千の天使がバスケットボールする

クラシック音楽、映画、本、たわいないこと、そしてGackt・・・日々感じることの事件?と記録  TB&コメントにも☆

「赤い指」東野圭吾著

2006-11-27 23:11:21 | Book
その憂鬱な電話は、夕方会社で会議の資料を作成しおえて、昭夫が一杯呑む相手を探している時にかかってきた。
「あなた、ちょっといろいろあって、早く帰ってきてほしいんだけれど。」
妻の八重子の要領をえない、うろたえた声が聞こえてきた。最近、毎日帰宅すると、昭夫は同居している老母について八重子から抗議をぶつけられる。いかに自分が嫌な思いをしているか、忍耐の限界にきていることを切々と、またある時は激怒して訴えられる。中学1年生の一人息子の直巳は自室に閉じこもりゲームに熱中して、食事を両親と一緒にすることもない。平凡ながらつつましく「家族」を営んでいてはずなのに、いつのまにかその輪が軋んできてゆがんできた。直視すれば、実はその実体は崩壊寸前なのに、いつも面倒なことには背を向け棚にあげてきた昭夫。
しかし、早々に帰宅した彼はもはや逃げられない現実に直面する。それはあまりにも厳しく苦しい現実だった。

満を期して直木賞受賞後のファン待望の第一作。今度もファンの期待を裏切らない仕上げは、著者の東野圭吾氏のこれまでの作品に通じる単なるミステリーの謎解きではなく、読者の琴線にふれる普遍性のある人としての情が核心にあるからだろう。直木賞受賞作「容疑者Xの献身」で、理系男、孤独な数学者の純愛を描いて読者の涙を誘い、6年の構想を経て書き下ろした最新作「赤い指」では、事件を起こした家族と捜査に関わる刑事とその父という二組の親子の情愛を書いた家族の物語でもある。また他者と関わらずひきこもるこどもたち、幼いこどもや少女が被害者になるという悲惨な事件の多発、高齢化社会に伴う老人介護の問題、今日的な社会性をももりこんだ著者らしい視点と明確なメッセージ性をもあわせもつ。
誰にでもこの世に生を受けたからには父や、そして母がいる。就職して、結婚して家庭をもち、必死になって働き新しい家族を築いていくうちに、気がつけば両親は老いていた。しかも元気だと思っていた親が認知症になっていた事実に驚くことは、格別不運や不幸な家庭ではなく、ごく日常的な風景になってしまった。日本は誇るべき世界一の長寿国だ。しかし、長生きした老人の介護の実体は、もはや社会問題にもなっている。

老いて痴呆になってきた母を目の前にして、昭夫が事件を隠滅するために選択した決意は、決して人として許されるものではなかった。
やがて真相に近づいた加賀刑事は、「刑事というものは真相を解明するだけでなく、いつ、どのようにして解明するかも大事だ」と、従兄弟の刑事で一緒に事件を担当した松宮に諭す。加賀刑事が、彼ら自身でこの家の中で解決するためにとった方法は、涙なしには読めないだろう。
「放課後」のデビュー作で60作目という多作の作家ではあるが、その水準は常に高く、まなざしは清々しい。
ミステリーとしても一級品。

「初恋温泉」吉田修一著

2006-11-26 13:14:13 | Book
一生温泉に行かなくてもよいから、欧州でコンサートを聴きに行きたい。
この口癖が私の仕事へのモチベーションであり、海外逃亡への言い訳である。しかしながら、家族への説得力ない。だって年に何回も温泉に行っているんだもん。今月は、すでに西伊豆の土肥温泉でまったりしてきたばかり。実は、こどもの頃から大の温泉好き。
作家の吉田修さんも温泉好きで、多忙な中、3ヶ月に一度は温泉旅館に泊まっているそうだ。
さすがに、作家。温泉につかりながら、夕食を想像したり、ぼ~~っとのんびりしている無能な私と違って、その温泉旅館に宿泊しながらどんなカップルが泊まりにくるのだろうと想像しながら、「共通した場所と、共通した関係性のある短編を書こう」と思って書いたのが、本書の「初恋温泉」である。

高卒で必死に働いてこじゃれた居酒屋を都内に数店舗もつようになり、一流大学を卒業して広告代理店に勤務する雑誌モデルにもなった高校時代の初恋の女性と再会して結婚。夫婦の関係は事業と同じようにうまくいっていたはずなのに、妻から別れ話をきりだされてふたりで泊まる熱海「蓬來」の「初恋温泉」。
その他、婚約中のおしゃべりなカップルが泊まる青森「青荷温泉」で出会った、隣室の静かなカップルとの交流を描いた「白雪温泉」。それぞれ夫や妻がいながら、出口のない不倫を続けるカップルが京都で待ちあう「祇園畑中」で空虚感を見事にえがいた「ためらいの湯」や、奇妙にもひとりででかける那須温泉「二期倶楽部」での少々怖い「風来温泉」。場所=温泉旅館、関係性=カップルとして関連づけた短編が、5つの場面で展開していく。

