実戦教師塾・琴寄政人の〈場所〉

震災と原発で大揺れの日本、私たちにとって不動の場所とは何か

CМ 実戦教師塾通信七百九十七号

2022-02-25 11:50:03 | 思想/哲学

 ~<いま>の「場所」・上~

 

 ☆初めに☆

相も変らぬ「小学生のかたが、多く感染されている状況……」とかいう声が流れて来ると、ちょちょっとぉ!っと、テレビにリモコンをぶつけそうになる私です。子どもが子どもらしい扱いもされないこの国は、もうお終いだと怒りまくってるわけです。

少し冷静になって、私たちの<いま>立っている場所を見直してみようと思います。今回はテレビのCМを振り返ります。そして、積み重なる(と言っても、あくまで私の中での)妙ちくりんな「言葉の問題」も、その中から見て行こうと思います。二回に分けて書きます。

 

 1 「頑張れよ!」

 先日、森永飲料のCМに、久しぶりほほ笑んだ。

「その緊張は『本気』の証だ!」

受験生の試験当日のガチガチを、積極的に取り上げてたわけである。イチローの「プレッシャーは実力の証」とは違ったアプローチだ。思い出すのが、前に取り上げた『聖教新聞』(私はとってません)のCМ。もうすぐ引っ越す女の子と、離れたところから見守って来た男の子とが取り交わすクイズ。前も書いたがもう一度。やっぱりいい。

「学校に行くと取られちゃうものは?」「出席!」

「いくら追いかけても追いつけないものは?」「自分の影!」

「一度出すと戻ってこないものは?」「答えは声!」

三つ目を言う時の女の子の顔には、迫るものがある。大体は女の子が問いも答えも出すのだが、次第にふたりの切ない思いが接近する。最後に、男の子が問題を出す。「離れても無くならないものは?」。女の子が答えに迷うか窮するのか、そして男の子の大きな声で「頑張れよ!」と結ばれる。これ、まだやってますね。たまに目にします。何度見てもあたたまる。このホッコリCМは、いっとき積水ハウスがダントツだったが、最近は楽器屋でベースをもらい受けた女の子が、カッコいいじゃ~んと、弟に褒められるやつ。ぐらいだ。

 もっと深いとは言わないまでも、面白いものがないよなあという感慨を持つ。どうだったか、そして今どうなのかという話。

 

 2 醜く疼(うず)くもの

 『バトルロワイアル』(1999年)を覚えているだろうか。中学生が生き残りをかけて殺し合うこの小説が発表されて、世間に衝撃を与えた。いまテレビを見れば、この殺し合いのシーンは平気で流れている。言うまでもない、ゲームソフト&アプリのCМだ。これが食事や団らんを問わず、休みなく流れて来る。それはまるで、家族の食事や団らんというものが希薄な、今という時代にこそやって来ているようにも思える。こういった時間・生活の中で、毎日私たちの意識下で蓄積されるものには、恐らくろくなものがない。

 33年ぶりという深津絵里・JR東海のCМが、昨年話題になった。昔を覚えておいでの方も多いだろう、JR東海の『XmasExpres』(1988年)は、約束した時間に来ない相手を新幹線ホームで待つ女の子。相手はやって来たが、斜に謝罪しつつ登場する。山下達郎の『クリスマス・イブ』がバックに流れる。ストレートに幸福が表現されないもの、として私はこのCМを記憶した。この頃なのだが、生徒が窓から外を眺めている姿に「なにセイシュンしてるの?」と声をかける子どもたちの姿をよく見た。通訳すれば、「元気か?」とか「付き合い悪いゾ」なのだ。遠慮がちに相手の心に近づく子どもたちの態度と、JR東海CМの設計が似ているように思う。ストレートな表現を回避するのは、それではうまく行かない何かが、社会に発生したからだ。恋人同士、約束の時間通りに待ち合わせて旅に出るという、単純な筋書きがメジャーでなくなった。幸せを手にすることが、ずい分大変になったみたいだナと思ったものである。最後にはやっと癒されるホーム上の女の子だが、「癒し」とは傷ついた後に生まれるものなのだ。一方、ここから十年さかのぼれば、事情は全く違った。JR「ディスカバージャパン」CМのBGMは、山口百恵の『いい日旅立ち』である。国鉄が民営化された翌年だ。何の曇りもない。「日本のどこかで/私を待ってる人がいる」。待ち受けているであろう明日を、ストレートに歌う。

