実戦教師塾・琴寄政人の〈場所〉

震災と原発で大揺れの日本、私たちにとって不動の場所とは何か

実戦教師塾通信九十九号

2011-10-31 14:44:55 | ニュースの読み方
再び「いわき自立生活センター」で


 センターに来るお客さん


 このセンターの所長さんも、この日ケンタッキーからの義援金を持参したお母さんも地元いわきの人である。話の途中で震災当時の話になって二人ともしみじみした。停電はそれでも一時間としないうちに復旧したというが、断水と物資不足にはほとほと参ったと二人ともこぼした。ゴールデンウィークぐらいまでの期間はみんな必死だったという。私は、もっと早く来ていれば良かったと悔やんだり、やはり当事者の持つ切実さとは違うよな、と思ったりもした。でも、大変な期間を一カ月だけでも一緒にいられたんだ、と少しホッとしたりもした。
 興味を引いたのが、スーパーに行列して品物を購入した時の話。保存食・非常食や、電池・カイロなどの生活必需品はことごとくなくなっているのに、生鮮食料品だけは残っていたという。肉や魚は棚に結構あったというのだ。それで所長さんは当時泊まり込み体制となっていたセンターにどっさり肉を買い込んで、みんなでしこたま焼肉をやったという。みんな今日どうするということより、長い先の不安が優先していたということのようだ。

 一年単位で考えても、こんなにいい日は数日しかないだろう、と思われる穏やかな日和の昼下がりだった。外のベランダ風の板敷きの庭、それはセンター自身から持ち出しのお金で作った小イベントにも使える空間だ。気がつくとそこにランドセルを投げ出して宿題をやっている女の子が二人いる。
 ここのプレハブはリースで、本当はこのような建物に近々なる予定だったのですが、そう言って所長さんは壁に貼ってあるセンターの「完成予定図」を指さした。もともとは障害者の自立を助ける「自立生活センター」なのだ。しかし震災後、センターは周囲の広大な森があっと言う間に仮設住宅となって、被災者に囲まれることとなった。
 成り行き上、ここのことばかりというわけにはいかないんですよね、そう所長さんは言った。プレハブの外を再び見やると、先の庭に建てられている、ビニールハウスのような「パオ」に老人の姿が見える。ああやって仮設からここに出向いて来るんです、今日は「整体」の日で多い時は十人くらいくるんですよ、という。もともとは障害者の身体をほぐすための定期的なイベントだったらしいが、今となっては被災した老人たちも活用する、と所長さんは言った。


 元気な人とそうでない人

 ニュースで「激減するボランティア」のような内容のことを、分かったふうな顔のレポーターが分かったふうに言っていた。瓦礫処理が一段落しても被災地に平穏はやって来ない、仮設住居や借り上げアパートでの、孤独でゆとりのない生活が被災者の上に訪れている、というのだ。
 いい気なものだ。ニュースやら評論家とかいうしょうもない連中は、もっともらしいことと非現実的なことを混同して、全く区別出来ずにいる。それは現実というものを自分で確かめたことがないからだ。あるいは、本当の現実は少し別なところにあるのだろうかと考えずに、ふだん通りの世界に物事はあるのだ、と怠惰な生活を続けているからだ。
 このニュース、またはこのレポートのダメなところは、誰でも思いつきそうな「被災者の現実」を語ること、それはいいとしよう。ダメなのは、それをサポートするためには「ボランティアが必要だ」と考えていることだ。「ボランティアの激減」が「悲惨な被災者」をますます追い込んでいるとしていることだ。そんな甘っちょろい、単純なことではない。
 私たちがボランティアセンターを説得して「見守り隊」路線を立ち上げ、避難所廻りをしたことをこの通信でも何度か紹介した。その中で言ったが、避難所に出向く時の「気の重さ」、被災者と向き合う時に感じる「口幅ったさ」は、私たちを常に覆っていた。それはメンバーとして抜擢された看護士やカウンセラーでさえそうなのだ。私たちは被災者から見れば、少なくとも「頼まれてもいない」もしかしたら「歓迎されない」人種だ。被災者の三人にひとりは「何しにきた」「帰ってくれ」と言った。そんな風に言う被災者の気持ちがもちろん良く分かった。そして、逆に三人に二人は重い口を開いてくれた。だからこそ私たちはこの「避難所廻り」を続けることが出来た。それでも、この「避難所廻り」でボランティアを挫折する人は多かった。それに対して「瓦礫処理作業」で挫折する人はまずいないのだ。誰が見ても「被災者がやって欲しいこと」がそこにはあった。
 でもボランティアが必要なことには変わりはない、という怠惰な間抜けは一向に納得しないだろう。こう考えてはどうか。倒壊家屋一世帯あたり5~40人で取り組んだのが瓦礫処理だ。しかし、仮設住宅の一世帯あたり必要な人員は多くとも3人ではないか。と私が言うと、ならばかつての人数で人海戦術よろしく、片っ端から仮設の被災者を見舞えばいい、くらいにトンマな連中は思うのだろう。しかし、瓦礫処理と違って、区域・区画の人たちの状況を把握していく戦略が仮設住宅廻りには必要だ。同じく、瓦礫処理と違う所は、そこを同じスタッフが何度も訪れないと意味がない。そういう点では避難所廻りと似ているともいえるのが、仮設・借り上げ住宅廻りに言えることだ。
 さて、この自立生活センターでの話だ。いろんな人が来ていろんなことをやっていくんだけどねえ、そう言って所長さんは息をついだ。それによれば、被災者たちが喜ばないケースが結構あるという。被災者いわく、
「今日は三回も血圧測りにきたよ」
これは医療スタッフやボランティアが重複しての活動となっているからだ。
「次々と(ドアを)ノックされたらゆっくり昼寝もできない」
とは、被災者のリズムや都合があるということだし、
「せっかく仕事が休みの日だというのに」
という人にとって、それほど話し相手や相談が必要ではないということだろう。
 組織的に元締めがしっかりししていて、計画的な支援が必要だ、などということではない。被災者との長いお付き合いの中でそれらは修正されるということだ。被災者の話を聞いて「あげる」などという、どっしようもない発想からは決して修正されることはない。
 外のパオで整体マッサージを受けている老人を見ながら、所長さんは言った。ああしてここまで出てくる老人たちはその元気があるからいいんです、あの人たちは誰かと話したいという意欲を持っている、本当はここまで出てこようとしない人たちが支援を必要としているんです。しかし、と所長さんは続ける。私たちが出向いてもその人たちは口を開かない、アル中やひきこもりのその人たちの橋になってくれるのは、あの、ここまで出向いてくる老人達なんです、と外をじっと見た。つい先日も、家の中で倒れていた住人に気付き、間一髪で踏み込んで助けたという。それに気付いたのはやはり「元気な」老人なのだ。
 まだまだこれからだぞ。