どれもかっては幸福だったカップルが、知らないうちに心が離れていたという男女の微妙なずれを乾いた空気感と淡いタッチで描く作家、吉田修一さんは短編の名手。温泉に行く行為、温泉旅館に恋人や妻を連れて行くという男の力の示し方と愛する者への思いやり、その一方でそんな男の立場や一方的な愛のプレゼンテーションに忖度のない妻や恋人たちの女の強さ。本書にみる女も経済力をもち自分の生き方を模索する現代は、温泉街が昔のような活況が消えて寂れていくのと無縁ではないかもしれない。

最後の「純情温泉」は、今時の高校生カップルが親には友人と行くと嘘をついて、バスにゆられてたどりつく庶民的な黒川「南城苑」に泊まる物語である。家族風呂にふたりで入ることで頭がいっぱいの健二と、浮気した兄の離婚騒動にまきこまれて悩む真希。ここでも即物的な愛の行為が中心の男子高校生の純情と永遠の愛を信じられない女子高校生の不安な気持ちという、男女の重ならない乖離を描いている。
この先、真希以外の女の温泉にくることなど想像もできなかった。星の瞬く山間の露天風呂で、真希を好きという気持ちがいつかなくなるなんて、いくら考えても想像もできないという健二。
最後にこの「純情温泉」をもってきて時間の時系列を遡る構成が、単なる短編集以上のつながりを示している。そういう意味で、「純情温泉」でせつなくなる読者は多いだろう。
また夫婦というかたちに違和感をもち、そのせいであろうか30代後半になる今も独身の作家の深層にちょっとひたれるような本である。温泉好きな方は、きっとだれも気に入るだろう。そういえば、ブログ仲間の某さまもご夫婦で温泉へ。。。

「着るものがない!」中野香織著

2006-11-24 22:55:04 | Book
               「着るものがない!」

毎度おなじみのヴィトンのバッグをいくつも所有する我が身内の話なのだが、ある日のこと、結婚式に夫婦で招待されているのだが、着ていくものがないと相談の電話があった。
「またあ~~~っ?!」
念のため言っておくが、この身内の者はクローゼットに入りきらない服を押入れの収納ボックスにも積みこみ、初めて彼らの新居を訪問した私は押し入れを開けて絶句した。ゴルフ用の服だけで、ボックスの中に数えきれないくらいつまっている。靴は、いったい何十足あるのだろうか。つい先日は、部屋の模様変えをするために、いくつものゴミ袋に大量の古い服をいれて処分したばかり。勿論、私よりもはるかに衣装もち。それにも関わらず、同窓会やら旅行、行事など、なにかある度に着ていく服がないと騒いで買物に出かけていく。なんともったいないことかと、こどもの入園式には、私の紺のスーツを無理やり貸したばかり。

服があふれているのに、この地球上には本当に着る者がなくて健康を危険にさらされている人がいるのに、こんなセリフは不謹慎きまわりないが、山をなす服の前に、今日、今着ていく服がなくて立ち尽くす人の切実さもおそらく真実である。それが著者中野香織さんの「着るものがない!」という本のタイトルの由縁である。実は19世紀半ば、そのものずばり「Nothing to wear」という詩で多くの読者の共感をえた米国の作家がいたそうだ。
ミス・フローラ・マクフリジーはパリにでかけて帽子から靴、ジュエリーにいたるまでありとあらゆる機会に備えて服飾品を買い揃えたのに、3ヶ月もたたないうちに舞踏会を準備しているうちに、大量のドレスを前に彼女は絶望する。
「着るものがない!」
優しい婚約者は、いつも着ているよく似合うドレスをすすめるが、「毎日着ているドレスを着ていけっていう男はまともではないっ!」とさらにいらつく。必死になった婚約者はもっともお気に入りのドレスを強力にすすめると「少なくとも3回は着ちゃったわ!」と、ついに女の切実なる要求を理解していないと、その場で婚約を破棄されてしまった。
このミス・フローラは、英国のブレア首相を「誰それっ?」と斬ったパリス・ヒルトン級のお馬鹿な我がまま娘なのだろうか。それとも虚栄心のかたまりなのだろうか。いやいや、この時代、殿方には理解しにくい同じドレスを舞踏会に着ていけない必死の淑女の事情も、それなりにわかる。服装は、女の戦闘服なのだから。
女のあけた胸元にゆれるY字型のネックレスを「ニキーター」誌が、”乳間ネックレス”と命名したように、ほんの小さな武器も含めて、女が一歩外に出るには毎日勝負服を装着しなければならぬ。嗚呼、疲れる・・・。

中野香織さんと言えば、日経新聞でおなじみの「モードの方程式」など、ちょいおかための教養系ファッション・ライター。本書も新聞などに掲載されたコラムを縫い合わせた体裁になっているが、あくまでも服飾史などの知識のバックボーンからくるお嬢様の雰囲気はくずさない。本物お嬢様、米原万理さんの鋭いツッコミと発想の逆転、猥雑な奥義を思い出すと、素材がよいだけに少々ものたりなくはある。ジャン・グリゾーンさん手がける装幀の優雅なユーモアと真紅の花布にわりには、中身の豊満さに欠けているといようか。それでもコメディ映画「プラダを着た悪魔」を観た後は、こんな本を気楽に読みたくなるのも正直なオンナ心。

