実戦教師塾・琴寄政人の〈場所〉

震災と原発で大揺れの日本、私たちにとって不動の場所とは何か

実戦教師塾通信百十号

2011-11-28 20:20:10 | 子ども/学校
閑話休題


 魚たちの居所


 前号の「魚辺の漢字」にいくつかのリアクションがありまして、少し休憩がてら書いておこうと思い立ちました。

 寿司屋に行って、湯飲みにズラッと並んだ「魚」の漢字を見て、ホホォと感心したり驚いたりしたことは誰しもあると思う。切り身を見て、それが魚の本体だと思う子どもたちが話題になり、子どもの魚離れなどと言われたりする。しかし、黒板に魚の名前を一杯に並べると、シンとした子どもたちは、その後騒然となり、あれはナニ、これはどう、という具合になる。これはやはり日本人が魚と深い所でつながっている、と思える瞬間である。
 まずは寿司屋の湯飲みのように並べてみよう。

1 鰈
2 鮫
3 鯰
4 鰻
5 鰌・泥鰌
6 蛸・章魚
7 平目
8 鮒
9 雲丹
10 鰹
11 鮟鱇・鮟
12 鯖
13 柳葉魚
14 鮎・香魚・公魚
15 烏賊
16 鱸
17 鮪
18 海老・蝦
19 蛤
20 蜆
21 鮑
22 鰯
23 海豚
24 河豚
25 水母・海月

とりあえずこんな感じですが全部読めましたか。
 実はこれらの魚たちはある程度ではあるが、しかるべき決まりに従って並べてみた。上から「6」番まで、カレイ、サメ、なまず、うなぎ、どじょう、たこ、である。これらは所謂「象形文字」を基本としている。魚辺がついているので、分類上は「会意文字」ということになるが、つくりは象形文字となっていると思われる。カレイのつくりの「葉」から草冠が取れているのは、植物ではありません、という強烈な主張である。いわずと知れた「柳川鍋」は、どじょうが主役となるので「柳」となるのだ。「柳の下にどじょうはいない」と言われてもこうなる。今の柳川鍋はどじょうを開いてしまうが、れっきとした老舗、浅草の「駒形どぜう」はもちろんどじょうが丸ごと入っている。
 次の「11」番までは、正確には違うが「形声文字」と言われる。これらの漢字は、発音(音韻)に基づいて作られている。上から、ヒラメ、ふな、うに、かつお、アンコウとなる。このパソコンがボロいのか、まだ公認されていないのか、確かヒラメは魚辺に「平」でも良かったはずである。ウニは「赤い(丹)雲」をウニと発音させている。絶妙と思える。
 「熟字訓」という世界がある。意味や発音(音韻)が先にあって、そこに漢字を当てたもので、いわゆる「当て字」と言われる所以だ。これを得意とした芥川龍之介の生み出した「五月蠅(うるさい)」は有名である。さて「15」番まで、サバ、シシャモ、あゆ、イカ、となる。あゆが淡水にたくさんいたものか、そんな漢字が当てられている。しかしひとつ「香魚」となっているのは、あくまでそれはある季節に限定されたあゆを指すらしい。春先のあゆの稚魚は独特の青臭い香りを出し、実に味わい深いそうだ。それでこの字が当てられていると思える。北大路櫓山人に言わせると、その後の大きくなったあゆは「もそもそしてて、味もそっけもない」(『櫓山人味道』)そうだ。旅やグルメのレポーターどもの「デカイ!」だの、「ホクホクしてる!」だのはダメなようだ。
 「18」~「25」番までの、エビ(これは魚辺や虫辺に「老」をつけても同じだったはず)、ハマグリ、シジミ、アワビ、いわし、イルカ、フグ、クラゲも「熟字訓(当て字)」と思える。また「15」番のイカは、子どもたちとおおいに盛り上がるところだ。「どうしてカラスのゾクがイカなんだ!」「カラスの黒とイカ墨の黒は分かるけど…」という具合である。そうして16「鱸=スズキ」、17「鮪=マグロ」の不可解さへと進んでいく。魚がいいのは、この漢字に常に食卓がつきまとうからだ。
 さて、この場合の「謎」は「魅力」のことであって、こんなところでも子どもたちは漢字の魅力にとりつかれる。


 ☆☆
出発前に出来そうだったので「魚」やってみました。これからはいよいよ寒ぶり(鰤)が旬ですね。氷見もいいけど、東北もおいしい鮟鱇があがります。

 ☆☆
橋下さん、当選しちゃいましたね。大丈夫かな。平松さん、大阪の文化を見直す試みを色々やってて良かったんだけどな。しばらくは様子見ですね。

 ☆☆
土曜日、劇団をやっている教え子の招待で、池袋まで観に行ってきました。死んだ親と自分をいつもみんなが比べるのが嫌でたまらない、という娘が「じゃ、君はお母さんが嫌いなの?」と言われて「和解」へ向かうのが印象的でした。

実戦教師塾通信百九号

2011-11-27 19:56:36 | 子ども/学校
<学校>と<子ども> その2



 3 ゆとり?


