実戦教師塾・琴寄政人の〈場所〉

震災と原発で大揺れの日本、私たちにとって不動の場所とは何か

夏休み(下)  実戦教師塾通信五百十号

2016-08-26 11:15:11 | 旅行
 夏休み(下)
     ~松江/出雲(いずも)~


 1 松江城

 神々を詣(もう)でる旅に行って来ました。日出ずる伊勢の国に対する、日没する出雲の国へ。これは宍道湖(しんじこ)に沈まんとする太陽。釣り舟が夕日を横切ります。

 松江城。石垣沿いの橋を渡ると、勇壮な姿を見せる。本当は明治の廃藩置県の折り、廃棄(はいき)されるはずだったお城。



 この写真は、天守閣からのもの。宍道湖が見える。

 4 小泉八雲
 この旅で一番印象に残った。八雲の旧居(きゅうきょ)は松江城のそばにある。写真は、書斎から見る玄関側の庭。
「これは百日紅(さるすべり)ですか」
と聞くと、
「そうです。ありがとうございます」
と、水をやっていた庭師さんが応じてくれた。
 昭和七年に、高浜虚子がこの旧居を訪れている。
「くわれもす八雲旧居の秋の蚊に」
とは、その時の句。

八雲が散歩の際、必ず通ったという城山稲荷。境内(けいだい)全域にわたって、朽(く)ち果てそうな狐の石像。


 5 出雲

八百万(やおよろず)の神、大国主命(おおくにのぬしのみこと)の神社。中には相撲の神様・野見宿禰(のみのすくね)神社もある。もちろん参拝してきました。

天照大神(あまてらすおほかみ)の使いと、大国主命の命を受けた神との、いわば代理戦争の場所となった稲佐の浜。いい風が吹いてました。出雲大社から歩いて20分。途中には出雲阿国(いずものおくに)の墓がありました。


 ☆☆
じぇじぇじぇ! あの『あまちゃん』の能年さん、アニメ『この世界の片隅に』(11月公開)の主役(声優)になったというではないですか! 嬉しいですねえ。何が悪いのか知りませんが、叩かれ叩かれ、叩かれ続けた彼女です。それでも沈黙していた彼女です。良かった良かった。

   関係なくてすみません。これは深キョンです。

 ☆☆
今年も剛柔会空手道全国大会に、顔を出してきました。昨年と同じく、宗家の山口先生は、空手がオリンピックでの正式種目に採用されたことを喜びつつ、空手の持つ「技」と「精神」を受け継がないといけません、というあいさつをされました。改めてホッとします。
杉並道場にも知り合いが出来て、話が出来たのも嬉しい。
写真は記念Tシャツです。今年はオリンピックをあやかって、市松文様となってますよ。


 ☆☆
ほとんどの人が知らないと思います。もうすぐで丸5年の、経産省前脱原発のテントが撤去されました。21日(日)は、明け方の4時頃だったそうです。当たり前ですが、ニュースは、オリンピックのマラソンや閉会式直前の記事で埋められてて、「それどころではない」状況です。甲子園決勝の翌日でもあるのです。朝日新聞は、たった一段・20行に満たない扱いでした。
以下は、テントの『テント日誌』からの抜粋です。読んでください。

「テントは形をかえて存続する、それは脱原発―再稼働反対の意志だから。

 最高裁の決定をかざして経産省-國側は本日の午前3時40分過ぎに経産省前のテントは強制撤去をされた。裁判官や警察官など100余名を引き連れての撤去作業に対して僕らの側は泊り込みの5人で対応をするしかなかった。人目のつかない日曜日の朝がという警戒をしていたが、まだ暗い午前3時40分とは驚きだった。この種の強制執行はまだ暗闇の時間の執行は禁じられていると伝えられていたからだ。わざわざ、特別許可を取っての執行だったとのことだ。」

このあと、200人の支援者が、抗議に駆けつける様子がテント日誌の動画に記録されています。
とうとう一度も行かないうちに、テントが撤去されてしまった、という思いと、この5年に近いテントの取組の困難さと、そして粘りを思いました。