結局、私は結婚式に着られる服を数点選んで身内の者に宅急便で送ったのだが、試着して”微妙にラインが古い”ということで即効却下された。
「やっぱり、買うしかない!」
それが夫の結論だ。地方に住み選択肢の少ない彼らの自宅に近いデパートに入っているOL向けのお店を、たまたま東京駅大丸デパート内で見かけて、そこに飾ってあったスカイ・ブルーのスーツを至急電話で教えてあげた。翌日購入して、無事結婚式で任務をおえたその綺麗なスーツは、またクローゼットの奥深くに眠っている。本当に、疲れるのだ・・・。

「耐えがたいほど醜い形なので、半年ごとに変えなければならないのが、ファッションである」
                           -by オスカー・ワイルド

プーチン批判の露・元中佐が重体

2006-11-23 17:39:11 | Nonsense
 英メディアは19日、ロンドン警視庁が、プーチン大統領を批判するロンドン在住の露連邦保安局(FSB)元中佐への毒殺未遂事件の捜査に着手したと一斉に伝えた。

先月モスクワで起こったロシア人女性記者殺害事件に関連する可能性があるという。
報道によると、元中佐は、アレクサンドル・リトビネンコ氏。今月1日、イタリアの情報提供者とロンドン市内のレストランで接触し、プーチン大統領のチェチェン政策を批判した女性記者アンナ・ポリトコフスカヤさんの殺害に関与した人物のリストを受け取った。
しかし、帰宅後に倒れ、病院で治療を受けたところ、体内から劇物のタリウムが検出された。元中佐は現在も重体。
英メディアは、情報提供者に毒薬に関する知識がないことなどから、旧ソ連スパイ機関「国家保安委員会」(KGB)の後継機関であるFSBの関係者が、機密情報に迫るリトビネンコ氏の殺害を企てたとの見方を示している。

リトビネンコ氏は1998年、モスクワで会見し、FSB幹部から要人暗殺を命じられたと爆弾発言し注目を集めたが、2000年、英国に亡命、プーチン政権の強権体質を批判してきた。
 (2006年11月19日読売新聞)

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米国CBSの記者によるプーチン大統領とのインタビュー番組を観た時、ロシア人にしては小柄でやせている人という印象だったのだが、ダークスーツ姿の下に予想外の筋肉質の鍛えられた肉体がうかがえて、あらためてかってのKGB(国家保安委員会)出身の大統領だったことに軽い眩暈を覚えた記憶がある。そのロシア大統領出身のインテリジェンスのテクノクラート集団の秘密警察KGBは、ソ連消滅とともに1991年末に解体されていった。国内治安の担当FSB(連邦保安庁)、国境警備を行う連邦国境庁、国外の諜報活動に携わる対外情報庁など、連邦政府から完全に独立して大統領の直轄機関として機能している。

そのFSBが、権力を増大している。8月に日本漁船「第三十一吉進丸」に対して、納得できない攻撃をしたのも03年に連邦国境庁を吸収して傘下におさめてFSB隷下の国境警備隊だった。国境管理がFSBに移管されてから、テロリスト取締りの厳格な管理体制が適用されるようになった。また一昨年北オセチア学校占拠事件において、治安当局が武装勢力から賄賂を受け取ってテロの準備を黙認していた疑惑が浮上するや、徹底した汚職キャンペーンによる幹部の更迭が続き、従来の日本とのあいまあいなやりとりが、全く許されなくなったためである。ロシアのテロ対策は、FSB主導により強化されている。地方と中央政府との連携強化目的のための「反テロ委員会」設置により、FSBを頂点とする中央と地方の縦、省内の横が一体となった巨大な対テロメカニズムがロシアに誕生したのである。

6月にイラクで発生したロシア外交官殺害事件に衝撃を受けたプーチン大統領は、犯人の撲滅指示とともに、ロシア特務機関を国外に派遣する法律を整備し、あわせてロシア軍を国外に投入する無期限権限を大統領に付与する決議を議会上院は採択した。確かに、プーチン大統領は、KGB出身、FSB長官も務めたのだった。

チェチェン報道などを通じてプーチン政権を厳しく批判してきたアンナ・ポリトコフスカヤ記者が自宅アパートで射殺された時の遺体には、確実に殺傷される体の特定4ヶ所に銃弾があった。この手口は、FSB系マフィアの常套手段だという。また、彼女が学校占拠事件を取材するために搭乗した飛行機の中で紅茶を飲んだ後に、意識不明となりロシア当局による毒殺未遂を主張していた。

現在のFSBは、国境警備部門のみならず、連邦政府通信・情報局を統合し、連邦税務警察庁の機能の一部も担っている。やがてはかってのKGBのような世界最大の秘密警察が誕生するのではないか、と予測する専門家も多い。1999年から就任していて、プーチン大統領お気に入りのパトルシェフFSB長官は、次期大統領候補にまでのしあがっている。

