実戦教師塾・琴寄政人の〈場所〉

震災と原発で大揺れの日本、私たちにとって不動の場所とは何か

木戸ダム  実戦教師塾通信四百四十四号

2015-05-29 12:41:33 | 福島からの報告
 木戸ダム
     ~楢葉のいま~


 1 木戸ダム

 サケの放流がニュースとなったことは、前に書いたが、木戸川は楢葉町役場のすぐ近くを流れる。そして「木戸ダム」は、町の水源地である。
「水は大丈夫なのか」
という住民の不安が、政府が主催する、先日の説明会で繰り返された。以前からダムの汚染は問題になっていた。セシウムで汚染されたダムの底の泥は、2万ベクレル近い値が測定されている。環境省の説明によれば、
「放流しているのは上澄(うわず)みだから」
大丈夫という説明だった。しかし、台風などの荒天時に、それが攪拌(かくはん)されて上昇するのではないか。
「それがよ、環境省が言うには、上からの水圧が高いから平気だってよ」
と、私は楢葉の人たちに教えられた。汚れたものを放っておけと言うのだ。火は消えていないが、離れているから安全だ、と近隣の人たちに言ってるようなものだ。楢葉の皆さんが町に出向く時は、ペットボトル持参だという。
 私が木戸ダムに向かったのは、汗ばむような青空の日だった。竜田駅先の交差点を、天神岬と反対の、左方向に曲がると、木戸川沿いにダムへと進む。
 初め、何台ものマイクロバスとすれ違う。朝だったが、満席のバスでみんな眠っていた。窓に「IPC」という張り紙。あとで教えてもらったところでは、石川島プラントのバスらしい。
「第一原発の作業員だよ」
「Jビレッジの宿舎が解体されて、あちこちに分散したからな」
説明は不要と思うが、Jビレッジは広野町にある広大なサッカー施設。スタジアムのピッチに建てられていたプレハブの宿舎は、いまはなくなった。
 バス内の作業員の顔は、みんな疲れ切っていた。しかし、その眠った顔は険(けわ)しかった。
 川沿いの道に、まったく車の影が見えなくなった。すれ違ったのは、たった一台、パトカーだけである。ときおり茂(しげ)みに見え隠れする民家は、放置されたのも、住んでいる空気を見せるものもあった。鶏舎か豚舎か、荒れ果てたままの屋根。こんな風景と不釣り合いな緑と立派な峠道。途中、木戸川渓谷(けいこく)遊歩道の入口駐車場で休憩した。立派なトイレがあったが、すべてロックしてあった。「電源三法による設置施設」という看板がここにもある。そして、遊歩道入口はチェーンが張ってあるのだった。
 やがて、爽(さわ)やかな新緑と青空の向こうに、ダムが開けてくる。
      
不安と抱き合わせの水をたたえて、と言っていいのかどうか、ダムは五月の薫風(くんぷう)に吹かれていた。
      

 2 政府事故調
 政府事故調(福島第一原発事故政府事故調査検証委員会)の報告は、2年前に講談社から発行されているが、もちろん略式である。『福島民友』では、折りを見て県内版とも言えるものを発表している。知らせておきたい。当時の恐怖の記憶が蘇(よみがえ)る。
 今月の17日付けの記事、17頁目の全面を割(さ)いているのは、福島県環境部長と事故調との間でされた二つのやりとりである。

① 原発事故当時、自衛官が「100㎞以上の避難」を現地住民に訴えた
② 原災法(原発事故災害対策法)は、現地対策本部に権限を何も与えていない

ことであった。
 一つ目は、原発の1号機が爆発して二日後の夜、南相馬市役所で、自衛官が、
「原発が爆発します。退避してください」
と言い、各階で、
「100㎞以上離れて」
と言ったという。それが本当だったかどうかの確認。この避難指示は国や県からはなかった。県にことの真偽(しんぎ)を確かめて、そうした動きはないと確認が取れたのはその25分後だったという。しかし実際は、原発の3号機が、この日の午前に爆発している。「爆発していない」が意味することは、それが格納器ではなく、建屋だったということなのだろうか。
 しかし、この2日後、米軍は原発から80㎞圏内に入ることを禁じられる。誰がこのアクシデントを自衛官のミスだと言えるだろう。この事故調と部長のやりとりでは、自衛隊の中堅幹部が情報を取り違え、避難指示を出したのだろうという結論だった。
 一体なにを信じればいいのか、と緊迫した思いで過ごしたあの頃のことが、鮮明に思い出される。避難しなくても大丈夫と言われたところで、また「ただちに健康に支障を来すものではない」と言われたところで、あの時、私たちの不安と不信は膨(ふく)らむばかりだった。二日前、国は朝に出した「10㎞圏内避難指示」を、夕方には「20㎞」に拡大していた。その都度「○○㎞の外に出ていただいていれば『大丈夫』」が繰り返された。逃げようと思わない方が不思議だ。
 そして二つ目でも、驚きあきれることが確認される。
 ここでは田村市の20~30㎞圏内の人たちの扱いが話し合われる。
 つまり「避難しなくても大丈夫」と言われた人たちの扱いである。住民の気持ちは、当然大きく揺れていた。市も県も対応に動く。ところが、避難用バスを出すだけでも大変なことだった。
「我々としては自主避難なので、バスは手配できても、金の用意は出来なかった」
そこでバスは国交省、避難先は総務省にお願いします、と。ところが、どこも「分かりました」と言わなかった。
「うちの管轄(かんかつ)ではない」
「うちにはその権限がありません」
と断ったのである。あとで問題が発生すると判断したのだ。何ということだ。これが一刻を争う、住民の命を左右する時にされていた対応なのである。私は、即刻九州に飛んだ海老蔵の判断を思い出す次第である。国や東電の発表を、誰も信じてやしなかった。
 読者は記憶してほしい。最近も良く聞く「自主避難住民への補償打ち切り」の「自主避難」とは、このことを指す。国が「避難指示」を出してない範囲で「避難した」住民のことだ。「避難しなくてもいいのに避難した」と言うのだ。自分の無能を差し置いて、一体なに言ってる、と思うのは私だけではないだろう。

