実戦教師塾・琴寄政人の〈場所〉

震災と原発で大揺れの日本、私たちにとって不動の場所とは何か

実戦教師塾通信四十八号

2011-06-27 19:35:02 | 武道
「空手に先手なし」

 空手の大衆化を唱えたのは、那覇手を学び、のち首里手の達人松村宗棍に師事した糸洲安恒である。糸州は空手を学校教育の一環で広めることが可能とし、また夢と考えていた。沖縄に徴兵制が設けられたのは明治23年のことだが、糸洲門下の見事な体格に軍医たちが驚嘆した。このことがきっかけで沖縄空手(この時は「唐手」だった)が教育面から見直されるようになり、のち首里尋常小学校に体操科の一環として唐手が採用される。そして糸洲はその指導を担当する。これが近代空手の第一歩と言える。それまで糸洲はもとより、唐手の先達はみな、自宅の庭や納屋で指導にあたり、弟子や門下生を募ることもしなかった。
 この以前に糸洲は新しい型・形を考案している。それが「平安(ピンアン)」である。実はこの型にはそれが糸洲ゆえと言ったらいいのだろうか、古流の(本当は元々のというべきだが)型に含まれる「関節技」や「禁じ手」が封じられている。それでも充分殺傷力はあるのだが、糸洲には「分かりやすく」「誰にでも」という理念があったようだ。さらに糸洲は「喧嘩」「争い」を嫌うことで有名を馳せていた。生涯、人と争わず傷つけなかったことは沖縄のみなが知るところであった。まあ、路上の暴れ牛を一撃で仕留め、それを師匠の松村に「一撃で終わって良かったが、失敗して町の人々の迷惑をこうむったらどうするつもりだ」とたしなめられた、という逸話もあるのだが。
 その糸洲の一番弟子が松濤館の祖、富名腰(船越)義珍である。首里城前での唐手の天覧がきっかけとなり、内地へ空手の礎を築く。嘉納治五郎の講道館への勧誘を断ることで義珍の生活は困窮するが、空手が柔道の一部門となるのを恐れたのだ。
 空手の大衆化の流れに欠かせない「分かりやすく」「誰でも」、そして「より早く(上達)」「より強く」の要素は空手を変えていく。本当は身体にしみついたもの(身についたもの)は、なかなか言葉では伝えられない。武蔵の言うごとく「兵法の智力を以て必ず勝つことを得る心、よくよく鍛練あるべし」なのだ。
 息子であり、道場の跡継ぎである義豪が「試合」を提案した時、義珍は何を言われたのか分からなかったという。「そんなことをしたら相手が死んでしまう」と、青くなって反論すると「ルールを作ればいい」と息子は応じた。それに対し義珍は、怒りのあまり身体が震えたと言われている。
 私には義珍の「空手に先手なし」の言葉は、そんな中で生まれた言葉と思える。義珍は勝負や武道というものに精通し、「相手」は「合手」であり、その相手(合手)とする「試合」は「仕合」だったということも分かりきっていた。相手に合わせること、相手に仕えること、それがすなわち勝負であり、勝負を決するのも、その相手を知ることだと分かっていた。「受け」すなわち「撃ち」であり、それは「相撃ち」を意味している。受けてから攻撃するといった悠長なものでも単純なものでもない。最近白鵬が双葉山を目指しつつ、復権した感のある「後の先」も本当はそういうものだ。
 白鵬ももちろん分かっている。一年くらい前に若乃花の得意技「仏壇返し」を白鵬が何度かやっているのを見た。押すと見せかけて、相手が堪えるその力を反動として相手の身体を返す、というものだ。白鵬の技はその鋭さが極まっているとき、その技の始まりとか牽制といったものがない、あるいは見えない。相手と自分が作り出す重心を見つけ、そこに身体を一瞬でずらしていく。相手は次の瞬間もんどり打っている。その時白鵬の身体はひねりもうねりもしていない。白鵬がよく言う「流れ」だが、相手や重心や気の「流れ」のことを言っている。それは「読む」ことを目的としない。「読む」こと自体「流れ」とは別物だからだ。
 今日、久々に番付が発表となり、白鵬の笑顔が見えた。
 さて、義珍は門下生や息子の焦りに自分も焦った。「空手に先手なし」の言葉は義珍の望む方向に進んだろうか。私には義珍の無念が分かるように思う。

 日本剛柔流・剛柔館最高師範山口剛史先生から「お元気で目標に向けて御精進ください」とのメッセージをいただいた。私がいわきに支援のため、先生の指導を受けられない旨の連絡をしたためたところいただいたメッセージである。
感謝の意を込めて、剛柔流の祖、宮城長順の「拳法八句」から引用。

