実戦教師塾・琴寄政人の〈場所〉

震災と原発で大揺れの日本、私たちにとって不動の場所とは何か

明日のために  実戦教師塾通信二百四十号

2012-12-29 18:53:01 | 日記
 近代の向こう側/こちら側に着陸して



 売らないといけない


 暮れにも色々な方にお付き合いいただいた。フリーランスの人で、いつも本を贈呈していただいている人もそのひとりだ。彼は今夏、ことのほか思いの強い本を執筆し、発行した。しかし「出版不況の折り」で、今回は贈呈ならない、買ってほしいという連絡をもらった。ということをいつだったかここに書いたと思う。とてもではないが、この本を買うお金のゆとりも時間のゆとりも私にはない、ということを書いた。端的に言おう。この本を買いたくもない、読みたくもないということだ。彼にじかに会って「忠告」したいと思った。私の考えを確かめるうえでも、それをしたいと思って出向いた。
 今、確かに物書き・出版業界は大変だ。本の単価の10%の原稿料(印税)で飯を食うのだが、実態を言えば、今は5000部発行の本に5000部分の原稿料が支払われるわけではない。多くが半分、あるいはそれ以下しか支払われない。さらに言えば、5000部の発行を約束される物書きは、業界の1%いない。10万人物書きがいたら、そのうちの数百人である。阿川佐和子の100万部(『聞く力』)なんて、問題外の外のまた外だ。少し具体的に詰めちゃおう。ようやく1500円の単行本が2000部発行となったとしよう。その半分の1000部分の原稿料が支払われることが決まったとなれば、入るのは150万円である。これが一年か二年に一度の報酬である。つまり殆どの物書きは、生活費もままならない。貧窮の生活、あるいはアルバイトや「ヒモ」でなんとか食いつないでいる。だから物書きは「書かないと生活できない」「売れないと電気代さえ工面できない」自転車操業のあげく、「どうしようもない」本しか書けなくなる、という悪無限的循環に入る。「我々は、あなたのような退職金も年金も約束された世界の人間ではない、書かないと、そしてそれが売れないと、生きていけない」と、彼は私に言うのだ。炬燵だけの部屋で、彼は着膨れしていた。私も上着を脱げなかった。
     
            (暮れの東京は浅草界隈)
 そんなあなたに言うのは悪いけど、そんなことを言っているうちは「売れる本」なんてこっちを向いてくれませんよ、と私は言った。

 私たちはなぜ本を読むのだろう。一番「読書家」らしい本の選び方と言えば、本を「放浪」しながら選ぶことだ。それこそ「目的」も「目的地(終点)」もない、そんな作業。しかし、大体がある目的を持って本を選ぶ。恋愛小説を求める人の多くは、恋に悩むことを動機とする。悩みに共感してくれる、あるいは導きの糸を見いだせる、そんなものを恋の迷路に入り込んだ人は、「恋愛小説」に探して求める。
 つまり、「自分が書きたいこと」と「人々の切実さ」は、どこかで交わっていないといけない。そもそもそれが「本を書く動機」となっているはずだ。自分の書きたいことばかりが一人歩きすれば、ひとりよがりになる。人々の求めることに応えようとしてばかりいれば、捨てられる。自分の書きたいことが、そんなに「大切なこと」なのか、あなたはそれを考えているのか、そう私は尋ねた。
 また言うが、という気持ちだが、彼に言った。「野球なんかやってていいのか」「映画なんか撮ってていいのか」「小説なんか書いてていいのか」、昨年の春、そんな多くの言葉があった。「大切なものはなんですか」。それを選ぶ、それを見つけるために、今はともかく、あの時日本のみんなが考えた。そして、ある人たちは結論を出し「許されるなら、また野球をさせていただきます!」と言った。あるいは怠惰にまかせて、考えることをやめてしまった人々、いやもっと醜悪に「もとに戻る」=「復興」とぶち上げている連中。しかし、今の言葉/行為が、「震災後の言葉/行為」なのかどうか、それは人々の心に今も影を落としている。
 あなたの今回の本はなんですか。一体、どこが「大切なこと」なのですか、と私は遠慮なく言った。昨年三月、彼もまた西の方に逃げようと思ったことがあったという。結局やめて、再びデスクワークを開始するその時までの、心の動揺と中味をどう整理したのですか、と聞いた。彼は再び言った。「売れないと生活できない」。


