千の天使がバスケットボールする

クラシック音楽、映画、本、たわいないこと、そしてGackt・・・日々感じることの事件?と記録  TB&コメントにも☆

ギル・シャハムの「バーバー ヴァイオリン協奏曲」

2012-05-30 22:07:37 | Classic
よく訪問させていただいている「ETUDE」 のromaniさまが、何となく幸せな気分にしてくれる音楽とブログに書かれていたのが、バーバーのヴァイオリン協奏曲。演奏者は我が美音王子のギル・シャハムとアンドレ・プレヴィン指揮、ロンドン交響楽団。

気のせいか、近頃、良い演奏家の来日が減っているような気がする。お気に入りの王子ホールのスケジュールも空白がめだつような・・・。それはさておき、ギル・シャハムが私に会いに?やって来た時、サインをもらうつもりで未購入だったのが、このバーバー協奏曲だった。時のうつりかわりは早いもの、わずか数年で良い本もCDも市場から消えていく世の中、というわけであわてて購入した。

サミュエル・バーバーが1934年にフィラデルフィアのサミュエル・フェルズから委嘱されて作曲したこの曲は、米国人に愛されている20世紀の現代曲である。時代性を感じるものの、前衛音楽や無調音楽のような難解さはなく親しみやすいのもアメリカ産だからだろうか。しかし、爽やかな風が吹き渡る夢見るようなはじまりは、素晴らしくロマンチックで何回も繰り返して聴きたくなる。ベタな表現を借りると涙がでそうなくらいに美しい、のだ。それにも関わらず、実際に日本では演奏される機会が少ないのが残念。私も生で聴いたことがあるのはたったの1回だけ。

同じくアメリカ産でジュリアード音楽院で育ち、美しい音をもつギル・シャハムの艶やかな音色は、まさにこの曲のもつ浪漫性と相性がよいと感じられる。美音王子は、音の美しさで誰からも好かれて愛されるが、ともすれば、聴いて心地よい環境音楽的な満足で終わってしまう場合もある。美音王子が王子である限りは、私にとってもギル・シャハムはすなわち観賞用かもしれない。映画『無伴奏』のギドン・クレメールのバッハの演奏のように、いつか嵐のような魂の彷徨を感じさせてくれる演奏を待つちたいというのも、お門違いなのだろうか。そんな日を待ちながら、5月の今宵は、シャトー・モンペラはないがギル・シャハムのバーバーヴァイオリン協奏曲で気持ちよく酔ってみたい。

■アンコーーールゥ!
・ギル・シャハム ヴァイオリン・リサイタル
バッハ無伴奏ヴァイオリン・リサイタル

音楽評論家・吉田秀和さんが逝く

2012-05-28 22:19:30 | Classic
音楽評論家の吉田秀和さんが今月22日に亡くなった。98歳の最近まで、お元気でご活躍だと感心していたのに、誠に残念だ。

手元にないので不確かなのだが、桐朋学園大学附属「子供のための音楽教室」から出版されている「子供のためのソルフェージュ」という本がある。何版も版を重ねて、今も尚、現役で活躍しているこの小さな本を初めて手に取った時、私はまえがきを読んで深く感銘した。音楽は家庭生活をあかるくするといったような文章に心が澄んであたたかくなる想いがした。実にシンプルで当たり前のように思えるが、齋藤秀雄氏、井口基成氏、吉田秀和さんといった錚々たるメンバーが教室がはじめたのは、敗戦まもない日本でのことだった。

町を歩くと、電車に乗ると、様々な楽しげな音楽が洪水のように流れている日本。しかし、敗戦の焼け野原で、物資も不足し、食べるものさえ手に入れるのが困難だった貧しい日本で、音楽、この小さな宇宙に情熱をもって生涯をかけた人たちがつくった教室がよびかける「音楽は家庭をあかるくする」という言葉は、どれほどの希望のあかりとなって日本人のこころをてらしたことだろうか。そんなことを想像した。

音楽理論を備えた美しく端整な文章は、幅広く親しまれると同時にピアニストの中村紘子さんによると「クラシック音楽が”権威”として存在した最後の偉大な批評家」でもあった。来日したホロヴィッツを「ひび割れた骨董品」と絶妙で厳しく評したことでも知られる。

ところで、もしかしたら人違いかもしれないが、「日本の作曲家2011」のコンサート会場で吉田さんをお見かけしたような気がする。だいぶご年配の方が、ブルーローズの最前列中央で演奏を聴いていらっしゃった。写真で見たことがある吉田さんに似ているなとは思ったが、おひとりだったようなので、吉田さんだったらどなたか編集者やご家族の方がつきそわれるだろうし、何しろ鎌倉在住のご年配の文化人にとってはサントリーホールは遠いから別の方だろうとそのまま忘れかけていた。改めて、近影をお見かけするとやはりよく似ていらっしゃる。

読売新聞の報道によると、昨年の作家の丸谷才一氏の文化勲章を祝うスピーチでは、ドイツの文豪ゲーテの言葉を引用されたそうだ。
「我々はみな集合体で、自分自身と呼べるものはわずか。私は先人や同時代人に学び、他人がまいた種を取り入れさえすればよかった」
芸術に敬意をはらった表現だが、吉田さんこそ音楽の畑に種をまく人だった。