人心同天地

血脈以日月

法剛柔呑吐

人の心は天地と同じく、身体を流れるのは血であり宇宙の時間である、すべては強く優しく出てそして入るを繰り返す、といった意味だと思われます。
 「武」の道は終わりがない。なんと魅力的なことだろう。



連絡あり

 この通信に何度か登場してもらっているヘルパーさんから連絡があった。縁は奇なもので、私が詰めている避難所のお年寄り(Wさん)の引っ越しを手伝いをこのヘルパーさんがしていた。ボランティアセンターの方針と、このヘルパーさんの姿勢を知るのもいいかと思い、抜粋しておく。

 金曜日は朝から蒸し暑く三日間のお疲れもあってか(引っ越しは火曜から始まっている)Wさん宅に着いたら診療所へ乗せて欲しいと言われました。すぐ近くの主治医にお連れしてからそれがダメなこと(ボランティアとしてしてはいけないということ)を思い出しました。それから地域包括支援連絡センターのケアマネに連絡して、帰宅の手配をお願いしました。またボランティアセンターにも事後報告しました。その後、ボラセンの職員から「誰もいない家での活動は困る」との電話が入りましたが、昨日からの継続であり、午後にはケアマネがくるからと押し切り、活動は続けました。ですので避難所に行かれましたら、Wさんのご様子聞いてください。…略…
 私のボランティアセンターの活動はひとまず夏休みにしようと思います。…南三陸町の方(このヘルパーさんの古い友人の友人)にお鍋帽子プレゼントしたら、仮設住宅のみなさんも欲しくて、お寺を借りて作ることになったと聞きました。大阪から来た人に現金ばらまかれガタガタになってしまった仮設住宅です(大阪から来たやつが、いきなり何も言わず仮設住宅で文字通り現金をばらまいたそうである)。タンポポの綿毛のようにあちらこちらに飛んで花が咲くことを願い、一針一針縫います。東京にいても家にいないから、今やっと十個できました。長々のお願いとご報告です。

☆☆
 昨日、柏の仲間が古着を届けてくれた。今日はボランティアで知り合った同じく千葉の船橋のボランティアさんが洗剤を届けてくれた。ありがたい。
 今日、柏市役所の防災安全課に行って災害対策車輛の手続き(七月分)に行った。「高速の方で対応が変った」と言われた。高速の方が「申請した通りの日付で動いてくれないと困る」というものだった。以前だったら「被災地に行くのだから、天候や地震に左右されることもある。日程の多少のずれは仕方がない」と市は対応してくれた。気になる。

実戦教師塾通信四十七号

2011-06-26 13:26:45 | 戦後/昭和
向かっていた〈場所〉

 福島空港を作った避難所のトラック運転手さんが語る。夕食を終え、段ボールで作られた簡易テーブルをはさみ、私と斜向かいになった運転手さんは白湯を飲んでいる。
 タンクローリーの前は魚の運搬もやった、今のように電気の冷凍・冷蔵装備の荷台ができる前の、氷を魚と一緒にコンテナの荷台に詰め込む型式のやつだ、そこに荷台が膨れ上がらんばかりに魚を放り込むんだ、という。
 東名高速道路が開通するのは1968年。1965年にすでに兵庫県西宮市から愛知県小牧市まで伸びていた名神高速道路とつながり、これで東京(京浜)と大阪(阪神)の大動脈ができた。また同時に、1960年から十年の間、道路の舗装率は2,8%から15%と上昇(その十年後は46%だ)。ついでに言うと、1955年には全国で15万台だった乗用車は十年後に190万台、さらに十年後は1480万台となっている。一家に一台、マイカー時代の到来である。
 年齢が私よりいくぶん下であるが、運転手さんの話と自分のことを重ねるのは、きっとそんなに間違ったことではない。

 いや、もうこれでもか、いやまだいける、といった感じで魚を保冷庫に詰め込むのさ。もう荷台は膨れ上がって、タイヤもつぶれるんだ。そうして小名浜から三重の津まで一昼夜かけて運ぶんだよ。高速? いや使わねえよ。使えねえ。下(一般道)を使ってさ、当たり前だよ、だってトラックは時速十キロ、やっと出しても二十キロでようやく、ゆっくりゆっくり、それこそひっくり返らないように走るんだ。トラックの野郎、やっと走っているのさ。
 箱根の坂をやっとの思いで登り切って、下りに入る前に一時間か二時間休憩だ。下りは楽だろうって? そんなんじゃない、そのまま下りに入るとトラックのラジエーターがパンクするんだよ。膨れ上がった蒸気がラジエーターをお釈迦にしちまう。だから頂上で必ずそいつを休ませるんだ。
 だから若い時、結構うまい魚は食ったね。出発前に新鮮なやつを体に放り込んで、そして元気に出掛けるんだよ。

