実戦教師塾・琴寄政人の〈場所〉

震災と原発で大揺れの日本、私たちにとって不動の場所とは何か

夏休み(中)  実戦教師塾通信五百六号

2016-07-29 11:51:13 | 思想/哲学
 ☆☆☆
相模原で恐ろしい事件が起きました。あちこちから意見を求められましたが、迂闊(うかつ)なことは言えない状況です。でも私はすぐに、1938年岡山で起きた「津山事件」を思い起こしました。私が生まれる10年前、また日本が満州でソ連(現ロシア)と戦闘を続けていた頃です。
繰り返し映像/フィクションにされるこの事件は、『八ツ墓村』(横溝正史)「たたりじゃ~」のモデルと言ったら分かるでしょうか。
「津山事件」の犯人都井睦男は、詰め襟に脚絆(きゃはん)の出で立ち。しかし、脚絆の下は草履(ぞうり)でした。日本刀は上着の上から締めた安物の兵児帯(へこおび)に差し、ナショナルの懐中電灯を鬼の角のように二本、白鉢巻きで立てていたのです。30人の村人を、この日本刀と猟銃で次々と殺しました。
日本全体が重苦しい空気に包まれた時代に、山間の零細な村で起こった事件だったと思っています。


 夏休み(中)
     ~読書特集~

 1『テロルの決算』
 2『舟を編む』
 3『ラバウル戦記』
 4『夜と霧』

 1 『テロルの決算』(文春文庫)
 沢木耕太郎の名著。前から周囲に勧められていたが、今年になってやっと読んだ。1978年発行の本だ。私のは新装版。
          
 下の写真は、当時の社会党委員長浅沼稲次郎が、右翼の少年山口二矢(おとや)によって刺し殺される瞬間の写真だ。これは映像毎日ニュースから拝借したものであるが、私の世代でこの写真を覚えていない人はいないだろう。当時ほとんどの人は、この報道にラジオで接した。事件の衝撃は、
「ただいま暴漢が壇上に駆け上がりました」
に始まるアナウンサーの声と、新聞の写真で伝えられた。

浅沼の姿の後ろに自身の垂れ幕、そしてその左、二矢の後ろに、当時の自民党党首であり、総理だった池田勇人の垂れ幕が見える。1960年10月12日、日比谷公会堂での出来事だった。
 17歳の少年に何が出来る、背後にそれを指揮した組織があるに決まってる。誰もがそう思った。「大日本愛国党」に捜査が入った。しかしそこに浮かび上がったのは、愛国党を見限り、同時に愛国党や仲間から見放された少年の姿だった。ニュースも二矢を「元愛国党員」と伝えた。
 二矢は、真面目に日本の「赤化(せっか:社会主義化)」を恐れていた。以下の史実は、本書からのものではない。しかし、二矢の心情が蓄積された経過が、そこにはある。
 終戦直後、中国での社会主義政権樹立は、日本の目の前の出来事だった。さらに、人々は余り語らないが、朝鮮戦争の直接的きっかけとは、北朝鮮の膨張にあった。当時の金日成(金正恩の祖父)が指揮する「解放戦争」である。一時期、韓国は南端の釜山まで縮小する。さらに、歴史に封印されようとしていることがある。「この解放戦争を支援せよ」と、当時のソ連から日本の共産党に指示が出ていた。1952年に相次いだメーデー事件や大須事件は、それを受けたものだ。日本共産党の「50年綱領」は武装闘争を提起していた。二矢の危機感が迷妄(めいもう)だったとは言い切れまい。
 さらに二矢の気持ちを逆なでし、焦燥に駆り立てたのが、60年の安保闘争である。二矢たち愛国党員は、鉄帽(金属ヘルメット)をかぶり戦闘服に身を固め、釘の刺さったこん棒でデモ隊に襲いかかり、硫酸を浴びせた。しかしデモ隊は国会に突入した。また、安保条約が国会を通過したのも二矢の怒りをたぎらせた。それが「日本をアメリカに従属させるものだった」からだ。そんな二矢の姿が、愛国党員の間では「純粋すぎる青二才」として映った。二矢はそんな本部/事務所から「足を洗う」のだ。
 事件決行当日、二矢の実家でとっていた新聞が「朝日」でなかったら、と沢木は述懐(じゅっかい)する。新聞片隅の「本日の予定」という欄がなかったら、と言うのである。

 何を血迷ってと言われるのを承知で、私はこの安保闘争で命を落とした樺美智子と二矢の姿を重ねてしまう。

誰かが私を笑っている
向うでも こっちでも
私をあざ笑っている
でもかまわないさ
私は自分の道を行く (樺美智子 『人知れず微笑まん』より)

