして病名の「診断」と「創作」のしょうもない堂々巡りを、すべての精神科医がやってるわけではない。また、学校教師の全員が、「ちゃんとしない」生徒を怒ったり病人扱いするわけでもない。目と耳、そして「心」を駆使して生徒に向き合う先生も、結構な数がいるのである。「ちゃんとしない」子どもを分析し、医者や別機関を処方したがる先生のいる一方、目と耳と心を持つ先生の「どうしたの?」と相手をうかがう姿勢は、近代を迎える前の名医のようだ。病状、または異変の分析は二の次なのだ。「(処方が)私たちの責任ある態度だ」と考える前者は、「ちゃんと出来ない時は……」と、子どもの不安を増幅させる。ひるがえって見渡すに、我が身の処し方に困り果てた子どもが、その先生のもとに行くと落ち着いてしまうという「達人級」のケースもある。この場合、分析や処方は不要なのだ。どうも、精神医療においても同様なことが起きているらしい。

「若い時のほうが診断がうまく、中年になると診断の切れ味が悪くなり、代わって患者の生活が見え出す。老年に近づくと、診断は全くといってよいほどつかなくなり、その代わり、患者の状況と人となりが見えて来る……人柄も状況もそう分からない(定式化出来ないという意味である)のに何となく治療が出来る」(中井久夫)

精神科医という職業集団内で、良く使われる小話だそうだ。つないで言えば、私たちが相手とする子どもたちの問題は丸ごとむきだしのようで、実は錯綜としている。それは未熟という意味での「漠然」とした子ども存在の「必然」という姿でもある。おのずから、解決も漠然とせざるを得ない。現象も解決も混沌として流動的なのは、子どもという存在において当たり前のことなのだ。だから「病気」でなく「症候(群)」と言って来た。「症候(群)」とは、様子やしぐさ、習慣が「気になる」というカテゴリーであって、「どうにかしないと大変なことになる」ものではない。

 

 ☆後記☆

子ども食堂「うさぎとカメ」、明日ですよ~❤ 天気も良さそう。さあ、子どもは雪と戯れて⛄ 美味しいトン汁とお握り🍙が待ってるよ~✋ 明日のチラシの通信・「もしもしカメよ」です。おいでくださ~い

 ☆☆

これは、私ご贔屓のコーヒー豆屋さん「豆壱」の出窓です。逆光でゴジラはしっぽしか見えませんが、映画『ゴジラ-1』を模したもの。お客さんが作ったもので、戦闘機・震電はもちろん、護衛艦も映画のものだそうですよ🦖

なんか、桐島のことが頭を離れません。


毎日の言葉 実戦教師塾通信八百九十九号

2024-02-09 11:40:43 | 子ども/学校

毎日の言葉

 ~もっと分かりやすく~

 

 ☆初めに☆

だいぶ前から、ストレートに「子ども/学校」を語る記事が少なくなった、と指摘を受けています。子ども食堂関係の記事が多くなっていると思います。また、昔のことを振り返らないといけない出来事が、多くあったせいでもあります。各校長先生からの相談も含め、現場からの声は少なくないのです。報告することはあるのですが、喫緊でもなかったので、という理由です。でも、そろそろまとめに入りたいって変な言い方ですが、最近の話題ばかりでない、もっとラディカルに分かりやすく現場を語りたい、という心境になっています。ラディカルとは「過激」を意味するわけではありません。「根底的」な場所で語れればいいなと思っているのです。これからは月に、少なくとも一回か二回は「子ども/学校」のカテゴリーで話そうと思います。区切りの九百号もそうなると思います。

