実戦教師塾・琴寄政人の〈場所〉

震災と原発で大揺れの日本、私たちにとって不動の場所とは何か

仲間再び(下)  実戦教師塾通信四百三十一号

2015-02-27 13:46:37 | 福島からの報告
 仲間再び(下)
     ~「もう会えなくなると思うと」~


 1 3,11

 集会所を温(あたた)め、お茶を用意して、おばちゃんたちは私たちを待っていた。大型のタッパーには作りたてのごま和えとサラダ、そして、キュウリと山芋のぬか漬けが用意されていた。
「この間、美味しいって言ってたっぺ」
だからまた作って来たんだよ、とごま和えを勧めるおばちゃんの言葉に、
「先生、愛されてますね」
と言いながら、仲間がお茶請(う)けを小皿に盛る。座りなよと言われ、立食の形だったみんなは、部屋の隅(すみ)にあったパイプ椅子を用意する。二重の車座。
 おばちゃんたちが、あの日の話を始める。「始める」というより「始まる」と言った方が正しい。集会所にひとりやふたりしかいなくても、やはりおばちゃんたちはあの日を話す。つらくて口を閉(と)ざすひとと、つらくて話さないといられないひとがいる。おばちゃんたちは後者なのかも知れない。
 久之浜を津波が襲(おそ)って、動けない旦那さんを置いては逃げられなかったおばちゃんが、旦那さんと二階まで逃げた時のことだ。私はもう百回聞いたと言っても大げさではない。そのたびに圧倒される。しかし、何度聞いてもやっぱり、私なんかには分からない。一方、そのたびに「命からがら」とか「生きた心地がしない」経験に、いくらかでも近づけるのかも知れないとも思っている。
 防災無線のない中で、二階に逃げた、いや置き去りにされたと言った方がいいのかも知れない、あたりから消防や人々の声がだんだんと遠ざかっていったのだろうか。私はいつもその話に、すぐ下の一階を渦巻く瓦礫(がれき)と波の音ばかりが聞こえて、そばにいるはずの旦那さんの声を聞いた気がしない。
 目の前で津波に流される家のひとつから火が噴(ふ)き出し、それが隣の家にぶつかって、爆発するように隣の家も燃えだす。大きな炎の渦が流されていく。
「怖かった」
おばちゃんは、たったひとりで恐怖に耐えながら、二階からこの修羅場を身じろぎもせずみていた。どす黒い雲と波をじっとみつめ続けるおばちゃんの姿が、いつも暗い中に浮かびあがる。一体どうやって旦那さんを二階まであげたのだろう、この日も結局分からなかった。おばちゃんが忘れているのか、記憶から消しているのか。
「次の日、波が行っちまったあと、若い人がみっけてくれてさ」
一階部分は壊されたが助かった。高台の避難所まで運ばれた。おばちゃんが担(かつ)ぎ込まれると、
「良かった良かった」
「だめだと思ってた」
と、無事だったみんなが声をかけた。
 気がつくと、集会所にいる仲間の何人かが、何度も顔を手で拭(ぬぐ)っている。被災地は初めてだという仲間は、この日ふたり。また、こうしておばちゃんたちから話を聞くのは、みんな初めてだ。話してもらえて良かった。
「体調を崩(くず)してさ」
というおばちゃんは、顔を手に持たれかけるように話した。一週間後に控えた引っ越しの段取りやら荷造りや、そして気疲れもあるのだろう。いつもと違うおばちゃんは、あの日の話に力が入っていたように思えた。
「久之浜は、あれから一カ月と少し、警戒区域になって屋内退避(おくないたいひ)だったんですよね」
と私は言った。原発から30キロ圏内に、久之浜の一部がかかっていた。しかし、おばちゃんがよく分からないといった顔をする。そうか。私はこの日初めて知った。おばちゃんたちは何も考える余裕などなかった。命からがら逃げ延びた。きっと、
「原発とかなんとかではなかった」
のだ。今も薬に頼る夜が多いという。
「思い出すとさ、寝られないんだよ」
というおばちゃんの夜は、毎日やって来るのだ。
 かんぽの宿で津波に襲われたおばちゃんが話す。消防車がおばちゃんたちのマイクロバスに横付けし、津波をブロックしている間に、消防士がおばちゃんたちを救い出す、あの話だ。仲間がまた手で顔を拭う。私はそうだと思い出し、正月にブログで報告した話をする。二度の脳梗塞で寝たきりになった、柏の人の話だ。
「津波で助かったおばちゃんが『あの時死んでれば良かった』って言ってるって、その人に言ったんだ」
「そしたら、そのひとが、『それは違う』ってよ」
「神様が『生き残れ』って残したんだって」
「『そう言っといてれ』って言われたよ」

