実戦教師塾・琴寄政人の〈場所〉

震災と原発で大揺れの日本、私たちにとって不動の場所とは何か

心愛ちゃん事件(補) 実戦教師塾通信六百四十号

2019-02-22 11:18:45 | 子ども/学校
 心愛(みあ)ちゃん事件(補)
     ~アクシデントが起こる場所~


 ☆初めに☆
すでに申しましたが、先生方や民間の方々にも今回の事件の細かなレポートをしています。残念ながら、仮面のような表情で聞く方々もおりました。私はずいぶん下手な話し方をしていたのでしょうか。
一方で、身を乗り出すように話を聞いてくださる方々が多かった。質疑の時間に、
「知りませんでした」
相次ぐ感想に、私は理解しました。あの仮面のような方々の表情は、
「『知りませんでした』という顔は出来ない」
というものだったのです。置かれている立場からそうなるのでしょう。
「知りませんでした」
とは、どんな場でも「言いにくい」言葉です。これが言える場所は、風通しがいい。なんて素敵な人たちなのだろうと思って、私の口もなめらかになったのです。
 ☆☆
皆さんと話す中で、私たちに出来ること/出来ないことは、何となく分かった、しかし、どうしてこういうことが繰り返されるのか、もう少し深いところまで入れないかという声を、たくさんいただきました。
事故/事件はいくつかの要因がからんで起こります。その要因のひとつひとつは、生活の中にどっしりと腰を下ろしています。いつも自覚していたはずなのに、そこで「うっかり」や「しまった!」が起きます。

 1 「脱走」を可能にする条件
 前回記事の授業中の脱走→補導を、多くの読者は「あり得ない」と思ったようです。そこから始めます。
 授業中、ある女子の「脱走」を許してしまった教科担任、過失はここから始まっています。疑いなく、この女子はこの先生を嫌いか、学校生活そのものを嫌いだった。この先生はとにかく、全面的「降参状態」だったのです。この先生は、この子との険悪なやり取りを回避することでなんとかバランスを保っていた。これが過失の原因①です。
「あいつがちゃんとやってくれたら」は、
「あいつさえいなかったら」
という気持ちになる先生は多い、というか誰でも経験します。会社でも経験することでしょう。家庭でも、
「お父さんがちゃんとしてくれたら」(「お父さんさえいなかったら」という人さえいるのです)
と思うのと似ているかも知れません。ここは大変ですが、クリアしないといけません。
 この子の脱走に際し、待て/うるさいのやり取りがある時もあるが、全く気付かないこともある。先生が「その子さえいなかったら」と思うことで「その子を見ないようにする」からです。
 その先生に対するクラス全体の「ダメな先生」という空気が充満しています。これが原因②です。だから生徒たちは、その子が出て行ったことに気付いても、その先生に言いません。その必要を持っていない。
 知らんふりをしてか、ホントに気付かずにその先生は職員室に戻り、次の先生が授業に向かう。授業者は通常、始まる前に空いた席を確認する。欠席だとか、保健室にいるとか。そんなことをいちいちやるのが、今の中学校の日常です。でも次の先生は「脱走」を確認しなかった。「そんなこともある」のです。そして、渦中の子は「行方不明」のままになった。今度もクラスの生徒は「◇◇子が脱走しました」と言わなかった。つまり、次の先生も、そのクラスから「信頼されていない」か、もっと根本的なところで、つまりこのクラスの「仲が悪い」か「学校を好きではない」という局面にあるからです。にぎやか/自由な会話のない、つまり「情報共有」が出来にくいクラス、これが原因③です。
「楽しいクラスにはいじめが起きにくい」(「起きない」ではない)
と言われるゆえんです。
 そして時は流れ、交番から「補導」の連絡が入る。
 お分かりでしょうか。アクシデントというものは常に、
「弱った部分が重なり蓄積した時に起こる」。
たとえば、卒業して「大変なのがやっと出て行った」という思いばかりがある担任や、煩雑(はんざつ)を極める年度末事務や栄転/左遷(させん)に目を奪われた管理職によって、重大な問題を抱えた子どもの「引き継ぎ事項」が引き継がれず、中学校(高校)でのクラス編成や担任配置にあたっての配慮がされない、などということも起こります。