二矢は事件から二十日後、東京少年鑑別所で自殺するのだ。

 2 『舟を編む』
 2012年本屋大賞を受けた三浦しをんの作品。以前、この通信でも少し触れたと思う。
 誤解を恐れずに言えば、この本は、
「引きこもり万歳! 引きこもれ!」
というエールにあふれている。辞書作りにとりつかれ奮闘する人たちの話である。
          
雑談の中で「おませ」が出てくると、主人公マジメは話を中断してしまう。「おませ」に類似した「おしゃま」を思い出したからだ。そんなマジメに百%不似合い/不釣り合いな、美人で気立てのいい妻カグヤは板前をしている。彼女が言う言葉は、私たちが置き去りにしたことを指摘している。
「料理の感想に、複雑な言葉は必要ありません。『おいしい』のひと言や、召し上がったときの表情だけで、私たち板前は報(むく)われたと感じるのです。でも、修行のためには言葉が必要です」
 ついでながら、松田龍平・宮崎あおい演じる映画版もよいです。

 3 『ラバウル戦記』
 この本も、昨年の11月に水木しげるが亡くなった時に、少し紹介したと思う。私も水木氏が亡くなってから、慌ててこの本を手にした。
          
 全編に現地で描いた氏の絵がある。文の方は50年後の回想となっている。マラリアと機銃掃射が当たり前の最前線で、どうして楽観的でいられるのかと、私たちは思う。戦闘機とジャングルの色彩の対照に感心し、島での「楽園」な生活を思い、帰国をかたくなに拒絶する姿は、凡人の私たちに遠く及ばない。
 慰安婦の小屋に続く長い行列を見て、「(彼女たち)大変だろうな」とため息をつき、あるいは「行ってはいけない」現地の村に何度も訪れて、住民と仲良しになる等々。
 そこに戦争の罪過(ざいか)、そして現地の人間にとっては、島に上陸する者すべてが「招かざる客」だったという現実も照らしだされる。水木氏の淡々とした画と文章で、それらが浮き彫りにされる。
 私たちには『墓場の鬼太郎』であって、『ゲゲゲの鬼太郎』ではないんだと、改めて思うのである。

 4 『夜と霧』
 古典中の古典、日本語初版は1956年。遅すぎた私が、今年手にして読んだのは2002年の新版である。
          
強制収容所を体験した心理学者、ヴィクトール・フランクル。世界600万以上の人々がこの本を手にしている。ドストエフスキーの『死の家の記録』、そして内村剛介の『生き急ぐ』を思わせる、壮絶なルポルタージュである。
 多くの収容者が、命をついえる。あるものは暴力によって、または栄養不良/病気によって、そしてあるものはクリスマスまで解放されるはずだという希望を裏切られて。「恩赦(おんしゃ)妄想」というそうだ。
 フランクルは、これらに対し毅然(きぜん)と言う。
「抜け出せるかどうかに意味がある生など……そんな生はもともと生きるに値しないのだ」
フランクルは絶望で満ちた収容所での生活の中にも、「生きるに値する生」があると探し続ける。


 ☆☆
ドラマ『家売るオンナ』面白いですね。この話を楢葉の渡部さんに振ってみたら、
「原発売ってよ」
とは、絶妙なコメントをいただきました。

渡部さんの畑でとれたジャガイモです。おいしい。放射線不検出の書類を見せてくれるんです。複雑な気持ちになります。

これも渡部さんの畑。ひまわりも盛りを過ぎました。

夏休み(上)  実戦教師塾通信五百五号

2016-07-22 10:59:27 | エンターテインメント
 夏休み(上)
    ~トキワ荘/漫画~


 1 「劇画」時代の幕開け

 今年は当たり前だが、夏休み気分がいつもより蘇(よみがえ)り、ウハウハである。このブログも「夏休み」のタイトルで、何回か書くことにした。初めは、2020年の東京オリンピックを見据(す)えて完成を目指す「トキワ荘」周辺のこと。
 この7日に豊島区が、漫画の殿堂「トキワ荘」を再建すると発表。跡地に残されたミニチュアだけでは、ファンも世間も我慢がならなかった、ということだろう。一間四畳半の部屋で仕切られた建物が、ついに復元の運びとなった。
 50年ほど前、漫画はストーリー性の高い「劇画」と呼ばれるジャンルが公認され、水を得た魚のように活躍していた。雑誌は、白戸三平を中心とする『ガロ』、手塚治虫の『COM』が代表格だった。どちらも月間である。
 さて、物持ちのいい私である。漫画専用の本棚に、「トキワ荘」を描いたものがあったはず、それも結構な数であったはずだと思って探すと、出て来る出て来る。これって結構、貴重な資料じゃないかと、私は勝手な自己満足にひたったのだった。