 そんな会話の間をぬって、
「もう会えなくなるのがと思うどよ」
別なおばちゃんがつぶやく。
「もうこごに来てくんねえがと思うどよ」
とつぶやく。ふいをつかれたような気がした。そんなことはないと言おうとするが、言葉が出なかった。おばちゃんはそんなことを言いたいんじゃない、だから私も、また来ますよと言ったところで、それがなんの答えにもなってない気がした。返す言葉が見つからなかった。あとで仲間が、
「あの言葉、胸のふか~いところにずーんと来ました」
と言っていた。そうだった。深いところにずっしりと。
 長い沈黙が集会所に流れた。私も顔を拭いそうになる。誰かなにか言ってくれ、私は何度も思った。

「そっか。『死ねば良かった』ってことじゃねえんだな」
さっきのおばちゃんが、ずいぶんと間を置いてそう言うのだった。このおばちゃん、耳が遠い、足も不自由で歩行器で歩いている。でもみんな分かってる。今になってさっきの会話の答えである。嬉しい。ありがたい。
 それで私もやっと気がつく。この瞬間、おばちゃん頑張るよ、オレたち頑張るからと、私(たち)は思ってる。そして、いつも思っているのだったと気がつく。これなのか、おばちゃんたちが生き残ったということは、と気がつくのだった。
 後ろから様子を見ていたおじちゃんが、おばちゃんたちの脇に来て話し始めた。みんなオレたちのことを覚えていてね、忘れないでねを繰り返す。いつも冗談を言ってばかりの人なのだが、まじめに話し続ける。嬉しくてね、やっとここを出られるんだよ、あとで顔いっぱい笑いを作ってまた言うのだった。
 いつも通り、おばちゃんもおじちゃんも、みんな集会所の中でお別れする。
「おばちゃんと固い握手」
「またごま和え食べに来るね」
良かった。外まで見送られたら、ホントに最後みたいでホントに困った。でも良かった。いつも通り、みんな集会所の中で、またねのあいさつをする。


 2 幸せです
 社会福祉協議会(社協)の所長さんお勧めのカラオケ「シダックス」が、この日の反省会会場だ。私の愛用する旅館「ふじ滝」は、いつも現場の人たちでいっぱいのこの頃である。
 ほとんどが教え子の仲間たちとは、今回も昔の話がからんだ。いきなり私の結婚(の失敗)に突っ込みが入るとは、そして、
「その時の教訓を生かしてるとは思えないね」
とはどうよ。自分こそどうなんだ、と言いたくなるようなこいつは、中学校の時、信じられないくらい男からもてた。こいつが普段使ってる車はゴミでいっぱいである。
「でも、私にはみんなゴミじゃないの」
と、相変わらず淡々と言うのだった。周りから見ると、
「夫婦じゃないの」
と思える空気を存分に漂(ただよ)わせる相手?の乗ってきたのは、この日も赤い車だった。ていうか、ムスタングだった。
 ってまあ、そんなことはどうでもよろしい。この日のお醤油のやりとりの中で、みんな今回もたくさんのことを受け取った。この日の朝、
「4年もたってしまっているのに、今さらのような気持ちで」
「とっても緊張してます」
と言った仲間も、お醤油を受け取る時の皆さんの笑顔を語るのだった。ひなちゃんはいつの間にかソファの上で寝ている。そして、みんなのストレートな語り口が続く。
「また海岸に戻って暮らしたいと思うのかな」
「私たちバツイチどうしで」
「マサトの誕生日、私たちのサプライズで泣いて」等々。
ちなみに「マサト」とは私のことです。あの時、帰りの会で計画されていた私のハッピーバースデーに迂闊(うかつ)にも涙したのだが、ここには様々な伏線(伏線)があって、とだけ言っときます。それにしても、サプライズなら、あの時とあの時もと様々な出来事が、居並ぶみんなの顔を見ては蘇(よみがえ)った。そんなことを思っている時、
「先生、幸せでしょう」
「こんなに教え子に囲まれて」
という言葉が舞い降りた。教え子ではないが、教え子の相棒が私にそう言うのだった。こんな幸せな先生はいないんですよ、分かってますかと言われた気がした。
 ありがとう。そしてありがとうみんな。私は幸せです。


 ☆☆
ひと区切りの物資支援です。この場を借りて、今まで支援してくださった皆さんに御礼申し上げます。大変な時を過ごしている被災地の皆さんの力になれればと思いながら、逆に力をいただいてきました。仲間のみんなも同じだったようです。あわせて感謝したいと思います。また、このブログの読者の皆さんにも力をいただいたと思っています。ありがとうございます。
もうすぐ5回目のあの日がやってきます。「覚えていてね」を胸に刻(きざ)みたいですね。

 ☆☆
川崎の事件の容疑者つかまりましたね。警察も相手が未成年ということで、相当慎重に進めたことがうかがえます。いつか改めて書きたいと思ってますが、とりあえず、周囲に包まれた、この目隠しのようなベールの正体がはっきり見えます。そして、若者が迷路に入り込んだ時どうしたらいいのか、ということがこの事件では問われないといけない、そう思います。