 2 「情報が少ない」わけ
 児相(児童相談所)の職員は、ひとり当たりおよそ100件の案件(親/子どもたち)を抱えています。千葉県柏市が中核市となった2008年以降、柏にもうひとつ児童相談所設置をという声が出ているのは、そういう理由です(警察署も同じ)。
 案件の中には、電話連絡を継続する場合もあれば、接触も難しい上に、やっと面談がかなったと思えば、機関銃のように「自分の正当性」と「学校や行政の不当性」を主張する親もいます。そして、ケースが重篤(じゅうとく)なほど担当者は、
「足を遠ざけたい思い」
にとらわれます。つまり「優先順位」が揺らぎ、「急ぐ」「力を注ぐ」方ではなく「楽」な方を選ぶことがあります。当然ですが、これらは職員の「力」と「やる気」でまったく違ってきます。「こんなところ、好きで来たわけじゃない」職員には、重篤なケースは十分すぎる仕事量です。
 心愛ちゃんの事件をめぐって、ひとつだけ考えてみましょう。心愛ちゃんが野田市に転校する二カ月前、沖縄県児相は父親の母親に対するDVを「情報が少ないため判断留保」しました。転居を受けた野田市は、「支援が必要な家庭」というレベルでの把握(はあく)にとどまります。
 「情報が少ない」とは、どういうことを指すのでしょう。父親に直接聞けたのでしょうか。聞いても「そんな事実はない」と言ったはずです。また、母親本人からの情報は得られない。そして、このことを訴えた親族の声が大きくなかった/継続しなかったと考えられます。理由は、通告によって母親への暴力がさらにエスカレートするのではないか、と恐れるからです。明らかに「不幸せな顔をした母親」を前に、児相は難しい判断を迫られたことでしょう。私は「情報が少ない」とは、このことを指しているような気がしています。

 「大変な母親」が「大変そうな母親」としての認識にとどまったまま、二度にわたる家庭訪問の拒絶が続く。児相の「踏み込む」決断を妨げたのは何だったのでしょう。「もっと大変な家」があったのでしょうか。「気の重い、出来れば避けたい案件だった」からでしょうか。それとも「異動人事で迷惑な配転をされた」職員の「やる気」のボルテージが原因なのでしょうか。



 ☆後記☆
二月が駆け足で通りすぎて行きます。通学路ではない道を歩く中学生を、昼間見かけるようになりました。入試の帰り道、あるいは結果発表なんですね。いよいよ入試が始まったのです。問題集を開いて歩く女の子もいました。「次」に目が行っているのでしょう。
日差しは日を重ねるごとに温(ぬく)もりを届けます。「水ぬるむ」季節がやって来ます。春よ来い!

     今年も我が家に春を告げてくれるお雛さま。

 ついでの話で。こんなものも買いました。マツダのロードスター。

心愛ちゃん事件(下) 実戦教師塾通信六百三十九号

2019-02-15 11:50:10 | 子ども/学校
 心愛(みあ)ちゃん事件(下)
     ~「自覚」そして「覚悟/決断」~


 ☆初めに☆
私たちが今回の事件におびえているのは、この事件の犯人に対してなのでしょうか。そうではないように思えて仕方がありません。報道から透(す)けて見える日本、
「子どもを守る/育てる力を喪(うしな)った社会」
に、私たちはおびえているように思えます。昭和の後半ぐらいまで、日本は子どもたちを「みんなで」(「みんなが」ではありません)愛していました。今は全く違う。親を広大なすそ野とした子育ての地盤。「ご近所」や「地域社会(かつては集落と呼んでいた)」は、すっかり姿を変えました。
 ☆☆
でも、変貌した日本を解きほぐすことは、今回のテーマではありません。いま私たちに出来ること/出来ないこと/してはいけないことを探っていきましょう。