そんななか、エリザベート王妃国際コンクールのバイオリン部門で20歳の成田達輝さんが2位に入賞するという吉報が舞い込んだ。彼の演奏は、コンクールに挑むというよりも気品があり、若いのにもかかわらずエレガントすら感じられる。彼ら新世代の音楽家は、抜群なテクニックだけでなく個性ももち、次々と世界的なコンクールで好成績を挙げている。吉田さんたちがまいた種が多く実り、大輪の花を咲かせる時代になった。そんな時代を迎える幸運をかみしめて、改めて吉田さんを追悼したい。

「ベェネツィアの宿」須賀敦子著

2012-05-27 14:44:11 | Book
須賀敦子さんはこわい人だ。
このひとの前にたったら、心の底まですべて見透かされ、笑顔のベールで覆ったつもりの、もしかしたら自分ですらも気がついていないひそやかな哀しみまでじっと見つめられてしまいそうだ。丸谷才一に評価され、白衣をきた詩人の福岡伸一さんに愛された作家の須賀敦子さん。須賀さんのエッセイを久しぶりに読んでみる。

窓を開けると、思いがけずに近くにフェニーチェ劇場からのアリアが聴こえ、続いて拍手が夜空一面にひろがっていくベェネツィア の宿からはじまる『ベェネツィアの宿』。巧みな文章で誘われるような旅情ではじまるプロローグ。やがて、ベェネツィアの宿はお父様の1年近くにも渡った欧州からアメリカへの長期の渡航の思い出につながれ、須賀さんのパリ留学時代の厳しい生活で出会った異国の留学生、偶然すれ違ったイタリア在住時代の友人、そして夫ベッピーノとの早い別れを予感した「アスフォデロの野をわたって」と、小さな奇跡のような出会いと別れを静かに淡々と綴られている。

さて、須賀さんのお父様は、創業者の長男だからという理由で、大学を中退して大きな会社の後を若くして家業の経営を継ぐことになった。
熱心に求婚した女性と結婚し、健やかなこどもたちにも恵まれ、はたからは順風満帆に思える人生なのだが、家業に今ひとつ身が入らない。贅沢な悩みのようにみえて、それは彼の望んだ人生ではなかったのかもしれない。そんな父親を心配して伯父たちが計画したのが、一年近くの豪華な海外旅行。トランクにはタキシードをつめて。それは、須賀さんが6歳の1935年のことだった。

本書には、冷静な観察力と繊細な感性ですくいとったまなざしが、凛とした気品のある文章で表現されている。
自宅を出て、愛人と一緒に暮らすお父様を見舞う病室。そこで母や家族を苦しめるお父様に寄り添う愛人を見かけるのだが、彼女へのうらみなどなく、端整に静やかな描写でおわっている。あらためて須賀敦子さんのプロフィールを調べると1929年生まれ。1960年に夫となるジュゼッペ・リッカ(ペッピーノ)と出会い、翌年結婚するものの夫の急死で短かった結婚生活がおわる。帰国して「ミラノ 霧の風景」が一躍脚光を浴びるのが、1991年のことだった。作家として、文章を書き始めたのが50代半ばを過ぎてからの事。

昨年、勤務先の上司が変わった時の後任に、変にやる気満々の若い人ではなく、人生の酸いも甘いも噛み分けた50代半ばの人がくるからよかったと、元上司が感想をもらしていたのを思い出した。その時、「人生の酸いも甘いも噛み分けた」とは随分古い言葉だなと思ったのだが、須賀さんこそまさしく人生の酸いも甘いも噛み分けた円熟の方だった。
「女が女らしさや人格を犠牲にしないで学問をつづけていくには、あるいは結婚だけを目標にしないで社会で生きていくには、いったいどうすればいいのか」
そんな当時としては貴重な自立精神がヨーロッパ、そしてイタリアにひかれていく過程で魂の彷徨がめぐりあわせた人々。彼ら、彼女達を慈しむような優しさとすべてを見通す厳しさをあわせてもつ須賀さんは、古きよき日本人の心を受け継ぎながら、個が確立されたヨーロッパ精神も自然に身につけていく。彼女の作家としてのデビューは遅かったのだが、それは読者にとってはとても幸運だったのではないだろうか。

そして、須賀さんのお父様が最後の時を迎えた時の様子が書かれた最終章の「オリエント・エクスプレス」。
お土産などめったに要求したことのないお父様が病床で娘の帰国とともに待っていたのが、ワゴン・リ社の鉄道模型と、オリエント・エクスプレスのコーヒー・カップだった。ワゴン・リ社の模型は兎も角、オリエント・エクスプレスのコーヒー・カップは非売品である。それをどうやって須賀さんが手に入れたのか、そしてお土産を大事に抱えて、急いで帰国した娘を迎えた父。最後の一文まで端整に美しく、モーツァルトの音楽のように悲しみが残される。
私もヨーロッパが好きでひかれる。須賀さんの本を読んでいくと、その昔の大陸だったヨーロッパの精神にふれるような思いがする。オリエント・エクスプレスは、3年前に126年の歴史の幕を閉じていた。