 ☆☆
イチロー、いよいよキャンプインですね。嬉しい。応援します、じぇったい。

仲間再び(中)  実戦教師塾通信四百三十号

2015-02-20 11:26:02 | 福島からの報告
 仲間再び(中)
     ~阿武隈(あぶくま)下ろし~


 1 「ニイダヤ」のラベル

 雪や雨にたたられずに良かった。でも、風はぶうぶうと吹いた。阿武隈の方から遠慮なく、ぶうぶうと吹き下ろしていた。仕事で徹夜明けの仲間や、ひどい風邪をおして来た仲間を初め、みんな仕事や子育てをおいて、または子連れでやって来た。申し訳なくありがたい。
 「みちの駅よつくら」に集まった仲間はみんな、突風ふぶくニイダヤでのランチを想像し恐(おそ)れたが、違っていた。社長は、本当なら私たちが立ち入り出来ない工場に、テーブルを用意してくれていた。普段社員は、白衣とマスク、それに帽子を装備して動いている工場である。かたじけない。
      
「まさか今日も冷や汁じゃないよね」
夏のランチを思い出しながら、冗談を言っていた私たちだった。あったかい豚汁についたのは、サバと帆立てだった。そしてこの写真の上に、さらにイワシのみりん干しが添えられた。
「味噌汁とご飯はお代わりありますよ~」
社員さんが声をかける。
      
 風邪にやられた社長は、食事半ばになって顔を出し、この工場再開への思いを改めて話した。ニイダヤ水産を示す「福島」と「波」のラベルにこめた思いである。東京に品物を置くにあたって、先方は、この「波」が「津波」を思い起こさせるからやめて欲しいと言った。さらにもちろん、福島県の形をしたデザインのラベルは、大変な決意だ。
 そして新製品の宣伝。以前ここでも紹介したが、火を使えないプレハブからやって来る作業員や、お年寄りの要望で開発した「焼き干物」である。本当はすでにあちこちのブランドでやっているが、ニイダヤの開発の動機は、そういうことがあった。食べる時は真空パックに少し切れ目を入れて、レンジで温めるだけ。ちょうどよく焼いてあるから、ホントにうまい。
      
みんなすごい、すごい、すごいいっぱい干物をおみやげを買う。
 ネットでの販売はやめたんですスミマセン、という受け付けさんの声。注文用のファクス用紙をもらっている仲間。そして、
「ねえ、あたしここに手紙出したんだけど」
「干物おいしかったって。その手紙届いた?」
という仲間の声も聞こえる。社長は困ったように髪のさみしい頭をかいている。こういうところがいつもずぼらだ。
 みんな外に出て、さよならのあいさつをする。社長も社員も、入口から顔だけ出す。身を切るような冷たい風が、外でぶうぶうと吹いている。


 2 今まで有難う御座いました
 予想にたがわずというか、集会所の扉は閉まっていた。仲間を外に待たせ、私は会長の部屋に小走りで向かう。ようやく集会所が開いたころ、おばちゃんたちがお茶と手作りの品々を持って、怒った顔してやってくる。怒る理由は分かってる。そのおばちゃんたちが私たちを見ると、
「遠いとこからどうもね~」
と、相好(そうごう)を崩(くず)す。いつもの平日だったらお茶碗の10や20は使い放題だ。それがこの日は土曜日という理由で、おばちゃんたちは気兼ねして、わざわざ紙コップを買ったのだろう、みんな手に手に運んで、テーブルに並べ始める。私は、こんなバカなことになる、たったひとりの身勝手な不届き者に憤(いきどお)る。でもそれより、やっぱりおばちゃんたちの優しさの方に胸が一杯になるのだった。
「お茶一杯やってから始めれば」
「っても、今ポットのスイッチ入れたばっかりだっぺよ」
と相変わらずのやりとりが、おばちゃんたちの間で始まっている。
 この日は品物がひとつ増えた。この日の手伝いを出来ないが、
「自分も微力だけど、なにか出来ているのかも知れない…という気持ちを感じさせてもらったお礼もしたい」
と、仲村トオルからバレンタインのチョコクッキーが届いていたのだ。
「風も強いし、外に出ての写真は無理だね」
集会所での記念ショットとなった。
      
 さあ始めよう。長くなりそうな会長の話を遮(さえぎ)って、私は三つに分かれるグループのリーダーに、仮設住宅の地図を渡す。
 私はみんなの動きの見える仮設の中通りをうろつく。コートの襟(えり)を立てて、でもみんなは笑顔で醤油とチョコを、
「寒いですね」
「これから引っ越しですか」
「風邪はひいてませんか」
と言いながら、入口で渡す。あたたかなやりとりが聞こえる。驚きは、
「今までに感謝です」
と、この日のためにチョコレートを用意してくれていた家。また、留守の入口に、
「いつも有難う御座いました。お互いに体に気をつけて頑張りましょう」
と張ってある手紙。

