実戦教師塾・琴寄政人の〈場所〉

震災と原発で大揺れの日本、私たちにとって不動の場所とは何か

『ふなふな船橋』(下)  実戦教師塾通信四百九十三号

2016-04-29 11:17:22 | 子ども/学校
 『ふなふな船橋』(下)
     ~「子どもの勲章」~


 1 『刑事の勲章』

 『陰の季節』の続章『刑事の勲章』見ましたか。月曜だったから、おかげで吉田類の『酒場放浪記』を二週も連続して見れなかったのですが、途中でチャンネルを変えようとも思えなかったので、仕方ないです。
 横山秀夫の小説はまったく読んでないのですが、2003年に見た『半落ち』のヒューマンな味を忘れられません。容疑者役の寺尾聡(ホントはこの字じゃないです)が護送される車に、柴田恭平演じる刑事が敬礼をするラストシーンは、今も鮮やかです。

 さて、この『刑事の勲章』で、寺田農演じる退職目前の刑事が、
「叙勲(じょくん)なんてもんはいらねえ。オレたち刑事にとっての勲章ってのはな、オレたち刑事の先輩後輩、そいつらの家族、容疑者とその家族とどれだけ関わって来たか、そして関わり続けているかっていうもんなんだ。それが刑事の勲章だ」
というセリフがある。今週の月曜に聞いたものなのだが、ほとんど同じ意味を持つくだりを、私は『ふなふな船橋』で見たと思っている。もちろんこっちの方は、だいぶ前に見つけたものである(以下、「 」内の引用はすべて『ふなふな船橋』からのもの)。まずは、この奇妙な符合といっていい言葉から確認したい。

「私は決して自分を高く見積もってはいない。でも、私は、私でないといやだという、幸子や奈美おばさんに囲まれている。何年かかってもあきらめずに夢に出てきてくれた花子さんや、何年かかっても花子さんを悼(いた)み続ける松本さんを知っている」

物語の終盤に出てくる、この主人公・花の言葉は、言ってみれば「子どもの勲章」という形になっている。しかし、花を取り巻く人たちや現象が、花にとっての勲章だと気づくには、数々の手続きがあった。

 2 「しかたない」場所
 何冊かしか読んでないが、吉本ばななの話にいつも流れるものは、悲しい/苦しい出来事を、
「仕方がなかった」こととして、
「承認/肯定する」
ことだと思う。『ふなふな船橋』もそうだ。
 自分が、
「アリンコくらい小さくっても、梨の妖精みたいに弱そうでも」
必要とされている、必要とする世界が必ずあるというくだりもそこに向かっている。また、そんな自分たちを支えるのは、確かな生活の感触であるというメッセージが、常に物語の底を静かに流れている。今回の『ふなふな船橋』でも、それは姿を見せている。毎日、同じ時間同じようにリビングの床に響く「母」の足音、水道から流れる水の音や身支度(みじたく)の音。すべてがすがすがしくささやかに、あたりを優しく渡っている。同じリズムを繰り返し確認する中で、花は少しずつ心を取り戻していく。
 初めから終わりまで涙づくしの話だが、読む側はちっとも涙せず、どうなるのかという興味と、花へのエールを抱いて読み続ける。絶望しないしかけがこの話にはたくさんあるのだった。作者は希望のありかを教えている。

 不幸が何度も花を襲うが、涙や友人や風や記憶とのやり取りの中、
「ほんとうのところ、誰も私を責めていない」
ことに、花は気づいてしまう。
 私たちが取り返しのつかないことをしたとき、周囲は決まったように、自分を責めてはいけない、と言った。しかしそう言われても、私たちは自分の行き場を見いだせなかったはずだ。あいつが悪いんだと思ったり、せいぜい頑張って「運が悪かった」などいう場所に落ち着こうとした。しかしそういう場所はみんな、着地を拒絶していたように思う。
 多分「仕方がなかった」とは、相当な場所である。
「なにかを失ったら、それを別なもので埋めようとせず、ないなりに生きていく」
それが「仕方がなかった」が意味することなのだ。
 初めに引用した『刑事の勲章』と対比したくだりは、この物語の最後の部分である。あのあとに、

「こうなんだからしかたない、と彼らの姿は常に能弁に語っていた。『なんのために』とか『どうなるために』がない人たちだった」

と続くのである。こうして花は、
「誰も私を責めていない」
場所へと、しかも自分も責めない場所へと進んでいく。これを「成長」と言い換えていいものか、私には躊躇(ちゅうちょ)がある。とてつもなく高い場所だと思えるからだ。おそらく花はこれからも、
「どうしても消せない子どものままの部分」
「置いてきてしまった子どもの私の気持ち」
と出会うに違いない。そしてじたばたしながら「仕方がなかった」場所に行き着く。しかしその時にはまた、ちっぽけではあっても手放せない、かけがえのないものを手にしている。
 頑張るぞ、私もそう思う。