 3 上荒川仮設住宅
 仮設の担当が上荒川に変わった、楢葉の渡部さんを訪ねた。地元が愛する、白水阿弥陀堂近くである。50世帯と幾ぶん小さめの仮設住宅は、私が今まで知る仮設の中で、一番立派だ。長屋作りの木造平屋はがっしりしており、天井も少し高い気がする。
 集会場に入ると、ちょうど朝のラジオ体操が終わったところだった。みんなでお茶を飲み、縁側では男の人たちが乗り出して、私のバイクについて感想を戦わせていた。渡部さんが私を招き入れた。
 あのバイクは、という入り方は、私にとって楽な導入だった。もちろん女の人たちは、バイクなぞ興味のひとかけらもないので、脇でおしゃべりしている。
 ここの「1」で書いたことは、この仮設で教えてもらったことだ。
            
            これが楢葉町役場入口にまだ立っている
 私が町役場と木戸ダムに行ってきたことを話すと、みんな聞きたがった。あまり行ってないようだ。昨年の7月にオープンした、町役場敷地内の仮設店舗「ここなら商店街」もそんなに知らない様子だ。
      
「どうだった?」
と、聞くのだ。お昼時に行った私は、すごい混みように目的を果たせなかった。駐車場には「仙台/三重/品川」など、全国津々浦々のナンバーの車が止まっていた。
「みんなゼネコンの下請けだよ」
と、笑って私に言うのだった。
      
八百人のホールを持つ、すっかり荒れ果てたコミュニティセンター

この人はずっといわきに来ててね、という渡部さんの説明に、
「じゃあ、ここのレポートも書くのかな」
と言って、また笑うのだった。


 ☆☆
今日の朝日で、池上彰が15歳少年のドローン事件を書いてました。私は40歳のドローン事件のその後が知りたいです。捜査の状況が全く表に出ない。福島から持ち帰ったという「危険のない」汚泥(おでい)だって、第一原発なのか、それとも民家の軒下のものなのか、都合の悪いことでもあるのかなあ。大体どんな法に触れたというのか、これは興味があります。池上氏も言ってましたが、「威力業務妨害」ってなんの妨害なのでしょう。警備を強化しないといけなくなったと言うけれど、ドローンが官邸の屋上で二週間も寝転んでるほうがおかしいですよね。裁判したら無罪になるんじゃないかって思ってます。

 ☆☆
大相撲、興奮しましたね。照の富士、浮世絵に出て来るような、たくましい、それでいてかわいらしいお相撲さんですねえ。白鵬がこれからどんな姿を見せるのか、が問われる場所ともなりました。きっと白鵬は応えてくれるでしょう。楽しみです。

 ☆☆
最後にもうひとつ、今年も新酒の鑑定は、福島県が一位でした。ほとんどが会津の酒だと思います。ホントに会津の酒は美味しい。金賞は『飛露喜』だったと言います。何度目の受賞なんだろう。私はここ廣木酒造の『緑川』が好きです。手に入らないのが残念ですが、大量に蔵出ししないという真面目さがいいのです。『花泉』『清川』と、小さい蔵元がまた美味しいんですよ。ちなみに前回に登場した『明鏡止水』は、長野です。

『天皇の料理番』  実戦教師塾通信四百四十三号

2015-05-22 11:34:39 | エンターテインメント
 『天皇の料理番』
     ~トンカツ讃歌~


 1 『天皇の料理番』

 もしかしての思いで見始めたが、これはすこぶる面白い。とりあえず、「一途(いちず)」と「いい加減」は紙一重なのだなあ、と改めて思った次第である。しかし欲を言えば、料理を毎回ひとつずつでもクローズアップして欲しいところだと思っている。初回がそうだったからだ。あの牛カツがいかにもそそられたではないか。記憶がいい加減ではあるが、そのまま書いてしまう。
      
