再び「いわき自立生活センター」で
センターに来るお客さん
このセンターの所長さんも、この日ケンタッキーからの義援金を持参したお母さんも地元いわきの人である。話の途中で震災当時の話になって二人ともしみじみした。停電はそれでも一時間としないうちに復旧したというが、断水と物資不足にはほとほと参ったと二人ともこぼした。ゴールデンウィークぐらいまでの期間はみんな必死だったという。私は、もっと早く来ていれば良かったと悔やんだり、やはり当事者の持つ切実さとは違うよな、と思ったりもした。でも、大変な期間を一カ月だけでも一緒にいられたんだ、と少しホッとしたりもした。
興味を引いたのが、スーパーに行列して品物を購入した時の話。保存食・非常食や、電池・カイロなどの生活必需品はことごとくなくなっているのに、生鮮食料品だけは残っていたという。肉や魚は棚に結構あったというのだ。それで所長さんは当時泊まり込み体制となっていたセンターにどっさり肉を買い込んで、みんなでしこたま焼肉をやったという。みんな今日どうするということより、長い先の不安が優先していたということのようだ。
一年単位で考えても、こんなにいい日は数日しかないだろう、と思われる穏やかな日和の昼下がりだった。外のベランダ風の板敷きの庭、それはセンター自身から持ち出しのお金で作った小イベントにも使える空間だ。気がつくとそこにランドセルを投げ出して宿題をやっている女の子が二人いる。
ここのプレハブはリースで、本当はこのような建物に近々なる予定だったのですが、そう言って所長さんは壁に貼ってあるセンターの「完成予定図」を指さした。もともとは障害者の自立を助ける「自立生活センター」なのだ。しかし震災後、センターは周囲の広大な森があっと言う間に仮設住宅となって、被災者に囲まれることとなった。
成り行き上、ここのことばかりというわけにはいかないんですよね、そう所長さんは言った。プレハブの外を再び見やると、先の庭に建てられている、ビニールハウスのような「パオ」に老人の姿が見える。ああやって仮設からここに出向いて来るんです、今日は「整体」の日で多い時は十人くらいくるんですよ、という。もともとは障害者の身体をほぐすための定期的なイベントだったらしいが、今となっては被災した老人たちも活用する、と所長さんは言った。
元気な人とそうでない人
ニュースで「激減するボランティア」のような内容のことを、分かったふうな顔のレポーターが分かったふうに言っていた。瓦礫処理が一段落しても被災地に平穏はやって来ない、仮設住居や借り上げアパートでの、孤独でゆとりのない生活が被災者の上に訪れている、というのだ。
いい気なものだ。ニュースやら評論家とかいうしょうもない連中は、もっともらしいことと非現実的なことを混同して、全く区別出来ずにいる。それは現実というものを自分で確かめたことがないからだ。あるいは、本当の現実は少し別なところにあるのだろうかと考えずに、ふだん通りの世界に物事はあるのだ、と怠惰な生活を続けているからだ。
このニュース、またはこのレポートのダメなところは、誰でも思いつきそうな「被災者の現実」を語ること、それはいいとしよう。ダメなのは、それをサポートするためには「ボランティアが必要だ」と考えていることだ。「ボランティアの激減」が「悲惨な被災者」をますます追い込んでいるとしていることだ。そんな甘っちょろい、単純なことではない。
私たちがボランティアセンターを説得して「見守り隊」路線を立ち上げ、避難所廻りをしたことをこの通信でも何度か紹介した。その中で言ったが、避難所に出向く時の「気の重さ」、被災者と向き合う時に感じる「口幅ったさ」は、私たちを常に覆っていた。それはメンバーとして抜擢された看護士やカウンセラーでさえそうなのだ。私たちは被災者から見れば、少なくとも「頼まれてもいない」もしかしたら「歓迎されない」人種だ。被災者の三人にひとりは「何しにきた」「帰ってくれ」と言った。そんな風に言う被災者の気持ちがもちろん良く分かった。そして、逆に三人に二人は重い口を開いてくれた。だからこそ私たちはこの「避難所廻り」を続けることが出来た。それでも、この「避難所廻り」でボランティアを挫折する人は多かった。それに対して「瓦礫処理作業」で挫折する人はまずいないのだ。誰が見ても「被災者がやって欲しいこと」がそこにはあった。