 ☆☆
 高速料金無料、復活しました。いきさつは次号で報告します。味わい深い里山の道も、これから厳寒の時を迎えるからちょうど良かったかな。

 ☆☆
 昨日の日曜、叔母の四十九日の法要がありました。その席上で、やはり多くの人が「震災のその後」「原発の今」を語るのでした。お坊さんも自ら被災地に出向いた時の話をしていましたが、「自分だけが知っている」という態度って、醜いものですね。気をつけないといけませんね。
 「教え子h」君からコメント入りました。こんな風に、やはり人柄は出る、出てしまうものなのですね。「謙虚に」というより、「ちゃんと見よう」としているとこうなるのだなあ、と思いました。

 ☆☆
 今日郵便局にいった時、隣で手続きしていた奥さんが「放射能は大丈夫ですか」と局員に聞かれていました。その奥さんは「飯坂だし、大丈夫です」と答えている。気になってしょうがなくなりました。郵便局からでてきた奥さんを見ると、その手に荷物はなかった。奥さんは送り主だということです。福島の飯坂に荷物を送る奥さんが「放射能は大丈夫ですか」と聞かれたことになります。荷物の中味のことできかれたのだろうか。でも、それでは話がまったく意味プーになってしまう。ということは残された解釈の道は…
 きっとお見舞いの言葉だったのでしょうね。

実戦教師塾通信九十八号

2011-10-28 15:33:10 | その他/報告
「柏市長と話そう」タウンミーティング


 いささか拍子抜けではあったが


 柏市長は秋、行政単位ごとに、タウンミーティングという形で柏市民と対話しています。前回お知らせした通り、私もこの集会に参加しました。目的はもちろん柏市長の「原発」「放射能」に対する考えを聞きたいからです。
 私がここに引っ越したのは最近なのですが、この地域は六年前に柏市と合併したところです。沼南地区と呼ばれるこの地域でのタウンミーティングは、中央公民館で日曜日に、会議室をほぼ満席にした100人ほどの住民を相手に行われました。「こんなにたくさんの人が来ている」という発言者の言い方からすると、前回はそんなに来ていなかったのでしょうか。タウンミーティングは二度目です。

 さて、市長からの報告は市の財政の厳しい状況と、合併後の沼南地区での問題点で終始した。前日、異常に高い数値でテレビや新聞のニュースを賑わした柏市根戸地区のことにさえ触れなかった。会場の参加者の顔ぶれは、確かにリタイア組が多いのだが、若い夫婦や母親の姿も見えるので、間違いなく放射能の不安に駆られてきていると思えた。
 質問のコーナーでは、地域色の濃い、たとえば新興住宅地での学校新設のことや、サービスの不平等感などが多く出された。それでも、自分で購入した放射線測定器で散歩している高齢の方の不安も出され、少し安心した。前の方の人たちばかりが発言するし、挙手しているようにも見えないので、私は近くの職員に、質問者は決まっているのですか、と聞くが、いえそんなことはありません、というので一番後から手をあげた。

