実戦教師塾・琴寄政人の〈場所〉

震災と原発で大揺れの日本、私たちにとって不動の場所とは何か

罰と償いⅡ  実戦教師塾通信三百六十一号

2014-02-24 15:23:59 | 子ども/学校
 遠い子どもたち Ⅶ

    ~罰と償い Ⅱ イントロ~



 ☆☆
「真央ちゃんおめでとう」って、言わない人たちもいるけど、この言葉は晴れ姿に対して言われるものですからね、やはり「おめでとう!」でしょ。今まで大変な思いをしたけれど、それが報(むく)われた。良かった。私はファンというほどでもないのでたいしたことは言えませんが、そんな感じの思いです。
           
 ☆☆
森元総理の「あの子は大事な時に転(ころ)ぶ」
なる発言が大きな顰蹙(ひんしゅく)をかってます。あの人こそ現役(げんえき)時代に大いに転んで野党に力をもたらしたものです。まあそんなことはどうでもよろしい。ただここで、政治家というものが「人の期待に答え」ようとするものだ、というポイントで考えてみましょう。それをみんなは「公約」と言ったり、「マニュフェスト」と言ったりしています。

 ☆☆
アスリートはその点少し違っています。草野球でも学校の部活でも、みんな最初は、
「うまくなりたい」「強くなりたい」
という目標は、あくまで自分と向き合うものだった。それがうまくなる・強くなるに従って、自分の周囲にそれまではなかった「期待」というものが満ち始める。それを世間は、分かりやすく「注目」と呼んでいます。

 ☆☆
やっかいなことに人間てやつは、多くの場合、この「期待」というものに応(こた)えようとします。すると、多くが「堕落(だらく)」します。あるいは凋落(ちょうらく)します。自分を見失うからです。あの素敵な伊達さんが、観客のため息が続くもので、
「Shall up(シャラップ)!」
と思わず叫んでしまったのは残念でした。我を忘れたのですね。政治家というものはその点、周囲の期待に応えることばかり考えている人たちですから、アスリートたちの「目標」や「自分」と向き合うスタンスなど問題にしない、というのは道理です。

 ☆☆
「感謝の気持ちで滑りました」
と真央ちゃんは言い、
「これからは金メダリストとして何か出来るはず」
とは羽生君が言ったことです。
           
この二人の言葉が出てきた場所は、「人々・ファンの期待に応える」場所とは少し違っています。でも、少し油断をすればこの場所に落ちるのは、残念ながら間違いない。二人の温かい気持ちが真っ直ぐに伸びていくことを、そして幸せに生きていくことを願います。

 ☆☆
結局、オリンピックをニュースでしか見なかった私です。でも良かった。負けても爽(さわ)やかな真央ちゃん、高橋大輔、上村愛子、感謝です。あと印象的だったのはスノボと女子のジャンプ。あんなに冷静で自分に厳(きび)しいサラちゃんは怖いようでした。どんな旦那(だんな)さんと結婚するんだろう。大変だろうな、旦那さんが。って、サラちゃんがカッコいいことは変わりないですけど。

 ☆☆
無神経で図々しいインタビューの、最後の枕詞(まくらことば)「今後の抱負(ほうふ)はどんなものを?」ってやめてくれないですかね。特に真央ちゃんは「引退」なんだから。「少しゆっくり休んでください」って言えないんですかね。まあ、このあとのニュースでは引退を保留(ほりゅう)とありましたが。でも、あの時点ではまずいですわ。

 ☆☆
さて、えらく長い「☆」となりました。なわけで、今回予定だった「罰と償(つぐな)いⅡ」は、イントロだけとします。
週二回、水曜と日曜発行と自分で決めた日程も、今回はばたばたして守れませんでした。さらに、先週予定していた福島行きが明日からなので、ブログ次回発行は週末となります。いつもの週半ば(水曜)発行は、今回はおやすみします。


 「罰と償い」Ⅱ イントロ
    ~「社会で生まれ、生きる子ども」


 一体あなたは子どもの味方なのですか、違うのですかとよく聞かれる。学校現場での私の姿はおそらく、まるで子どものようだったり、あるいは少しも子どもに譲(ゆず)らない厳しいものだったりするので、先生たちはずいぶん混乱したようだ。前回とその前のブログの記事を読んで、またそんな混乱をした読者がけっこういたようだ。それで「あなたは子どもの味方か否(いな)か」のような質問を受けた。誤解をおそれつつ言えば、敵対的ではあっても、敵ではない、しかし、断じて味方でもない、そんな「大人としてのけじめ」を大人は持たないといけない、とまずはっきりそう言いたい。
 (市会)議員さんの呼びかけによる懇談会(こんだんかい)で少し話させてもらった。館山でのいじめ事件を中心に話したのだが、そのあとで何人かの人たちが私のもとに来てこんな感じで話すのだ。