 60年代の「分かっちゃいるけどやめられない」(植木等)には、ある種の恥じらいがあった。しかし今、ネットからの「やめられないですけど、ナニか?」には、恥知らずな憎悪・ヘイトがあふれている。そして再びテレビに目を移せば、そこから口臭予防だのハゲ(薄毛)対策だのと、気づかない事への喚起や、どうすることも出来ないストレスをあおっている。

 車のCМで考えよう。確かに軽自動車の自由な設計には、ホッとさせるものがある。そして電気自動車への移行は、一見前向きに見える。しかしいま積極的に推奨されているこの乗り換え路線が、実は日本ご自慢の「もったいない」をぶち壊すことに加担している。電気自動車のCМには「夢」はない。そこには「義務と責任」がはりついている。繰り返すが、こんな中で私たちには、ネガティブなものばかりが蓄積される。

 

 とりあえず、

「放っといて」「だからナニ?」「車、のりつぶします」

そして「頑張れよ!」あたりで、対処しましょうか。

 

 ☆後記☆

東欧がなんか焦げ臭いですね。思いのほか、民族問題として抱える数百年の歴史が深く横たわってます。チャンスがあったらレポートします。

久々に「和さび」のお持ち帰り。左は私が作った鶏雑炊で、右側の小鉢に収まってる発泡スチロールが「和さび」の牛すじ煮込みです。優しい、そしてあったかい

 ☆☆

いやぁ、藤井君ホントに驚きです。五冠ゲット翌日のスポーツ新聞買っちゃいました。冬季五輪の喧騒の中で、やっぱりすごい。そして昨日驚いたのが、日本芸術院会員になんと、つげ義春が入った! ちばてつやはもう驚かないけど、あのつげ義春が? いやあすごい。奥さんに「虫けら」と言われ、自ら「無能の人」と呼んで来た人です。それこそ、前回書いた「自分流」を貫き通している人。少しいい場所に引っ越せるかな。おめでとうございます!

来週は桃の節句。今年もかわいらしく、春よ来い。

最後に前回の訂正。『苦役列車』の芥川賞受賞は、2010年下半期でした。石原慎太郎の辞任発表が2012年。石原の作品解説が2012年3月とあったもので、カン違いしました。読者から指摘がありました。ありがとうございます。

「うさぎとカメ」の報告、次回にいたします


芥川賞 実戦教師塾通信七百九十六号

2022-02-18 11:18:32 | 戦後/昭和

芥川賞

 ~孤塁墜つ~

 

 ☆西村賢太☆

西村賢太が死んだ。亡くなったでなく、やはり「死んだ」のだ。タクシーの中での急変だったという。最後まで凄味があったと言うほかはない。「成功」ではなく「性交」を目指したなどと、人は言うのかも知れない。でも西村は、だからどうしたと言うに違いない。

私は西村のまとまったものとしては、芥川賞の受賞作『苦役列車』しか読んでない。でも、東日本大震災直後、風俗と満腹を求めて裏町をさまよったことを公言する、また「挫折した時にお勧めの小説を教えてほしい」という誌上相談にも、マニュアル本ばかりの世の中に言うことはないとつばをはく。そして一時期、夕方のニュース解説者だった頃は、バイトの悩みを打ち明ける女子高生に「世間知らずの甘ったれの悩み」と言って翌日には解説者をクビにされていたこと等、挙げればきりがない西村の「本音」を、私は好きだった。