 パオ広場でNPOのボランティア二人の会話を耳にした。面白い。「職場でさ、年齢いうとさ、結構どこでも、じゃ、オマエって『ゆとり』か?って聞くんだよな。あれってさ、一種の差別じゃねえかな」と言うのだ。「新学習指導要領『ゆとり』の時期の学校教育を受けてきたのか?」というのが略されてそうなっているのだろうが、その会話の雰囲気から推察するに「手抜き工事をされた」印象を自分も周囲も持っている、ということだ。
 中曽根内閣時の『臨教審』で提起され具現化された1990年代後半の『ゆとり教育』は、「円周率は『3』でいい」を頂点とした「教育内容の精選」のことだ。その後「教育の阿部内閣」時、「必修と選択」という「改訂」を受け、内容に幅をもたせる方向となる。それでも「子どもたちの学力低下傾向にストップをかけられない」ということで、国と教育界は北欧型「PISA」に色目を使っている。お笑いだね。教科書や学校が子どもを造ると思っている。間違っているわけではないが、もう少し全体を見ないと、その限界が分からない。
 まずこの頃で忘れていけないことは、日本の勤労システムが週休二日制に完全移行しつつあったこと、それに伴い学校も足並みを揃えていた、ということだ。第二土曜に続き、第四土曜も休日に移行したのは1995年である。「学校教育もゆとりを持って」というお題目はあくまで「建前」ということだ。また、発売当時は車一台分の高値だった電卓も、この頃は家庭に複数台置けるほどの値になっており「面倒なことは機械がやってくれる」のだった。
 忘れてはならないのが、この時すでにバブルは弾けており、世の中はパニックから不景気&無気力の風が吹き始めていた、ということ。面白い、というより参考になるのがゲームの世界だ。例を挙げると「FF(ファイナルファンタジー)」シリーズは「Ⅳ」まではファミコン市場を開発する。それが「Ⅶ」あたりからは据え置きハード型へと移行する。画質や情報の高度化もそうだが、テレビという媒体から独自マシンへの移行が始まっていく。「プレイステーション」(ソニー)からの発売、が象徴的だ。また「ドラクエ(ドラゴンクエスト)」シリーズが、新製品の発売日を土曜日としていたのが、FFの方はそれを無視して行っていたのが特徴的である。「もう子どもを特別な場所に置く時代ではない」、あるいは、もうゲームが巨大市場なのだという判断だと思える。ゲームは「家族のゲーム」から「子どもたちのゲーム」へ、そしてそれは「○○君(だけ)のゲーム」へと移行した次第である。
 以上、「元気のなくなった世の中」で、子どもが
「退屈を失い」
「時間を枯渇させ」
「狭い熱狂という世界にはまり」
「だからといって元気でもない」
「面倒くさいことは避けられる」
「希望や意欲というモチベーションとは無縁な状態に『進んでいく』」
いきさつである。「子どものやる気のなさ」は深い所にあるのだ。「『詰め込み』はよくなかったが『ゆとり』と言いすぎた」だって? なんて単純な発想なのだろう。「やる気のない若者にやる気を」「努力しない子どもに努力する喜びを」って、「その1」で言ったが「悪いことは悪い、と毅然と臨まないといけない」と胸を張ってる先生たちみたいだ。



 4 駆け抜けた「いい教育」

 (1)教育権のあり方・教育内容がもたらすもの

 子どもが経験する「学校(教室)での幸不幸」という問題を、結局「良き時代」はシンプルに捉えていた。
 1965年、東京教育大学(現在の筑波大学)の歴史研究者・家永三郎が国を相手取り、教科書検定制度を「国が教育に介入している」として、訴えをおこす。戦争の記述をめぐって当時の文部省が家永教科書を検定不合格とするこの訴訟は、子どもの教育権が「国家にあるのか、国民の側にあるのか」との争いとなった。同時にそれは「教科書で」教えるのか、「教科書を」教えるのか、という論点をも伴っていた。ギネスに認定されたというくらい長い、二十年にもおよぶ裁判で、私は喧騒な周辺よりも、矍鑠(かくしゃく)とした家永氏の一貫した「学者の姿」に感心していた記憶がある。つい先だっての「新しい教科書を作る会」の西尾幹二氏にも同じものを感じた、と付け加えておく。
 私が白けていたのは、家永氏のシンパシー連中の言う「教育権は国民の側にある」とは、あくまで「ある」のではなく「あるべきだ」という現実だったにも関わらず、そこを自覚し戦略としているとは思えなかったからだ。
 それと恐らく私は、教科書の善し悪しになぜか熱狂的になれなかった。「林」という漢字の前に「森」が出てくるのがおかしい、と当時の教科書を批判する集団もいたが、今だってそれがどうした、と思える。今の教科書は「子どもの健全な発達を阻害する」というのだ。何だろか。教科書とはおよそ縁のない「魚辺」の漢字にかぶりつく子どもの現実の方がよっぽど面白い。また、遠山啓の水道方式の授業者集団って、まだあるのでしょうか。国が供給している算数の教科書は科学的でない、というものである(遠山啓は、厳密にはそんなこと言っていないと思うのだが)。この「国に対する拒絶反応」が動機となっているとしか思えないこの連中のことを、結局私は好きになれなかった。ちなみに私だって小学校の教員時代に、この「水道方式」の授業をやったことがあるんですよ。分かりやすいと思えたからだ。よかったと思う。面白いのは、水道方式を使わないで私より上手に教える先生がいたことだ。そして国語でも算数でも、自分は教科書よりずっといいやり方でやっているのに、ちっともついてこない、と子どもに当たり散らす教師がいたことだ。