 昆布卸(おろし)の名家に婿入りした佐藤健演じる篤蔵(本当は徳蔵)が、ある日、レストランの厨房(ちゅうぼう)に昆布を持っていく場面だ。シェフ役の伊藤英明が、牛肉をたたいて「柔らかくしている」ところだった。牛肉は、もちろん霜降りなどなかった時代(明治)の赤身を使っていた。塩を上から振り、小麦粉でくるみ、玉子をくぐらせ、たっぷりのパン粉で優しくくるんでいく。それはまるで音楽の演奏を聞くようだった。当時の人間だったら、篤蔵でなくとも、
「なにを作っているんだ?」
と聞いたに違いない。それほど謎と魅惑に満ちている手際(てぎわ)と景色。
「カツレツというんだ」
と答えたシェフは、フライパンに薄く敷いた油に、肉を乗せる。そしてレンゲで何度も油をかけていくのである。揚げるカツではない。ミラノ風カツのようであるが、チーズは使っていなかった。
 四つ足を食べるのか、という驚きを隠さない篤蔵を横目に、シェフはナイフを入れ、食べろと勧める。中がレアで、赤いのだ。コンガリとした衣の鮮(あざ)やかさ、肉の外側と内側の色の対照が実にいい。静かな厨房に、牛カツの存在感はとびっきりである。
 牛カツをめぐる物語と立ち上がる匂いに圧倒された篤蔵は、食べる前から味わいという世界にどっしり漬かっている。
「うまい!!」
口の中の、サクッという心地よい音に篤蔵は目を見張る。
「もう一切れ食べて見ろ」
今度はシェフが、デミグラスソースを乗せて言う。もう言われなくとも分かる。うま味は格段に上がる。いや、別物か。
 なんてこった。きっと本番だけは食べたのだろう。
 周囲は小林薫を初め、見事に役者を揃えている。美保純もいいお母さんを演じているのだ。私は思わず、日活でポルノをやっていた頃の、彼女のかわいいオッパイを懐かしんだのだった。 
 篤蔵の無骨な走り方が様になっていて、またいい。

 2 トンカツ万歳!
「なあに 人間そんなにえらくなるこたあねえ」
「ちょうどいいってものがあらあ」
「いいかい学生さん、トンカツをな、トンカツをいつでも食えるくらいになりなよ」
「それが、人間えら過ぎもしない貧乏過ぎもしない、ちょうどいいくらいってとこなんだ」(『美味しんぼ』11巻「トンカツ慕情」より)
      
これはバブル期に成功を納めた経営者が、ひもじかった30年前の学生時代を回顧した場面である。
 今でこそトンカツは、必ずしもぜいたくな一品とは言えないのかもしれない。しかし、今やトンカツは、「かつ太郎」「とんQ」などファミレス系を初め、「かつや」などのファストフード、そして「和幸」などの老舗(しにせ)と棲(す)み分けをしつつ、しっかりジャンルを確立したものだ。今となっては「洋食」ではなく「和食」として、である。つまりトンカツはいま、「とりあえず」というグレードに始まり、「特別な」クラスまで網羅(もうら)した場所なのだと言い換えてもいい。これほどまで日本人が望み、こだわったトンカツなのである。
 池波正太郎によれば、トンカツは大正の関東大震災のあと、はやり出した豚肉料理の中のひとつだったらしい。洋食屋で始まったとも言われるトンカツは、あっと言う間に味噌汁とお箸(はし)を添える和食店へと進出し、大盛りでキャベツが下に敷かれるスタイルとなっていく。
 それでもトンカツは、やっぱり「特別な御馳走」であったことは間違いない。おそらく多くの日本人は「トンカツを食べたい」思いでいた。作る方もそれで「トンカツ」という料理を磨(みが)き上げていったと思える。こんな中で、トンカツは「和食という文化」にまで押し上げられた。それは大正から戦後、高度成長期とわたって続いた。そして日本人は、トンカツの衣の色と匂い、口に含んだ時の触感を「味」とするようになった。また、油が鼻につくものは、肉が厚かろうが柔らかろうが敬遠する。多くの人は「特別な料理」として口にするのである。『美味しんぼ』のトンカツ屋「トンカツ大王」の店主は、
「トンカツをいつでも食える」
くらいが「ちょうどいい」と言った。分厚い肉ばかりを食べていれば「トンカツが食べたい」とは思わないだろう。でも、トンカツもままならない生活とは、きっとつらいものだ。常に「帰ってくる場所」としてトンカツがある。そういう場所なんだよ、と店主は言っているように思えた。
 池波は、銀座の『煉瓦亭』と目黒の『とんき』を名店としてあげる(それぞれ支店がある)。並々と盛られたキャベツに乗せられたカツ、ご飯と香の物にビールを頼んで千円を切る(30年以上前だが)と驚くのである。そして、
「うむ……」
とうなり声を上げて食べるらしい。キャベツはお代わり自由で、ここが大事だが、店で働く女の子たちが、実に楽しそうに働いているという。客のひとりが、
「もう、ここへ来たら、バカバカしくて酒場やクラブへは行けませんよ」
と言ったという。これは『とんき』の話。ここに来ると「未来が信じられる」とも思うらしい。

 3 『和さび』
 遠方でこれを読んでる方には申し訳ないが、地元のお店を紹介したい。柏西口から徒歩5分、国道6号線をまたいですぐのところにある『塩梅』も大きくておいしいカツを出してくれるが、今回は同じく東口から徒歩8分のところにある『和さび』である。
 鈴木京香似の女将(おかみ)さんが振りまく笑顔は、間違いなく店の集客を手伝っている。気分よく食べ、気分よく店を出ることが出来るのは、彼女のおかげが大きい。
 さて、肝心な料理である。
      