 1 「自覚」を促(うなが)すもの
 今回の事件は、「虐待の輪」が拡大した事件と考えています。初めは母親に対して行われ、次が心愛(みあ)ちゃんに拡大する。次にその輪は学校や市に拡大した。「ふざけるな」「裁判だ」という訴えは、窓口を恐怖に陥(おとしい)れた。このことを「モンスターペアレント」問題のひとつとしてとらえる現場の声や報道が、すでに出ています。この傾向はこの先、勢いを増すのは間違いありません。
 しかし、「モンスターペアレント」問題のほとんどは、親子が一体となった学校への抗議活動であり、担任と子どもとの間に発生した不協和音がベースとなっています。例外もありますが。この事件はその点、子ども(心愛ちゃん)は「モンスターペアレント」問題とは別な場所にいます。識別しないといけません。父親の行動に対し、学校はまず、
「これは不当な抗議だ」
「忍従することは正しいことではない」
という自覚が必要でした。
「これって心愛ちゃんが受けている『虐待』と同じではないか」
という覚醒(かくせい)が必要だったのです。しかし、それはなかった、または遅かったと思われます。この「不当性」の自覚と、その気持ちを持続することが大切でした。相手に弱みを見ると、こういう理詰めの手合いは育ってしまいます。そして学校/行政側は、相手の告発をのんでいく。つまり「虐待の輪」に呑(の)まれたと考えられます。
 どんな「自覚」にせよ、その必要性はみんな分かっています。「自覚」を促す手だてのひとつが、「情報の蓄積/共有」と言えるでしょう。「こんなことがあった/見た/聞いた」という様々な声の蓄積は、ひとつの集約点を露出させます。それはある「自覚」を迫ります。
 前回の記事で「情報の共有というものは必ず遅れる」と書きました。仕方がないのです。その上でどうすればいいのか、考えてみましょう。

 2 「報告」する「覚悟」
 いい職場かどうか、学校に行くとすぐ分かります。事務室(受付)と職員室、そして保健室。静まり返った職員室で、ささやき合うように「いつも」(ここが大事です)先生たちが話しているような学校は、いわゆる「風通しが悪い」と思っていいのです。
 私はよく、
「保健室(養護教諭)の仕事がどんな位置づけをされているかで、その学校の『力』が分かります」
と言います。
「たった一時間ぐらい(保健室に)置いとけねえのかよ」
「こっちは大変なのがたくさんいるんだぜ」
「いま誰も(保健室に)いねえじゃねえかよ」
具合が悪いというよりは、持て余してる生徒を連れて来て言う(教科)担任の言葉です。かなりシビアな例ですが、こういう先生、ホントにいるのです。保健室でこういう言い方がまかり通っている学校は、情報の共有がされにくい。ここで起こっていることは、「報告」ではなく「丸投げ」です。
 保健室の先生は大体がいい先生たちです。しかし、「実力」のあるなしが問われます。いい先生が、必ずしも子どもや学校を育てるわけではないのです。
「保健室にM子ちゃんが来ています。誰か話を聞いてくれませんか」
職員室に顔を出してこんな風に言う保健室の先生は、自分でもM子の話を聞きます。そして、関係する先生に報告をします。でも、同じ学年の先生にもM子の話を聞いてもらわないといけないと考えます。この時はこんな風に、いま何が起こっているのか、という情報の共有がされて行ったと言えるでしょう。無能な(教科)担任とやり合えば、そこでエネルギーを使い果たし、報告をすっかり忘れる(遅れる)ということも起こります。
 「報告」が意外に難しいのは、そこには必ず「相談」が含まれるからです。「相談」には、自分の対処/見解/見通しが問われるからです。二の足を踏みます。たとえば、
「授業中にS子がいなくなりました」
という報告を、あとで出来るものではありません。次の授業の先生(つまり中学校ですね)がそのことに気がつけばいいが、生徒も何も言わないしで、なんと交番から「補導」の連絡が入って初めてことの次第を知るなんていうことが、たまに起こります(滅多に起こりません)。この先生は「気がつきませんでした」と言う以外に道はないのですが、
「こら、どこに行く。待て」
なんていうやりとりを、生徒が授業中に見てる。すぐにばれます。逆に、こういう先生がする「報告」には「覚悟」が伴っています。
「授業中にS子がいなくなりました」
勇気を出して言っているのです。ここで、
「今ごろなんだ!」
「どんな対応をしたんだ!」
と言ったらダメです。向こうはやっと言ったのです。
「ありがとうございます」
がいいのです。この言葉は職場(場所)を「成熟」させます。

 では野田の事件です。父親から「娘は実家の沖縄に帰っている」と連絡を受けた時、児相に「報告」するのを学校はためらいました。学校がこの連絡をどう思い対処したのか、が問われるからです。不安をたっぷり抱えながら「報告」は遅れた。でも「報告」は「相談」ではない。
「父親から実家の沖縄に帰っているという連絡がありました」
が報告です。この「報告」で不安は共有できた。ブログの前々号で言ったのはこのことです。

 小さな「覚悟/決断」の蓄積は、大きな成長を生みます。「報告」を承認/受容する態度は、場所を「成熟」させます。それは「一日にしては成らない」ことではありますが、私たちの出来る「小さな」そして「大きな」ことです。