 3 「仕方なかった」か?
 読者には唐突かも知れないが、『ふなふな船橋』を読んだ私が『刑事の勲章』を見たら、思わず若いときの自分を思い出した。
 先生になってまだ数年、私は小学校に勤務していた。
 あの時私は、陸上部を担当していた。ある種目の選手を決める時のことだった。一番は断トツだった。二番手は何人か競(せ)っていたのだが、5年生の時からずっと真面目にやって来たある生徒を、胸の内で私は決めていた。しかし突然、横からと言っていいだろう、
「先生、オレにもやらせてください」
と言った男がいた。秋に転校してきたそいつが、さっそく陸上部に入ってきたと思ったら、秋の大会に出たいという発言である。私は自分の気持ちを伝え、オマエを選手にはしない、と言った。しかし、この男は引き下がらず、一度でいいからやらせてくれ、と頼んだ。一度だけの約束だった。男はみんなの目の前で、とてつもない数字を出して見せた。
 私の決心が揺らいだ。仮に初めの考え通りにやったとして、あいつ自身が喜ぶだろうか、などという言い訳めいた理屈が働く。そして次の日だったか数日たってだったか、私は選手の発表をする。こんなバカなとか申し訳ないとかいう気持ちばかりが、私の中を走った。
「仕方なかった」
そういう私の逃げ道だった。
 卒業間際(まぎわ)、選手から外された生徒が私に、あの選手発表の日のことを話してくれた。家までどうやってたどり着いたかを話してくれた。聞いた私は、「仕方なかった」だと? 都合のいいことを言うな、そう自分に言い聞かせないわけには行かなかった。
 あれから40年、自由で楽しく、しかし、生真面目で気遣い(きづかい)のあるそいつは、
「仕方なかった」
場所にいる気がしている。自分にとっての「勲章」が何であるのか、それを見いだしつつ、苦しくも楽しく頑張っているようだ。
 頑張るぞ、私もそう思う。


 ☆☆
ゴールデンウィークですねえ。あんまりはしゃぐわけにも行かないですが、あんまり「自粛」も考えものです。普段頑張ってる自分に、ご褒美あげましょうね。

セブンパークが、柏でオープンしました。知らずに行ったのですが、北原おもちゃミュージアムが入ってた。嬉しい! 店員さんに、
「箱根まで行かなくてもコレクションが見れるなんて」
と、喜びを伝えて来ました。


 ☆☆
来月から現場に復帰します。思わぬところからチャンスをいただいたと感じてます。毎日(ではないですが)、子どもの姿をじかに見られるのがたまりませんね。せいぜい楽しみたいと思ってます。

『ふなふな船橋』(上)  実戦教師塾通信四百九十二号

2016-04-22 11:47:51 | 子ども/学校
 『ふなふな船橋』(上)
     ~「幸福の記憶」~


 1 初めに

 熊本で断水が続いている。また思い出す。あの時、いわき市の水道復旧現場にいたのは、鹿児島水道局だった。
「いわきの水道局の連中は、原発が怖くてみんな逃げちまったんだ」
と、避難所の住民は信じられないことを口にした。しばらくして知った。いわきの水道局の職員は、局にこもり寝食を忘れ、破損の状況把握と復旧の計画に集中していた。水道局や市の広報は、その後その経過を説明しなかったと記憶している。
 住民の誤解は解かれたのだろうか。