 (2)評価権をめぐって
 
 私が「評価権」なるものを、告発の対象としていくことの違和感も徐々にでてきていた。結局「能力・体力の違い」や「相性の善し悪し」はある、だから大切なのは、それが本人に「唐突にでなく、だんだんと理解されること」、そしてそれが「本当はどうでもいいこと」として受け入れられるかどうかがポイントだと思えてきたからだ。
 こういうと「選別者としての立場から逃げようとしている」と思い込む宗教的な人が絶対いるので、少し断っておこう。「理解の早い・遅い」「足の速い・遅い」が子どもの喜び・悲しみの原因になることは確かだ、それは「その1」で言った。評価というものは、それに「5や1(通信簿)」で追い打ちをかける。しかしやはりここが大切だが、子どもたちにそれぞれ違いがあるという「仕方のない現実」はあるのだ。そこを大人や教師という周囲が「共にどう喜び、どう悲しむのか」という受け入れ方が問われていた。「それは仕方がないが、どうでもいいこと」だと変換出来るかどうか、それが究極的な問題だと思えた。実はこのことを現実的に展開したら「権力」と絡んでしまって懲戒処分されたのが「伝習館」の教師たちだった。しかし、それを一体当時の誰が分かっただろうか。

 「差別・選別の学校教育」はいけない、とした教師たちの「評価権放棄」「一律評価」の取り組みが巷を賑わした。60年代後半から70年代前半にかけてのことだ。これは実際リアリティがあった。昔、通信簿は相対評価として義務づけられていて、5段階の評価は「1」「5」が全体の7%、「2」「4」は24パーセントという割合が決まっていた。実際は、「1」に関して割合を守ってつける教師は少なく、成績をつける学期末は教師たちの苦しむ季節であった。
 世間的にも不評を拡げていたこの相対評価は、私に言わせれば「あっさりと」、絶対評価へと移行する。私たちが現場についた時期、学校は絶対評価への移行を始めていた。これによって、数字は子どもの理解の程度で設定すればいい、という緩やかさを認められ、小学校においては数字でなく「文章による評価」等へと変化する。
 これらの変化がたいそうな意義づけで語られたりしたこともあった。また「一律評価」などの態度表明をした教師の多くが懲戒免職になったことで、彼らは「評価が序列社会の一翼を担っている明らかな証左だ」と言った。
 ずっと時間が経過してようやく分かって来たことだが、たとえば情緒に障害を抱えた子どもがクラス(校内でもいい)にいて、その子がバカにされたとしよう。すると「バカにするのがバカだ」と注意する、または「バカと言うのは差別だ」と怒る、これを私たちの「正しい指導法」としてきたのが従来の、あるいは「古い」教育である。そんなところにその子の幸福はない。自分のことでみんなや先生が険悪になっている、とその子の不幸な気持ちは落ち着ける場所を見いだせない。本当は、バカと言われたその子どもが好きだ、と思って周囲や先生が生活出来る時「その子とその子を取り巻く現実の幸せ」は来るのだ。
 「バカ」呼ばわりすることがひとつの「評価行為」であるとすれば、それを断罪することが「差別教育を批判する」ことだとしてきたのが、「古い」教育だった。「正しいもの」とそうでないものを対置してきたのが古いやり方だった。
 子どもの実際の姿を捉えること、結局それが問われていた。

 (3)反戦派教師

 日の丸・君が代問題は省く。この問題はもうすでに別なステージに移っているにも関わらず、古いステージに乗っかっている人たちが騒ぎを起こしている、とだけ言っておく。石原知事も「維新の会」も組合の人たちも同じだ。
 さて、残ったのが「教室ではもう何も守れない」として、街頭に出ていった「反戦派教師」たちである。「体制の変革なくして教育の変革なし」として街頭に出ていった教師たちは、当然の成り行きで逮捕され、多くが免職となる。
 悪いが、この人たちのことは簡単に語り尽くせる。この教師たちは「何も守れない」と言ったけれど、一体「何を守りたかった」のか、実はびっくりするくらいあいまいだった。「よくない現実」を国や政治のせいにした。しかし、子どもが理解できないでいること、そしてそれを悲しむという現実ひとつに対しても、なんの対処が出来るわけではなかった。



 ☆☆
また長くなってしまいました。結局、真打ちの「伝習館高校」は次回「その3」にすることに決めました。古いですが『教育が見えない』(1990年三交社)に、私の最初の論考があります。当時の校内暴力と伝習館をからめた論文です。良かったらどうぞ。読んで欲しいです。

☆☆
いわき、一週間のお休みをいただきました。この先、通信の発行も緩やかになると思います。「その3」も「変な敬語」の展開も遅れるかもしれませんが、よろしく願います。

☆☆
白鵬、全勝優勝を逃しましたね。確かに本人が言う通り「13日に優勝が決まって気が緩んだ」のでしょうか。昨日も変だった。それにしても、最後の負けの直後にあの挨拶、敬服の極みですね。テレビの前で何度も拍手をしてしまいました。

実戦教師塾通信百八号

2011-11-25 00:41:58 | その他/報告
 柏市の除染を進める会
               ~安心な暮らしを目指すための対話集会~



 異例のこと


 21日と23日に、柏市から今後の除染への取り組みと、その実施計画案が直接市民に提案がされ、その質疑応答が行われた。私は23日の方に参加し、集会終了後に市長に礼を言った。理由は、こういった集会が自治体単独でされたこと。もうひとつは、この集会の運営のされ方だ。こういう集会にありがちな「発言は一分(二分)以内で」「質問は(あと)何人で打ち切りいたします」「終了まであと○分ですので」等という制限が一切なかったこと、である。ふたつとも異例のことである。
 この集会は4時から6時までという予定だったのだが「もう質問はないでしょうか」という司会のアナウンスが続いたわけで、終了は9時を優に回っていた。少しずつ帰り支度を始めた参加者は、終了時には開始時(250人くらいか?)の三分の一を切っていたと思う。もちろん主催者の市長と役員三名、また専門家という立場からの三人は最後まで質問に応じた。取材に来ていたテレビ局は、7時を回る頃にはカメラを置いていた。


 1「危険なデータではない」という医者

 最初に質問を希望し挙手したのは20人ほどだったか、とにかく参加者は積極的だった。以下このブログ上で以前書いたことや紹介したことは省いて報告します。
 専門家の解説・説明に対して反論が多かったのは、がんセンターの医者の発言に対してだった。まあ、何度か紹介したものではあるが「そんなに神経質になるものではない」という、あのたぐいである。「CTスキャンでの被曝は、政府が出した年間被曝の危険境界値『0,23μシーベルト』の数万倍だ」とか「科学的データとして取り上げるものとしては、はなはだ数(分母)が少なすぎる」というものだ。
 私が最初に発言したときの「そんなに不安になることはないというデータと、不安なデータを併記して欲しい」という発言をまったく考慮に入れていないものだったので、私がそのことで真っ先に言わせてもらった。セラフィールドの事故とそれに伴うイギリス政府の調査、そして国際放射線防護委員会の「年間1ミリシーベルト」数値の設定、というあの経過を私は言った。
 続いた方の「検査という短い時間の被曝と、毎日24時間浴び続ける現在の被曝を一緒にして『安全だ』という言い方は、テレビでもさんざん批判されているというのに、ここでまたやるというミスリードをおかしている」という発言が続いた。そして、この医者のこのときの発言にあった「仮にガン発生の確率を計算してみても、0,02%上乗せされるだけだ」ということに対しては「じゃあ、柏市民が30万人として、その計算をすれば60人がガンにかかるということになる。そのことを大したことじゃない、と言われるのだったら心外だ」との反論がされた。
 また、これはブログでも触れたが「自然界に存在してきたカリウムやラジウムと、人間が生み出したセシウムやストロンチウムを一緒にしてもらっては困る。何十万年という歳月をかけて、生物は自然界の放射線への対応ができるように変化してきた。しかし、人間が作り出した放射線には解決出来る力を持っていないのだ」という意見もされた。
 この集会では「要望」「希望」、そして質問は出されたが、いわゆるはっきりした反論というものはこの時だけだったように思う。しかし、それに対する医者からの反論・意見は結局なかった。
 以下、この場での質疑への回答である。役に立つかも知れないので箇条書きで書きます。

○除染は高いところから低い方へと順を追ってするべきだ。
 1 樹木を除染してから落ち葉(地面)を。屋根を除染してから地面を。
 2 屋根を除染してから雨樋へ。
 3 地域の方々が持っているデータを使って線量マップを作り、数値が高いところから除染していく計画も立てている。
○清掃工場の煙突・敷地から放射線は不検出であった。
○焼却灰はあと一カ月で満杯状態というのを、あと二カ月三カ月と先のばししていくような体制で臨んでいる。
○清掃工場の職員はマスクも線量計も装備している(防護服には触れなかった)。
○民間の産業廃棄物処理場は、今まで調査したものに関しては不検出。まだやっていない処理場もこれから調査する。
○原発事故前の柏市の放射線量のデータはなかった。それで(柏キャンパスの)東大のデータがあったのでそれを借用した。0,05~0,1μシーベルトだった。
○除染に使った水は川に流れ、下流に行くに従い薄くなっていく。
(このことについては「雨で放射線は流れていく」と同じく、議論は深まらなかった)



2 いい加減に黙れよ!