 前回の「広報かしわ」の『放射線Q&A』に、

Q福島の事故以前から放射線を浴びているというのは本当ですか。
A…自然放射線の量は地域による差が大きく…このような地域(数値の高い地域)でも、健康影響が発生しているという明確な証拠はありません。

Q被ばくして、ガンになるのが怖いのですが
A…放射線は、遺伝子や細胞を傷つける可能性はありますが、ほとんどの場合、その傷ついた遺伝子や細胞は、自ら修復されていきます。その中で…がんになる可能性があります。…少量の被曝(なぜか広報では「被ばく」としています)で、将来必ずがんにあるわけではありません。放射線の感受性が高いとされている小児においても、100㎜シーベルト以下の被曝で発がんする確立の変化については、明確な根拠は得られていません。

と、とても気になる記述があった。その真意を聞きたかった。「明確な根拠がない」ことは「安心である」ことではない。それを分かっていながらの回答となっている。「意地悪な言い方をすれば」と、私は「何十年か後に良くない医学的データがでた時、あの時私たち(柏市)は『安全である』とは言わなかった」の言い訳にも使える答え方になりはしないか、とチェルノブイリやスリーマイルでの統計データを示しながら聞いた。チェルノブイリ周辺、とりわけベラルーシ地区での原発事故による罹患と思われる疾病・ガンの発生が住民の3人にひとり、スリーマイル周辺での白血病発生率が三倍に跳ね上がっていることを示した。そういう「不安」をきちんと示すのも「安心のため」なのであって、無用な心配=杞憂だ、と納めにかかる姿勢でいいのだろうか、と言った。
 市長の回答はとても丁寧で穏やかなのだが、要するに「色々な学者が様々な学説を言っていて、どれが正しいのか」断定出来ないということに終始する。もう私たちは何度も耳にしている「飛行機の乗務員が浴びる高数値の自然放射線と、それに相応する結果の未解明な部分」、あるいは世界各地の自然放射線の高い地域での病気発生率などをあげた。これは簡単に調べられる。たとえばイランのラムサールでは最高値265㎜シーベルト、年間10,2㎜シーベルト、インドのケララでは最高値35㎜シーベルト、年間3,8㎜シーベルトである。イランの放射線は地下鉱物の温泉がもたらすものだといわれているが、確かに医療データは不確からしい。
 市長は、要らない不安に振り回されることなく、冷静に判断したいという行政の正統な路線を行っているのだ。しかし、今となっては「ただちに健康被害の心配はない」とした3、4月の国の対応は、避難指示も放射能対処法もデタラメだったことを露呈している。大切なのは「情報の公開」とその上で「分かっていること、いないこと」の開示である。
 もし良かったら残って続きを話し合えればという市長の進言で、私は「まだ言い足りない」人たち十人ぐらいと残った。そこでは若い母親が不安を口にした。私は「除染」をどうするのか、それが福島では南相馬市といわき市とでは全く違うレベルであること、南相馬市では厳密に生活領域全般に範囲がおよぶのに対し、いわき市では公共的な空間に限定されることなどをあげて「除染」の考え方を聞きたいとした。
 市長の回答は「今日は柏市合併のことが主要な議題なので」あとできちんと、ということで実にあっけなく終わった。ただ、あの児玉達彦氏、皆さんも御存知かと思うが、東大アイソトープ研究所長で「国は福島の人たちを見殺しにするのか」と国会で質疑したあの児玉達彦のことに市長が触れた。放射能対策及び除染のことは「柏市を参考にしたい」と児玉達彦は言っているのだが、その児玉氏は南相馬市の放射能対策を担当しているのだ。
 集会が終わると市長は私のところに来て「放射能のことに関しては別に集会をうちますので」と言った。どうなるかな。


 ☆☆
 夏にケンタッキーはデトロイトからやってきた娘さんに依頼された「多くも少なくもない」(本人いわく)義援金、今回めでたく「いわき自立生活センター」に納まりました。お母さんと共に安心して委託して参りました。この三カ月、長かったなあ。でも、慌てて放出しなくて良かった。お金がないところ、そして相手の顔が見える場所に、と考えて探したのですが、意外とないものですね。
 仮設の現状とともに次回報告いたします。

 ☆☆
 この通信でも一度話題にしたイギリスの「原発使用済み核燃料再処理セラフィールド工場」覚えてますか。70年代に大事故を起こし大量の汚染水を流出した工場です。もう少し復習しておきましょう。この地域でガン発生率が増え続けているというレポートをイギリスのテレビが放映したのが1983年、このことがきっかけで国際放射線防護委員会(ICRP)が年間被曝量を1㎜シーベルトと設定するのが1989年です。
 さて、このセラフィールドに日本が再処理を依頼していた事実も、この大事故も日本のメディアは口を閉ざして、上杉隆言う所の「横並び」でいました。実はこの工場、閉鎖されます。相も変わらずこの工場は故障続きで操業していたらしいですが、閉鎖理由は「福島の事故があったので、日本からの依頼はなくなるから」ということでした。
 このニュース、皆さんはどこかで見ましたか、聞きましたか。私がこれを知ったのは「福島民友」の三面、四段抜き『日本の数十億円無駄に』という記事です。こんな大切な記事ですが、メディアは今さらこれをニュースには出来ないということでしょうか。日本でセラフィールドは黙殺され続けています。