 私は若い頃、住んでいたぼろぼろの長屋を壊さんばかりに、トラックやダンプが轟音を響かせていたことを思い出した。内職の洋裁をしていた母の手元を震えさせるばかりに家を揺らしていたことを思い出した。昼夜関係なく道路とあたりを、揺るがしていたことを思い出した。若い粋な運転手は女の子の姿をみると、通りすがりにときの声をあげた。私たちは、女の子たちと同様に小さく、ある時は大きく悲鳴をあげ、まだ下水の整備されていなかった道端に身を寄せるのだった。そうして高校に通い、後に東京の予備校に通うため、駅に向かうのだ。
 運転手さんがこの稼業につくのは、おそらく私が大学にはいってからしばらく後のことだろう。初めは4トントラックでな、と語る運転手さんは、ずっとずっと体をこき使い(長距離運転手の全員が胃下垂になるという)、ある日仕事さきで動けなくなり、搬送された病院にその場で入院、胃を全部摘出した。そうして今は避難所で白湯を飲んでいる。
 私は東京の予備校に通っていたが、当時東京(日本)は激しく動いていた。母は昨年なくなって、とうとうこの話は言えずにいたが、私は予備校通いの傍ら、というより、勉強もせずに討論とデモに明け暮れていた。ミシンと針で息子に予備校を通わせる母の気持ちを考えないのが若さというものなのか、って何開き直ってんだよ、である。
 きっとあの頃日本は、だから私たちも運転手さんも、どこかに向かっていた。いつの間にか、ではない、「万感の思い」で買ったテレビ・冷蔵庫を前に、様々な思いを抱いた。道路に並び出した車の排気ガスは「霧の都ロンドン」を東京でも作り出していた。いろいろな意味で「このままでいることの戸惑い」を抱え、考え、どこかに向かっていた。

 到達した場所は、ある意味〈震災〉だった気がする。



ソムリエさん

 先週、お巡りさんと一緒になった一日目(災害対策本部に行ったのは二日目である)、小名浜近くの永崎で民家の瓦礫処理をした。私は軽トラック(以下、軽トラと表記)を運転し、その瓦礫を積んで市のゴミ集積所に運んだ。それを下ろすのでお巡りさんの車(なぜかまたしてもクラウンだ)、その車と一緒に合わせて四人で作業をした。軽トラはセンターがレンタルしているもの、二人乗り4WDで結構力がある。
 昼食は海が近いのでみんなそこで腰を下ろした。私は地元の若者を乗せていたが、お巡りさんの乗せた横浜の若者が、どうもソムリエらしい。初めはお巡りさんの発音が悪く「ソウギヤ(葬儀屋)」だと思ったが、当たり前のように話がワインの方へと流れていく。そこで修正された。実はお巡りさんはこれからインプラント手術をするとかで、今は歯がない。年寄りのように(33歳である)フガフガと発音するのだ。ついでに言っていいかどうか躊躇するが、頭も結構危ない。本人曰く「父親も、そのまた上も(隔世遺伝を考慮に入れても)絶望的な状態なのだ」という。充分にグループ「嵐」の若さを思わせる振る舞いなのだが(なんと出身が同じく慶応で、桜井翔と一緒に籍をおいた筈だという)、装備が良くない。
 そんなわけで、午後は軽トラにソムリエさんが乗った。根っからのお酒好きのこの人は、大学のバーテンダーの経験で「ちゃんと仕事として」ソムリエの資格を取ろうという考えになったらしい。