石原慎太郎の推薦が無かったら、西村の『苦役列車』に出会うことはなかった。石原は2012年、芥川賞選考委員を「最近の小説がつまらなくなった」と言って辞めることを宣言した。その二か月後に、西村の作品を絶賛したのだ。酔っぱらった収監がきっかけで、西村が知ることとなった作家を忘れることは出来まい。その藤沢清造に西村が取りつかれたことを、石原はどう評価したのだろう。西村は藤沢の著作集のため「自費出版」をしている。西村がいなかったら、無名の作家なのだ。このため費やした600万円は、出版社が自己負担したらしいというのも、いかにも西村の魅力なのだ。

距離をおいてこそ、魅力を感じることが出来る。それが西村賢太だったのだと思う。さしで飲むことを躊躇させる拒絶感と、人懐こさを併せ持っていたんだと思えて仕方がない。まるで石原慎太郎を追うように死んでいる。残念だ。

 

 ☆石原慎太郎☆

死者に唾することを嫌う国民性は、石原の死後「石原節」として、肯定的にあふれ出た。民主党政権時に「尖閣列島を東京が買い取る」ことをぶち上げたことを、当時の首相が懐かしんでいる辺りは、全く絵にならない。懐かしむなら、全く解決能力の欠けていた政権で申し訳なかった、ぐらいに言って欲しかった。あるいは、そもそも中国が尖閣諸島に秋波を送るきっかけは、この海域周辺に資源のあることが判明したからだ、あの時もっと中国に毅然とした対応を取るべきだったとか……言えるわけないか。

一方その反動で、第三国発言や女性蔑視問題、障害者差別問題(津久井やまゆり園事件)などを遅ればせながら取り上げるメディアもあったりしたのだが、私が以前見た強烈な石原の「陰」は、誰も取り上げなかった。

熊本県・水俣病の患者施設を、環境大臣として石原が訪れたのは1977年だった。患者に水俣病の抗議文を手渡された石原はその夜、会見で「これ(抗議文)を書いたのはIQが低い人たちでしょう」と発言。このことで患者の前で土下座の謝罪をすることとなる。「陰」とは、土下座のことを言ってるのではない。石原が患者と初めて対面した時の映像だ。患者が不自由な身体で、石原に抗議文を手渡す場面だ。立ったままの石原は、明らかにおびえた表情で後ずさったのである。それは「畏敬(いけい)」という、相手への敬意を表すものではなかった。「恐怖」のものだった。様々な個性の強い主張を、強面(こわもて)で言って来た石原の姿は、この時完全に失せていた。この時に私が感じた「所詮は坊ちゃん・ボンボンだ」という石原への覚醒は、その後ずっと生き続ける。

そんな石原が、西村賢太を「真っ当に」評価する。『苦役列車』の解説はやっぱりいいのだ。文学の底の深さを思う。

 

 ☆『響』☆

当ブログ625号『響』が、結構読まれる日がここのところ続いた。芥川賞発表のあたりだったので、探したらヒットした、という感じだろう。原作者は、出版界の現状をよく分かってるらしい。芥川賞受賞者で、作家として今も生計をたてられてる人は、一体何人いるのだろう。私が読書特集で取り上げた芥川賞受賞作はそこそこにあるのだが、その後ほとんど生き延びていない。多くが、読者の「ないものねだり」とも言える「ニーズ」に応えようとして、安っぽいリアリティに走るからだ。「自分流」を貫いて、メジャーな芥川賞という場所に到達し出発するということをやり遂げている人は、ひと桁しかいないように思う。

もの書きのひとりとして、頑張りましょうとエールを送ります。

 

 ☆後記☆

ここのところ、私の新刊『大震災・原発事故からの復活』に、ありがたいサポートが入ってます。読者からの感想が何よりです。

「あんないい本だけど、あれは売れないな。福島のことはみんな他人事だからな」

とは、思いがけず最初に感想をくれた、剛柔流・空手道宗家の山口剛史先生です。去年暮れの電話でした。喜べない感想なのですが、やはり「いい本」が嬉しかった。ここの読者からは「もう少し内容を教えて」なるリクエストも何件かいただいてます。ということで今回、「目次」を掲載します。

