実戦教師塾・琴寄政人の〈場所〉

震災と原発で大揺れの日本、私たちにとって不動の場所とは何か

実戦教師塾通信八十六号

2011-09-30 12:24:48 | 思想/哲学
「絶対戦争」のこと


 山口先生と


 登録のことなんて気にしないでいいからいつでも授業に来なさい、と言われていた。行けそうな日を待っていた。そしてお言葉に甘えて大学まで出向き、久しぶりに先生の「呼吸」の講義を受けた。終わってから先生が「向こう(被災地)の話を聞かせて欲しい」というので、聴講生と共にお昼を食べながら話が出来た。構内のレストランは緑が豊かな中にあって、紅葉を用意している木々に柔らかな秋の日差しが注いでいた。
 被災地・被災者の様子と現状、ボランティアセンターの腹立たしかった(過去形で書くのはもうこの場所がないからだ)ことのあれこれを先生の質問に応じながら、私は時に激しくなりながら話した。
 先生は先月開催された「日本復興剛柔の息吹」全国大会で、義援金として納められた分をどうしたらいいものか、という相談を私に持ちかけた。最初は定石どおりに日赤に、と考えたらしいが、それはいかがなものか、という人が結構いたという。
 当日、一万人近い人が入場し、さらにその人たちがTシャツや関連商品を入手している。商品に関しては収益の一割が義援金になる、ということだった。きっと相当な額になっているのだと思い、そのことで私に打診した先生に恐縮しながら、私も日赤に贈ることに疑念を持っていると伝えた。

 日赤の動きを少し復習しておきたい。
①義援金の一次配分
四月に決定。死者の遺族・家族に35万円。全半壊家屋に35万円。原発避難者に35万円。
②義援金の二次配分(内容は自治体ごとに異なる)
六月に決定。震災によって両親を失った子どもにひとりあたり100万円。震災で父か母を失った子どもにひとりあたり50万円。
③家電六点セット(洗濯機・冷蔵庫・テレビ・炊飯器・電子レンジ・電気ポット)
四月から供給が開始されるが、最初は災害救助法の視点から「生活必需品でない」と支給の対象にならなかった。そして四月は仮設住宅のみの支給だった。五月にようやく公営住宅にも範囲が拡げられる。しかし、自分で購入してしまった人には見返りがなかった。

 一カ月避難所暮らしをさせてもらった私には、この電化製品六点セットにまつわる取り組みの遅さ(通知の遅さ)が手にとるように分かった。避難所に電化製品はそれほど必要なかったわけだが、不便さにしびれを切らした人たちが、自分たちのため、ポットや電子レンジを購入していた。「日赤遅いよ!」とその人たちは憤るのだった。知らない人には「(仮に電化製品を持っていても)全部もらって現金化するとか、誰かにあげればいい」と思うかもしれない。しかし、被災者にはそんなことをする、空間的なゆとりも精神的なゆとりもない、ということが私には痛いほど分かった。
 ことは③の家電セットに限らない。日赤に寄せられた2500億円の義援金は、一次と二次の両方を合わせてもまだ15%しか被災者のために動いていない。しかも、日赤は義援金の募集を今日、9月30日で打ち切る。
 どこがいいかね、という先生に私は、先生、空手も同じだと思うのですがと自分の考えを言った。大きな流派や有名な道場、という選択肢で入門を勧めることはいいことではない、あの道場にはこういう志を持った先生がいる、というナビが今でこそ必要な気がします、と。
 そんな観点から考えると、宮城や岩手は分からないが、福島だったら南相馬市がいいのではないか、と思う。あそこには抜群のリーダーシップを持った市長がいる。「避難しないといけないのではないか」という再三の申し入れにも「検討します」と終始した国を見限って、全住民避難の決断を下した市長がいる。原発の新規立地候補になっている同市への、初期対策交付金2億円のうち5500万円を先日、8月27日に辞退している。原発の新規候補となった自治体では初めての判断だそうである。その市長の判断を住民が誰一人批判していない。かたや、メディアを通して市の窮状を訴えることも出来ず、東電の批判と言えば「あいさつにも来ない」と8月の市議会でようやくつぶやく、とかいったどっかの市長とは段違いだ。
 そんなことを先生に伝えた。国体の審判講習会があるので夕方まで静岡に行かないといけない、と言いながら先生は日が西に傾くまで話に付き合ってくださった。
 ありがとうございます。


 「希望は戦争」!?

