「絶対戦争」のこと
山口先生と
登録のことなんて気にしないでいいからいつでも授業に来なさい、と言われていた。行けそうな日を待っていた。そしてお言葉に甘えて大学まで出向き、久しぶりに先生の「呼吸」の講義を受けた。終わってから先生が「向こう(被災地)の話を聞かせて欲しい」というので、聴講生と共にお昼を食べながら話が出来た。構内のレストランは緑が豊かな中にあって、紅葉を用意している木々に柔らかな秋の日差しが注いでいた。
被災地・被災者の様子と現状、ボランティアセンターの腹立たしかった(過去形で書くのはもうこの場所がないからだ)ことのあれこれを先生の質問に応じながら、私は時に激しくなりながら話した。
先生は先月開催された「日本復興剛柔の息吹」全国大会で、義援金として納められた分をどうしたらいいものか、という相談を私に持ちかけた。最初は定石どおりに日赤に、と考えたらしいが、それはいかがなものか、という人が結構いたという。
当日、一万人近い人が入場し、さらにその人たちがTシャツや関連商品を入手している。商品に関しては収益の一割が義援金になる、ということだった。きっと相当な額になっているのだと思い、そのことで私に打診した先生に恐縮しながら、私も日赤に贈ることに疑念を持っていると伝えた。
日赤の動きを少し復習しておきたい。
①義援金の一次配分
四月に決定。死者の遺族・家族に35万円。全半壊家屋に35万円。原発避難者に35万円。
②義援金の二次配分(内容は自治体ごとに異なる)
六月に決定。震災によって両親を失った子どもにひとりあたり100万円。震災で父か母を失った子どもにひとりあたり50万円。
③家電六点セット(洗濯機・冷蔵庫・テレビ・炊飯器・電子レンジ・電気ポット)
四月から供給が開始されるが、最初は災害救助法の視点から「生活必需品でない」と支給の対象にならなかった。そして四月は仮設住宅のみの支給だった。五月にようやく公営住宅にも範囲が拡げられる。しかし、自分で購入してしまった人には見返りがなかった。
一カ月避難所暮らしをさせてもらった私には、この電化製品六点セットにまつわる取り組みの遅さ(通知の遅さ)が手にとるように分かった。避難所に電化製品はそれほど必要なかったわけだが、不便さにしびれを切らした人たちが、自分たちのため、ポットや電子レンジを購入していた。「日赤遅いよ!」とその人たちは憤るのだった。知らない人には「(仮に電化製品を持っていても)全部もらって現金化するとか、誰かにあげればいい」と思うかもしれない。しかし、被災者にはそんなことをする、空間的なゆとりも精神的なゆとりもない、ということが私には痛いほど分かった。
ことは③の家電セットに限らない。日赤に寄せられた2500億円の義援金は、一次と二次の両方を合わせてもまだ15%しか被災者のために動いていない。しかも、日赤は義援金の募集を今日、9月30日で打ち切る。
どこがいいかね、という先生に私は、先生、空手も同じだと思うのですがと自分の考えを言った。大きな流派や有名な道場、という選択肢で入門を勧めることはいいことではない、あの道場にはこういう志を持った先生がいる、というナビが今でこそ必要な気がします、と。
そんな観点から考えると、宮城や岩手は分からないが、福島だったら南相馬市がいいのではないか、と思う。あそこには抜群のリーダーシップを持った市長がいる。「避難しないといけないのではないか」という再三の申し入れにも「検討します」と終始した国を見限って、全住民避難の決断を下した市長がいる。原発の新規立地候補になっている同市への、初期対策交付金2億円のうち5500万円を先日、8月27日に辞退している。原発の新規候補となった自治体では初めての判断だそうである。その市長の判断を住民が誰一人批判していない。かたや、メディアを通して市の窮状を訴えることも出来ず、東電の批判と言えば「あいさつにも来ない」と8月の市議会でようやくつぶやく、とかいったどっかの市長とは段違いだ。
そんなことを先生に伝えた。国体の審判講習会があるので夕方まで静岡に行かないといけない、と言いながら先生は日が西に傾くまで話に付き合ってくださった。
ありがとうございます。
「希望は戦争」!?