「今回の大雪で、子どもたちの雪と遊ぶ姿に、やっぱり『子どもは変わらない』と思った次第(しだい)です。子どもは変わったという考えや世論は違うと思う」

といったものだった。申し訳ないが、こういう大人たちは現状を変える力にならない。と言ってしまう私である。このノスタルジックな見方を否定するものではないし、そんな原初的姿を子どもたちが見せることもある。しかし、こういった考えはしょせん「子どもは変わらないもの(であって欲しい)」という願いを出るものではない。
            
 白鵬は小さいころ、馬でモンゴルの草原を自由自在に遊び戯(たわむ)れた。都会のウランバートルでは、今やほとんど馬を見かけることはない。子どもたちは馬を「臭い」と言い、彼らが熱中するのはゲーム機だという。もちろん家の中でするのだ。白鵬は「自分の足腰は草原の馬で鍛(きた)えられた」と嘆(なげ)くのだ。大平原の白鵬の姿から、まだ20年も経っていない。いや、白鵬の小さい頃からすでに「草原離れ」は始まっていたらしい。
 当たり前のことだが、子どもも社会の中で生まれ育つ。私はよくそう言い、書いてきた。いま子どもたちを路上(ろじょう)で見かけなくなったのは、子どもの絶対数が減ったことばかりが原因ではないことを私たちは知っている。子どもたちは寒い日に日向ぼっこをする必要がない。そして、暑い夏の日は涼しげな木陰を探す必要もない。彼らは家の中ですべて用が足りる。「社会的存在」としての子どもは、「変わる」のだ。その子どもたちの姿をとらえることが、私たちのやるべき、そして出来ることの「初めの一歩」である。


 ☆☆
福島行ってきます。今回は第一仮設での支援もあります。「その日は仕事が休みなので」と、仲間がお手伝いに来るという知らせも受けました。ありがたい。
この場を借りて、今回の「お醤油」協力メンバーに御礼申し上げます。

 ☆☆
そういえば、今回の支援日程は図(はか)らずも「2、26」なのです。1936年のこの日、鶴見の女学校に通っていた母は、憲兵(けんぺい)に行く手を遮(さえぎ)られたそうです。そして、
「ここから先には行けません。お引き取りください」
と言われたと、この日が近づくと毎年言っていました。
今年のこの日、雪は降らないようです。

誤解を解く? 実戦教師塾通信三百六十号

2014-02-19 13:28:44 | 子ども/学校
 遠い子どもたちⅥ

     ~「誤解」なんかではなく~


 1 教師たちの「善意」


 前回の記事で、学校が生徒同士の「誤解を解く」という動きをするのはおかしいのですか、もっとものような気もするが、という意見をいくつかいただいた。学校関係者でないと、そんなふうに思うのだろうか。いや、学校関係者でも、いつしか「本気で」そう思うようになっている気がする。つまり、「加害者対被害者」というとらえ方でなく、ささいな「両者のいさかい」というように見えているのかもしれない。
 しかし、学校の中でちゃんと見ていれば、いや普通に見ていれば、生徒同士がどんな生活を送り、どんな関係にあるのか分かる。トラブルが発生した時、それは「仲直り」させるようなケースかどうか、また被害感情の大きい生徒が「誤解をしている」かどうか、即座(そくざ)に判断できる。はずだ。大津いじめ事件の時の「仲直り」といい、館山いじめ事件の時の「誤解を解く」といい、こんなにどうしようもないケースは、言い出したら枚挙(まいきょ)のいとまがないぐらいに多いのだ。

 子どもたちは大体が、
「そんなつもりはない(なかった)」
という。それに乗っかれば(便乗すれば)、事件のことは、一方の生徒(被害者)の生んだ「誤解」となる。こうなれば相手(被害者)を「なだめる」という道を、学校は進む。そしてなんと、このことは「善意」のもとになされる。しかし、いじめの大体が巧妙(こうみょう)に仕組まれている。繰り返すが、子どもたち自身も「無意識に近い」、あるいは「そんなつもりがないと思える」迷路(めいろ)のような道筋(みちすじ)をたどるのだ。いくらでも実例を挙(あ)げられる。