「リスボンへの夜行列車」パスカル・メルシエ著

2012-05-21 22:31:26 | Book
人生とは自分探しの旅。
自分はいったい何者なのか、本を読んでも、映画を読んでも、音楽を聴いても、友人と語り合っても、結局はすべて自分探しにつながると感じている。ブログを更新していくのも自分探しの一環だ。
そんな私には、この本の主人公グレゴリウスの感情と行動はいたくセツナカッタ・・・。

古典文献学者でギムナジウムの教師ライムント・グレゴリウス、スイスのベルン在住の57歳。彼が、本書の主人公である。元教え子と結婚していたこともあるが、今はバツイチの独身男。ラテン語、ギリシャ語、ヘブライ語まで精通し、その博識ぶりと指導力で生徒からは慕われつつも尊敬の念をもたれている名物教師。特技は10人もの生徒と同時にチェスをさすこと。これまでの人生にそれほどの不満はない。平日は、8時15分前にブンデステラッセを曲がって中心街とビムナジウムを結ぶキルヒェンフェルト橋を渡る。毎日毎日、決まって8時15分前だ。

ところが、ある日、彼はその橋から身を投げ出そうとするポルトガル人女性と出会い、更に、その後、古書店でポルトガル語の「言葉の金細工師」という本と出会ってしまった。ふたつの偶然の出会いは、グレゴリウスのこれまでの人生に奇跡のような化学反応をおこし、気がつけば、彼はリスボン行きの夜行列車に乗っていた。
何のために。

リスボン行きは、「言葉の金細工師」の著者、アマデウ・デ・プラドを探すために。

 「我々が、我々のなかにあるもののほんの一部分を生きることしかできないのなら―残りはどうなるのだろう?」

私たちは人生を生きているつもりでいても、それはほんの一部にしかならないのではないだろうか。アマデウのこの言葉に、共感とおびえと焦燥を感じなかったとしたら、あなたはうらやましいくらいに若い人だ。グレゴリウスはそれまでの謹厳実直な人生を放り出し、アマデウを探し求める旅を続け、かっての教師、アマデウの妹たち、親友、初恋の女性や激しく恋をした女性を尋ねていく。手にはいつも哲学のような文章がひらかれているアマデウその人の「言葉の金細工師」の本を大切にたずさえて。まるで人生と旅の杖のかわりのように。

アマデウを求めて探す旅は、表裏一体でグレゴリウスという自分自身を探す旅路でもある。そして、彼らの間にたちあらわれるのが、キリスト教の神である。信仰と無神論を語らずしてヨーロッパ精神を語ることはできない。その点で、一度の通読では本書を読みこなせたことにはならないとも感じている。

さて、もうひとりの主人公のアマデウは、天才的な頭脳や貴族の出自がもたらすさまざまな苦悩や不幸を背負い、おりからの独裁政権下に親友達と抵抗運動にかかわっていく。少々、非現実的で神話のような存在なのだが、旅路に少しずつあかされていくアマデウという人物像と彼の文章が、ミステリー小説に哲学の要素もとりいれていて、インテリゲンジャーから単に読書好きの私のような者まで、幅広い層に読書の楽しみももたらしてくれる。本書はドイツでは200万部のベストセラーとなり、世界中で刊行部数が400万部を超えるそうだ。人生、愛、友情、失望、死、様々な語るべき言葉が溢れていて、そして深みがある名文が次々とあらわれては心をゆさぶってくる。それは、ぞくっとくる最後の一行まで。

ちなみに本書を読もながらこれは映画になると感じていたのだが、実際に映画化がすすんでいるそうだ。主演はジェレミー・アイアンズ!他にブルーノ・ガンツやクリストファー・リーなどが出演しているとのこと。これは映画の方も観たい。

『ペーパー・チェイス』

2012-05-20 14:44:28 | Movie
東京大学を中心とした日本の名門大学10校が、秋入学の検討をはじめている。
大学にとっての最大の顧客である大学生の教育や経済的負担などを何の考慮もしないで、大学ランキングにこだわる東大学長の発想は低次元だと私には思えるのだ、こんな方には映画『ペーパー・チェイス』を是非とも一度観て頂きたいものだ。

ハーバード大学、中でもロースクールは世界の頂点だろう。
『ペーパー・チェイス』の舞台は、1970年代のハーバード大学院のロースクール。文句なく世界最高クラスの指定席。ミネソタからやってきた主人公のハート(ティモシー・ボトムズ)は、契約法の専門家である名物教授キングスフィールド(ジョン・ハウスマン)の講義をとる。早速、学生寮では講義のノートを交換する勉強会の仲間もできたのだが、厳格なキングスフィールドの講義はきまわて厳しかった。常に蝶ネクタイを締め感情を見せずに、学生に適格な質疑応答を求める偉大なるキングスフィールド。

彼らは、教授に自分の名前を覚えてもらおうと必死に勉強をしてくらいついていく。何故ならば、ロースクールでの成績は将来を左右するからだ。有名教授からの”A”という評価は法律家としての輝かしい未来というファーストクラスのチケット。ここに集う学生は、IQ180の天才、父も祖父も曽祖父も何代もハーバード大学卒業生だったという学生、驚異的な記憶力の持ち主といったきわめて優秀な者ばかり。当たり前か。しかし、ここではそれらはなんの意味もない。事前に渡された資料を読み込み、かかわりのありそうな判例や学説まで網羅して、そのうえで自分で理論をつくりあげる能力がないと通用しない。容赦のないキングスフィールドの質問に応えるためには、知力だけでなく、体力も精神力も必要だ。そして、自ら学ぶ力も。