「マジ(ホント)っすか!」
と言って、仲村トオルからのチョコに興奮した若い子。
 また、夏に仲村トオルと撮った写真を見せて、
「よろしくと言ってね」
と言ったおじちゃん。あれから半年。
「あの時いた人たちがいなくなって、仮設が空き家だらけで驚いた」
反省会でこう言った仲間は、こんなことは筋違いだとは思うけどと前置きして、
「まるで自分が取り残されたような気がした」
と付け足した。別な仲間は、
「空いた家の窓の向こうに、向こう側の通りと家が見えてしまう…」
と、仮設の造りと暮らしにため息をついた。そしてまた、炬燵に臥(ふ)せったままの、老いた二人の部屋を気づかった仲間たち。

「まだこれからもしばらく居るんですねえ」

みんなそれぞれ驚きと心配と、そして感謝を胸に集会所に戻る。戻ろうとする私に、
「おお、コトさんかい」
「いよいよあと一週間だよ。やっと出られるんだ」
と、嬉しそうに声をかけるおじちゃん。  
 夏にも参加した、愛想と行儀のいいひなちゃんは、両手にたくさんの「お礼」を抱えていた。


 ☆☆
今回が「下」の予定でしたが、やっぱりそうはいかなかった。次回が「下」となります。集会所でのおばちゃんたちの話は、ブログで何度も書いたことなのですが、じかに聞くのはやはり違う。強烈な印象だったのです。あと反省会の様子を報告します。

 ☆☆
所沢市内学校のエアコン問題、設置賛成が多数となりましたね。原発事故を「快適で便利な生活を見直すきっかけとしたい」とした市長の考えを、私は立派だと思いました。投票率が過半数でないと成立と認めない、そして結果の開示もしないという、一昨年の小平市長(道路整備計画)の姿勢とはまったく違っています。
それにしても、基地の騒音があるわけでもないこの近辺の学校に、エアコンが当たり前というご時世です。なんてこった。窓を開け放って風を求めることもせず、日陰や木陰を探すこともなく、校舎内にじっとこもる子どもの生活を考えると、ぞっとします。そして、夏の空に、熱気をムンムンと吐き出す大型のファン。私としては柏も千葉市も踏ん張れ、という思いです。

 ☆☆
設置から1258日に及ぶ、経産省前の原発反対テントが撤去される勢いです。先日、突然裁判が打ち切られ、判決(多分26日)という流れになってます。23日(月)に、テント前で反対の記者会見が予定されてます。

(続)危ない  実戦教師塾通信四百二十九号

2015-02-13 11:52:48 | ニュースの読み方
 (続)危ない
    ~多くの反応をいただいて~


 1 消防士

 297号に、色々な反響をいただいた。どれも現在の状況に危機感を覚え、発せられたと思われるまじめな内容だった。しかし、気持ちは分かるが、肝心な部分はしっかり押さえたいな、というのが私の思ったところだった。
 少し時間をおいたので、知らなかったことも出てきたし、政府の発言にも少し変化が見られる。
「いてはいけない」
「行ってはいけない」
なる対応が、ようやく政府から出始めた。「ようやく」だ。いの一番に出たのは、
「許しません」
「闘います」
だったことを覚えておくべきだ。治安と武力の強化が第一にされた。これらが、私たちのはやる気持ちを挑発したと思った方がいい。
「火事があったら、消防士が火の中に入って救出活動をしないといけない」
とは話されたが、火事場のことは話されなかった。
「火事は海外だった」
ことをスルーしていたのを、誰も指摘しなかった。そして、
「火事の原因を究明し、対策を講じないといけない」
ことも話されなかった。

 
 2 スカーフ禁止
 まず、各メディアは、イスラム国の凶行批判に終始した。少し時間が経(た)って、冷静をわずかばかり取り戻した。そして、パリでの新聞社襲撃事件について、
「命を懸けて風刺画をやるものなのか」
「絵そのものは品のないように思える」
と、当たり前のことを語れるようにもなった。
 ネット上に出てきて思い出した人も多いと思う。原発事故の後に、足や手が三本になった力士が相撲をとっている絵だ。あの絵を描いた漫画家が、今回のシャルブ襲撃の時、新聞社で殺されている。あの絵は、原発事故があったというのに、オリンピックにうつつを抜かしている日本に向けたメッセージだったという。しかし私たちは、そんな指摘が込められていることなど知らなかった。それ以前に、あの絵からとんでもなく下品で無神経なメッセージを受け取ったからだ。あの時日本政府は、抗議文を送っている。しかしなぜか、当時の話とこの漫画家の受難が、公式に上がっていない。
 もうひとつ思い出したことがある。2004年のフランスにおけるイスラム教徒のスカーフ禁止法、である。公立学校に通(かよ)う女子生徒はスカーフをしてはいけないという法律を、当時の大統領シラクが提案している。
 おそらく相当に深いところに根っこがある。私たち日本人からすれば、スカーフごときファッションに、国が介入するのは変だということになる。しかし、ブルカ(スカーフ)着用が、イスラム法で規定するものだということであれば、それはフランスを凌駕(りょうが)する事実ともなる。「自由/平等/博愛」をうたいながらも、みずから「一級国」と称するフランスが、それを認めるのは難しいに違いない。追い打ちをかけているのが、長年に渡る移民政策の失敗だ。国内の少ない求人状況で、若者の不満の捌(は)け口は、結局「弱い」ところに向いている。ネオファシストの一部が、イスラム国に流れたという観測は間違いないと思われる。