 大きい事件や災害があると、普段の自分の生活がずいぶんとだらし無く見える。五年前、私たちは何か出来ることがないかと思うと同時に、自分たちの生活の無駄で余分なものが見えていたように思う。あの時は、である。被災地でもそれは同じだった。「いつかまた見ようと思っていた映画」や、「着る機会のない服」、そして部屋ごとのテレビやストーブ(エアコン)が、瓦礫と一緒に泥でまみれていた。
 初め、何より急いで必要なものは、パン/ご飯、毛布に水だった。私たちが処理に回った瓦礫の現場には、被災者の姿があった。一カ月が過ぎると、今度は弁当、洗剤、電池の需要が大きくなった。被災者の「必要」は、時々刻々と変化した。そして瓦礫の現場から、被災者の姿は少なくなっていた。そこにはアパート探しという物理的要因や、あきらめという精神的要因があるように見えた。
 震災から2年が過ぎ3年目に差しかかると、被災地には「復興」に伴い、別な傷が、癒(いや)される場所を知らずに露出してきたように思えた。たとえば、私が直接見聞きした場所ではなかったが、婚約者を失った相手とその周辺の人々の声は、行き場のないものを持っていた。
 つまり、遺族は節目の慰霊催(もよお)しで、「生き残っている」相手に声をかけるかどうか迷う。声をかければ、
「まだ若い相手を過去に縛るのではないか」
と思い、声をかけなければ、
「冷たいと思われるのではないか」
と思う。こんな形で、実は「絆/きずな」が残っていると思い知った。
 「絆/きずな」とはなんだったのか。今回の九州の災害で各界からたくさんのコメントが出されたが、
「混乱している状況……困っていることの方が多いと思う。……野球見てどうこうより、そういうことがいちばん大事(と思う)」
ヤンキースというより、楽天でプレイしていた田中マー君のこの言葉が、私には一番良かった。もどかしさが伝わってくるのだ。そうではない反応、
「(自分のプレイを見せることで)勇気や元気を与えたい」
という反応が、五年前はこんなにすぐに、そしてこんなにたくさんあったかなと思ったのは、私だけなのだろうか。これでは九州・熊本の被災が、その程度だったのかと思えてしまうと感じたのは、私だけだろうか。
 「絆/きずな」は、必要/不要を混沌とさせたものではあっても、「頑張れ、日本!」のように単純なものではない。

 2 新しい父/名前
「ほんとうにいっしょに来ない? ママは全然かまわないのに。彼も本心からそう言ってくれてる。ほんとうに歓迎してくれてるの。妹になる子だって、今どきいないくらいしっかりして優しいいい子だよ。心を決めて私を受け入れてくれた。今から、いっしょに新しい家族を作らない? 再婚はほんとうにしたいことだからするけれども、本心から、ママは花ちゃんと離れたくないし、暮らしたいの」(吉本ばなな『ふなふな船橋』)

見事というか、このママの言葉は「絆/きずな」が形を変える瞬間と思う。こんな瞬間を私はたくさん見て来た。そして今も見ている。
「○○の父です」
と自己紹介する男性のかたわらの「母親」は、
「○○の父親としてしっかり挨拶してくれないと、と言ったんです」
と言葉を継(つ)いだ。
 また別な母親は、家庭訪問の時、息子をとなりに座らせ、
「今度新しいお父さんが出来るからと言ってあります」
と言った。息子は黙って座っていた。
 廊下を通り掛かった仲間に、
「○○く~ん、おめでとう!」
と、「新しい名前」を祝った男子は、自分も同じ経験を持つ子だった。
 こんな時いつも私は、自分が恥ずかしい場所にいた気がする。いや、当事者がどんな気持ちなのだろうと、いつも思った。置き去りにされた子どもたちは、どうやって自分の場所を確保したのだろう/しているのだろうと、今も思う。

 3 「幸福の記憶」
『ふなふな船橋』の主人公・花は、中学三年だった。ママからの再三の誘いを断り、このあと船橋で叔母と暮らし始める。ママのいう通り、いっしょに暮らしたい、きっと幸せになれると花も思った。でも踏み切れなかった。花を「歓迎してくれる」のは「彼」で、「受け入れてくれる」のは「妹になる子」なのだ。取り返しのつかないことが起こるという予感を、花はキャッチした。
 物語が始まって二ページ。読者もママのこの語りを、自分勝手な能天気と思ったのではないだろうか。
「私(ママ)は幸福になるわ」
と言うのだ。しかし、ママに対して花は理解と寛容にあふれている。
 もうすぐ高校生の自分はいらないというのに、
「ママが淋しいから/ママが花といっしょにいたいから」
ふなっしーのぬいぐるみを、花のために買う。ふなっしーを抱いて泣き続けるママの背中を、花はずっと撫(な)で続ける。そしてその背中の形を、
「(自分の)手のひらが全部知っていた」
ことを確認する。花がママから愛されていたことを示す一文だ。花のママへの理解と寛容は、この「幸福の記憶」が作ったものだった。
 自分が頬を寄せた/おんぶしてもらった/字や絵をなぞった/お風呂で洗った母の背中。おそらくママの背中は、自分の手を一度も拒絶しなかった。それは「安心の場所」だった。自分は母から愛されていたという確かな「記憶」。