 前号で「絶対戦争」なる表現をして思い出した。また、先の先生たちとの会話の中で、私が「支援というものも貧乏な場所にはなかなか届かず、力やお金のある人のところに行くものなのですねぇ」としみじみ言った時の言葉に、先生や聴講生のハッとした表情を見て思い出した。
 四年ほど前、31歳のフリーターなる「若者」から出た「希望は戦争」というレポートがいっとき世間を賑わした。私にも31歳の教え子がいる。母親が旦那と別れたあとさっさと男を連れ込んだおかげで家の中に居場所もなく、やっと給料をもらえる身となって、早々に家をあとにしたとかいうその生徒を思い出した。このレポーターは実家で暮らせるのか、まだいいじゃないかなどとは思わなかったが、この「若者」、またはこいつにシンパシーを感じていた連中、そしてこのレポートに驚愕し、なだめにかかった愚かな大人たちは今どうしているのだろう。まあ、本当は31歳って本当は充分に大人で「若者」扱いすることもないんだが。
 過去のことで考えよう。零細農家出身は次男三男が中心だったという二,二六事件の「青年将校」たちは、天皇大権を発動せよ、「国家の改造なくして繁栄なし」と決起する。「希望」を持って「戦争」に臨んだのだ。結局、このことがかえって大元帥天皇陛下の怒りをかい、「朕自ら近衛師団を率い、これが鎮圧に当たらん」という固い意志を形作ることにもなってしまった。鎮圧は統制派のエリート将校が中心となって毅然とやられる。
 戦後、占領軍によってされた「戦争の経済的基盤としての財閥解体」だが、三井・住友・岩崎・安田を始めとする大財閥は、解体後すぐにグループの再結成となる。また、終戦直後混沌の象徴「闇市」は繰り返し撤収の措置をされ、その傍ら商工会議所を中心とした都市計画と、東大や慶応の中心大学の復興がすすむ。
 要するに、金持ちやエリートはどこまでも未来のレールが敷かれていて、「貧乏人」が考えるようには行かないんだよね。ついでにこのレポーターが羨望とした「エリートをこき使う下級民的あり方」のこと。丸山真男は30歳のその時、東京帝国大学きってのエリート(助教授)だったが、二等兵だったため農家の息子だった上官からビンタをくらう、こういう平等なあり方が戦争の魅力だというわけだ。少しお知らせするが、丸山真男に限らず、大学卒のものは幹部候補生に志願すれば将校になれた。しかし、丸山は「戦争を志願したのは自らの意志ならず」と、二等兵のまま、平壌に送られている。どうせやけになっているこのレポーターは、だからなに、と言うのだろう。
 さて、この間2010年12月チュニジアに始まる「アラブの春」、そしてリビアの情勢をこの連中はどう見ていたのだろう。アラブの人たちは「希望」を捨てず「戦争」となった。「戦争」が「希望」だったわけではない。またリビア情勢を見ていて分かったはずだが、戦争は計画的だろうが「やけになる」ということを動機にしようが、必ず「どっちの味方」かを迫る。力の優劣を見ながら敵味方に「変身」するというやり方は「出世」を約束しない。いや、両方から殺される。楽ではないぞ。
 青くなってこの「青臭い」レポーターをなだめにかかった愚鈍な大人たちは、きっと疲弊と絶望に、正義や未来の「希望」を身にまとって「世直し」を計ったオウムの若者を重ねたのだろう。それで「早まるな」と制したつもりなのだ。「なぜ人を殺してはいけないのですか」というアホを前にして、いい年をした大人どもがうろたえた時のことを思い出した。茶番は繰り返されるものだ。
 「あきらめ」と「やけ」が支配した3,11以降の一カ月。ある意味日本は戦争状態だったし、今もそれが終わったわけではない。家や家族がなくなり、泥棒も横行した。それでも東北からはメッセージが送られ続けた。店に行列が出来ても、割り込む人なく、そして売る方はそれを「定価で!」売った。東北では1973年の第一次石油ショックにあったことさえ起こらなかった。「希望は戦争」かい。どのような戦争なのか、まだそれは「戦争だった」、という過去の出来事として語ることを許していないのだ。

実戦教師塾通信八十五号

2011-09-28 15:37:18 | 子ども/学校
<親の場所>2


 通信83号への反響が著しかった。親や教師からのものと思えるが、意見や質問が寄せられた。いくつか取り上げたほうがいいと思われたので、ここで答えたいと思います。

①「心配しない方がいいのか」「心配してはいけないのか」
 そんなことはない。何より「心配」は必要があるなしに関係なく、「自動的に」するものだ。心配する=心配になる、ということだ。しかし、「心配してはいけないのか」という発想をする方の大体が、本人の「心配するから」という言葉を聞いたら、「言ってくれないともっと心配になる」という言い方をする。それで本人の胸の内をさらに掻きむしる。そして、無理やり聞き出す人に「そうだったのか」と、本人の弁に納得し引き揚げる人はまずいない。子どもはそういうことを良く知っているのだ。子どもの悩みや不安は「親がなんとかしないといけない」「親がなんとか出来るものだ」と思っている人は、普段に子ども自身の解決能力、自立する力を弱くしているという自覚さえ必要である。
 「いつか言ってくれるだろう」「いつか解決するのだろう」という気持ちで過ごすことは親にとってつらいことだが、何度も言ってしまおう、もっとつらい思いをしているのは本人なのだ、自分は親として出来ることをやっていこう、と「耐える」しかない。

