佃島(つくだじま)
~吉本隆明の足跡~
☆初めに☆
月島に用があった(もんじゃ焼きではなく)ので、ずっと行きたいと思っていた佃島まで足を伸ばしました。
佃大橋から勝鬨(かちどき)橋方面を臨む。
吉本さんの東京と言えば、木場/佃島/月島界隈(かいわい)、そして根津/谷中界隈です。谷中方面は何度か立ち寄りました。このエリアは初めてです。吉本さんの詩を省略しながらの引用には、大いに後ろめたさを感じつつ、それらが生まれた場所を確認したいと思います。
「涙が涸(か)れる」
けふから ぼくらは泣かない
きのふまでのように もう世界は
うくつしくもなくなつたから そうして
針のやうなことばをあつめて 悲惨な
出来ごとを生活のなかからみつけ
つき刺す………… 略 …………
佃川支川(隅田川)をはさんで、佃渡し跡方面。右手が佃大橋。
とほくまでゆくんだ ぼくらの好きな人々よ
嫉(そね)みと嫉みとをからみ合はせても
窮迫(きゅうはく)したぼくらの生活からは 名高い
恋の物語りはうまれない………… 略 …………
「少年期」
くろい地下道にはいつてゆくように
少年の日の挿話(そうわ)へはいつてゆくと
語りかけるのは
見しらぬ駄菓子屋のおかみであり
三銭の屑(くず)せんべいに固着した
記憶である
幼友達は盗みをはたらき
橋のたもとでもの思ひにふけり………… 略 …………
吉本家御用達の「天安」。天保より続く佃煮の名店。私もこの日、「醤蝦(あみ)」の佃煮を買いました。
仲間外れにされたものは
そむき 愛と憎しみをおぼえ
魂の惨劇にたえる
見えない関係が
みえはじめたとき
かれらは深く訣別(けつべつ)している………… 略 …………
「少女」
えんじゅの並木路で 背をおさえつける
秋の陽なかで
少女はいつわたしとゆき遇うか
わたしには彼女たちが見えるのに 彼女たちには
きつとわたしがみえない………… 略 …………
こんなのもありました。都知事選ポスター。
なにか昏(ねむ)いものが傍(そば)をとおり過ぎるとき
彼女たちは過去の憎悪の記憶かとおもい
裏ぎられた生活かともおもう
けれど それは
わたしだ
佃島・佃町
生れおちた優しさでなら出逢えるかもしれぬと
いくらかはためらい
もつとはげしくうち消して
とおり過ぎるわたしだ………… 略 …………
「佃渡しで」
佃渡しで娘がいつた
<水がきれいね 夏に行つた海岸のように>
そんなことはない みてみな
繋(つな)がれた河蒸気のとものところに
芥(あくた)がたまつて揺れてるのがみえるだろう
ずつと昔からそうだつた………… 略 …………
中央大橋付近から、再び佃大橋方面を。
橋という橋は何のためにあつたか?
少年が欄干に手をかけ身をのりだして
悲しみがあれば流すためにあつた
住吉橋から住吉川を臨む。
<あれが住吉神社だ
佃祭りをやるところだ
あれが小学校 小さいだろう>………… 略 …………
住吉神社。茅(かや)の輪がありました。この時期「夏越の祓(なごしのはらえ)」といって、茅の輪くぐりでおはらいをします。私もして来ました。
あの昔遠かつた距離がちぢまつてみえる
わたしが生きてきた道を
娘の手をとり いま氷雨にぬれながら
いつさんに通りすぎる
大学闘争の頃です。『少年期』の「見えない関係がみえはじめたとき かれらは深く訣別している」というくだりに、私たちは衝撃を受けていました。それは仲間や友人、そして同士というものへの省察だと思っていました。これがもっと深いところから出ているのではないか、と思うようになったのは、大学生活も終わりの頃でした。
吉本さんは、私たち学生の闘争を全く評価していませんでした。まず理論的なものとして、従来の枠を出るものはひとつもなかった。吉本さんは、闘争を「紛争」と呼んでいたくらいです。ただひとつ、私たちには「行動のラジカリズムがある」としていました。例を挙げれば、私たちの教授会との団交の場があげられると思う。
「先生、あなたは大学への機動隊導入に賛成したのですか」
『それは教授会が決定したものだ』
「そうじゃない。あなたはその教授会に出席していたんですよね」
『いましたよ。でも、決定は教授会がしたんだ』
「だから、聞いてるのは教授会のことじゃない。あなたのことですよ。あなたは賛成したんですか。反対したんですか」
『………? 何を言ってるんだ。僕は関係ないだろう。決めたのは…………』
必死に抗弁する教授(たち)を、私たちは呆(あき)れて怒り、絶望のあまり笑った。知的に上昇したものが、あるいは知的なものを生活の糧(かて)にしている連中が、理念と現実と折り合いをつけるとなった時、彼らが全く無知・無頓着であることを露呈したからである。そして、戦後、日本は民主主義国家となったというが、それは「頭の中」だけのことで、身体は戦前・戦中のままだったことを示す出来事でもあった。吉本さんはこれらに、「従来にはなかった」質を見ていたようでした。
☆後記☆
月島商店街裏の狭い路地は、吉本さんの言う通り、きれいに丹念に手入れがされていました。
いつか谷中の三浦商店で、レバーフライを食べて来ようと思います。
☆☆
「ボクがこのパンをもらったら、本当に困っている子の分がなくなってしまう」
とは、先週のパン配布の時に来なかった子どもが言ってたことだそうです。次のときは、そんな子がいたら一緒に来てね、とお母さんに伝言をお願いしました。お母さんは、ウチも立派な貧困家庭だよと言ったそうです。なんか心が温まる話だった気がします。
7月になりました。今年は遠く見える夏休み、そして短い夏休みですね。
先輩に連れていかれたもう中退した人から借りた吉本著作集には「お前はこの世に生きられない、お前は熊の毛のように傷つける・・・・」に万年筆で線が引かれていました。2年生で文連委員長になった奴だと社学同だったその人は言っていました。初めての吉本の本は生協で買った「吉本隆明詩集」で線を引いて持っています。これからもお邪魔します。
終わったら吉本さんはすぐ姿を消したけど、そのあとのマイクの奪い合いが壮絶で、主催者側の三上さんはたったひとりだったと思う。壇上で猛者が5、6人、マイクを奪おうとするが、三上さんは渡さなかった。半分野次馬だった私たちは、すごいなあなどと感心して、成り行きを見ていました。この話は、精神科医の高岡さんと会った時、持ち上がったのです。高岡さん言うには、
「木口小平は、死んでもラッパを口から離しませんでした」
という話と並べ、仲間うちでずいぶん盛り上がったという話です。
またこれからもよろしくお願いします。