実戦教師塾・琴寄政人の〈場所〉

震災と原発で大揺れの日本、私たちにとって不動の場所とは何か

孤高の極みへ  実戦教師塾通信四百十八号

2014-12-05 11:43:59 | 武道
 孤高の極みへ
      ~白鵬の道~


 1 身体と頭

「コトさ~ん、頭でやってるね~」

土曜日、雨の中を東京は杉並の剛柔流本部道場にお邪魔した。山口剛史先生から呼吸の伝授をしていただき、私の未成熟度をチェックしてもらおうということである。私の動きと呼吸を見て先生が言った。頭で動けば、身体に「気」はめぐらない。
「コトさんは、身体は柔らかいんだが、頭が固いんだよな~」
とも言った。
 例えば、
「思えば気結ぼる」(貝原益軒『養生訓』より)
とあるように、考えると「気」は閉ざされる。「病は気から」と言うように、風邪も閉じられた自分の中に起こることが、吐き気や熱をもたらす。大切なのは、「気」を調整すること。そのことで「気」を和(やわ)らげ平にすることである。いわばこれが言うところの、
「平常心を保つ」
ことだ。しかし、まかり間違ってはならない。それは「ぼんやりすること」ではない。その状態は「気」が「緩(ゆる)んだ」り「漏(も)れた」りすることであって、「平」ではないということだ。そんなに甘くない。


 2 「勝負」と「道」
 稽古(けいこ)が終わって、お弟子さんたちと話をした。

「63連勝した頃と今と比べて、白鵬はどっちが強いのでしょうか」
            
 2011年11月の九州場所2日目に稀勢の里に破れ、花道を下がる白鵬

もう終り頃になって、私は失礼と思いつつ、先生にどうしてもという思いで聞いた。自分は白鵬じゃないからなという先生を、先生が若い時と比べてということでと、私はごり押しした。こういう「たら/れば」という、あんまりほめられない仮説を凡人はどうしてもしたくなる。これは白鵬が優勝した翌日(よくじつ)、記者会見で出た質問なのだ。失礼かつ不可能な質問なのだが、私もその誘惑に勝てない。今まさしく、私たちは歴史的場面に出会っている。もう百年か、あるいは永久にこの場面に会うことはない。今この不謹慎(ふきんしん)な「たら/れば」を、私たちは生きている本人に確かめることが出来る。凡人は、それをしたいという欲望に勝てない。 
 腕力は若い時にかなわない。しかし、「技(わざ)」というものは、腕力を越える。私たち「道」を目指すものは、「勝ち負け」ではない「相手を制する」場所に「武道」のポイントを置いている気がしている。
「勝つと思うな/思えば負けよ」(『柔』関澤眞一)
とは、ふだん自分が思うところだと、場所後に白鵬が言っていた。
 通りがかりのチンピラに、オレの股下(またした)をくぐり抜けろとすごまれて、分かりましたと言われる通りにしたのは、琉球首里の「武士」と言われた松村宗棍である。取り巻きの弟子の数人がこれを見てあきれ、別の道場に入門してしまったという逸話(いつわ)でもある。しかし、武士松村が股下をくぐる間、このチンピラが真っ青になって震えていたというのも事実だろう。当たり前だ。自分の急所の真下を、天下の武士松村がくぐっていくのである。鍛(きた)え抜かれた鉄拳が、今や無防備な状態の自分の急所を、下半身とともに打ち抜くかも知れないのである。これは「無駄なものを勝負/戦いとは言わない」という武士松村の判断だったと思われる。
 白鵬の答は、
「勝負はつかないと思う」
だった。私なりの通訳をすれば、これは10番とって5勝5敗ということだ。あるいは、一方の白鵬が他方の白鵬に地を這(は)わせたとして、その這わせた方が、
「いや、私が負けていた」
と言うことを意味する。白鵬は「勝ち負け」の向こうを見ている。