 子どもがいつも幸せだったり、逆にずっと不幸せなことはまれだ。そして幸不幸は誰にもある。欲張りな私たちは、「いつも幸せ」なことを願う。しかし「あきらめ」や「やり過ごす時」の必要も出てくる。その時、私たちを支えるものがあれば、私たちも子どもたちも、きっと耐えられる。
「どうしていいか分からないと悩んでいるうち、子どもを殴ってしまう」
母親がいる。子育てに悩む多くの親が、子どもを怒鳴ったり、時には手をあげたりすることもある。しかし、「虐待」という事態になかなかならないのは、親の「幸福の記憶」が、そこに介入するからだ。親が、自分の短気や無能を反省し子どもに謝るのは、そこに「幸福の記憶」があるからだ。
 いつ/どんな時にその記憶が刻(きざ)まれればいいのだろう。いつでもいい、でも小さい時に、と私は思う。
 花は、私たちにそんなことを教えてくれる。


 ☆☆
最近人に会うと、この本の話をすることが多くなりました。話を聞いて、
「読んでみたい」
「このあとすぐに本屋で買います」
と言った人、けっこういました。ばなないいですねえ。船橋のお店、行ってみたくなりますよ。
次回に「下」の予定です。

   ちょっと前になりますが、手賀沼の雪柳?です

 ☆☆
三菱軽自動車の燃費不正問題発覚。三菱の整備不良による事故を思い出します。いやあ、2009年のドラマ『空飛ぶタイヤ』(池井戸潤作・仲村トオル主演)、再放送しませんかねえ。
ちなみに、今週放送された『陰の季節』も良かったですね。

 ☆☆
本日、館山中2自殺事件第三者委員会の二回目の会合です。私には会議の流れがどうなるか、見えます。

夜ノ森  実戦教師塾通信四百九十一号

2016-04-15 11:37:41 | 福島からの報告
 夜ノ森
     ~ダンプの連なる中で~


 ☆☆
九州で震度7。5年前のことを思い出します。佐賀や鹿児島の社協(社会福祉協議会)人たちは、連日/毎週、大型バスを二、三台連ねていわき社協に来ていました。そして、いわきの職員をリードしていたのです。週末になると、
「来週は僕たちと違う部隊が来ますから」
と言って、握手をして去って行った姿を思い出します。
みんなどうしているのでしょう。


 1 桃田選手
 無知な私は、桃田選手の賭博事件で、福島が大騒ぎになるのを知らなかった。この事件で、富岡高校がスポーツで有名を博する高校であることも知った。桃田はバドミントンの名門校へと、出身地香川から福島の富岡に進学した経歴をもっていた。
 今週に入って、福島県はオリンピック会場誘致に使っているパンフの回収を始めた。表紙に大きく桃田選手が使われているからだ。

300万円余りの損失となるらしい。楢葉の役場に行ったら、まだ海外版が撤収されずに残っていたので、もらってきました。
 ちなみに富岡高校は、原発事故から機能移転を余儀なくされ、今も猪苗代(いなわしろ)に間借りの状態だという。
 私は楢葉の酪農家・渡部さんの息子さんが、高校進学先として、バドミントン部があることが条件だったのを思い出した。彼はすでにこの春入学、部活を終えて帰宅するのは、毎夜7~8時だという。
 期待や信頼を裏切るというのは、そして余りに軽薄だというのは、こういうことなのだと感じた次第である。

 2 夜ノ森
 ここで何度か書いたし、ニュースでもご存じの読者も多いと思う。富岡・夜ノ森の桜は有名である。何度か訪れたことはあったが、桜の時期は初めてだった。

いい天気だった。満開の日だったのかな。そんな感じの見事な桜が出迎えてくれた。関東の桜と比べると、こちらは一週間くらい遅い。震災・事故前のこの時期は人であふれ返ったというが、この桜を見て、なるほどと思えたわけである。以前は(と言っても夏とか秋という時期だった)人影のまったく見えない通りだった。この日はまばらだが桜を見に来ている人たちがいた。通りの奥には、三脚を固定している人もいた。

こういう映像も残しておかないといけない。この反対側はゲートが控えている。警備員が、関係者か住民だけが持っている許可証を確認して門を開けるのだ。そこを通過すれば、もっともっと桜並木が続く。避難所で聞いた、仮設住宅でも聞いた夜ノ森の桜は、ずっと毎年咲いていたのだ。
 一昨年秋に来たときは、信号は幹線道路もみんな、黄色か赤で点滅していた。量販店の広い駐車場に、乗り捨てられた車と生い茂った雑草。あの当時は「牛に注意」という看板の通り、静けさを破って、道路に牛が走り出て来てもおかしくなかった。
 今回は国道の信号はみんな復活していた。去年最後に来たときも、多分そうだったはずだ。しかし、一本奥の道に入ると、信号は同じ色を点滅させていた。夜ノ森もそうだったので、写真に収めようかと思ったが、一枚目をご覧の通り、うまく撮れない。
 国道6号線の大熊/双葉間が復旧して、物流/工事は一気に加速した。去年の夏、渡部さんが案内してくれた時は、辺りは震災の傷跡がいっぱいだった。いまだに人影はまばらだ。しかし、それらは目に見えて変化しているように思えた。国道は、ダンプとワゴンで埋めつくされていた。