 以下は下らない、とばかりは言っていられないが、そのことも含めて、エピソードです。
 参加者は私も含め高齢者の方と、若い母親の姿が目立った。子連れで来た方もいた。発言は、線量計を持ってあちこち計って地域や行政に啓発してきた、という方が目立った。よく勉強している方が多かったが、やはりこういう場所にはいろんな人が来ているなあ、と私は感心してしまう。
 うまく話せないが、という感じでいつまでも同じところをぐるぐると言う方も何人かいらしたが、環境NPOの司会の方は粘り強く我慢した。それでとうとう会場の方から、歳の頃は70くらいか、男の方が「オマエいい加減にしろよ! おんなじことばっかり言って、もう黙れよ!」と一喝し、会場を圧倒する場面もあった。若い母親は「もうびっくりしてしまって」とオロオロしたが、この人も人の話をよく聞けない人だった。「ボランティアデー」を「ボランティア令」と聞き違え、「戦時中と見まがう」と強調。あたりの空気を読む余裕もないまま、自治体からのボランティア募集そのものが危険だという結論に持っていく。この人は学校(保育園だったかな?)で草取りだったか表土をとる作業の手伝いをやったら、湿疹・かぶれが取れなかった、放射能はあなどってはいけない、怖い、と言って「死への恐怖」を呪わんばかりの勢いなのだ。
 心中、私はつぶやく。低線量の被曝なのですが、そんなに身体に即座に出るものなのですか。千葉の柏はホットスポットですからね。ほほう、放射能が原因での湿疹・かぶれですか。被曝による火傷ですな、すぐ千葉市の放射線検査室に行かないと緊急事態ですね、と私は笑ってしまうのだが、怒られるのかな。まあ、不安だったら最後までいたのでしょうが、自分の言うことが終わったら友だち二人でスイスイ帰ってしまうので、本気で心配しているのではないのでしょう。
 それと、この母親を怒鳴った初老の方、その前に市長のことも怒鳴った。「こら! オマエはメモも取らないでみんなの言うことが分かるくらい頭がいいのか! ずっと見てるが全然取らないじゃないか!」。そして、続く。「こうやって言っているのに、まだ取ってない! やる気があるのか!」
 すると、私の隣でずっとふてぶてしい表情で静観していた男が耐えかねたように「同じことを何度も言うな!」と、初老を怒鳴った。こいつも変なのだ。ぶつぶつと不満めいたことをずっとつぶやいていて、それでこういう形で出る。思わず周囲の何人かが「だから、メモを取ろうとしないから、繰り返しているんじゃないの」と、こいつに半畳を入れた。こいつがぶつぶつと、言いたいのかそうでないのか妙な態度を取り続けた、そのことがやはり気になって周囲は指摘する、という結果だったようだ。
 あとは、もうこの世の終わりだというのに、柏でどうにか出来ると考えている市長はおかしい、福島をどうにかしないといけない、すぐ柏市から市民に避難勧告をしないといけない、と「鬱々と」訴える方。その方は、福島では血を吐いて死んだ女の方も複数「出てきて」いる、と言っていたが、どこの誰なのか聞きたかった。
 市長は避難勧告を出す気はない、と明言。また、放射能対策室長はホットスポットの「立入禁止区域」の設定はする、と答えた。
 それにしても、ゴミステーションの設置場所でさえもめるご時世なのに「市はどこか土地を買って、そこに焼却灰を捨てるべきだ」という方の発想は、私には冷静さを欠いている、としか思えなかった。



 ☆☆
まったく関係ないことですが、この集会でも「○○させていただきます」という「変な敬語」は、オンパレードでした。いつかこれが「流行語大賞」にならないかしら、と思うくらいです。そのうち話題にします。

 ☆☆
北海道からのエール、ありがたいです。<学校>と<子ども>その2は、次回になります。

実戦教師塾通信百七号

2011-11-22 20:47:14 | 子ども/学校
<学校>と<子ども> その1



 トンマたち


 はるばる北海道は帯広(正確には士幌町)から、石川さんが柏まで見えた。待ち合わせのホテルのロビーに待ち合わせきっかりの六時半、石川さんは現れた。初対面である。帯広空港を使ってよかった、雪に見舞われた千歳空港だったら今日中には着けなかっただろう、と私の顔を見て言った。
 石川さんは私より二十歳近くも年下なのだが、学校現象・教育言説を実に通時的に捉えていて、年齢のことを忘れた。おかげでこの四十年間の学校をめぐる論議や実践(!)を振り返ることができた。

 1 全生研だの法則化だのと、まあ

 向山洋一を読者は知っているだろうか。未だに影響力を否めないというこの人物は「誰でも跳び箱六段を跳べる!」とし、教育界のみならず世間の評判を博した。こいつから始めよう。教師はもちろん、小さい子どもを持つ親はこんないかがわしいものにとらわれることはない。ムコウヤマと読むのだそうだ、この日初めて知った。私は新聞広告でこの本を知り人物を知ったが、本をもちろん読んでない。正確な記憶はないが、本のタイトルはこんな感じだった筈だ。この本のタイトルだけで許せない世界観、子ども観が見事に現出ている。こんなものに飛びつく大人は子どもを理解出来る場所にいない。
 この本のタイトルを読んでホッとする、または喜ぶのは跳び箱を跳べずにいて悩み、なおかつどうにかしたいと思っている子(の親)である。そして、その悩みをどうにかしたいという子どもを目の当たりにしている教師である。だったらいいじゃないか、この本が売れるのも道理だ、と言うかもしれない。だから付け足そう。課題というものを克服・解決しない子どもを承認してはいけないと思っている大人、その大人たちにこの本、そしてこういった連中は火をつける。「誰でも跳べる」というのだ。また、子ども自身の世界観、いや人生観と言っていいが、その人生観をこの本や連中は偏狭なところに追い込む。「誰でも跳べる」というのだ。自分が、オマエが跳べない筈はない、そういう声を焚きつける。
 たとえば短距離走の家庭教師が結構な人気だという。そこで何が起こっているのか。