 悪いものが悪い社会を作る、のではない

 もう時代は、そして私たちは昔の場所にはない。遠くまで来てしまっている。まず、自分のひっくり返ったこの場所に気付かないといけない。そう私は続けた。子どものことで気付いたことを話した。このブログで繰り返し言ってきたことだ。
 彼が言った。
「大人が教えて来なかったからだな」「社会がそんな子どもにしてしまった」
予想通りに過ぎる反応。
「コミュニケーションが不要になった」ことを、「コミュニケーションを遮断する」と、彼は意図せず変換してしまう。だから、次に彼は当然のように、
「今の子どもはそれでコミュニケーションができない」
んだな、などと言う。それは結果だ。
大切なことは、子どもたちが自販機でドリンクを購入し、ICカードで改札を通り、レジで並び無言で商品を購入する、そして寿司も流れて来たものから選んでいくということだ。そんな子どもたちは、
「コミュニケーションを必要としない/して来なかった」
というそっちの方が重要だ。彼が言うように、
「子どもはコミュニケーションを避ける」
のではない。繰り返すが「その必要がなかっただけ」だ。だから、それを必要な時と場所に出会っては面食らっているのだ。こんなことがあった。クラス替えを終えて半年もたった後だというのに、同じクラスのメンバーの名前がわからないから教えて欲しいと、担任に聞きにくるという。なんと男子が男子の名前をわからない、だから教えてというのだ。それをまた担任に聞きにくる。加えてそれが結構な人数なのだ。こんな不可思議・宇宙的妙チクリンな現実が生まれている。
 さて、このすこぶる便利な社会は、誰かが悪意を持って作ってきたわけではない。例えば、丸いものが回転する方向にエネルギーを換えることを見いだした人類が、車や自転車を作った。それはいいことでも悪いことでもない。自然な成り行きだ。私たちはその自然の成り行きを、自分の望む方向だと思ってきた。ある時はそれを「夢」と名付けて邁進した。それを誰も責めることはない。それは自分たちが選んで来た道だ。
 「天と地」「自然と人間」「未開と文明」といった二項対立を総括した近代は、未だに「悪い原因が結果を生む」ことに道を見いだし、そこに解決を探る。
「そういうのをマルクス主義というのだよ」
と、私は彼に言った。私たちの不能化した身体と能力を作り出した産業的生産様式は「スマホで炊飯の予約をする」とかいうバカなことも生んでいる。しかし同時に、鳴門の渦潮のようになった渋谷のハチ公前でも、間違いなくデートの相手を見つけられる現実を約束もしている。私たちの動機付けとなった現実まで否定することはないはずだ。これまでのことをまた繰り返そう。
○いい匂いのする
○あたたかい
家庭は、いいのだ。それが「羨望の家」であるあいだは、希望はある。
 最後に、教え子からいい感想をもらった。そのメールをこの記事の結びとする。

 最近の先生のブログを読んでいても感じたことですが…、
 今日、現場でスタッフたちと、
「で、スポーツ以外にこの国に明るい話題はないの?」
などと話していました。
で、うちに帰って思うことは…、
サンタからの贈り物を喜ぶ娘がいて、暖かい部屋と食事があり、
この国が隣国と戦争を始めたというニュースはなく、
僕には幸い明日も寒い早朝からの仕事がある。
「これ以上、なにもいらない」
とは言いませんが、ほんのり明るい現実に
「ありがたいことだな…」
と思うクリスマスであります。

             
                 (浅草スカイツリー)

 皆さん、来年もきっと試練の多い年となることでしょう。
 めげながらも、少しでもいい年にしたいものですね。
 どうぞよいお年を。


 ☆☆
ついにやられました。愛車(四輪)がぶつけられたんです。様子がおかしい車だったので、早めにブレーキを踏んでいたため、私はほぼ停止状態でした。優先道路を直進の私に対して、相手からもよく見えたはずの私の車に、左折してぶつかったのです。
過失が少しでも私にあるようなことを言うなら「出るとこ出るから」と、私は少しばかり興奮しましたね。結果、私の過失はゼロとなりました。もちろん修理は来年。
確かにたいした事故ではなかった。右前方の角を3㎝ほど陥没といったところです。色々な方が「お怪我がなくて何よりでした」と言ってくれるのです。まったくその通りです。
でも、ですよ。あと二カ月で14年目となるけれど、走行距離がまだ34000㎞の愛車は、新車同様の光沢です。それくらい大事に大切に、無傷で乗ってきたんです。朝風呂と朝寝で、紛らわしました。
いやあ、でも年の初めでなくて良かったですね、と言われてなるほどと。そういうことですね。厄を落として新しい年を迎える、それがいい。
皆さんもお気をつけて。

 ☆☆
松井選手、引退しましたね。すごい人だった。メジャーの道も残されていたと聞きます。でも、私には素敵な選択肢だったと思います。私にとって松井最悪の選択は「巨人の選手として復帰」でした。ファンやスポーツメディアが「結果がすべてだ」という身勝手を、決して松井は責めません。冷静に、そして感謝を忘れない。これからきっと、コーチの道もたくさん用意されることでしょう。できるなら石川の星稜へと思うのは、きっと私だけではないですね。

復興のレシピ  実戦教師塾通信二百三十九号

2012-12-25 12:11:49 | 福島からの報告
 忘年会&お祝い


 経営


 私がお迎えに行きますから、と言った板さんは、5時に「ふじ滝」に着いた。小名浜の店でいいところがあるんです、そう言って車は湯本から小名浜まで30分走り、通称鹿島街道を少し裏に入った。こじんまりとした、そしてこぎれいな店がそこにあった。
           