②「いじめ」だった時はどうすればいいのか
 いじめが初期の段階の時、親がそれを知ることはほぼ不可能である。もちろん本人は隠すし、本人自身が自分の周りで起こっていることをにわかに「信じ難い」、あるいは「気のせいかもしれない」と思うからだ。従って親が知ることが出来るのは、いじめがかなり進行してからになる。
 いじめは実に厄介である。その事実を知った時、親として避けないといけないことがあるからだ。親が介入してのクラス内、または友人間での「絶対戦争」である。当事者同士での戦争が可能ならば、それは避けることもない。しかし、当事者同士がイーブンで戦えるような関係にあるときには、いじめ自体が生まれない。あるいは両者がそういう関係になった時にはいじめは終了しているとも言えるのだ。親が介入しての戦争は終わりがない。そこには「勝ち」も「負け」もない。「こんなことがあった」「いや、それはいいがかりだ」という悪無限とも言えるやりとりが続く。大人(親)が事実を確認・糾弾する場は、同時にもう一度本人をいじめられた時点に引き戻し、いじめる側に憎しみとなぶるチャンスを与える。
 出来ることはあるか。83号で言った「温かい家庭」「帰ることが出来る家庭」を親が守ること、これが一番である。しかし、親として身体を引き裂かれそうな気持ちはもう少し行き場を必要とするはずだ。まず気がついたこと、または本人が言ってくれたことを記録しておくこと。そして次は、そのことを担任に相談することである。さて、その時に注意が必要だ。担任に「このことで他の生徒の気持ちを不安にさせないで欲しい」と断ることだ。「見守る余裕のない」担任は最悪の場合、次の日「○子がいじめられている。どういうことだぁ! 許さんぞぉ!」などと、激怒し演説をぶったりする。これが結構良くある。せっかく親が介入しての友人間の「無益な争い」を避けてきたというのに、すべて水の泡となる。
 担任の立場で考えよう。担任は報告を受けたら、その報告をもとにクラスをじっくり見ないといけない。犯人らしき人物(たち)、または犯行らしき事実を確認出来たとして、担任はなにが出来るだろう。私が一番の方法として考えられるとしたら、いじめを受けている本人を「好きで好きでたまらない」気持ちになることだ。やはりおそらく、犯行や犯人は責められるべきものだが、「解決」は別な場所にあると思えるからだ。「いじめ撲滅宣言」なるものを大書して教室の前に貼ったバカな担任がいたが、毎日やっとの思いで登校していた生徒が、それで安心するとでも思ったのだろうか。嫌でも目に入る醜悪なメッセージのおかげで、被害者たる生徒は「私のことが書かれている」と心臓の鼓動はますます小さくなり、加害者たる生徒(たち)は「誰が誰をいじめてんだよ」とますますふてぶてしい。

 私の経験で結ぼう。私は十年近く前になるが、二年続けて不登校の生徒を持った。というか、不登校の生徒は多いという現実をいいも悪いもなく、知っていた方がいい。
 二年生の担任となったとき、一年生の中途から全欠だったというその子の親は実に悠然としていた。スカイラインGT-Rに乗る整備工の兄を持つその生徒の家は、昔の農家で実に広い敷地に住んでいた。三世帯一緒の家は祖父母が優しく、その子が学校を休むことについて「わけは分からないんだが、どうしたもんだか」と言った。「無理をさせないように」という私の言葉を、母親はふたつ返事でうなずいた。前年度担任した女子がこの家の隣に住んでいて、その両親が私を絶賛していたということは聞いたが、それにしてもこんな恵まれた環境にある子は、絶対不幸になるはずがないと思った。
 担任になって一度も顔をみたことのないその子は、卒業間際にようやく私の前に姿を現した。あまりににこやかで穏やかなその顔に、ずっと前からその子を知っているような気分になったのを覚えている。卒業後、その子は専門学校へと進んだ。
 もう一人の生徒は、やはり二年生から担任となった子だが、三年の後期になって休み始め、間もなく全欠となった。授業は殆ど聞かずに、思い出したようにむっくりと起きて質問するというように変わった風貌だったが、私には大いに興味をそそる子で、休みがちになったあとも、独特のジョークを聞きたいと思ったものだ。
 母親との面談で、兄がちっとも働こうとせず、結婚した姉が戻ってきてしまって家にいる、父親は自分の話をちっとも聞いてくれない、という話を聞き、母親がひとりで抱え込んでしまっているのだな、と思った。もう記憶がはっきりしないが、二年の時の冬休みだったか、休みに入って何日かたったあと、私はこの子の机かロッカーの中に、通信簿が入れっぱなしになっているのに気付いた。いまどきは、中学校の生徒の机やロッカーは、学用品が入れっぱなしである。って、それは言い訳で「通信簿忘れた」と本人は学校に来なかったし、家から「通信簿もらってません」という抗議もなかった。私はあわてて家まで届けて、謝罪もしたが「もう少し子どもを見てあげてください」と言ってしまった。おそらくその余裕が母親になかったのだろう。
 どうにもならなかった母親の気持ちは徐々に私にぶつけられるようになったと思える。もう少し子どもが登校出来るように刺激してください、もっとまめに家まで来てください、次第に母親は激しさを増していった。私はじっと聞くしかない。
 やがてその子が専門学校に入り何年かして、その子から「元気です」という手紙が届いた。