少しずつ法律家予備軍として力をつけていくハートは、ガールフレンドは勉学の邪魔という仲間の忠告も受け容れず、キャンバスで偶然出会った美しく魅力的な女性スーザン(リンゼイ・ワグナー)に恋をするのだったが・・・。

映画では、何度も何度もハートの猛勉強をする姿を映し出す。何しろキングスフィールドの初めての講義を受講してやりこめられて、プレッシャーから寮のトイレで嘔吐してしまったハート。しかし、これこそ大学だ。レジャーランドだった日本の大学で羽を伸ばし放題で、酒と反比例して学力も知力も下降線をたどった私とは、次元が違う。必死に契約法を勉強するかたわら、ハートが意を決して恋人に婚約をせまるとスーザンは”契約”はしたくないと拒否をする。自由でいたい彼女は、契約で結ばれた結婚という形態を否定する。このスーザンが何者なのか、詳しく言えないが、かくれた映画の人気は彼女の魅力によるところも大きい。

ヴィデオ時代に一度だけ観て、強烈な印象を残したひたすら猛勉強の青春映画『ペーパー・チェイス』。どうしても、もう一度観たいと思っていたのだが、嬉しいことに最近DVD化されていたらしい。実に久しぶりに再鑑賞して気がついたのが、キングスフィールドの講義の魅力だ。厳しいけれど、こんな講義だったら猛勉強をしてでも挑みたいと思わせてくれる。40年も前の「ハーバード白熱教室」の白熱は、冷酷ながらも熱い。図書館に侵入するエピソード、友人と試験勉強のためにこもるホテル、そして名場面のラストシーン。DVDをめったに購入しない私が、レンタルにはなっていないことを知って手に入れた『ペーパー・チェイス』。もう一度、観たいと思わせてくれる知る人ぞ知る名作だ。

ひるがえって日本の大学。果たして、秋入学を実施しても優秀な留学生が集まるのだろうか。

原題:THE PAPER CHASE
監督:ジェームズ・ブリッジス
1973年アメリカ製作

■こんなおさらいも
・ハーバード大学の実力
「これからの正義の話をしよう」マイケル・サンデル著
ハーバード白熱教室@東京大学
白熱教室課外授業

『孤島の王』

2012-05-19 22:15:10 | Movie
自他ともに認める暗いヨーロッパ映画好き。
そんな私でもなかなかお目にかかれることのできない北欧ノルウエーの映画がやってきた。それも、オスロの南方に浮かぶバストイ島という絶海の孤島、監獄島から。。。

1915年のことだった。バストイ島にある11~18歳の非行少年の矯正施設にエーリング(ベンヤミン・ヘールスター)が送還されてきた。彼がどのような罪を犯したかは語られない。髪を刈られ、私物をとりあげられ、コードネームはC-19と決められる。名前を剥奪され、新入生を待っている施設の少年たちの前に初めて表れた時は、作業服を持たされて全裸だった。すべて生まれ変わり、白紙の状態で一から更正させようという院長の崇高な教育方針なのだろうか。しかし、そこには矯正という大義名分のもとに少年たち自身の精神の自由は踏み潰されていた。

尊大で厳格な院長(ステラン・スカルスガルド)、冷酷で強圧的な寮長のもとで、矯正施設の中では理不尽なきつい労働作業や体罰が横行していた。屈強な新入生エーリングのたった一人の反乱は、やがて卒業を控えた模範生のC-1オーラヴとの友情を通して、少年達の一斉蜂起への爆発へと向かっていく。

1900年に建設され、非行少年150人ほどを収容していたバストイ島の矯正施設は、本来は児童に体罰を与えるよりも、通常の授業に加えて農場での仕事などの就労研修を行い、彼らにあった環境の中で成長させるという理想からはじまったそうだ。しかし、現実は理想からほど遠く、理不尽な体罰や暴力が日常的に行われていたという。『孤島の王』は、ノルウエーの国民ですらよく知らなかった、1915年に実際に起こった少年達の反乱と、彼らを鎮圧するために軍艦が兵士150人とともに上陸した事件をモチーフに描かれている。

映画館には、この傑作への批評記事の切り抜きが掲載されていた。映画を観てから読むか、観る前に読むか、私にはちょっとしたお楽しみなのだが、迫真の映画を鑑賞した後に、全国紙や雑誌に筆をふるった映画評論家たちによるそれらの記事に目を通しながら、なんだか違うという違和感がぬぐえなかった。矯正施設はあくまでも矯正が目的なのだから、教育とは少し違う。ある意味、非行に走る少年たちに自由が制限されていることもありだし、優しさよりも厳しさが必要な時もある。この映画で描きたかったのは、非行少年の更生方法のあり方や、歴史に埋もれた重い事実でも、反体制でも自由を求める気持ちでもない。『カッコーの巣の上で』とも似ていない。