 2 迷路に分け入る

 ある日、男子生徒が部室の扉(とびら)を壊した。聞けば、自分のカバンが部室に入れられたままカギをかけられたという。この一件が、ちゃんと生徒を見てない、ちゃんと生徒の話を聞けない連中から対処をうけるとひどいことになる。この連中にかかると、
「扉を壊すことはないだろう」
が出発点となるのだ。この時点で、もうすでに「仲直り」、または「両成敗(りょうせいばい)」の道が始まっている。この連中が事態の把握(はあく)に努めようとしたところで、結果は無残(むざん)なものとなっていたはずだ。ことは入り組んでいたからだ。その場の状況を、同じ部活の生徒から聞くと、こうだった。
 練習が終わり、その生徒(以下「A」と表記)は、他の部員と話していて少し遅れた。施錠(せじょう)係となっている生徒は、カギをかけた。
 ここまで聞いたら、怪(あや)しい臭いに気づかないといけない。しかしこの直感は、普段Aが部活でどんな立場/状態にあったか、ということを知らないと働かない。この状態は、部活の顧問(こもん)ばかりでなく、学校(この場合は学年職員)は通常知っているはずだし、知らないといけない。ここでは確認しないといけないことがたくさんある。まず施錠係に、
○施錠する前に、中を確認しなかったのか
○外にA(ともうひとり)が残っていることが気にならなかったか
○「カギを閉めるよ」と二人に言わなかったのか
を聞く。もちろん施錠係は「確認していない」し、二人が残っていることを「気にならなかった」と言う。
 しかしここで、
○ではAが話していた相手のカバンはどうなったのだ
と言及(げんきゅう)しないといけない。すると、

「その生徒のカバンは別な生徒がすでに持ち出していた」

のだ。この一件の不自然さが、一気に露出(ろしゅつ)する。Aはこのあと、たったひとりグラウンドに残されるはめになる。施錠係の姿はすでになく、今まで話していた相手も後ろ姿を見せるばかりだ。
 職員が無能な連中ならば、その時相談してくれればいいのにと言い、そして「扉を壊すことはないだろう」と「説得(せっとく)」にかかる。Aが繰り返し味わってきた心細さと屈辱(くつじょく)を分かっている職員なら、こんなバカは出来ないはずだ。この場合も、困難な迷路ではあるのだが、分け入ることは出来る。
 最後までAと話していた相手に、
○カバン(荷物)は大丈夫かとAに声をかけなかったのはなぜだ
○自分のカバンが部室の中に残っているという不安はなかったのか
と確認しないといけない。他の部員には、
○Aのカバンが残っていることを気がつかなかったのか
と聞かないといけないし、施錠係にもう一度、
○外で話している二人の荷物は大丈夫かと思わなかったのか
たずねる。
 しかし分かると思う。これらはすべて、「自然な成り行きで進む」ことを可能としている。部員はみんな自分の荷物を持って下校に入り、Aと話している生徒の荷物を「誰か」が持ち、施錠係はカギをかけただけだ。すべてはその場の流れだ。Aともうひとりがまだグラウンドで話していることを、他の部員は、
「気に留(と)めなかった」
し、施錠係はAの荷物が残っていることを、
「知らなかった」
のだ。読者でも一瞬(いっしゅん)、Aの誤解ではないのかと思われた方がいるのではないか。そしてAの「誤解を解く」作業を始めちゃうのだろうか。しかし、部員全体のAに対する冷たい姿は、「自然さ」のない「仕組まれた成り行き」ととらえる必要を迫(せま)っている。繰り返しこんな成り行きを過ごすAの孤独と恐怖(きょうふ)を、私たちは分からないといけない。そのため私たちは、この一件が、
「今回に限ったことではない」「似たことが以前もあった」
という地点に立ち返って、生徒に迫(せま)らないといけないのだ。

「またかい」
「今度も気がつかなかったって?」

 繰り返すが、いじめはいじめる側の自覚さえも消していく方向で育ってきた。さまざまなフィルターは自分の立場を覆い(おおい)、自分を守るシールド(盾)として役立つこととなっている。
 いま学校で起こっていることの多くは、「誤解を解く」必要のあることではない。それは「複雑で『巧妙(こうみょう)』に絡まった糸」のもとで起こっている。私たちはそれをほぐし、その中から新たな出口/入り口を見いださないといけない。そしてそれは出来るのだ。


 ☆☆
いやあ、すごい雪でした。閉じ込められた檜原村の先輩にあわてて連絡したら、とりあえず大丈夫だったみたいです。でも、三日分の新聞が届いてみたら、トップ記事が「檜原村孤立」とあってびっくりしたそうです。自衛隊の救援(きゅうえん)が昨日から入ったそうです。自宅の写真を送ってくれました。
   
その他の読者の方々も、このすごい雪とあって、写真を送ってくれました。さまざまな雪景色を見ました。ありがとうございます。 
 本当は明日、福島で物資支援(今回は醤油)だったのですが、雪が心配で延期したのです。でもどうやら明日の雪の心配はなくなったみたいですね。

 ☆☆
佐村河内氏の「インチキ」が話題になってます。いい気なもんです。メディアがです。自分たちは決して傷つかない。「美談」に持ち上げられて身動きとれず、そこから這(は)い出そうとしなかった本人も悪いのですが、たくさんの人間が途中でおかしいと気づいていたようですね。
またここに来て、オリンピックにまつわる「美談」が目につき始めました。家族のことまで根掘り葉掘り、いやですね。恥ずかしくないんですかね。
その点、「盲目のピアニスト」という言い方はやめて欲しい、と早い時期に言った辻井君は素敵だなと思いました。無神経な思い入れは、相手を見る時の妨げ(さまたげ)になるのですよね。
「佐村河内はたけし軍団に入ってやり直すしかねえっつーの」
っていうビートたけしはいいですねえ。