 職場は新横浜の駅近くで、結婚式場が併設されたレストラン。職場について食事をするのがお昼ころで、開店前の夕方にまかないの飯を食べる。家に戻るのが12時近くでそれから唯一の家での食事。母が毎日「今日の帰りは何時か」と電話をくれるのは、その夜食を作る都合からである。ワインの点検はもちろん、料理の打ち合わせは調味料から調理方法まで綿密である。さながら村上春樹の『バースデーガール』を思わせる。一流レストランは客からの質問に「厨房で聞いてまいります」とは言わない。メモを見てはいけない。そして、客の注文を聞く時に自分の空腹の音を鳴らせてはいけない(開店前にまかない飯をとる、とはそういうことだ)。
いろいろなことが聞けた。
 この通信で書いたイベリコ豚のことだが、団栗の実と豚の脂が反応して独特の脂身を作る、とは実は『美味しんぼ』にも記述があった。ソムリエさんに言われて思い出した。そうだ、地面を踏むというより「放し飼い」の方が適切な表現だった。
 ワインの蘊蓄は私にはちっとも入らなかった。ワインの深さを私は多分拒絶している。日本酒の深さでもう充分、という気持ちなのだろう。だから、この福島・会津の美味しい酒をソムリエさんが知っていたことに私は喜んだ。会津ほまれも蔵元まで行けば本当はうまいし、酒好きの間ではもう横綱級の『飛露喜』(廣木酒造)も知っていた。ついでにここで私の恥を改めたいと思い訂正する。銘酒『菊水』は新潟県新発田の酒である。私はついこの間まで同じく福島県郡山の銘酒『鳳金宝』と混同していた。愛知のボランティアの人に「そうだったかなあ」と言われつつも、強く『菊水』を郡山と主張していた。ここで訂正いたします。ごめんなさい。
 最近、私は日本酒と肴を口に含むことで生まれる味も酒の味わいなのだ、という実は当たり前のことに気付いた。別々に味わうのでなく、お互い引き立てあうことで生まれる味。「水のような」と、酒の妙をいう人もいるが、そんな時の肴は塩だとか冷奴と限られるのはそういうことだった。
 そうですね、知らずに味わうのもいいけど、そんなことを分かって味わうのはまた違うものですね、とソムリエさんが応じてくれる。そうして「嫌な味わい方」をする人はだいぶ減ってきたという。「金があるから、浪費するために」食べる人間はずいぶんと減ったらしい。調理法はもとより「なぜこの調理法を選んだのか」という質問をする人もいるらしい。それは、その場・言い方によっては料理をさらに楽しいものにするだろうが、人によっては料理を味気ない、緊迫させるものにするだろう、と思わせた。それは「嫌な食べ方」には所属しない、とソムリエさんは言う。
 料理を持っていくと、医者が女に言葉巧みに迫っている場面に遭遇したりしないかなどと、最近わけあって医者に偏見を持っている私は聞くが、そうでもないとソムリエさんは応じた。飽食の時代はインドにも訪れており、やせ細った人々の傍らで金持ちの残した食事が捨てられているという。
 避難所の缶詰とクラッカーが少し前から朝食のパンと夜の弁当に変更になったことはすでに書いたが、その変更直後、朝食である出来立てのパンを見たみんなは「美味しそう」と口々に言ったものだ。そして一週間後、今度は「いつも同じなんだよねえ。ほら、玉子焼きの形と大きさ、全部同じなんだよ」と言って、ふたつのパンが入ったパックを力なく指さすのだった。「生活」あるいは「生活している」ことと、食事はきっと同じ場所にいる。