「性と暴力のアメリカ」鈴木透著

2006-11-22 00:12:24 | Book
この刺激的なタイトルは、他国には理解しがたい超大国である米国への疑問をついている。
最も進んだ科学先進国でありながら、大統領選挙戦の争点に同性愛や妊娠中絶の是非になること。女性解放運動とともに、性の解放もすすんでいるかのように見えながらも、婚前交渉を禁止する運動をすすめる保守的な宗教団体の存在。
また1992年ハロウィーン・パーティの日に訪問した日本人留学生だった服部剛丈君(当時16歳)への、過剰防衛とも言える射殺事件に見られるような、今や2億挺を超える過激な銃社会。そして欧州では死刑制度を廃止しているにも関わらず、(つい最近まで未成年者も含んだ)今なお残る死刑制度。
これらの性と暴力は、人為的な集団統合を宿命づけられた多人種アメリカでは、性の問題が単なる男女関係の次元だけではなく、人種との複合問題であり、白人男性の黒人男性への性に対する恐怖の感覚、脈々と米国社会に流れて、しばしば暴力の行使へと発展し、性と暴力を結び付けているというのが、著者の理論である。

本書にある暴力、フロンティア精神からくる共同体の安全という大義名分による”排除”から”リンチ”へと発展する変質への記述、そして白人と黒人間の性的接触を意味する”miscegnation”という単語から、あまりにも内容が衝撃的で2度と観たくない映画を思い出した。
それは実際に起こった事件を映画化し、ヒラリー・スワンクが主演女優アカデミー賞を受賞した「ボーイズ・ドント・クライ」である。
1993年、ネブラスカ州フォールズシティにやってきた青年ブランドン(ヒラリー・スワンク)は、ラナ(クロエ・セヴィニー)と出会って、彼女に恋心を抱くようになる。礼儀正しく誠実な青年に、ラナも少しずつ惹かれていくのだが、ブランドンは性同一障害をもつ女性だったのだ。この事実に気がついた街の住民は、態度を豹変していく。それはやがて、ラナの母親の恋人とその子分による凄惨なリンチへと発展していくのだった。

この映画を、性同一性障害への無理解と偏見に目を向けがちだが、本質は異なるのではないかと、いうのが本書を読んで気がついた感想だ。偏見だけだったら、いくらなんでもあのような残酷な行為に及んだだろうか。
米国は、男性性がまさった国である。女性でありながら、ここで自分たち男性より劣る性、女性の分際で綺麗な女の子ラナを好きになり、恋人にするということに対する彼らの怒りの爆発は、19世紀半ばまで黒人男性の白人女性への性的接触を許しがたい行為として、白人による黒人男性へのリンチという暴力行為に及んだ過去とその動機は同じである。今でもO・J・シンプソン事件のように、ミシジネーションはタブーに近いデリケートな部分である。
さらに、リンチを合法的に慣行したのが死刑制度であるというのが著者の見方である。
こうした「暴力特異国」としての米国の歩みの歴史に、日本への原爆投下、環境問題、そしてイラク戦争がつながり、今こそその経緯を再検討するべきだという点で、現代を考える方には最適な一冊である。
性と暴力の特異国の全体像を見直し、米国の国是である「より完全なる統合」という、この国が見失いかけている目標を取り戻すべきなのだろう。
それにしても、著者が慶応義塾大学法学部での「地域文化論」の講義が、本書の元になっているとは。その講義は、きっとおもしろかったはず。それに多くの映画を題材にしているため、米国映画の背景を見るためにも役に立つ。

O・J・シンプソン氏が告白本を出版

2006-11-20 23:14:20 | Nonsense
「妻殺害疑惑、無罪評決シンプソン氏が意味深な告白本」

米プロフットボールの元スーパースターで、前妻と友人の男性を殺害した疑いで逮捕され、1995年に無罪評決を受けたO・J・シンプソン氏(59)が、「もし、私が(殺害を)していたら」という題の著書を今月30日に出すことになり、物議をかもしている。
著書の詳細は不明だが、シンプソン氏が自ら、殺人を犯したという「仮説」を立てたものだという。出版社側は、「これは彼の告白だと考えている」と意味深なコメントをしている。 シンプソン氏に350万ドル(約4億1200万円)の報酬が支払われたとの報道もあり、米メディアや出版業界、被害者の遺族らが著書を一斉に批判。CNNテレビは「悪趣味だ」「消費者は本を買うべきでない」といった識者のコメントを繰り返し紹介した。 (06/11/18読売新聞)

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皮肉にも日本ではプロフットボール選手時代の輝かし成績よりも、元妻とその友人の男性を殺害したという殺人容疑者として脚光を浴びたO・J・シンプソン氏が、不可解な”告白本”を出版するという。彼が本当に”やったのか?”。その真実には興味がないが、この事件は米国の裁判員制度のあり方と、今尚残る黒人への人種差別を感じさせられた記憶がある。もしシンプソン氏が白人男性で、前妻が黒人という組合せだったら、容疑者がプロフットボールのスーパースターという経歴以外のマスコミの過熱度は全く異なっただろう。米国人、特に白人男性は、白人の男性と黒人の女性という組合せよりも、圧倒的に黒人男性と白人女性との組合せに嫌悪感をもよおすようだ。