 2 「昭和」の暮らし

これは1970年の『COM』10月号に掲載された、トキワ荘「住人」による座談会の扉。そうそうたるメンバーの中に、住人であるはずの手塚治虫がいない。この頃手塚は、すでに高い収入を得、立派な家に引っ越しているためである。そして「藤子不二雄」が見当たらない、という読者はいるだろうか。安孫子素雄&藤本弘が、その人である。一応念のため。
 当時、雑誌『COM』では、『トキワ荘物語』が、「住人」の手によってリレー形式で連載されていた。アパートの部屋割りやそこで暮らす住民が、詳細(しょうさい)に書かれている。


上が鈴木伸一のもので、下は、座談会にあった手塚治虫の手によるもの。
 パソコンの画面だったら、住人や建物の様子が鮮明なはずだ。「住人」たちの漫画によれば、「トキワ荘」は東西に面していて、部屋割りの左が西側である。大体の部屋に見える丸いものだが、これは火鉢。当時の唯一の暖房器具だ。入り口の戸は木製の引き戸で、上半分ほどがすりガラスになっている。当時よくあった方式で、安全と明るさを考えたものだ。まだ漫画では食べられなかった多くの「住人」は、あるものは牛乳配達、あるものはデザインスタジオでの下働きをしていた。
 左上(北側)にかろうじて見えるトイレは、もちろん「くみ取り(ボッタン)」。そこで「編集者が用を足している」とあるが、首の高さぐらいのところに窓がある。そこに隣の家の屋根がのぞいているのである(みんな二階に住んでいた)。誰もが昭和の時代に、そんな窓から外を見て用を足した。ここから冬支度(ふゆじたく)を急ぐ木々や、まだきれいだった空の星を見た。
 トイレの隣が調理場である。洗濯する場所でもあった。当たり前だが、みんな手洗いである。この鈴木伸一の絵によれば、「レポート」は1955年のもの。終戦からわずか10年だ。ガス台の下にそれぞれの洗濯用「おけ」がある。座談会には、赤塚不二夫のお母さんが、みんなの面倒をよく見て、洗濯や味噌汁作りを欠かさなかったとある。

 3 石森章太郎

連載も終わりに近い頃、石森章太郎が担当した『トキワ荘物語』。石森がよく使う「吹き出し/キャプション」なしの物語だった。石森が引っ越して来たときの絵がこの扉であり、最後のコマはこうだ。

 この石森が担当し、不定期に書いていた「章太郎のまんがSHO辞典」がある。これが蘊蓄(うんちく)に富んでいる。

■採用
してもらうためにはどんな努力が必要か、ということになる。商売でなければおのずと違ってくるから誤解のないように……。まず--
■材料-を
■サービス(奉仕)
精神という調味料を加えて料理することだろう。同人誌、あるいはエリートのための専門誌なら、材料のままで提出し、料理には読者も参加させるということも可能だろうが、商業誌ではそうはいかないのである。読みたきゃ読むがいいという制作態度と、読んでいただくという制作態度には大きな差があることは説明の要はあるまい。そしてこの差はものをつくる者、作家にとっては、苦痛になることがあり、その差を縮めようとする努力が必要になってくるのである。努力とは苦痛なのである。


 有名になりたかったというより、ひたすら漫画を描きたいという、トキワ荘「住人」の気持ちが、座談や画風にあふれている。シラミや蚤(のみ)に悩まされた四畳半の部屋は、しかし外に大きく開かれていた。


 ☆☆
座談会の中で、一瞬だけ出てきた名前。「つげ義春」。ならば、現代マンガの金字塔『ねじ式』を出さないわけには行きません。まだ読んでない方、必見ですよ。衝撃、そして不可解。この世界を見ないとは損ですよ。


 ☆☆
20日は終業式でした。いいなあ。体育館での校歌は、こだまのように響いてました。
「明日から子どもたちがいないと思うと、さみしくて……」
という担任の先生の表情も、一学期の様々な出来事を語ってて、あ~夏休み~です。

もうすっかり緑の穂を伸ばした、手賀沼入り口の田んぼです。
それにしても寒いですね~

 ☆☆
米大統領選挙、そして都知事の選挙もさることながら、鹿児島の知事、動き出しましたよ。私たちに出来ることはあるのだ、と言われているような気になりますね。注目しましょう。

技術ではなく(3)  実戦教師塾通信五百四号

2016-07-15 11:20:25 | 子ども/学校
 技術ではなく(3)
     ~愛と誠~


 1 「グローバル/トータル」


「愛」というフレーズから、すぐジョン・レノンが浮かんでしまう。

頼(たよ)れる対象はいくらでもある。
でも、自分以外の誰かが自分を導いてくれると期待するのは、
責任の放棄じゃないのかな。
ぼくはリーダーじゃない。
誰もがリーダーなんだ。  (『革命のジョン・レノン』より)