 1 自分の足が遅いことは恥ずかしいことだと思っていたこの子の気持ちは、公認された。
 2 足が速いとか遅いとかはたいした問題ではない、と子どもに諭す道を親は断念した。
 3 足が遅いことは否定的なことであり、速くなることがいいことだとされた。
 4 足が速い人も遅い人もいるという現実と、幸福な人や不幸な人がいる現実とは一緒にしてはいけないのだが、それを一緒にしてしまった。
 5 そんなことどうでもいいよ、今日の晩御飯はカレーだよ、という道を見えなくさせた。

重複もあるが、まあこの辺にしとこう。私は9年間小学校の教師をやってきた。言いたかないが(もちろん言いたいのだ)、私に跳び箱・マット・鉄棒を教えさせればかなりの子どもが上達する。そしてこれが大事だが、私がやると子どもたちは「楽しく」上達する。ムコウヤマさんもそう言うだろうが、私が違うのは「全員が出来る」というのではない、「全員が楽しめる」。本当はどっちでもいいことをやっているんだ、という気持ちでいないと子どもは必ずそれができない時に「不安」を抱える。子どもというものは、その「不安」を「自分がダメだから」という場所に持っていく。「幼児(児童)虐待」もそうだ、「自分のいけないせいでお父さん(お母さん)は怒っている」と思う。
 もっと広い場所に子どもを運ばないと、子どもは今よりどんどん狭いところに入っていく。たとえばつきっきりという狭いところで指導されることで喜ぶ子どももいるが、耐えられない子どももいる。それでは、と子ども同士で「教えあい」とやらの方法をとったりする。子ども同士のほうがやりやすく、受け入れ易いという。しかし、それが「最後の救済」というみかけをとって子どもの前に現れた時、決定的に子どもを追い込む手だてとなる。じゃどうすればいいのだ、と大体がこんな時に言う。「どうすればいいのか」は大切なことではない。「誰でもできる」の「誰でも」は、「やろうとするのならば」という条件が最低限必要だ、ということだ。それが大人の側で分かっているかどうかだ。無理してやることではないよ、ということだ。この場合の「無理」は「人格をかけてしまう」、「人生をかけてしまう」「恥を忍んで」という姿勢のことだ。それほどまですることはない。
 「誰でも」が「全員」という意味だったら許せない。



 2 プロ教師の会

 今も細々とこの教師のサークルは続いているらしい。15年くらい前、栃木の黒磯で若い英語の女教師が生徒に学校で刺されて死ぬという事件があった。そのことでテレビの座談会に出席した私は、同席していたこのプロ教師の会のリーダー河上亮一と議論することとなった。あなたたちの時代は終わっていると私は言ったのだが、あまり噛み合わなかったというのが正直なところだ。とにかく私は真面目にこの連中の本を読んだことがない。雑誌くらいでしか読んでないので、憶測が入って失礼なことにはなるかも知れないが、どうせ大体のところはあっている。それによれば国・地域・親の意向を受けてなされるのが本来の教育・学校活動、としてきたこの連中は、憂える今の学校や教育は国・社会が作ってきたものである、としている。だから学校崩壊→「憂国」なのだ。教師の本来の活動ができないのは自分たちのせいではない、生徒(子ども)を育てることを国も親(大人)も怠ってきた、という。まずは「自分たちに責任はない」うんぬんなんてことを言ってるのがどだいおかしい。
 学校の「指導」現場は、大体が善意と「努力」で満ちている。どうして遅刻するんだ、また忘れたのか、このだらしない服装どうにかならないのか、等々。影響力をとっくになくしたこの「プロ教師」の連中を私が取り上げたのは、この連中がこだわる教師のあり方が、毎日の学校的日常と交差するからである。
 遅刻で考えよう。遅刻を常習する理由

 1 学校がつまらないから
 〔その理由〕
  ・朝ダリーから
  ・来ても何もないから
  ・家でゲームしてた方がいいから 等々
 2 友だちとうまくいってないから(友だちがいないから)
 3 親とうまくいってないから(家が楽しくない)
 4 クラスが嫌い
 5 担任が嫌い
 6 その他(なんで学校に来なきゃいけないの、夜遅くまでゲームしてるから等々)

こんなところか。役立たずの対策はもう東京ドーム1000杯分くらいだ。

 1 常習になる前に手を打たないといけない
 2 子どもでなく、親が問題だ。親対策が優先する。
 3 遅刻ごときは些末な問題だなどという考えが甘い。毅然とした態度が必要だ。
 4 子どもの将来を思えば、という気持ちで指導しないといけない。今がすべてだ。
 5 甘やかせば子どもは喜ぶ。しかし、それで子どもは良くならない。等々

