実戦教師塾・琴寄政人の〈場所〉

震災と原発で大揺れの日本、私たちにとって不動の場所とは何か

校内暴力  実戦教師塾通信四百八号

2014-09-26 11:57:02 | 子ども/学校
 校内暴力
     ~子どもと向き合う時~


 1 「ざまあみろ」

 1980年代に入り、校内暴力は「戦後第三のピーク」と言われた。あちこちの中学校の先生が辞(や)めたり小学校に転勤、という事態も生んでいて、それを機に私は中学校に異動した。
 『ビーバップハイスクール』や私の大嫌いな『金八』(見てないけど)に登場するシーンは、全国のあちこちで現実となっていた。私が転勤した中学校も例外ではなかった。先日「ふじ滝」での支援反省会(405号で報告)で、その頃の教え子の話がきっかけとなり当時の話となった。私はその頃のある出来事を話したあと、
「ざまあみろ」
と言った。学校に対して言った私のこの言葉に、何人かが大きくうなずいたのだが、私はしまったと思った。本当はこの「ざまあみろ」にいたるまで、実にたくさんのいきさつがあるからだ。だいぶ手抜きの話となってしまったのだ。私の「ざまあみろ」は、教師たちがどのみち、

○「分かったような顔をした」指導だった
○虚勢(きょせい)「なめられてたまるか」を張った姿だった
○肝心な時の肝心なことを知らない

ことを何かのたびに示したことから来ていた。普段、「人の道」がどうでだの、髪止めの色がどうでと言っている連中の話だ。一応断(ことわ)っておくが、私もこの「連中」の仲間だ。しかし私は、相手に少しばかり牙を剥(む)かれて、後ずさりしながらワンワンと吠えることはしなかったはずだ。こんな時は、相手に対する理解が間違っていたと気づくチャンスなのだから。
 こういうことを言うと、「終わったこと/昔のことを蒸(む)し返してどうするのだ」という向きもあるに違いない。いや、昔の姿をこうして示すのは、今もって変わっちゃいないからだ。私の「ざまあみろ」の意味することは、これらをまとめて、
「情けない」
だった。
 さてその話とは、当時数々あったエピソードのひとつだ。


 2 あの日
 年が明けたある日、雪がまだ残る学校での出来事である。掃除の時だったか、昼休みだったか、生徒たちが校庭で雪合戦に興じている時、必死の形相(ぎょうそう)で、女の先生が教室にいた私を呼びに来た。

「コトヨリ先生、止(と)めてください!」

校長室で生徒が暴(あば)れているという。
 今でこそなぜかそれほど「困難ではない」鑑別所送りを、30年前、この男はこの中3の時されていた。そんな「実績」を持つこの男は、柏だけでなく近隣の市や町の「少年たちの顔」だった。
 行けば職員室の空気は充分緊迫していた。校長室のドアを遠巻(とおま)きにする先生たち。そのドアに何か激しくぶつかる音がし、中から怒鳴り声が聞こえる。中に入った。色を失った校長と教頭、そして生徒指導主任と何人かの先生。それらを相手に文字通りこの男は暴れていた。よく覚えている。こいつはみんな分かってる。背を向けて暴れるこいつを、私は後から抱え込む。そしてこいつがいつも偉(えら)かったのは、きちんと話すことだった。何があったんだと背後から叫ぶと、怒鳴った。

「テメエラ、学校に警察呼んでいいと思ってんのかよ!」
「自分なんかどうなってもいいってオレが思ってるってのか!」
「オレだってコエエ(怖い)んだよ!」
「今度なにかやったらネンショウ(少年院)なんだぞ!」
「分かってんのか!」

泣いていた。すべてが驚きだった。やはりこうして話すことも泣いたことも、だ。最初の「警察」の部分に勘違いはあったが、この男に対して学校が迷惑(めいわく)そうにしている顔はありありだった。
 その時、校長室にもうひとりの先生が入ってくる。詳(くわ)しくは書けないが、この先生とこいつ(ら)は大いに因縁(いんねん)があった。容赦(ようしゃ)のない体罰に対する報復と言ったらいいのか、そういう応酬(おうしゅう)が両者の間にあった。こいつらは中1の時のある夜、この先生の車をコンクリートブロックとハンマーでポンコツにしている。
 入って来たその先生に向かおうとするので、止めに入った。すると、
「ここはまかせてくれないか」
と、いつにない落ち着いた声で先生が言うのだ。いつかこんな時が来ると思っていた、とつぶやいたその先生は、話し合おう、とこの男を座らせた。意外な展開だった。私は帰りの会(だったと思う)が出来ると思って、教室に向かった。
 驚いた。しかし驚きは続いた。間もなく、三年の教室をあいつが回り始めたのである。