実戦教師塾通信四十六号

2011-06-25 16:16:39 | 戦後/昭和
「月光仮面はだれでしょう」

 皇太子(現平成天皇)の婚約が発表され、高さ333メートルの東京タワーの完工式が行われた1958年、テレビで「月光仮面」の放映が始まった。月光仮面のスーパージャンプを真似して怪我したり、中には死んでしまう子どもまで出て、有識者!は「有害番組」指定をする。そして週刊新潮が番組を告訴する、という事態まで発展してわずか二年足らずで終わるこの番組は、視聴率68%を誇り、その放映時間帯は「子どもが銭湯から消えた」。「日本初のスーパースター」が乗る純白のバイクはホンダドリームC70(二気筒250CC)で、オープニングで月光仮面がさっそうと走る場所は、今はまったくその面影を残していないため、詳細がはっきりしない千葉県の松戸だった。モデルは大山倍達だったというウソのような本当の話が、原作者川内康範の口から後に語られている。
 時代劇の後の帯番組として企画された当初、時代劇では金がかかるので、勧善懲悪のヒーローとして現代版「菩薩」を考えたという。初めは日光菩薩の「日光仮面」だったのが、月光菩薩の「月光仮面」となって落ち着いたらしい。白いターバンをかざる三日に欠けた月は、「未だ完全ならざるもの」を示す。「憎むな、殺すな、赦しましょう」の理念の通り、月光仮面の持つ二丁拳銃は悪人の拳銃をねらい、あるいは牽制のために使われた。ちなみに、「『おふくろさん』騒動」(森進一が歌謡曲『おふくろさん』をアドリブで歌って、作詞者だったこの川内康範が「もう歌うな!」と封印した事件)で、川内康範はこの「憎むな、殺すな…」の最後の「赦しましょう」の部分を「ただせよ!」に変えたそうだ。月光仮面も大変だ。
 主題歌の一番をここで全部。
「どこの誰かは知らないけれど、誰もがみんな知っている、
月光仮面のおじさんは正義の味方よ、良い人よ、
疾風のように現れて、疾風のように去っていく、
月光仮面はだれでしょう、月光仮面はだれでしょう」
 さて月光仮面だが、この歌詞にあるように正体が分かっていない。本当は別な主役の探偵・祝十郎であることはバレバレなのだが、初めのキャスト紹介字幕でも月光仮面の部分は「?」とだけ記してある。大瀬康一演ずる祝十郎が、肝心なところで姿を消し、そこに月光仮面が常に現れる。重要な局面が過ぎると月光仮面は「またどこかで会いましょう」と言い残し、去っていく。まるで、ヒーローというものはこういう秘めやかなものを指して言うのだよ、と静かに諭すように去っていく。私たちはその姿に、初めて「恍惚」という状態を経験したと言っていい。
 それで、被災地の話になる。100日が経って暑くなったせいなのか、それとも港のある小名浜に仕事に出向く機会が増えたせいなのか、油と魚の腐敗した臭いが鼻につくようになった。そんな中で、以前ほどではないが今でも自衛隊の隊員とすれ違う。「こんにちは」「お疲れさま」と当たり前のように挨拶する日常だ。向こうもこっちも、お互い必ず視線を交わす。こっちとしては初めて経験する肩が触れそうな距離だからだ。まさか自衛隊員と挨拶をしようとは思わなかった。
 向こうはどんな視線なのだろう。ボランティアの腕章を見ていることが多い。「これがボランティアか」とでも思っているのだろうか。
 「災害派遣車」の表示をつけた自衛隊のジープとすれ違う。彼らは瓦礫を片付けている私たちに会釈をして通りすぎる。私(たち)は、そうしたいろいろなすれ違い方をしながら、彼らの姿に「頼もしさ」「かっこよさ」を見ている。彼らは静かに優しく現場を通りすぎているように見える。一方、私たちは彼らから「(こんなことが)好きなんだねえ」と思われているのだろうか。いや、もしかしたら「ありがたい」と思われているのかも知れない。
 震災から100日が経ち、被災者が避難所からアパートに移って、万引きで捕まったというニュースを聞いた。また、埼玉県に役場ごと避難した双葉町は、埼玉スーパーアリーナから埼玉県内の学校に移転するまで、と町長の迅速かつ適切な対応をたたえた。しかし、今は町民の「先行きの見えない不安」と「望郷への思い」が、町長を追い詰めている。
 100日が過ぎ、孤独と焦りは以前にも増している。
 久之浜で瓦礫処理をした時、ピカピカのクラウンに私を乗せた社長さんは、社員の仕事探しと住まい探しを終えてのボランティアだった。大阪や栃木に支社を持つこの社長さんは、橋下知事の「大阪は住居を提供する」素早い提案を感謝していた。「こういう時はスピードなんだ」と言った。そして、これからあとは「相続」が問題になってくるよ、と教えてくれた。「相続意思の有無」は三カ月以内に表明しないといけない、親に借金がある場合、その相続はしないと言えるのは、その期間なんだという。
 婚約して53年が経ち、皇太子は天皇となっており、そしてこの4月と5月、震災後の被災地を見舞った。
 富士山をイメージした数字333メートルの東京タワーから53年が経ち、浅草にはムサシの634メートル「スカイツリー」が、来年開業を目指している。

 月光仮面はだれなのでしょう



 お巡りさんから

 提案があった。今週最後の活動で東大法学部の学生と一緒になったという。是非、避難所に彼らを連れて行って欲しいという。以下、お巡りさんのメッセージ。

彼らが弁護士、検事、裁判官になる前に、この大震災の惨状と被災地の現状、被災者の心境の細部、政府行政の対応、ボランティア活動とその精選などなどを是非とも体感、経験させたいと思います。弁護士バッチを胸にする前に是非!と思うのです。これはもしかしたら日本の未来の為かもしれません…

ということだった。これはどうやら災害対策本部にも同行させた方がよさそうである。


実戦教師塾通信四十五号

2011-06-24 14:05:49 | 福島からの報告
避難所閉鎖が始まる

(1)通知と説明

 今週、避難所に「帰って」新たな動きを知った。トラックの運転手さんが携帯コンロの空ボンベに穴を空けようとして、誤ってアイスピックで指に穴を空けていた。というのはいいが、運転手さんはその指を眺めながら、市役所の人が来てさ、と入り口の貼り紙を示した。昨日なんだ、と言っていたから私の到着した前日、日曜日に職員が来たということだ。大事なことなので、その通知を全文ここに書き写そう。

