柳田國男記念館
~ふたつの神道(しんとう)~
☆初めに☆
以前、実家に行くときの通り道に『柳田國男記念館』なる案内板を目にとめていました。ずっとそのままだったのですが、お正月が明けてから行ってみました。受付の人がひとり、記念館の周りの草取りをしていました。どうぞ上がって見てってくださいと言われるままに見てきました。
1 「ツアイ・キンダー・システム(二児制)」
千葉県の我孫子を利根川沿いに下ると、茨城県の布川地区に出る。そこに柳田國男が、少年時代に過ごした家がある。それが記念館となっている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4c/c2/52d73420b01ae537370f425ca869b7d7.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/29/99/af4f60f327f5bdd2fb2a356041affceb.jpg)
松岡家の六男(八人兄弟)として生まれた國男は、兄のもとに13歳の時預(あず)けられ、二年間を過ごす。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/09/bc/0faf03e40a91060ad6ec7ecf4a557e46.jpg)
病弱だった國男は学校に行かず、この土蔵にこもって読書にひたった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/16/56/62ba1a99cf913467e3120efccd24f09f.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/28/3f/8316c460e136813e65278bd54cbb6ab0.jpg)
土蔵に通じる庭の道
この布川で、柳田が強烈に印象づけられたものがある。この地域は、家に男児と女児の二児しかいてはいけない「ツワイ・キンダー・システム」を採(と)っていた。柳田が「八人兄弟だ」というと、「一体どうするつもりだ」と、周囲は目を丸くしたという。このシステムの成立は、この時代にこの地域を襲った飢饉(ききん)を要因としている。もちろん布川ばかりではない。以前暮らしていた兵庫でも同じようで、飢饉にあえぐ人々のために、町の有力な商家が重湯(おもゆ)を炊き出したことを、柳田は書き記している。そこに居並ぶ人たちを前に、人がうらやむものを食べてはいけませんと母親が言い、自宅でおかゆを食べたともある。
数字はあまり知られていないが、江戸・明治の「子殺し」は原因はともかく、昭和・平成の時代とはけた違いの多さである。病死も含むのだが、統計によれば明治三十三年(1900年)の乳児死亡率は、千人に対し79人、平成十二年(2000年)は1,8人である。
布川の地蔵堂に、子どもを産んだばかりの女性によって、その子が絞め殺されている絵馬を、國男少年は見ている。障子に映った女の影には角が生(は)え、かたわらの地蔵が泣いている図だったという。少年時代の、この布川でのことと飢饉のことが、柳田の民俗学の基礎になったということを、自身で語っている。
のちに農政学を学び、役人としては全国を踏破(とうは)する中で、柳田は民衆の来し方(こしかた)/あり方を見いだした。この日本の「民衆」を「常民(じょうみん)」と柳田が命名したことを、念のため付け加える。
2 ふたつの神道
子どもの誕生にまつわる悲しい出来事もそうだが、幾多(いくた)の怒り/喜び/畏(おそ)れと、そこから発生する生活習慣にひそむ私たちの心の奥底を、柳田は数多く見せてくれている。
「ご先祖」が二種類存在することを、私たちはあんまり自覚していない。ひとつは正月に御参りに行く時の、または節句や七五三やの折々に御参りする「神様」。もうひとつが、お盆お彼岸に御参りする時の「ほとけ様」である。当然のことだが、このほとけ様は仏教が伝来する奈良時代以前は、存在しなかった。神様は十万年以上の歴史を持つが、ほとけ様はわずか千五百年あまり。このことは押さえておいた方がいいと思われる。古い方の私たちの「ご先祖」が、天照(アマテラス)や八幡神よりもはるかに昔は、山や海や空、そして風や石や木だったことを私たちは今もかすかに、あるいは明確に信じている。昔、人は死ねば土に葬(ほうむ)られたなどといい加減なことも言われるが、そのまた昔をたどれば、火葬の歴史は自然葬のひとつとしてずっと続いていた。
昔、山や野辺に亡骸(なきがら)を送った人々は、それらが記憶の中に消えていくことを受け入れていた。しかし同時に、時々にかつての姿を目の前に表れるのも当然のことと考えていた。お盆とお彼岸にしか舞い戻るないはずの霊魂があたりをさまようとは信じ難い、それを「成仏(じょうぶつ)しない亡霊」として排したのが仏教だったとは、現在の私たちは、きっと知らずにいる。
☆後記☆
ピョンチャンオリンピック、面白いですねえ。ライブで見ようと思ってもいるのですが、気がつくと終わってる。だからいつもニュースで見るだけなのですが、スノボ抜群ですね。宙に舞うって表現は、スノボのためにあるって感じ。
「自由っていうのは、こういうことさ」
とでも言ってるかのようです。平野君いいですねえ。どうも「ミスター反省」こと國保がコーチしたみたいですよ。ますます國保のファンになっちゃう私です。
☆ ☆
やっぱり春は来るんですねえ。昨日の温かさはまさに春。我が家でも、庭のすみに、かわいらしく梅が咲きました。
~ふたつの神道(しんとう)~
☆初めに☆
以前、実家に行くときの通り道に『柳田國男記念館』なる案内板を目にとめていました。ずっとそのままだったのですが、お正月が明けてから行ってみました。受付の人がひとり、記念館の周りの草取りをしていました。どうぞ上がって見てってくださいと言われるままに見てきました。