これは「牛ハラミのカツ」である。右側に少しだけ映っているが、このタレにからませて食べる。なんと、夜も「定食」として出している。800円!じゃなかったかな。まあ輸入の肉だろうが、それはこの際おいとく。これがうまい。もう繰り返しになるのでやめるが、あの篤蔵の肉を食べるシーンだ。見事に肉がレアなのだが、これが実に熱々なのだ。熱々ではあっても、レアなのである。ステーキの名店?に行って、冷たいレアを出されるのを思い出して欲しい。
 この店のカウンターを気に入っている私は、例によってあれこれうるさく言いながら食べる。厨房をこれもたったひとりで仕切っている板前さんが、
「ハラミって、肉というより内臓なんです」
と教えてくれた。あばらの下にある横隔膜を言うのだそうだ。不覚にも私は初めて知った。よその店でも、ものの本でも、また牛の部位を示す図でも、それを知ることはなかった。ついでに、この店で初めて食べた時の枝豆のうまさや、あまり目にすることのない銘酒『明鏡止水』が置いてあることも言わずにいられなかった。ひとつひとつていねいに、そして嬉しそうに答える板前さんに、ドラマ『天皇の料理番』の料理長・小林薫の、
「料理は真心だ」
の言葉を思い出してしまう。
 夫婦ふたりだけで仕切るこの『和さび』は、いつ行っても大勢の客が、楽しそうに食べている。


 ☆☆
ということで、これは私が作ったカツ丼。
      
『和幸』のトンカツを友だちからいただきまして、もうたまらずって感じで作りました。アオサの味噌汁と、いわきのおばちゃんからいただいて持ち帰った細昆布の煮物です。『余市』をオンザロックで。いやあ美味しい。
ってオマエは今回はなにを書いてるって言われるのかな。すべては『天皇の料理番』の牛カツがいけないのです。

 ☆☆
いやあ、大相撲面白いですねえ。昨日のようにバタバタと力士が負けていくと、普通は興ざめするものです。混戦が面白いというのは、きっと実力のある力士が揃っているということです。今場所は、白鵬への汚い嫌がらせが見られないのもいいですねえ。
遠藤も旭天鵬も頑張れ~

逞しく、おおらかに  実戦教師塾通信四百四十二号

2015-05-15 11:21:04 | 福島からの報告
 逞(たくま)しく、おおらかに


 1 「こんなこともあったんだな」

 元気で良かった! 杖ついて散歩していたおばちゃんだが、もともと元気だった。でも医者のすすめで、心臓に関係する手術をした。おばちゃんは、帰って来れんのがなと、不安そうに手術前つぶやいた。医者は、突然死んだらどうするんだと言った。おばちゃんはそれでいいのにと答えたという。私もそう思った。手術に耐える力がおばちゃんにどれだけあるのだろう、なによりも元気なのにと腹立たしくさえあった。しかし、結果は十日間で退院だったのである。こんなこともあるのだと、私は感心するばかりだった。
 豊間復興住宅の駐車場を歩いていたら、顔なじみのおじちゃんと、ちょうどごみ捨てに行くところで鉢合わせした。そこでおばちゃんのその後を聞いたのだ。

「オレも心配でよ。でもここは不便だよ。歩いてても、すれ違わねんだよな。住んでっかどうかさえ分かんねえ」

一階はかろうじて人影がうかがえるものの、二階から上は、窓ガラスが無表情に光っていた。ベランダで洗濯物や布団が揺れている。仮設の時はもちろんすべて平屋だった。それで窓越しに、あるいは窓から体を乗り出し、みんなおしゃべりした。
 二人しておばちゃんの部屋まで出向いた。ブザーを押しても返事がないので、おじちゃんはロックしてないドアを開けてしまった。するとちょうどおばちゃんが、廊下をこちらまで歩いてくるところだった。おばちゃんと私たちは、お互いアラアラとすっとんきょうな声を上げたのだった。
 風は穏やかで、暖かい日だった。三人で外のベンチに腰掛け、おばちゃんの持ってきてくれたパック入り野菜ジュースを飲む。高台にあるこの住宅の、五百メートルほど下ったところが海岸である。区画整理と堤防工事の進む海岸はいま、津波以前・以後、どちらの景色でもない。ダンプとクレーン、ブルドーザーのけたたましい音はここまでは聞こえない。
      
      
   下の写真中央の奥に、小さく塩屋崎灯台。見えるだろうか

 おばちゃんの実家は越後である。こっちの家に嫁(とつ)いだ。それからは姑(しゅうとめ)の顔を見ずにすむように、昼間は田畑で働いた。漁師の旦那さんと、自分たちの収入で暮らしを立てた。ずいぶんいい暮らしだったんですねという私の言葉は、冗談にしかならなかったようだ。
「旦那は雇(やと)われだしよ、アタシんとこの田んぼはちっちゃいんだ」
今、おばちゃんは、息子の嫁に気づかい、なるべく散歩をし料理もやめてしまった。そして散歩がてらの買い物は、
「怖くてできないよ」
という。向かいにできたプレハブのお店の手前には、広い道路があるのだった。そんなおばちゃんの話は、今の日本のあちこちにあるような話に思えた。
 通りがかった人がひとり、ベンチに加わって、やはりあの日の話になる。
 あの日、みんなに逃げろと言われて、走っていると、後ろでものすごい音がするので振り向くと、ずっと向こうの方に黄色い煙がたち昇るのが見えた。
「家が津波で壊される音と煙だったんだよねえ」
そして、避難先で知る「その人となり」。
「物資の受け取り方で、この人ってこういう人だったんだって思ったね」