それが如実に表れているのが、トッド・ヘインズ監督の映画「エデンより彼方に」だった。
人種差別や偏見が残る1957年米国のコネチカット州ハートフォードに住むキャシー・ウィテカー(ジュリンアン・ムーア)は、一流企業の重役であるハンサムな夫フランクに貞淑に従えふたりの小学生のこどもたちを育てる良き母でもある理想的な主婦だった。上品で美貌なキャシーの姿は、地域の住民も一目を置いていた。
ところが、ある日残業する夫に夕食をもって行った時、夫の秘密を知ってしまう。衝撃と失望にうちのめされたキャシーのこころにとまったのが、黒人の庭師レイモンド(デニス・ヘイスバート)の存在だった。貧しく学もない黒人ながら、その会話から彼の知的で思いやりのある精神にふれていくうちに、キャシーは人種の壁をこえてレイモンドに惹かれていくのだった。友情から淡い恋に変わるのに時間はかからなかった。しかし黒人差別の壁が、ふたりの距離を”友人”という関係すらも許さなかった。

あれからほぼ半世紀。米国社会は、女性解放運動、同性愛への一定の理解、人種差別反対運動と自由と民主主義国家を標榜する大国として、着実に前進しているように見える。にも関わらず、現代でも残る偏見と差別意識を実感したこのO・J・シンプソン氏の事件を理解するために役立つのが、「物語三昧」のペトロニウスさま推薦図書、鈴木透氏の『性と暴力のアメリカ』だ。
裁判では、被告シンプソン氏が高額で黒人の弁護士を雇い、陪審員の選出でも有利な体制を確保。また殺意現場に乗り込んだ白人刑事が、人種差別発言をしたテープを証拠として提出し、”黒人が犯罪者だという差別的先入観”の基づいていると主張し、陪審員は無罪を評決したのだった。差別を逆手にとる戦術が成功することは、差別の存在を認めることである。さらに白人男性が、黒人男性の白人女性への接触に神経をとがらせる理由として、野性的な黒人男性のSEXアピールに対する白人男性側の倒錯した性的コンプレックスの表れであり、逆に黒人女性は元々奴隷という白人社会の所有物という”モノ”扱いだったことから、白人男性が黒人女性を妊娠させることに対しては寛容だったという背景があるからだ。黒人男性と白人女性の組合せを、自然体で向き合えない人種と性をめぐるデリケートなタブーに米国の複雑さがかいま見える。

「雪」オルハン・パムク

2006-11-19 17:00:41 | Book
1990年代初頭のその日、トルコ北東部アルメニア国境に近い地方都市カルスでは、雪が無言でこの世の果てに降っているかのように孤独感がただよっていた。政治活動に挫折してドイツに亡命していた詩人Kaは、雇われ記者としてこの誰しもが忘れてしまったかのような故郷にたどりついた。彼の胸をしめつけるのは、貧困や絶望ではなく、深い孤独感だった。この都市では、イスラム主義と欧化主義の対立が激化し、市長殺害事件や少女の自殺事件が続いていた。
無神論者のKaは、学生時代からの憧れの女性イペッキと再会するやいなや激しい恋に落ちた。40代の入口にたつKaとイペッキ。人が本当に夢中になる恋とは、こうしたもの。大雪に交通が遮断されて陸の孤島のようになったカルスのホテル「雪宮殿」でKaは次々と詩をかき、やがてイペッキは彼とともにフランクフルトに旅立つためのトランクルームを用意するようになった。
ところが、カリスマ的な存在である”紺青”をリーダーとする過激なイスラム主義者たちによるクーデター事件が勃発し、イペッキの父や妹で宗教上の理由から髪をスカーフで覆う少女たちの憧れでもあり、”紺青”の恋人でもあるカディフェらとともに、宗教や政治の対立に翻弄される暴力にまきこまれれいくのだった。

タイトルどおりに、本書では「雪」がこの作家オルハン・パムクの作風に通じる、多くのモザイクのようにちりばめられた秀逸で寓話的なエピソードをつなげる象徴としてその役割を果たしている。Kaの脳裏にうかんだ「雪」は、その一片一片が自分の一生を何らかの形で見せていて、書きあげた詩「雪」も一生の意味を明らかにする点がなければならなかった。そしてイペッキにとっても、「雪」は彼女に人生の美しさと短さを思わせ、それぞれ敵対しているにも関わらず、人間は互いによく似ていること、宇宙と時間は広大で人間の世界は小さいことを感じさせた。
そして雪による交通遮断や電話の不通という密室の異常事態が、この小さな都市で凄惨なふたつの革命劇を進行させるというしかけは、本書のたくみな二重の構成を示している。さらにKaを主人公として3人称で語られていた物語が、後半でKaの友人であり成功した作家としてパムク自身が登場することによって、実はKaをフィルターとして作家が語り部となり進行していたという物語の二重構造が判明する。さらに4年後Ka、イペッキ、紺青、カディフェの深く哀しい「愛」というはかない雪を眺めて友人Kaの足取りをたどるためにカルスにきた「私」が、想像以上にはるかに美しかったイペッキと市長主催の晩餐会で出会い、たちまちのうちに恋をしてしまう。初めて彼女を見た時、その美しさに作家はKaに対する嫉妬と驚きでいっぱいになり、彼の喪われた詩のつまらない本が、一瞬にして深い情熱に輝く、全く異なった物語へとなった。「人はKaのような深い魂をもつと、このような女の愛を勝ち取る」という思いに駆られた。
このような技法は、ノーベル賞受賞にふさわしい丹念に織り込んだタペストリーを思わせるような重厚で豊麗な世界といえよう。