「あいつ(先生)が、今までのことをみんなに謝(あやま)るってよ」

だから校庭まで来てくれ、という。三年のフロアは、どよめきともささやきともつかない声で埋(う)まった。おそらくは尋常ではない展開となったこの事態に、生徒たちは動揺していた。しかし、生徒たちのほとんどがこの先生から痛い目/屈辱(くつじょく)を受けていたのも事実だった。そのうちのひとりは私に、
「オレ、内申書が怖いから(校庭に)行かないから」
となどとわざわざ進言するのだった。女子の多くに、どうすればいい、と私は聞かれた。この場合、自分がどうすればいいかではなく、このままでいいかどうか聞いていることは確かだった。
 校庭に、この先生とあいつ、その周りを30人ぐらいだろうか、悪ガキどもが囲み、その外側を先生たちが囲む格好(かっこう)となった。このあと、テレビで聞いたことしかなかったような生徒への、校庭での「土下座」が始まる。今までの暴力をわびるというのだ。わざわざ校庭という場所を選んだのは、プライドをつぶすという意味合いもあっただろう。しかし、この男(生徒)を知る私としては、みんなの前でという「動かせない証拠」を作りたかったのではないかと、今でも思っている。教師は平気でウソをつく、間違いなくこいつはそう思っていた。
 私は円陣の一番内側に入るのをためらった。かといって先生たちの輪に入るわけには行かなかった。どうしよう、おそらく校舎を出て校庭に向かった教師として、私は最後だった。ここにわけは書かないが、途中で止まり、校舎と円陣の間の校庭に私はたたずんだ。校舎を見上げると、そこには1200人の生徒がベランダと窓に張りついていた。
「見るな~!!」
いつも気丈を気取っている女の先生が、校舎に向かって叫ぶ。バカだ。そんなことを言うくらいなら、自分だけでも教室に戻(もど)って、さっさと帰りの会をやればいい。我々の恥(はじ)を演出するだけだ。「人生を解き」「ならんものはならん」と胸を張っていた私たちが、「いま/ここで」為す術(すべ)を知らない。そして、そんな時に必要な「覚悟」もないのだ。


 3 「明日からどうなるのでしょう」
 その後、すっかり夜になった職員室で会議となった。不安でたまらない教師たちが次々と発言した。
「あの生徒たちがこれから我が物顔で過ごすのでしょうか」
「明日から私たちはどうなるのでしょう」
「私たちのことを誰が守ってくれるのでしょうか」
何も打つ手がなくやりたいようにやられた、とほとんどの教師が思っていた。
「一体なぜ」を忘れ、
「どうすればいいか」
という思考とスタンスは、この時も驚くほど変わっていなかった。はっきり言うが、あの時「なぜ」という姿勢を持っていたのは、50人の職員中3人だ。
 騒ぎの発端(ほったん)は「警察」で、その勘違いを本人も途中で認めている。校庭でのシーンは、むしろ当の教師からの持ち出しと言える。この夜の職員会議で、本人から説明があったように、それは「自分の『けじめ』だった」というのだ。私は、

「先生たちは何も怖がることはないんですよ。明日はまた普段通りの日がやってくるんです」

と言ったことをはっきり覚えている。でも明日、自分が「人生のちっぽけな先輩」、恥ずかしげもなく語ってきた「人間として尊厳(そんげん)」などをさらす覚悟はお持ちですか、ということだった。
 そう言えばあの時は言わなかった。明日授業を始める前に、今日のことを生徒にきちんと話してから授業を始めましょう、と。自分が今日の出来事をどう考えるのか、話しましょう、生徒はみてしまったんです、と。何事もなかったかのように授業を始める醜態(しゅうたい)はよしましょう、と私は言わなかった。
 あの次の日、私は生徒たちになんと言ったのだろう。

            
           盛りを過ぎましたが、手賀沼そばの彼岸花

 ☆☆
泣いた 笑った ため息を知らない私がそこにはいました
今では懐かしい思い出がほほを伝います

って分かりますか。焼酎『二階堂』のCMです。前に別のバージョン載(の)せた記憶があります。『二階堂』上手だなあ。木造の校舎と不揃いな鉛筆、なんか平気で懐古的(かいこてき)気分に浸(ひた)ってしまいます。金木犀が匂い始めましたね。

 ☆☆
すごいですね、逸ノ城。昨日の取り組みなんて、どっちが大関か分からないぐらい余裕があった。新入幕の優勝って、ホントにちょうど百年ぶりなんですね。両国に国技館が開いた年の1914年、その年に優勝した「両国勇次郎」。さて、今日は鶴竜、昨日負けましたが、ああいう相撲を初日からとっていればいいのに、ずっと引いてばかりいた。きっと明日は白鵬ですね。いい取り組みがみたいです。

マー君、良かったね~、すごいね~!