唯一、土屋好生さんの「切羽詰まっ『顔』の迫真」と表現した批評に、私は同じ感想をもった。
映画がはじまるやゆるみがちだった神経がぴりりとしまり、厳冬の北欧の映像に意識が集中していく。孤島を吹きすさぶ風、降り続ける冷たい雪、そして作業着でびっしりと並んだこどもたち。そんなリアルな映像の中にも、北欧らしいリリシズムが抒情的である。そんな景色に浮き上がってくるのは、登場人物たちの怒り、絶望、希望、悲しみ、軽蔑。殆ど無名といってもよい俳優陣の個性的な表情が、ずっしりと心にせまってくる濃密な人間ドラマにこそ、この映画で観るべきところだ。全くもって、優れた映画である。
そして、忘れてはならないのは、エーリングの言葉だ。

「誰でも王になれる」

3月の卒業式のことだった。
大阪府立高校の某校長が、国歌斉唱時に教師の口元をチェックして歌っていない教師の人数を橋下徹大阪市長にメールでご注進した。大阪府では、大阪維新の会が提案した国歌起立条例が成立して、1月には全教職員に起立斉唱を求める職務命令の通達があった。早速、大学時代からの友人でもあり、命令を厳密に解釈した校長を絶賛して、橋下市長は返信文とともに府市の幹部や教育委員に転送した。「もっと悠々たる度量でご検討を」というまともなメールで反論したのが、当時の教育委員長。これに激高した橋下市長は激しく反論し、委員長の責任問題にまで言及した。

これまでにも市長選で対立候補の平松邦生前市長を応援した職員をあぶりだすために、公用パソコンに残る幹部職員のメールまで極秘に調べた事件もあった。近頃では、職員に入れ墨の有無を記名式で調べ上げ、入れ墨をしていたら「分限(免職)もあり得る」とまで気合を入れてちょっとした騒動になっている。これももう少し悠々たる度量でご検討を・・・、と言いたいところだが、なるほど、確かに誰でも王になれる!孤島の王が孤立の王になったとしても。

監督:マリウス・ホルスト
2010年ノルウェー=フランス=スウェーデン= ポーランド製作

読売日本交響楽団第515回定期演奏会

2012-05-15 23:03:59 | Classic
容姿端麗の千秋よりも野獣派好みの私としては、最近気になる若手の指揮者と言えば下野竜也さんだ。
彼はどう撮りようにもヴィジュアルにはならないあの風貌と体格を逆手にとって、知性をかくした親しみやすさとお茶目さで今や創立50周年を迎える読売日響の看板指揮者となりつつある。コンサートのプログラミングもなかなからるもんだ。

今宵の1曲目は、日本初演となる現代曲アリベルト・ライマンによる「管弦楽のための7つの断章 -ロベルト・シューマンを追悼して-」。ライマン(1936年~)は、ドイツ語圏を代表する作曲家だそうで、人間の声の表現力を追求して評価を得たそうだ。演奏に先立ち、下野氏によるプレトークが開かれた。指揮者の生の声で簡単な解説をする”営業”は好ましいと思う。それに、なかなか下野さんの声は営業トーク向きだ。解説によるとシューマンの遺作<最後の楽想による幻覚の変奏曲 変ホ長調WoO.24>へのオマージュが盛り込まれているとのこと。そして、実際にピアノの音で主題を紹介してくれた。

曲は7つの断章で構成されているが、明確な区切りはなく、トロンボーンのシューマンVn協奏曲のモチーフがあらわれたかと思うまもなく、次々と多くの音、音色が重なり混沌とした不協和音の渦にまきこまれていく。いみじくもライン川に身を投じたシューマンの精神世界を、音符で色彩豊かに描いた音の洪水に自らも身を投げ出しているような心地になってくる。現代音楽を演奏するのも難しいだろうし、聴衆も心地よさや美しさを感じるわけでもなく、ノリがよいわけではない。しかし、ドイツ語圏の現代歌曲コンクールでは頻繁にライマンの作品がとりあげられていることからも、現代音楽を演奏すること、聴くことは大事なことだと考えている。意欲的なプログラムに奮闘する下野氏と読売日響の団員を応援したい。

次は待望の三浦文彰君の登場。
曲目は殆ど演奏される機会のないシューマンのVn協奏曲。しかし、2009年16歳でハノーファー国際コンクールで優勝した彼は、2010年11月ミュンヘンですでに初めて演奏した経験があるそうだ。三浦さんは当初この協奏曲がどうしても好きになれなかったそうだが、パヴェル・ヴェルニコフ氏のレッスンを通じて、時間をかけて取り組んで行くうちに少しずつ好きになっていったとのこと。これまでそれなりにコンサート通いをしていた私も、実際の演奏を聴くのは初めてだったのだが、とっつきにくさの中にも美しさや苦しみが現れては消え、ベートーベンのようなどっしりとした格がなく、ぶれながらも非常にチャーミングな素晴らしい作品だと感じた。三浦さんはこの曲をもう何度も演奏してきたかのように、楽々と楽しみながら美しく繊細に音色豊かに演奏している。気負いもなく、実に自然な音楽の流れをやすやすと生み出して美しく奏でていく。本当にうまいヴァイオリニストなのだ。