 3 海外での戦争
 少し付け足せば、イスラム国のうたい文句と言える「忠誠」と「排他」は、ヨーロッパの歴史とも言える。欧米の歴史は、「わが国が『一級国』である」とするための歴史だったと言ったら言い過ぎだろうか。古代ローマが、ラテン語を唯一のものとしたように、フランスが自分たちの言葉を唯一のものとし、ラテン語を使用禁止としたのは、16世紀前半である。

「我々の言語は明晰(めいせき)……もっとも支障のない語順をもって……」
「同時に、我々の言語は美しさと優雅とにおいていかなる他の言語に劣(おと)りはしない」(『ポールロワイヤル文法』)

一体、どの母国言語も、その民族にとって「明晰」で「支障ない」ものだし、おそらくは「美しく」「優雅」であるとまで行かなくとも、そうありたいと思っているはずだ。私たちは、海外渡航者や生活したことのある人たちから、
「フランスで英語を話しても相手にされない」
とは、よく聞かされたところだ。ヨーロッパの病根は、ずっと深いところにある。
 先の「スカーフ問題」を、こういったプライドのフランスに的(まと)をあてたらいいのだろうか。それとも、自国の法律を遵守(じゅんしゅ)する人たちに的をあてたらいいのだろうか。
 どちらに軍配をあげるにせよ、私たちは、
「テロに屈しない」
なる単純な世界にはいない、という認識は必要だろう。ヨーロッパのたどった歴史と、イスラムの世界とがきしみあっている、その中で事件は起きている。海外での戦争を見る時、そこには自分たちの知り得ない出来事/歴史があるという、当たり前のことを私たちは踏まえるべきなのだ。


 4 「行ってはいけない」をめぐって
 新潟在住のカメラマンが、シリア渡航を止められたことが話題になっている。カメラマンが、まるで政府関係者から拉致(らち)されるのではないか、と思えるようなきわどいレポートは、その後、
「報道の自由を侵害するのではないか」
「誰が現地を取材するのか」
と結論づけるものが多い。一方、後藤さんの死から(と思われるが)三日後、自民党の高村副総裁は、
「後藤さんにむち打つつもりはないが、後藤さんの行為は『蛮勇(ばんゆう)』と言うべきものだった」
と言っている。「自己責任」ではすまされないものがあると言うのである。どっちが正しいのか。
 どちらも正しいと思える。「行ってはいけない」と言うのは国ばかりではない、周囲の人間も言わないといけないし、言ったに違いない。止めないといけない。多くの人が悲しみ傷つく。
 しかし、それでも行くという人を誰も止められない。それがこのカメラマンの正しいというか、正当性だ。カメラマンに言わせれば、もっと悲しいもっと傷ついている人たちがいる、自分の命と引き換えしてもいい、もっと大事なことがあるのだ、と言うのだろう。
 ちなみに言えば、「難民」とは、戦地を逃れてきた人たちだ。「(ここに)いてはいけない」思いで逃げてきた人たちだ。「いてはいけない」思いは、戦場でも同じなのだ。そのことは両者共に、とりわけカメラマンは踏まえないといけない。
 これら報道の中で、ひとつだけ間違っているものがある。「報道の自由」うんぬんを、伝家の宝刀ならん勢いで出している連中だ。自社の方針やいかに、と私は思うのである。では、あなたの会社はどこまで記者を派遣しているのか。シリアのどこまで派遣しているのか、ということである。その時の
「ここまでしか派遣できない」
という留意事項はどんなものか。これらすべては、
「報道の自由は必要だ」
を言う立場からすれば説明しないといけないことだ。これらをまったく考慮せずに記事を書いているとしか思えない。こういうのを、
「本当のところ、どう思っているか分からない」
と言うのである。少しずれるが、2011年、
「(原発から)30キロ圏外は安全」
と報道しておいて、自分たちは50キロ圏外に避難していたことを思い出す。

 平和憲法は私たちが作ったものではない。前も言ったように、そこに『帝国日本』が二度と立ち上がれないように、というねらいがあったことは間違いない。しかし日本は今、大急ぎでその『帝国』を復活させるかのようだ。
 「空手に先手なし」とは、近代空手の祖・船越義珍の言葉だ。かかって来たら避けねばならない、それから初めて反撃に転じるものだという教えだ。それは相手の攻撃があってのことなのだ。「行ってはいけない」。


