校内暴力
~子どもと向き合う時~
1 「ざまあみろ」
1980年代に入り、校内暴力は「戦後第三のピーク」と言われた。あちこちの中学校の先生が辞(や)めたり小学校に転勤、という事態も生んでいて、それを機に私は中学校に異動した。
『ビーバップハイスクール』や私の大嫌いな『金八』(見てないけど)に登場するシーンは、全国のあちこちで現実となっていた。私が転勤した中学校も例外ではなかった。先日「ふじ滝」での支援反省会(405号で報告)で、その頃の教え子の話がきっかけとなり当時の話となった。私はその頃のある出来事を話したあと、
「ざまあみろ」
と言った。学校に対して言った私のこの言葉に、何人かが大きくうなずいたのだが、私はしまったと思った。本当はこの「ざまあみろ」にいたるまで、実にたくさんのいきさつがあるからだ。だいぶ手抜きの話となってしまったのだ。私の「ざまあみろ」は、教師たちがどのみち、
○「分かったような顔をした」指導だった
○虚勢(きょせい)「なめられてたまるか」を張った姿だった
○肝心な時の肝心なことを知らない
ことを何かのたびに示したことから来ていた。普段、「人の道」がどうでだの、髪止めの色がどうでと言っている連中の話だ。一応断(ことわ)っておくが、私もこの「連中」の仲間だ。しかし私は、相手に少しばかり牙を剥(む)かれて、後ずさりしながらワンワンと吠えることはしなかったはずだ。こんな時は、相手に対する理解が間違っていたと気づくチャンスなのだから。
こういうことを言うと、「終わったこと/昔のことを蒸(む)し返してどうするのだ」という向きもあるに違いない。いや、昔の姿をこうして示すのは、今もって変わっちゃいないからだ。私の「ざまあみろ」の意味することは、これらをまとめて、
「情けない」
だった。
さてその話とは、当時数々あったエピソードのひとつだ。
2 あの日
年が明けたある日、雪がまだ残る学校での出来事である。掃除の時だったか、昼休みだったか、生徒たちが校庭で雪合戦に興じている時、必死の形相(ぎょうそう)で、女の先生が教室にいた私を呼びに来た。
「コトヨリ先生、止(と)めてください!」
校長室で生徒が暴(あば)れているという。
今でこそなぜかそれほど「困難ではない」鑑別所送りを、30年前、この男はこの中3の時されていた。そんな「実績」を持つこの男は、柏だけでなく近隣の市や町の「少年たちの顔」だった。
行けば職員室の空気は充分緊迫していた。校長室のドアを遠巻(とおま)きにする先生たち。そのドアに何か激しくぶつかる音がし、中から怒鳴り声が聞こえる。中に入った。色を失った校長と教頭、そして生徒指導主任と何人かの先生。それらを相手に文字通りこの男は暴れていた。よく覚えている。こいつはみんな分かってる。背を向けて暴れるこいつを、私は後から抱え込む。そしてこいつがいつも偉(えら)かったのは、きちんと話すことだった。何があったんだと背後から叫ぶと、怒鳴った。
「テメエラ、学校に警察呼んでいいと思ってんのかよ!」
「自分なんかどうなってもいいってオレが思ってるってのか!」
「オレだってコエエ(怖い)んだよ!」
「今度なにかやったらネンショウ(少年院)なんだぞ!」
「分かってんのか!」
泣いていた。すべてが驚きだった。やはりこうして話すことも泣いたことも、だ。最初の「警察」の部分に勘違いはあったが、この男に対して学校が迷惑(めいわく)そうにしている顔はありありだった。
その時、校長室にもうひとりの先生が入ってくる。詳(くわ)しくは書けないが、この先生とこいつ(ら)は大いに因縁(いんねん)があった。容赦(ようしゃ)のない体罰に対する報復と言ったらいいのか、そういう応酬(おうしゅう)が両者の間にあった。こいつらは中1の時のある夜、この先生の車をコンクリートブロックとハンマーでポンコツにしている。
入って来たその先生に向かおうとするので、止めに入った。すると、
「ここはまかせてくれないか」
と、いつにない落ち着いた声で先生が言うのだ。いつかこんな時が来ると思っていた、とつぶやいたその先生は、話し合おう、とこの男を座らせた。意外な展開だった。私は帰りの会(だったと思う)が出来ると思って、教室に向かった。
驚いた。しかし驚きは続いた。間もなく、三年の教室をあいつが回り始めたのである。
「あいつ(先生)が、今までのことをみんなに謝(あやま)るってよ」
だから校庭まで来てくれ、という。三年のフロアは、どよめきともささやきともつかない声で埋(う)まった。おそらくは尋常ではない展開となったこの事態に、生徒たちは動揺していた。しかし、生徒たちのほとんどがこの先生から痛い目/屈辱(くつじょく)を受けていたのも事実だった。そのうちのひとりは私に、