またまぎれもなく宗教・文明の対立を描いた政治小説でありながら、本書は本物の恋愛小説でもある。人を恋すること、また愛すること、それらの喜びと不安、快楽と失望、打算、欲望、、、人間の人とたらしむ感情があますところなく降る雪のかけらのようにすみずみまで満ちている。Kaとイペッキが初めて交わる場面は美しいだけでなく、人の性愛の奥の深さと複雑さをも表現していて、それでいて人の存在のほのかな暗い哀しみすらも漂う。

「長い間一緒にベッドで横になって、降る雪を、何も話さずに見ていた。Kaは時々降る雪をイペッキの目にも見ていた。」
という叙情的な音楽は、いつまでもこころに響いてきてはなさない。

オルハン・パムク氏はノーベル賞を受賞することによって、西側への橋を渡ってきたという批評もある。ノーベル賞というのが、そもそも西欧主義に基づくものならば、確かにアルメニア人大量虐殺を認めて国家侮辱罪で起訴された氏は、ボスフォラス海峡の橋を渡ってきたトルコ人かもしれない。しかし、そんなに「雪」は単純ではない。姉妹でありながら、イスラム原理主義に生きる妹と、髪や長い脚をだして肌を露出したドレスを着たがる姉。故郷に帰ってそのイペッキに会うために、フランクフルトで上質な外套を買ったKaの最後の4年間を過したあまりにも貧しく惨めなアパートの部屋。政治亡命者として年金というドイツからの施しを受けて、わずかな詩の朗読会で暮らしているKaは、トルコ移住民の挫折した姿を現している。
SF小説を書く宗教高校出身の青年は、小説を執筆するという作家に面会を拒んで叫ぶのだった。
「あんたの西側の読者は、俺を貧しいといって憐れんで、俺の人生を見はしない。たとえば、俺が、イスラム主義者の科学小説を書いているといって、彼らは微笑するだろう。馬鹿にして、笑いながら、同情する」
文明と宗教が衝突する点のような、作家自身の哀しみと苦悩を描いた「雪」は、文学のあり方すらも考えさせられる小説だ。

「Erdogan 首相 政教分離について語る」
  
「ノーベル賞作家パムクの政治小説」
  



秋にブラームスを聴きながら考えること

2006-11-18 23:28:32 | Classic
音楽のない世界は考えられない。とはいっても、私は自分の知人や友人の出演していないアマチュアの演奏会には行かないことにしている。誤解を招くかもしれないので、念のためお断りしておくが、アマチュアがプロに比較して音楽性や技術が劣っているという軽視からくるのではない。「コンサートに行く」という行為をそうそう頻繁に、気楽に実行できないので(この点は、ちょっぴりromaniさまがうらやましかったりして・・・)、1ヶ月に1~2度の大事な機会は、自分の聴きたい音楽家、オケ、曲目を十分に吟味して、チケット代を支払って行きたいのである。とても映画の好きの方が、なかなか観にいく時間や機会がなかったら、たいして興味のない試写会に行くのなら、チケットを買っても一番観たい映画に行くだろう。それに近いかもしれない。映画系ブログを訪問しても、B級映画まで本当にありとあらゆる映画をたっくさん観ているマニアには尊敬の念すらわいてくるが、自分の好きな大切な映画だけをとりあげるブログの方が私は好きかもしれない。勿論、知り合いが出演している場合は別である。万難を廃して、多少遠方でも聴きに行きたいと思っている。

先日、友人に誘われてあるアマチュアの管弦楽団の演奏会に行った。クラシック音楽を聴かない友人ではあるが、仕事上の立場からその演奏会に行く必要があったようで、詳細ははぶくが、音楽好きの私に同行者としての白羽の矢がたったらしく、お誘いがあった。自宅から会場まで片道1時間半もかかることや、他の用事や別の友人と旅行の打ち合わせをかねてすごく久しぶりに会う予定をたてていたので迷ったのだが、友人からのメールが音楽好きの私への親切なお誘いというよりも、ひとりでは行きたくないという気持ちがありありだったので、約束をした。

演奏内容に関しては、区や市民オケという構成からくる予想以上に上手で、豊かな音楽の秋にふさわしく団員の方達の日頃の練習成果を感じられるものだった。
それとは別に、高校生のオケでも無料もあるが500円程度(←可愛い値段)、大学オケでは1000円~2000円(←確か早稲田はこのくらい)、学生や社会人では1200円程度のチケット代金だが、私が鑑賞したその地域の管弦楽団は、行政の社会教育関係団体として生まれ、成員の過半数がその区・市に在住・在勤するオーケストラであることから、地域に恩恵を還元したいという願いで、音楽文化振興に貢献することを目的としている。文化祭参加演奏会、役所ロビーコンサート、学校音楽教室などで活動し、その運営の実態は、練習・演奏会の手配や準備から、費用のすべてを団員の自費で「入場無料の演奏会」を続けてきた、という大変志し高く、主旨のりっぱなオケなのである。
ネットで会場の使用料を調べたら、公共施設なので安い。サントリー・ホールに比べたら、驚くほど安価だ。尚且つ、文化祭の一貫なので、さらに値引きありというのが友人情報。しかも駅前で新しく、大ホールは1300人程度収容、トイレもきれい、ホワイエでは黒スーツの洗練されたおじさまや女性ではないが、後援会の奥様たちと思われる方がコーヒーやビールを販売している。都心のおしゃれなホールに比較して、いたって庶民的ではあるが本物感があり、音響も”そこそこ”よい。演奏と同じである。
おかげで前回は、満員御礼で入場できない方もいたという。