                                 平成23年6月17日
避難されている皆様へ

 本市避難所につきましては、このたびの東日本大震災翌日の3月12日には、127カ所に19813人の方々が避難されておりましたが、その後、水道や電気などのライフラインの復旧や物流の回復、一時借り上げ住宅等の提供などにより、現在では14カ所の避難所に約360人の方々が避難されております。
 本市におきましては、避難所におけるご不便な生活の早期解消を目指し、一時借り上げ住宅等の提供に鋭意努めてきたところであり、また、市外から避難されている皆様につきましては、県及び出身自治体による仮設住宅の建設や、二次避難所のあっせんが行われているところです。
 本市といたしましては、これらの一時借り上げ住宅等への入居状況を踏まえ、避難所については、6月末を目途に閉める準備を進めております。
 つきましては、今後の住宅や生活等に関し不安な点などございましたら、避難所担当者又は地区保健福祉センターにご相談くださいますようお願いいたします。

                               いわき市災害対策本部

 避難所が6月で閉鎖になるということは前から言われていたが、正式に通達してきた。私にはいろいろな人たちの事情や表情がすぐに浮かんだが、それらを一蹴するものがこの無表情な通知からは伝わってきた。職員からの説明があって、「その時避難所にいた人」は質問ができた。運転手さんは借り上げたアパートの修理が今週いっぱいかかる。居住事実が発生してから一月後に「日本赤十字からの電気製品6点セット」が届く。少し注釈、まだこの6点セットの内容を言ってなかった。1冷蔵庫 2洗濯機 3テレビ 4炊飯器 5電子レンジ 6電気ポット である。
 つまりみんなが言う通り、「その間一カ月はコンビニやスーパーで食事をまかない、コインランドリーに行け、ということなのか」となる。一気にアパート生活へというのは難しいですね、と私は運転手さんに差し向けるが、そうも言ってられないしなあ、とつぶやく。でも平地区はどこも(アパート)空いてないんだから、とスナックのママさんは溜め息をつく。
 この文書は良く読めば、被災者に残されている道がまだあることも分かる。しかし、被災者が感じる主要な場所は「避難所にはいられない」→出て行け である。文書の意図を確かめないといけない。変えることはできなくとも、真意を被災者に微力でも伝えないといけない。


(2)懲りずに災害対策本部で

 この日の仕事が終わって、私はまたしても今週二日間仕事を共にしたお巡りさんと、話が弾んだその勢いでもうひとり、インテリア・リフォームを本業とするボランティアさんも誘って三人で本部に臨んだ。やはり一人よりは複数で良かった。向こうから「面倒なものを追い払う」表情が消えるのだ。いや、正確には「そういう顔をしてはいけない、という態度」がありありとうかがえるのだ。お巡りさんはチンピラ風に頭髪オイルをテカテカさせて、眼鏡は色づき、真っ赤なジーパンと黒のTシャツだったりする。インテリアさんは見た目に恰幅のいいお坊さんである。二人とも頭がテカテカしていた。こういう演出効果はともかくも、すでに私が分かっていることや諦めていることに、二人は突っ込みを入れてくれた。二人は避難所での経験はなくとも、何より瓦礫処理の現場で被災者の声を聞いている。
 この文化センターに臨時設置された災害対策本部は、4月の時点では消防・警察・自衛隊も擁し、フロアは熱気に満ちていたが、今は中央に市の担当者がこじんまりと電話や事務処理に従事している。4時に始まったので、職員退勤時には終わると踏んだが、三対一の議論は優に二時間に及んだ。きっとここを担当して割に期間の長い職員は、たまに目の白い部分を大きく見せながら対応した。
 私に言わせれば「悪意に満ちた」説明がある。
・被災者でなく、避難所に現場作業員がいる。そこから現場が近いからだ。
・噂だが「一次避難場所が避難所なら賠償額が上がる」という理由で避難所に長くいたがる人がいる(さすがに断定出来ないのだ)。

注釈・6月18日付で文部科学省が発表した「原発事故による精神的損害賠償について、避難開始から6カ月の間一人当たり月額10万円支払う。ただし、その避難した場所が体育館や避難所だった場合、2万円加算する」というもの。つまり、旅館や親類を頼ったものには10万円、それ以外の避難所避難者には12万円支給ということになる。四人家族だと月額にして8万円の差額が生じるというわけだ。

・南相馬市でも原町地区は帰宅してもいい区域なのに、帰ろうとしない。
・「罹災届け」「被災届け」をいつまでも出さない人がいる。
・二次避難をすれば、ご飯(弁当)は支給されない。電気・水道も自分で支払うようになる。それを理由に出ない人がいる。
・「正当な理由なく」避難所にいる人は大体40人と少しである。その人たちへの忠告として今回の通達はある(ちなみにさきの文書にあったように今避難所にいる人は360人、この日に登録されている数字を調べてもらったら311人だった)。

 まず私たちも確認した方がいい。
1 被災者は疲弊している。
2 被災者の多くは、人さまの迷惑になってはいけないと多くが考えている。
3 何より、人から言われるまでもなく、被災者は今の避難所生活から逃れたいと思っている。