さて、先生って「リーダー」だろうか。いや、質問を変えよう。あなたは、

「子どもから愛される教師を目指しますか。それとも、子どもから信頼される教師を目指しますか」

そう聞かれたら、分けられるだろうかとか、両方必要だと私たちの多くが思うのではないだろうか。グローバルな時代にあって、トータルな教師像が求められている、とかいう無責任でで役立たずな論調がまかり通る時代であってみれば仕方がないか。ちなみに、50年前の中教審答申から出された、いかにもいかがわしい「期待される人間像」も、似たりよったりだった。この頃は、
「国家主義的/主導的文言(もんごん)」
などと、左翼と呼ばれる人たちが批判した。しかし、いま思えば、
「ないものねだりの、無理難題」
と言った方が適当と思われる代物(しろもの)だ。「グローバル/トータル」ってのは、その現代バージョンだ。歴史は繰り返す。

 2 「愛」と「誠」
 「愛される教師」も「信頼される教師」も魅力的だ。しかし私たちは、どちらを目指すべきかというよりは、無意識に「自分のやりやすい方向」で、子どもたちに対している。そしてもちろんこれは、どっちがいいというものではない。私たちは、知らず知らずに「愛」か「誠」かの路線選択をしているのだ。「誠」とは語呂がいいので使ったが、この場合まあ、子どもという未熟な存在への「リーダーシップ=信頼キープ」ぐらいの意味合いである。
○「愛」は子どもを承認する/子どもを包み込む
○「誠」は子どもを育てる/子どもを引き上げる
のだが、すでにお分かりのように、実際は混在しながら進行する。

 私が一応国語専科ということで、文学教材で考えてみよう。子どもたちにたとえば、芥川の『トロッコ』を繰り返し読ませることは至難の業(わざ)である。一回目の読後は、半数以上が興味の一かけらも持てず、すでに食傷(しょくしょう)気味だ。そこで、
○見知らぬ大人との思いがけない出会い
○ひとりで「遠くに来すぎた」時の期待と恐怖
の経験を書き出させる。13歳(『トロッコ』は中1の教材だ)の子どもたちの経験と『トロッコ』の良平が、ここでようやく交錯(こうさく)する。そしてこれらが、二度目三度目の朗読のきっかけとなる。
 以前書いたと思うが、どっかから派遣されてきた「講師」と呼ばれる連中が、国語の授業研究のあとで、
「先生方、子どもたちには繰り返し読ませないとダメです」
などと言ったりする。そこで私は、紋切り型のこの「指導」に、
「あなた方は、子どもたちに繰り返し読ませることが、一体どれだけ大変なことなのか、分かってますか。……何度も読ませないといけない子ほど、読みたがらないという現実を踏まえて言ってますか」
などと言っては、こういう人たちに嫌われた。繰り返し読ませることは、大変な「リーダーシップ」を必要とする。しかしこのリードがあって、ようやく子どもたちは、新鮮な感覚を持つことが可能となる。リーダーシップは必要、かつ道を切り拓(ひら)く。

 「愛」の方は、実際場面においては大変至極(しごく)であるが、理屈は簡単明瞭だ。
○そうだよ/それでいい
と、繰り返し受容/承認する世界だ。意地悪をしてもウソをついても、だ。誤解されるので、注釈を加えよう。
「なんでそんな意地悪をする!」
と、額に青筋を立てることは大体意味がない。この場合は、
「どうしてそんなことを言ったの?」
という姿勢にしか道はない。「承認」とはそういうことだ。
 体育では、長縄が跳べなくても、跳び箱が跳べなくても、
「その調子/良くなってる」
とエールを送ること。これが受容/承認する態度だ。これが大変な作業だ。そのエールが、子どもに「良くなってる/出来るかもしれない」という「勘違い」を生まないといけないからだ。しかし、こういった難関をクリアすることで、「愛」は道を切り拓く。

 3 それぞれの弱点
 「愛」と「誠」は、それぞれ弱点を持っている。
(1)「愛」
 「愛」につきものだが、これは「盲目」になる欠点を持つ。気のせいだとか、そんなはずはないという気持ちが、自分のチェック機能を弱める。その結果、相手は「これでいいものだ」と思う。あるいは、そんなことも思わずそのまま進み続ける。
 まだある。「愛」は「暴走する」。ことがある。ストーカーがそれだ。
「オレの気持ちが分からないのか!」
「オレがオマエのためにこんなにしてるのに!」
というやつである。怖い怖い。ストーカーは男女間のことだが、教師生徒間でも、酷似(こくじ)した現象を見せる。

(2)「誠」
 「誠」がやっかいなのは、先生のリードが適切な時に問題が生まれることだ。つまり、子どもが先生に対し、
「距離をおく」
ことだ。子どもが、
「甘える/批判的になる」
ことを回避することだ。それは無意識にだ。なにせ、子どもが先生に信頼を置いているのだ。こんな時、遠慮がちな空気や退屈なムードが教室に蔓延したりする。