 ☆☆
ポールロワイヤル文法なるものを持ち出したので、また「国語の先生は違うね」という声が聞こえそうで、ヤですね。これはフーコーやチョムスキーを読めば出て来ますが、分かりやすく、こんなものは国語とは関係がない、と言っちゃいます。
あと、アジア/日本でも「一級国」問題はあるわけです。とっても複雑でかつ非常に面白いと思っています。いずれ話題にしたいと思ってます。

 ☆☆
前回お知らせしたように、明日は第一仮設住宅への「区切り」の支援です。仲間と一緒の様子は次回にお知らせします。
そして、あとひと月で、あの日からまる4年。前から気になっているんですが、あの年の3月半ば、つまり原発事故の直後、柏に大量の「花粉」が降りたんです。不安になった市民/住民から、市役所や保健所に問い合わせが殺到しました。その時の答えが「花粉」だった。あの前もあのあともそんなことはなかったんです。あれは何だったのでしょうか。

仲間再び(上)  実戦教師塾通信四百二十八号

2015-02-06 11:26:44 | 福島からの報告
 仲間再び(上)
      ~「遊び」に来て~

 ☆☆
火曜日に臨時発行しました。まだ読んでない方、よかったら読んでください。

 1 復興住宅

 初めて復興住宅にお邪魔した。
「いやあ、遠いところからありがとうございます」
私が建物の間の広い駐車場をうろうろしている間、おばちゃんは風も強いのに、迎えに出て私を探していた。杖(つえ)をついてはいるが、いつものしっかりした足どりだ。広い広い駐車場だ。大きな大きな復興住宅だ。
      
 すぐ近くに部屋はあった。頑丈だが、扉の重いのが気になった。私と入れ違いに、初めて顔を合わせる息子さんの奥さんは、犬の散歩に出かけるのだった。仮設住宅では別々に暮らし、ここに来て同居を始めた。お嫁さんの後ろ姿を見ながら、新しい生活はお互いにずいぶん大変なのだろうと思う私だった。
「こんな寒い中、男の人たちはよ、外のベンチでしゃべってんだよ」
この間の電話の時と同じことを、おばちゃんは言った。でも、ようやく集会所を開放するきざしがあるようだ。
「不思議なもんだ、仮設住宅でなじみの人と再会した時は、あれほど『懐かしい』って思ったのによ」
「ここに戻ったら『やあ』『どうも』ぐらいなんだよな」
「なじみの場所ってことは、そんなもんなのかな」

 息子さんの話となった。当時、海沿いのレストラン勤務だった息子さんは、あの日、津波に足をさらわれながらガスボンベの元栓を締(し)めたという。今、そのレストランは同じ場所で再開したが、もうそこには行かないという。
「いろいろあったらしいよ」
おばちゃんが話すリビングからは、台所の大きな冷蔵庫が見える。赤十字の支援物資だ。テレビは赤十字からもらったものよりずっと大きいのが、炬燵(こたつ)のそばにそびえていた。津波から逃げる時、家からなんとか持ち出したものだという。炬燵から外を見るが、目の高さまである壁が邪魔していた。
「津波の前に住んでた家は、入口も部屋も全部開けっ放しだったよ」
「みんな勝手に上がり込んでお茶飲んでたけどさ」
「今はそうは行かねえなあ。みんな閉(し)めっきりだよ」
 私は、散歩から帰ったお嫁さんに、お邪魔しましたも言えず外に出た。マンションと同じ造りの部屋は、しっかり部屋の仕切りを作っていて、その向こう側の沈黙が、入口の扉のように強く思えた。


 2 双葉地区の今
「去年は暮れの外泊願を申し込まなかったんだよ」
「去年の12月って寒かったろ。だからさ」
そう言って楢葉の渡部さんが、一昨年の暮れの話をしてくれた。電子レンジと電器がまがあるから、米を炊いてこっち(いわき)で買って行ったものをあっためる、暖房は炬燵とカーペット。
「お風呂はどうしたんですか」
私が聞くと、渡部さんはニコッと笑って、
「ほら『しおかぜ荘』があっぺ」
と言った。前書いた。私も体験した、あの電源三法で運営されている、温泉つきの総合施設だ。暮れに皆さんが帰宅する時は、特別に夜の8時まで開いているのだそうだ。
 気になっていた新米だが、不検出だったそうだ。ただし、四袋だけ出た。50~75ベクレルだったそうだ。ん?食品は100ベクレルまではよかったのではないか、私は思った。
「いや、米は主食だから、他の食品とは区別して、水や牛乳と同じなんだよな」
忘れたのかな。この日の私の「無知を知る」一番目である(一応あとで調べたが、厚生労働省の出した基準値に、米の特別扱いはなかった。しかし、50ベクレル以上では基準値オーバー。審査を通らなかったことは事実である)。
 二番目は、中間貯蔵施設だ。この一月に廃棄物運搬を始める予定が、五月までずれ込んだ。大きな理由は、候補地(大熊/双葉)の地権者が、候補地を「売るのでなく貸す」ことを主張しているからだ。
「(国に土地を)売ったら、国はそこを中間貯蔵地でなく最終処分地にする」
と思うからだ。それにしては、廃棄物の運搬を試験的にやることが、ニュースになっている。運ぶ先の土地は、民間会社が提供するという。
 すでにここまでの情報でも、首都圏にいたら分からない。そしてさらに、施設が出来てもいないのに、運ぶというのがさっぱり分からない。
「運ぶ時のルートや道路の状況を調べるテストらしいな」
町政説明会にまめに出席している渡部さんだから分かる。