町の中心を流れる富岡川。土手の下に植えられた桜も満開だった。そして、富岡がまだ立ち入りの制限されていることを示すものが、この桜の下に残っていた。津波で川を上ってきた車だろう。手前の車の向こうに二台、あわせて三台残されていた。ここを一キロほど下ったところが海である。

 3 福島の米
 二日酔いだとかで、渡部さんは無精ひげを生やしたままの顔だった。楢葉に帰還して10日ぐらい過ぎたはずだが、居間の様子も前と違っている。私が着いて間もない、晴れた外をウグイス嬢の大きな声が、選挙カーから響いてくる。なんと5、6台も引き連れて、人影もまばらな楢葉の田野を回っているのである。
「少し顔出すか」
そう言って渡部さんは外に出る。すると、車の行列が行進をやめる。中から立候補者だろう、満面に笑みをたたえ、走って出て来た。いかにも顔見知りの間柄という空気だった。今週の日曜日は、楢葉の町長選挙なのである。ニュースで知ってはいたが、現職の判断した、
「楢葉の帰還は早すぎたのではなかったか」
という候補者が出た。どっちも自民系らしい。
 まだ帰還者は町全体の6%、400人と言われる。その中に渡部さんはいるわけである。しかし、
「去年9月の帰還宣言は早すぎたとは思わないんですよね」
という私の質問に、渡部さんは複雑な表情だ。そうはっきりと割り切れないということのようだ。
 割り切れないのはそればかりではない。牛/牧場、米づくりのこともだ。福島の米は現在、会津のブランド米は別として、多くがコンビニなどで使う「内食用」と、食堂/レストランなどで使う「外食用」として何とか生き延びている。もちろん通常価格からすると、とびきり安い値段で取引されている。「内食」を読者は知っていただろうか。私はニュースで見聞きしていたものの、忘れていた。そして、この「内食/外食」用の米に、TPPが追い打ちをかける。他国の安い米が食い込んで来る。それは全国の米農家にとっても脅威(きょうい)なのである。しかし、福島はそれを上回る不安/恐れで迎え撃たないといけなくなっている。
 やっぱりオレたちは何にも分かってない、またしてもそう思うのだった。

 3 「狭い」?
 渡部さんのカミさんと両親は、まだいわきの仮設に住んでいる。両親の介護/療養という点から考えて、まだいわきがいいという判断をしているようだが、そればかりではない。今、渡部さんが住んでいる楢葉の家を少し下ると母屋がある。地震で崩れたその母屋を解体して、少し小さめの家を建てる予定なのだ。
「それからだな、親をここに戻すのは」
ここでは狭いというのだ。え、狭い? 私は聞き返す。この離れの家は、いくつ部屋があるのか分からない。しかし、一体仮設住宅がどのぐらいの間取りだったのか、私は確かめずにいられない。
「3K」?
薄い板で囲った長屋の仮設だ。そこに一家5人が暮らしていた。開けた土地のこの家は、その何倍だろうか。でも私は納得した。そういうものなんだ、という気持ちでみんな暮らしていた。
「そういうもんだよ」
と言って渡部さんは笑った。


 ☆☆
首相の安倍が、今月5日に楢葉まで視察に来たそうです。
「楢葉町にも立ち寄られ……感想を述べられました」
とは、広報の一文です。こんな敬語なんか使って、気になって仕方がありません。柏の広報だったら、こんなことはないよなと思いました。

     お世話になっている「ふじ滝」から見た桜です。

 ☆☆
先週末、栃木の小学生殺人事件、判決が出ましたね。あんなに貧弱な材料で起訴に踏み切った検察にも驚きでした。しかし、判決にはもっと驚きました。そんなことを言うなら真犯人を示せるかだの、遺族の気持ちを分かっているのかなどという、トンマで間抜けな連中は一昨日来い!(古くてすみません)ですわ。もしかしたらホントに容疑者が犯人かもしれない。でも、どうひいき目に見ても、
「犯人だという理由がある」
という程度の容疑です。
またしても、カレー事件の林真須美を思い出します。あれは、
「こんなひどい女なら死んでもいい」
という判決です。
判決が間違いだったら……ですよ。