実戦教師塾通信八十四号

2011-09-27 18:19:47 | 福島からの報告
伝わらないもどかしさ


 初めに

 野田首相は菅総理の路線を引き継ぐ気があまりないようだ。というより、福島そして原子力をめぐる世界の焦眉の課題を回避している。原発の再稼働も前向き、脱原発には消極的。そして東電は、賠償責任の算定基準の中で観光減収の二割を賠償外とした。自然災害のあとは観光業にも影響が及ぶという、阪神大震災の計算を考慮したというものだ。
 それに対して、福島第一原発の固定資産税を立地場所である大熊町と双葉町が免除しなかった。通常、条例というものの性格からすれば、すべての住民・事業者を課税免除の対象として施行されるものが、この場合東電は除外された。「事故の原因である東電を、住民と同様に免除対処にはできない」という道義的なものが理由となり、条例としては例外的扱いとなった。第一原発の固定資産税は二十億円にのぼるとされる。それを東電に課税する。以前、新潟県柏崎原発のレポートで書いたが、原発の固定資産税は年々減価償却の分だけ減少していく。それを補うために関連施設を増やしていくのだが、その要は原発そのものの増発である。もともと産業が何もない、税収源の何もない過疎の極地に原発を立地しようというのが原発政策だ。福島の原発地元自治体が今後どのような対処をするのか、私たちは注視しないといけない。
 さて、山口県上関町の選挙で、原発建設推進の候補が勝った。新しい町長は「原発の建設は国に判断を委ねる」と言っている。そろそろ私たちは、国が東電のいいなりになっているというより、東電が国を作り、動かしているという認識でいないといけないようだ。


 塾生が応援に来た

 震災当時、海外のホームステイでカナダにいたということが一番の動機だという塾生が、いわきにボランティアに来た。一体日本はどうなっているのだ、そしてオレはこんなところでなにをやっているんだと、震災当時からボランティアに行くことは考えていたという。どうしていわき(福島)なんだ、という両親とさんざんもめた大学生の彼は、ゼミ仲間に呼びかけて友人一人を伴ってやってきた。
 何度か書いたが、四月に私たちが感じたもどかしさの原因のひとつは、朝のセンターの仕事配分の手際の悪さ。現場に行けば助けを必要としている人たちは一杯なのに、そして仕事を待っているボランティアはひしめいているのに、間に立っている連中がちっとも要領を得ないことだった。私たちボランティアにも避難所周りをさせよ、という私たちの声は被災者のニーズを立ち上げ、次に引き継ぐためでもあった。被災の現場は充分生々しかった。道路はやっと顔を見せ始めていたが、その道路の傍らに必ず佇んでいた生活の姿のあれこれ。人形や服や電気製品は、コンクリートや流木と一緒にずたずたに折り重なっていた。そしてそこでは、やっとの思いで片づけの作業をしている被災者たちがいた。
 それらが日を追って姿を変える。瓦礫の下からは家屋の土台が現れ、そこが更地へと変わる(「きれいに」なる)。被災者は「次」の場所へと移り、次第に現場から姿を消していく。それは仕方がないことであり、ある意味いいことであるくらい私にも分かっている。毎月、いや毎日私はセンターで新しいボランティアの仲間を迎え、そして見ながらいつも思っていた。被災地でなにが起きたのかしっかり見られるといいのだが、と。だから私はいつも「壊滅と言える豊間地区を必ず見て欲しい」と言った。また彼らに「だいぶきれいになってしまったんだが…」と変な言い方をしたものだ。被災地の現場は破壊の力を少しずつ見えづらくしていた。それが見えるかどうかは、見る側のセンスの問題も大きかったようだが。私がセンターで仕事をしたのは、七月の末が最後だった。四倉の家屋の中の片付けを十名くらいのメンバーでやったのだが、最後に若者四人ほどに「貴重な経験をさせて頂いて、ありがとうございました!」と言われた時、私は思わず顔を背けてしまった。強烈な違和感。彼らは感動しているのだ。春に私たちも感動した。しかしそれは被災者の姿にだ。黙々と片付け、そして私たちに感謝する被災者の姿に感動したのだ。私(たち)に感謝するこの若者たちは、きっと感謝する対象を見つけられなかったのだ。仕方なく私たちに感謝した、そういうことだ。それにしても被災の現場がそれだけ変わったということもあるのだろう。この若者たちにとって、現場は沈黙を強いるものではなかった。
 伝わらないもどかしさということならば、当然被災者が一番感じている。偉そうに言う私は「オマエこそなにが分かっているというんだ!」と罵られるのかもしれない。映像でしか知らない津波の恐怖。生活と思い出の場所だった自分の家に波が迫り、ここまで来ないでくれ、という必死の願い虚しく、目の前で家が波に呑まれていく恐怖と絶望を、私たちはどれほど感じることできたのだろう。映像から流れてくる声が、家の持ち主の声であることを、それを識別することくらい私たちの責任である、くらいには思った。また原発建屋爆発後、なんの説明もなくいきなり避難を指示され、着の身着のままで家をあとにした人たちに次第次第に訪れた喪失感。「新車でかったばかりのVOXYがどうなっているんだ」と必死に訴えた避難所の若夫婦。
 