 1 正しい言葉

 柳田國男が明治の標準化政策を、果たしてその効果はいかがなものか、と批評している。「よい言葉」を優先することで「毎日の言葉」をないがしろにした、という内容だ。方言の排除はいまに始まったものではない。しかし、柳田がここで言うのは、方言ばかりではない。私たちが豊穣に所有している「毎日の言葉」を、量として遥かに頼りない「正しい言葉」に置き換えるのは無理があるし、弊害ばかりが生み出されているんではないかと言っている。この「正しい言葉」を考えることは、現在においても極めて有用なことだ。何度も繰り返し言って来たことだが、くだんの「〇〇させていただきます」は、今や常套句としての地位を不動のものとしている。こいつが「正しい言葉」として、平成・令和のまさに先頭を切って歩んできた先兵・厄介者と言えるだろう。もとをたどれば、敬語は神仏や主君、位の高い人に対する言葉だった。これが江戸から明治と、移動や訪問の盛んになるに連れ使用の必要が発生し、結果として過剰な状態となった。明治の頃には、どうも家族や親しい人との間でも「敬語」は使われるようになったらしい。これと言って必要ない言語の習慣は、だいぶ昔に生まれたのである。こういう風になるに従い、敬語本来の「よそ行き」が「空々しさ」を装うようになっていく。いまのことで言えば、中学校で入試面接練習の折り、普段、父母を尊敬せよと言われていたのが、他人に対しての時は粗末にせよ、と言われたような気分になる生徒の面食らう姿はかわいらしいのだが。しかし、「正しい言葉」は、多くの「毎日の言葉」を排除した。また繰り返すが、「申し上げます」「参ります」は、ほぼ壊滅状態だし、「召し上がって下さい」を「いただいて下さい」で併用する破廉恥も同じと言える。それで別にいいじゃないかと思う方々は、例えば生徒に「授業をさせていただきます」(⁉)と言って(本当にこういう奴、いるのである)平気な顔が出来る方々なのだ。こっちとしては、「ちゃんと責任持てよ」「自信を持ってやれよ」と言ってやらねばならない。こういう方々を称して、けじめがない大人、あるいは立場というものが分かってない大人というのだ。ここで崩壊しているのは、言葉ではない。「相手」や「場所」の崩壊、いや、放棄である。「いただきます」とは、食材に宿っていた命や作ってくれた人に対する感謝だ。自分が向き合ってるものや相手が明確、ということだ。頭の上に「いただく」くらいに、感謝しているということなのだ。一体「いただいて下さい」って、何のことだ?

 2 日常的興奮

 もちろん、原因は「移動・訪問」の増加ばかりではない。これも繰り返し来たことだが、40年前からの急激な「退屈の減少」(これは間もなく「退屈の忌避・憎悪」となる)が、大きく加担している。静かな日々・平凡な日々が、心の平穏とは行かなくなる。それまで穏やかだった日々は、憂鬱や攪乱した道に通じる「退屈」へと変貌を遂げる。昔の子どもは、毎日を楽しいものだと思っていなかった。頬杖をついて口笛を吹いて、時間を費やしたのだ。しかし、今や「今日は外食だ!」という、誇らかで高らかなお父さんの声など遥か彼方に行ってしまったし、草野球は場所も仲間もなくなった。ささやかな楽しみの日常に代わり、常時絶え間ない興奮の誕生と必要が生まれた。ファミレスは家族の負担軽減となっただけではない。週に一度か、月に一度の「興奮」を家族から奪った。家族の団欒を楽しむ利用客にホッとすることもあるが、今の大体は、各々がスマホのディスプレイを眺めながらの「食事」だ。また、草野球にあった仲間内のささやかなヒーローをクラブチームの野球は排し、プロか大リーグへの「夢」を目指す合宿所もどきへと変化を遂げる。子どもにお金をかける必要と強迫(「脅迫」ではない)はスポーツばかりでなく、家庭を進学への合宿所へと変えた。近所のお父さんがコーチを務めても、おじさんの顔は厳しさに満ちている。家族のいるはずの家で待っているのは「ガンバレ!」なのだ。この悪無限的循環と言葉の現状は、恐らく対応している。「よそ行き(ハレ)」と「毎日(平凡)」の二通りだった言葉が、全て「よそ行き」が当たり前となった。一種の興奮状態と言える「晴れの舞台」の言葉が、普段使う「正しい言葉」に舞い降りたのである。近所のおじさんが、コーチの顔になったのと対応する。みんな行き場を失い、逃げ場所を探している。この状態を言うなら、過剰なストレス状態と言える。ストレスははけ口を求める。いじめや虐待の蔓延化、そして、子どもたちの自殺増加として現れている。「十代の子どもの死因『自殺』 1位は日本」という報告は、先日出されたものだ。指導の在り方とか子どもの見守り徹底化などと言われるが、本当は「過剰な興奮状態にある社会」「静かな時間を忌避する社会」の方をどうにかしないといけない。でも、これは決して難しいことを言っているわけではない。先だっての雪の日も「毎日の言葉」、あるいは平穏な日々の幸福が見られた。小学校はもちろん、中学校でも子どもがはしゃぐ姿があったのである。子どもの姿は健在だった。