 今年の秋は楢葉の米を食べたい、そしていつか、渡部さんの牧場でとれた牛乳を飲みたいと勝手に思う私だった。


 3 「連れてきて」
 第一仮設で、おばちゃんたちのごま和えやお新香をいただき、雑談する。
「うちの嫁と来たら、百歳のばあさんでも着るような地味な服買って来てよ」
「一体オレのこと何歳だと思ってんだ。まだ92歳だど」
などという悪態を聞いて笑って、集会所をあとにする。

 私たちが4年以上続けてきた支援だが、2月14日(土)で「定期的な物資の支援」を最後にする。特に必要な時がくればやると思うし、物資の支援でないことも仲間と考えている。
 ひと区切りということを考え、いわき社会福祉協議会(社協)に出向いた。ずっと顔を出していなかった。2011年当時は意見に食い違いもあって、ぶつかったこともあったが、所長さんは懐かしそうに迎えてくれた。
「今度は『自分の家』にしないようにしたいんですよ」
と、復興住宅の集会所の扱いについて言った。私が集会所の開放を訴えたことに対して言ったことである。私もなんだか、あっちに行ってはうなずき、こっちに来ては納得、みたいなことをしている。いい加減だなと自分のことを思いつつ、確かにみんなが集まるというところには、色々な問題が発生するわけだなと感心したのである。でも、「自分の家」にせず、みんなが気軽に集まるというのは、どっちみち難しいことだと思った。昔のコミュニティの強さと狭(せま)さは、良くも悪くもあるようだ。
「これからは支援という形は終わりにしたいですね」
私が2月14日での「区切り」を言うと、所長さんは言った。私が不思議そうな顔をすると、
「福島に遊びに来て欲しいんですね」
と続けるのだった。どんな「遊び」の形がいいのだろうと、私はぼんやり思うだけだった。
 やがて所長さんはニッと笑って、
「今度、仲村トオルさんをここに連れてきて下さいよ~」
と言うのだった。私が連れて来たわけではないですよ、と言うしかない。でも、所長さんは『ビーパップ』からずっとご贔屓(ひいき)の世代が、ここにはいっぱいなんだ、と言ってまた笑った。


 ☆☆
そんなわけで、夏に続く仲間みんなの支援第二弾です。2月14日(土)、みんなで、第一仮設の皆さんにお醤油を配ってきます。今日のタイトルに「上」とありますが、次回のまた次に、その時のことを「下」で報告します。

      
           春のきざしを告げる手賀沼。あったかな日でした

 ☆☆
先週のイチローのインタビュー、いやあ、
「『これからも応援よろしくお願いします』とは絶対言いません」
って、いいですねえ。イチローの決意を感じたと言うより、痛烈な皮肉だと思いませんでしたか。私は胸がすく思いでした。

危ない  実戦教師塾通信四百二十七号

2015-02-03 15:27:59 | ニュースの読み方
 危ない
     ~開かれていた箱~


 1 開かれた道

 今度はなにをするというわけにも行かないのだが、またしても、いても立ってもいられなくなってしまった。後藤さんが殺された。この事件が許されないと思うのはみんな同じだ。でも、このことで私たちがとんでもない道に行くことはまずい。
 首相の顔が悲しみばかりでなく、屈辱に満ちていたと思ったのは私だけだろうか。首相の顔が、今こそ集団的自衛権の推進しかないという顔に見えた人も多いはずだ。
「許しません」
という首相の言葉が、外国でどう翻訳(ほんやく)され紹介されているか心配でもある。「復讐を誓(ちか)った」と紹介した海外プレスもあったらしい。
 首相のお祖父さんは、再び「強い日本」を夢見たA級戦犯だった。そして首相は、その遺志を引き継ぐかのように、暴走と言える勢いで「憲法改正」を進めている。しかしここに来て、その勢いに警告を発しているのは、中国でも韓国でもない、なんと「イスラム国」なのだ。私たちは新たに選択を迫られている。今、間違いなく私たちの前には、泥沼の暴力/抗争へと道が開かれている。