 ☆後記☆
電話もたくさんいただいています。これは大っきな問題だね、と電話して来たのはもういい年をした教え子からです。東京の先輩から電話があってさ、と続けたのは、
「オメエのいる柏って、野田の近くじゃねえのか」
「バカ野郎、何やってんだ!」
「街宣車(がいせんしゃ)やんねえでどうすんだ!」
って怒られちゃってさ、という話。笑っちゃいけないのでしょうか。笑ってしまいました。
 ☆☆
こんな時だからですね。「子どもテント」ってのを立ち上げられないか、という話を持ちかけられています。実現すればいいなと思っています。
野田事件のことで今週は先生方と、来週は東京で話して来ます。

     先日の雪。このぐらいならいいですね。道路は凍らなかったし。春よ来い!

 ☆☆
こういう機会なので再度お薦めします。子育て中の方、そして先生(になりたい)方、そして読者の皆さん、私の新刊読んでくださいね。


心愛ちゃん事件(上) 実戦教師塾通信六百三十八号

2019-02-08 11:57:36 | 子ども/学校
 心愛(みあ)ちゃん事件(上)
     ~私たちが出来ること~


 ☆初めに☆
これは「大人の問題」です。そういう意味では、いじめ問題と全く質を異にしています。子どもたちは息を飲むような気持ちで、大人たちの動向を見ていると思っていいのです。
私たちは一体どうしたらいいのかという願いにも似た相談を、ずいぶんいただきました。憤(いきどお)るあまり、私たちは結論を急ぎそうになります。でも、出来ることに限りはあります。一方で、出来ることはあるんだというしっかりした気持ちでいることが大切です。
 ☆☆
今、私なりに動いています。今回の事件に関し、
「一体我々がどれだけ仕事を抱えていると思ってるんだ」
と、信じられない言葉をのたまうエライ方もいらっしゃいました。じゃあ(今回の事件は)仕方がなかったのですかという質問に、この方はあわててくれたので、私もはやる気持ちを抑(おさ)えることが出来ました。でも多くの方は、この事件を「我がこと」として考えようとしている、そう実感している現在です。
あちこちで先生方に提案をする予定でいます。学校という「現場」で何が可能か、なぜ同じことが繰り返されるのか、誰かを責めるという道に陥(おちい)らないように、注意しながら考えてみましょう。

 1 現場で起こっていたこと
 たくさんの報道の中からひとつ取り上げてみます。心愛ちゃんの一時保護が解除されて親族のもとに帰されたあと、父親が学校の対応を怒っていじめアンケートのコピーを渡せ、と求めたことが繰り返し報道されています。さて考えてみましょう。
 私たちはどうしてアンケートを渡してしまったのかと思う前に、そもそも父親の怒りの矛先(ほこさき)がなぜ、アンケートに向いたのだろうと疑わないといけません。これは報道が省略、あるいは見落としてしまっている経過です。この時期、現場で起こっていたことが、こんな中からも見えてきます。
 父親は自らの虐待を否定し、だったらその根拠を示せと言った。学校はそこで踏ん張りが出来なかった。そして「根拠を示すため」アンケートのことを言ってしまった。「渡すかどうか」という問題ではありません。心愛ちゃんはこの瞬間、自分のことは自分で守るしかなくなった。そういう瞬間だった。糸満でのDV等の事実が不確実でも、家庭訪問を何度もキャンセルするなど(本当にこの手の「保護者」は多いのです)父親の不誠実はどっさりあったはずです。
「あなたの言うことは信じられません」
「裁判でもなんでも起こすといい」
と言えば、児童虐待などをしでかす「大人」は、大体が小心者です。ひるみます。
 事実をおいかけてくれる報道に感謝もするのですが、私たちは、
「犯人を探し弾劾(だんがい)する」
ところに道はないと考えています。もっとずっと手前のところ、私たちの働き方/生き方のところまでたどって問題や解決のポイントを探ろうと思うのです。