 社長さんはまだ着いていなかった。板さんが電話すると、こんな日でもないと買い物できないから、と言ったらしい。ホワイトボードだのガムテープだのと、ホームセンターでの買い物だ。
 主賓が遅れてくるならちょうどいい。私たちは先に席に座って待つ。そして、この先の話になった。板さんがどうするのか、私は聞きたかった。働いている店先では到底聞くことができないが、今日は聞ける、そう思った。軽い話ではないし、板さんの口も軽くない。しかし、板さんの腹は決まっていた。
「あと半年ですね」
軽のワゴンで、魚をあちこち売って回っていた女将さんが、避難所のサザンに板さんを見いだし、スカウトした。そもそもそれが始まりだった。
「あの頃の話と全然違うんスよ」
その後の経過は、このブログで書いた通りだ。若手を育ててからあの店を出る、という当初の考えはもうない、と言い切った。
「だから、もう何にも教えてないスね」
 その辺で社長さんが現れた。話が続いた。経営に向いていない社長さんと三人で、経営の話になった。今やっているネットでの干物販売にまつわる問題だ。要するに、ネットの力をどの程度信用したらいいものか、ということだった。おそらく、ここでもひっくり返った構造がある。ネットにどれだけ取り上げられるか、ネットでどう評価されるかという問題は、干物が美味しいかどうかとは関係がない。
 少し前だが、月に300万円の赤字を出している割烹店から相談を受けたことがある。まじめに浅草で下積みをし、力のある板前がオーナーである。親から受け継いだ店だったためか、おそらく「野心」を持った。大きい店にリニュアールした。さらに良くないことに、ベテランの板前を雇い入れた。これでうまく行くわけがない。店の経営のいろはを知らない40代の板前が、その向こうを張りかねないベテランの板前をやりくりしつつ、包丁を振るう。味と手際が対立しても、ほかのことまで頭は回らない。客は離れ、味も落ちる。回転寿司やチェーン店に負けたのではない。
 客は五人いればいい。私はその時に言った。店はひとりで始め、小さく始めるべきだった。店を大きくするのでなく、したいのなら暖簾分けという形が良かった。大切な客という、その五人は、忌憚なく言ってくれる人、美味しい!とも言うが、今日の料理は一体どうしたというのだ、ということを言ってくれる人、そんな客が五人いれば、みんなが喜ぶ料理店ができる。耳寄りの「美味しい」話は、ちゃんと伝わっていく。
 ネットは、この辺りの事情に本当は立ち入れない、と私は思っている。思い入れがない分、力は入らないし、読み手/利用者がそこまで要求しない。やらせまであるネットの指針は、やはり「数」なのだ。数といえばユニクロ。ユニクロは大企業となり、世界を席巻している。しかし何より、「羨望の服」ではないし「絶対に着たい」ものではない。「あってもいい」「一年着れればいい」「着ていて惨めなものでもない」ものだ。そんな点での便利さが受けているだけだ。
 しかし、板さんや社長さんが目指すものは違っている。
 小名浜の店は、しばし三人の話で熱くなった。


 モツ煮込み

 お通しです、と出されたのが尾頭付きまるごとのキンキの煮物。この小料理店『紫』の名物だそうだ。それが大皿に乗ってくる。そして香の物が二種類出てくる。私は目を疑い、小鉢の方がお通しで、キンキはコース料理の初めの一品ではないのか、と板さんに何度も聞いてしまった。コースは頼んでいない、だからこれはお通しなんです、と板さんが嬉しそうに言う。この「お通し」のおかげで、ほかの料理はそんなに頼めなかった。充分満喫してしまうのだ。歯が満足に残ってない社長さんは、肉を食べない。お新香も食べない。ラーメンや魚はまだ食べられる、などと言っている。そのせいなのか、料理に殆ど感想めいたことを言わない社長さんが、一体干物の味にどうこだわっているのか、そのうち攻撃しないといけないと、私は思っている。そんな社長さんを放っておいて、私と板さんは料理談義に華を咲かせた。
 頼んだ「出汁まき玉子」がでてきた。大根おろしが添えられていない。そのことを私が言うと、
「そのまま食べて欲しいからですよ」
と、料理人の気持ちを察するように言った。そして、醤油を垂らしたらいいものかどうか迷う私に、
「醤油で食べるようになってしまうから、かけない方がいいです」
と断言。出汁の風味が死んでしまうということらしい。そして、出汁まきの「出汁」が何なのか、私はあれこれ言ったが、これは鰹の本だしです、と口に含んだ板さんが言う。さらに、
「化学調味料をバカにしてはいけませんよ」
と、私の心中を察するかのように言った。ぐるぐると幾重にも巻いた玉子焼きが三角に切ってあるのは、筍の先を思わせる。それがほこほこと湯気をあげている。優しい玉子と出汁の味が、口の中を膨らんでいく。
 板さんが店を始めたら、モツ煮はやるのか、という話になった。なんと「くさの根」ですでにやっている、というのだ。いつも定食ばかり頼んでいたからか、一品料理に気がつかなかったのだろうか。以下はそのモツ煮のレシピである。ブログに載せちゃうけど、という私に、板さんはいいとは言わなかったが、ダメとも言わなかった。ので、書く。私はストーブでこれを作るつもりである。
○関西のモツ煮は醤油。関東は味噌。白味噌がいい。八丁味噌は香ばしさが味を奪う。
○入れるのはモツと大根だけ。こんにゃくもニンジンも、そして生姜も入れない。
○酢も入れない。大根がモツを柔らかくし、臭みもとる。
○大根1,5 モツ1の割合で。
以上である。確か調味料は味醂と酒だけだったと記憶している。大根の切り方や、その大きさまで言ってくれていた。ここは企業秘密で言えません、という部分はないような気がする。みなさんも是非どうぞ。復興のレシピです。