実戦教師塾通信九十七号

2011-10-24 15:29:46 | 福島からの報告
NPO法人 いわき自立生活センター


 東電の姿勢、双葉郡の住民


 さんざん迷ったあげく、私はホテルサザンやその他の仲介を頼ることなく、仮設住宅の方へうかがうことにした。
 いわきの駅前の通りを東に走って、そこから通称「鹿島街道」に抜けるとほどなく、中央台に向かって上がる坂の大きい交差点に出る。そこを登っていくと右手に楢葉の臨時町役場、その少し先の左手に明星大学、やがて奥に同じ作りの建物群が見えてくる。左手には丸太風木造の一戸建てがびっしりと並び、小さな何もない庭先に洗濯物が下げられていたりするのが見えてくる。反対側の右手はプレハブの家が同じく軒を連ねている。仮設住宅が建てられている区域はかなり広いのだが、この地域全体を見れば立派な家々が並んでいて、仮設はこの「文教地区」の一画という印象であった。
 私はその仮設の区画に大きい建物を探した。そしてプレハブ群の中にそれをみつけた。同じ作りではあるが、住居と比べるとその2、3倍はあろうかというそのプレハブには「いわき自立生活センター」という看板がかかっていた。すのこ風に板敷きにされた庭には、三個ほどの「パオ」と呼ばれる多目的空間があった。大きいプレハブでは、作業中の部屋を隣にした事務室で六人ぐらいの職員が座っていた。窓口で女性の職員と話していると、所長さんが、じゃあ私が、と腰をあげて奥に案内された。そこで所長さんから聞かされた話は「双葉郡の住民がかかえる問題点」ばかりだった。
 東電は9月30日に原発事故に伴う損害賠償の基準を発表した。悪名高い請求書60ページ、案内冊子160ページに及ぶその内容と、それへの「合意の強要」に今は触れないが、その補償金のことで所長さんはひどく頭を悩ますという。
 3月の事故の日からから8月31日の分まで、3カ月に区切りながらの「精神的損害」に対する賠償がある、それを見てみよう。「避難所」で暮らした人たちには、月々家族一人当たり12万円、「仮設」で暮らした人たちには同じく10万円、「借り上げ住宅」の場合は8万円支払われる。この他に避難費用や就労不能損害があり、一次見舞金に関しては100万円を春に支給されている。もちろんこの金額が高いレベルのものであるわけがない。作った工場を仕方なく放棄した人、ローンがたくさん残った家を出て来た人、大切に育てた牛を残して来た人たちにとってはお賽銭のようなものだ。そんなことはこの所長さんにも分かっている。でも、所長さんはこぼす。

①何もしないで月々の生活費がはいってくる。今の生活をする上では困らない金額だ。時間と金があり余っているのはいいことなのだろうか。悪徳商法や詐欺の温床ともなる。
②だから支援をする時の姿勢として、物資を「ただ」で供給するということがいいことだとは思えない。そのくらいのお金はある。これから始まる冬物(の古着)についてもそうだ。このセンターと関係のある古着屋にたのめば、週に10トン単位で仕入れた服の中から精選して持ってきてくれる。
③この双葉郡の住民は、仕事も生活もすべて東電に依存して来た人たちが多い。いつまでもそれでいいという気持ちでいては困る。

 今までは地元で祭りがあると言えば、お金がいくら欲しいのか、手伝いの助っ人を20人派遣しましょう、と東電は注文された通りの「サービス」をしてきたという。住民がこれからもそんな気持ちでいたら支援はままならない、だから今月行う(23日開催ズミ)「芋煮会」でも、私たちはみんなに「包丁とまな板を持って来い」と言っている、と所長さんは言った。
 話を聞いていて私は、様々な双葉郡住民をめぐる話を思い出した。8月31日に閉鎖した郡山の避難所「ビッグパレット」では、支援物資のサンバイザーを見た双葉町の奥さんが「私、ゴルフをやるからこれがいい」と言ったという話。物資を持って行ったその方は、ゴルフをたしなむというその奥さんの声を何度も頭の中で繰り返してしまったという。その隣では牛一頭あたりナンボの計算で合計数千万だ、と飛び上がる牧場主の歓声が聞こえたという。
 このブログでも報告したが「どんなものが不足してますか」の避難所での私の問いに、冬物布団と箪笥と、と次々にそして淡々と言った人。別な避難所では「放射能は怖くない、東電はいくらでも仕事をくれる」と言った人。
 あの「ふじ滝」の女将は、目の前のスパリゾートハワイアンズが避難所として使われていた時、「被災者が『こんな不便なところじゃ買い物も出来ない』って言ってるらしいですよ。三食ついて風呂もあって、なに贅沢言ってるのかねえ」と言っていたことも思い出した。暑くなる頃だった。あの時私は「そんなことを言う余裕も出てきたんですねえ」と応じたのだが、最近それではすまないのかも知れないと思うようなことが多い気がする。
 こうして色々とあげたあとで所長さんは、だから、仮設に暮らす人々に必要なのはお金や物資ではなく、すっかり体を動かさなくなってしまったみんなの習慣をどうにかすること、また子どもたちには勉強や遊び相手の方なのだと言った。私はあの「朝飯前の仕事」を楽しみに毎日生きていた楢葉のお父さんのことや、不登校の子どものことを思い出した。
 