 どうすればいいのか。まず自分がどっちのタイプなのか自覚することだ。そうすると、そこで発生する事態がある程度予測可能となる。それで対処していく以外にない。でも、これは面白く、やりがいのある作業であるはずだ。

 4 「こだわり」と「断念」
 先に書いた長縄と跳び箱で言えば、「技術によるリード」と、「エールによる愛」とで、多くの子どもたちが「跳べる」ようになる。しかし、それまで出来なかった子どもたちは、その跳べない「数の減少」に伴(ともな)って追い込まれ傷を深めて行ったことを、私たちは忘れてはいけない。そして「跳べない」子はまだいる。
 ついに最後のひとりが跳び箱を跳べた時に、みんなが、
「やったあ!」
という感動をともにする方を選ぶのがいいのだろうか。それは「ともに」出来る感動なのだろうか。最後の子の傷は深い。「愛」と「誠」は葛藤(かっとう)する。
 教師はこの時、自覚していないといけない。
「こんな跳び箱ごとき、大したことじゃない」
と。いつでもこんなものやめてやる、という気持ちがあるか。こんなつまらんことで屈辱(くつじょく)を味わう必要なんてないんだ、という気持ちがあるか。そういう「断念」が、私たちには必要なのだ。

 締(し)めよう。話してきたことと少し意味合いが異なるのだが、私の好きなケストナーの『飛ぶ教室』の一節が示唆(しさ)に富んでいる。
 ちびで泣き虫のウリーが、みんなの目の前で、はしごから飛び下り、足の骨を折る。

あおった仲間や、見ていた仲間が途方にくれる。しかし、「正義先生」は揺るがない。
「気を落ち着けるがいい! あのくらいの骨折なら、ちびさんが一生のあいだ、ほかのものから一人前だと思われないという不安を持ち続けているよりは、いいんだということを、忘れるな」

 子どもに対する「こだわり」と「断念」を、大人がしっかりと見極(きわ)めることも行動に移すことも、とてつもない「勇気」がいるのだ。


 ☆☆
選挙結果、予想通りだったのですが、違っていたのは「地方」ですね。福島(東北全般ですが)と沖縄で、自民党が敗退したこと。沖縄の候補者は、閣僚だったんですものねえ。さらに鹿児島の知事は、自公推薦の原発容認現職が破れたこと。いやあ、驚きました。

    ゴジラ全映画・創刊号です。あの第一作ですよ、嬉しい!

 ☆☆
昨日、三年生は「夏休みの楽しみ」の絵はがき作りでした。いまが一番わくわくする子どもたちが書く絵は、みんな夏の色。海と花火が多かったなあ。

    こちらはすっかり蓮尽くしの手賀沼。花が咲きだしました。

技術ではなく(2)  実戦教師塾通信五百三号

2016-07-08 11:23:46 | 子ども/学校
 技術ではなく(2)
     ~仮面の克服~


 1 手書きの学級通信


ガリ版刷りの学級便り。若い人たちには意味プーの世界である。半透明のロウ原紙に、ヤスリ状の鉄板の上から鉄筆でガリガリと字を削(けず)り、印刷のもとを作っていく。当然イラストだって、自分で書いていく。これは、やなせたかしのイラストをどっかから持って来て、ガリガリやったんだと思う。詩は当時ヒットしていたエルトンジョンの『グッドバイ・イエローブリックロード』。それを、冒頭に掲(かか)げた。74年は、私が奇跡的に教員として採用された年だ。
 この詩は、小学生にはもちろん、保護者にも分りにくかったはずだ。しかし、すぐに反応あり。
「ママ、マサミの先生って、エルトンジョン載(の)せちゃってる」
という驚きの声は、その保護者から伝えられた。後々、そして今も、バリバリ青かった時の私の教え子は、この当時の学級便りに、思いを入れこんで語ってくれている。