罰と償いⅠ  実戦教師塾通信三百五十九号

2014-02-16 11:11:52 | 子ども/学校
 遠い子どもたちⅤ

    ~罰と償い(つぐない)~


 1 少年法


 少年たちが事件を起こすと、大人たちはよく、
「少し警察でお灸(きゅう)をすえてもらった方がいい」とか、
「写真でも名前でもどんどんさらしたらいいんだ」
などと言う。学校だと、
「鑑別所(かんべつしょ)にぶち込まれてしまえ」
「少年院だな」
などと言う。また事件の進展がはかばかしくないと、
「少年法で守られているからつけあがる」
などと分別(ふんべつ)のある大人でも言ったりする。そんな少年たちへの厳しい(きびしい)世論をバックにしてだと思われるが、少年法は四度目の「改正」をされようとしている。でも考えないといけない。
 少年が写真と実名で報道されて、侃々諤々(かんかんがくがく)の騒ぎとなったのは、日本の場合、1997年の神戸児童殺傷(さっしょう)事件、いわゆる「酒鬼薔薇事件」である。そして外国に目を移すと、これに先立つ1993年、イギリスの「ジェームス・バルガー事件」がある。十歳の少年二人が、二歳の男の子(ジェームス・バルガー)を惨殺(ざんさつ)する事件だ。この時イギリス全土は恐怖(きょうふ)のどん底に落とされ、法務省は少年たちの写真と実名を報道することを認めた。
 しかし、少し考えれば分かるように、十歳の少年がわけもなくこんな事件を起こすはずがない。少年たちの成育(せいいく)環境は劣悪(れつあく)をきわめていた。アルコール依存症(いぞんしょう)だった母、そして父は、7人の子どもたちに性的虐待(ぎゃくたい)と暴行を繰り返していた。詳(くわ)しくは書かないが、まだ分別のつかない子どもが罪を犯(おか)すのは、その周辺の大人に重大な過失(かしつ)がある、という簡単で大切なことを、この事件は示している。少年法にはつまり、
「少年を罰する前に、大人の過失責任が問われないといけない」
という考えがある。だから少年たちが生きていく上で、その後も大人(親)が悪い影響を与え続けると判断される時は、
「少年たちから大人(親)を遠ざけないといけない」
という処置を設定している。
 「鑑別所」は、罪を犯した少年の「保護者に保護する力があるかどうかを判定(鑑別)する」ものとしてある。処罰(しょばつ)するためにあるのではない。いや、なかったというべきだろうか。だから鑑別所に少年がいる間、鑑別所は少年の様子や話をうかがい、少年の保護者の態度・キャパを観察する。面会の様子や、その回数などにもチェックが入るのは、そのためである。「少年院」も、本来は処罰するための施設ではない。罪を犯した少年たちを「矯正(きょうせい)する機関」と言われる所以(ゆえん)である。少年たちを保護出来ない環境から引き離し、生活力・社会の中で生きる力(ソーシャルスキル)を養う(やしなう)というのが建前(たてまえ)である。
 しかし、どちらにせよこんなところには行かない方がいい。当たり前だ。ただ、ここで押さえるべきことは、
「子どもだからと言って許されるのか」とか、
「甘やかせば子どもはよくならない」
なる考えが見落としている点だ。少年法は、少年たちを取り巻く大人(親)を確認し、時にはその大人(親)から少年たちを守るためにある。当事者でもない大人が、少年たちに対して「厳罰をはやる」気持ちをいさめるためにあるとも言える。それはまるで、国や総理(そうり)の暴走を止める憲法のようだ、とも言っておこうか。