 2 遅れる情報の共有
 文科省が、各自治体教委や学校に早晩(そうばん)、出してくる通達は知れています。

◇危機感を持って情報の共有につとめ連携をはかる
◇対応が困難と感じたら、警察/裁判所など専門機関に連絡し連携をはかる

多くの方が「まったく代わり映えのしない」印象を持つと思います。現場では「こんどこそ本気でやれってか」と、つばする先生もいるはずです。学校内でことが起こった際の、無能な管理職が言う、
「どうにか出来ないのかね」
というつぶやきに似ているからです。
 気になることをひとつだけ書いておきます。学校内に弁護士を配属するのが解決の道であるという報道が、勢いよくされています。実際柏市でも、学校問題対応の弁護士はすでに配属されています。確かにそれは、相手が法律を盾にして来た時という今回のようなケースに対応出来るとは思います。でも、法律は学校や子どもを「見守る」ことは出来ない。私たちは「見守る」時点で課題を抱えています。その点を「専門家」に丸投げすることは出来ない、「不可能」という意味で出来ません。一般読者の方々にも気付いて欲しいと思う点です。
 やる気のないものあるものがいるのはどんな職場も一緒ですが、学校現場がそんなに無能なのかと言えば、そんなことはありません。「こんなことも出来ない」理由があるのです。
 今日はひとつだけ書きます。学校内での情報共有というものは、大体において遅れます。担任が問題に直面したとき、まずはそれが「問題なのかどうか」迷います。「どんなに小さなことでも」などとよく言いますが、現場を知らないから言える。たかが消しゴム一個の紛失、と初めは誰でも考える。しかし、その後の経過で担任は問題ととらえる事態になったとする。でもまだ「情報の共有」はされません。
「自分でなんとか出来る/なんとかしたい」
と思うからです。そうして多くの先生たちは、問題解決をして来ました。出来ないときはどうするんだということは、少し先に書きましょう。これが「情報共有が遅れる」理由、しかも積極的な理由です。



 ☆後記☆
次回は、学校的原則の積極面と消極面について検証します。学校での事件/事故につながる学校の基本的あり方が見えてきます。どうすればいいのか、という点についても触れることが出来ると思います。

心が冷えます。我が家で最初に春を告げてくれる梅。
春よ来い!

児童相談所 実戦教師塾通信六百三十七号

2019-02-01 12:40:26 | 子ども/学校
 児童相談所
     ~「情報の共有」が意味すること~


 ☆初めに☆
柏の児童相談所(以下「児相」と表記)が大きくクローズアップされるのは、実は二度目です。2013年、市内のマンションで無理心中事件があって、一家四人が死亡する。この事件をきっかけに、柏の児相は大きく動きます。
「当事者がこちらに距離を置こうとしても、積極的に介入しないといけない」
決意を新たにする。当時の危機感を、私は児相の職員から直接聞かされています。
でも悲しい恐ろしい事件が、起こってしまいました。野田の事件を考えます。たくさん寄せられた問い合わせにこたえるだけの材料を、私は持ち合わせてはいません。ここで考えるのは、私たちが出来ること、しないといけないことです。児相はどんな位置づけにあるのか、確認もしておきたいと思います。
私たちはテレビや新聞と同じように、これでいいのかと表面で憤(いきどお)り忘れて行ってはなりません。手だてはあるのです。

 1 「個人情報」という壁
 現役(げんえき)時代には(副)担任として、また退職後は依頼されて、様々な事情のもと私は児相に出むいている。面会もあるが、大体が「通告」、つまり「心配な事案の連絡」の作業である。その中のひとつを報告するので、詳細(しょうさい)/正確には書けないのだが読んで欲しい。
 親同士の再婚が子ども(たち)の環境を変え、問題の契機となった。その子の両親に私は何度か会った。介入することで子どもに不利益が生じてはいけない。そんな気づかいが功を奏したのか、ある日、父親は「いつかその時はお言葉に甘えさせてください」と言った。相談したいという時があったら、という意味だ。その後、その子の通う学校にも相談した。しかし事態は好転しなかった。私は児相に向かった。
 私は児相の職員にそれまでの事情を説明する。すでに児相には学校からも通告が来ている。私はその通告を補足することになる。やがて、職員がお礼とともに口を開く。
「ご両親とここで面談してくださいとお願いしたら、やっていただけますか」
事態は悪くなっていると分かっていた。だから私は、可能だったらそうお願いしたいとこたえた。実はこういう展開は珍しい。
 児相への通告後の基本的姿勢は「受理いたしました」だけだ。窓口は用心と警戒に満ちている。仕方ないのだ。その後どうなったかとか、改善の様子が見られた場合、お礼の連絡が来るなんてことはない。情報を提供されたあと、児相は「個人情報の守秘義務」の遂行(すいこう)者となる。情報提供者にも門を閉ざす。一定の「情報共有」をはかろうとすることはない。しかし、この時は違っていた。
 では次に訪れた時、どうだったか。職員の表情は違っていた。この間と同じ人なのだが、役人の顔である。両親との面談は出来ない。
「そんなことを言えば、両親から『ウチの子が児相にいることを誰がもらしたのか』と言われます」
と、両親のクレームを予想しながら言った。面談を要求したのは私からではありませんよ、と思わず釘を刺した。
 担当の二人の職員は、多分に誠意を感じた。おそらく、会議で提案したのだ。でも間違いなく頭ごなしに否定されたのだろう。こういう時、向こうには「個人情報」という壁が待っている。両親にどう説明するつもりだ/「どこから仕入れた情報だ・誰が私たち家族のことを知っているのだ」と言われるぞ等々。
 私は児相で、ある時は、お荷物を持ち込まれた迷惑そうな顔をされ、ある時は不審者を見るような目で見られた。でも、お礼を言われ「折り返し連絡差し上げます」と言われたこともあった。まぁこのケースも、折り返しの連絡はなく、それ以降のこちらからの連絡には「担当者不在」対応だった。