 2 優先すべきこと?
 要領を得ない、私の学級担任が始まった。ある日の掃除中のことだ。教頭が見回りに来た。そして、
「先生、ここがこんなに散らかってるよ」
と、私に指摘した。記憶は明確でないが、私はありがたいと思わなかった。自分で片づけようとすると、当然なのだが、
「先生がやっちゃダメなんだよ。子どもらにやらせないとダメだ」
と、教頭は諭(さと)すのだった。気づかった子どもたちが動き出す。多分がまんがならなかったのだろう。教頭が、だ。どうせ私のクラスがスムーズでなかったのは、きっとこればかりではない。職員室にしばしば、保護者からクレームも行っていたはずだ。でも、私の中の不愉快な気持ちが、明確なものになった。
「こういうのって、『意地悪』じゃないのか」。
私を呼んで小さな声でささやくとか、あとで言えばすむこと、なのだ。掃除は明日もあさってもある。
 そして私は別なことに気づく。私が子どもたちに「当たらなかった」ことに、だ。
「オマエら、いつも言ってんだろ、分かんねえのかよ」
と言わなかったことに、だ。私はそっちの方向を選ばず、教頭のデリカシーの無さとか指導力を疑い、ムカつく方へ向かった。この時の私は正しかったと思う。私の「不愉快」は、子どもたちの不始末/不手際によって生まれたものではなかったからだ。残念ながら、多くの教員はここで、
○やるべきことはやらないといけない
と考え、子どもたちを注意する道を選んでしまっている気がする。それはそれでいいのだ。しかし、自分の感情の発生場所を見極(きわ)め、どう処理するかという「道/責任」を、放棄(ほうき)してはまずい。
 この場合、
「オレに恥をかかせる気か!」
と叫ぶ方が、子どもたちには分かりやすいかも知れない。大人の世界は大変だと思ってくれる子も、出て来るかも。しかし多くの教員は、『仮面』を作って行く。
○優先することはある。そしてそれは、やらないといけない
という『仮面』だ。本当は学校が「優先」と考えるように、現実は出来ていない。
 中学校で考える「優先」例で見てみよう。
「服装を直さないと卒業式には出さない」
というやつだ。服装が「優先」する。

「こういうものを原則とは言わない。正しくは、
『服装をどうにかせい、そして卒業式に出ろ』
である」(拙著『学校をゲームする子どもたち』第Ⅳ章)

どちらを優先すべきか、という現実ではないはずだ。指導すべきなのは「服装」も「卒業式出席」もだ。服装はなおさないといけない、そして、卒業式に出るのも当たり前だ、優先すべき順序はない。おそらくは、
「学校で『優先する』こと」
で頭がいっぱいになってこうなる。そんなことに気づけなくなる。

 学校に復帰して、私はまた一度、学校というものは時間が滞(とどこお)る場所だなあと思う。そこにいつも、
「子どもの事情やわがまま」
があるからだ。しかしそれは「許されない」のではなく、「どうしても出て来る」ものだ。だからと言って、この考えが「甘やかす」こととは違うぞ。
「『わがままに耳を傾ける』ことと『わがままを公認する』ことは違う」
のだ。聞くこともなく、怒ったり怒鳴ったりすることで、
「服従させる」
のがまずい。果てしない繰り返しの中で、子どもたちは徐々に安心を手に入れ、巣立って行く。
 「優先仮面」をかぶってはいけない。

 3 「正義」の仮面

それから四半世紀が経(た)って、学級通信も様変わりする。ワープロによる編集となった。このあとはパソコンで作る時代になる。でも私の紙面編集は相変わらずだった。冒頭にはいつでも詩を載せた。これは当時よく耳にしたエンヤの曲。写真は中学校卒業間際(まぎわ)、教え子たちと正門前で撮(と)ったものである。当時の私の愛車ゼファー1100が、子どもたちの間にいるのが分かるだろうか。
 この写真を載せたのは、中学校にいた時、無能な教員とよくぶつかったことを書くからだ。いま学校に復帰して、こういうのはないが、いつかそんな局面を迎(むか)えなければいいがと思えることを、私は見ている気がしている。
 地域の静かな空気を受け継(つ)いだ子どもなのだろう、割りに「おとなしい/優しい」子どもが多い中学校でのことだ。それに便乗したとしか思えない強引な「指導」が、よく繰り返された。以前に一度書いたことだが、再録する。
 突然、全校生徒は体育館に集合するよう、校内放送が流れる。体育で使う大型のタイマーが破損している、という。体育主任と生徒指導主任が、延々(えんえん)と話す。犯人はこの場で名乗り出なさい/これでいいのか/○○中学校はもうおしまいだ等々。もちろん、他の職員も全員同席しているが、全校生徒と同様、わけも分からず集合した。私たちは犯人を知っている、などというトンチンカン話も続いて、集会が解散した。私はすぐ、この若干名(じゃっかんめい)の教員に問いただす。
「みんなの了解を得ずに、いきなり集会ですか」
『校長に言ったし、大事なことなんで』
「自分たちで一応調べたんですか」
『急いだ方がいいし、大事なことなんで』
「多くの関係ない生徒を巻き込んで、どうする気ですか」

たいして調べもせず、腹立ち紛(まぎ)れに子どもたちを集めて「怒った」のは明らかだった。そしてこういう連中は、こんなことで子どもたちの「正義感」が育つと思っている。
「先生たちがあんなに怒ってる」
「こういう事件を起こした生徒を許せない」
と、子どもが思うと思っている、いや、ねらっている。こんなことがないとは言わない。しかし、それは不動で揺るがない山のような、静かで優しい先生が怒った時のことに限ってだ。つまりそういう先生は、そういうことをしない。だからこういうことは、ほとんどあり得ない。
 多くの子どもたちが、「いやな時間」を過ごす。いつも「正義の使者」を気取り、「指導」を装(よそお)った「けちつけ」にいとまがない連中に、子どもは敬意の眼差しを向けてはくれない。
『じゃあ、先生はどうすれば良かったというのですか』
と、しょうもない教員が反撃して来る。この連中は、子どもたちに対し、
「たった数人(ひとり)の心得のない生徒のため、みんなにはいやな思いをさせてしまって」
という申し訳も思いつけない。みんなにはすまなかった、のひと言ぐらいは言ってください、そう私は結ぶ。