 ☆☆
そのストーブですが、先日、煙突というのか、炎があがる部分を持ち上げてうっかり落としました。あれってガラスなんですね。割ってしまったのです。そのまま使うと目が痛い痛い、とても使えない。仕方ないので、急場しのぎにエアコン!を使っていたら、先日立ち寄ったホームセンターに勤務する仲間が、お取り寄せできますよ、と注文してくれました。やれやれ、モツ煮作れます。

 ☆☆
前回の北上の林檎と一緒に梱包されていた新聞は、もちろん地方版が「いわて」です。18日付ですから選挙はすでに終わっているのですが、選挙前の岩手の様子が書かれていました。少し抜き書きします。
「小沢王国崩壊」「足早に次の遊説地に出発した。…その間、わずか15分」「集まった数十人の聴衆…反応に熱はなかった」「震災後、姿を見せない小沢氏に対する不満が被災地にはくすぶっていた」「小沢氏が初めて被災地に入ったのは今年1月」「選挙のときだけ来るなら正直来てもらいたくない」
 なんと震災から一年近く、小沢氏は被災地、しかも地元岩手に姿を見せなかったのですね。奥さんの手記はやっぱり本当なのでしょうか。小沢氏地元の盟友は今はなく、しかも袂をわかった彼らは再選。小沢氏の得票数は大きく前回を割ったといいます。選挙屋はもう終わるのでしょうか。
    
  (写真に写っていませんがスローガンの一番目が「脱原発!」です)

中央台の風  実戦教師塾通信二百三十八号

2012-12-22 15:46:44 | 福島からの報告
 今まで、そしてこれから



 引っ越しても、もらいに来ようかな


 真っ青な空が、中央台の仮設住宅の上を覆っていた。すぐそばの小学校からは、期末の短縮日課なのだろう、子どもたちが吐き出されて来ていた。午後は過ぎていたから、給食はきっとまだ続いている。でも、手には普段学校に置いてありそうな道具や作品類。学校がもうすぐ終わる。まあ、これが投稿されるころは、学校は晴れて冬休みである。
 と、こう書いてきて、自分はまだまだ学校生活に愛着を感じているのだな、と実感した次第である。学校にも春夏秋冬がある。季節は移ろい、子どもも移る。繰り返しのなかでのささやかな変化。その中で喜び、怒り、悲しみ、愛する。それがいいものだと、思える瞬間。それが「学期末」だ。そうありたいものだ。子どもたちに長期の休みで一番好きなのは、と聞くと、それは「冬休み」だと答える、ということは前も報告した。切ない気持ちも温かいイルミネーションは優しく包んでくれる。また『飛ぶ教室』を思い出してしまう。
       
(いわき駅前「富岡町・夜ノ森の桜」を模したイルミネーション。南相馬ではなかった)

 高台でだだっぴろい仮設の敷地には、強い北風が吹いていた。来年への不安をいっぱいにはらませながら、でも、集会所に集う人たちは、気丈に今日も笑っている。
 この日は確か「お風呂の日」だった。いないはずのみなさんが顔を揃えている。今日はどうしたのですか、と私が聞くと、
「いつもの『カンポ』が、都合で変わってね」
と言う。市バスが市内の仮設を回って、皆さんを拾って集めてお風呂に到着する。市内三箇所ほどの保養地を循環するという。これが今度の三月で終了する。
「続けて欲しいんですけどって言ってるんだよ」
そう常連さんが言った。
 それで別な方は、
「このお味噌や醤油も、いつまでやってくれるの?」
と私に差し向ける。私は、この仮設住宅がなくなる再来年の春までは続けると思います、と答える。
「じゃ、私、引っ越したあとももらいに来ようかな」
と言ったのは、サブリーダーさんである。彼女の家は、来年「桜の咲く頃」に完成する。彼女は復興住宅への道を拒んだ。この中央台に出来る小さなその家は、ここから歩いてものの五分のところだという。是非そうしてください、と言った私は、彼女たちが必要としているものを聞くんだったと後で思った。味噌一個、醤油一本を求めて、わざわざ彼女たちが引っ越し先から来るのではない。それを聞こうとして、いつも逃す。あと一年ある。その間に訪れるであろうチャンスをつかんで、私は聞こうと思う。その先に支援の明日がある。


 四倉の仮設、行かない方がいいよ

 もうすっかり私の顔も覚えていただけているようで、味噌を配って回る家々の方が、いつもすみませんと、私の顔を見て言ってくれる。この方ですよ、いつも味噌と醤油を、と一緒に回った班長さんが言ってくれるのも有り難かった。私ひとりでなく、おそらくは百人ぐらいの方が関わってくれているこの支援だ。協力者のみんなにも、この瞬間をうまく伝えられたらと、いつも思う。
 「どうぞよいお年を」と、もっと言いたかった。言う予定だったが、言えないものだ。やっぱり言えないものだ。
        