 この住宅に引っ越してしばらくたち、四年の間の写真を見ていたら、去年の夏の写真が出てきたそうだ。
「仲村トオルさんと撮った写真も出てきてさ」
「こんなこともあったんだなあって思ったよ」
おばちゃんはしみじみ言うのだった。
      

 2 まずい弁当?
「なんだ、朝来るって言うがらよ、何時になるんだって思ってたよ」
あんまり早く行っては失礼と思ったのだが、久之浜に私がついた10時ころ、待ちかねたようにおばちゃんたちが言った。朝早く起きて野菜の煮物を作って待っていたというおばちゃんは、有り合わせなんだけどと言った。もうひとりのおばちゃんは、もらったんだけど、とお新香を出してくれた。
 久之浜の復興住宅に移る段になって、おばちゃんは体調を崩(くず)した。二月のみんなと一緒のお醤油支援の頃は、私もおかしいなと気づいた。その後、しゃんとしていた背中は曲がり、口数もすっかり減ってしまって、もうホントのおばあちゃんになってしまったよと、その頃、職員がおばちゃんを案じて話した。だからこの日、機関銃のように話すおばちゃんは、まさしく「帰って来た!」のだった。
 煮物はじゃがいもに椎茸、昆布とニンジンだった。美味しくないわけがない。私は二人の話を聞きながら頬張る。すると、いや出る出る、悪口が。こんなふうにあの人を思っていたのかとか、もらった親切を仇(あだ)で返すかなどと、私は呆気(あっけ)にとられた。この調子だと、私もなんて言われてるか分かったものではない、などと思ってしまった。

「あんなにまずい弁当いらねえんだけどよ」

と、せっかくの善意におばちゃんたちが言うのである。月に一度のイベントでのことだ。思わず、それはあんまりですよ~と言う私である。しかし聞けば、おばちゃんたちはこの「善意のお弁当」をていねいに断(ことわ)って来たらしい。もう他のことで充分お世話になってるし、出来合いの弁当は、
「ホントにおいしくねえんだよぉ」
と、声を下げる。それで食べ物は必ず自分たちで持って行くそうだ。何度かそうしたという。

「でも聞かねえんだよな」

とこぼすのである。人の善意というものも難しいものである。おばちゃんたちは、ときに顔をしかめ、ときに大声で笑った。ちっとも悪びれない姿を、私はやっぱり大好きなのだった。私もおばちゃんたちの言葉や態度から、しっかりおばちゃんたちの胸の内を見ておかないといけない。
 おばちゃんたちを見ていて、なぜか御年91歳の評論家佐藤愛子を思い出した。原発事故のあと、彼女は、人間が神の存在を黙殺した罰が下ったと言った。そして、

「私は原発反対だったといってもしょうがない」
「自分の無知無力を省みて覚悟を決めるだけである」

と言うのである。おばちゃんたちにも、似ている覚悟があると思っている私だ。

 おみやげにと、柳ガレイの干物までもらってしまった。


 ☆☆
楢葉のレポートまで書けませんでした。帰還をめぐる説明会の様子も聞けました。次の機会に書こうと思っています。
            
         手賀沼沿いの田んぼで、田植えが今年も始まります

 ☆☆
BSプレミアムの『アナザーストーリー』見ましたか。セナを見ると悲しくなります。でも見たかったので。part1だけは我慢ならんでした。セナが亡くなって数日後、このレポーターの女は「セナが、ボクは死ぬかも知れないと私に電話をくれた」と、あの時すでに言ってましたよ。なにが「初めて語る」だよ。とにかくセナは追い込まれていました。前年、マンセルが操(あやつ)るウィリアムズは、圧倒的な強さでした。ホンダもセナも太刀打ちできなかった。F1当局は、このウィリアムズのマシンが持っていた「自動制御装置」を規制したのです。翌年、セナがせっかく手にしたウィリアムズのマシンは不安定でした。前年ダントツだったマシンで、セナが勝てない。周囲もセナ自身もざわついてました。いつも陰りを帯びていたセナの顔は、あの年いっそう孤独に見えました。
でも、ブラジルのサッカーチームのエピソードは知りませんでした。ワールドカップ優勝決定の瞬間、チームは「勝利はセナとともにある」の横断幕を掲げたんですねえ。いやあ涙そうそう、でした。日本を大好きだったセナ。皆さんも会いたいですよねえ。
            
            台風にも耐えた我が家のバラです

妖怪ウォッチ(補)  実戦教師塾通信四百四十一号

2015-05-08 11:34:50 | 子ども/学校
 妖怪ウォッチ(補)
     ~『龍三と七人の子分たち』を観る~

 ☆☆
いきなり☆印で導入です。白帯さんとのやりとりについて、色々と意見や感想をいただいてます。噛み合っているのかとか、内容がハードだとか。多かったのは、オマエがいつも言っている「武道」の考えからすれば、白帯さんの考えは承認できるのかというものでした。ここのコメント欄で、その考えを書き込んでもらっても良かったと思うのですが、私の考えを言っておいた方がいいなと思いました。
私の推測でしかありませんが、白帯さんをある方と特定しています。根拠がないわけでもないので。白帯さんがその方であるとすると、スポーツと武道の仕切り方や「武道は負けないを目指す」のも良く分かった。白帯さんがそういう場所で必死に生きている方だと思うからです。
そんなわけで、私の武道の考えや記事、今後も変わりません。今後ともよろしくお願いします。