『ハックルベリーブックス』  実戦教師塾通信四百九十号

2016-04-08 11:21:30 | 子ども/学校
 『ハックルベリーブックス』
     ~柏の「とまり木」~

 ☆今日は柏の「ちょっとおしゃれなお店」を紹介します☆

 1 「別荘地の図書室」

 春満開の日、私は愛車マグナで『ハックルベリーブックス』に出向いた。フリーランスの大宮知信氏が、こういう本屋が柏にあるぞと教えくれたのだ。大宮氏が『夕刊フジ』だったかに連載している、二度目の人生を送っている人たちのコーナーで紹介したという。

柏中央郵便局正面、すぐ前の細い路地を十メートルほど入ると、この『ハックルベリーブックス』がある。愛車のお尻が写真の右下に見えます。
 外に開かれているこのたたずまいに、以前は知らずに通りすぎつつも、そそられたことを思い出した。
 店主の奥山恵さんは、都立高校の全日/定時制両方で先生をやっていた方。先生になる前から、かねがねやりたいと思っていた本屋を始めた。定年までまだずいぶん間があったのだが、始めたという。それが『ハックルベリーブックス』である。開店して六年だそうだ。

奥山さんに立ってもらった。まず気がつくと思うが、ちゃんと本の表情が見える。大切にされている本たち。奥山さんの、
「長年読んできた児童書の中から本当に良い作品をおこう」
という気持ちがにじんでいる。私の知らない直近の本から、宮沢賢治やケストナー、そしてなんと少年探偵団までと、実に幅広い。また、写真でも分かると思うが、店内のあちこちに置いてある小物もおしゃれだ。私もつられて「ごんぎつね」をイメージしたというスタンプや、猫のかわいい小物入れを買ってしまった。

店内は明るく、これが入り口付近のコーナー。この右手に、谷川俊太郎が来店した時の写真が飾ってある。
「別荘地の図書室って感じですね」
と言ってしまったあと、私はうまく言えてないかもと、少し後悔したが、
「そう言っていただけると」
と、奥山さんは言ってくれた。気取ったという意味ではなく、空気が柔らかく、時間がゆっくり過ぎていくように思える。
 イベントや会議に開放しているという二階に行くと、その感じがさらに確かなものに思えてくる。

外の広い通りの向こうが郵便局で、通りには車が行き交っている。でも、このテラスでコーヒーを飲んだら美味しいだろうなあ、と思える。今日もこの二階で、絵を趣味にする方たちが集まったという。
 満ち足りるというのがどんなことなのかを、本/読書は教えてくれる。
「死にたくなったら図書館にいらっしゃい」
とツイートした鎌倉の図書館職員のことを思い出した。彼女は、本/図書が流す空気の心地よさを伝えたかったのだ。図書/図書室には別な時間や場所がある。私は、この『ハックルベリーブックス』の中にもそんな空気を感じた。そして、水木しげるが任地ラバウルで、現地除隊を希望した(日本には帰らない)という話も思い出した。
「彼らは、文明人と違って時間をたくさん持っている。……その頃の彼らの生活は、二、三時間畑に行くだけでそのほかはいつも話をしたり、踊りをしていたからだ。……まァ優雅な生活というやつだろうか」(『水木しげるのラバウル戦記』)

 2 ごゆっくり
 今(舛添知事になってから)はどうなってるか分かりませんが、と前置きして、
「石原都政になってから、学校はずいぶんとかわってしまって」
と奥山さんは言った。仕事の量も増えたと言う。
 今はいじめやネットトラブル、また、職場でのセクハラ/パワハラ、そして教員の体罰とかいう問題が山積し、対応として仕事の増大という具合になっているわけである。世の中の流れに、子どもも親も、そして学校も翻弄(ほんろう)されている。悩みを抱える親が、こんな本屋さんに気づいてくれるといい。私は一瞬そう思ったが、そうではない。
「ここはむしろ、惜しみなく子どもに愛を注ぐ人たちが来る場所なんですね」
という感想をもらす。奥山さんは静かにうなずいた。
「ここには夢があるんですか。それとも薬があるんですか」
とは、私もつまらないことを聞いた。答えを言えず?に笑っている奥山さんは、本が好きな人の顔だった。

 柏近辺にいるのだったら、是非皆さんも、一度行ってみるといいですよ。ゆっくりしてらっしゃい、という空気に浸(ひた)りながら、あるいはソファに腰掛けながら、時間を「つぶす」といいですよ。