 終わってみなさんといつも通りおしゃべり。この二年間を総括するような流れとなった。
 会長さんが私に、琴寄さんは四倉の仮設住宅の支援に行っているのか、と言う。中央台の規模に比べると、かなり小さい仮設住宅が四倉にある、というのを私も聞いていた。あそこに行くのはやめた方がいいよ、と会長さんが言う。
 ここの中央台の仮設住宅を十戸ほどの住民が引っ越した。もともと四倉で被災した人たちなので、四倉の仮設に空きがあればそこに出たいということで、移転したのだ。だから、その事務手続きなどを工面した会長さんも関わりがあった。その後のことが朝日新聞(地方版)に大きく報道された。
 ことの発端は、四倉でもともとご近所だった大工さんが、戻ってきた人たちのために、住居内に棚を作ったことにあった。音を聞きつけたか、もとからその仮設住宅にいた人たちが、
「家にもやってくれ」「どうしてこの人たちのしかやらないんだ」
と、抗議したのだ。この仮設住宅の「元からの住民」というのが、広野町を中心とした人たちだった。この仮設住宅の名称は「広野町仮設住宅」というものだった。ちなみに、中央台の仮設は「いわき市仮設住宅」である。四倉に居を構えた広野の人たちは、
「ここは広野の場所だ」
と言った。四倉の人たちは黙っていない。
「一体どっちが元からの住民だと思ってるんだ」
そして、
「こっちはどこからも金をもらえる人間じゃねえ。オマエらは東電からしこたまもらってるじゃねえか。棚ぐらい自分の金で作れ」
と、担架を切って大騒ぎになったという。
じつは、この四倉の仮設住宅に移るにあたって、この仮設はいわきの人間の住む場所ではないので、このことは内緒に願います、という市長のことづてまで、興奮のあまり叫んでしまった。そんなことまで新聞には掲載されていた、という。
 ここからが市長の悪口である。何度か書いたが、市長が「ここ(中央台)には一度も来たことがない」という話だ。ついでに言うが、被災者が避難所暮らしを強いられていたその時点でも、市長が動かなかったことを思い起こしたい。
 去年の秋、中央台の仮設住居住民のためと言ってもいいような、「中央台郵便局」が開設された。そのオープンセレモニーに、市長は黒塗りの公用車を二台引き連れてやってきた。車はこの仮設の駐車場に停めた。集会所からも、目の前の郵便局でセレモニー・テープカットの様子が手にとるように見えた。さて、セレモニーを終えたあと、一度も顔を出したことのない市長が、今日こそはここに顔を出すだろうかと、みんな手ぐすね引いて待っていた話だ。どんな顔して車に戻り、いってしまったのか、そこは聞けなかった。
 悔しい話は続く。高齢で身体がままならない人たちが多い、この中央台の仮設だ。ちょうど側溝の工事をしている時、県の職員が来たので、
「この段差では車椅子が使えない」
とお願いをしたそうだ。県の職員は、この話が合理性を伴っている話かどうかという、役人顔丸出しで聞いた。たまらず、側溝の工事をしている現場の人たちが、もうしわけありません、と謝ったという。違うんだ、あんたたちが悪いんじゃない、悪いのはこの職員どもだと言ったという話に私は胸打たれた。

 みなさんよいお年を、来年もよろしくお願いします、と私は深々と頭を下げた。みなさんが腰をあげて、お気をつけて、と言ってくれる。


 ☆☆
この20日に、双葉の井戸川町長が議会で不信任決議されたことを知っていますね。全会一致(といっても町議全員で8名)です。この決議に、第一仮設集会所のみなさん、激怒しておりました。「住民無視の説明会欠席」「議会への相談もない」などといった不信任の理由が、まったくの言いがかりであることくらい、ニュース(全国ニュースで可能)を注目していた人なら分かります。
「新しく立候補するやつが、なにをできるというのか」
というみなさんの言う通りだと思いました。

 ☆☆
岩手・北上の敬愛する先輩から、林檎「ふじ」が届きました。「放射能の騒ぎ方が間違っている」とする先輩は、それでも「幼児には皮をむいてたべさせるといい」と書き添えてありました。この先輩から「『東電脱退』のことはどうなりましたか」と言われると、胸にガツンと来ますね。この場でみなさんにも言い訳をします。細々とやっております。いつか報告できると思います。

改正少年法  実戦教師塾通信二百三十七号

2012-12-18 18:20:35 | 子ども/学校
 少年たちの行方



 宮崎勤


 このブログでも少し触れたことがある宮崎勤のことを、みなさんも覚えていると思う。1988年から1989年まで、埼玉・東京の幼女が連続して誘拐され、殺された事件のことである。しかし、2008年、宮崎の死刑が執行されたことを、私たちのどれだけが覚えているだろう。聞けば宮崎は、絞首刑は転落死のイメージがあり、それを忌み嫌い、アメリカのような薬物での執行を申し出たという。
 悲しい事件だった。被害者の家族は愛する娘を失い我を取り戻せず、その後家庭崩壊になったところもあると聞く。また、宮崎の家族は家を逃げ、姓を変えるが、姉は決まっていた結婚も破談。父は自殺を遂げる。
 この事件は異常性欲の持ち主が起こした異常な事件だとして、世間ならびにメディアは落ち着こうとしたのではないだろうか。人々の恐れが引き起こしたパニックの最たるものは「個室」と「ホラー/ロリコンビデオ」は、健全な青少年の育成を妨げる、といったものだった。「ギニーピック」(スナッフフィルム)は、そのやり玉に挙げられた。勤被告の暮らしていた部屋におびただしい数のビデオが積み上げられていたのだ。
           