小柄でどちらかと言えば華奢な三浦さんが、真紅のポケットチーフをさしてヴァイオリンを演奏している姿は、ジャニーズ系の雰囲気があり絵になる。そんな彼には、シューマンのこの協奏曲の不思議な可愛らしい曲想がとても似合っている。下野氏も読売日響もよくこの作品を選定し、又、ヴァイオリニストに三浦君という最高のキャスティングをしたものだと感心する。もう、この曲は三浦君以外に、おじさんには弾かせたくない。。。
アンコールは、若者でなければ弾けないような超絶技オンパレードのパガニーニの「パイジェルロの水車屋の娘から 我が心もはやうつろになりて」。やっぱり10代の若さの勝利だよ。

最後の交響曲は、同じくシューマンの交響曲第二番。この曲は音楽ジャーナリストの渡辺和さんによるとプロの指揮者に偏愛されるツウ好みの楽譜だそうだ。ロマン派に位置しながら、決してわかりやすい曲ではない。シューマンの曲には精神が不安定のような不安と不思議さがのぞかれ、それでいて楽しくも美しくもある。傑作ミステリー小説「シューマンの指」を書いた作家の奥泉光さんは、かなりのシューマン好き。下野さんの指揮は、混沌の中にも希望のようなシューマンを聴かせてくれた。

演奏会が始まる前の場内アナウンスで様々ないつものご注意とお願いがあったが、最後に「拍手は、指揮者が指揮をふりおろしてからお願いします」との放送があった。これはツウでなくても大事なお願いだよ。

---------------------------- 5月15日 サントリーホール --------------------------------

指揮:下野竜也
ヴァイオリン:三浦文彰
ライマン:管弦楽のための7つの断章 -ロベルト・シューマンを追悼して-(日本初演)
シューマン:ヴァイオリン協奏曲 ニ短調
シューマン:交響曲 第2番 ハ長調 作品61

■アンコール
パガニーニ :「パイジェルロの水車屋の娘から 我が心もはやうつろになりて」による変奏曲op.38


『アラフォー女子のベイビー・プラン』

2012-05-13 14:23:14 | Movie
結婚はいつでもできる。経済力と体力さえあれば、野田聖子さんのように50歳過ぎても出産できる。しかし、自分の卵子で妊娠するには年齢制限がある。
アラフォー女子!仕事は順調、公私ともに充実しているが、そろそろ子育てという一大事業をはじめたい。ところが、さしあたって精子を提供してくれそうな夫も恋人もいないし、親友といってもよい男性の友人はイマイチで即圏外。最終便にまにあうためには、精子バンクにたよりしかないか・・・・。

と、ここからはじまるのが、このコメディ映画。人工受精で妊娠して男児のセバスチャンを出産したキャシー(ジェニファー・アニストン)は7年ぶりに故郷からNYに戻って来る。(以下、内容にふれていまする。)キャシーを演じたジェニファー・アニストンはなかなか庶民的な美人だと思ったのだが、なんと今さらながら知ったのだがブラット・ピットの前妻だった!
「ハリウッドで最も稼ぎのいい女優」にランキングしているためか、邦題はいかにもキャシーが主人公のようになっているが、本当はキャシーが好きなのにアタックできない気の弱いダメ男の親友ウォーリー(ジェイソン・ベイトマン)の男性側の映画である。

「The Switch」

本当の原題はこれだ。
これにはキャシーにとって爆弾のような事実が隠されている。
日本の非配偶者間の精子提供者は、健康であること、感染症がなく遺伝的疾患もなく、プライバシー保護のために匿名で提供しなければならず、営利目的で行われるべきではないとの見解が学会でまとめられている。しかし、ここはNY。キャシーはお金でルックスがよいスポーツマンの精子を買う。米国では、非配偶者間の人口受精(AID:Artificial Insemination by Donor)は家庭で女性ひとりでも人工受精できるキットが17ドル程度で売られていて、ネットで希望する精子を購入したり注文できるサイトもある。すごい。

キャシーは相手の顔を知らない子どもをつくりたくないという理由から、知人を介してローランド(パトリック・ウィルソン)の精子を買うことになり、友人が企画して子づくり宣言のパーティーを開くのだが、驚いたことに精子提供者のローランドだけでなく妻も出席している。あきれたウィルソンは、精子を売る理由をローランドに尋ねるのだが、
「お金のため。教師をしているが給料が安い。妻も賛成している」
となんのくったくもない100%爽やかな笑顔で応える。仰天。

その後、薬草で泥酔したウィルソンはトイレにあったローランドの精子をうっかりこぼしてしまい、なんと自分のものを代用としてこっそり置いてしまう。記憶を失い、すっかり忘れていた”交換”を5歳になったセバスチャンの言動を見て、少しずつ記憶をとり戻しつつ真っ青になっていくウィルソン。つまり、酔った勢いで「The Switch」の暴挙をしてしまったウィルソンの物語である。勿論この映画はハッピーなコメディ映画だ。