 私は塾生たちを久之浜まで連れて行き、彼らは神主さんから仕事の説明を受けた。私は次の日から彼らとは別に動いた。日曜日、塾生から嬉しそうな電話があった。行って良かった、見ないと行かないと分からなかった。仲間を呼ばないといけない、そう思って中学の時の仲間に無我夢中であちこち連絡した。するとその中の二人が次の日、下(高速でない)の道を使って来てくれた。説明しても分からない、だから来てくれとそう言った。来てみれば分かる、見てくれ、そう言った、だから来てもらえて嬉しかった。

 もどかしさは塾生の中にも芽生えたらしい。

実戦教師塾通信八十二号

2011-09-17 17:25:28 | 戦後/昭和
『福島の原発事故をめぐって』を読む


その前に

 前号で鉢呂経産相の辞任について触れたが、少し付け加えないといけないことが浮上したので読んで下さい。
 gooニュース(9/13付)によれば、鉢呂本人は大臣になる前から福島入りして、瓦礫の撤去や除染のために働いていたという事実があるらしい。つまり、傍観者として本人がいたわけでもなさそうだということだ。そうだったのか。言ってくれればいいのに、と一瞬思った。
 さらにあの「死の町」発言は、非公式の記者との懇談の中で出されたものであって、そういう点でもひとつひとつにはっきりした記憶がない、のだそうだ。驚いたことに、この事実は辞任の記者会見上で出されたということなのだ。読み落としたのか、見落としたのか、聞き落としたのか、私にその部分の記憶がなかった。謝罪のあいさつと顔しか覚えてない。それが私の記憶違いでなかったことがこのレポートで示される。この部分はことごとく削除して、どの報道機関も報道していたというのだ。
 となれば、自らの瓦礫撤去や除染活動のことも周囲の記者へ、もしかしたら「非公式に」言っていたのかも知れない。また、辞任挨拶のあと「もうあげ足とりはやめて…」という現地の声が流れていたが、それを見て私は、やっぱり当事者の気持ちは切実だ、緊急性・優先順位が常にあるんだ、くらいに思っていた。でも、被災者は鉢呂の現地での姿を知っていたのか、と想像してもみた。
 それにしても一番度し難いのは、自分のことは棚に上げて揚げ足取りに意気込むこのジャーナリストを気取った連中だ! とは、前号を投稿した直後に「絶対書くべきだった」と後悔したことだが、このニュースに触れてもう一度後悔することとなった。


(1)著者のこと

 この『福島原発事故をめぐって』の著者は、物理科学者の山本義隆である。膨大な書『磁力と重力の発見』(全3巻2003年)は数々の賞を受けている。純粋な学術書と言えるこの書を著した山本は、大学の教授ではない。予備校の講師である。だから参考書もたくさん書いている。著者は東大理学部の物理学科を卒業、しかし、同じく東大大学院博士課程を中退する。
 さんざん勿体ぶったが、この著者こそ私たちには言わずもがなである、東大全共闘の議長・山本義隆である。大学院を中退するのも彼の東大闘争の責任(もしかしたらこの「責任」という表現を彼は選ばないかもしれないが)のとり方だった。
 私たちが全共闘を「引き受ける」ときの引き受け方は、一方に「語る」こと、論ずることがあった。そして対極に「沈黙」を守ることがあった。この「沈黙」の徹底ぶりとして山本義隆があげられる。色々な全共闘をめぐる特集が本・雑誌・TVで組まれた。しかし、山本義隆は一度として登場したことがない。私は見なかったが、NHKだかの特番で(だいぶ前です。多分1989年あたり)多くの「闘士」が登場するなか、山本義隆の場合「取材は断ったはずです!」ときっぱり言い放って去っていく後ろ姿だけが映ったというのを聞いた。
 そんな彼は1992年、国会図書館に「これが東大闘争です」と言って、23巻に及ぶ膨大なファイルを届けている。医学部学生に対する処分撤回闘争に始まり、(多分なのだが)地震研の臨時職員への暴行弾劾に及ぶまでの「集められるだけ」のビラを編集したものだった。
 山本義隆をTVで見たのは、東大闘争のあとたったの一回である。公立諏訪中央病院の院長、鎌田實を知っていると思う。つぶれかけていた諏訪病院を再建した人物として、そして「がんばらない」治療をほどこす有名なお医者さんとして知っている方も多いはずだ。この病院再建の彼の活動は、東大の今井澄の誘いがあって始めたものだ。その今井澄は1969年1月18、19日の安田講堂攻防戦の時に指揮した人物だ。その今井が亡くなった2002年の葬儀の時、弔辞を読む山本を見たというのが、たったの一回だ。とにかく山本の「沈黙」は徹底していた。
 山本義隆は東大闘争以後、学術書しか書いていない(学参もあるが)。それが40年を越えて後に国・企業に牙を剥く。しかしあくまで「物理教育のはしくれにかかわり科学史に首を突っ込んで来た私が、それなりにこれまで考えてきた、そしてあらためて考えた」(あとがきより)ことが書かれていた。