 そこで勤被告は、幼女の猥褻な画像にひたっていたという報道が、じつは正しくなかったことがあとで明らかになる。それで、その報道関係者(読売だったと思う)によって訂正が試みられたが、もう世相は雪崩をうつようだった。少し書けば、その6000本に及ぶビデオは、ニュースの録画200本を初め、映画・ドキュメントと、多義な領域にわたっており、もちろんホラー・ロリコンものもあったが、それぞれ50本と、1%だった。
 さて、凶悪犯罪が起こると、私たちは犯人に対して「こんな奴は殺してしまえ!」と言わんばかりの感情にとらわれる。恐ろしいものが居なくなってほしいという気持ちと、被害者の気持ちを思う、被害者に自分を重ねる気持ちが働くからだ。
 しかし、私たちは被害者ではない。犯人が生まれながらの凶悪人や異常人であるはずがない。被害者でない私たちは、そこを考える冷静さがあってもおかしくはないのだ。「個室」を与えるからこんな異常な人間が生まれるとか「ビデオを規制しろ」というのが、冷静な判断であるわけがない。おそらくは「個室」も含めた千にひとつの可能性というものがたくさん集中し、さらにそれらを引き受けることもないのに、個人の気質がたまたま引き受けてしまった、という偶然がたくさん重なって起こった「特異」な事件が、私たちの「震撼とした」この宮崎事件と思える。
 そこで、大切なことだが、宮崎勤が手に障害を持っていたことを知る人は、ビデオの本数の件よりもさらに知られていないのではないか。宮崎は4歳の時「とう尺骨癒合症」という診断をくだされる。掌が上に向けられない障害である。勤は幼少時にバイバイ出来なかった、お釣りを受け取れなかったという。お釣りを受け取るため仕方なく、お店の人の手を叩いてお金を落として「受け取った」こともあったという。そして重大なことだが、両親がこのことに気付かなかった。覚えている方も多いと思うが、両親は「秋川新聞」という印刷会社を経営していた。幼児期、この勤の面倒は近所の人が見ていた。この地域のおそらくは自慢の伝統と思えるが、この地域の子育てを地域の人がやることが出来た。勤の面倒をみた人がどんな人だったか、それは出版物でしか分からないので、ここではその記述をしない。しかし間違いないことは、この人は勤の障害に気付かなかったか、気付いてもそれを両親に申告しなかった。自分の不自由を両親に知られることなく育った勤は、おそらくこの乳幼児期に深い傷を負う。
            
 どんなわけがあったのだろう、なにかわけがあるに違いない、という大人の姿は、少年たちの未来を明るく照らす光になるはずなのだ。


 改正少年法

 この234号で報告した通り、訪問した法律事務所で、怠惰な私は、少年法が再び(4回目?)変わろうとしていることを知った。ここでは少しだけ抜き出してみよう。
 専門的な記述になりそうなことはあえて書かない。
 まず私たちの記憶にもある2000年改正では、なんと言っても
○刑事処分が16歳以上→14歳以上
という変化が挙げられよう。中学生での刑事処分の道が開かれた。これは1997年、あの神戸の酒鬼薔薇事件が契機となったことはいうまでもない。審判前の鑑別期間(多くがこの時「鑑別所」収容となる)が、4週間から8週間に延長になった。それがこの改正で決まったことを、またまた怠惰な私はうかつにも知らなかった。ここのところあちこちで、中学生が鑑別所に送られる事件が起きて、私はこれを知ることになった。
 2003年、長崎で4歳の男の子が性器をハサミで傷つけられ、量販店の屋上(駐車場だったと思う)から落とされて殺された事件を覚えているだろうか。この事件がきっかけで、この少年法は2007年に改正される。そして、アスペルガー症候群も脚光を浴びる。
 ここでのポイントは、それまでの福祉的措置が刑事的措置へと移行する、というものだ。

○12歳以下のものの触法少年の施設は、養護施設等「支援」を目的としていたものだった。それが少年院に送致可能となる。

この支援施設の特徴は、施設指導者が寮長・寮母となって、寝食を共にする夫婦小宿舎制というのが基本である(2005年キムタク主演のドラマ『エンジン』の舞台がここだった)。少年院送致が可能、とはそういうことだ。これは、2003年の「長崎事件」の少年が12歳であったことが裏付けになっている。

○保護観察中の遵守事項違反があれば、少年院への送致が可能となった。

知らない方のために一応説明すると、少年審判で保護観察処分を受けた場合、保護司のところに一定のインターバルで、一定期間、少年は出向いて話をする/聞く、というのが保護観察処分である。この期間に保護司が少年の更生をはかり、それを見極めるというものだ。この観察期間に、少年が新たな罪を犯すと、さらに重い処分が加わるというのが従来のあり方だった。
 しかし、少年が新たな罪を犯すのではなく、別な事項がここでは加わっている。「保護観察中の遵守事項違反」というのは、じつは罪のことではない。「学校に行く」「面会する(保護司と)」などということである。学校の欠席や保護司との面会をしないことが「罪」のポイントとなった。信頼関係を築きながら少年と相対していく、といった姿勢からは大きく遠ざかった。
 さらにこの改正後の通達で、
○触法少年には黙秘権の告知はしない。
とする。この理由が「触法行為は犯罪ではないから」というのだ。しかし、現実局面で考えてもみよう。警察が少年に、
「君のやったことは犯罪ではない。だからみんなしゃべりなさい」
とでもいうのだろうか。この法改正に加えられた、
○裁量により「国選付き添え人」をつけることができる
とした内容と共に、法務省の戦略があちこちに透けて見える。