 陰となる側面ばかり書いてきたが、みんな大変な思いをしてきた、そしていまも大変なことは確かなのだ。それを忘れることなく、今は、今までと同じく被災者・被災地を見守る以外にない。そしてでしゃばり過ぎないように待つ以外ない。手を貸す時がきたら貸せる時がきたら、動けばいい。その機会を逃さないように、そのことだけ気をつければいい。


 ☆☆
 サザンの板さんが仕事を始めました。四倉港そばにあって流されてしまったセブンイレブンですが、そのあとに出来た食事処で包丁を振るっています。先日、天丼と刺身を御馳走になりました。店を構えるのはいつ?という私の問いに、ここにいる若いのを一人前にしてからね、と答えていました。サバの刺身がおいしかった。このサバは大船渡からのものだね、と少し寂しそうに言っていました。

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 クロネコヤマトの大震災基金て覚えていますか。一包みあたり10円を復興に充てるというものです。今もやってるらしいです。その基金を使って、壊滅した「道の駅よつくら」を再建することが決まったのです。1億2000万円の資金を使っての建物の設計計画の審査が先日終わりました。知り合いのボランティアの旦那さんがその審査委員長をやっていて、内容を少し聞けました。地元の方たちの出した「三階建」(一階部分は流されてもいいとする部分、三階部分は避難所の機能を持つ)が、大学は工学部の出した従来通りの「平屋」をしのいで通ったということでした。

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 朝日新聞に連載されている『プロメテウスの罠』って知ってましたか。読んでみたらいかがですか、の連絡を受けて読んでいます。原発事故当時の浪江町被災者の体験です。怒りがまた蘇ります。ネットで読めます。

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 昨日「柏市長と語ろう」タウンミーティングに行ってきました。次回に報告します。


実戦教師塾通信九十六号

2011-10-22 18:18:37 | 戦後/昭和
昭和史を歪める?『南極大陸』


 観測船『宗谷』


 本当ならいわきでの活動報告をするところなのだが、どうにも先に言っておかないと気が済まない。明日はこのドラマ『南極大陸』第二回放映の日曜日とあって、その前に書いてさっさとおさらばしたいという気持ちなのだ。
 ペットと子役ブームと、さらに「がんばれニッポン!」にあやかって登場したように見えるこのドラマ、見る気はさらさらなかったのだが、この第一回拡大版二時間スペシャルのさなか、知り合いがしつこく何度も「見ろ」と連絡するもので仕方なく、最後の20~30分ほど見ることとなった。
 強烈な違和感。私(たち)はこの時リアルタイムに生きていた。登場するのは、本当なら使い込んで古くなった服や道具、いつ洗ったのか分からないような人々の顔のはずなのだが、どうせそんなものとは無縁なキャスト・小道具たち、予想通りカラフルな観測隊の衣装。でもそんなことはいい、はなから期待してない。それより観測船『宗谷』出発の日、日本全体が興奮のるつぼと化している、それがむかむかと内臓をかき回すのだ。『宗谷』を見送る無数の人々はまるで、兵隊を南太平洋の戦場に送る人々の姿のように不安と期待に満ち満ちている。
 私が感じたことを裏付けるように「死を覚悟していたらしいですね。国家的事業だったんですね」と、まだ若い仲間はそう言ったが、それだったら自分も当時、もう少し興奮していたはずなのだが、と違和感は消えなかった。
 でも、記念切手も発行されていたみたいですよ、そう私の興奮をいさめるようにアドバイスしてくれる方もいて、私も少し調べた。結構発見することが多かった。これらのことはドラマですでに紹介済みなのだろうか。
 まず驚いたのは観測船『宗谷』は旧ソ連(現ロシア)が発注している。日本の造船能力の高さを買われての発注だが、それは1936年、つまり2,26事件の半年後の発注なのだ。ソ連の方としては砕氷能力・耐氷能力のある船が欲しかったという。そしてその二年後、ソ連とおおもめにもめたあげく日本海軍に購入され進水、1978年の退役まで様々な分野で働く。その間には太平洋戦争もあり、事実かどうか議論はあるそうだが、軍艦としてアメリカの潜水艦を撃沈するという戦績まであげている。その潜水艦からの魚雷が命中するもそれが不発で助かる、という不思議な出来事も宗谷にはあったらしい。
 ここからあとはドラマでもやったと思うが、この宗谷は国際観測年にちなんで南極大陸への進出とあいなる。乗組員と観測隊あわせて130人を乗せた宗谷を見送ったのは、当時のニュースでは3000人。1956年11月8日、小雨のぱらつく日であった。
 そうやって調べて少し冷静に考える。確かに自分(たち)も、宗谷(南極観測隊)の動向を気にしていた。ラジオや新聞、そして(少年)雑誌に宗谷の様子が報告され、胸は躍った。当時の学校には映画ニュースが配信され、私たちは講堂(体育館はなかった)でそれを見るのを楽しみにしていた。そしてそのニュースで確かに宗谷を見た。また、町内の映画館へ全校で記録映画として完成した『南極大陸』(1957年日本映画新社)を見にもいった。赤道下、船上に固定されたカメラに写し出される散髪の様子は、床屋(の隊員)と客(の隊員)もろとも転がり出さんばかりの傾きだった。雪上車を落とす氷山の巨大な割れ目をクレバスということも、あちらの激しい嵐がブリザードと呼ばれることもこの映画で知った。そして氷に閉じ込められた宗谷のSOSに呼応し、救助にやってきたソ連の砕氷船が「オビ号」だったということも。大量のダイナマイトでもびくともしなかった氷、それを難なく砕いてやってきて、船尾をどんどん遠ざけるオビ号、みんなこの映画で知った。
 南極に昭和基地を設置するも、そこに宗谷が接岸できないという状況の中、宗谷は翌年四月に帰還の憂き目となる。


