大川小学校裁判(補)
~学校的対応は続く~
1 『福島民友』では
横浜の学校でのいじめが、明らかになっている。福島から自主避難してきた子どもへのいじめだ。私は初めに言いたい。「福島」を理由としたいじめが許されないのではない。おそらくこの子は、「格好(かっこう)の標的」として設定された。その部分を私たちは許せないでいる。しかし、「ひとりでいる」から、あるいは「太っている」からという理由ならいいというわけではない。当たり前だ。自身の不満/ストレスの原因らしきものを見つけ出し、誰かを餌食(えじき)にする卑劣さに、グレードなどないのだ。
この事件の詳細が報道されるのは、朝日新聞では11月16日。しかし一週間逆上った『福島民友』の見出しには、
「本県避難生徒にいじめ」
とある。このタイムラグの原因を、言うところの「他人ごと」と、私たちは呼んでいるはずだ。
転校した2年生の時、子どもたちが、この子を「菌」と呼んだ行為は、まだ「他愛のない」段階だったはずだ。打つ手もチャンスも、いっぱいあった。しかし、3年生で不登校になった事実が、その手やチャンスを使わなかったことを示している。5年生に始まる「ゆすり」は、二年間で総額150万円に及ぶという。10人前後のゲーム・食事代として、一回5~10万円を使った。
2 そばにいた大人の責任
報道されたことを、本当のこととして検証して見よう。
加害児童らとゲームセンターに行くようになったのは、5年生の5月。この子が、何度か不登校になったあとの出来事である。その月の終わり頃に、複数の保護者が、金品のやり取りのあることを心配し、学校に連絡している。加害児童の身近にいる保護者と思われる。被害児童は孤立していたからだ。もしかしたら、加害児童の保護者かもしれない。
学校は、加害児童に事情を聞くが、
「合意があった」
と答えたため、いじめにはあたらないと判断。信じがたいことだが、被害児童には聴取しなかったという。
小3の時の不登校以来、被害児童はカウンセリングを受けるが、「個人情報の守秘義務」を理由に、その内容を学校に伝えなかった、とある(朝日11月19日)。カウンセラーが被害児童に、
「これは学校/親に言わないといけないよ」
と、被害児童を説得したかどうか、また、学校がカウンセラー/市教委に、
「なんと言っているか教えてくれないか」
と問い合わせたのかどうか、また第三者委員会がその部分を検証したのか、いずれも報道されていない。
第三者委員会の結論は、
「学校との情報が共有されなかった」
ということのようだ。私に言わせれば、これは正確さを欠いた言い方だ。
「誰も『一体どうなっているのか』と、声をあげなかった」
のだ。複数の保護者以外の誰もが、だ。被害児童の保護者の対応も遅れるが、私は、これこそが「福島からの避難」が理由であるように思えて仕方がない。私たちにとって事件の唯一の救いは、
「でも、しんさいでいっぱい死んだから、いきるときめた」
という、この子の言葉だ。与えられたこの手がかりは、手放してはいけない。
学校がたどるいつもの道筋は、
① 信じられない気持ちで、何も出来ない
② 出来れば「おおごとであって/なって欲しくない」と思う
③ その結果、必要な確認作業を怠(おこた)る
大きく言ってこんなものだ。
大川小学校の悲惨な事件は、まさにこんな道筋で起こった。
3 「いざという時」
前号で言ったが、大川小学校裁判に触れたブログへの反応が、あんまりよろしくなかった。
「想定外の自然災害だったのだ」
また、宮城県知事の申すごとく、
「命をかけた教師への断罪はいかがなものか」
というものがいくつか。しかし、一番多く、かつ気になったのは、
「迂闊(うかつ)に安易なことは言えない」
というものだ。
しかし、これこそがあの日、大川小学校の校庭を、いや、当事者を支配した気持ちだった。そして今も、あの時のように時間だけが過ぎていく。時間が過ぎた後に、とりわけ私たち当事者でないものには、
「仕方がなかった」
気持ちだけが残っていくのは、間違いないことのように思う。
新北上川大橋近くの三角地帯まで(200mだ)走って見て来いと、さっさと誰かに指示すれば良かった。橋のたもとから海の様子を確認することは出来た。真っ黒い波の突端が、彼方に見えたはずだ。
私が震災直後、いわきで津波を免(まぬが)れた人たちから聞いた話は、みんなそうだった。「防災無線が聞こえなかった」みんなは、ラジオと消防の人たちの呼びかけで動いた。ほとんどは「現場での判断」だった。しかし大川小学校の悲劇は起きた。
私たち現場の人間が教訓とし、常日頃の心構えとすべきことを、大川小学校の悲劇は教える。
「普段に『いざという時』を回避するものは、ついに重要な『決断する時』を回避してしまう」
ことだ。
☆☆
先日録画したwixsiteのレクチャーが、アップされました。今回のブログの記事と少し重複します。また、今までの経過も振り返りました。一時間ほどですが、良かったら御視聴ください。
freejournal1.wixsite.com/kotoyorimasato
☆☆
楢葉の渡部さんの家から第二原発までは、一キロほどです。先日の地震で、第二原発の使用済み燃料プールの冷却が止まりました。これはニュースで知ったということでした。津波はそれほどではなかった、でも揺れがすごくて、息子の高校は休校になった、ということでした。
☆☆
驚きました。庭先の木蓮の葉が落ちて、こんなものが姿を現しました。

スズメバチの巣です!
☆☆
11月の雪は、54年ぶりだとか。私が中1の時以来ということです!