(2)「人類の夢」の向こう側

 確かにさきの「あとがき」で書かれているように、「原子力技術の専門家でもなく、特別にユニークなことが書かれているわけでは」ないが、
「福島での作業員にたいする許容被曝量の限界値をなしくずしに緩和したことや、児童生徒の屋外活動を制限する放射線量の年間許容量をめぐって示された混乱は、『唯一の被爆国」を枕詞のように語ってきたこの国が戦後半世紀以上にわたって被曝の問題をまじめに取り組んでこなかったことを浮かび上がらせた」(はじめに)
を読んで溜飲が下がる思いをするのは私だけなのだろうか。こんな当たり前のことが私たちの周辺にまだまだ不足している。「今は情報や批判が(原発反対に)偏っている。議論する前の地盤そのものが問題だ」とか言う盗っ人猛々しい、厚かましいのが一杯いる。もともとのその地盤は今まで原発推進まっしぐらだったはずだ。
「原発事故を蒸気機関の創成期にあったような事故と同レベルに捉えることは根本的に誤っている。原発以外では、事故の影響は時間的・空間的にある程度限られていて、事故のリスクはその技術の直接の受益者とその周辺が負うことになる。」(「二・五基本的な問題」より)
こんなことさえなかなか聞けなかったと思う。そうして
「福島の事故では、周囲何キロかは今後何世代にもわたって人間の立ち入りを拒むスポットになるであろう。融け落ちてそこに遺されている何トンもあるウラン燃料の塊は、たとえさしあたっての冷却に成功したとしても、それを長年にわたって遮蔽し続けるためには莫大なコストと資源エネルギーが必要とされ、…原発では試行錯誤による改良は許されない」(同)
菅直人の「原発立地地帯にはあと20~30年足を踏み入れられないだろう」の発言で一番批判されてしかるべきだったのは、やはり東電と原発行政を担ってきた国だったと今さら思う。
 福島の原発と同型の軽水炉の危険性が、それを設計したGE(ゼネラルエレクトリック社)の内部から告発されていた。
「冷却水が失われたときにその格納容器が圧力に耐えきれなくなるという欠陥を見いだし、世界中で操業中の同型炉をすべて停止させるよう主張」(同)
雑誌『技術と人間』を私も読んでいたのでその事実を知っていたはずなのだが、それでも「その主張を取り入れたらGEの製品が売れなくなる」と議論を封印する経過を追いかけてはいない。そしてこういう取り返しのつかない結果を目の当たりにして初めて「やはりそうだったのか」と私も思っている始末だ。
 名著『八十日間世界一周』『海底二万マイル』の作者ジュール・ヴェルヌがいみじくも『動く人口島』で示したという、夢の島の崩壊。それは、
「科学技術が自然を越えられないばかりか、社会を破局に導く可能性があることを、そしてそれが昔から変わらぬ人間社会の愚かしさによってもたらされる」(「三・三科学技術幻想の肥大化とその行く末」より)
ことを予言した。この夢の人口島は、
「シェイクスピアの時代から変わらない二大有力家族間の反目という住民の内部対立と、電力によっては制御しえなかった台風によって南太平洋上で崩壊する」(同)
という。なんと見事な、いや皮肉なたとえと言っていいのだろうか。余りに見事な現実との一致に身震いする。
 もともとが、戦後すぐに「無限のエネルギー・原子力を平和のために」、とうたわれたことに私たちは少し無防備すぎた(女優の吉永小百合も先日言っていた)。なんとあの手塚治虫の大ヒット作『鉄腕アトム』はその通り「心正し科学の子」だった。そしてそのアトム(原子)の妹は「ウラン」だったということも「象徴的である」(「一・二学者サイドの反応」より)。
 原子力をめぐる社会がどうして「ムラ化」するのか、その過程を検証するうえでも、「原発がなくなると本当に電力は不足するのか」という議論が正しいのか、ということを検証するうえでもこの本が入り口になるといいと思えた(みすず書房1000円)。