 

 ☆後記☆

夜中に外に出て見てびっくりしました。静かで明るい夜とくれば、雪です⛄ 寒い中でシャッター📷

一昨日は、近所の子どもたちも雪にはしゃいでました。雪で喜ぶのは犬と子どもだけ。子どもはこうでなくちゃ

私は雪かきの後の一服。手前はガチャガチャのスーパーカブ。800円ですが、十分な見ごたえ。本田宗一郎に万歳🏍

 


桐島聡 実戦教師塾通信八百九十八号

2024-02-02 11:30:23 | 戦後/昭和

桐島聡

 ~「私たち」の場所~

 

 ☆初めに☆

ニュースに驚き、連続企業爆破事件を覚えているかと仲間に聞きました。すると、自分はその時生まれてなかったから覚えてるも何もない、と言われました。50年という歳月を思い、愕然とするしかなかった。すっかり色あせ、指名手配のポスターは朽ち果てそうでした。本人はどんな気持ちで駅や道々のポスターを、通り過ぎていたのでしょう。あの頃の「私たち」は報道後、この50年の中にすっかり沈み込んだはずです。安らかに、と思わずにいられません。

 1 ふざけるな

 こういう時どうしようもないクソどもが、分かった風な顔して必ず出て来る。「あさま山荘事件を機に学生運動に対する学生の熱はさめて行った」だと? 当時オマエは何をしていた(このクソを同世代と想定してだが)? こんな愚劣な連中が当時言っていたことといえば、「これでは一般学生(⁉)がついていけない」だのという、私たちを支持するでもしないでもない無責任でノンポリなおしゃべりをしていたか、「大学の混乱状態が続けば就職がだめになるんではないか」「このままで卒業出来んのかなぁ」などと、びくびくしていただけだ。5年後の2029年、この連中が今度は「東大安田講堂事件(⁉)を境に学生運動は、急激に衰えて行った」なんぞと吹聴するのは間違いない。その時に自分が生きてるかどうか定かでないので今のうち言っとくが、本当は逆だ。東大は確かに安田講堂攻防戦ののち後退を強いられるが、全国にくすぶっていた学生の思いが日大・東大闘争に触発され一気に噴き出した、というのが本当のところだ。ついでに言えば、あさま山荘は言われる通り節目だった。しかし、1972年に至るまで、私たちは全般的な限界を感じていた。私たちはいわば「反国家」を、間違いない正しいとしていたが、1970年代に入る頃は、それでよかったのかという迷宮状態にあった。「あさま山荘」以前、すでに私たちは混沌の場所にいた。

 2 胸を張っていた

 一方で私たちは、あさま山荘までの戦いを積極的にとらえていた。怖かったが、ひるむことはなかった。大学をバリケードで封鎖する十分な理由はあったし、機動隊で解除するとあれば実力で立ち向かった。今となっては恥ずかしいのだが、火炎瓶はともかく投石やゲバ棒を「武装闘争」などと言った。当時、大人たちは「言ってることは正しいが、方法が間違ってる」と良く言った。少し後の世代からは、あざけられ「ゲバ棒で革命が起こせると思ってたのか」と言われた。しかし、何といわれようと「私たちはとにかく、みんなまじめだった」(小池真理子)。1970年、赤軍の田宮高麿が「我々はあしたのジョーだ」と言って、日本刀で!よど号をハイジャックした時、無事に解放された乗客たちが口々に「そこらの男どもよりもずっとカッコよかった」と言ったことは、記憶に鮮明だ(この時たまたま搭乗していた聖路加病院の日野原重明先生は違っていたようですが)。付け足し。2002年に日本テレビから配信された「よど号事件」は、ちゃんと調べ上げた作りのいいドキュメンタリードラマだった。また、あさま山荘の時、人質となったK(名前は伏せます)さんが解放された時も「あの(連合赤軍の)人たちは、いい人たちだ」と言って、二人も殉職者を出している関係者を困らせたのも思い出される。一般の人々を巻き込む時の覚悟と節度と配慮があったことは、当時の経過から明らかだ。これも2002年なのだが、NHKが『プロジェクトX』であさま山荘を取り上げた時、人質だったKさんの手記が最後に紹介される。しかし、彼女から「犯人たち」を責める言葉は出されなかった。あの頃まで、私たちは自分たちのやって来たことに、胸を張っていた。これが大きく変容する。

 3 刑に服していた?