改めて、まだ読んでない方、ぜひ読んで下さいね。注文は出来たら「https://bookehesc.base.shop/」まで。

 ☆☆

さて、こども食堂「うさぎとカメ」、明日となりました。お近くの方(遠くでもOK)、ぜひいらしてください。

お天気はいまいちみたいだけど、煮込んだ牛すじシチューであったまりましょう


戦争 実戦教師塾通信七百九十五号

2022-02-11 11:36:40 | 戦後/昭和

戦争

 ~天災下の弱者~

 

 ☆初めに☆

前回の予告通り「天災は弱者を襲う」という記事になります。直接関係ないところから、コロナを読み取ってもらえれば幸いです。

昨年の10月に、千葉県柏市を代表する「専門家」(当人はこう言われるのを嫌がるのですが)、N氏へのインタビューを掲載しました。N氏はコロナへの冷静な対応について、

「今は戦争なんだ。収まるのを待つしかないんだ」

と言いました。冷静な対応が困難な現状を、戦争にたとえたのです。「誰にも止められない」「みんなが同じ方向を向いてしまっている」状況を憂えたのです。まず「天災」を戦争で考えます。戦争は人間が生んだ最悪の「天災」と言えるでしょう。

 

 1 中国残留孤児

 『ソ連兵へ差し出された娘たち』(集英社)が話題になっている。満洲の敗走で、暴行や略奪を恐れた日本の移民団が、ソ連(現ロシア)兵を「接待」するために10代後半から20代前半の女性を提供した、という史実に迫る本だ。ロシア革命当時「赤軍」と呼ばれた軍隊に対し、ボリシェヴィキは民衆からの略奪・暴行は許さないと通告した。しかしそれは、勝つか負けるか生か死かという内戦状態下のことであって、それがどれだけのものだったか疑わしい。そして第二次世界大戦終了は、それから30年後である。正規軍となった「ソ連兵」は略奪した時計を腕一杯にかけ、ジャラジャラ音を立てていたという。女子への暴行も、澤地久枝や無名の方の私家版での報告など(五木寛之も)、多くを目にした。ソ連が中立条約を一方的に破って、雪崩を打つように来ることを知った軍部や高級役人・技術者は、とっくに姿を消していて、開拓民が残された。彼らを襲った中に、多くの満州人たちがいたことは前も書いた。

 こんな結末が予想出来なかったわけではない。移民政策は「入植」と称して、現地の人間が丹念に耕作した土地を安く買い上げたり、ひどい時には取り上げた。これらを「やってることは泥棒だ」と批判したのは、満州事変の仕掛人・石原莞爾(かんじ)だ。真面目だった日本人もいた。だからその後、逃げた家族に置いて行かれた子どもたちが殺されもせず育てられ、いわゆる「残留孤児」になったと思っている。

 

 2 明治維新

 明治期は「結核」の話。当時、治療に莫大な費用を必要としたこの病気は、都会のぜいたくな連中の病気と思われていた。農村には縁のないものだった。しかしこの病気は、繊維産業の勃興(ぼっこう)と共に大流行する。始めは廃藩置県なる大ナタのせいで、今の人口に換算すれば800万という士族が路頭にさまよう。これに伴い、その子女たちの仕事先として現れたのが繊維工場だ。その後、全国に建設された新規工場の増産による大量雇用の創出がされ、農村が労働力供給の機関となっていく。どうしたものか、都会の工場から帰郷した娘たちの多くが、原因不明の病気で倒れる。きれいな山間の空気を吸っていた農村の娘たちは、工場に舞う繊維の粉塵を吸うばかりではない、劣悪な宿舎と食事という結核菌の喜ぶ環境で身体をむしばまれた。