(3)伝習館高校闘争のこと

 「議論の地盤」と書いていて思い出して書きたくなった。
 1970年6月6日、九州福岡県柳川の名門校(進学の、である)、伝習館高校の教師三人が懲戒免職となった。懲戒理由は「偏向教育を行った」というものであった。今ここで詳しく触れる余裕はないが、この三教師は言うまでもなく、セクハラ・盗撮をやったわけでなく、さぼったわけでもなく、そして「革命教育」をやったわけでもなかった。では一体何が起こっているのかを知って私たちは愕然とする。国の介入の仕方も普通ではなかったが、三教師のやっていたことが実に創意と創造(想像)性にあふれていた(当時、東大の教官だった折原浩が全国を回ってこのことで講演している。ウチの大学にも私の恩師・農学部の藤原信先生の招きで折原が来ている。私はこの時学生だった)。教育や教師というものも捨てたもんではない、そう目覚めたような気がした。全国の教育関係者の多くが燃え上がった時だったと言っても過言ではない。
 さて、それを機に私たちは伝習館問題を取り上げたいと考えた。このことで討論会をするよう、殆どの教授に要求した。そして、授業が討論の場になった。討論(授業)最後になって、教授の言うことはいつも同じだった。「やっぱり資料や本にあること以外にこの教師たちは何かやっていたんじゃないでしょうかね」。処分される方に非がある、という視点が頑固なのだった。
 もうひとつ。「この人たちも、自分たちの主張をもっと強く言うべきですね」。これだよ。来たよ。「弱い場所」から無縁だった連中のアホなつぶやきだ。弱いものはいつだって精一杯叫んでいる。世間知らずが、とあの当時は思った。
 いつの時代もだ。こういう高見に登った連中が、世の動向、成り行きに変化が見えると言う言葉、「こういうのは不公平ではないか」「逆差別だ」等々。
 また来た道を戻ってはいけない。

実戦教師塾通信八十一号

2011-09-15 13:43:35 | ニュースの読み方
ニュースの読み方
                 「諦め」でなく



 相変わらず腹立たしい報道が続く。その腹立たしさにも三種類ほどあることが分かった。
①ウソの報道をしている。
②詳細を報道していない。
③肝心なことに触れていない。
である。①はそんなにない。というか、そういう意図はない、ということだ。知らんぷりして(厚かましく)回避するという②③の手だてを多く使っている。なぜそんなことになっているのか。多分「原発事故」がもたらす破壊的・壊滅的影響を「不用意に」拡大させてはいけない「うかつな報道は出来ない」という「配慮」が動機となっている。この通信76号の(3)でも言ったが、メディアは政府発表(避難区域)を忠実に報道、しかし、自分たちはその区域外にちゃっかりと避難していた。これを「二重基準(ダブルスタンダード)」などと甘やかしてはいけない。こういうのを不誠実な態度、あるいはこれを称して「ウソ」と言っていいのだ。
 始めよう。8月31日「下請け作業員が誤って被曝」というニュース。「誤って被曝」とはどういう意味だよ? 「誤る」=しくじるという意味だ。実に簡単な報道だった。汚水処理施設の点検中に配管の蓋を外した所、中の管が外れていた、のような表現だった(新聞もニュースも)。これが二件。どこにも蓋を外してはいけないのに、といったことは書かれていない。どこが「しくじっ」ているのだ? 立派な「原発事故」だよ。今でこそこういうことも報道されるが、かつては作業員の手作業で行われていたこの「汚水処理」、報道されなかった。モップ洗浄による汚水除去は「駅伝のような」連携で、線量計のアラームを鳴らしながらやられていた。転んで防護服を傷つけたり、という「しくじり」もずいぶんあったようだ。
 先に進む前に確認したい。日本人的物分かりのよさを標榜する傾向が、ここのところ見られるように思うから。つまり例えば「こういう報道は昔からそうだった。戦争の時も負けているのに、勝った勝ったと言い続けた」というやつ。戦争責任問題について今は触れないが、だからなんだ、ということだ。メディア・報道を信じるな、という。それはいい。ではあなたは、私たちは何を手がかりに進んで行こうというのか、それがなければ不信は諦めにしかつながらない。ニヒルに笑って分かったような顔をしようとでもいうのか。そんなもの、東北の人たちから一体何を学んだというのか。ここで反論を想定。いやいや、東北の被災者もその不信感出してますって? そんな反論。それだったら私もそういう声は聞いていますよ。その気持ち分かりますから。くじけそうになる気持ち分かりますから。それで一緒に諦めることが共感だとでもいうのかね。失せろよ、ということだ。
 ではネット情報を頼りにしましょうだの、今は神を信じるだけですとか、そういう場所に光を見いだすってそんなことではない。私たちは目を光らせることは出来る。そうすることで必ず「ほころび」は見いだせる。それは手だてのひとつになる。では項目別に。