 2 償い

 いじめ問題でも同じようなことが言われる。
「いじめが許されていいのか」
「少年たちにも刑事処分を考えるべきだ」等々。
 確かに「ベランダから突き落とす」「全員で代わる代わる蹴る(ける)なぐるを繰り返し骨折」なる重大な事件の場合は、すぐにでも警察の介入が必要であるし、そんな措置(そち)があちこちで見られる。
 しかし例えば、ストーカーを事件扱い(あつかい)にするやっかいさを見て分かると思う、ようやくストーカーの対象に「メール」にまで踏み込んだ現状だ。「冗談(じょうだん)」の場合も、まさに冗談でなくあるという、またまたやっかいな事情も絡(から)んでいる。そして、今のいじめはストーカーよりはるかに分かりづらく、目に見えない形で発生/進行している。あちこちで制定の始まったいじめ条例は、その対象がメールにまで及んでいないという批判がある。しかし、そういう考えでいいのだろうか。
 身近で経験したものの気持ちで考えて見よう。いや、このいじめのことでは、加害者だったにせよ被害者だったにせよ、ほとんどの大人(親)は、わが子の行く手をはらはらと見守った経験があるはずである。その時のことを思い起こせば、
「加害者告発」「警察に告訴(こくそ)」
などという単純な方法ですまなかったことを思い出せるはずだ。
 まず何より、この陰湿(いんしつ)な出来事は、行きずりの通り魔によって行われるのではない。「友だち」によって行われるのだ。だから初めは「信じられない」か、「気のせい」と思う。しかし、この「信じられない」ことが続き、ついにある日「ある確信」に到達(とうたつ)する。この時、今までの出来事は「気のせい」ではなくなり、いたはずの「友だち」が消える。その時、被害生徒が相手に憎悪(ぞうお)をたぎらせ、行動に出たとする。するとこの場合、この時点でいじめは終わる。だから一般的にいじめとは、この「友だち」の行動を受けいれ、相手への憎悪を生み出せない時に成り立つと言える。こうして被害生徒は、自分を肯定(こうてい)出来ない場所に自分を追い込む。
 こんな時、周囲の大人(学校/親)の「責任ある」行動とはなんだろう。それはまず、その子(周辺)の異変を感知し、探(さぐ)りを入れることから始まるはずだ。学校は、正体の見えにくい加害者はもちろんのこと、被害生徒と家庭への確認/相談が必須(ひっす)となる。家庭(親)は通常、本人への確認ののち、学校へ相談に出向く。ここで大人がミスを犯すと、事態は重要な局面に入ってしまう。「気がつかない」「見守る」期間が長すぎた場合だ。しかし、それでも多くは間に合う。最悪の局面を回避(かいひ)出来る。最悪の結果は、さらに多くのミスが重ならないと起こらない。
 学校がやる、けっこう多い見当違いは、
「仲直りさせた」
「被害感情の誤解を解(と)いた」
なるバカな、もうどうしようもない言い分だ。
 この場合必要なのは、「仲直り」や「誤解を解く」ことなんかではない。学校がこんなバカだったら、この段階で、親(保護者)はさっさと学校への「希望」を見限るしかない。学校に「分かってもらう」姿勢をやめて、「分からせる」ことへ移行しないといけない。事態は猶予(ゆうよ)を許さない。もうこいつらは「専門家」でも「保護監督者」でもなんでもない。この場合必要なのは、
「相手からの謝罪」であり、
「償い」だ。
ここでまた、第三者ほど軽口(かるくち)をたたく。
「今さら何が謝罪だ」
「厳罰に処するが一番だ」
などと簡単に口にするのは大体が第三者である。ここで思い出さないといけないのは、相手も「子ども」だということだ。責任を負うべき周辺の大人が、それまで何をしていたのか、これから何をすべきかということを避(さ)けてはまずいのだ。今回の私の拙い(つたない)書にも書いたが、天皇家の愛子ちゃんいじめの時、
「このあと、(いじめを働いたという)男の子はどうなるのでしょう」
と、天皇は言っていた。少年の処遇(しょぐう)について心配したのだ。あまり反響を呼ばなかったが、私には大切な「大人の節度/姿勢」が示されたと思っている。
 分かるはずだ。ここで警察や少年院に登場してもらってどうするというのだ。被害生徒に必要なのは、どっちが悪いのかということを決めたり、裁(さば)いたりということではない。今さらそんな分かりきったことではなく、「安心できる、平和な生活」、そして「癒し(いやし)」だ。
「もうあいつ(加害者)はこの学校にいないから」
なんていうことが、どれほど心の傷の役に立つのだろうか。

 さて、
「おおごとにしたくないという『善意』」
からスタートして混乱に陥って(おちいって)いる大人(学校)を「分からせる」には、大変な道のりが待っている。


 ☆☆
羽生君、やりましたね。爽(さわ)やかな表情と語り口がいいなぁ。岩手の先輩から、オマエは楽天のことばかり言うが、東北にはまだヒーローがいるんだ、と言われたのは昨年の秋です。いま仙台・宮城は、大歓声に包まれてますね。
「震災のことを口に出していいのかどうか」
と、インタビューで躊躇(ちゅうちょ)する姿は、また良かった。
おめでとう、羽生君!