 長くなったのでもうやめるが、これらが少年たちの今後を見ていく上で、私たちに大切なことで、知らないといけないことだと思えた。


 ☆☆
書いてて少し気になったので書きます。私は「ホラー/ロリコン」の趣味はありません。ホラーこそいくつか見ました(exホラーの金字塔「13日の金曜日(通称13金)」など)が、ロリコンは未体験です。いいもんではございませんよね? 冗談じゃございません。

 ☆☆
選挙のことですか? いやあ私も困りました。日本全国のみなさん、困り果てた結果がそのまま出たということではないのでしょうか。得票数や小選挙区の仕組みを解きながら、自民圧勝必ずしもそうではない、という分析をする方もいらっしゃいますが、とにかく前回は民主圧勝だったのですからね。国民のみなさんも自民党に期待しているわけではないと思います。三年前の暮らしがどんなだったか、少し思い出してみようか、ぐらいのものだと私には思えます。だからと言って希望はありません。

 ☆☆
今年最後の福島詣でに行って参ります。第一仮設への歳末支援は、報告した通り「白味噌」です。協力してくれるみなさんは、この「白」でずいぶん苦労をしたようです。この場を借りて御礼申し上げます。
ほかの方々も福島の暮れを温かくお見守りください。

子連れ狼  実戦教師塾通信二百三十六号

2012-12-14 11:28:23 | 子ども/学校
 シリーズ<子ども>の現在

          ~解決篇6~


 新聞配達


 前からみたいと思っていた映画を、ケーブルテレビで見ることが出来た。1979年の映画、柳町光男監督『十九歳の地図』(中上健次原作)である。
 販売店に住み込む、新聞配達の少年の話だった。高度経済成長のレールから外れていく人たちの、悲哀に満ちて切ない風景は、おそらくあの頃を育った私(たち)に、共感を呼び起こさずにはおかない。しかしここでこの映画の詳細には踏み込まない。私はこの映画を見て、幼少の自分の記憶が深い遠いところから掻きだされるのを、どうしようもなかった。

 冬の凍てついたある朝、兄はその時、小学校の高学年だったと思うが、どろだらけの姿で台所の入り口に立っていた。両手に、これも泥にまみれた新聞の束を抱えながら立っているのだ。凍った道で滑り、田んぼに落ちた、新聞がこんなでどうしよう、と母に泣くのだった。母は、(販売店の)おじさんに言っておくから大丈夫よ、となだめていた。そばでは、一緒に学校に行こうと立ち寄った近所の友だちが、なにごとかと、いや、大丈夫かとという面持ちでたくさん立っていた。私は勝手口のその光景をはっきり覚えている。なだめる母は、髪に櫛も入っていない。斜めにひしゃげた台所の軒から朝日が漏れていた。その光が、たたずんで泣き崩れる兄の上に、友だちの影を落とすのだ。そばには枯れて使えない井戸。その時の父親の記憶がない。おそらく、私たちの後ろでじっとこの様子を見ていたに違いない。父はまだこの時生きていた。
        
       (写真は昭和30年、東京・江東区の「ちゃんばらごっこ」(土門拳)である)

 この兄の新聞配達は、小遣い稼ぎと、家庭の生計を助ける両方を請け負っていた。これっぽっちの収入しかなかった父は、何かのたびに母の着物や持ち物を質屋にもちこみ、それでなんとか生活費を「工面」した。ある時、もう母の着物も残り少なくなり、それを持ち出すことに父は気後れしたのか、兄が新聞配達で稼いだお金に手を出そうとした。母は必死にそれを止め、自分の着物を持ち、自ら質屋に出向いた。
 こんな、父にとっての恥を書いたのは、その後、ほどなく亡くなった父を、家族の誰も悪く言わなかった、それが何故かを言いたかったからだ。それほど父は必死に働いた。身体は骨と皮になるまで働いた。でも、一家四人が生活するには、収入は余りにもわずかだった。母は何度も、今の仕事を考え直してください、と懇願した。こう言ってはなんだが、父がもっと収入にありつこうとすれば、それが出来るものを持っていた。でも、父は「勝手」を続けた。そして、身体はずたずたになっていった。そんな父が、母の持ち物に手をつけること、ましては息子の稼ぎをくすねることが、父にとってどんなにつらく屈辱的なことか、家族は痛いほど分かった。
 近世/近代で、貧困な家庭の娘が遊廓に売られていく時、娘は進んでそれを受け入れた、という話は、きっと理解不能なことではない。親の苦労と覚悟、屈辱と恥を、娘たちは見るに忍びなかった。