1 「ツアイ・キンダー・システム(二児制)」
千葉県の我孫子を利根川沿いに下ると、茨城県の布川地区に出る。そこに柳田國男が、少年時代に過ごした家がある。それが記念館となっている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4c/c2/52d73420b01ae537370f425ca869b7d7.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/29/99/af4f60f327f5bdd2fb2a356041affceb.jpg)
松岡家の六男(八人兄弟)として生まれた國男は、兄のもとに13歳の時預(あず)けられ、二年間を過ごす。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/09/bc/0faf03e40a91060ad6ec7ecf4a557e46.jpg)
病弱だった國男は学校に行かず、この土蔵にこもって読書にひたった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/16/56/62ba1a99cf913467e3120efccd24f09f.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/28/3f/8316c460e136813e65278bd54cbb6ab0.jpg)
土蔵に通じる庭の道
この布川で、柳田が強烈に印象づけられたものがある。この地域は、家に男児と女児の二児しかいてはいけない「ツワイ・キンダー・システム」を採(と)っていた。柳田が「八人兄弟だ」というと、「一体どうするつもりだ」と、周囲は目を丸くしたという。このシステムの成立は、この時代にこの地域を襲った飢饉(ききん)を要因としている。もちろん布川ばかりではない。以前暮らしていた兵庫でも同じようで、飢饉にあえぐ人々のために、町の有力な商家が重湯(おもゆ)を炊き出したことを、柳田は書き記している。そこに居並ぶ人たちを前に、人がうらやむものを食べてはいけませんと母親が言い、自宅でおかゆを食べたともある。
数字はあまり知られていないが、江戸・明治の「子殺し」は原因はともかく、昭和・平成の時代とはけた違いの多さである。病死も含むのだが、統計によれば明治三十三年(1900年)の乳児死亡率は、千人に対し79人、平成十二年(2000年)は1,8人である。
布川の地蔵堂に、子どもを産んだばかりの女性によって、その子が絞め殺されている絵馬を、國男少年は見ている。障子に映った女の影には角が生(は)え、かたわらの地蔵が泣いている図だったという。少年時代の、この布川でのことと飢饉のことが、柳田の民俗学の基礎になったということを、自身で語っている。
のちに農政学を学び、役人としては全国を踏破(とうは)する中で、柳田は民衆の来し方(こしかた)/あり方を見いだした。この日本の「民衆」を「常民(じょうみん)」と柳田が命名したことを、念のため付け加える。
2 ふたつの神道
子どもの誕生にまつわる悲しい出来事もそうだが、幾多(いくた)の怒り/喜び/畏(おそ)れと、そこから発生する生活習慣にひそむ私たちの心の奥底を、柳田は数多く見せてくれている。
「ご先祖」が二種類存在することを、私たちはあんまり自覚していない。ひとつは正月に御参りに行く時の、または節句や七五三やの折々に御参りする「神様」。もうひとつが、お盆お彼岸に御参りする時の「ほとけ様」である。当然のことだが、このほとけ様は仏教が伝来する奈良時代以前は、存在しなかった。神様は十万年以上の歴史を持つが、ほとけ様はわずか千五百年あまり。このことは押さえておいた方がいいと思われる。古い方の私たちの「ご先祖」が、天照(アマテラス)や八幡神よりもはるかに昔は、山や海や空、そして風や石や木だったことを私たちは今もかすかに、あるいは明確に信じている。昔、人は死ねば土に葬(ほうむ)られたなどといい加減なことも言われるが、そのまた昔をたどれば、火葬の歴史は自然葬のひとつとしてずっと続いていた。
昔、山や野辺に亡骸(なきがら)を送った人々は、それらが記憶の中に消えていくことを受け入れていた。しかし同時に、時々にかつての姿を目の前に表れるのも当然のことと考えていた。お盆とお彼岸にしか舞い戻るないはずの霊魂があたりをさまようとは信じ難い、それを「成仏(じょうぶつ)しない亡霊」として排したのが仏教だったとは、現在の私たちは、きっと知らずにいる。
「(かつてわれわれは)眼にこそ見えないが郷土の山川草木には、親の親たちが憩(いこ)い宿って……現世の生活を、なつかしげに見守っているものと思っていたのである」
(『家永続の願い』)
こういう柳田の言葉に触れるたび、私はほっとするのである。そしてまた、上野界隈(かいわい)の物陰にひっそりとたたずむ、かつてそこで生きた人々の姿を思う。(『家永続の願い』)
☆後記☆
ピョンチャンオリンピック、面白いですねえ。ライブで見ようと思ってもいるのですが、気がつくと終わってる。だからいつもニュースで見るだけなのですが、スノボ抜群ですね。宙に舞うって表現は、スノボのためにあるって感じ。
「自由っていうのは、こういうことさ」
とでも言ってるかのようです。平野君いいですねえ。どうも「ミスター反省」こと國保がコーチしたみたいですよ。ますます國保のファンになっちゃう私です。
☆ ☆
やっぱり春は来るんですねえ。昨日の温かさはまさに春。我が家でも、庭のすみに、かわいらしく梅が咲きました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/71/20/c112f8c926310b0778821ae3ab29f49a.jpg)
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます