館山いじめシンポ
☆初めに☆
雨の降る土曜の宵(よい)の口だったのですが、40人の皆さん参加のもと、シンポジウムが開かれました。道は渋滞で、ぎりぎりで駆けつけたのは、毎日新聞の中島さん。ホッとした瞬間です。
この日は勝(しょう)君も参加しました。右側の写真です。勝君が亡くなる半年前の写真。野球帽の「S」は、勝君のイニシャルだと言います。この写真の大切さは集会でも報告しました。田副(たぞえ)さん夫婦を除いて、この勝君の写真を見るのは、シンポ参加者はもちろんのこと、館山の支援メンバーもみんな初めてだったのです。かつてこの事件を取り上げた雑誌の写真は、幼少の頃の写真でした。館山の集会でも、そして法要の時さえも写真は飾られなかった。この日、私たちは田副さんの思いを感じた次第なのです。
1 支援/公文書
当ブログ603/604号で報告したことは省(はぶ)いて、この日新たに提示されたことを中心に書こうと思う。
館山の市議会議員・石井さんは、
「選挙を有効な手だてに出来ないか」
と考えたそうだ。いつもなら聞く耳をもたない市長でも今なら行ける、そう思った。そして遺族側は、選挙を目前にした(2014年)8月に、第三者委員会の設置を要求する。
それまで「拒絶」で通してきた市長は突然、掌(てのひら)を反(かえ)したように態度を変える。この態度が出てくる根拠を、多くのメディアの中でたった一社、毎日新聞が「選挙を目前にした市長は……」と分析して見せた。
ちなみに、2012年9月5日のスクープに対して、報道各社はあまりいい反応をしなかったようだ。「すっぱ抜かれた」思いが強いという。そうなると、その案件に関わっていくタイミングを見つけるのは、結構難しいらしい。社名もあげて言ってしまうあたりに、中島さんの「記者魂」を大いに感じた次第である。
そして、支援の会「館山いじめ問題を考える会」の活動が、小出さんたちを中心に躍動(やくどう)し始める。
以前ここでも書いたし集会でも報告されたが、バス中での「臭い」事件を、顧問が、
「寝ていて分からなかった」ことも、
「騒いでいる保護者が要求をエスカレートしてくる」という市教委の不安に、県のスーパーバイザーが、
「下手に動けば、次のうわさが拡がる」
「時間が経てば正常な考えの保護者が意見を発してくれる」
と答えたことも、
市教委の「今後の対応」を求めた相談に、
「時間を費(つい)やさないよう、文書のやりとりをすればいい」
「相手が収まるまで文書のやりとりを続ければいい」
と応(こた)えた弁護士たちの、みっともなく醜悪(しゅうあく)な言動は、すべて「考える会」が開示請求した「公文書」に残っていた。いま世間を騒がせている「公文書」とは、かくも大切なものだった。
もうひとつ。いつも言っていることだが、
「寝ていて分からなかった」
顧問、また学校批判のアンケート回答が未公表だったことに対し、
「全くの記載漏(も)れ」
とした市教委。この事件に限らず、ことが大きくなると学校(組織)は、残念なことに「誠意」というものを遠くに投げ出す。謝罪できない、事実と向き合えない存在となる。
2 大人の責任
「どうして息子の気持ちに気付いてやれなかったのか」
「どうして息子を守ってやれなかったのか」
最後に言った言葉は、田副さんの上にずっと変わらずにあった。「加害者を探す気持ちはない」田副さんの言葉だ。
子どもたちの近くにいる大人は、その責任を負っている。「親という、子どもの近くにいる大人」の責任を、田副さんは引き受け続けないといけないと思っている。田副さんから、
「学校が息子を殺した!」
というストレートな言葉を、私は聞いたことがない。
しかしこの場合、もう一方の「子どもの近くにいた大人」=学校が、責任のないはずがない。それは「いじめと自殺の関係」とは別な問題だ。
最後は涙で言葉につまった田副さんだった。
「すみません、感情を出してしまって……」
7月の第三者委員会で区切りになる、という6月18日の大野委員長の話だった。9月の勝君の命日には報告を出したいという。
☆後記☆
会場では参加者の皆さんから多大なカンパをいただきました。また、私たちの口座にカンパを寄せてくださった方々にも、この場を借りて御礼申し上げます。今後、館山、そして私たちの活動に利用いたしたいと考えております。
そして、新刊本を購入してくれた方々、ありがとうございます。読んだら、ぜひ感想お聞かせくださ~い。
☆ ☆
「我々の世代は義理と人情の世界で生きてるんだ!」
とは、反省会での小出さん。自分のことを「我々」と言うことで、みんなを巻き込んでました。まだ四十路(よそじ)の石井さんが、不満そうな顔でした。
遠方から本当にお疲れさまでした。
☆ ☆
「放射能が流れる方向に私たちは避難した。国家の殺人罪にあたる」
「個人単位で東電の交渉にあたるなんて、戦車に竹ヤリで突っ込むようなものだ」
と、町のために頑張ってきた福島・浪江の馬場有町長さん、亡くなったんですねえ。私と同い年だったんですね。残念です。
☆
え? サッカーW杯? すみません、興味ないんですよ。でも、自分でやるんですよ。やるのは好きなんです。
手賀沼に夏が来ましたよ