しかし、考えたのは女性にとっては単なる精子提供者でもこどもにとっては、生物学上の父親となる。扶養する義務も育てる必要もないとは言え、男性にとって自分の知らない女性との間に自分の遺伝子をもったこどもが育つことに疑問やためらいはないのだろうか。日本では夏木静子さんの「ガラスの絆」を発端として人工授精が一般的に知られるようになり、すでに数千人から1万人程度のこどもたちが生まれているという。1948年にはじまった当初の提供者は、某大学医学部の優秀な医学生だったそうだが、現在は、ボランティアで提供される精子バンクを運営する複数のサイトがある。中には、提供者に東大、国立大学医学部卒(早慶は推薦や内部進学者が多くて対象外だそうだ)、身長175センチ以上で顔も平均以上に限定したサイトもある。不図、映画の中で人工授精に猛反対するウィルソンが、キャシーに「精子がホームレスのものにすりかえられて、そのこどももホームレスになった」という嘘をつく場面があったことを思い出した。果たして女性は頭脳優秀なこどもをそんなに望んでいるのか。ジョディ・フォスターだったらわかるけれど。

ウィルソンは身長も低く、容貌も普通。アナリストを務めているから頭脳はそこそこ優秀だろうが、運動神経はゼロでどんくさい。神経質で内向的、女にはもてない。けれども、セバスチャンにとってはよいパパ、そしてよい夫になりそうなところで映画はハッピー・エンド・・・か?セバスチャンは、とてもとても可愛い。ウィルソンとキャシーの間にあんなに可愛らしいこどもが生まれるわけがないと私は思っている。本当にウィルソンのこどもか?かなり確率は低いけれど、ローランドのこどもの可能性もゼロではないぞ。

さて、英国では精子を提供された人工授精のこどもは、18歳になると精子提供者が誰であるか、突き止めることができるようになった。 知らないうちに、100人以上のこどもがいたという紳士も登場するかもしれない。一番笑えたのは、本編がはじまる前に大文字の字幕も設定できますというスーパーが流れた時だ。近視は年寄りだけでないけれど、思い込みの人生はつまらない。

監督:映画『俺たちフィギュアスケーター』のジョシュ・ゴードンとウィル・スペック
2010年製作

『お熱いのがお好き』

2012-05-10 23:07:39 | Movie
禁酒法時代のシカゴ。サックス奏者のジョー(トニー・カーティス)とベースを弾いているジェリー(ジャック・レモン)は、勤務先の酒場に警察の手入れが入って失業してしまう。たちまち生活に困窮したふたりは、新天地に職を求めて向かうために借りた車をとりにガレージに行った聖バレンタインのその日、ギャングの抗争事件を目撃してしまう。慌てて命からがらに逃げたジョーとジェリーだったが、ギャングのコロンボ一味から命を狙われる身となったしまった。一計を案じたジョーは、なんと女装してジョーはジョセフィン、ジェリーはダフニと名前を変えて、女性ばかりのオーケストラのメンバーとなってマイアミへの演奏旅行に加わることになるのだったが、一行にはとびきり魅力的なボーカル兼ウクレレ奏者のシュガー・ケーン(マリリン・モンロー)がいたのだった。。。

今年で没後50年となるセックス・シンボルのマリリン・モンローが主演の映画の1本。
それだけの予備知識で鑑賞したのだが、映画の中のギャグも演出もすべてが新鮮で現代でもちっとも色あせていないことに驚いた。監督のビリー・ワイルダー自身も加わった脚本は、ユーモラスとウィットに富んでいて素敵。軽快でテンポのよい会話の応酬が実におもしろい。彼らが窮地の策として女装して汽車に乗り込む時、「まるで裸を見られているみたい」と愚痴をこぼすダフニのリアルな表現に感心しているまもなく、「その大根足でよく言うよ」とジョセフィンの痛烈なショットがかえってくる。会話と、その会話の打ち返しのタイミングがこれ以上にないくらい最適なのだ。

ところで、マリリン・モンロー亡き後、”セックス・シンボル”という表現が似合う女優は絶えてしまった。金髪でも賢く、社会貢献活動にいそしみ、世間とうまくおりあっていける女優の中で様々な伝説を残したモンローは不滅な存在である。モノトーンの映像にシースルーのドレスを身につけて体をくねられせてけだるく甘い声で歌うモンローは、色気の化身である。私もほんのちょっっぴしでもよいから、色気の花粉を分けてもらいたいところだ。ちょっとぬけてて、お酒好き、けれども無垢なシュガーは最高に可愛い。

彼女に恋をしてしまうトニー・カーティスも上品な女装でなかなか美人なのだが、ジャック・レモンのダフニにはなんたってかなわない!笑った顔の真紅の唇の形、細くなった目をふちどるアイラインがつくる造形は、こんな女性がいそうだとあまりにもはまっている。『トッツイー』のダスティ・ホフマンや『ミセス・ダウト』のロビン・ウィリアムズは自然な女装で演技力を見せつけたが、ジャック・レモンはいかにも男が女装をしているという雰囲気を残しつつ奇想天外なおもしろさをだしている。タンゴを踊り、マラカスをふりながら腰もふるジャック・レモンの演技に心の底から笑わせられた。私はコメディ映画は実際は悲劇映画を撮るよりもはるかに難しいと思っているのだが、実によくできている。