 1974年に起こった、三菱重工ビル爆破事件だ。まだ噴煙が立ち上る現場に踏み込んだカメラが、こちらに這いながら助けを求める会社員の姿をとらえていた。その姿も凄惨だったが、救護せずに撮り続けるのかと思うぐらい長回しだった。この事件に、今までと違う強い嫌な感じに襲われた。そして、間違ってると思った。「爆弾を仕掛けた。すぐに退避しろ。これは冗談ではないぞ」という警告があったという。しかし、三菱の社員もビル周辺を歩く人々も、アジアを食い物にする会社と同罪だということか。ここには一般の人々を巻き込む時の覚悟や節度や配慮は、微塵も感じられなかった。こんなので胸を張れるのか? これら一連の事件に、桐島聡は名を連ねていた。

 桐島がどんな思いでいたか、知る由もない。報道は「保険証も持っていなかった」と平気な顔して書き立てる。しかし免許やキャッシュカード等の類は、どうやっても入手出来るわけがない。通帳発行はもちろんDVDのレンタルさえ、この世に存在しない「内田洋」には不可能なのだ。給料も現金で受け取り、カバンや押し入れに保管する。身内のものとの連絡や仲間はもちろん、かつて行きずりにすれ違った人との接触などの一切合切は、自分の生存と存在を教えるのだ。しかし、桐島は自分の存在を消して、刑に服する選択をしなかった。あるいは死刑になる位の関与があったのか、理由は計り知れないが、とてつもない孤独、明日を知れない日々と共に過ごしたのは間違いない。逃亡が始まって10年かかって、自分が潜り込める場所を見つけた。何かわけがありそうな奴だぐらいに、周囲は思っていたに違いない。それ以上踏み込まなかったのは、桐島がまじめだったからだろう。もめ事を起こさない、仕事は休まない桐島は、40年勤務するその間に周囲から「うーちゃん」と呼ばれる。私はついこの間見た映画『パーフェクトデイズ』に重ねてしまった。朝起きて小さな植木に水をやり、公園のトイレを磨き、仕事が終わった後のお風呂と一杯の酒を楽しみにひっそりと生きる男の話だ。この平山の様々なわけありを、映画はほのめかす。かと言って、平山は桐島と全く違う。車を運転するし、本名を名乗る。何より、平山の過去・現在を知るものが、近くを行き交い言葉を交わす。桐島は日々、後ろに近づく影におびえ、風が窓を叩く夜を震えて過ごしたのである。刑に服していた、と言えるのかも知れない。

 安らかに、と思わずにいられない。

 

 ☆後記☆

大学の闘争戦士は、その後は企業戦士として出世街道まっしぐら、とかいう皮肉をずい分聞きました。例えば、元都知事の猪瀬直樹あたりもそう? 最近ではハルノ宵子(吉本隆明の長女)も『隆明だもの』(晶文社)で言ってましたね。でも、一体何人がそんなレールに乗れたのかな? 非常勤や非正規の現場しかなかった多くの仲間、自ら死を選んだ、あるいは精神の病に取りつかれた仲間。多くは企業戦士とは行かなかった。今となっては信じがたいのですが、関東圏の小中あわせて10回受けるチャンスがあった50年前の教員採用試験。その10回目がまた数々の幸運のお陰で、私は採用となったのです。「生き残ったもの」としての道は外せない、ぐらいは思っています。

寒い庭に、今年も山茶花が咲いてます。ありがたいです🌺

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二月になりました。今月の子ども食堂「うさぎとカメ」は、只見町との合同イベント『雪まつり』に参加します。雪合戦の合間に、おにぎり🍙とトン汁、食べにお出で⛄