 あの頃の昭和

 調べてみると、南極観測の記念切手が発行されていた。確かに1957年発行のその切手に見覚えがあった。地球のイラストとペンギンのバックに宗谷らしきシルエット、記憶の中で宗谷の鮮やかなオレンジが無惨に黒ずんでいたのは、きっと厚さ五mにも及ぶと言われた南極海の氷との闘いのせいだ。私の記憶では宗谷の砕氷能力は四mが限界だった。
 それにしても宗谷出発のドラマの光景は本当のものなのだろうか。当時の子どもたちの数少ない楽しみの中に切手があったことも確かである。私は東海道線全線電化の方だったら切手が発行されたことを覚えていた。調べてみるとその全線電化は宗谷出発後わずか十日だった。そして切手発売はその日にあわせており、この日にあわせるために、国鉄(現JR)と郵政省は綿密に打ち合わせをしている。現在の情景はあまりに不細工なので、東海道五十三次の浮世絵が採用されるなど、経過もおおいに興味深い。それに対して南極観測の記念切手の方は発行が翌年である。昭和基地の設営にあわせたのかどうか、不明だ。
 さて、ドラマでは出発の日、全国民がラジオに顔を寄せテレビに釘付けになっている。そうして3000人が東京港で見送る。このドラマの最後に「このドラマはフィクションであり…」という例の但し書きがあったのかどうか、少しチャチャを入れれば、この11月8日は木曜日だった。学校があったと思われる子どもたちも自宅でラジオを聞き入っており、港で見送っている。まぁ不自然というところだ。テレビが会社かどっかの事務室に設置されて何人かが見入っている(見ているのが数名というのが信じられない)。一体どこのデカイ会社なのかと思う。テレビを大きく普及させたのはこの翌年の皇太子婚約発表に始まる「ミッチーブーム」であって、御成婚のときその契約台数は200万台となる。ピンと来ないかも知れないが、南極観測隊出発を逆上る3年前はその契約台数は866台だったと言えば少し合点が行くのではないか。そのテレビを牽引したのはいわずと知れた力道山であって、シャープ兄弟との対決では東京新橋駅前のテレビに一万人が集まった。おかげで日本テレビは開局五カ月で黒字を計上する。世は街頭テレビの時代だった。どこぞの会社が事務室にテレビを設置していたのだ? そしてテレビをラーメン屋や居酒屋、小売商店に普及させたのは、それらの後の巨人の長嶋であり「月光仮面」である。みんなそれを見たいがためにラーメンを頼み、お菓子を買った。
 すでに書いての通りだが、この頃の日本は勢いがあった。1950年に始まる朝鮮戦争は、鉄くずを拾い集めれば、当時の私たち子どもに一日10~50円という、当時では考えられない高額な小遣いをもたらした。「もはや戦後ではない」と経済白書が言ったのは、この観測隊出発の1956年なのだ。この前後1年間の記録をみれば当時の「おせおせ日本」が鮮やかに見える。
・トヨタがクラウンを発表
・ソニーがトランジスタラジオを発売
・船橋ヘルスセンター開業
・東大、カッパ型ロケット打ち上げ
・コカコーラ一般販売開始
・小田急電鉄新型ロマンスカー運転開始
・東海村原子炉に「原子の灯」!
・大阪にダイエー一号店開店