(1)発電コスト

 「詳細を報告していない」例。
 「賠償加算しても、原子力は火力より安い-エネ研」という見出しで9月1日、読売新聞が配信した記事。ホントかよと勇んで内容を見る。「日本エネルギー経済研究所」が8月31日に出した結果が報道されている。原発7円/kwh、火力9~12円/kwhということだ。しかし、記事内容を読んでいくとふざけている。この試算結果は2006~10年度のものである。有価証券報告書の手法で行くと、次の報告は2015年の8月末日になるとでも言うのだろうか。
 今年度の分(2010,4,1~2011,3,31)はまだ計算出来ていない。今後数十年間、原発をめぐる損害賠償の手続き・補償・訴訟は続いていく。「一体どれほどの規模になるのか見当もつかな」(東電・経産相)かったはずだ。こういう報告ももちろんだが、こういう記事を掲載することが許されるはずがない。ここで「そんなものだよ」とニヒルに笑ってはいけないのだ。実際にエネ研の報告を読んでみた。なんのことはない、以下のような但し書きがある。これを「詳細な部分」と言えるのか。言えるはずがない。
 「原子力発電には今後予想される安全対策の強化、事故が発生した場合の損害賠償等のコスト増要因が考えられると同時に、廃炉・バックエンドに伴うコスト負担のように、有価証券報告書による手法では正確に評価することが不可能な事項も多い」
これを見出しにして欲しい、いや普通の感覚だったらそうなると思うがね。
 読売新聞は6日、まるで1日の記事の言い訳でもあるかのように「東電の電気料金算定根拠を見直す必要」との記事を配信。実際この6日に政府の第三者委員会「経営・財務調査委員会」が会議を開き、記者会見をしている。このことを報道したという言い訳も成り立つ。もを(もう、ではなく、もを、と書くわ)ジャーナリズムの髪の先ほどの精神もなくなってる。ジャーナリズムを気取るんなら、1日の時点で「尋常でないエネ研の報告」くらいの記事を書かないといけない。
 ジャーナリズムで思い出した。一度登場してもらった『報道災害』(上杉隆・烏賀陽弘道)だが、欧米のジャーナリズムの傾向は、記事が「どこの新聞・メディア」でなく「誰の手によるものか」という重視の仕方をするとあった。ニューヨークタイムズに書かれたということで騒ぎになった、「鳩山由紀夫はルーピー(ずれてる)」という記事は、日本で言えば「投稿欄」に寄せられた外部の人間によるものだという。それで日本のメディアは上を下への大騒ぎとなったが、それは朝日やNHKにいるという本人たちのおごりが作ったものだという。

(2)「電気はある」

 話はずいぶん逆上るが、菅元首相が7月に発言して物議をかもした「電気はある」のこと。なぜか日経が詳しく報告したのはこの9月14日なのだ。
 全国の自家発電設備(コンビナートや製鉄所は大型のものを抱えている)は前年の報告では6000万キロワットを超えていた。ちなみに今夏の東京電力管内での最大電力消費量は8月9日の4824万キロワットである。そこで、菅首相は自家発電にのぞみをかける。みんなの党の渡辺代表「埋蔵電力の活用を」発言もその後押しをした。しかし、経産省の調査でそれは180万キロワットという結果が出される。どのような調査だったのか、それを教えてくれるデータや報告がないのは実に残念至極であるが、さきの『報道災害』で、計画停電をめぐる東電とのやりとりに興味あるくだりがある。数ページにわたっているので、箇条書きで。
①2003年4月東電の原発全17基が止まった時、停電は起こらなかった。
②2007年7月新潟柏崎原発(世界一の発電力を誇る)が全面停止。この時もなし。
③今回の震災で原発のみならず火力もやられたという。では火力のいくつが壊れ、休眠中・修理中、そして稼働中はいくつかと聞いた。すると休眠中・調整中は数を言え(わ)なかった。
④3月半ばの東電の発表だと、予想される供給不足の電力は400万キロワット。しかし、一番発電量の多い修理中の火力は鹿島の380万キロワットで、その修理・調整も今週中になんとかなる、という答。直後、380は320と修正され、「今週中」も「4月」となる。
 原発は必要だという刷り込みのため、騙せるものならいくらでも騙してやるということだろう。
 それと直接関係はないが、6月にあのソフトバンクの孫正義も参加した「エネルギーシフト講演会」(衆議院議員第一会館大会議室)での菅直人の話を聞くと、やはり電力会社の周到で姑息なやり方を改めて知ることが出来る。やはり私たちが考えそうなことは全部予測して、そのアリバイを予め作っているのだな、と思えた。

(3)付け足し

 鉢呂経産相が辞任した。「放射能つけてやる」は日経の記者にはめられたと思えなくもないが、「死の町だ」は、無定見ということだ。実はあの南相馬の桜井市長も「ゴーストタウン」と自分の町を言っている。英語で言えばよかったって。大臣でなく市長ならよかったって。違う。一方は客観的・傍観的感想であり、他方は自らの悔しさ・無念・怒りである。その違いが分からなかったということだ。そんな器量だったということだ。


 ☆☆ボランティアの仲間から「とまとランド」のトマトが届いた。丁寧に細心の注意を払って作ったトマトで、放射能の検査をして収穫したというもの。生産者の祈りにも似た手紙も入っていた。小振りで真っ赤に染まり、表皮のしっかりしたトマト、おいしいです。『とまとランドいわき』(四倉)です。