 ☆☆
一昨日の雪の日、むしょうにラーメンが食べたくなり、カップラーメンですが「もちもちの木」を食べました。カツオ節のだし?と、少しばかり軽く考えて食べたんですが、うまいんですね~ 良くないと思いつつ、スープ全部飲んじゃいました。

ひとつのピリオド  実戦教師塾通信三百五十八号

2014-02-12 12:09:14 | ニュースの読み方
 ひとつのピリオド


 1 都知事選


 都知事選、舛添氏当選。私はこの知らせを、自宅に向かう路上(ろじょう)で知らされた。仲間が私にメールを入れたのだ。
「舛添さん、当選確実」
歩みが止まってしまった。選挙中盤から脱原発の陣営(じんえい)苦戦ということが言われていた。深夜(しんや)に結果が判明するとの予想だったので、その前に寝てしまい、朝に結果が分かればいいと思っていた。しかし8時にこの報が入った。覚悟(かくご)はしていたが、しばし動けなかった。無念としか言いようがない。
 雪の影響による投票率低下、脱原発でも舛添氏に一部が流れた、という傾向もあったに聞く。そして、小泉劇場をメディアが自主規制したという分析(ぶんせき)をしている人たちもいるようだ。でもとにかく、細川氏と宇都宮氏の二人を合わせても舛添氏には届かなかった。相手にも田母神という、言ってみれば、向こう側も「味方同士で票を割」っていた。田母神氏は60万の票をキープした。
 ついに安倍首相は、師匠(ししょう)の小泉さんを越えてしまった。この自信は次につながる。新潟の泉田知事は今までのようにきっぱり「安全よりお金ですか」と言い続けることが出来るだろうか。規制委員会も「活断層の疑いあり」が、なし崩(くず)しになるのではないか。ダメージ大きい。
「東京から日本を変える」
という都知事選だった。それは間違いのないように思える。これから日本は、もっと変わる。
「赤信号、みんなで渡れば怖くない」
なる古いお笑いが、またしても点滅(てんめつ)を始めたと思えて仕方がない。
 細川陣営は「取り組みが遅かった」「政策を細かな部分まで詰められなかった」と言い、舛添氏に投票した有権者は、
「原発なきあとをどうするか具体的に言えないのは無責任だ」
と言い、また五輪の成功、福祉の充実をあげた。私とて五輪を楽しみにしているひとりではある。しかしひとつだけ言っておきたい。細川陣営が、
「原発の今後についてはこれからみんなで知恵を出し合う」
としていたのを「無責任」と断罪することは間違いだ。それを「誠意ある」態度と言わずなんと言うのだ。なぜなら、「原発の正体」はまだ分かっていないからだ。こいつがどんな(国家的/科学的)システムのもとで動いていて、どんな時に「不機嫌(ふきげん)」になるのか、また、その「不機嫌」の結果、どんなものを呼び起こすのか、まだ誰も知らない。例をあげれば「福島での甲状腺ガンの異常発生」もそのひとつだ。「事故との因果関係はない」と言い切る厚かましさは、最低でも「よく分かっていない」と修正されるべきなのだ。しかしこの都知事選の結果は、この流れを支(ささ)える。


 2「民意(みんい)」

 しかし悲しいことだが、やはりこれも「民意」であるということだ。「一方的に強行された『特定秘密保護法案』」とか、「憲法9条が危ない」と言われても、やはり安倍政権の方向を人々は選んだ。今回の都知事選はそういう意味を持っている。「安定は希望」とは、あちこちに下がっている公明党の看板(かんばん)にある言葉だ。都民はおそらく、「原発を外(はず)すことへの不安」を選んだ。いや、「原発への不安」を回避(かいひ)したのだ。「大切なことはもっとある」と、脱原発の優先は先送りした。そういうさまざまなものの「安定」を選んだ。全国から、脱原発の首長が細川陣営の応援にかけつけた。しかし、いつの間にか論点の分かりにくい選挙となっていた。
 それに対して、田母神氏は分かりやすかった。氏が選挙戦の初め、ネット上でかなり善戦したことを知っていると思う。まず、氏は政治生活上での「汚れ(よごれ)」をまとっていない。金絡み(かねがらみ)の過去も「除名(じょめい)」もない。そして田母神陣営の、
○秘密なしに国を守れるはずがない
○北朝鮮から国を守るのは自衛隊しかない
○慰安婦(いあんふ)問題はどの国にもある
○原発は安全を厳格(げんかく)に行えばいい
どれを取っても正論(せいろん)に見える主張は分かりやすかった。ネットでの支持が多かったことは、若者の票をかなり集めたことを意味する。氏は、現状を打開できるように見えたはずだ。しかし田母神氏は、歴史で人類が学んだ「対話と協調」という大事な財産(ざいさん)を見ていない。おそらく、
「そんなまどろっこしいことをしている暇(ひま)はない」
と言うのだろう。そして、「はっきりさせようじゃないか」という身構え(みがまえ)は、きっとカッコよく見えたのだ。残念だが、この結果が「若者の気持ち」を語っていることは否(いな)めまい。
 私は思わず原発事故から一カ月後の『週刊文春』を本棚から引っ張りだしてしまった。

「今や、自衛隊の若い隊員たちや、また警察官たちは、最前線拠点(きょてん)で待機(たいき)している。しかし彼らの任務は、もはや放水でも給水でも、また避難誘導(ひなんゆうどう)でもない。最悪の事態発生での特攻的(とっこうてき)救出作戦、つまり命を賭(と)すことにほかならない」(『世界を震撼(しんかん)させた45日間』より)