 そろそろまとめよう。私たちは宗谷出航を直接見ることは出来なかったし、聞いていない。それは私たちの胸を躍らせたことは確かだ。しかし「すぐそこで起こっている」ことでも「じかに見られる(経験出来る)」ことでもなかった。リアリティとしては二番目だった気がする。そしてあくまで私たちの「夢の一部」だった。「一部」だ。だから「敗戦日本を立ち直らせる一大プロジェクト」(ドラマの中でのセリフ?!)だと!? そう言われれば鼻白むということだ。関係者はそうだったかも知れないが、言わせてもらおう、思い上がっちゃいけねえよ。
 最初に言ったが、このドラマ、震災のあとに持ちあがった企画ではないと思うが、宗谷が日本をひとつにした、ということは絶対的に事実ではない。


 木村拓哉

 あんなに大好きだったキムタクなのだが『華麗なる一族』で初めて違和感を持った。原作者の山崎豊子は「木村君のような解釈もあるのね」と褒めていたが、豪華キャストの「時代を感じさせる」演技の中で、キムタクだけが「現代」に引き戻していく、あれでいいのだろうか。それまで私は欠かさず録画を必ずして、たとえば『エンジン』では毎回泣きながら見ていたというのに。
 船出の時のセレモニーって甲板から下に向けてやるものだっけか。きっと多くの人の努力の集約で出航という日がやってきたのだろう。その集約点を普通「隊長」という人が担うのだろうが、またしてもこの人がやってしまう。素敵なコスチュームで、上から見下ろしてやってしまう。ドキュメント・ノンフィクションだから許せないのだろうか。あくまでテレビドラマなのさ、と割り切ればいいのかも知れない。しかし、数々のドラマで「これは違うんじゃないんですか」と「わがまま」を通してきたというキムタクの「実力」は、もう脚本や演出に手を入れる力を持っていないのだ、あるいは別なところに力を入れている、そう思えて仕方がない。


 ☆☆
 前号で言いましたが「いわき自立生活センター」に行ってきました。報告は次号で行います。

実戦教師塾通信九十五号

2011-10-21 12:31:15 | 旅行
秋の中で


 ほぼ貸し切りの山間の道は


 高速無料化の恩恵も受けないことだし、時期は紅葉、下の道を使っていわきまで行ってみようと思い立った。地図上では高速とそんなに変わらない距離に見えるが、山道を行くのだ。急ぐ旅でもない、身体に疲労がまとわるのでなく、大地や天の息吹が寄り添ってくれるのならこんな嬉しいことはない。しかし行きは出発が遅れ、道に迷って暗くなり、熊と会いませんようにとまっ暗い中を恐れおののくのがせいぜいの旅だった。帰りが良かった。
 いわきは勿来から山道に入り、栃木の山から茨城の山奥へとぬける。その山間の道が実にいい。天気がもっと良かったら最高なのだが、そんな贅沢はおいとこう。まだ紅葉は三分といったところだが、この辺の農家は今が収穫の時期らしく、あちこちで若くない主たちが腰をかがめ、あるいはコンバインで稲や芋の収穫に勤しんでいる。野焼きの煙も道を流れ、快く鼻をくすぐる。ニュースで野焼きの規制について言っていたのを思い出しつつ…。黄金の陸稲の傍らを走る道は、実にめまぐるしくその太さを変えながら愛車を導く。当たり前のことだが、集落があるところではセンターラインもある程度は見える道だが、山林や田畑ばかりの場所は車ならやっと一台通れるような幅しか用意しない。舗装とカーブミラーはしっかりと施工されているので、山道や峠でもそんなに不安は感じなかったが、たまにご臨終かと思えるような体でよろよろ動いているおそらくは地元のもみじマークのワゴンを抜く時は慎重にやらないといけない(失礼)。
 福島と栃木の山中でそんなに川とは遭遇しない。整備された杉で覆われた山、橋の下の目もくらむような谷の下を走る軽トラ、農家の軒下を赤く飾る柿、ススキで覆われる棚田の土手、道々のリンゴやキノコの直販所、それらが繰り返し秋の空の下で現れる。たまらずバイクから降りて携帯のカメラを取り出すと、傍らで見ている牛たちがあいさつしてくれる。こんな経験は福島のボランティアをしていないと出来なかったはず。不思議なことだ。そうだ、作付けしたお米は二本松もみんなOKになったんだった。よかったなあ、福島の米を食うぞ、福島の酒を飲むぞ。だっておいしいんだから。
 福島の山中に入って30㎞ぐらいのところだろうか「矢祭町」がある。皆さんは覚えているだろうか。あの「住民基本台帳」登録を拒んでいる町だ。日本広しといえども今でも拒絶しているのは東京の国立市とこの町だけ。私は山に抱かれ、田んぼと畑を耕すその小さな町をあっと言う間に通り抜ける。聞く所によると、図書館に本がないと訴えたこの町に、どっさり支援の本が届けられたという。頑張れ矢祭。
 栃木は茂木から茨城の袋田にぬける。あのホンダのサーキット「ツィンリンクもてぎ」は意外に分かりやすい場所だった。こんなに簡単に行けたっけか、道の駅に寄ったらレースのスケジュールが貼ってあった。11月6日はフォーミュラニッポンなのだった。この茂木辺りから道は太くなり、産業道路としての機能も見せ始める。それでも袋田を擁する大子町は道へ静かに葉を落とす。久慈川の流れが優しく大きく姿を見せる。こんな時期なのに、いやこんな時期だからなのか、バイカーとすれ違い、思わず手を上げる。まさか北海道以外の場所でこの行為に及ぼうとはこの瞬間まで思わなかった。
 地元野菜の直販所に寄った。キノコを買いたい。
 兄さん、朝取りの舞茸いらないかい、一キロ2500円だよ、すっかり腰の曲がった店の「お姉さん」が言う。見事に育ったその舞茸はまるでスズメバチの巣を思わせた。買うとも言ってない私の目の前で量ってみせる。800グラムか、じゃあ2000円にしとくよ、と言う。そんなにいらないから、と私は言うのだが、それはしっかりした球全体を売るものらしく、手や包丁で分割しようとしない。飾るわけでもないだろうに、と私は思うのだが、まるで収穫したものの気持ちが舞茸には宿っているかのようだ。私は市中のスーパーではたまにしかみかけないヒラタケの、その小さなパックとさつま芋を買う。そして、すぐそばの食事処で舞茸の天ぷらそばを頼む。近所の人だろう、カウンターの中にいる板前さんと渋谷にいった時の驚きを話している。あの人の多さはなんだ、自分の意志じゃ歩けねえよ、ポン引きに話しかけられてさ、なんで話しかけるんだって聞いたらさ、どうして田舎から来たって分かるんだって聞いたらさ、駅から出てきて看板みてるのは田舎もんだってそう言うんだ。
 そばは十割の手打ちで、その丼のとなりの器にどっさりと舞茸の天ぷらが盛られていた。店の外に久慈川がゆっくり流れている。