 『山の人生』

 吉本隆明も引用している(『少年』)が、柳田国男の『山の人生』の一節がある。少し長いのだが、読んでほしい。

 今では記憶している者が、私のほかには一人もあるまい。三十年あまり前、世間のひどく不景気であった年に、西美濃の山の中で炭を焼く五十ばかりの男が子供を二人まで、鉞(まさかり)で切り殺したことがあった。
 女房はとくに死んで、あとには十三になる男の子が一人あった。そこへどうした事情であったか、同じ歳くらいの小娘をもらってきて、山の炭焼き小屋で一緒に育てていた。その子たちの名前はもう私も忘れてしまった。何としても炭は売れず、何度里へ降りても、いつも一合の米も手に入らなかった。最後の日にも空手で戻って来て、飢えきっている小さい者の顔を見るのがつらさに、すっと小屋の奥へ入って昼寝をしてしまった。
 目が覚めてみると、小屋の口いっぱいに夕日がさしていた。秋の末のことであったという。二人の子供がその日当たりの処にしゃがんで、しきりに何かをしているので、そばに行ってみたら一生懸命に仕事に使う大きな斧を磨いていた。おとう、これでわしたちを殺してくれといったそうである。そうして入り口の材木を枕にして、二人ながら仰向けに寝たそうである。それを見るとくらくらとして、前後の考えもなく、二人の首を打ち落としてしまった。それで自分は死ぬことができなくて、やがて捕らえられて牢に入れられた。
 この親父がもう六十近くなってから、特赦を受けて世の中へ出てきたのである。そうしてそれからどうなったか、すぐにまた分からなくなってしまった。私は子細あってただ一度、この一件書類を読んでみたことがあるが、今はすでにあの偉大なる人間苦の記録も、どこかの長持ちの底で蝕み朽ちつつあるであろう。

 壮絶な親の「後ろ姿」だ。自分の食べる分も子どもたちに与えて、朝から晩まで働いた。そして、子どもたちには寡黙ではあっても優しい言葉をかけていた。そんなことを思わせる。それを見て、感じていた子どもたちが、親と共に「生きる」とはどういうことか、という気持ちを育てた。親と共に生きるとは、親に生命を投げ出すことだと思った。そして「斧を磨く」のだ。でないと、子どもたちの表情はこんなに透明にならない。黙々と生き、覚悟を携えた親の姿は、子どもたちに何かを教えていた。親子の覚悟/情愛は常に一緒だ、というたとえにしちゃうと、まるで『子連れ狼』(小池一雄)の拝一刀を思わせる。しかし、これは良くないたとえだったかナ。
 子どもたちに自分(親)の後ろ姿を見せなさい、子どもたちと向き合いなさい、などと評論家が言っては飯を食ってる。しかし、親の「後ろ姿」などという代物は、子どもが普段感じるものではない。生活のなかで子どもが感じた不便や不安や苦労のなかで初めて求める、そして気がつくものだ。子どもが求めた親の「後ろ姿」に答を見いだせなかった時、子どもはどうしているのだろう。
 私は、子どもの裁判、たとえばいじめをめぐる裁判の「多く」が、親の「自覚/覚悟」の欠如抜きに進められていると思えて仕方がない。一方的に相手・学校が悪いと責めるその姿勢を承認できないでいる。もちろん学校が悪くない、とは思わない。学校は悪い、ホントに。しかし、自分たちが子どもをどれだけ愛していたのか、という「無念」があまりに見当たらないのを残念に思う。以前書いた、子ども(自分たち)の家が「戻れる場所」としての家でなかったのではないか、という事柄こそが本当はこれからの長い道のりには必要なことなのだ。

 父が亡くなったあと、兄は新聞配達をやめた。勝手な私の想像だが、一部ではあっても兄が一家の生計を担うような光景を、母は固く拒んだのではないかと思えた。父なきあとだからこそ、そんなことはあってはいけない、と母が決めたと思えた。
 父が亡くなった次の年だったかどうか、とにかく間もない年明けの元旦、私は新聞配達に来た少年に、母が「お年玉」を渡しているのをみ(てしまっ)た。意外な出来事だったのだろう、受け取っていいものか相手が躊躇した姿を覚えている。私たちのお年玉さえ事欠くというのに、私は驚きでいっぱいだった。もちろん、そんなにたいした額ではなかったに違いない、じっとことの一部始終を見ていた私に、母が、正月だというのに、かわいそうに、と言った。母はこの「お年玉」を渡すために元旦の早起きをし、新聞少年の足音に聞き耳を立てていたのだ。今思い出しても、ストレートで、慈愛に満ちた言葉と思える。
                  
                  (東京・谷中の吉本隆明 撮影・荒木経惟)


 ☆☆
同じくケーブルテレビで、二カ月ほど前『忍びの者』を見ました。死ぬ前にもう一度だけでいいから見たいと思っていた映画です。なぜかこの映画、販売してない。『新忍びの者』、または『霧隠才蔵』などもレンタル、販売ありですが、私の知る限りでは、この映画だけはなかったと思います。
いや良かった。それまではドロンパだった神秘的な忍者が、実際は重なる訓練で超人的な技を身につける、というのを小説上でやったのは、この村上知義が初めてだったのじゃないですかね。上の命令に違和感を感じつつ、人間として目覚めていく五右衛門(市川雷蔵)の姿がいい。五右衛門と百地山太夫(伊東雄之助)の対決、圧巻です。

 ☆☆
私は寝る前いつも空を見上げるのですが、今の季節のこの時間、ちょうどオリオン座が南の空の真上に来てます。昨日、そのオリオンに流れ星を見ました。獅子座流星群だったのですね。