 3 逸の城/大砂嵐
 大砂嵐の得意技「かち上げ」は、一時は無敵の強さを見せつけた。「かち上げ」は、臂(ひじ)で相手の顎(あご)や胸を直撃する技で、空手の場合「猿臂(えんぴ)」と言われる。立派な「技」だ。しかしアナウンサーは、
「危険ですね~」
と言い、相撲ファンは「卑怯(ひきょう)だ/汚い」などと言った。親方も少しは注意したようだが、今場所も改善?のあとは見られていないように思う。しかし、相撲ファンもアナウンサーも分かっていると思うが、大砂嵐、以前と違って負けがこんでいる。
 先場所大活躍だった逸の城も同じだ。かろうじての勝ち越し。それは新関脇の勝ち越しとしては20年ぶりの快挙だというが、ファンはきっと不満だ。
 二人の不振は、つまるところ同じ所に根拠がある。
「相撲は深い」
のだ。「技」は、磨(みが)き上げるものではあっても、それに「頼る」ものではない。大砂嵐は、かち上げを磨き上げようとせず、それを唯一の頼りとしている。だから相手がかち上げを見極めるのに、時間はかからなかった。今は大砂嵐のひじがはずれるか、当たっても相手はダメージを受けずに吸収してしまっている。「危険だから禁止」のようなお達しが審判部から出たらまずいと思っていたが、そんな愚を協会はしなかった。協会も分かっている。相撲は深い。
 もうひとり、逸の城の「上手」と「引き技」。これも今場所は、他の力士には「お見通し」だった。今場所逸の城は、相手から上手を警戒された。あるいは相手を引いて、そのまま押されて負けた。先場所で通用したものが、次の場所では通用しない。相撲は深い。
 ここでひとつ付け足す。とりわけ先場所の逸の城の引き技で注目されたのが「対鶴竜」戦の時のものだ。
「前の日から決めてました」
という引き技は、逸の城が鶴竜につっかけ、当たって行くと見せかけた後のものだ。その後突っ込んだ鶴竜は、まんまと逸の城の術中にはまり、土俵に這う。これを解説の舞の海がべたぼめなのだ。いかがなものか、とはこういうことだ。今場所の予想でもこのことを取り上げ、逸の城の「器(うつわ)の違い」を強調した。一体どこが「大器」なのか。先輩で、しかも横綱に対して「礼を逸(いっ)している」などというくだらないことではない。この新人は、相撲の「頂点」を目指すのではないのか。「百年の一度の逸材(いつざい)」とはそういうことだ。舞の海のような、小柄でも作戦の限りを尽くして勝つ、というあり方とはまったく違う。舞の海はそれでいい。しかし、逸の城の「逸材」とは、「勝ち負け」を越えたものを目指すあり方を言っているはずだ。「勝てばいい」ような相撲をとっていれば、ただ「身体にものを言わせる」だけの「普通」のお相撲さんに落ち着く。良くない。


 4 『プレイバックⅡ』
 私たちはもう忘れているが、先場所は白鵬が優勝すれば、千代の富士の31回と並ぶ場所だった。それだけではない。ちょうど百年ぶりと言われる「新入幕力士の優勝」が、後半に現実味を帯びていた。白鵬と対戦する前日、なんとも後味の悪い引き技で、横綱の鶴竜をこの新人は破る。白鵬は、この新人が「明日は思い切りぶつかっていきます」と言っても、信じられない思いで次の日を迎えるのである。鶴竜と立ち会う前日もそう言っていたからだ。白鵬は、
「『若い者の壁になる』と言ってきた自分を信じる」
と、逸の城戦に臨(のぞ)んだのである。よくもまあ、こうして自分の苦しい胸の内を話せるものである。本来なら31回目の優勝で、話題はそれで持ちきりだったはずの秋場所が、そうではなかった。予想外の外圧に、白鵬も追い込まれていた。
 しかし、逸の城戦は相手の上手を止め、自分の構えから豪快に転がした。千秋楽の鶴竜戦では一方的に追い込んでのかけ投げ。すると、
「横綱の意地」
という貧弱で醜悪なメッセージが送られる。白鵬は場所が終わるたび、
「疲れました」
と言う。「最後の壁」となる責任者として充分疲れているはずだが、それを「意地」とくくられれば、その疲れに追い打ちもかかるだろう。
            
              秋場所千秋楽・鶴竜戦
メディアの無責任かつ無知なエールに対しては、私も少しばかり。

坊や、いったい何を教わって来たの
私だって、私だって、疲れるわ  (山口百恵『プレイバックⅡ』より)

周囲の雑音をよそに、
「この国の魂と相撲の神様が、こういう結果をくれたんだと思います」
という32回目のインタビュー。
おめでとう白鵬! そしてありがとう!


 ☆☆
今度はなんと、菅原文太が。いやあ、なんということでしょう。こうも立て続けに。私は菅原文太はまったく何も見てないんです。アレって思ったのが、山奥で農業を始めたという話。そして驚いたのが、震災後に脱原発の訴えを始めたことです。文太の周辺には、いろいろな俳優さんたちが集まり始めていたようなのです。残念ですねえ。

 ☆☆
いよいよ師走となりました。ブリ大根やったんです。うまい。骨までしみた味を、骨まで味わいました。先日はモツ煮込みを、いわきの板さんが教えてくれたように、大根だけで煮込みました。大根が臭みをとるんですよね。モツと大根は同じ量。大根は1~2㎝ほどの厚さで、銀杏切りです。おいしいですよ。ぜひどうぞ。
            
            今年も我が家の紅葉がいい感じです

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