「オレ、内申書が怖いから(校庭に)行かないから」
となどとわざわざ進言するのだった。女子の多くに、どうすればいい、と私は聞かれた。この場合、自分がどうすればいいかではなく、このままでいいかどうか聞いていることは確かだった。
校庭に、この先生とあいつ、その周りを30人ぐらいだろうか、悪ガキどもが囲み、その外側を先生たちが囲む格好(かっこう)となった。このあと、テレビで聞いたことしかなかったような生徒への、校庭での「土下座」が始まる。今までの暴力をわびるというのだ。わざわざ校庭という場所を選んだのは、プライドをつぶすという意味合いもあっただろう。しかし、この男(生徒)を知る私としては、みんなの前でという「動かせない証拠」を作りたかったのではないかと、今でも思っている。教師は平気でウソをつく、間違いなくこいつはそう思っていた。
私は円陣の一番内側に入るのをためらった。かといって先生たちの輪に入るわけには行かなかった。どうしよう、おそらく校舎を出て校庭に向かった教師として、私は最後だった。ここにわけは書かないが、途中で止まり、校舎と円陣の間の校庭に私はたたずんだ。校舎を見上げると、そこには1200人の生徒がベランダと窓に張りついていた。
「見るな~!!」
いつも気丈を気取っている女の先生が、校舎に向かって叫ぶ。バカだ。そんなことを言うくらいなら、自分だけでも教室に戻(もど)って、さっさと帰りの会をやればいい。我々の恥(はじ)を演出するだけだ。「人生を解き」「ならんものはならん」と胸を張っていた私たちが、「いま/ここで」為す術(すべ)を知らない。そして、そんな時に必要な「覚悟」もないのだ。
3 「明日からどうなるのでしょう」
その後、すっかり夜になった職員室で会議となった。不安でたまらない教師たちが次々と発言した。
「あの生徒たちがこれから我が物顔で過ごすのでしょうか」
「明日から私たちはどうなるのでしょう」
「私たちのことを誰が守ってくれるのでしょうか」
何も打つ手がなくやりたいようにやられた、とほとんどの教師が思っていた。
「一体なぜ」を忘れ、
「どうすればいいか」
という思考とスタンスは、この時も驚くほど変わっていなかった。はっきり言うが、あの時「なぜ」という姿勢を持っていたのは、50人の職員中3人だ。
騒ぎの発端(ほったん)は「警察」で、その勘違いを本人も途中で認めている。校庭でのシーンは、むしろ当の教師からの持ち出しと言える。この夜の職員会議で、本人から説明があったように、それは「自分の『けじめ』だった」というのだ。私は、
「先生たちは何も怖がることはないんですよ。明日はまた普段通りの日がやってくるんです」
と言ったことをはっきり覚えている。でも明日、自分が「人生のちっぽけな先輩」、恥ずかしげもなく語ってきた「人間として尊厳(そんげん)」などをさらす覚悟はお持ちですか、ということだった。
そう言えばあの時は言わなかった。明日授業を始める前に、今日のことを生徒にきちんと話してから授業を始めましょう、と。自分が今日の出来事をどう考えるのか、話しましょう、生徒はみてしまったんです、と。何事もなかったかのように授業を始める醜態(しゅうたい)はよしましょう、と私は言わなかった。
あの次の日、私は生徒たちになんと言ったのだろう。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/70/d6/88f25864fba77bccc0757bad2a2573e4.jpg)
盛りを過ぎましたが、手賀沼そばの彼岸花
☆☆
泣いた 笑った ため息を知らない私がそこにはいました
今では懐かしい思い出がほほを伝います
って分かりますか。焼酎『二階堂』のCMです。前に別のバージョン載(の)せた記憶があります。『二階堂』上手だなあ。木造の校舎と不揃いな鉛筆、なんか平気で懐古的(かいこてき)気分に浸(ひた)ってしまいます。金木犀が匂い始めましたね。
☆☆
すごいですね、逸ノ城。昨日の取り組みなんて、どっちが大関か分からないぐらい余裕があった。新入幕の優勝って、ホントにちょうど百年ぶりなんですね。両国に国技館が開いた年の1914年、その年に優勝した「両国勇次郎」。さて、今日は鶴竜、昨日負けましたが、ああいう相撲を初日からとっていればいいのに、ずっと引いてばかりいた。きっと明日は白鵬ですね。いい取り組みがみたいです。
マー君、良かったね~、すごいね~!