ひとりじゃない  実戦教師塾通信四百七号

2014-09-19 11:45:19 | 子ども/学校
 ひとりじゃない
     ~「ひとり」を許されない子どもたち~


 1 「静かな登校拒否」

 このブログを丹念に読んでいる読者は知っていると思うが、別なブログの方から連絡を受けた。議論に噛(か)めないか、という提案である。そのブログでひとりの方が不登校の経験を語り始めた。今まで外に出したことがないという。そこに関われることを私はありがたいと思えた。
 この方は、30~40ぐらいの年齢である。当時、中学校?のしてくれた対処は、
「オレはオマエに気を使ってんだよ」
と言って通り過ぎる担任やクラス生徒を生んでしまった、という。こういうクラスのムードがもともとあって不登校となったのか、不登校への「配慮」がいじめの基礎を作ってしまったのかは分からないのだが、ではどんな対処が良かったのか、というのがブログ上の議論である。この議論の「答」を書くにあたって、まず私が経験してきた「不登校」生徒について書かないといけない。

 人はたびたび生活を変えたいと思う。明日はイヤでもやって来る、という倦怠感(けんたいかん)が発生するのは、その人が健康な証拠である。それで部屋の模様替えをしたり、通(かよ)っているジムを変えたりエステに行ったりする。仕事や学校を休みたいというのは、人のごく自然な気持ちなのだ。「補償」とも呼ばれるこれらの行為がうまくいかなかった時、人は時間とともにこの倦怠感をやり過ごす。「退行」と呼ばれるこの行為を選び、ある人は仕事を続けながら、ある人は休みつつやり過ごす。これを許されないのは、とてもつらいことなのだ。
 私が「登校拒否」と呼んでいい生徒に出くわしたのは、私も若かった小学校教員の時である。この子の母親が年を重ねてから授(さず)かったひとりっ子、というのが理由なのかどうか、とにかくその子の手に刺(とげ)でも刺されば、近隣(きんりん)を驚かすような騒ぎを母親はするのだった。私はこの時に親の愛が過ぎる時の「母子分離不安」というカテゴリーを理解することとなった。この子も、と言うべきか、

「ひとりになれなかった」

 やがて私が中学校の教員となって、貴重な体験をする。中2の男子生徒だった。ある日休み始めてパッタリと学校に来なくなった。おとなしい生徒ではあったが、友だちもしっかりおり、頭も中の上ぐらいで兄弟もいた。両親はまあ特に言うこともなし。さてどうしよう、私は思った。家に電話して本人を出してください、みたいなやり方が良くないことぐらい私は分かった。行って話すだけでもしたいと思った。
 学校に行かない行為を「拒否」という言葉で表現するぐらい、当時の長期欠席は周辺から激しい抵抗を受けた。社会がまだその行為を承認していなかったからだ。この時も父親が、

「オレに恥をかかせる気か!」

と、本人に激しく迫(せま)ったというのを母親から聞いた。
 恥ずかしいことだが、私はクラスのみんなが、
「あいつの家に行って、励(はげ)まそう」
という声を、その時説き伏せ(ときふせ)なかった。特に親しかった生徒は、自分が何か悪いことをしたのだろうかという思いさえ持っていた。ある日の夕方、家に大勢で出かけた。男女ともに黒い制服で行ったことを覚えている。秋だったのだろうか。玄関先で母親がお礼とお詫(わ)びを言う姿が、今も鮮(あざや)やかに思い出される。こんなバカなことを二度としてはいけない、私はあの時自分に言い聞かせた。二階のカーテンの陰から、おびただしい制服の集団と、謝(あやま)る母親の姿を本人はきっと見ていたはずだ。近所も一体何事かと思ったことだろう。
 数日後、私はまた足を運び本人と対面する。そして今もはっきり覚えている、驚くべき本人の「釈明(しゃくめい)」を聞く。

「先生、オレは休んでいるんだよ」

初めは何を言われているのか分からなかった。やがてあれこれ考えるうちに、色々なことが分かってくる。

○この子は「休み」を必要としている
○この子は休む理由があるにせよないにせよ、それを話す気がない
○この子は、いまは「分かってほしい」と思っていない
○この子は私(たち)が「分かろう」としても無理なことを教えている