 2 「情報の共有」
 では通告という行為は無駄なのか。違う。まず児相は通告を受けねばならない。そして、「次」があったら通告は「二度目」とカウントしないといけない。これは何かが起こったとき「何をしていたのか」という数字ともなる。これを「不安の共有化」と言おう。このままではまずいのではないか、という根拠を「通告」は作る。千葉県には児童相談所が千葉市を始め「7つ」しかない。柏にもうひとつ児相をという声が上がるくらい発生事案は多く、職員は多忙を極めている。これ以上どうしようもないよという状況の中でも、なんとかしないといけないと思っている職員もいるのである。彼らの背中を押すのは、
「やっぱりそうだったのか」
「今のままではまずいんだ」
という情報なのだ。
 野田の事件でひとつだけ言えば、沖縄の実家に帰っているという父親の話を、学校はおそらく半信半疑で受け取った。その不安を担任や管理職がどう処理したのだろう。児相への連絡はしなかった。不安はそのままだったはずだ。児相へ連絡することの葛藤(かっとう)をすればするほど、心愛(みあ)ちゃんへの不安と危機感が大きくなっていたはずなのだが。
 「情報の共有」とは「解決に向けた話し合い」といったような、おおげさなことではない。
「父親から実家の沖縄に帰っているという連絡がありました」
でよかった。まさしく、学校が疑っている事実を別な機関と共有することが大切だった。

 近所に玄関前でずっと腰掛けている子がいるとか、家から泣き声が聞こえるとかいうことがあるとする。直接声をかけるのが一番いいが、みんなそうしない。しかし、やっぱりおかしいと思ったら、学校に出むいて情報を提供する。電話でもいい。学校に行けば、ありがとうございますと言って、その子と家庭の実態を出来る限り共有しようという学校もあるのだ。「感じていた不安は間違ってなかった」という道が共有される。そこまでは近隣の住民でも出来る。
 教師は実際どうしているのか。まず家庭連絡。家庭への「不安」通告である。相当に気づかう作業だ。でもこのくらいはやっている。これがよそのクラスの子となるとハードルが高くなる。近隣住民と立場が似てくる。でも隣のクラスと言っても感じた「不安」は通告しないといけない。そして同時に「管理職への通告」。「不安」は共有されないといけない。児相への通告はどうすればいいか。私はいつも、
「迷ったら通告、です」
と先生方に言っている。

 「不安」を共有されるところから始まる。
 悲しい恐ろしい出来事はあってはなりません。



 ☆後記☆
橋本治、亡くなりました。驚きました。ガンだったんですねえ。

68年11月の駒場祭の、今も語り種の看板。親子関係の変容、また東大を背負いこみながら東大を拒絶する矛盾に満ちた姿、この看板は日本のこの時を強烈に照らしていました。私たちとは距離を置いたエンターテイナーという認識ですが、とにかく抜け目ない。橋本氏の作品、『窯変・源氏物語』『ぼくらのsex』など結構読み散らかしたのですが、私は、最後の三部作と言われた作品中の『巡礼』が、一番滲み渡りました。
 ☆☆
なんか小室圭/真子さん報道って、結婚詐欺にしか見えませんね。
「女なんか、相手がこっちに惚れちまえば、チョロイぜ」
とでも言ってるような顔&経過ですもんねえ。確かに本人同士の問題って、結婚の原点なんですねえ。