『シン・ゴジラ』  実戦教師塾通信五百九号

2016-08-19 11:32:53 | エンターテインメント
 『シン・ゴジラ』
     ~比喩(ひゆ)としての姿~


 1 『シン・ゴジラ』

「いや、あれは福島原発事故を取り上げた映画のようですよ」
と教え子には珍しく、少し熱の入った調子で言った。私はよく、映画を見もしないであれこれ言ってしまうのだが、そのあとだった。
「夏休みと正月は、誰でも映画を見る」
と、観客動員の良さも一蹴(いっしゅう)したのだが、そう簡単に言いきれるものではない、と言われた気がした。

そうなのかなあと、少しばかり思い返し、少しばかり反省し見に行った。なるほどだった。『エヴァンゲリオン』の庵野秀明によって、新しいゴジラ映画が作られるという話を、だいぶ前に聞き気になっていたことも、確かに思い出した。
 間違いなく、この映画は「福島原発事故」の検証と言えるものだった。このブログのジャンルを「エンターテインメント」とするかどうか、ずいぶん迷った。

 2 福島原発=ゴジラ
 もっとたくさんあったに違いない。しかし、不注意な私でも、福島のあの時を彷彿(ほうふつ)とさせるものは7点見えた。

① ゴジラの確認
 「巨大生物」などというバカなことを言うな、あり得ない話だ等々。しかし、官邸の議論はちっとも要領を得ない。
「理論的に、この生物が二本足で立ち上がることはあり得ない」
という学者のお墨付きも登場する。
 事実を明瞭にを示したのは「テレビ」だった。情報が錯綜(さくそう)する中、もう限界だとでも言うように、首相が言う。テレビをつけろ! すると、そこに「あり得ないはず」の映像が写される。官邸に送られる情報よりテレビの方が早かった。あの原発建屋が水素爆発したのを、官邸はもちろんのこと、人々/我々は「テレビ」で見た。これは、原子力安全委員の斑目委員長が「爆発はあり得ない」ことを、首相菅直人に伝えた直後に起こったことを思い起こさせる。あの時の衝撃だ。

② 逃げ後(おく)れる人たち
 ゴジラがすぐそこまで来ている。でも何せ、情報/指示が後手後手になっているので、人々は逃げ惑(まど)い、次々とゴジラの惨禍(さんか)に会う。あの時もそうだった。放射能が拡散したあとに、避難が始まったのだ。防護服を着た隊員たちが普段着の住民を誘導するという、信じられない光景も「再現」されている。

③ 避難
「5キロ圏外の人は、屋内で退避してください」
という防災無線&広報車を無視して避難をする人たち。あの時もそうだった。当たり前だ。でも東北の人たちは、大渋滞に耐え、パニックを起こすこともしなかった。
 また今度事故が起きても、みんな真っ先に逃げるはずだ。「誰にもどうすることも出来なかった」ことを、そして安全/確実な避難経路は未(いま)だ確保されていないということが、私たちの中で生きているからだ。

④ ゴジラの急旋回
 おそらく、原子雲(プルーム)が北西に向きを変え、原発から20~30キロを越えて、浪江町や飯館村を襲ったことを言ってる。ゴジラ/原発事故は、非情で無慈悲だ。人を人とも思わない、無表情な姿だ。

⑤ データのアメリカへの提出
 「SPEEDI(放射能影響予測)」のデータを、日本に渡さず、文科省から外務省へとわたり、米軍に渡したというものだろう。この時の、
「それを明らかにしたら、福島のみならず、首都圏や日本中がパニックとなる」
という閣僚の発言はリアルだ。ホントなんだから。あくまでも映画で「明らかにした」ことだが、官邸の議論は鬼気せまっている。あの時のことを未だに、
「SPEEDIはあくまで予測データだから、それをもとに避難指示を出すのはいかがなものか」
などと言葉を濁すにとどまっている。今度ことが起きたら、ホントにどうするつもりなのか。そして、私たちはどうするのだろう。

⑥ 偵察のために送られた機械
 映画では、無人戦闘機/探索機がみんなゴジラに壊(こわ)される。確かに、原発事故のあとも、建屋内部を見るため派遣されたロボットは、ことごとく壊れたり役に立たなかった。