これが誇張(こちょう)でなかったことは、さまざまな事故調査委員会の報告で明らかになっている。危機一髪(ききいっぱつ)だったのだ。そして今ももちろん、安全であるなどという代物(しろもの)ではない。
「原発事故による直接の死者はいない」
と、高市政調会長だっけか、そして田母神氏も言っていた。しかしこの時の記憶をたどれば、決死の覚悟をし、活動した人たちのおかげで私たちの無事があることを思い出せる。ちなみに「直接の死者がいない」かどうかは、保留(ほりゅう)すべき事項だということも断(ことわ)りを入れるべきかと思う。
 あの時、私が世話になっている旅館「ふじ滝」でも女将(おかみ)さんたちは窓に目張りをし、関東の私たちでも「換気扇(かんきせん)のスイッチを切ってください」と言われ、24時間換気のスイッチをどうやって切るのか、と恐怖(きょうふ)におののいた人もいた。
 原発を「即時ゼロ」と言ったところで数十年かかるのだ。それに対し「不安のないように段々と」なる考えは、サプリメントCMコピーの、
「いっぱい食べたい、でも太りたくない」
と同じようなチョーいい加減な考えであることに、私たちは今からでも気づかないといけない。まだ遅過ぎるということではない。

 私はついでに思った。先の戦争が、
「軍部の横暴(おうぼう)と教育支配」
によるものだ、と前の世代がよく言う。あれは嘘(うそ)だとずっと思っているが、いままたそれを確認しているような気がする。


 ☆☆
ソチ五輪、ニュースでしか見てませんが、楽しいですね。スノボをやってる人たちってみんな楽しそうです。どうしてなんだろう。國保もそうだった。國保が銀メダル平野君のコーチをやってるってホントですか。腰パンで教えてるんですかね。「ちっ、うっせえなあ」って言いながら教えてるんですかね。想像するだけで楽しい。
それと平野君の出身地、新潟県の村上って銘酒『〆張鶴』の蔵元(くらもと)です。それも嬉しいなぁ。

 ☆☆
ジョギングがわりに自転車を使い始めて、原チャリがいらなくなり、あわせてヘルメットがひとつ不要になりました。そろそろ新調しようとしていたヘルメットのお金が浮きました。それでさびついたママチャリとおさらば出来るんです。バイクのヘルメットってけっこう高いので、自転車もけっこういいの買えそうです。

 ☆☆
そうだ、『チームバチスタ螺鈿の迷宮』、ムチャクチャ面白くなってきましたね。こんな展開になろうとは思わなかった。犯人誰なんだろう。きっと、すでに「螺鈿の部屋」に入った人だということぐらいは分かるんですが、終末まであと一カ月か。みなさんもぜひご一緒にどうぞ。

雪  実戦教師塾通信三百五十七号

2014-02-09 12:14:40 | 福島からの報告
 風評被害/中間貯蔵施設


 ☆☆

 いやあ、参りましたね。40年ぶりって、つまえ私が20歳の時以来の大雪ってことあんですよね。浪人(ろうにん)してましたね、私。懐(なつ)かしい、って雪のことじゃなくて浪人中のことがですよ。
          
 これは昨日の夕方で、ここから夜はさらにふぶいたんですねえ。
          
 大体似たようなアングルでとったんですが、これでも少し雪かきしたあとです。雪の中からようやく姿を現した私の愛車(バイク)です。
 オマエもこんな雪なんだから、記事内容も少しは考えろ、空気読めよなんて言われそうで、こんな書き出しです。
 都知事選、投票率下がるんだろうなあ。どうなりますかね。
 というわけで、今回は☆印から始まっちまいました。
 雪の警報(けいほう)が出て、あわてて福島から帰ってきました。