でもボランティアが必要なことには変わりはない、という怠惰な間抜けは一向に納得しないだろう。こう考えてはどうか。倒壊家屋一世帯あたり5~40人で取り組んだのが瓦礫処理だ。しかし、仮設住宅の一世帯あたり必要な人員は多くとも3人ではないか。と私が言うと、ならばかつての人数で人海戦術よろしく、片っ端から仮設の被災者を見舞えばいい、くらいにトンマな連中は思うのだろう。しかし、瓦礫処理と違って、区域・区画の人たちの状況を把握していく戦略が仮設住宅廻りには必要だ。同じく、瓦礫処理と違う所は、そこを同じスタッフが何度も訪れないと意味がない。そういう点では避難所廻りと似ているともいえるのが、仮設・借り上げ住宅廻りに言えることだ。
さて、この自立生活センターでの話だ。いろんな人が来ていろんなことをやっていくんだけどねえ、そう言って所長さんは息をついだ。それによれば、被災者たちが喜ばないケースが結構あるという。被災者いわく、
「今日は三回も血圧測りにきたよ」
これは医療スタッフやボランティアが重複しての活動となっているからだ。
「次々と(ドアを)ノックされたらゆっくり昼寝もできない」
とは、被災者のリズムや都合があるということだし、
「せっかく仕事が休みの日だというのに」
という人にとって、それほど話し相手や相談が必要ではないということだろう。
組織的に元締めがしっかりししていて、計画的な支援が必要だ、などということではない。被災者との長いお付き合いの中でそれらは修正されるということだ。被災者の話を聞いて「あげる」などという、どっしようもない発想からは決して修正されることはない。
外のパオで整体マッサージを受けている老人を見ながら、所長さんは言った。ああしてここまで出てくる老人たちはその元気があるからいいんです、あの人たちは誰かと話したいという意欲を持っている、本当はここまで出てこようとしない人たちが支援を必要としているんです。しかし、と所長さんは続ける。私たちが出向いてもその人たちは口を開かない、アル中やひきこもりのその人たちの橋になってくれるのは、あの、ここまで出向いてくる老人達なんです、と外をじっと見た。つい先日も、家の中で倒れていた住人に気付き、間一髪で踏み込んで助けたという。それに気付いたのはやはり「元気な」老人なのだ。
まだまだこれからだぞ。
☆☆
高速料金無料、復活しました。いきさつは次号で報告します。味わい深い里山の道も、これから厳寒の時を迎えるからちょうど良かったかな。
☆☆
昨日の日曜、叔母の四十九日の法要がありました。その席上で、やはり多くの人が「震災のその後」「原発の今」を語るのでした。お坊さんも自ら被災地に出向いた時の話をしていましたが、「自分だけが知っている」という態度って、醜いものですね。気をつけないといけませんね。
「教え子h」君からコメント入りました。こんな風に、やはり人柄は出る、出てしまうものなのですね。「謙虚に」というより、「ちゃんと見よう」としているとこうなるのだなあ、と思いました。
☆☆
今日郵便局にいった時、隣で手続きしていた奥さんが「放射能は大丈夫ですか」と局員に聞かれていました。その奥さんは「飯坂だし、大丈夫です」と答えている。気になってしょうがなくなりました。郵便局からでてきた奥さんを見ると、その手に荷物はなかった。奥さんは送り主だということです。福島の飯坂に荷物を送る奥さんが「放射能は大丈夫ですか」と聞かれたことになります。荷物の中味のことできかれたのだろうか。でも、それでは話がまったく意味プーになってしまう。ということは残された解釈の道は…
きっとお見舞いの言葉だったのでしょうね。