「静かな」そして「確信を持った」不登校宣言だったのである。
 何人かの仲良しの生徒は、このあと何度か、行ってきます、と告(つ)げて家まで出かけた。私たちは様子を確かめあった。それ以上でも以下でもない。
「このままでいいと思ってるのかね」
という今ではそんなになくなった、しかし当時はよく聞いた管理職の声だ。私は状況報告をしつつそれを受け流した。
 卒業文集か手紙だったか忘れたが、

「みんなにありがとう」

という本人からのメッセージが、卒業近いクラスに届いた。

      
      秋の訪れを告げる手賀沼

 2 「ひとりじゃない」
 「コミショ(コミュニケーション障害)」だの「(ひとり)ぼっち」だのと、自分を揶揄(やゆ)する若者が巷(ちまた)を歩く。この現象は、自分という存在の承認欲求や、周囲からの同調圧力で発生する。
 このブログ355、356号に補足する形で書くが、同時にこの現象は一方で、
「ひとりになれない/ひとりになるのが嫌だ」
という本人の思いと、もう一方の、
「ひとりにはさせない」
という周囲からの眼差しに支(ささ)えられている。同調圧力は、集団や社会からの「ひとりにはさせない」力でもある。本当はいじめも同じ図式で生まれ、進行しているのである。
 355号で書いたことを繰り返せば「シカト」とは、学校的規律から脱(ぬ)け出し、学校空間の外に引きこもった「同盟」が生み出す行為である。心配なので繰り返すが「引きこもった集団」が「シカト」をするのだ。

「オマエはここの(ここにいるべき)人間ではない」

というのだ。ここからが補足である。実は、そうされた子どもは、「ひとりぼっち」になる、のではない。同盟を作った集団は、この子を「ひとり」のまま放置しないからだ。だからこそ、そっとしておいてくれないか、という私たちの声は空虚に響いた。その証拠に連中は声をかけない、を終わりとしない。「声をかけないという働きかけ」の行く先/顛末(てんまつ)を見届けようとする。教室は強烈な「同盟の眼差し」というネットワークで満たされる。そのため、

○その子が発表しようとするとみんな一斉に手を下ろす
○その子がトイレに行こうとすると、トイレ全体が空になる

等が頻発(ひんぱつ)するようになる。困ったその子が、ひとり読書という道に入ろうとすると、同盟は「シカト」では不充分な場所にその子が移動したと判断。今度はいよいよ直接妨害(ぼうがい)する行為に及ぶ。
 これらは、被害生徒を「ひとりにさせない」執拗(しつよう)な戦略と言える。ひどい目にあっている子に向かって、

「オマエはひとりじゃない」

と言うことがまったく見当違いである、とはそういうことだ。この場合、この子ども(たち)が、
「『ひとり』で癒(いや)される/休める場所」
を必要としているのは間違いないからだ。しかし例えば、エステから帰って来た母親が、コンビニのおかずを用意しながら、
「友だちとはうまくやってるの?」
なんて言うんじゃ、この子の「学校とは違う場所」「安心できる場所」がキープされるはずがない。今やこの子が部屋に戻れば、スマホが「ライン上」で「返信」を待っているのである。

      
      稲刈りを終えた手賀沼そばの田んぼ

 3 温かい眼差し
 あまり字数が残されていないが、「どうしたらいいのか」は、もうはっきりしている。いまだに多くの母親が可能としていることが答だ。母親の温かく「見守る」眼差しは、

○子どもの背中を押したらいいか
○そっとしておいた方がいいか
○匿(かくま)った方がいいか

等を判別する。この判断は悩んでじたばたした挙げ句(あげく)に出される。そして、判断したあとも悩み続ける。それを「温かい」というのだ。これが「窮屈(きゅうくつ)な社会」を変える基礎だ。「ひとり」に出来る「場所」の基礎である。一方的に「どうしたの」「ひとりじゃない」と言う勘違いが本人の負担になっていることを、多くの大人は知らない。また一方で、

○学校にカウンセラー設置を義務づけた
○命の大切さを授業で取り組んでいる

等のマニュアルを信じようとしている間抜けな現状もある。

 小さい子どもの誕生パーティで、大人ばかりが料理や話に弾(はず)み、肝心な子どもの方はそれぞれゲーム機とにらめっこというのが冗談ではない現実がある。それは、巨大産業資本が家族の絆もむしばんでいる風景だ、とする連中がまだ世の中を牛耳(ぎゅうじ)っている。こういう連中を私たちは「マルクス主義者」として批判してきた。私たちは「よりよい明日」を目指してやってきた結果を目の当たりにしている、ということに気づかないといけない。いじめもいまそのそしりを免(まぬが)れない場所にいる。「ひとりじゃない」ことを目指す社会は、居心地のいい「ひとり」まで排斥(はいせき)しようとしている。