⑦ 首都東京にたたずみ続けるゴジラ
 そして、ラストシーンだ。ゴジラは凝固剤で「収まった」。凝固剤を注入したのは、福島で放水のために使われた、あの「キリン」である。そして、ゴジラの固まった姿は、東京のど真ん中で威容を誇ったままだ。
「どう処理したらいいか」
分からないまま、
「いつまた活動し始めるか分からない」
のである。現実に起こったのは福島である。第一原発は、いまも白煙と汚染水を吐き出しながら「完全にコントロール下にある」。銀座/日本橋をも圧倒するゴジラの固まった姿は、これが福島でなく、東京だったらどうだったのか、という問いかけにも思えて来る。

 ゴジラに総攻撃を仕掛ける前、高速道路は上り線も下り線として開放された。すべての道路が下りという、本当は絶望のシーン。では現場に向かう緊急車両の道はどうなってたんだろう。福島のときは、上下線が分かれていた。原発に向かう側の道路を、自衛隊や緊急車両が走った。
 怖い映画だった。本当に起こったことなのだ。そして、また起こるかもしれないのである。行政・閣僚の責任の押し付けあいや、銃火器使用や家屋の取り壊しの、法的な扱いをめぐるやりとりもリアルだ。難を言えば、政治家の、自分の席にしがみつく姿勢や、大事な女優の演技がひどく安っぽかった。みんな疲弊(ひへい)し切っているはずなのに、血色がいいこと等。ダメを出せばあるにはある。しかし、それらが細かいことだと思わせる、近未来の、十分に起こり得る恐ろしい映画だ。お勧(すす)めだが、福島の双葉/相馬郡の人たちには、とても見られない映画だろう。「忘れたくても忘れられない」ことなのだ。しかし、私たちには「忘れてはいけないこと」だ。
 繰り返すが、映画上でも現実でも、ゴジラは「終わってない」。
 教え子に感謝である。


 ☆☆
イチローの記念Tシャツもらっちゃいました。

インタビューで、
「え、達成感って感じてしまうと前に進めないんですか。そこがそもそも僕には疑問ですけど……」
というイチローの答がすごくさわやかでした。体操の内村君が、団体優勝でのインタビューで、次に控えた個人総合への気持ちを聞かれましたよね。
「今は何も考えてません」
という内村君の答が、イチローの言葉に重なりました。
今の私たちに欠けているものを、この超一流アスリートたちが、教えてくれている気がします。

 ☆☆
金曜の8時から、7チャンでやってる『ヤッさん~築地発!美味しい事件簿』見てますか。面白いですね~。思えば『美味しんぼ』も、第20巻まではあんな面白さ/リアルさを持っていました。「ご馳走になる」とか「もてなす」とか、それは深いところに根ざしているんですよね~ 

楢葉の涙  実戦教師塾通信五百八号

2016-08-12 11:28:15 | 福島からの報告
 楢葉の涙
     ~仲村トオルの暑中見舞い~


 1 韋駄天の心意気

 体操内村チームの予選がとんでもないことになってること、そして、イチロー三千本を気にしながら、私は7日(日)早朝、楢葉に向かった。
 仲村トオルが福島に来たのは、2011年の夏のことだ。お願いしたのでもなんでもない。かつての教え子たちが、私の被災地支援に立ち会いたいと申し出て来た。彼らが「一緒に行ってみないか」と仲村トオルを誘ったのだ。その時の様子を、5年前にここで報告した(六十四号)。ブログをアップすると私の元へ、
「客寄せパンダか?」
「教え子だから呼べるもんね」
等の、しょうもないたくさんの中傷(ちゅうしょう)が届いた。バカは死んでも治らないとか、有名人も大変だなと思った。
 その後仲村トオルは、何度も福島いわきの仮設住宅に、味噌・醤油を寄せ、あるいはチョコレートを、自分の手で直接配った。
「少しでも皆さんのお役に立てているなら」
といつも言った。
 しかし、今回は違った。私がお願いした。
「来て欲しい」
と。事情があって詳細を書けないが仕方ない。しかし、このブログの熱心な/丹念に読んでいる人なら、いくぶん想像がつくかもしれない。
「オマエの応援を必要としている人がいる」
と、私はお願いした。いや、SOSではないかとさえ思える。秋でも年明けでもいいと私は言ったが、事情を察してと思う、早期の実現となった。あとで聞けば、『家売るオンナ』の収録を終えての、そしてまた他にも、大変な段取りがあったようだ。