センターに来るお客さん
このセンターの所長さんも、この日ケンタッキーからの義援金を持参したお母さんも地元いわきの人である。話の途中で震災当時の話になって二人ともしみじみした。停電はそれでも一時間としないうちに復旧したというが、断水と物資不足にはほとほと参ったと二人ともこぼした。ゴールデンウィークぐらいまでの期間はみんな必死だったという。私は、もっと早く来ていれば良かったと悔やんだり、やはり当事者の持つ切実さとは違うよな、と思ったりもした。でも、大変な期間を一カ月だけでも一緒にいられたんだ、と少しホッとしたりもした。
興味を引いたのが、スーパーに行列して品物を購入した時の話。保存食・非常食や、電池・カイロなどの生活必需品はことごとくなくなっているのに、生鮮食料品だけは残っていたという。肉や魚は棚に結構あったというのだ。それで所長さんは当時泊まり込み体制となっていたセンターにどっさり肉を買い込んで、みんなでしこたま焼肉をやったという。みんな今日どうするということより、長い先の不安が優先していたということのようだ。
一年単位で考えても、こんなにいい日は数日しかないだろう、と思われる穏やかな日和の昼下がりだった。外のベランダ風の板敷きの庭、それはセンター自身から持ち出しのお金で作った小イベントにも使える空間だ。気がつくとそこにランドセルを投げ出して宿題をやっている女の子が二人いる。
ここのプレハブはリースで、本当はこのような建物に近々なる予定だったのですが、そう言って所長さんは壁に貼ってあるセンターの「完成予定図」を指さした。もともとは障害者の自立を助ける「自立生活センター」なのだ。しかし震災後、センターは周囲の広大な森があっと言う間に仮設住宅となって、被災者に囲まれることとなった。
成り行き上、ここのことばかりというわけにはいかないんですよね、そう所長さんは言った。プレハブの外を再び見やると、先の庭に建てられている、ビニールハウスのような「パオ」に老人の姿が見える。ああやって仮設からここに出向いて来るんです、今日は「整体」の日で多い時は十人くらいくるんですよ、という。もともとは障害者の身体をほぐすための定期的なイベントだったらしいが、今となっては被災した老人たちも活用する、と所長さんは言った。
元気な人とそうでない人
ニュースで「激減するボランティア」のような内容のことを、分かったふうな顔のレポーターが分かったふうに言っていた。瓦礫処理が一段落しても被災地に平穏はやって来ない、仮設住居や借り上げアパートでの、孤独でゆとりのない生活が被災者の上に訪れている、というのだ。
いい気なものだ。ニュースやら評論家とかいうしょうもない連中は、もっともらしいことと非現実的なことを混同して、全く区別出来ずにいる。それは現実というものを自分で確かめたことがないからだ。あるいは、本当の現実は少し別なところにあるのだろうかと考えずに、ふだん通りの世界に物事はあるのだ、と怠惰な生活を続けているからだ。
このニュース、またはこのレポートのダメなところは、誰でも思いつきそうな「被災者の現実」を語ること、それはいいとしよう。ダメなのは、それをサポートするためには「ボランティアが必要だ」と考えていることだ。「ボランティアの激減」が「悲惨な被災者」をますます追い込んでいるとしていることだ。そんな甘っちょろい、単純なことではない。
私たちがボランティアセンターを説得して「見守り隊」路線を立ち上げ、避難所廻りをしたことをこの通信でも何度か紹介した。その中で言ったが、避難所に出向く時の「気の重さ」、被災者と向き合う時に感じる「口幅ったさ」は、私たちを常に覆っていた。それはメンバーとして抜擢された看護士やカウンセラーでさえそうなのだ。私たちは被災者から見れば、少なくとも「頼まれてもいない」もしかしたら「歓迎されない」人種だ。被災者の三人にひとりは「何しにきた」「帰ってくれ」と言った。そんな風に言う被災者の気持ちがもちろん良く分かった。そして、逆に三人に二人は重い口を開いてくれた。だからこそ私たちはこの「避難所廻り」を続けることが出来た。それでも、この「避難所廻り」でボランティアを挫折する人は多かった。それに対して「瓦礫処理作業」で挫折する人はまずいないのだ。誰が見ても「被災者がやって欲しいこと」がそこにはあった。