本作は2000年に全米映画協会が選ぶコメディー映画ベスト100で第1位に輝いていた。これまで観たことがなかったのは、全くもって私の不覚だったということか。

有名なラストの名セリフも心に残るが、私が一番のお気に入りは、マイアミに向かう汽車の中でシュガーが救ってもらったお礼に「お礼に何かさせてちょうだい」とたずねると、すかさずダフニが嬉しそうに、
「いろいろあるわよ」
と応える。本当に嬉しそうに・・・。いろいろって・・・・。。。

監督:ビリー・ワイルダー
1959年 アメリカ製作

「理系の子」

2012-05-09 00:03:36 | Book
成毛眞さんがブログで、早くも2012年度No.1候補と絶賛したのが本書の「理系の子」。成毛さんによると、サイエンスで泣けるとは夢にも思わなかったそうだ。つまり、この本を読んだ成毛さんは何度も涙をぬぐったのだった。どうしてこの本で泣けるのか。思うに、ノンフィクションの力と登場人物が世界最大のサイエンス・フェア国際大会のインテル国際学生サイエンスフェア(以後、インテルISEF)に出場した12人の高校生のストーリーに魅力がある。研究成果の画期的な点や優れた内容を紹介するよりも、その夢の舞台に登場するまでの様々な道のりに重みがある。

じっくり科学にとりくむには、それなりの環境が整っていた方が望ましく、又、有利である。インテル国際学生サイエンスフェアに出場する多くのこどもたちは、経済的にも恵まれた育ちのよい子息が実際は多いのだろう。しかし、2009年の参加者6名と伝説をつくった出場者からなる主人公12人は、決して恵まれているとはいえないバックボーンを背負っている。暖房器具のないトレーラーハウスで暮らす貧しいネイティブ・アメリカンの少年、少年矯正施設からインテルISEFに出場する若者、両親の離婚、性的虐待を受けた少女、言語障害があったためいじめられてきた少年がヒーローになり、人生を切り開いていくのもサイエンスフェアという舞台でもある。

さて、1950年に設立され、1997年よりインテル社がメインスポンサーとなっているインテルISEFは、サイエンスフェアのスーパーボールとも呼ばれる最大の高校生の科学オリンピックである。ISEFが認定する世界各国の提携サイエンス・フェアを勝ち抜いた1500人ほどのこどもたちが、毎年5月にアメリカで開催されるインテルISEFに出場する。審査員も200人の科学者も含めて1000人にものぼる。

さすがにアメリカである。何と、その賞金額は総額400万ドル超(3億円を超える)にものぼり、1000万円の奨学金や最優秀化学賞を受賞した者にはスイスに設置されている世界最大の素粒子加速装置の見学旅行といった、彼らにとっては極楽ハワイ以上のお楽しみも用意されている。研究内容によっては、政府機関や企業からの引き合いもありスポンサーがついたり、5人にひとりは特許を出願しているから、ちょっとしたベンチャー企業主にもなれる。実際、伝説のひとりは、カーボンナノチューブを使った研究から、1000万円以上の奨学金を受けたばかりか、年間売り上げ18億円企業の50%の経営権をもち、ハーバード大学に入学した時は、フェースブックのザッカーバーグよりも有名人だった。たとえ相手が高校生であろうと、成果にみあった報酬が与えられているのもアメリカらしい。

こういったこどもたちが大会に出場するには、彼らを支援するよき教師、指導者たちも必要であり、理解ある親の存在もみのがせない。又、こどもたちもしたたかで、審査員受けをするきちんとした服装で大会に挑んだり、審査員におもねるようなプレゼンテーション能力を磨いたり、と準備に余念がない。審査員も情があり、大学進学のための奨学金目当ての貧しい参加者には、ちょっぴり優しいそうだ。

さらに、文章を読んでいるうちに何度も目に付くのが、戦い、勝つ、といった競争意識である。公立小学校の通知書が絶対評価になり、平等をねらい運動会のリレーが中止となったり、他人と競いはっきり順位付けすることを避ける傾向にある日本の教育になれると、科学のフェスティバルにそのような競争がもちこまれることになじめない部分もあった。しかし、インテルISEFが高校生たちによる科学オリンピックであるならば、甲子園で戦う高校球児たちのように、全力で競い合うものであり、勝者が讃えられるのも素晴らしいことである。そして、負けたこどもたちも捲土重来で再チャレンジを誓い、そこに残るのはくやしさだけでなく、未来への希望が続く。
そして、甲子園大会で優勝した高校球児が一躍スターとなるのと同じように、アメリカでも科学オタクと敬遠されがちな”理系の子”もヒーローになりうるのだった。
科学することは、なんとおしゃれで素敵なのだろう!

それを考えると、邦題の「理系の子」という題名は違うのではないだろうか。そもそも受験体系で理系、文系とわかれることから、人間まで理系と分類する発想は本質的に科学が好きな人間を誤解していると思う。本書に登場するモデルをこなす少女の話からもそれがわかるのに、少し残念である。

原題 『Science Fair Season』

■こんな理系の子たちも
「残夢整理」多田富雄著
「ダークレディと呼ばれて」ブレンダ・マックス著
「二重らせん」ジェームズ・D・ワトソン著
「心は孤独な数学者」藤原正彦著
「完全なる証明」マーシャ・ガッセン著
「フェルマーの最終定理」サイモン・シン著