☆初めに☆
雨の降る土曜の宵(よい)の口だったのですが、40人の皆さん参加のもと、シンポジウムが開かれました。道は渋滞で、ぎりぎりで駆けつけたのは、毎日新聞の中島さん。ホッとした瞬間です。
この日は勝(しょう)君も参加しました。右側の写真です。勝君が亡くなる半年前の写真。野球帽の「S」は、勝君のイニシャルだと言います。この写真の大切さは集会でも報告しました。田副(たぞえ)さん夫婦を除いて、この勝君の写真を見るのは、シンポ参加者はもちろんのこと、館山の支援メンバーもみんな初めてだったのです。かつてこの事件を取り上げた雑誌の写真は、幼少の頃の写真でした。館山の集会でも、そして法要の時さえも写真は飾られなかった。この日、私たちは田副さんの思いを感じた次第なのです。
1 支援/公文書
当ブログ603/604号で報告したことは省(はぶ)いて、この日新たに提示されたことを中心に書こうと思う。
館山の市議会議員・石井さんは、
「選挙を有効な手だてに出来ないか」
と考えたそうだ。いつもなら聞く耳をもたない市長でも今なら行ける、そう思った。そして遺族側は、選挙を目前にした(2014年)8月に、第三者委員会の設置を要求する。
それまで「拒絶」で通してきた市長は突然、掌(てのひら)を反(かえ)したように態度を変える。この態度が出てくる根拠を、多くのメディアの中でたった一社、毎日新聞が「選挙を目前にした市長は……」と分析して見せた。
ちなみに、2012年9月5日のスクープに対して、報道各社はあまりいい反応をしなかったようだ。「すっぱ抜かれた」思いが強いという。そうなると、その案件に関わっていくタイミングを見つけるのは、結構難しいらしい。社名もあげて言ってしまうあたりに、中島さんの「記者魂」を大いに感じた次第である。
そして、支援の会「館山いじめ問題を考える会」の活動が、小出さんたちを中心に躍動(やくどう)し始める。
以前ここでも書いたし集会でも報告されたが、バス中での「臭い」事件を、顧問が、
「寝ていて分からなかった」ことも、
「騒いでいる保護者が要求をエスカレートしてくる」という市教委の不安に、県のスーパーバイザーが、
「下手に動けば、次のうわさが拡がる」
「時間が経てば正常な考えの保護者が意見を発してくれる」
と答えたことも、
市教委の「今後の対応」を求めた相談に、
「時間を費(つい)やさないよう、文書のやりとりをすればいい」
「相手が収まるまで文書のやりとりを続ければいい」
と応(こた)えた弁護士たちの、みっともなく醜悪(しゅうあく)な言動は、すべて「考える会」が開示請求した「公文書」に残っていた。いま世間を騒がせている「公文書」とは、かくも大切なものだった。
もうひとつ。いつも言っていることだが、
「寝ていて分からなかった」
顧問、また学校批判のアンケート回答が未公表だったことに対し、
「全くの記載漏(も)れ」
とした市教委。この事件に限らず、ことが大きくなると学校(組織)は、残念なことに「誠意」というものを遠くに投げ出す。謝罪できない、事実と向き合えない存在となる。
2 大人の責任
「どうして息子の気持ちに気付いてやれなかったのか」
「どうして息子を守ってやれなかったのか」
最後に言った言葉は、田副さんの上にずっと変わらずにあった。「加害者を探す気持ちはない」田副さんの言葉だ。
子どもたちの近くにいる大人は、その責任を負っている。「親という、子どもの近くにいる大人」の責任を、田副さんは引き受け続けないといけないと思っている。田副さんから、
「学校が息子を殺した!」
というストレートな言葉を、私は聞いたことがない。
しかしこの場合、もう一方の「子どもの近くにいた大人」=学校が、責任のないはずがない。それは「いじめと自殺の関係」とは別な問題だ。
最後は涙で言葉につまった田副さんだった。
「すみません、感情を出してしまって……」
7月の第三者委員会で区切りになる、という6月18日の大野委員長の話だった。9月の勝君の命日には報告を出したいという。
☆後記☆
会場では参加者の皆さんから多大なカンパをいただきました。また、私たちの口座にカンパを寄せてくださった方々にも、この場を借りて御礼申し上げます。今後、館山、そして私たちの活動に利用いたしたいと考えております。
そして、新刊本を購入してくれた方々、ありがとうございます。読んだら、ぜひ感想お聞かせくださ~い。
☆ ☆
「我々の世代は義理と人情の世界で生きてるんだ!」
とは、反省会での小出さん。自分のことを「我々」と言うことで、みんなを巻き込んでました。まだ四十路(よそじ)の石井さんが、不満そうな顔でした。
遠方から本当にお疲れさまでした。
☆ ☆
「放射能が流れる方向に私たちは避難した。国家の殺人罪にあたる」
「個人単位で東電の交渉にあたるなんて、戦車に竹ヤリで突っ込むようなものだ」
と、町のために頑張ってきた福島・浪江の馬場有町長さん、亡くなったんですねえ。私と同い年だったんですね。残念です。
☆
え? サッカーW杯? すみません、興味ないんですよ。でも、自分でやるんですよ。やるのは好きなんです。
手賀沼に夏が来ましたよ