それでも被災者の避難所での生活が続いている、と考えるべきなのだ。出発はそこからだ。
 やっと体を動か(そうと)している人たち。特にお年寄りは「死んだ方がましだ」と思う状態からなんとか脱して、いや逃れつつ生活している。
 また、避難所での生活のリズムや住む人たちが分かって、それなりの場所を見いだした後の二度目の「引っ越し」である。新しい生活とは、それがとても幸福に満ちていたとしても不安を覚えるのだ。ましては将来の見通しの全く見えない「新しい生活」に、どうして速やかに移れるのだろう。「条件は整っているのに、どうして引っ越しができないのだ?」と言えるのは、きっとその「条件」の中に「疲れている」「不安」が含まれないからだ。さらに南相馬に関して言えば「『安全』と言われても『安心』できないから」という理由が加わる。
 江名地区のお婆さんのことを再び書こう。私は生まれて80年以上ここで育ってきた。住居の抽選で当たったのが小名浜なのよ。一体私にどこへ行けというの? 抽選がもう一度回って来るまで何千人と待たないといけない、友だちと二人でアパート探そうと言っているの。というお婆さんのその話も職員にした。職員は、そんなことを言っていたらいつまでも今の暮らしからでられない、という答。
 多くの人は「避難所暮らしはもうたくさん」と言う。その上での躊躇であり停滞である、というとらえ方が本部はできない。何度か私は職員に、みんな避難所に長くいたいと考えているとでも思っているのですか、みんな出ないと行けない・出たいと思っているんですよ、と繰り返さないといけなかった。
 また「居直り部隊」が40人超というが、仮にその事実を認めたとして、そういった連中に「脅し」は痛くも痒くもない、と分かっているはずですが、とも言った。
 「避難所担当に相談」やら「地区センターに相談」やら、というくだりに関して、何度もこの通信にに書いたが、私はどこの避難所でもある「担当の受付は『私たちには分かりません』と回答(!)する」という被災者の言葉を伝えた。そして、被災者は出向いて来い、という対応がいかにひどいものであるかということも訴えた。追い込まれている被災者はまたしても、そしてますます追い込まれることになる。そう訴えて、できるだけ早くこの文書を訂正して公表すべきだと言った。
 本部の担当職員は「誠実に」「個別に」対応する、ということを錦の御旗に、汗を拭き拭き繰り返した。私に同行した二人は「あなたのような親切な対応なら」と職員を持ち上げ、「文書を訂正しろとは言わない、この文書に付け足しという形でいい」と要求した。
 お巡りさんは「避難所の実情を分からずに言っているのではない」という根拠を言っておきたかった、と「この人は夜遅くまで避難所に通って被災者の話を聞いている人だ」と私のことを職員に言った。
 結果、今週中に残りの避難所を周り「個別対応をした結果」新しい文書を出す。24日頃になると思う、とセンターの職員は言った。どうせ追加文書は出ないと思った。しかし、本部を出るとお巡りさんも「どうせ新しい文書は出ませんよ」と言う。私は思わずどうしてそう思うのか、とたずねる。「あいつが作った文書じゃないからです。上のやつが作ったものだからですよ」と簡明だった。さすがもと県警である。
 いずれにせよ、これでまた来週本部に出向くことになる。