でもボランティアが必要なことには変わりはない、という怠惰な間抜けは一向に納得しないだろう。こう考えてはどうか。倒壊家屋一世帯あたり5~40人で取り組んだのが瓦礫処理だ。しかし、仮設住宅の一世帯あたり必要な人員は多くとも3人ではないか。と私が言うと、ならばかつての人数で人海戦術よろしく、片っ端から仮設の被災者を見舞えばいい、くらいにトンマな連中は思うのだろう。しかし、瓦礫処理と違って、区域・区画の人たちの状況を把握していく戦略が仮設住宅廻りには必要だ。同じく、瓦礫処理と違う所は、そこを同じスタッフが何度も訪れないと意味がない。そういう点では避難所廻りと似ているともいえるのが、仮設・借り上げ住宅廻りに言えることだ。
さて、この自立生活センターでの話だ。いろんな人が来ていろんなことをやっていくんだけどねえ、そう言って所長さんは息をついだ。それによれば、被災者たちが喜ばないケースが結構あるという。被災者いわく、
「今日は三回も血圧測りにきたよ」
これは医療スタッフやボランティアが重複しての活動となっているからだ。
「次々と(ドアを)ノックされたらゆっくり昼寝もできない」
とは、被災者のリズムや都合があるということだし、
「せっかく仕事が休みの日だというのに」
という人にとって、それほど話し相手や相談が必要ではないということだろう。
組織的に元締めがしっかりししていて、計画的な支援が必要だ、などということではない。被災者との長いお付き合いの中でそれらは修正されるということだ。被災者の話を聞いて「あげる」などという、どっしようもない発想からは決して修正されることはない。
外のパオで整体マッサージを受けている老人を見ながら、所長さんは言った。ああしてここまで出てくる老人たちはその元気があるからいいんです、あの人たちは誰かと話したいという意欲を持っている、本当はここまで出てこようとしない人たちが支援を必要としているんです。しかし、と所長さんは続ける。私たちが出向いてもその人たちは口を開かない、アル中やひきこもりのその人たちの橋になってくれるのは、あの、ここまで出向いてくる老人達なんです、と外をじっと見た。つい先日も、家の中で倒れていた住人に気付き、間一髪で踏み込んで助けたという。それに気付いたのはやはり「元気な」老人なのだ。
まだまだこれからだぞ。
☆☆
高速料金無料、復活しました。いきさつは次号で報告します。味わい深い里山の道も、これから厳寒の時を迎えるからちょうど良かったかな。
☆☆
昨日の日曜、叔母の四十九日の法要がありました。その席上で、やはり多くの人が「震災のその後」「原発の今」を語るのでした。お坊さんも自ら被災地に出向いた時の話をしていましたが、「自分だけが知っている」という態度って、醜いものですね。気をつけないといけませんね。
「教え子h」君からコメント入りました。こんな風に、やはり人柄は出る、出てしまうものなのですね。「謙虚に」というより、「ちゃんと見よう」としているとこうなるのだなあ、と思いました。
☆☆
今日郵便局にいった時、隣で手続きしていた奥さんが「放射能は大丈夫ですか」と局員に聞かれていました。その奥さんは「飯坂だし、大丈夫です」と答えている。気になってしょうがなくなりました。郵便局からでてきた奥さんを見ると、その手に荷物はなかった。奥さんは送り主だということです。福島の飯坂に荷物を送る奥さんが「放射能は大丈夫ですか」と聞かれたことになります。荷物の中味のことできかれたのだろうか。でも、それでは話がまったく意味プーになってしまう。ということは残された解釈の道は…
きっとお見舞いの言葉だったのでしょうね。