 ☆☆
前回ブログのコメントでもニュースでもご存じかと思います。門前払いにすると思われた館山市が「第三者委員会」の設置を了承しました。15日発行の「考える会通信」で、お父さんが喜びを語っています。
「……『第三者委員会を設置する』とのことでした。この言葉のひと言で、心の中でホッとし、これでようやく第一歩が進んだ気がしました。これもひとえに皆様方のご支援のおかげであります。…これから先……分からなかった部分を解明し、真実を明らかにしてゆきたいと思います。……本当にありがとうございました」
読者の皆さんもこの行く末を温かく、厳しく注目してください。

 ☆☆
開け放った窓から、近くの小学校でやってる運動会の練習が聞こえてきます。男の先生のアナウンスから察するに、大玉転がしの練習です。赤が勝ったみたいです。子どもたちの黄色い歓声が空に響いてこだまします。秋ですね。フレーフレーです。

再び館山  実戦教師塾通信四百六号

2014-09-12 11:35:53 | 子ども/学校
 再び館山
     ~S君7回忌~


 1 何しに来た?

 事務局の小出さんから早々と発言を求められた私は、その成り行きでずっと正座をしていた。小さいころいじめを受けたという方や、知り合いの子がいじめを受けているという方、このS君のことを少しでも伝えていきたいと考える方、様々な報告や自己紹介があった。次期の市長に立候補する渡辺まさし氏が来ていたのも良かったと思う。この問題をおざなりにしている館山の状況を憂(うれ)えているからだ。しかし、法話室を埋(う)めた30人の出席者があと3人ほどで発言を終えようとする時、私は足を崩(くず)した。足がしびれたからではない。
 発言者の話を我慢(がまん)出来なかったからだ。私は言った。

「だからね、あなたの話は、大人のきちんとした対応があればいじめは解決できる、というように聞けばいいのか、それともいじめる側にも仕方のない理由があるんだ、と聞けばいいのか、どっちなんですか」

コトヨリさん、今日は議論する日ではないので、と静止する進行役の小出さんの声は、私の頭の上を通り過ぎた。腹にすえかねた私のひざは立っていた。
 思い起こせば、5月に館山を訪れた時、私はホテルの会議室で発言した教師(OB)に我慢ならず熱くなった。この通信384号で報告した。その時のブログ上のコメントで、私はわずかばかり反省をしている。その反省はやはり不要だったようだ。その時の教師がこの日も来ていた。その発言が、もうなってない。以下のような内容だ。

① 「(館山いじめを)考える会」の皆さんは、近隣(きんりん)の学校で、先生方になんて言われてるか知ってますか。「危険な人たちの集団」と言われてるんです。だから私は、そんなことはないと言って聞かせてます。

② 学校学校ってみなさんはおっしゃいますが、学校と言っても、管理職と職員で成り立っているのですよ。そんな単純な批判をするものではない。

③ 皆さんはいじめがよくないって簡単に言いますが、それはもう複雑な事情を抱えているのがいじめなんです。

この教師が「考える会」の立場なのかどうかで迷う必要はない。①~③まで通して読めば、「考える会」は「危ない人たちの集まり」ではないが、「学校を分かってない人たちの集まり」だと、この教師が考えていることが分かる。だからこそ、①で臭(にお)わす「善意」が許せない。この「善意」からの「忠告」で、私たちに伝染するのは現場の「悪意」なのだ。まるで「学校への誤解を解き」、「『守る会』との間を取り持つ」気持ちになっているかのようなこの教師は、ひるがえって今度は学校現場の教師に、

「『考える会』の人たちに、あなたたちは学校を分かってないって言ってきたよ」

と言っているのは間違いないのだ。
 少し熱くなって③を簡単にしすぎたが、この教師は、いじめの問題が国家の政策や社会の病根(びょうこん)、そして複雑な家庭や友人関係などから生まれると講釈(こうしゃく)した。その後、ケースとして、家庭が崩壊した子がいじめを起こすという例をあげたのである。いじめの加害者だったこの子が、泣いて謝罪するという結末を最後にこの教師が座ろうとした時、私は言った。それが初めの発言である。
 いじめを苦にして自殺したS君の7回忌に、一体こいつは何をしに来たのだ? 聞けばこの教師は、「考える会」の活動にはよく顔を見せていたという。しかしそこで繰り返し、

「あなたたち(考える会)は現場を分かってない」

と、この教師が言ってきたことは疑いがない。弱いものがようやく声をあげているというのに、この教師の「善意」はその声を「なだめにかかっている」。そのことにまったく無自覚なのだ。一体、遺族を始め「考える会」の人たちが、こういう奴どもにどれだけ足を引っ張られて来たのだろう。腐るほど見てきた(そして、私は今も毎日のように報告を受けている)こういう教師(学校)の姿が、鮮(あざ)やかに浮かぶのだった。
 私の発言に対して、この教師は、いじめは単純なものではないということを言いたいのだ、という反論をしたが、

「国が社会が(悪いから)、という考えが現場を変えたことなどひとつもない」

と、私はすぐに返した。二度目のストップがかかった。


 2 「大人の責任」
 石井としひろ議員はこの時、市議会の報告をした。8月15日に市長あてで提出した遺族からの「第三者委員会」の立ち上げをどうするつもりか、という質問を石井議員がしたからだ。
「父親からの要請(ようせい)なので、ここで言う必要はない」
という市長の回答だったらしい。関連質問への答は、
「S君の命日は知らない」
「通夜は行ってない」
「そういうこと(葬式・法要など)は、市教委に任(まか)せている」
というものだったようだ。
 さて、遺族の方の表情を伝えねばならない。私は、父親が最後に言った、

「まだ頑張れると思った」

というはっきりした言葉がとても印象に残った。当たり前だが、大変だったのだな、そして、くじけそうになったけどまだやれる、やらなきゃと思ったのだな、とこの言葉を受け止めた。後ろで聞いている弟さんの顔がしっかりしているのも良かった。友だちがそばに寄り添っていた。こうなるまでずいぶん大変な日々だったという。この日、姉さんは仕事が休めなかったという。以前だったら出席を拒絶しただろうという話だった。少しずつ遺族の方は前に進んでいるのだ。
 私は法要が解散した後の集まりで、私が初めに話したことが父親にどう思われているのかを確認したかった。つまり、父親は、いやお父さんと言おう。私は父親にずっと「お父さん」と話しかけた。お父さんは事件の後からずっと、

「誰の責任も追及しない。事実を知りたい」

と言ってきた。私はお寺のあいさつで、

「子どもは罪を犯(おか)します。過(あやま)ちを犯して大人になります。それが子どもというものです。だから、子どもが過ちを犯した時、それを導くのが大人です。大人は子どもの犯した罪の責任を負(お)わないといけません」

と話した。お父さんが繰り返し言っていることはそういう意味のことではありませんか、と聞いた。そういう意味で、お父さんが自分の息子の悲しみに対して責任をとろうとしているのではありませんか、とたずねた。やはり、大人が子どもに責任を負っていることを避(さ)けては通れないと私は思っているからだ。お父さんは、

「どうして息子を助けてやれなかったんだろうって思います」

と話した。そして私に、その通りです、と言った。その穏(おだ)やかな顔と言葉に、私はほっとする。そして口幅ったいが、この人たちの力になれると思った。

 館山からの電車は本数がわずかだ。皆さんにおいとまを告げて駅に向かう。雨上がりの道を石井議員さんが車を飛ばしてくれた。
 皆さんありがとう。


 ☆☆
法話室あいさつのしんがりをつとめたのは、市営バスで子どもの送迎(そうげい)をしていたという運転手さんでした。幼いころのS君を乗せていたというのです。その方が、
「館山はクールだと思いませんか」
と言うのです。そうして、だんだんと私の方に向かってくるのです。背筋がしっかりと伸びた高齢のその方(私も高齢だが)が繰り返し言うもので、つい私は、
「クールってカッコイイってことですか」
と居住まいを正して、聞いてしまった。そんなわけないんだが。
「クールって『冷たい』ということですよ」
と、運転手さんは私に言い聞かせるのでした。みんな優しい人たちでした。

            
            黄金色になった手賀沼そばの稲穂です
 ☆☆
M.シューマッハ、奇跡的な回復をしてるんですねえ。嬉しいです。彼がセナと戦った人であることもその理由ですが、2011年の開幕の時、シューマッハが口火を切って震災を受けた日本にエールを送ったからです。あの時F1パイロットたちがみんな、片言(かたこと)の日本語でエールを送ってくれたことを私は忘れられません。