前号で「絶対戦争」なる表現をして思い出した。また、先の先生たちとの会話の中で、私が「支援というものも貧乏な場所にはなかなか届かず、力やお金のある人のところに行くものなのですねぇ」としみじみ言った時の言葉に、先生や聴講生のハッとした表情を見て思い出した。
四年ほど前、31歳のフリーターなる「若者」から出た「希望は戦争」というレポートがいっとき世間を賑わした。私にも31歳の教え子がいる。母親が旦那と別れたあとさっさと男を連れ込んだおかげで家の中に居場所もなく、やっと給料をもらえる身となって、早々に家をあとにしたとかいうその生徒を思い出した。このレポーターは実家で暮らせるのか、まだいいじゃないかなどとは思わなかったが、この「若者」、またはこいつにシンパシーを感じていた連中、そしてこのレポートに驚愕し、なだめにかかった愚かな大人たちは今どうしているのだろう。まあ、本当は31歳って本当は充分に大人で「若者」扱いすることもないんだが。
過去のことで考えよう。零細農家出身は次男三男が中心だったという二,二六事件の「青年将校」たちは、天皇大権を発動せよ、「国家の改造なくして繁栄なし」と決起する。「希望」を持って「戦争」に臨んだのだ。結局、このことがかえって大元帥天皇陛下の怒りをかい、「朕自ら近衛師団を率い、これが鎮圧に当たらん」という固い意志を形作ることにもなってしまった。鎮圧は統制派のエリート将校が中心となって毅然とやられる。
戦後、占領軍によってされた「戦争の経済的基盤としての財閥解体」だが、三井・住友・岩崎・安田を始めとする大財閥は、解体後すぐにグループの再結成となる。また、終戦直後混沌の象徴「闇市」は繰り返し撤収の措置をされ、その傍ら商工会議所を中心とした都市計画と、東大や慶応の中心大学の復興がすすむ。
要するに、金持ちやエリートはどこまでも未来のレールが敷かれていて、「貧乏人」が考えるようには行かないんだよね。ついでにこのレポーターが羨望とした「エリートをこき使う下級民的あり方」のこと。丸山真男は30歳のその時、東京帝国大学きってのエリート(助教授)だったが、二等兵だったため農家の息子だった上官からビンタをくらう、こういう平等なあり方が戦争の魅力だというわけだ。少しお知らせするが、丸山真男に限らず、大学卒のものは幹部候補生に志願すれば将校になれた。しかし、丸山は「戦争を志願したのは自らの意志ならず」と、二等兵のまま、平壌に送られている。どうせやけになっているこのレポーターは、だからなに、と言うのだろう。
さて、この間2010年12月チュニジアに始まる「アラブの春」、そしてリビアの情勢をこの連中はどう見ていたのだろう。アラブの人たちは「希望」を捨てず「戦争」となった。「戦争」が「希望」だったわけではない。またリビア情勢を見ていて分かったはずだが、戦争は計画的だろうが「やけになる」ということを動機にしようが、必ず「どっちの味方」かを迫る。力の優劣を見ながら敵味方に「変身」するというやり方は「出世」を約束しない。いや、両方から殺される。楽ではないぞ。
青くなってこの「青臭い」レポーターをなだめにかかった愚鈍な大人たちは、きっと疲弊と絶望に、正義や未来の「希望」を身にまとって「世直し」を計ったオウムの若者を重ねたのだろう。それで「早まるな」と制したつもりなのだ。「なぜ人を殺してはいけないのですか」というアホを前にして、いい年をした大人どもがうろたえた時のことを思い出した。茶番は繰り返されるものだ。
「あきらめ」と「やけ」が支配した3,11以降の一カ月。ある意味日本は戦争状態だったし、今もそれが終わったわけではない。家や家族がなくなり、泥棒も横行した。それでも東北からはメッセージが送られ続けた。店に行列が出来ても、割り込む人なく、そして売る方はそれを「定価で!」売った。東北では1973年の第一次石油ショックにあったことさえ起こらなかった。「希望は戦争」かい。どのような戦争なのか、まだそれは「戦争だった」、という過去の出来事として語ることを許していないのだ。
山口先生と