 2 「起きなさい!」
 「みちの駅よつくら」が集合場所だった。仲村トオルと仲間たち、そして私がそこで合流し楢葉に到着したのは11時だった。渡部さんの玄関先に立つ私に、
「いつもお世話になってます」
と、にこやかに出てきた奥さんは、私の後ろに立っている人影を見て、飛び上がった。
「お父さんが(「来る」って)言ってたけど、そんなこと信じられなくって……!」
震える手で握ったタオルが拭(ふ)くのは、汗ではなく、なんと涙だった。
「起きなさい、大変だよ!」
部活に出かける前、仮眠中だった息子をお母さん(奥さん)はたたき起こすのだった。畑が広がる辺り一帯に、お母さんの声が響いた。
 写真撮影が始まった。しかし、お母さんのカメラを持つ手の震えがまだ止まらない。私がシャッターを押す。おばあちゃんは、畑仕事から上がってくる。目を覚ました息子も、
「撮影いいですか」
と、出て来る。バドミントン部所属とは、前に書いたと思う。

 3 原発事故の傷跡
 渡部家を離れ、案内してもらったのは、他のみんなが知ることのない木戸ダム/第二原発周辺/農家だった。

ダムの上から。水面からえも言われぬ風が吹いてくる。結局、木戸ダムから送られる水を、町民はまだ飲めずにいる。くみ上げる水に放射能は「不検出」である。しかし、ダムの底に蓄積された泥からは、とてつもなく高い線量が出ている。住民が安心して飲めるはずがない。泥を取り除いて欲しいという住民の願いは、まだかなえられていない。

第二原発のすぐ足元。波打ち際まで原発の施設が見える。第二原発はよく危機を脱したものだ、と感じないわけには行かない。津波の傷跡がまだ生々しい。


 続いて自宅の母屋へ。サイロの前に渡部さんと仲村トオル。
牛舎の前で、御夫婦とスリーショット。

 これは感動ものの母屋のお風呂。

湯加減の声をかけながら、お風呂の右手から薪(まき)を足せる。
「薪の火は、優しいお湯にするんですよ」
お母さんが説明する。古き時代のいい名残(なごり)。
「でも、その薪も燃やせないし」
今年でお風呂も母屋も解体する。
「燃やせないというのは……薪が汚染されてということですか?」
仲村トオルが反応する。お母さんがうなずく。

 4 もう一度、お母さんの涙
 それから離れの家に戻った。いつもは渡部さんと息子だけが暮らす離れである。あとのみんなは、まだいわきの仮設住宅で暮らしている。

「エアコンがなくて……」
お母さんが申し訳なさそうに言う。しかし、海からの空気/風のせいで、ここでは暑さをしのげる。
 渡部さんの家族とは、私も初めて話す。渡部さんの話の言外(げんがい)に漂うものを知りたい、と私はかねがね思っていた。遠慮なく聞いてきた私を、渡部さんは一度も怒ったことがない。この日お母さん(奥さん)は、何度もタオルで顔をぬぐった。
 とりわけ激しかったのは、母屋で「牛たち」のことを聞いた時だった。ここに何度か書いたが、渡部さんは「酪農」を断念し、「和牛/畜産」に転向する予定だ。そのことを奥さん(お母さん)はどのように同意したのだろうか。
 和牛ならという条件で、ね、と言うなり、お母さんはタオルを手にしていた。暑く照らされた牛舎近くの地面に、お母さんの声が反射した。
「だって、あんな思いは二度としたくない……」
震える声で、残した牛たちのことを話すのだった。
「犬や猫とは違うから」
とは、初め私は、愛着の度合いを言っているのかと思ったが、きっとそうではない。牛を決して「殺す」ことのない酪農家は、牛に名前をつけ家族の一員のように育てる。被災者はみな、犬や猫も一緒に逃げた。しかし、渡部さんたちは「『大きな』牛と一緒に」逃げられなかった。お母さんは、この悲しみを言っている。

 去年の夏も、その前も私は何度も聞いた。見舞うたびにやせ衰(おとろ)えて行く牛の姿、警戒区域となった(2011年4月20日)あと、何頭かの牛は鍵を外して逃がしたことを、私は何度も聞いた。淡々と話す渡部さんだが、私はそれでも何度か声を失った。
 しかしこの日、お母さんの大粒の涙を見て、牛を飼う人たちの「喜び/誇り」を見たような気がした。原発事故によって、それらが奪われたのを目の当たりに見たように思った。