 1 子どものまま

 外食したとする。カレーライスをライスカレーと注文する子がいると、
「それってカレーライスだろ!」
と言う子がいる。あるいは、
「なんでハンバーグから食うんだ!」
と猛烈に抗議する子がいる。別にサラダから食おうと勝手なのに、子どもはそんなことを平気で不満に思う。
 さて、映画は年老いたヤクザの話である。そば屋で天丼を頼もうがざるそばを頼もうが、そんなものは客の勝手である。でも、年老いたやくざOBの二人は、
「年寄りのくせして、カツ丼を頼むってのはどういう了見だ!」
と怒りをまき散らす。これには少しばかりのわけがあるにしてもだ。子どもは自分の思い通りにならないことに我慢がならない。
      
 北野映画は、いつでもどこかにペーソス(哀愁)を持っている。前作の『アウトレイジビヨンド』もだ。誰も信じられないという重ったい空気は、逃げ場という「信じられる場所」を探していた。いつも北野映画にあるのは、

「成熟に伴って失うもの」
「成熟を受けいれる切なさ」

のように、私は思っている。藤竜也演じる龍三は、
「こんなとこ、出てってやる!」
と口では言ったが、実際は同居の息子家族が追い出した。父の稼業(かぎょう)を恥じ、堅気(かたぎ)の社会で何とか生き延びてきた息子の、堪忍袋の尾が切れたのだ。息子の子ども(孫)の、学校での居場所や行く末も気が気でなかった。そう言われた龍三は、父親の仕事を隠すバカはない、
「正直に生きればいい」
と言って大見得切る。しかし、
「だったら父さん、孫に対して、爪を噛んでたらじいちゃんの指はこんなに短くなってしまったというのはウソじゃないんですか」
と、息子に、詰めた指のことを「詰められる」。息子の連れ合いには、背中の彫り物が見えるような夏服はやめて欲しいと言われる。
「今の若いやつだってやってるじゃねえか」
と龍三は抵抗するのだが、あれはタトゥーであって刺青(いれずみ)ではない、と諭(さと)されるのである。

「金無し! 先無し! 怖いもの無し! ジジイが最高!!」

のコピーは、実は子どものままでいることの困難さを言い当てているとも思える。

 2 ガングロ
 439号『妖怪ウォッチ(下)』に対して、予想外と思える反応をけっこういただいた。予想外とは、
「学校は幸福をさがす訓練をするところ」
としたところを、
「学校は幸福な場所である」
と受け取られてしまったこと。私がそういう展開をしたのが原因である。だから、
「一緒に過ごす/いることの大変さ/大切さ」
というくだりも、読者には「大切さ」の方ばかりが強く映ったようだ。しかしそうではない。学校はそれだけでは「幸福の場所」ではない。ここではその「ありかを探す」、「訓練」が出来る。そこではどのみち相手を傷つけ自分も傷つく。それが人と人との世界であることを知る。その繰り返しはやはり「大変」だ。少し考えて見よう。
 この時期、遠足や旅行という学校行事が目白押しとなる。学校からの話題や相談は、いやあなるほど、なのだ。たとえば普段は目にすることのない「お弁当」。そこで目にする光景は、まさしく「幸福の場所」のなんたるかを教えているような気がする。テーブルで自分の弁当箱のふたを立てて目隠しするのは、中学生ともなれば、いまや男子の方が主流である。かくも「お弁当」とは、「我が家の顔」と言える。女子同士ではおかずを交換するという「開かれた」ケースもある。しかし、弁当をのぞきに行けば子どもが恥ずかしそうにするのは、やはりそこに家庭の素の姿があるからだろう。知られずにいた自分の一面がさらされるような瞬間。緊張の中で、息を詰めるように食べる子どももいるが、美味しそうに口元が動いている。その姿は厳(おごそ)にさえ見えてしまい、美味しそうだねと声をかけるかどうか、つい憚(はばか)る。
 私に寄せられた相談というよりは、雑談から聞こえる様々な子どもたちの情景は、もう「訓練場」さながらだ。その中で、おにぎりをめぐる難しいやりとりは、胸を締(し)めつけるようだった。低学年にありがちな、真っ正直なやりとり。他人(ひと)のお母さんが握ったおにぎりを口に出来ない、生理的に受け付けない子どもがいる。友だちからすすめられ、

「オマエのおにぎりいらない」
と言ってしまう子がいるのだ。そして、
「オレの(母ちゃんの)おにぎりが変なのか」
というストレートな反応。

自分の気持ちを素直に口に出来るこんなやりとりはまさしく「訓練」だ。
 いくらでも出てくる「訓練」の数々。それらはほとんどがどっちが悪いという類ではない。子どもが子どもらしい無邪気さでやってるだけだ。時には自分の思い通りにならないことに我慢ならず、声を大きくする。子どもなのである。どちらが「加害者」だとか「被害者」だというわけではない。つらいのは、ストレートにぶつかるのでなく、子どもたちの間に微妙な空気が生まれる時だ。そこで相手の言い方をそのまま吸収してしまった時、吸収した側が「弱者」となる。これはいじめの引き金にもなりうる。まことに「大変」な「訓練」を子どもたちは繰り返している。しかしここを通過しないと、子どもは「他人」を知ることが出来ない。なのに、大人が子どもたちに、