 そんな時代のもっと前にさかのぼれば、農村で「労働力」とならない女は、生まれた瞬間「間引き」の対象となった。あるいは自分を養う家計の工面のため、そして「給料の前借」でお金を家族に残すため、お父さんお母さん行ってきますと出立した。彼女たちが両親を憎むことがなかったとは、本当の話なのだろうか。また、このような遊郭への道と比して、「結核」は近代社会のもたらした改善という見方は出来るのだろうか。いずれにせよ、明治の「貧は四百四病の一番につらいもの」ということわざは、のちの時代にも当てはまった。

 かつて世界に進出した欧米が、各地に潜伏していた風土病を持ち帰った。最近ではエイズがそうだ。以前にレポートしたが、エイズはアメリカの下層労働者がアフリカに行って持ち帰ったものだ。力の弱いエイズのウィルスは、普通は感染を広げることがない。始めは同じ注射での薬物回し打ちで、この脆弱だったウィルスが拡がる。追い打ちをかけたのが、帰国後にやった血液センターへの売血である。

 貧困は病を拡散する。いや、天災は弱者を襲うのだ。

 

 ☆後記☆

いやあ、やっぱり降りましたね。雨戸を開けてびっくり!でした。雪かきしてる間にだいぶ解けたし、金木犀の枝からも落ちてしまったけど、雪景色です。愛車もちらっと見えます

オリンピック、スノボのハーフパイプだけ見てます。あの「自由」って感じが好きなんです

あと、あの愚劣なインタビュー、どうにかなりませんかね。そっとしておくという配慮・態度があるんだということを、この連中は知りませんよね。


嘔吐 実戦教師塾通信七百九十四号

2022-02-04 11:39:17 | その他/報告

嘔吐

 ~久しぶり「病者」となって~

 

 ☆初めに☆

あらかじめ断っておきますが、私のコロナ対処の基本的スタンスは「普通に生活出来ている」ものとして、ということです。病魔に苦しんでいる人たちや、子どもたちに適用できるものではありません。前回の記事に寄せられた感想を見ていると、ここんとこはっきり言っておいた方がいいナと思った次第です。今回の記事もそういう気持ちで読んでください。

どうやら久しぶりに病に罹(かか)ったらしい様子(まだ終わってない?)。改めてコロナを考えるいい機会にめぐまれた、と思っています。そんなわけで珍しく、カテゴリーは「その他/報告」としました。皆さんの参考になれば幸いです。

 

 1 30年ぶり

 日曜の夜中に吐いた。風呂に入ったあたりで、不健康なフィーリングでつばが出るなぁとは思っていた。それが突然こみ上げる、あの嫌な感じで起こされた。トイレまで間に合ってよかった。下痢は普段それなりにあるものの、吐くなんてことは、記憶をたどったら忘れもしない、30年ほど前の厄年以来だった。暴飲暴食とやらには、とんと縁のない私だ。土曜だったかに美味しいサバを食べたことを思い出したが、サバのせいにすることは許さんぞ。人間とはもろいもので、こんな時ご多分にもれず「コロナにやられた?」という思いがよぎることだ。浅ましいというか、情けない。布団に戻って考えた。熱はない。測ってないが、微熱さえもないと思われた。下痢はないし、のども普通で頭痛もない。嗅覚もOK。とりあえず「コロナではない」と思った。

 

 2 原因

 基礎疾患とやらも考えた。前にも書いたが、脊柱管狭窄症と前立腺肥大とやらを、私は「持病」にする。これらは「持病」と言えても、かまびすしい「基礎疾患」と言えるものではなさそうである。とりあえず、これらは「治る」ものではない。肝心なのは「発症or進行」するか否かである。私の病との付き合い方が奏してか、今こいつらは鎮まりかえっている。おまけに、年に一度の集団検診で、私は超がつく(と自分で思っている)健康体である。「くすり手帳」なるものを知らない私の常備薬と言えるのは目薬ぐらいのもので、医者には驚いて欲しいと思うが、医者というものは、相手に「問題」がみつけられないと不満なものらしい。「大したものだ」と言われたのは、3年ぐらい前にあっただけだ。