 こんなひどい事態を、私がいま見聞きしているのではない。本当は難(むずか)しい仕切りなんだと思う。しかし、
○みんなにも聞いて/見ておいて欲しい
ことが、子どもたちの「いやな時間」になっては、気持ちは通じない。申し訳なさも含め、こちらの思いをしっかり伝えることだ。それが、子どもへの誠意ある態度だ。
 「正義の仮面」よ、さらば。


   すっかり夏、の手賀沼ジョギングロード
 ☆☆
いやあ、昨日の猛暑、こういう時のプールは最高ですねえ! 手本を見せたくなったりして、少しばかり出しゃばったかな、という感じの昨日でした。一度目は失敗し(なんせン十年ぶりなもんで、という言い訳をお許しください)、
「コトヨリ先生~ 頑張れ~」
という黄色い声援の間に、
「出来ねえのかよ~」
というヤジとも落胆ともつかない男どもの声。二度目をする前の静かな空気がまた楽しい。夏はいいですねえ~

 ☆☆
都知事選、どうなりますかね。乱戦模様は、前回同様ですね。あの時は、細川/宇都宮両氏を一本化出来なかったことがずいぶん悔やまれました。今回の注目はもちろん、自民党の候補者がどうなるかということです。石田純一が名乗りをあげるというのも、面白いと思ってます。

私たちの選択 実戦教師塾通信五百二号

2016-07-01 11:57:17 | 戦後/昭和
 私たちの選択
     ~映画『海よりもまだ深く』を観る~


 1 「消えたもの」はどこへ

 幼児が、目の前にあったオモチャを探そうとするしぐさを見せるのは、生後6カ月を越えるあたりだという。物事やものが、まだ続いている/まだあるという意識が発生したしるしだ。私たちはこのことに驚き歓(よろこ)び、「親としての感慨」にひたったりする。日増しに成長する子どもは、枯れた花や、食べてしまったお菓子がどこに行ったと、せがんで親を困らせたりするようになる。気がつけば、大人になった私たちも、そんな喪失感に捕らわれている。大人たちはしかし、泣いてせがむ相手をもう持っていない。
 私たちの目の前から消えたものは、どこへ消えたのだろう、そしてそれは取り戻せるのだろうか。いや、取り戻すことはいいことなのだろうか。そんな切ない、しかし、懲(こ)りないとも思える大人の物語を、「家族」の姿にこだわり続ける是枝裕和監督が、撮(と)った。

 2 憧(あこが)れの団地

これは、1960年当時の皇太子夫妻(現在の天皇/皇后)が、東京ひばりが丘の団地を訪れた時のもの。当時、団地の抽選倍率は、20倍とも40倍とも言われた。鉄筋づくりの建物、鉄枠(てつわく)の窓は、庶民の憧れだった。
 これより5年ほど逆上った団地の部屋を見てみよう。

一番注目すべきは、右手の戸棚だ。この棚にある細長い窓には、金網が張ってある。これは通気性に優(すぐ)れ、虫よけの機能も持ち、作った料理の一時保管場所ともなった。流し台は型に流し込んだコンクリートで作ったもの。ガス台は見えていないが、単発の鋳物(いもの)製である。そしてテーブルの花は、なんと菊だ。しかし、西洋の装(よそお)いが満載の生活に、人々の笑みがこぼれている。
 そして、皇太子夫妻が視察した団地の部屋はこうだ。

急速に人々の生活が変容していく。ラジオは真空管をやめ、ミキサーも姿を見せる。流し台はステンレスとなり、ガス台はレンジになっている。金網の戸棚は姿を消している。第二の戸棚「冷蔵庫」が登場したからだ。なぜか正装の夫婦が食べるのは、カレーライスであり、堂々の洋皿とスプーン!が、テーブルを演出している。
 この頃同時に、私たちは自分の親と、急激に距離を置きだす。二人の食卓に親の姿はない。人々の憧れのグレードは、またひとつ上がって、そして別な場所に移動していた。