「笑ってはいけない/言ってはいけない/してはいけない」

と言ってたら、子どもにはもう「陰口」しか残されていない。こんなことでいいはずがない。「笑えば」「それを言ったら」相手が傷つく、だから「ダメだ」という。こんなバカなことでいいはずがない。
 20世紀末に「ガングロ」なる風俗が巷(ちまた)を騒がせた。私はこれを見た時、論評することを禁止され、どうすればいいか分からなくなった子どもたちが、自分の顔を隠したと思った。自分を封印したその姿は、批評することを回避する「別に」「普通」と言う子どもたちへと受け継がれたと思っている。さらに、私は「キャラ弁」なるキラキラ弁当を、この世代が我が子に作っているのは偶然と思えない。弁当の箱を開けると、そこに登場するのはおにぎりや玉子焼きではなく、ピカチューやドラえもんなのだ。それは「我が家」の姿はお見せ出来ません、とでも言っているかのようだ。

 3 「まだ始まっちゃいねえよ!」
 『龍三と七人の子分たち』の最後は、親子が和解したかのようにも見える。おじいちゃんを慕(した)う孫を不憫(ふびん)に思う息子が、龍三の無事を願うのだ。でも、ガッツポーズでストップしたラストを見るに、これはやはり「子どもとジジイ」が同じものなんだ、いつまでも子どもでいろよというメッセージに思えた。私に言わせれば、「訓練」に終わりはないよ、ということなのかも知れない。
 北野映画と言えば、私は『キッズリターン』。私流に意訳すれば『ガキどもの逆襲』。傷つき、挫折した二人は最後に言うのだ。

「まだ始まっちゃいねえよ!」

「訓練」やめたら「他人を知らない大人」になっちゃうよ。


 ☆☆
大好きな箱根に行ってきました。天候に恵まれ、お風呂から空を眺め、芦ノ湖畔ではチャリを転がし、美味しいビールを飲みました。噴火注意報のせいか、いつもより人が少なかったかな。クロワッサンが美味しかったです。
      

 ☆☆
NHKの『プロフェッショナル』見ましたか。やっぱり私たちは華やかな場面しか見てない、と改めて思いますねえ。そして、白鵬が最後に、
「相撲より人生が大変」
と、いやあしみじみ言ってましたねえ。
いよいよ日曜日が初日です。嬉しいです。

技/術  実戦教師塾通信四百四十号

2015-05-01 13:32:14 | 武道
 技/術
     ~技と勝負の極み~


 1 勝負

 436号で「白帯」さんから質問を受け、刺激を受けている。そこで聞かれた「技/術」の謎解きをするにあたって、少しばかり寄り道しないといけない。
 先日、将棋の名人戦の2局目が終了。羽生さんの敗退だった。この時の投了図を見ただろうか。確かに羽生さんが苦戦しているのが、今回は素人目(しろうとめ)にも分かる気がした。しかし前にも書いたが、こういう頂点の戦いは、最終局面を見せられても、普通私たちにはどこが終わっているのか、さっぱり分からない。「勝利」とか「強い」とういことが、傍目(はため)にはまったく理解しがたい時がある。
 そこで興行/エンターテインメントの勝負の世界は、ルールを作った。ここでは「誰にも分かる」結果を求める。古代ローマでは「相手が死ぬまで」というルールを作った。そうなるまではどちらが強いか分からない、というわけだ。これを称して「ルールのない極限の戦い」などと言ったりする。しかしそういうわけで、ここにも純然たるルールがある。ボクシングの十秒ノックアウトも同じだ。本当は殺す前に、あるいは十秒間倒れる前に「勝負」は決している。いや、アリ対フォアマン(1974年)の時のように、レイムダック(死に体)となったアリがフォアマンを倒したではないか、という向きもあるだろう。そんなことは言っていればきりがない。ならば十秒間マットに沈んだフォアマンが、ルールが許せば、一分後に立ち上がってアリを倒すことだってOKなのだ。一見、客観的に見える「強さ」は、ルールに支えられて出来上がっている。
 私たちの目指す「技」や「勝負」は、禁じ手があるとかないとか、もう相手が立てないとか、そんなところと関係ない次元にあるはずだ。