殆どのアマオケの定時、休日の午後2時開演。会場は、50代以降の方が多い。観客の年齢層が圧倒的に高いのである。秋の好天にも恵まれ、自宅から徒歩、或いはバスや電車ですぐご近所の便利な場所の明るいホール、都心の平日夜7時開演にくらべたら、足元に不安を覚える地域のご年配の方も参加しやすい場所と時間帯。主婦の気軽に出られやすい午後。終演後、お茶を呑んでも、ご近所だったら夕食の仕度にちゃんとまにあう。大盛況の観客を眺めながら、音楽で地域に貢献することの意義をおおいに納得する。

しかし、皮肉にも「入場無料」
このことを私はつらつらと考えてしまったのだ。
プロに比較したら劣るとはいえ、”そこそこ”うまく聴ける演奏。もし1000~1500円程度のチケット代をつけたら、こんなにもおじいさんやおばあさん、おしゃべりなおばさまたちは来てくれるのだろうか。また無料である程度の音楽を年に数回このように聴けるなら、5000円ほど払ってお隣の街までプロのオーケストラを聴きに行こうと思うだろうか。プロのクラシック演奏会は、ご存知のように伸び悩んでいる。どこのオケも台所事情は、苦しい。抱腹絶倒したあの青島広志さんの「ブルーアイランドの夜」や「時を遡る夜」の二期会週間のチケット代3000円は、確かに安い。それでも「ブルーアインランドの夜」は、定員の7割も入っていなかった。アマチュアがタダでそれなりの演奏会を開ける時代は、プロの演奏会にそのしわよせがきているかもしれない豊かでもあり、反面厳しい時代かもしれない。
シルバー人材バンクが提供する安価な労働が、本業を圧迫しているという現実を思い出した演奏会だった。私がたとえ無料でもご縁のないアマオケには行かないのは、のだめや千秋のような職業として厳しい音楽の道を選んだプロの演奏家の方達への、ひとつのおおいなる敬意のあらわれなのである。

三島由紀夫とノーベル賞

2006-11-15 23:37:39 | Nonsense
庭は夏の日ざかりの日を浴びてしんとしている。・・・・・・
                              「豊饒の海」完。
                              昭和45年十一月二十五日

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三島由紀夫は、最後にして最高傑作である「豊饒の海」完結編をこのように書き終えた原稿を残し、この日陸上自衛隊東部方面総監部に「盾の会」4人のメンバーと訪問し、籠城した後割腹自殺を遂げた。 
読売新聞の土曜版にドナルド・キーン氏の「私と20世紀クロニカル」という回想文の連載が続いているが、キーン氏によると三島はこの夏、すでに最後のこのあまりにも素晴らしい一文を完成していたという真実があかされている。壮絶な死を覚悟した三島流の美意識に、あらためて多くのことを考えさせられる。

1965年、キーン氏はノーベル賞の次に影響力を与えるフォルメントロール賞のアメリカ審査団のメンバーに選ばれた。この国際賞は、最も脂ののりきった時期にある作家の最新作の与えられ、もうひとつの賞は、新人作家の作品に与えられる。(賞の基金は、欧州の出版社6社と米国の出版社1社からなっていた。)
ザルツブルグで開催された選考会で、三島由紀夫を推薦することになった。しかし、強力な対抗馬が、英国審査団の米国作家メアリー・マッカーシが推薦するフランスの小説家ナタリー・サロートの「黄金の果実」だった。審査員たちがそれぞれ自分の支持する作品について熱弁をして、キーン氏の番になると”アメリカ人”嫌いのメンバーの数名が、席をたってドアに向かうのが見えた。キーン氏はとっさに機転をきかして、数年ほとんど使っていなかったフランス語で奇跡のごとく演説をはじめると、彼らは銘々自分の席に戻ってきた。「宴のあと」をどのように語ったかをキーン氏は思い出せないが、氏の熱弁が他の審査団の委員たちに感銘を与えたことがわかったそうだ。しかもフランス審査団のメンバーが、「三島に賞をとらせることになると思う」と耳打ちしたのだった。

しかし、残念なことに、第三候補者を推薦していたスペイン審査団がサロートを支持したことによって、キーン氏の夢は砕かれたという。
彼の失望を知って、スウェーデンの出版社ボニエルス社の重役は、「三島は間もなく、遥かに大きな賞を獲得するでしょう」となぐさめた。それは、ノーベル賞以外にありえない。