 3 当たり前に「あった」もの

そして、映画に見える団地である。『海よりもまだ深く』予告の動画から拝借(はいしゃく)した。団地は第三期に入っている。いや、それがすでに終焉(しゅうえん)を迎えている。若いときに親を捨てた夫婦はもう高齢で、夫はすでに他界している。二人の子どもは独立して、団地を出て行った。
 「第二の戸棚」が、部屋を圧倒するばかりの威容を誇っている。この冷蔵庫の左奥に見える部屋が和室。寝室にも子ども部屋にもなった部屋。合板づくりの和ダンスは、団地サイズの部屋をさらに狭くし、布団を二組用意すれば、隙間(すきま)もなくなった。時代が生んだ様々な小物は、空間を無駄なく使い、新たに空間を生み出すだったはずの小道具とともに、これでもかと部屋に充満している。
 かつて憧れたはずの生活は、今や「早くおさらばしたい」場所に成り下がっている。そして私たちの多くは、
「こんなはずじゃなかった」
と思う。「なりたかったもの/欲しかったもの/夢」があったからだ。しかし、きちんと振り返れば、私たちの「希望」が「失望」へと変貌した理由は、明らかだ。

 第一期と言える団地の空き地は、昼間/夕方いつでも賑わいを欠かさなかった。女たちと、彼女たちが必要とするものを持った「商売人」が、引きも切らなかったからだ。夕方が近くなれば、野菜/魚などの食材、昼間は金物や日用雑貨まで、常に団地界隈は活気に満ちていた。
 しかし第二期に入ると、この景色は大きく変わっていく。空き地は段々と「駐車場」へと姿を変える。1957年は、すでにダイエー一号店が開店、遠くまで出向いて買い出したものを保管する「戸棚」も、着々と増えていた。マイカーブームの火付け役「ダットサンブルーバード」は、1959年に売り出された。買う人売る人が、生活空間で共存するという姿は、急激に衰(おとろ)えていた。たったの5~10年で、人々や生活の姿が変わってしまう。こんなことがあるのだ。このことは、天安門前広場が、ついこの間まで自転車の通勤者で埋まっていたことを思い出すといいかもしれない。
 ここで何度か書いてきたが、この時期、つまり1958年の11月、皇太子が皇族でない民間の女性(日清製粉社長長女)としては、初めての婚約相手を発表。その一カ月後、テレビ電波塔の象徴、東京タワーが完成。テレビ登録台数は、前年より一気に10倍の百万台となる。何が起こったのか。
 1958年に巨人に入団した長島茂雄は、口から泡を飛ばす人たちで、ラーメン屋をいっぱいにした。その前はどうだったか。空手チョップで「外人」をやっつける力道山を応援する人たちが集まったのは、駅前と公園、そして神社だった。数少ないテレビが、そこにはあった。それが、ラーメン屋へ場所を移し、やがて町うちの何軒かへと移動する。人々の興奮や感動は、次第に小さな場所へとところを変え、「単独の家」へと向かっていく。確かに人々は、「好きなとき」に「好きな番組」を見ることが出来るようになった。

 4 私たちの「希望」
 人々/私たちは、「快適」で「便利」な生活を求めた。それは自然なことではあっても、悪いことではなかった。映画の中、母(樹木希林)が、一人で暮らす団地生活に、言ってみれば、
「なんの不自由があるわけではない」。
しかし、ここにあるのは、
「こんなはずじゃなかった」
生活である。そこから抜け出すには、
「なにかを諦(あきら)める」
ことだと、母は続ける。そうしないと幸せにはなれない、と。
 映画は、家族それぞれ「諦め」るものを、

[母]分譲の部屋、息子(阿部寛)夫婦の復縁
[息子]「当たり前の幸せ」
[嫁(真木よう子)]本当は好きな夫との家族

としているかのようだ。夫との復縁は無理だと言う嫁に、
「そうねえ、無理よねえ」
とつぶやく母が切ない。
 私たちに希望はないのか。そんなことはない。映画は、母と息子の変わらぬ姿をコミカルに描く。すでに「新しい相手」が出来ている嫁・孫(吉澤太陽)との「お寿司会」の継続が、予告される。そして何より、孫はすべてを受け入れている。愛することはあっても、すべてを憎(にく)むことなく受け入れている。きっと、みんなから「愛されて来た」からだ。これが希望でなくてなんだろう。
 ささやかな「夢」も、秘めやかな「未練」もいいではないか、楽しく生きましょう、監督はそう言っている気がする。


 ☆☆
プール入りましたよ。もっとはしゃぎたかったけど、少し抑(おさ)え気味にしときました。でも、子どもは、
「センセ~、大人げな~い」
などと言うのでした。資生堂だったか、
「BIGG SUMMER!」
なんて、いつのコピーだよと言われそうですが、夏はいいなあなどと、久しぶりに思ったのです。

 ☆☆
皆さん、選挙どうします? 私は決めてます。そして、あんまり期待してません。横暴だ独裁だと言われようが、今の内閣の支持率は5割近いんです。でも、平和憲法の行く末に関しては、絶望してないんです。そこは楽観的なんですよ。若者も、こんな機会を大切にして欲しいと思ってます。