 愛車の力

 いわき自立生活センターのことはあとで詳しく報告するが、そこで話を終えて外に出ると、歳の頃は30くらいか、女性の職員が走り出てくる。スゴイですねえ、750ですか、いいなあと矢継ぎ早だ。ホンダが好きなんですか、前はカワサキを?カワサキいいですねえ、男って感じですよねえ、私も中免持っててバイクに乗ってたんです、CB400Fです、それで事故っちゃって三カ月入院ですよ、それから家族は絶対にバイクはダメだって、ああいいなあバイクは… バイカー達はいつだってこうだ。そうして景色や風と一体になったあの気分を前提に話に華を咲かせる。どんな風が吹いていたのか景色だったか、どこから来てどこに行くのかを話すのだ。
 車椅子の男の人が、お話し中すみません、少し戻ってもらえませんか、とおそらく仕事中抜け出したこの職員を呼びに来る。また来週来ますからと言って、私もすみませんと言う。
 その足で私はヘルパーさんと待ち合わせている喫茶「パリー」に行く。バイクはいつも店前の舗道に寄せる。ふと気がつくと中年にさしかかった男の人がひとり、私のバイクを眺めている。初めは自転車に跨がったままだったのが、やがてそこから降りてバイクの後に回り、そして前まで行き、次第に地面を這うようにして下を覗き込みするその姿に感動しつつも、私はつい吹き出してしまった。外まで出て行って、いかがですか、の声をかけようかとも思ったが、それはやはりかえって野暮ったいお邪魔な気遣いなのだ。
 帰ったらもっと磨いてあげよう、そう思う私である。

 ☆☆
 相変わらず腹立たしいニュースは続いているが、確かに「変化」も感じる。「やらせ」をめぐる九州電力と知事の庇いあいにしても、以前だったらこんなにクローズアップされることなく、難なく通り過ぎたはずだ。このままではすまない気がする。この調査を担当し、知事と九電にとって都合のよくない報告をしている郷原委員長が、大阪府知事候補として挙げられているのも興味深い。また反原発のタレントとして時の人となった山本太郎が、テレビから干されていないというのも面白い。

 ☆☆
 何度か「紅葉」さんから内村選手のことでコメントいただいた。様々示唆された気がする。あらためて身体論として書いてみたい。ところで今週の「ためしてガッテン」(NHK)中で「ストライドを7㎝伸ばすだけで体型維持」と啓発していた。それはその通りである。お腹の脂肪をとるにはまだまだ色々な方法がある、ということをおいてもその通りだ。しかしそれでもそれは、地面から大きな反撥を受け、身体に負担を与えることに変わりはない。まぁでも、アシモの歩き方が格好悪いと思う人は、和式・武道的歩き方はやめた方がいい。