~子どもと向き合う時~
1 「ざまあみろ」
1980年代に入り、校内暴力は「戦後第三のピーク」と言われた。あちこちの中学校の先生が辞(や)めたり小学校に転勤、という事態も生んでいて、それを機に私は中学校に異動した。
『ビーバップハイスクール』や私の大嫌いな『金八』(見てないけど)に登場するシーンは、全国のあちこちで現実となっていた。私が転勤した中学校も例外ではなかった。先日「ふじ滝」での支援反省会(405号で報告)で、その頃の教え子の話がきっかけとなり当時の話となった。私はその頃のある出来事を話したあと、
「ざまあみろ」
と言った。学校に対して言った私のこの言葉に、何人かが大きくうなずいたのだが、私はしまったと思った。本当はこの「ざまあみろ」にいたるまで、実にたくさんのいきさつがあるからだ。だいぶ手抜きの話となってしまったのだ。私の「ざまあみろ」は、教師たちがどのみち、
○「分かったような顔をした」指導だった
○虚勢(きょせい)「なめられてたまるか」を張った姿だった
○肝心な時の肝心なことを知らない
ことを何かのたびに示したことから来ていた。普段、「人の道」がどうでだの、髪止めの色がどうでと言っている連中の話だ。一応断(ことわ)っておくが、私もこの「連中」の仲間だ。しかし私は、相手に少しばかり牙を剥(む)かれて、後ずさりしながらワンワンと吠えることはしなかったはずだ。こんな時は、相手に対する理解が間違っていたと気づくチャンスなのだから。
こういうことを言うと、「終わったこと/昔のことを蒸(む)し返してどうするのだ」という向きもあるに違いない。いや、昔の姿をこうして示すのは、今もって変わっちゃいないからだ。私の「ざまあみろ」の意味することは、これらをまとめて、
「情けない」
だった。
さてその話とは、当時数々あったエピソードのひとつだ。
2 あの日
年が明けたある日、雪がまだ残る学校での出来事である。掃除の時だったか、昼休みだったか、生徒たちが校庭で雪合戦に興じている時、必死の形相(ぎょうそう)で、女の先生が教室にいた私を呼びに来た。
「コトヨリ先生、止(と)めてください!」
校長室で生徒が暴(あば)れているという。
今でこそなぜかそれほど「困難ではない」鑑別所送りを、30年前、この男はこの中3の時されていた。そんな「実績」を持つこの男は、柏だけでなく近隣の市や町の「少年たちの顔」だった。
行けば職員室の空気は充分緊迫していた。校長室のドアを遠巻(とおま)きにする先生たち。そのドアに何か激しくぶつかる音がし、中から怒鳴り声が聞こえる。中に入った。色を失った校長と教頭、そして生徒指導主任と何人かの先生。それらを相手に文字通りこの男は暴れていた。よく覚えている。こいつはみんな分かってる。背を向けて暴れるこいつを、私は後から抱え込む。そしてこいつがいつも偉(えら)かったのは、きちんと話すことだった。何があったんだと背後から叫ぶと、怒鳴った。
「テメエラ、学校に警察呼んでいいと思ってんのかよ!」
「自分なんかどうなってもいいってオレが思ってるってのか!」
「オレだってコエエ(怖い)んだよ!」
「今度なにかやったらネンショウ(少年院)なんだぞ!」
「分かってんのか!」
泣いていた。すべてが驚きだった。やはりこうして話すことも泣いたことも、だ。最初の「警察」の部分に勘違いはあったが、この男に対して学校が迷惑(めいわく)そうにしている顔はありありだった。
その時、校長室にもうひとりの先生が入ってくる。詳(くわ)しくは書けないが、この先生とこいつ(ら)は大いに因縁(いんねん)があった。容赦(ようしゃ)のない体罰に対する報復と言ったらいいのか、そういう応酬(おうしゅう)が両者の間にあった。こいつらは中1の時のある夜、この先生の車をコンクリートブロックとハンマーでポンコツにしている。
入って来たその先生に向かおうとするので、止めに入った。すると、
「ここはまかせてくれないか」
と、いつにない落ち着いた声で先生が言うのだ。いつかこんな時が来ると思っていた、とつぶやいたその先生は、話し合おう、とこの男を座らせた。意外な展開だった。私は帰りの会(だったと思う)が出来ると思って、教室に向かった。
驚いた。しかし驚きは続いた。間もなく、三年の教室をあいつが回り始めたのである。
「あいつ(先生)が、今までのことをみんなに謝(あやま)るってよ」
だから校庭まで来てくれ、という。三年のフロアは、どよめきともささやきともつかない声で埋(う)まった。おそらくは尋常ではない展開となったこの事態に、生徒たちは動揺していた。しかし、生徒たちのほとんどがこの先生から痛い目/屈辱(くつじょく)を受けていたのも事実だった。そのうちのひとりは私に、