 2 日本武術
      
言わずと知れたブルースリー。たまに正面を向くこともあるが、これがブルースリーの基本構えである。一応断れば、中国拳法でブルースリーの構えは、決して主流でない。それでまずこの構え、お分かりと思うが、西洋の戦い、たとえて言えば中世の騎士・鉄仮面と同じである。これは西洋戦闘の考えから来たものだ。つまり、自分の身体を相手から出来るだけ遠ざけることが「防御(ぼうぎょ)」である、としたものだ。そして、より遠くへと自分の手/剣を伸ばすことを「攻撃」としたものだ。それで攻撃と反対側の腕には「盾(たて)」を持たせさえした。それが西欧のスタイルである。その考えは、今のフェンシングにも踏襲(とうしゅう)されている。利き腕の反対側の腕の役割は、身体のバランスを保つためにだけある。狭いカーペット上の戦いは、ヒット&アウェイで展開される。な~んてこと書いてると、オリンピックの太田君に怒られそうだが、それぞれ道は深い。その道にケチをつけるつもりはない。それぞれの土俵/考えの違いを書いている。
 日本でもこのスタイルが主流だった時もある。しかし、それは古代で終わりを告げ、戦国時代に武士たちは、なんと刀を両手で持つようになる(現代剣道も両手保持であるが、あとは武道の片鱗(へんりん)もない)。
 みずから自分の身体を危険にさらすようにしたというより、攻撃/防御の両方を、刀と身体操法で行うようになった。儀式的色合いの強かった古代の戦場は、やがて血で血を洗うものに変化していた。兵士たちが最後に到達した刀と身体遣(つか)いとは、

「受けそのものが攻撃である」

世界だったと思われる。この世界は、柔術(柔道ではない)/相撲/唐手(近代空手ではない)に通ずる。これらはどれも、相手と正面で向き合うことを基本としていた。
 ここにおいて「勝負」も「技」も大きく変わる。上泉-柳生、そして武蔵を用意する時を迎えようとしていた。

 3 技/術
 運慶の言葉を借りるのが最適と思った。有名な話である。読者も知っていると思う。あなたはどうしてそのように見事に仏様を彫ることができるのか、と聞かれた運慶が、
「簡単なことだ。もとより仏様は木の中で眠っている。私はそれを取り出すだけだから」
と答えたという話。
            
            東大寺南大門・運慶快慶作・金剛力士像
これが武蔵の言う「観の目」だと思われる。そして、白帯さんの悩んでいる「術」だと思われる。しかしきっと、運慶にも簡単に見えるわけではない。たとえば私たちは、
「見てはいけない」
などとよく言う。そして、
「見えるものは自ずから見えてくる」
と言ってしまうこともある。しかしそうではない。ちなみに、武蔵の「観の目」は、これほど神秘的な言い方をしていない。

「観の目強く、見の目弱く、遠きところを近く見、近きところを遠く見ること、兵法の専なり」(『五輪書』水の巻より)

これは、
○「見えるものを見る」のではない
○「見えるものの向こうを見ようとする」から見える
ことが肝心だ、と言っている。そうすることで初めて「相手」や、その場を支配する「流れ」が見えると言っている。では、この「観の目」は一度獲得されれば、衰(おとろ)えることはないのだろうか。
 武蔵は13歳で初めて戦い、29歳に巌流島で小次郎と戦い、ついに負けを知ることなく、あとはひたすらひとりで稽古にはげんだと言う(同・地の巻より)。その武蔵が、
○己の強さは、恵まれた身体や天才的能力のせいではない
と「開眼」するのは、その20年後の50歳の時である。自分の「勝利の必然」が分かるのは、戦いのさなかではなかったというのだ。武蔵はまるで、その必然にたまたま自分が居合わせたとでも言っているかのようだ。「偶然」を「必然」と言いくるめるインチキではない。生真面目で頑固な武士の姿がここには浮かび上がっている。もう一度やってみろと言われても出来るはずだ、いや出来るという真摯(しんし)で必死な姿が見えてくる。「観の目」が客観化されたこの瞬間を、「開眼」と呼んでいいのだろう。
 武蔵は、この『五輪書』を書き上げる頃、一説では食道ガンだったとも言われ、家臣が止めるのも聞かず城を抜け出し、這(は)うように霊厳洞まで行って書いたという。この時、それこそ武蔵を襲うものがいるとしたら倒せたに違いない。しかし、それでも武蔵には、相手の「流れ」が見えたことも間違いない。
 運慶も、終末期は手斧(ておの)も曲尺(かねじゃく)も持つ力がなかったはずだ。しかしそれでも、仏様の姿は見えたはずである。


 ☆☆
あ~、やっぱり入口のところで話が終わってしまった。でも書いてて思うんですが、やっぱり「勝ち負け」じゃないんですね。幼少のケンカの記憶などたどりましても「どのような勝ちだったのか負けだったのか」が大切だと教えてるんですねえ。あの頃の後味の悪さはちゃんと残ってますね。
「実戦」上の続きをいつかまた書きたいと思ってます。

 ☆☆
5月場所が近づいてきて、またしょうもない声が聞こえて来るようになりました。顔をしかめている皆さんは、ぜひ白鵬の公式ブログをのぞいてみませんか。私も今までなぜか見たことがなかったのですが、先月初めてのぞきに行ってみて、いやあ楽しかった。アットホームで爽(さわ)やかで、ほんのりしますよ。子どもの入学式と、そのあとの家族での食事会なんか、いやああったかい。

 ☆☆
先日、福島に行く時、高速で突然車が並び始めました。あっと言う間の渋滞で、すぐ向こうで事故が起こったと分かりました。バイクだったもので、すり抜けて行くと、もう消防車とパトカーが大勢きてました。一台だけ無茶苦茶になってました。自爆だったみたい。
いよいよゴールデンウィークです。車の運転、気をつけましょう。
そして、昨日は表が騒がしいと思ったら、嬉しそうに子どもたちが並んで歩いてました。遠足なんですねえ。
いよいよゴールデンウィークです。皆さんも楽しいゴールデンウィークを過ごしましょう。