『いつかは米俵百俵』 Ⅱ  実戦教師塾通信四百五号

2014-09-05 11:24:35 | 福島からの報告
 『いつかは米俵百俵』 その2
     ~教え子たち~


 1 変わる海岸

 よく被災場所保存の是非(ぜひ)が話題となる。忘れてはいけないとみんな思っても、それがつらいからだ。
 今回『いつかは…』のメンバーを海岸に案内するにあたって、やはり考えた。かつて無残(むざん)な姿を見せていた海岸一帯は今、もうほとんど名残(なごり)をとどめていない。私は案内する前、メンバーに「今はまるで『住宅の造成地』だ」と説明した。フェンスで囲われた一帯は、まったく立ち入りが出来なくなった。残っていた土台/基礎はすべて取り払われ、黒々と地面がのぞいている。
 これが二年前の写真だ。
      
      
 今度は、こう見えて昨年のものだ。
      
      
この大地の大きなうねりと裂(さ)け目は、今はすべて平坦(へいたん)にならされている。
 元の生活が取り戻されようとしているのは、いいことであるに違いない。しかし、こんなひどいことが起こったのだということを、みんなに見て欲しかった、と私は思う。より考えれば、私よりもっと早くここに足を運んだ人たちは、もっと早く来て見て欲しかったと思ったに違いない。そしてここに住んでいた人たちは、きっと自分たちのことを分かってもらえないと思っているのは間違いない。
 メンバーがお味噌を配った時のことを語った。

「ある人が、津波前の写真を見せて『どうして自分はここ(仮設住宅)にいるんだ
ろうって今も思う』って言ってました」

被災者自身が、いまだに何が起きたのかを捉(とら)えられないでいる。


 2 教え子たち
 団体『いつかは米俵百俵』とは、今はほとんどが私の教え子である。この私的な支援団体を立ち上げる時、私は自分の携帯アドレスから、協力して欲しい人を選んだ。ネットでやればすぐ集まるよ、と言ってくれる仲間もいた。しかし、古い読者は知っているが、私は福島入りした時から「顔の見える支援」をしてきたつもりだ。瓦礫(がれき)処理も、避難所回りもだ。それでこの時も、「不特定ではない」仲間に協力を頼んだ。
 応じてくれたのは半分以上が教え子だった。支援から抜ける人も多かったが、多くの教え子たちは支援を続けてくれた。そして新たに参入してくるのも、どこから聞いたやら、なぜか教え子たちだった。
 旅館「ふじ滝」でみんなが話した。
「福島にきた時と東京に帰った時。震災の頃と今。被災者の話を聞いた時とそのあと。その温度差をいつも感じる」
「震災をわすれてはいけないという思いでこの支援を続けてきた」
「忘れちゃいけないって改めて思った」
2020年東京オリンピック誘致(ゆうち)決定の興奮をテレビで見たおばちゃんたちが「あ、私たちは終わっちゃったんだ」という、その言葉を忘れられない。しかし、私たちは「根性(こんじょう)」で支援を続けているわけではないとも思う。まだ分からないでいるが、もっと別なものがあるはずだ、という気持ちは手放したくないと思うのだ。
「よく分からないままに味噌/醤油を送り続けて来た。リアリティのない気持ちと決着をつけたかった」「果たして『いつかは米俵百俵』なる団体は本当にあるのだろうか、と思うことさえあった」
この日この教え子はいわきまでやって来た。そして、リアリティと『いつかは米俵…』の存在を確認したのだ。私はこのたぐいのリアリティの行く先をたくさん見てきた。
「ホントに配ってんのか」
「ピンはねしてない?」
といった愚(ぐ)にもつかない言いがかりに、
「じゃあ、一緒に手伝って」
「信用できる機関を自分で探したら?」
といったバカバカしい応対を、私は実に数多くしてきた。そしてこういう奴らは、言うだけ言ったあと、ひどい時は一度も参加することなく姿を消した。
「支援てヤなことの方が多くありません?」
とは、前も紹介したがNPOの仲間が言っていたことだ。
 バカを言うバカは教え子にいなかったが、仲間とはどんなものかを、この支援活動は教えてくれたとも言える。
 私の話を聞いた教え子はみんな、
「ホントですか!」
と声をあげた。嬉しい。四年目の疲労がほどけていく。


 3 学級便り
      
 これが先生になりたての私が出していた学級便り『アゲイン』である。やたらに豪華な装(よそお)いをしているが、これは6年3組が卒業する前日の特別号だと思う。それにしては日付が3月24日だ。当時、こんなに卒業式が遅かったのだろうか。懐(なつ)かしい。絵も字も手書きだ。
 以下、いつもの私の学級便りふうに書いてみる。 

 あのあと、メールや手紙がオマエたちから届いた。
「今、着きました! いい経験になりました。いい思い出にもね! 先生、無理し過ぎないように!」
「本当はありがた迷惑なのかもしれないって……だから初めて仮設住宅のドアをノックするときは、かなりの勇気が必要だった。……でも、仮設住宅の人たちの笑顔は、私の不安だった気持ちをびっくりするくらい取り除いてくれたんだ! 本当に来て良かった」
「勇気を出して行って良かった」
「まずは体を休めてくださいね」