「オレ、内申書が怖いから(校庭に)行かないから」
となどとわざわざ進言するのだった。女子の多くに、どうすればいい、と私は聞かれた。この場合、自分がどうすればいいかではなく、このままでいいかどうか聞いていることは確かだった。
校庭に、この先生とあいつ、その周りを30人ぐらいだろうか、悪ガキどもが囲み、その外側を先生たちが囲む格好(かっこう)となった。このあと、テレビで聞いたことしかなかったような生徒への、校庭での「土下座」が始まる。今までの暴力をわびるというのだ。わざわざ校庭という場所を選んだのは、プライドをつぶすという意味合いもあっただろう。しかし、この男(生徒)を知る私としては、みんなの前でという「動かせない証拠」を作りたかったのではないかと、今でも思っている。教師は平気でウソをつく、間違いなくこいつはそう思っていた。
私は円陣の一番内側に入るのをためらった。かといって先生たちの輪に入るわけには行かなかった。どうしよう、おそらく校舎を出て校庭に向かった教師として、私は最後だった。ここにわけは書かないが、途中で止まり、校舎と円陣の間の校庭に私はたたずんだ。校舎を見上げると、そこには1200人の生徒がベランダと窓に張りついていた。
「見るな~!!」
いつも気丈を気取っている女の先生が、校舎に向かって叫ぶ。バカだ。そんなことを言うくらいなら、自分だけでも教室に戻(もど)って、さっさと帰りの会をやればいい。我々の恥(はじ)を演出するだけだ。「人生を解き」「ならんものはならん」と胸を張っていた私たちが、「いま/ここで」為す術(すべ)を知らない。そして、そんな時に必要な「覚悟」もないのだ。
3 「明日からどうなるのでしょう」
その後、すっかり夜になった職員室で会議となった。不安でたまらない教師たちが次々と発言した。
「あの生徒たちがこれから我が物顔で過ごすのでしょうか」
「明日から私たちはどうなるのでしょう」
「私たちのことを誰が守ってくれるのでしょうか」
何も打つ手がなくやりたいようにやられた、とほとんどの教師が思っていた。
「一体なぜ」を忘れ、
「どうすればいいか」
という思考とスタンスは、この時も驚くほど変わっていなかった。はっきり言うが、あの時「なぜ」という姿勢を持っていたのは、50人の職員中3人だ。
騒ぎの発端(ほったん)は「警察」で、その勘違いを本人も途中で認めている。校庭でのシーンは、むしろ当の教師からの持ち出しと言える。この夜の職員会議で、本人から説明があったように、それは「自分の『けじめ』だった」というのだ。私は、
「先生たちは何も怖がることはないんですよ。明日はまた普段通りの日がやってくるんです」
と言ったことをはっきり覚えている。でも明日、自分が「人生のちっぽけな先輩」、恥ずかしげもなく語ってきた「人間として尊厳(そんげん)」などをさらす覚悟はお持ちですか、ということだった。
そう言えばあの時は言わなかった。明日授業を始める前に、今日のことを生徒にきちんと話してから授業を始めましょう、と。自分が今日の出来事をどう考えるのか、話しましょう、生徒はみてしまったんです、と。何事もなかったかのように授業を始める醜態(しゅうたい)はよしましょう、と私は言わなかった。
あの次の日、私は生徒たちになんと言ったのだろう。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/70/d6/88f25864fba77bccc0757bad2a2573e4.jpg)
盛りを過ぎましたが、手賀沼そばの彼岸花
☆☆
泣いた 笑った ため息を知らない私がそこにはいました
今では懐かしい思い出がほほを伝います
って分かりますか。焼酎『二階堂』のCMです。前に別のバージョン載(の)せた記憶があります。『二階堂』上手だなあ。木造の校舎と不揃いな鉛筆、なんか平気で懐古的(かいこてき)気分に浸(ひた)ってしまいます。金木犀が匂い始めましたね。
☆☆
すごいですね、逸ノ城。昨日の取り組みなんて、どっちが大関か分からないぐらい余裕があった。新入幕の優勝って、ホントにちょうど百年ぶりなんですね。両国に国技館が開いた年の1914年、その年に優勝した「両国勇次郎」。さて、今日は鶴竜、昨日負けましたが、ああいう相撲を初日からとっていればいいのに、ずっと引いてばかりいた。きっと明日は白鵬ですね。いい取り組みがみたいです。
マー君、良かったね~、すごいね~!