「もう帰っちゃうんですか……(仲村トオルを)置いてってください」
と「おねだり」するお母さんに、
「ホントは3時までの約束だぞ!」
と言って、渡部さんは4時の時計を指して、たしなめた。
「また来てください」
と言うお母さんに、渡部さんは、
「もう来るわけねえってば!」
と釘を刺す。
 仲村トオルは、東京から持ってきた数々の「暑中見舞い」を差し出して、
「また来ます」
と言った。


 ☆☆
ナカムラです。

昨夜は都内に入ってからの渋滞に少々苦戦しましたが
兎に角、行って良かった!

知らなかったことを知って、驚いたこともあって、
何か心の中でゆるくなっていたものが引き締まったような、
頭の中で散らかっていたものが集められたような感覚があります。
自分のためにも、
本当に行って良かった。
感謝です。

ナカムラトオル

とは、仲村トオルからの返信です。
 ついでながら、私がかねがね見たいと言っていた、教え子の愛車に会えました。全体を見せるのはまずいので、ごく一部。助手席でご満悦なのが私。運転席が見えなくてすみません。イギリス車は右ハンドルって知ってましたか?

ありがとう、仲村トオル! おかげでまた、皆さんが明日への力を感じている。

 ☆☆
内村君やった!
チーム内村もやった!
そしてイチローもやった!
感動をありがとうってありきたりのことしか言えないのが悔しいですけど、嬉しいですね。スポーツ新聞、三日連続で買っちゃいました。バンザ~イ!

   これは手賀沼花火大会

技術ではなく(4)  実戦教師塾通信五百七号

2016-08-05 11:46:32 | 子ども/学校
 技術ではなく(4)
     ~<哲学>はあるか~


 1 「友達百人出来るかな」

 小学校は低学年であるほど、あいさつが大きい。教室から聞こえる朝の歌もそうだ。中学校も一年生や女子なら、先生の声が通りやすい。「(教室から)出て行け!」なるはったりもまだ効き目があり、追い出された生徒は仕方なく、保健室を頼ったりする。
 なぜか年を追うに従い、これらのトーン/効力がダウンする。小学生は身体が大きくなったのに、声が小さくなる。中学生なら「大人になったはず」なのに、先生の指示が通りにくくなる。

「友達百人出来るかな」
は、子どもの願いというより、大人の子どもへの夢や希望を託したフレーズだ。子どもは小学校に入学すれば、保育士/保母さんという「遊び/依存の相手」ではない、自分を「教える」先生と向き合う。そして、教室には30人もの「仲間」がいる。どちらにせよ、緊張とわくわく感で入学する。
 その緊張がほぐれる。学校というものを分かってきたからだ。「慣れる」のだ。「あいさつはするものだ」という気持ちが薄れる。いつも通りに時が流れる/いいこと悪いことすべて流れていくことを、子どもたちは分かってきたのである。
「生活とは、同じことの繰り返しである」
のを知るのである。大変なことだ。そして大切なことだ。「慣れた」結果、子どもたちの間に、ばらつきが出始める。あいさつに関しては、
○その相手を選ぶ
○自分の体調/気分で、変化する
○それより優先する事項が発生する
ようになる。また、子どもの年齢が低いほど、それらのバックに「(我が)家の事情」が大きく作用する。本人は気がついてないのだが。
 これらは、子どもたちが「成長した証(あかし)」以外の何者でもない。