まず基本的なことから確認しよう。遅刻に理由が「必要」なのは教師(大人)の方である。「どうして遅刻する?」というわけだ。子どもの方になんらかの理由があって遅刻しているのは事実であっても、子どもに必要なのはその「理由」ではない。子どもが必要としているのは、やむにやまれぬ「遅刻」の方である。あるいは、その遅刻が必要でなくなる「状態」を必要としている。ここを多くの教師(大人)、ましてはプロと称する教師連中は分かっちゃいない。
 すると、しょうもないこの連中は「じゃ、あなたは生徒が遅刻をしてもいいと言うのですか」と100人中100人が言って来る。バカだよ。いいわけない。生徒の方だってそれを分かっている。じゃ、悪いと分かっていることをどうしてやるのでしょう、それは甘えではありませんか、とまた100人が言う。それでは子どもを甘やかすことになります、という。トンマだよ。この連中がバカなのは、悪いことを「悪い」と言うことが甘やかさないことだと思っているからだ。また「直しなさい」と言えば少しは直ると思っているからだ。直らないまでも「生徒がより良い状態になる」と思っているからだ。あるいは直らないとは思っても「教師として、人間として!?言わないといけない」と思っているからだ。
 生徒・子どもが「暖簾に腕推し」の場合、彼らの現実と自分(教師)が絡んでいない、ということを嘆くのが本当は教師たちの第一の課題だ。それをこの連中は分からない。まずいことに、絡んでいないのなら絡んでみせると、まるで因縁をつけるかのように教師たちは「絡ん」でいく。カッコわりいことこの上ない。
 遅刻が「逸脱」した行為であることは間違いないことだ。だからそれを記録し、親や仲間に相談し、連絡するのは当たり前のことだ。同じく当然のことだが、本人にも「どうしてだ」と聞く。その時点でできることはそれだけだ。その子の状態が変化しなければ遅刻は続く。いやしくもプロだったらその子の状態をきちんと「読める」かどうかだ。あるいは「読む戦略」を描けるかどうかだ。それができればその子の「変化」も良く見える。教師のとるべき言葉とそれを使う時期が見えてくる。
 私が生徒の遅刻や服装に厳しいことを現場や本で知り、私のことを「プロ教師」派と思う方がたまにいらっしゃる。あの連中やバカな教師とどこが違うのかと言われれば、私は「読む前には絶対書きません」。


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帯広といえば『六花亭』ですが、石川さんに言わせると「地元の人は『柳月』。バームクーヘン」だそうです。でも豚丼は『パンチョー』でOKのようです。
 都会に来ると緊張します、と石川さんは言っていましたが、私は地方都市旭川の品のあるたたずまいが好きです。ビル群が、遠慮がちに道路から奥へ引いているので空が広いのです。そんな道を少し歩いていくと『山頭火』の旭川本店はあった。支店が増えたなあ。

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だいぶ長くなってしまいました。「社会に生きる子ども」、後半にゆずります。

実戦教師塾通信百六号

2011-11-21 14:39:21 | 福島からの報告
「ないところにはない」  支援の行方



 味噌とか油? 全然OKだよ


 暗い豊間地区を訪れたのは初めてだった。遅くなったがどうしてもこの日のうちに豊間の連絡所に行きたかった。辺りは驚くくらいの暗闇なのだが、当たり前のことだった。すっかり更地となってしまった崩壊家屋や残されたわずかな建物、昼間はそれらが無惨に姿を見せているのだが、夜、それらは明かりを発しないからだ。真っ暗な中、一軒か二軒だが営業を始めた店がわずかな光をもらし、最近復興のシンボルとして灯台に見立てて造られた建造物が、周辺を煌々と照らしている。「出張販売中」の、夜は無人のセブンイレブンが、闇の中に屋根とゴジラを浮かばせている。
 そのセブンイレブンと全壊したGSエネオスの間に豊間の連絡所はある。十坪ほどのプレハブにまだ明かりは見えて、中には三人の役員さんがいた。何度もこの連絡所を私はたずねている。豊間の活動はここを拠点としており、ボランティアはここの空き地に一旦車をおいて片づけに向かっていた。実直そうな区長さんの顔にも確かに見覚えがあった。
 私が物資の支援状況についてたずねると区長さんは、足りてないよ、いわきの人たち、特にこの海岸線沿いの人たちへの支援はさ、あんまりいいって状態とは言えないよ、そう言った。そして、物資の支援はアンタたちのようなボランティアがやってくれてるんだ、行政はあんまり関わってこねえんだな、そう続けた。また、仮設住宅の方には比較的届いているが、みんながバラバラになった借り上げのアパートの方にはなかなか難しいという、ニュースが言う通りの話を区長さんはした。
 行政からはストーブや炬燵は届いているが、という区長さんの話に私はすこし躊躇する。そして、私たちの出来る支援は、味噌とか油という消耗品、生活用品ですが、と口を開くが、区長さんはそれを畳み返すように、おおいに結構だよ、全然OKだよ、と言った。そして私に、豊間地区がまとまっている仮設住宅と借り上げアパートに行って、話を聞いてみてくれという。そうしてアパートの方の住所と電話番号まで私に教える。いいんですか相手に確認もせず私に教えちゃって、と思わず私は言うのだが、いいんだ、なんとかしてくれって、さっき電話で言われてさ、オレは間をおくのが嫌なタイプでね、と区長さんはあっさりしている。
 豊間地区の仮設住宅、あの自立生活センターのある、中央台の仮設住宅内にあった。てっきり広野町と楢葉町の人たちだけが住む所だと思っていたが、違っていた。