見事でしょ。手賀沼に行く途中の民家の木蓮です。


 ☆☆
ニュースで、新入社員研修の様子をやってました。電話応対の練習でした。
「あ、私は担当でないので、後ほどこちらから連絡差し上げます」
というもの。いやあ、感動しました! 絶対「連絡させていただきます」だとばっかり思ってましたから。ちゃんとした日本語を教えてるんです。
では問題です。どっかの週刊誌の見出し、
「消費税上げるべきか、上げないべきか」
だって! これ、ちゃんと言い換えられますか?
う~ん、あと最近気になるんですが、
「頑張ろうとは思います」
というような時の「とは」なんです。これは、以前よく聞いた、
「頑張ろうと思いますけど」
の別バージョンですね。イヤですね。結局自信がない。

 ☆☆
竹之内豊演じるダイワハウスのCM、分かりますか。あのバックを流れるリズミカルな曲いいなあ、と思ってた方に教えます。アルベニスの『アストリアス』です。好きなんです。昔は私、あの曲弾(ひ)けたんだけどと思って聴いてます。

これは松戸常盤平の桜並木です。桜さん、今年もありがとう!

白鵬の行方  実戦教師塾通信四百八十九号

2016-04-01 11:57:23 | 武道
 白鵬の行方
     ~白鵬、蘇(よみがえ)れ!~



 1 9年前
 多くの読者は覚えていないと思うが、ちょうど9年前の春場所を思い起こして欲しい。白鵬はまだ大関で、一人横綱を朝青龍がつとめていた。両者は千秋楽に、13勝2敗の相星(あいぼし)で優勝決定戦を迎えた。そこで白鵬が変化して朝青龍を制したのだ。座布団が乱れ飛んだ。つい先日の千秋楽を思い出すだろうか。しかし、2007年のこの日のことを覚えている読者は分かると思う。まったく事情は違っていた。実はこの日、もう一番「変化」の取組があった。
 前日の14日目、白鵬は朝青龍に破れており、すでに朝青龍との戦いは終わっていた。千秋楽、白鵬が琴欧州を倒し、最後の一番で朝青龍の結果を待つ。横綱が負ければ白鵬が優勝という場面だった。朝青龍と対するのは、千代大海。千代大海は、この相撲に自分の勝ち越しをかけていた。
 勝負は一瞬だった。朝青龍の変化に、千代大海は土俵の下にもんどり打って転がる。してやったりという顔の朝青龍は、決定戦のために力を残すという「おまけ」も手にしたのである。
 もう読者もお分かりだと思う。あるいは思い出したと思う。直後の決定戦敗北の後、負けた朝青龍は、一瞬不服そうな顔をしたが、すぐに苦笑いとなった。
「仕方ねえ」
ということだ。自分自身が直前にやったカッコ悪さを思い出すしかない。絵に描いたような後悔と無様(ぶざま)。対する白鵬の顔は、私に言わせれば「仏」のように見えた。
「勝てばいいのか」
「自分のしたことをよく考えなさい」
と、その姿は教え諭(さと)していた。場内の誰もがそう思ったはずだ。まあ、「変化」の一番を二度、それも千秋楽の優勝決定戦まで続けて見せられて、観客が怒るのも無理ないことではある。しかし私は、同じ「変化」でも「格が違う」ものがあるのを知ったような気がした。白鵬の姿は、すがすがしかった。