いまお邪魔している学校です。校舎の3階からの眺め、見事ですね。子どもたちが寒さも気にせず、窓全開で喜んでいました。
~学校的対応は続く~
1 『福島民友』では
横浜の学校でのいじめが、明らかになっている。福島から自主避難してきた子どもへのいじめだ。私は初めに言いたい。「福島」を理由としたいじめが許されないのではない。おそらくこの子は、「格好(かっこう)の標的」として設定された。その部分を私たちは許せないでいる。しかし、「ひとりでいる」から、あるいは「太っている」からという理由ならいいというわけではない。当たり前だ。自身の不満/ストレスの原因らしきものを見つけ出し、誰かを餌食(えじき)にする卑劣さに、グレードなどないのだ。
この事件の詳細が報道されるのは、朝日新聞では11月16日。しかし一週間逆上った『福島民友』の見出しには、
「本県避難生徒にいじめ」
とある。このタイムラグの原因を、言うところの「他人ごと」と、私たちは呼んでいるはずだ。
転校した2年生の時、子どもたちが、この子を「菌」と呼んだ行為は、まだ「他愛のない」段階だったはずだ。打つ手もチャンスも、いっぱいあった。しかし、3年生で不登校になった事実が、その手やチャンスを使わなかったことを示している。5年生に始まる「ゆすり」は、二年間で総額150万円に及ぶという。10人前後のゲーム・食事代として、一回5~10万円を使った。
2 そばにいた大人の責任
報道されたことを、本当のこととして検証して見よう。
加害児童らとゲームセンターに行くようになったのは、5年生の5月。この子が、何度か不登校になったあとの出来事である。その月の終わり頃に、複数の保護者が、金品のやり取りのあることを心配し、学校に連絡している。加害児童の身近にいる保護者と思われる。被害児童は孤立していたからだ。もしかしたら、加害児童の保護者かもしれない。
学校は、加害児童に事情を聞くが、
「合意があった」
と答えたため、いじめにはあたらないと判断。信じがたいことだが、被害児童には聴取しなかったという。
小3の時の不登校以来、被害児童はカウンセリングを受けるが、「個人情報の守秘義務」を理由に、その内容を学校に伝えなかった、とある(朝日11月19日)。カウンセラーが被害児童に、
「これは学校/親に言わないといけないよ」
と、被害児童を説得したかどうか、また、学校がカウンセラー/市教委に、
「なんと言っているか教えてくれないか」
と問い合わせたのかどうか、また第三者委員会がその部分を検証したのか、いずれも報道されていない。
第三者委員会の結論は、
「学校との情報が共有されなかった」
ということのようだ。私に言わせれば、これは正確さを欠いた言い方だ。
「誰も『一体どうなっているのか』と、声をあげなかった」
のだ。複数の保護者以外の誰もが、だ。被害児童の保護者の対応も遅れるが、私は、これこそが「福島からの避難」が理由であるように思えて仕方がない。私たちにとって事件の唯一の救いは、
「でも、しんさいでいっぱい死んだから、いきるときめた」
という、この子の言葉だ。与えられたこの手がかりは、手放してはいけない。
学校がたどるいつもの道筋は、
① 信じられない気持ちで、何も出来ない
② 出来れば「おおごとであって/なって欲しくない」と思う
③ その結果、必要な確認作業を怠(おこた)る
大きく言ってこんなものだ。
大川小学校の悲惨な事件は、まさにこんな道筋で起こった。
3 「いざという時」
前号で言ったが、大川小学校裁判に触れたブログへの反応が、あんまりよろしくなかった。
「想定外の自然災害だったのだ」
また、宮城県知事の申すごとく、
「命をかけた教師への断罪はいかがなものか」
というものがいくつか。しかし、一番多く、かつ気になったのは、
「迂闊(うかつ)に安易なことは言えない」
というものだ。
しかし、これこそがあの日、大川小学校の校庭を、いや、当事者を支配した気持ちだった。そして今も、あの時のように時間だけが過ぎていく。時間が過ぎた後に、とりわけ私たち当事者でないものには、
「仕方がなかった」
気持ちだけが残っていくのは、間違いないことのように思う。
新北上川大橋近くの三角地帯まで(200mだ)走って見て来いと、さっさと誰かに指示すれば良かった。橋のたもとから海の様子を確認することは出来た。真っ黒い波の突端が、彼方に見えたはずだ。
私が震災直後、いわきで津波を免(まぬが)れた人たちから聞いた話は、みんなそうだった。「防災無線が聞こえなかった」みんなは、ラジオと消防の人たちの呼びかけで動いた。ほとんどは「現場での判断」だった。しかし大川小学校の悲劇は起きた。
私たち現場の人間が教訓とし、常日頃の心構えとすべきことを、大川小学校の悲劇は教える。
「普段に『いざという時』を回避するものは、ついに重要な『決断する時』を回避してしまう」
ことだ。
☆☆
先日録画したwixsiteのレクチャーが、アップされました。今回のブログの記事と少し重複します。また、今までの経過も振り返りました。一時間ほどですが、良かったら御視聴ください。
freejournal1.wixsite.com/kotoyorimasato
☆☆
楢葉の渡部さんの家から第二原発までは、一キロほどです。先日の地震で、第二原発の使用済み燃料プールの冷却が止まりました。これはニュースで知ったということでした。津波はそれほどではなかった、でも揺れがすごくて、息子の高校は休校になった、ということでした。
☆☆
驚きました。庭先の木蓮の葉が落ちて、こんなものが姿を現しました。

スズメバチの巣です!
☆☆
11月の雪は、54年ぶりだとか。私が中1の時以来ということです!

いまお邪魔している学校です。校舎の3階からの眺め、見事ですね。子どもたちが寒さも気にせず、窓全開で喜んでいました。