 もう、駆け引きだらけだよ

 次の日、私はアパートの方に電話した。その一方、自立生活センターで理事長に豊間の仮設住宅の場所を尋ねる。第一仮設だね、と理事長はすぐに答える。自治会の会長に電話してみるから、と話が早い。最近自治会が発足をみたという。第一仮設の集会場はセンターの目の前だった。会長がお待ちしています、ということで私はすぐに集会場に向かう。
 掲示板のある建物が集会場だよ、と色々な人から聞いていた。確かに外観が住まいとそんなに変わらない。掲示板には生活情報や健康相談のお知らせがはってあった。女の職員の方が二人詰めていて、広間では地域の老人の方が三、四人、お茶を飲んでいる。その隣に通されて、会長さんは、市役所の住民課の人が来るまでの三十分間、初対面の私に多くを語ってくれた。
 
○海岸沿いの人たちは大体が遠くに避難せず、みんな故郷を離れたくない思いでこのいわき市内に入っている。
○それで放射能を恐れる北部久之浜の人たちも、逃げるんだったらいわき市内、と考える人が多い。一キロでも遠く、でなく、一キロでも近くにいたいのだ。
○いわきの人たちはみんなお金も仕事もない。ハローワークに通いつめても、住宅のリフォームや片づけなどがたまにでるだけだ。しかもそれは「短期」だ。
○この仮設が満室にならずに、二割ほど空いているにはわけがある。
 1「カセツ」という名称、響きがいやで借り上げや知り合いを頼る。
 2 6点セット(赤十字支給の家電セットのこと)が支給されたらここを撤収してしまう。

私は、6点セットはどこにいようがもらえる筈だが、と確認する。しかし、違っていた。アパートに住むその人たちは、アパートに電化製品をすでに持っている。別な場所(仮設)でまたもらうということらしい。また、仮設に空きが出来るという話とは関係ないが

○市営住宅に住んでいた一家は、自分たちは残って祖父母だけをこの仮設に申請した。
○逆のケースで、仮設に移った一家が祖父母だけをここに残した。

いやもう駆け引きだらけだよ、そう会長さんがこぼした。

 空きも埋まれば180世帯というこの第一仮設は、現在150あまりの家族が暮らしている。不安になった私は、そこに支援といっても消耗品、洗剤や調味料ということになると思うのですが、と切り出す。それに、150世帯分は無理かもしれない、という心配も告げる。
 もちろんそれでいいんですよ、と会長さんは即答した。ただし、服はあるんですよ、洋服が必要だという時期は終わったね、と言い、続ける。物資が全世帯ないときには老人や多人数の所帯に配ってきた、という今までのやり方も説明してくれた。その時はこっちでやりくりするから大丈夫ですよ、という。そして声をひそめる。いや、あのね、前に缶詰をひと世帯45個を配りたいがいいですか、という話があってね、45個!?何をいっているんだ、と本気にしてなかったんだが、本当にひと世帯45個、なんと段ボールひと箱ずつ来たんだよ。
 そう言って会長さんはうんざりしたように言った。ツナだったというその缶詰、みんななんとか食べたらしい、と顔をしかめた。私にはその会長さんの顔が、生活とはそういうところにはないんだ、あればいいというものではない、必要なときに必要な分があること、それが生活なのだ、と雄弁に語っているように思えた。
 慌ててはいけない。どんなものがどのように必要とされているのか、私はきちんと聞いていかないといけない。どうやらこの会長さんは正直で、働き者だ。力になりたい。
 またうかがいます、市役所の人が来たところで私は腰をあげた。

 パオに戻ってしばらくして、朝方電話した借り上げアパートの方から電話がある。私の申し出を遠慮したいということだった。物資を持ってきてもらっても保管する場所がないという。そしてみんなの分を持ってきてもらっても、その人たちがどこに住んでいるのやら、今はこうして電話で連絡を取り合っているものの、知らない人たちなんですという。それでもなんとかなりますよ、と私は言ったのだが、先方はそんな迷惑をかけるわけにはいかないという。
 これ以上は立ち入らない方がいい、そう思った。この地での今までの経験でそうだった。この人たちは考え抜いて言っている。また何かあったら連絡ください、それだけ言った。
 届くところには届くが、届かないところには届かない、そんな現場にまた立ち会ってしまった。


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広野町に一次帰宅した方たちが口々に言うこと、換気扇から入り込んだコウモリがトイレにたくさんぶら下がっている。どうしてでしょう、これじゃやっぱりコウモリは嫌われますね。

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思い出したように九電のことが話題になっています。「やらせメール」問題の第三者委員会の調査を否定した九電の反論質問書が16日に出されました。これに対し「自分たちの設置した調査委員会を否定するとはどういうことか」と枝野経産相が批判しました。それにしても、九電を批判するときの枝野さんて、どうしていつも海外にいるんでしょうね。