こういう便りが、何よりの薬だ。お味噌の数合わせや時間を気にして走り回ってばかりいたオレは、手伝ってもらっていながらまったく余裕(よゆう)がなかった。20人近い集団をリードするのは、瓦礫処理以来三年ぶりだった。何度ボールペンを見失ったというんだ。あいつにどうしてあそこであいさつしてもらわなかったんだろう。集会所で結局遠巻きでいたた若者たちやおばちゃんおじちゃんに、どうしてもっとサポート出来なかったんだろうなどという後悔が、こう見えてもあとからあとから来ていた。

 夕方、旅館「ふじ滝」のことで、以下もメール&手紙。
「もっともっと、みなさんと語り合いたかったです。また集まりたいですね」
「先生の教え子、年代問わず、仲良くできそうです」
「みんな先生を好きな人たちはいい方ばかりですね」
最後のは載(の)せるか迷った。教え子たち「みんないい」が嬉しい。あの時「このままここで泊まっていきたい」と言った奴もいた。また、二人の小さな子どものいる母親は、この日が「私の夏休み」だったらしく、解散予定の5時半をとっくに過ぎる8時を回っても舌はなめらかだった。こいつは、
「先生の前だからって、今までずっと遠慮してたのよ」
とはしっこのタバココーナーで堂々と煙を吐きながら、相変わらずの減らず口をたたくのだ。大体こいつは、牧場主さんのところで思いっきりやらかした(まあ悪いわけではなかったが)ことをすっかり忘れてる。車に近づくと自動的にロックが解除される車だったこいつは、車のそばで話を聞いてたものだから、バシャバシャとロックが閉まったり開いたりと、うるさいうるさい。
「うるさいよ」
と、オレに言われて助けられたはずだが、そこはこいつの鍛(きた)えぬかれた心臓。フン、と言って鍵を車に投げ入れるのだ。変わってねえよなあ、とオレは20年余りの時を飛び越える。
「『こんな父ですけど』……! 子どもだからこそ言えるこの言葉、良かったです。先生負けたね~」
この日ずっと影のようにサポートしてくれた娘は、「ふじ滝」ではずけずけとオレを言いまくった。言われっぱなしのオレだったのだが、
「お父さんが時間と労力を尽くして、色々な方たちと信頼を築(きず)いてきたことも、しっかり伝わってきたよ」
というメールが届く。ホッと大きなため息をつくオレだった。
「干物がおいしくて、家族(おみやげ)にも好評でした。食べてみないと分からないものですね!」
「仲村トオルさんとの写真を持ち歩いてます。かなりときめきました♡」
おっとこの二つ目、載せるかどうか迷ったぜ。どっかから「オメエラ何しにいわきまで行ったんだよ」ってチャチャがまた入るしねえ。まあ、外野は黙ってなさい。
「筋肉痛です~」
そっか~ この日は17人参加してくれた。でも17人が10個ずつだ。片手で5個ずつか。もうすぐ50路のメンバーにはきつかったようだ。

 帰りぎわ、姿が見えない「ふじ滝」の女将さんを探して手間取った。玄関に戻ると、スリッパが見事に並ぶ向こう側に、オマエたちも暗闇の中で並んでた。

 ありがとう、みんな。オレはもういつ死んでもいいよ。

とは、まだ思ってない。


 ☆☆
そのほか、不参加メンバーからもいろいろな連絡をもらいました。富岡町に実家を持つ教え子は、
「親戚には震災のことが聞きづらくて、まだ聞けないままでいます」
と残念しきりでした。また、
「俺は『いつかは米俵百俵』と『献血』にお金と身体を注いでいるから、ALSの寄付はまた今度。風呂で一人で水被(かぶ)ります」
と言えるようになりたいもんですという、悩める教え子。みんなありがとう。

さて「ふじ滝」での話は、そのほかに映画や子育て、恋愛と様々飛び交(か)いました。その中の昔話で、しまった、舌足らずだったな、と私が思ったことがあります。校内暴力をめぐるこの話には、とても大切なポイントがあったのです。次回?に書きたいと思います。

 ☆☆
最近だと思うんですが、脱原発のデモに日の丸が登場してるんですねえ。面白いなあ。可能性を感じますね。

 ☆☆
先月末、20歳の教え子が交通事故で亡くなりました。私の最後の教え子です。長野は車山のビーナスラインを同級生の3人と走っていた時です。バイクなんです。