登録のことなんて気にしないでいいからいつでも授業に来なさい、と言われていた。行けそうな日を待っていた。そしてお言葉に甘えて大学まで出向き、久しぶりに先生の「呼吸」の講義を受けた。終わってから先生が「向こう(被災地)の話を聞かせて欲しい」というので、聴講生と共にお昼を食べながら話が出来た。構内のレストランは緑が豊かな中にあって、紅葉を用意している木々に柔らかな秋の日差しが注いでいた。
被災地・被災者の様子と現状、ボランティアセンターの腹立たしかった(過去形で書くのはもうこの場所がないからだ)ことのあれこれを先生の質問に応じながら、私は時に激しくなりながら話した。
先生は先月開催された「日本復興剛柔の息吹」全国大会で、義援金として納められた分をどうしたらいいものか、という相談を私に持ちかけた。最初は定石どおりに日赤に、と考えたらしいが、それはいかがなものか、という人が結構いたという。
当日、一万人近い人が入場し、さらにその人たちがTシャツや関連商品を入手している。商品に関しては収益の一割が義援金になる、ということだった。きっと相当な額になっているのだと思い、そのことで私に打診した先生に恐縮しながら、私も日赤に贈ることに疑念を持っていると伝えた。
日赤の動きを少し復習しておきたい。
①義援金の一次配分
四月に決定。死者の遺族・家族に35万円。全半壊家屋に35万円。原発避難者に35万円。
②義援金の二次配分(内容は自治体ごとに異なる)
六月に決定。震災によって両親を失った子どもにひとりあたり100万円。震災で父か母を失った子どもにひとりあたり50万円。
③家電六点セット(洗濯機・冷蔵庫・テレビ・炊飯器・電子レンジ・電気ポット)
四月から供給が開始されるが、最初は災害救助法の視点から「生活必需品でない」と支給の対象にならなかった。そして四月は仮設住宅のみの支給だった。五月にようやく公営住宅にも範囲が拡げられる。しかし、自分で購入してしまった人には見返りがなかった。
一カ月避難所暮らしをさせてもらった私には、この電化製品六点セットにまつわる取り組みの遅さ(通知の遅さ)が手にとるように分かった。避難所に電化製品はそれほど必要なかったわけだが、不便さにしびれを切らした人たちが、自分たちのため、ポットや電子レンジを購入していた。「日赤遅いよ!」とその人たちは憤るのだった。知らない人には「(仮に電化製品を持っていても)全部もらって現金化するとか、誰かにあげればいい」と思うかもしれない。しかし、被災者にはそんなことをする、空間的なゆとりも精神的なゆとりもない、ということが私には痛いほど分かった。
ことは③の家電セットに限らない。日赤に寄せられた2500億円の義援金は、一次と二次の両方を合わせてもまだ15%しか被災者のために動いていない。しかも、日赤は義援金の募集を今日、9月30日で打ち切る。
どこがいいかね、という先生に私は、先生、空手も同じだと思うのですがと自分の考えを言った。大きな流派や有名な道場、という選択肢で入門を勧めることはいいことではない、あの道場にはこういう志を持った先生がいる、というナビが今でこそ必要な気がします、と。
そんな観点から考えると、宮城や岩手は分からないが、福島だったら南相馬市がいいのではないか、と思う。あそこには抜群のリーダーシップを持った市長がいる。「避難しないといけないのではないか」という再三の申し入れにも「検討します」と終始した国を見限って、全住民避難の決断を下した市長がいる。原発の新規立地候補になっている同市への、初期対策交付金2億円のうち5500万円を先日、8月27日に辞退している。原発の新規候補となった自治体では初めての判断だそうである。その市長の判断を住民が誰一人批判していない。かたや、メディアを通して市の窮状を訴えることも出来ず、東電の批判と言えば「あいさつにも来ない」と8月の市議会でようやくつぶやく、とかいったどっかの市長とは段違いだ。
そんなことを先生に伝えた。国体の審判講習会があるので夕方まで静岡に行かないといけない、と言いながら先生は日が西に傾くまで話に付き合ってくださった。
ありがとうございます。
「希望は戦争」!?