実戦教師塾通信四十四号

2011-06-20 10:25:51 | 福島からの報告
震災から100日

 今になって自分の傷の深さが身に沁みる、とは身近な仲間の言葉だ。震災後、自分のことなど問題ではない、と気を張りつめて自分を奮い立たせていたのかと思う、そう語った。気がついてみると、震災のことではない、自分自身のそのことで精一杯の自分がいる、そう語るのだ。我に帰るということでもあるのだろう。そんな時期が訪れているのだな、と思った。
 今、被災地でももちろんそんな変化が訪れている。一番端的なもので言えば「生命が助かって良かった」思いで、その幸福とその助けられた生命を維持しようとの思いで、被災地は無我夢中で疾走してきた。今新たに彼らに襲いかかっているのは、今さらながらの「喪失感」だ。失ったものへの愛着と記憶が、取り返しのつかない気持ちをさらに加速してえぐっている。
 四月、私はいわきに支援にやってきて、朝の桜に挨拶する人がいれば、見も知らぬ私に挨拶するいわきの人々の姿を見て感動した。健気にも逞しくもみえたその人々のことをここに書いた。しかし、それらは少し変化を見せているようにも思う。
 四月、「県外の人がこんなに頑張ってくれているんだから、いわきの人はもっと頑張ってもらわないとだめだ」と私に言った地元の看護士さん。「大丈夫なんです。放射能は怖くない」と気丈に言った地元の高校生。当時、それは言われた通りに受け取っていい言葉だった。震災に負けないぞ、原発なんかに負けてたまるかという言葉だったと思える。
 きっとこれらの言葉は今、ふたつの流れに別れている。ここでも何度か書いたが、被災のひどさは、どこでもそれぞれ違っていた。海岸でも市街地でも、原発隣接地域でもそれらは本当は個別的だった。そして人々、いや、あえて日本や東日本が被災しているという立場に立てば「人々」ではなく、「私たち」となるが、その私たちはこの100日の間、自らがどんなふうに被災し、そしてどの程度被災したのかということをこの目で耳で確かめてきた。
 一方では受けた傷の深さを癒せることなく、日ごとにその痛みを強くする人たち。しかし、その一方に被災の程度に安堵し、もとの生活感覚に戻っていく人々がいる。もちろんそれは悪いことではない。大切なことは、日本全体と言ってもいい、そんな広い場所で引き受けていた驚きや悲しみ、そんな広さで、そして、みんなが全員が共有していたと思っていた驚きや悲しみが、100日たってそうではなくなった、全体の、全員のものではなくなったのではないか、そんな風に思えるのだ。
 今それらは「どうにも救いようのない」気持ちと「まだ良かった」気持ちへと別れ、孤立する場所と落ち着きを見せる場所へと分断されようとしているように見える。この場合、分断とは、悲惨と安堵の両者の場所が背を向けあう時に生ずることだ。そういうことでは、まだまだ分断にいたるまでには至っておらず、可能性をはらんではいるのだが。
 もとの生活感覚に戻るに際しては、これも何度も繰り返して来たが、その「もとの生活」が「どのようなもの」だったのかを問うことが前提だ。そしてだから「どのように」戻るのか、が問題なのだ。「放射能は怖くない」としっかりと(自分自身に)言い聞かせた高校生は、「放射能に勝つ!」などと言い放ち「生姜・油揚げ・タコ・ビールは効果てきめん!」と宴会さながらの、そんな健康雑誌など蹴飛ばさなきゃいかん。
 そして複数の週刊誌が「原発なしで今の生活は大丈夫か?」と寝言をかましている。バカなこいつらが闊歩するのも100日目なのだということなのだろう。「撥水対策」を施したジャンバーやマスク、「放射能は怖くない、花粉症対策とそれは同じ」(未だに「ハァ!?」だよ)といった無責任・非科学的・能天気な見解も100日目で色あせたのか、何より暑くなってきて「それどころではない」日本で、それらは見かけなくなった。
 気になる最近のアンケート結果は、今回の原発の地元福島で「原発は必要ない・減らすべきだ」と答えたのは7割を切っていることだった。方や地球の反対側のイタリアで原発廃止の世論が9割だったことを思うと残念至極である。また、日本のメディアが「イタリアは原発いらないと言うが、隣の原発が林立するフランスから電気を輸入しているのだから、原発依存に変わりはない」という、実に意地の悪いコメントを流しているのも実に腹立たしい。



地方のニュースで

 今月の上旬、新聞各紙の地方欄で、元千葉県議の吉川ひろし氏が「信号無視、注意すると『私は県会議員だ。これは選挙妨害ではないか』と言い、再三の出頭通知にも応じないため逮捕」と報道された。
 吉川ひろし氏にはこの通信で登場してもらってもいるし、その活動には注目するものが多かったので、その真相を知りたいと思った。
 本人から正式に見解が発表された。ほぼ事実と思われるこれらの見解を書き抜いておく。冤罪というよりでっち上げの色が濃い。2009年に氏は「千葉県の不正経理(その中には千葉県警のものもある)」をかなりしつこく追及しているからだ。

 3月8日の午前9時半ごろ、右折矢印信号に従って通過。吉川氏は50ccのバイクに乗っていた。さて、おかしい点がたくさんある。以下、その点を箇条書きで。
・反則切符が切られていない(注意だけだったのか、それさえもなかったのかは見解に書かれていない)
・氏はこの日の午後、呼び出しを受け説明に行ったがひとりの警官の目撃証言を正しいとし、警察は五通の出頭通知を出す
・氏は四通に対しては文書で返事、最後の一通に対しては電話で「5月は無理だが6月にうかがう」と電話連絡。出頭拒否はしていない。
・そして「無理な5月」の最後の日、5月31日に家宅捜索と逮捕となる。7人の警察官が来て、トイレや部屋まで捜索した
・二泊三日の勾留となったが、さすがに検事は「勾留する理由はない」ということで釈放。

 以上が「信号無視」という案件で行われたことである。後に裁判となるだろうが、注目したい。このことが原因ではないにせよ(この逮捕のあとの投票ではあったが)今回の選挙での吉川氏落選は、はなはだ残念だ。