 1 風評被害

「食べないよ」
そう事も無げにいうおばちゃんの言葉に、私は耳を疑った。

 もう顔なじみとなった広野の農家直販所(ちょくはんじょ)、この日は午後から冷たい風が勢いを増して、木やのぼりを大きく激しくなびかせていた。
「こんなに寒いのに、あちこち回ってんのかい?」
そうおばちゃんが聞いてくれた。私は、苦戦を続けている「ニイダヤ水産」のパンフレットを、おばちゃんやお客さんに差し出して勧(すす)めた。
「魚かい」
と、おばちゃんたちはあんまり気乗りしない笑いを浮かべる。私はやっぱりなと思う。
「どこの魚で(干物を)作ってるんだい」
と一応は聞いて来るのだが、福島産のものでないことぐらいは知っているのだ。
「孫(まご)がいるんだよ」
「娘(母親)がうるさくてさ」
という二人の店番のおばちゃんの気持ちは分かる。
 しかし、そのあと話のついでに、
「米はここ(直販所/広野)のを食べるんですよね」
そう確認のつもりで聞いた。そして、私は驚いた。
「食べないよ」
二人は何でもないふうに言い、お客さんも笑っている。ここは、
「数量を測った安全なお米を売っている」
直販所ではなかったのか、ようやく生産し販売(はんばい)にこぎつけた「喜びの農家が直営(ちょくえい)する」ところではなかったのか、知らず知らず私は反芻(はんすう)した。
「孫がいるんだよ」
「娘がうるさくてさ」
また二人は同じことを言った。ホントですか、私はもう一度聞く。
「美春のを食べてんだよ」
私は三春町が、広野に比べてそんなに線量が低いはずがないことぐらい知っている。
「こっちの米の方が安心なんじゃないの」
私はそのことを言った。
 もとはと言えば、国が同心円で警戒区域を決めたことから始まっている。広野や川内から郡山や福島に逃げた人たちは、あとになってみれば線量の高いところに避難(ひなん)してしまった。今や帰還(きかん)を迷っている故郷の方が線量が低い。そんなおかしなことが起きているのだ。そのことを言ってみたが、
「娘がそう言うんだよ」
同じことを言う。
「水も買ってるんだよ」

 私は改めて『風評被害』の現実を見る思いだった。当の本人たちが不安に思っている。そのことを『風評被害』と言えるわけがない。
「魚も米も安全なのに、みんな不安がって買ってくれない」
と言ってる本人たちの現実がこうなのだ。これを『風評被害』なる言葉の一人歩きと言わずしてなんと言うのだ。結局は放射能という、目に見えないものとどう向き合うのか、私たちはまだ決めてとなる手だてを持っていない。
 そういうことか。騙(だま)しあいかよ、そう言われるぞ、と思いつつも、この先に立ちふさがる困難の大きさを改めて思うしかないのだ。

 確かにこの間まではなかったはずのモリニタリングポストが、この直販所の脇に立っていた。それは除染中の公園入り口で、向こうに火力の煙突(えんとつ)が見えた。数値は写真をとった時は「0,164」だった。
          

          
「今年になってから出来たんだよ」
おばちゃんが言う。
「みんなが安心出来るようにって作ったみたいだよ」
隣(となり)にいたおばちゃんが、
「でも山の方では高いってよ」
と付け足した。


 2 町民の気持ち

 次の日、楢葉の仮設で牧場主さんにこの話をすると、主さんはあきれたと言わんばかりに、声を出して笑った。
「生産してる人間や売ってる奴が、そんなんじゃしょうがねえよ」
そうして去年の秋に始まった、福島県沖での「試験操業」の時の話をした。
 線量検査のあと、このまま築地(つきじ)に出すのはどんなもんかと、もめたのだそうだ。自分たちがまず食べて平気なことを証見せてからがいいのではないかという意見が出され、その対象が町だけでなく周辺一帯へと、段々に「その方がいい」と、広がったという。
「どたばたやってる間、築地への出荷(しゅっか)はずいぶん遅れたんだよ」
この広野の直販所とはまったく逆のケースということになる。
「BSE(狂牛病)騒ぎの時は、オレたちの牛も売れなかったよ」
主さんは、その昔、銀座だったら5万円なりの肉を、
「1000円で食ったもんさ」
と振り返って言った。

 読者もニュースでご存じだろうか。楢葉町の中間貯蔵施設の建設は中止となった。なんともおかしな経緯(いきさつ)だ。なぜなら、だ。住民はこの施設建設の是非(ぜひ)を問うため、住民投票をしようとした。そして驚異的(きょういてき)な数の署名を集めた。建設しないと初めから分かっていたら、こんな大変な思いをして署名など集めない。でも、町は初め、
「建設を認めたわけではない」
として「建設のための調査」を認可(にんか)した。そして次は、「保管庫」ならという話となった。住民は不安を膨(ふく)らませる。当たり前だ。そして住民投票実施要求に動く。
 町長は、
「高濃度廃棄物(はいきぶつ)の受けいれは困る」
としつつも、この住民投票要求に対しては、
「私たちが決める問題ではない」
という判断をした。つまり住民投票をしないということだ。町議会はこれにならった。4対6でこの住民投票条例案は否決されたのだ。
「自分たちの町のことではあるが、自分たちで決めることは出来ない」
としたのだ。そしてその直後にこの、
「建設中止決定」
である。これで主さんも私も描(えが)いた、「議会リコール」にはならない。
「確かに住民の声に押された知事の判断ということはあるだろうな」
主さんはそう言った。


 ☆☆
今日は教え子の舞台です。初めての主役で、しかも彼がずっと重たく抱えてきたことが主題です。いつもなら小一時間で行ける場所ですが、今日は二時間、と余裕をみての出発です。どう彼が自分の中で出口を、または入り口を見いだしたのか、見届けて来ようと思います。

 ☆☆
都知事選、どうなりますかね。