チャコちゃん先生のつれづれ日記

きものエッセイスト 中谷比佐子の私的日記

着物が繋ぐもの 433  

2021年07月05日 12時00分00秒 | 日記
昭和30年代(1955年から1965年)はまだ着物を普通に着ている人が多かった
「ここ一番」という時はみんな着物であった。たかが60年で世の中が変わってしまう
着物の着方学校が出来
着物を着た時の作法の学校が出来
帯結びの教室などもできる

それと同じようにみそ作り、梅干しつくり、ラッキョウの付け方、白菜漬け、沢庵の付け方、お惣菜の教室などなど

母親が教えていたことをみんなお金を出して学ぶ仕組みになってきた
そのための細かい戒律も出来て、それを守らないと叱咤される
お辞儀の時の手の位置はという教えで今間違っているのが韓国流のお辞儀だ
ほとんどの人がみぞおちに両手を重ねてお辞儀をしている、これは日本人の辞儀ではない

産地取材をしていた時、その土地の食材をいかにおいしくするかということも、織り手の奥方たちの腕前であった
特に漬物の味はぴか一で、お茶と漬物はいつもセット
厚かましく「あのー少し頂いていっていいですか?」と竹皮に入れて持ち帰っていたこともしばしば(まだタッパーなどなかった)
ふかしまんじゅうなど手作りで、これがまたおいしい、自宅の小豆に、その土地の小麦、すべて自家製だ

取材が終わり特急電車に乗るという時、御結びと漬物卵焼きやニンジンなどの煮物を積めた弁当を手渡される。これがまたおいしい
お茶は大体サントリーの角瓶にはいっている(笑)1970年まではこういうおもてなしを受けた

まあ都会から取材に来る人も少なく、ゆっくり自分の手仕事の話を聞いてくれる人は歓迎だったのだろう

その当時着付け学校のほとんどの代表者は「戦争未亡人」であった
そのころ何人かを取材して発表した文章が残っているが、戦争で稼ぎ手のいなくなった家族の様子は胸つまるものがあった
誰でも着物を着ることが出来た時代に、どうして「着付け学校」などできるのか不思議に思って取材をしたのであるが
それは
晴れ着を着たことのない階級お人々の手に、逆に晴れ着がわたり、いつ着るのか、どう着るのかというTPOが必要だったんと、自分の体の寸法に直すこと目的であった

そして新しい着物ん仕入れなどを始めった戦争未亡人の方がのちに大手の呉服屋になっていく

振り返ると女が本来の使命を日々忘れて行った過程が、着物の衰退とともに見えていく


さて本日からまたライブ始めます 20時チャ子ちゃん先生のFBライブ
Nakatani Hissako
ID chako@kosmos.ciao.jp
Pw kosmos4261


コメント
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