 2 退避/撤収
 国会での動きを見れば分かるが、まずは今回の出来事に対し、
「許しません」
と言うかどうかが踏み絵になっている。危ない。そして、邦人救出の話を中心に進められている。間違っている。話が逆だ。居てはいけない場所に居てはいいけない。行ってはいけない場所に行ってはいけない。それでも邦人が危機に陥(おちい)ったというなら、話はそうなる。しかしそれは危機回避の話のあとだ。順序が逆だ。危機は回避しないといけない。その話が抜け落ちている。私だって後藤さんが立派な人で、立派な仕事をしてきたと思う。考えてみよう。私たちの目から見れば、後藤さんは危険を顧(かえり)みずに仕事をしていた。でも、いつでもそうではなかった。湯川さんに対して、そこは危ないから止めろ、と止める人でもあった。その危険なエリアに後藤さんが向かったことはやはりまずい。その行為を英雄扱いするのは危険だ。民間人にそれをさせて、国が出来なかったのはどうしてだ、という話に必ずなる。
 ちょうど二年前のアルジェリアでの人質事件が、ニュースでも話題にされ始めた。イスラム武装勢力が占拠した「日揮(にっき)」占拠事件のことだ。日本人の人質17人のうち、救出作戦で10人が死んだ。今回のことは、あの事件の検証がなかったことを示されたようなものだ。あの時、危機を回避できなかった。日本がやるべきことは、日揮を守ることではなかったはずだ。あのエリアに危機が忍び寄っていたことを知らせ、そこから退避させることが一番のことだった。それが出来なかった。「日揮」は今、武装した警備員を増やし、多くの情報をキャッチしようとしているという。しかし、一番大切なことは、危機を察知し、そこから逃げる/撤収することだ。そこはアルジェリアだ。
 政府は、世界の大使館や国内の重要施設に治安強化を訴えた。原発がその中に入っている。テロリストに占拠される事態を予期しないといけない現実となった。死を恐れないテロリストが、原発の全電源を停止したらそれで終わりだ。なんと、原発の危険性をイスラム国が教えている。
 では、危険な場所が、海外でなく日本の国内にまで迫(せま)った時はどうするのか。その時こそ私たちが頼るものは、自衛隊だ。あの人たちが命懸けで私たちを守る姿を、私たちは原発事故の時に見たのだ。では、
「国権の発動たる戦争と……国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」(憲法九条)
というくだりはどうか。どこにも自分の国を守る必要はないとは書いてない。しかしこれは、あくまで「攻めて来られたら」である。「邦人を守る」という言葉は、外国での出来事を指している。危険だ。繰り返すが、外国にいる日本人を守るのに一番大切なのは、
「そこにいてはいけない」
「そこに行ってはいけない」
という警告である。
「退避/撤収しなさい」
という指示である。
 外国の日本人学校で、監視カメラや警備員を増やしたとかいうニュースだが、危険区域にあって賢明な人たちは、すでに帰国の準備をしているはずだ。今は、海外の日本人が住むすべての地域に自衛隊を送ろう、なんて言い兼ねない状況だ。危険だ。


 3 自民党しかいない
 野党はことごとくダメだ。先日の民主党代表選で、岡田が集団的自衛権に関して、
「それを批判していたら、今の自民党の勢いを止められない」
と言っていたのを覚えているだろうか。選挙で勝つためには集団的自衛権を批判するのはまずい、と言ったようなものだ。
 頼るべき政治はどこにあるか。もう自民党しかいない。もちろん今、政治を動かしている連中ではない。頼るとしたら、長老の古賀誠や河野洋平たちだ。そしてもうひとり、忘れてはいけない。このパンドラの箱を開けるきっかけともなったイラク戦争(2003年)を、
「断固指示する」
と世界に先駆けて宣言した小泉純一郎である(本当のもとを正せば1948年のイスラエル建国まで逆上る)。
 アメリカ軍とイラク軍の戦火のもと、逃げることも出来ず恐怖と絶望に覆(おお)われた人々が、多分にイスラム国を構成するようになった。毎日、そして一年中、安らかな眠りにつくことも許されない人々の悲しみが、行き先を知らない憎しみへと転化した結果だと思われる。原発推進をした罪滅ぼしのさなかの小泉氏ではあるが、またひとつ、ここで声を上げて欲しいと思うのは私だけだろうか。


 ☆☆
本当なら金曜発行ですが、やはりいても立ってもいられずということで、こんな結果となりました。私が意外なことを書くと思った人、いるのでしょうか。「個別自衛権」は私の持論です。
取り返しのつかない場所へと、世界が大きく動いています。小さな声でもみんなで上げていきたいですね。
辛坊次郎、どうやら後藤さんを「すばらしい」と讃(たた)えたそうですね。前回の反省の結果だといいです。

 ☆☆
金曜は予定通り発行します。