 2 「万引きは犯罪です」?
 これは、子どもたちが生活する/生きる中で身につけた「術(すべ)」である。紛(まぎ)れもない「socialskill」である。あの「生きる力」だ。こう言うと無能な人々が言う。
「いやいや、悪いことまで『socialskill』と呼ぶのはいかがなものか」
「ではウソや意地悪も認めるのですか」
 簡単に言おう。我々の都合のいいようには行かない。子どもたちの諸事情が大切だ。
 ご存じと思う。高齢者の万引きが増加している。この現象に対して、行政/警察機関がどんな手を打っているか覚えているだろうか。
「『万引きは犯罪です』と教える」
ことだ。これが唯一の手だてとしているわけではないが、こういうことが「解決」につながるという発想が馬鹿げている、というより悲惨だ。相手が「孤独感/愛情欲求」をもとに事件を起こしているのは明らかだ。認知症を原因としている人もいないわけではない。しかし少数だ。老人たちの寂しさがどうにかならないといけないのだ。
 子どもの万引きはましてのことだ。子どもの起こす事件/問題も、そのほとんどは「孤独感/愛情欲求」を原因とする。しかし、それを大人が背負っていくべきだという気持ちを、今の社会は放棄しつつある。少年犯罪を「厳罰化」する方向がそうだ。「子どもだからって甘やかしてはいかん」というわけだ。罰せられた子どもは、ますます追い込まれ、孤独感や憎悪を積み上げる。
「どうしてやったの?」
と子どもに聞いても無駄だ。「どうしようもなかった」か、「どうしてか分からない」からだ。実は、その子の近くにいる大人は、子どもがそうするわけを大体は知っている。しかし、この「どうして…?」という問いかけは、
「やっちゃいかんことをどうして…?」
という断罪でしかない。
 似てはいるが、
「どうしたの?」
というアプローチは、まったく別物だ。
「話してくれない?」
という気持ちが、ここには込められている。こう聞けない大人/教師が多すぎる。ウソも意地悪も、そして万引きにも「言えない」理由がある。
「それはウソでしょ?」
「盗んだことを正直にいいなさい」
では、証拠/犯人探しを出ない。
「自分が悪いことを認めなさい!」
と相手に詰め寄って、どんないいことがあるのだ。

 3 <哲学>はあるか
 ストレートに止めたり怒ったりすることがいけない、と言っているのではない。迷ってたら、怪我人が出る、取り返しのつかないことになるのはざらだ。違うことを言っている。
「万引きは犯罪です」
という接近?法は、私たちが相手を突き放すことはあっても、近づく手だてにならないと言っている。同じく、
「いじめは犯罪です」
という子どもへの迫り方も、まったく同じ道をたどる。本当は、
「ならんことはならん」
ことを、子どもは知っている。それでもやったという認識を私たちが持てるのかどうか、それが問われているのだ。何が、
「今の子どもには『そうすればどうなるか』という想像力が欠けている」
だよ。「想像力が欠けている」のは、私たち大人の方だ。私たちの「子育て」に、
「<哲学>はあるかどうか」
が問われているというのに。国語の先生はいいよな、なんて間抜けなことではない。言葉の問題ではない。「<哲学>する」ことだ。<哲学>は難しくない。「なぜ?」という態度を貫(つらぬ)けるかどうかが、<哲学>だ。
「ならんことはならん」
とかいう、どっしようなもいことを言ってもいい。しかし、それはもう、子どもが大人/教師に信頼を置いて、子ども自身に光が見えた段階でだ。つまり、最後にいうことだ。初めからそんなことを言うのを、私は「怠惰な態度」だと繰り返してきた。それは「(言い訳は)聞きません」という言葉にしかならないからだ。
 コンビニでのエロ本万引きの話を、以前書いたと思う。
「どうしてそんなことを!」
「恥知らずな!」
担任も親も言った。いつも学校で意地悪をされていたその子は、他の子に無理やりやらされ、という道に逃げたが、ウソは店の防犯カメラでばれる。真相は、
「塾に行きたくなかった」
だった。いやいや塾に通っていたのだ。
「そんなつまらないことで!」
親は怒った。しかし、その子にとっては「つまらないことではなかった」。そして「親に言っても分かってもらえるとは思えなかった」。こうして事件は起きた。しかし、このことによって、その子は塾通いをやめることになった。
「こんなことをまたやられてはかなわん」
と、親が思ったからだ。この子は親を教育し、勝利したのである。
 ここの読者には、ここまで言えば通じると思うが、念のため言おう。私たちが、
「子どもから教えられた」
と思わないといけない、ということだ。


 ☆☆

すっかり見頃を迎えた手賀沼蓮畑です。明日は手賀沼花火大会の日です。天気も良好な様子、きっと夜空に映(は)えるでしょう。

 ☆☆
イチロー「あと2本」の日が続きます。いや~ 産みの苦しみとは、こんなことですねえ。敵地でもスタンディングオベーション。その期待度とリスペクトは、すごいものですね。
ここはファンとして、「遠慮なく」待ちたいと思います。

  夏の暑さにめげず、毎年、我が家に咲いてくれます。