前号で「絶対戦争」なる表現をして思い出した。また、先の先生たちとの会話の中で、私が「支援というものも貧乏な場所にはなかなか届かず、力やお金のある人のところに行くものなのですねぇ」としみじみ言った時の言葉に、先生や聴講生のハッとした表情を見て思い出した。
四年ほど前、31歳のフリーターなる「若者」から出た「希望は戦争」というレポートがいっとき世間を賑わした。私にも31歳の教え子がいる。母親が旦那と別れたあとさっさと男を連れ込んだおかげで家の中に居場所もなく、やっと給料をもらえる身となって、早々に家をあとにしたとかいうその生徒を思い出した。このレポーターは実家で暮らせるのか、まだいいじゃないかなどとは思わなかったが、この「若者」、またはこいつにシンパシーを感じていた連中、そしてこのレポートに驚愕し、なだめにかかった愚かな大人たちは今どうしているのだろう。まあ、本当は31歳って本当は充分に大人で「若者」扱いすることもないんだが。
過去のことで考えよう。零細農家出身は次男三男が中心だったという二,二六事件の「青年将校」たちは、天皇大権を発動せよ、「国家の改造なくして繁栄なし」と決起する。「希望」を持って「戦争」に臨んだのだ。結局、このことがかえって大元帥天皇陛下の怒りをかい、「朕自ら近衛師団を率い、これが鎮圧に当たらん」という固い意志を形作ることにもなってしまった。鎮圧は統制派のエリート将校が中心となって毅然とやられる。
戦後、占領軍によってされた「戦争の経済的基盤としての財閥解体」だが、三井・住友・岩崎・安田を始めとする大財閥は、解体後すぐにグループの再結成となる。また、終戦直後混沌の象徴「闇市」は繰り返し撤収の措置をされ、その傍ら商工会議所を中心とした都市計画と、東大や慶応の中心大学の復興がすすむ。
要するに、金持ちやエリートはどこまでも未来のレールが敷かれていて、「貧乏人」が考えるようには行かないんだよね。ついでにこのレポーターが羨望とした「エリートをこき使う下級民的あり方」のこと。丸山真男は30歳のその時、東京帝国大学きってのエリート(助教授)だったが、二等兵だったため農家の息子だった上官からビンタをくらう、こういう平等なあり方が戦争の魅力だというわけだ。少しお知らせするが、丸山真男に限らず、大学卒のものは幹部候補生に志願すれば将校になれた。しかし、丸山は「戦争を志願したのは自らの意志ならず」と、二等兵のまま、平壌に送られている。どうせやけになっているこのレポーターは、だからなに、と言うのだろう。
さて、この間2010年12月チュニジアに始まる「アラブの春」、そしてリビアの情勢をこの連中はどう見ていたのだろう。アラブの人たちは「希望」を捨てず「戦争」となった。「戦争」が「希望」だったわけではない。またリビア情勢を見ていて分かったはずだが、戦争は計画的だろうが「やけになる」ということを動機にしようが、必ず「どっちの味方」かを迫る。力の優劣を見ながら敵味方に「変身」するというやり方は「出世」を約束しない。いや、両方から殺される。楽ではないぞ。
青くなってこの「青臭い」レポーターをなだめにかかった愚鈍な大人たちは、きっと疲弊と絶望に、正義や未来の「希望」を身にまとって「世直し」を計ったオウムの若者を重ねたのだろう。それで「早まるな」と制したつもりなのだ。「なぜ人を殺してはいけないのですか」というアホを前にして、いい年をした大人どもがうろたえた時のことを思い出した。茶番は繰り返されるものだ。
「あきらめ」と「やけ」が支配した3,11以降の一カ月。ある意味日本は戦争状態だったし、今もそれが終わったわけではない。家や家族がなくなり、泥棒も横行した。それでも東北からはメッセージが送られ続けた。店に行列が出来ても、割り込む人なく、そして売る方はそれを「定価で!」売った。東北では1973年の第一次石油ショックにあったことさえ起こらなかった。「希望は戦争」かい。どのような戦争なのか、まだそれは「戦争だった」、という過去の出来事として語ることを許していないのだ。