2 日本人以上に
 この時の優勝力士インタビューで、アナウンサーは、決定戦での変化と、それがもたらした優勝について聞かなかったと記憶している。聞く必要がなかった。仮に聞かれたらなんと言っていたのだろう。
「先輩の横綱がやっていたから」
「なんとしても勝ちたかったから」
と、この時の白鵬は言っただろうか。そんなものと白鵬は無縁だった。決定戦の白鵬には、みっともない先輩横綱をいさめる姿だけがあった。
 今回の話に戻ろう。確かに、先日の対日馬富士戦の白鵬の動きは、「変化」の結果ではない。日馬富士がよく見せる、上手を探(さぐ)る時の動きに対応しようと考えたものだろう。相手は怪我をしている。自分が後半に見せている力強い相撲に対し、真っ向から向かっては来ないのではないか、と考えた。しかし、相手は全力でぶつかってきた。少し身体をずらしただけで、勝負が終わってしまった。
 私は表彰式を見ないで、テレビを消してしまった。あとで、ヤジが渦巻くインタビューでの謝罪を知り、あわててニュースで見た。やっぱり違う。白鵬は器(うつわ)が違う。そう思った。しかし、である。
 その後の白鵬は、私に言わせれば「変化」した気がしている。
「稀勢の里も、今場所変化している」、そして、
「(相手の顔に手をかざすのは)自分も日馬富士に使われた」
とは、周囲が思えばいいことを、自分で語った。優勝した日の夜、そして次の日に続いたこれらの発言は、あの謝罪の言葉が一体どこに向けたものだったのだろうと、私たちに考えさせてしまったように思う。
 白鵬は稀代の横綱である。それは間違いない。野球賭博の時も、相撲界の危機を一心に支えた。あの後、技能場所と名付けられる場所がやって来た。シャッターが下ろされた国技館のお土産売り場、懸賞のない取組。そして天皇杯のない表彰式で、横綱は人目もはばからず大粒の涙を流した。また、妻の容体を聞かれると思い、優勝翌日の記者会見のキャンセルという出来事もあった。そして東日本大震災の後、すぐに東北を見舞った時の、
「やっとここに来れた」
「被災地の力になれる」
とでも言うかのような、あのさわやかな横綱の顔を、私は、いや私たちは忘れていない。
 「日本人の見本」と、私たちは思ったのである。
 先だって、
「日本人の優勝」「悲願の日本人の横綱」
などという、相撲に大して思い入れのない連中が起こした興奮があった。しかし、明治維新の「断髪令」の折り、相撲力士の髷(まげ)を残した、
「大久保利通という方に感謝します」
と、白鵬以外に誰が言ったというのか。私たちの誰がその事実を知っていたというのか。技能場所の時、
「天皇杯が抱けないからと悲しむ力士は、白鵬だけでしょう」
と言ったのは、確か北の富士だったと思う。

 3 蘇(よみがえ)れ、白鵬!
 白鵬の口から出てくる言い訳めいた言葉は、迫る体力の減衰(げんすい)と、いまだ低い自分への認定度に焦(あせ)るからだろうか。先月6チャンネルで放映された白鵬のドキュメントで、白鵬の身体が満身創痍(まんしんそうい)であることを知った。普段見ることのなかった腕のサポーターが、そのことを知らせている。そして同じく、番組の中で「一代年寄り」への思いを自分で口にする理由を、
「自分が言わずに誰が言う」
と語った。「独(ひと)りから来る焦り」を見る思いだった。
 相撲界のしきたりや流儀を私たちはまったく知らない。しかし、知らない私たちでも、白鵬の「行方(ゆくえ)」を追いたいと思うのだ。それは技(わざ)というものの「円熟」であり、人としての「成熟」である。おそらくこんなことは、白鵬以外に求められないはずだ。白鵬への私たちの期待度は、とてつもなく高い。だがそれは、白鵬自身が作り上げて「しまった」ものだ。
「『後の先』なんて言ってないで(力で取る)」
というのは、明らかに白鵬の軽口だ。これはどうやら、記者たちから知らされた「千勝」という数字がそそのかしたもののようだ。しかし、双葉山への尊敬と憧れを退(しりぞ)けたわけではないだろう。
 多彩な技の中でこそ「得意技」が生きる。相手の得意な取り口を用心してもかかってしまうのが「技」だ。そんなことは白鵬は先刻ご承知だろう。しかし、白鵬のブログで編集されていた双葉山の取り口は、「後の先」のオンパレードである。
 近代空手の祖・富名腰(船越)義珍の、
「空手に先手なし」
という言葉を、スポーツ空手の世界では、
「受けた後に攻撃に転じる」
という解釈をする。そうではない、と異を唱(とな)えたのは、義珍と世代も出身も同じくする、本部朝基である。本部が言うことは簡単なことだ。相手の攻撃を待つ間というものは、自分の反撃を計る間でもある。それは交差する。相手の攻撃と自分の反撃が前後してしまうことがあるのだ。
「空手に先手なし」
の言葉の深みを知れ、と本部は言ったのである。

 蘇(よみがえ)れ、白鵬!


 ☆☆
さんざん気を持たせた春がようやくやって来ました。長い間、ストーブありがとう。分厚い布団よさようなら。手賀沼ふるさと公園のお昼に、たくさんの人が春を見に来ていました。


これは我が家の庭のはな桃と木蓮も満開。ヒヨドリの野郎が、木蓮を毎年食い荒らすのが悔しいです。

 ☆☆
館山いじめ事件の第三者委員会が始まりました。第一回の概要が館山市のホームページに掲載されてます。二ページで、内容も事務的なものがほとんどです。良かったら読んでください。あえてまだ、論評は控えたいと思います。
http://www.city.tateyama.chiba.jp/files/300308261.pdf
最後にこれ、水戸の夕日が沈む千波湖です。