「私は三島が、他の何にも増してノーベル賞を欲しがっていたことを知っていた」

三島は、ノーベル賞を切望していた。また、私は彼の作品は、今でも受賞に値すると思っている。実際ノベール賞候補にもなった。ところが、スウェーデン・アカデミーは三島の右翼的な政治活動に難色を示し、最終的に川端康成の日本的な情緒と美しさに高い評価を与えて日本人にして初めてノーベル文学賞を授与した。川端康成は、三島由紀夫以上に好きな作家である。しかし、ノーベル賞にどちらがふさわしいかというと、私は感覚的にやはり三島由紀夫だと考える。キーン氏は、この最高の賞の栄冠がもたらした悲劇が、彼らの自殺にあると分析している。ノーベル賞が川端に与えられたことによって、もうしばらくは日本にはまわってこないという三島の絶望。それらが、三島の自決に拍車をかけたと。
その一方で、三島由紀夫の才能を早くから見出し、作家への道をあとおしして惜しみなく彼を応援し、生涯にわたって交流した師でもある川端康成。彼は、三島の自決姿を見て、床にふせることが多くなった。三島が自決した翌年4月16日、自宅を出た後別宅のマンションの自室でガス官をくわえて自殺した。川端は、ノーベル賞受賞後、本当は三島がとるべきだったと言い伝えている。

今年のノーベル文学賞の35番目の候補者になったという村上春樹氏は、ノーベル賞に対して神経質で、今回マスコミの接触を一切拒んだ。
あまりにも大きな賞がもたらす「栄光」と「挫折」に、凡人の想像をこえる作家の執念を見た思いがする。
今年も、36回目の「憂国忌」がやってくる。

「いかづき」に打たれた「のだめカンタビーレ」♪

2006-11-14 23:34:40 | Nonsense
先週の「のだめカンタビーレ」を観たので、ようやくじっくり映画侍さんのブログを読ませていただいた。
のだめが楽しそうに、Beethoven交響曲弟7番をピアノで演奏している姿に、恥ずかしながらも(私の場合は、しごく単純に)感動のあまり涙ぐんでしまった。
私は巷にあふれている”感動”という安易な単語はなるべく使わないようにしているのだが、これを”感動”と呼ばなければ私にとってなにをもって感動となるのだろう。それぐらい、このテレビ番組にはひとり盛り上がりして熱くなっている。
あののだめとSオケの姿には、ベートーヴェンが酔っ払って作曲したのではないかという冗談もあるくらいの7番の曲想があまりにもぴったりあてはまる。ベートヴェン好きの者にとっては、他の曲に比較していまひとつ元気のよいことが、まず印象に残りがちな7番の喜び再発見でもある。

ところで、職場であれほど話題になり「のだめ普及委員会」まで発足した「のだめ祭」であるが、周囲のテレビ放映への反応は少々トーンダウン。おいおい、みんなもっとついてこいよ、、、と毎週月曜日は職場で番組宣伝をする始末。その冷めている理由のひとつとして、竹中直人さんのキャスティングにある。さすがに、ヨーロッパ人の設定を竹中さんが演じるには無理がある、あの姿を観ただけで観る気が失せたという意見もある。確かに、竹中さんは才能のある俳優だが、生理的に受け付けない腐女子はけっこういる。かといって、他に演技力のある白人の俳優はみあたらないし。主役のふたり、真澄ちゃん、峰君、清良をはじめ脇役もイメージにあっていて、なかなかノリがよいので残念ではある。

しかし私と他の普及委員のメンバーとのこの温度差の決定的な理由は、音楽にあることに気がついた。音楽があるから、そこに映像とともに実際のクラシック音楽が鳴っているからうるうるしちゃう人間と、極論すれば音楽は必要ない人とでは、この番組に対する気合の入れ方が違うのだ。
のだめが、バレーボールやテニスの選手だったらどうであろう。ニッポン・チャチャチャの世界である。玉木宏さん演じる千秋さまが、華麗なサーブを決める”カレー”の王子さまだったり、今の親父臭いコーチではなくクールな全日本女子バレーの鬼コーチだったらどうであろうか。多分、私はテレビまでは観ないだろうが、彼女達はテレビも観るだろう。
つまりここでクラシック音楽に対する熱の度合いで、この「のだめカンタビーレ」テレビ版に対する感想がわかれていくように思われる。惜しいことではあるが、彼女達には、こたつに占拠された千秋の部屋やふたりのかけあい漫才のような応酬に笑いのツボがありこそすれ、音大を舞台にした音楽家の卵たちの成長過程は必ずしも必要ないのである。たまたま設定が音楽家の卵だったが、美大生、あるいは医大の医師の卵たちでもよかったのだろう。それも個人の好みの範疇で致し方がない部分ではあるが、あらためて考えるとクラシック音楽の分野で、よく構成もねられ演出もすぐれてここまでよくできたコメディは、クラシック音楽ファンにとっては僥倖のようなものかもしれない。
嗚呼。。。「いかづき」思わずベートーヴェンの「田園」を思い出したが、こののだめのひと言には、しびれてしまった。
こんな楽しい番組なのに、観ることができないところさま、お気の毒・・・。