 誰かから移された風邪(コロナ?)というのも考えた。私を訪れる学校関係者(保護者も)が持ってきたり、私が定期的に回っている学校で移されたということもありうる。もちろんコンビニやスーパーでもありうる。でも、これらは「仕方がない」ことだ。

 我が家の家系は、呼吸器系が弱いが消化器系はイケてる。それでもやられた。私なりの結論は「疲れ」だ。こう言っては何だが、新刊を出した後の一か月、結構大変だった。本を出すというのは、そういうものだ。いつもそう思う。しかし、今まで吐いたことはない。つまり、ここに「加齢」が加わる。トシだ。

 そこでもうひとつ。加齢に伴う根底的な、「終末・最期」という野郎が控えているのかもしれない。つまり、いずれにせよ「仕方がない」という結論が健全と思われた。

 

 3 対処

 珍しく、医者に行った方がいいかなと思った。とりあえず、病院はいま大変だ。行って迷惑をするだろうなと思う。混雑する病院の待合室が、すぐに思い浮かんだ。これはこれで、健康な生活のありがたさが確認できるのでたまにはいいものだが、行かないに越したことはない。ようやく医者の前に座ったとして、今の医者が言うことは分かっている。「(PCR)検査をしましょう」。それで自宅療養やら入院という診断が下る。このご時世、陰性でも「念のため、自宅で静かに」と、医者は言うのだろう。それでまあ、治っていく。この場合、病院に行ったメリットとはなんなのだろう。行かなくとも、どっちみち治るのだ。自分が苦しいのなら、その苦しみを取り除いて欲しいというのは正しい。しかし私は、ひと晩嘔吐で苦しんだというものの、完全ではないが回復している。

 苦しんだ夜、私は梅干しを食べた。楢葉の渡部さんに頂いた梅干しである。信じられない効果を生んだ。

 40年ほどさかのぼる。生まれて初めての海外旅行から帰って、激しい下痢をする。「白い便」だった。恐怖した。知り合いの医者に診てもらうと、予想通り「コレラ」だった。家屋ごと消毒&ニュースに参上、というおぞましい情景を思った。ところが医者は、

「梅干し食べて水分取って、ゆっくりしなさい」

以上おしまい、だった。病気に驚き、処方箋?に驚いた。でもその通りにしたら治ってしまった。この時の経験以来、梅干しの殺菌力を崇拝している。確かに今回も、風邪(コロナ?)のウィルスのせいでよくある、胃のあたりのゴロゴロ重い感じを思い出した。そして今回も、梅干し効果はいかんなく発揮されたと思えた。

 風邪だったんですね、と読者は思っただろうか。そんな読者に言いたいですね。コロナなのかもしれません(まだ過去形には出来ない感じ)。大切なことは、病気の多くが、知らないうちに「移す・移る」ものだということです。そして、今までは「自分で考え耐え」ある時は医者を頼って治癒して来たものなのです。また、重篤化するか否かは、その人個人の体力・資質、そして運があるんだということです。人は死ぬんです。ってカッコ良すぎですか。

 それでも天災は弱いものを襲う、という話は次回にしましょう。

 

 ☆後記☆

晴天に誘われて、ロードワークを兼ね手賀沼を越え、我孫子まで行きました。

写真中央奥のタワマンのそばが、柏駅です。右手にはすぐ我孫子高校。春のきざしが感じられる橋の上でした。

二週間後となった2月の子ども食堂「うさぎとカメ」です。今月は、くらちゃんからいただいた牛すじで、ビーフシチューです。あったまりますよ~ そうだ、一応確認します。前回の「うさぎとカメ」は1月15日。つまり、私の病はここで移されたものではないし、私はここで病をばらまいてもいません。そして、あと三日もすれば私の病も完治するでしょう。念のため。

今月からチラシの裏側で、お便り「もしもしカメよ」も始めました。そのうちここでも、内容をお知らせしま~す。

さあ、今日は立春。節分は昨日だったけど、病気も嫌なことも飛んでけ! 鬼は外、福は内