千の天使がバスケットボールする

クラシック音楽、映画、本、たわいないこと、そしてGackt・・・日々感じることの事件?と記録  TB&コメントにも☆

フィラデルフィア管弦楽団

2010-04-27 22:12:32 | Classic
「フィラデルフィア管弦楽団」という単語に反応して、いつも私の中で鳴りはじめるのは何故かチャイコフスキーの「弦楽セレナーデ ハ長調 作品48」。指揮は勿論、Eugene Ormandy 。人間の記憶と刷り込みというのは、つくづく不思議なものだと思う。最近の洗練されて輝かしいコンサートやCDよりも、こどもの頃何回も何回も聴いてきた少し鄙びて燻銀のようなオーマンディ指揮によるフィラデルフィア管弦楽団の演奏がとても好きだ。1900年に創立された名門、フィラデルフィア管弦楽団が迎えた音楽監督はわずか7名。ユージン・オーマンディは4代目で1936年から80年という実に驚くべき長期に渡って、米国のオーケストラを支えてきた。
そして、今。シャルル・デュトワが首席指揮者に就任し、来日してきた。人気指揮者が、このオケの伝統と革新をどのように聴かせてくれるのか。しかも、プログラムは最近気になるストラヴィンスキー。

御年70歳を超え、20歳以上年下のヴァイオリニストと4回目の結婚も無事?果たしたシャルル・デュトワ。N響時代よりもちょっとメタボがすすんでいるかと気になるが、全く”老い”というものを感じさせない堂々たるタキシード姿は、確かに千秋よりも絵になるかもしれない。そしてデュトワの手にかかった《火の鳥》は、迷いもなく明確な音楽。現代人にとっては生まれた時から当たり前のように受け入れてきた色彩豊かにたちあがる神秘性は豊かな美質に変幻され、この曲の当時の人々を驚嘆させた革新性は、ダイナミックで確かな技術に支えられて見事に披露された。そして、後半で演奏されたあの映画『シャネル・ストラヴィンスキー』で感じた土臭い《春の祭典》が、これほど”洗練された”音楽に聴こえてくるとは。初演でパリの紳士淑女を騒音と怒らせた不協和音とリズムが、先進性のあるまぎれもない美しさであることを感じさせられた。

ところで、デュトワは実際にストラヴィンスキーに会っているそうだ。1959年、飛行機で偶然隣り合わせだった人から、ニューヨークでストラヴィンスキーの自作自演を聴きに行くと聞かされ、一緒についていってしまった。非公開の練習のピアニストのひとりフォスがデュトワの作曲の師匠でもあったことから、10日あまりの練習と本番を含めて譜めくりを勤めることとなった。その時の思い出を彼はこう語っている。

「ストラヴィンスキーとはその時自由に話しましたが、第1次世界大戦の間、彼はスイスのモルジュに滞在して《兵士の物語》などを作曲しています。そこが私の生まれた村でもあったものだから話は尽きませんでした。その頃ストラヴィンスキーが住んでいた家には、アンセルメやピカソ、ディアギレフ、ニジンスキーといった伝説的な人物がよく集っていたそうです。私の宝石のような思い出のひとつですね。」

ストラヴィンスキーはデュトワらしい優雅さと洗練が感じられたが、これぞフィラデルフィア管弦楽団と胸にせまってきたのが、、アンコールで演奏されたシベリウスのワルツ。やわらかく美しく輝いていた。これぞ、オーマンディから受け継がれた伝統である。またその伝統を支えるオケの団員にアジア人がいることも米国オケらしいのか、それだけアジア人の台頭がめざましいのか。コンマスは、名前からすると韓国系、首席ヴィオラとチェロは中国系、他にも日本人の名前がちらほら。
それからオーケストラボックスの裏や安い席はおおかたうまっていたが、S席・A席の高価格の席は空席がめだっていた。世界的な不景気を感じさせられたのだが、音楽事務所でもこのような現象を打開することも一考されては如何だろうか。今回、C席をとった私が言えることではないが、良い席が安価な席よりも空席率が高いのはなんとなく気がひけて居心地悪いものである。

余談だが、プログラムに翌日予定されていたソリストのアルゲリッチが本人の家庭の都合により出演できなくなったとのチラシが同封されていた。なんでも三人の娘のうちの一人が、欧州での出産がせまっているそうだ。「娘の出産に立ち会いたい」という本能的な願い(my feeling)が強まっての突然の帰国となったようだ。さすがにアルゲリッチ!

------------10/4/27 「フィラデルフィア管弦楽団」 サントリーホール -----------

オーケストラ : フィラデルフィア管弦楽団
指揮 : シャルル・デュトワ

プログラム
ストラヴィンスキー: バレエ「火の鳥」
ストラヴィンスキー: バレエ「春の祭典」

■アンコール
シベリウス :悲しきワルツ op.44-1

コンサバ化する女子学生たち

2010-04-25 15:59:10 | Nonsense
もうとっくにお蔵入りになっている話題だが、当代随一の美形歌舞伎役者と民放アナウンサーの婚約記者会見の報道写真を見て考えさせられるものがあった。
歌舞伎の中の”名門”という意味が私にはよくわからないのだが、名門とうたわれる梨園の若旦那、人気役者と、(私はユーチューブで初めて拝見したのだが)とてもとても美しく清楚なニュースキャスターの女性が並んだお写真は、おふたりの芸能界でのゴージャスな”大物感”と”高級感”のオーラがまばしいくらいに感じた。このように金屏風を背負って、歌舞伎役者らしい紋付袴、辻が花染の総絞りの振り袖、興奮気味の報道人にいやみなく披露する左手薬指の3.3カラットのダイヤモンドの婚約指輪は、閉塞感だたよう日本で久々にあかるい話題だった。歌舞伎役者との婚約で、ひとくくりに女子アナと芸のないタレント並み扱いだった彼女も、「小林麻央さん」になりちょっとした皇室の方クラスの昇格だと思われる。
麻央さんのブログを訪問してあらためて感じたのだが、彼女は単に容姿が美しいだけでなくいかにも良家のお嬢様らしいファッション、決してとがった先端の服やチープなファストファッションを着ることなく、上質だがいかにも高そうなブランドものでもなく誰からも好感がもてるコンサバ系。髪型もそれにふさわしくショートでもロングでもない肩にかかるくらいの長さでゆるくウエーヴがかかっている。歌舞伎界きってのモテモテ男のプレイボーイを見事に陥落させた「おっとりとして、それでいてきちんとしたお嬢様」の求心力の大きさをまさしく見せつけられたと感じる女性が多かったのではないだろうか。

精神科医の香山リカさんが、おふたりの婚約報道を次のように分析している。
自己主張の強いイメージのある女優たちと浮名を流した海老蔵さんの落ち着き先が控えめな麻央さんだったことから、マスコミはふたりの恋を美しく語り、「結局、男性はこういう女性を選ぶ」と暗に示す。すると結婚願望の強い女性は、「やっぱりね」とコンサバキャラに走り出す。香山さんは精神科医として勤務のかたわら、女子に人気ある某私大の心理学部で講義をされてもいるのだが、ここ数年で女子学生はすっかり保守化しているそうだ。専業主婦志向が強く、せっかく総合職につける能力がありながら「それじゃモテないから」という理由だけで、一般職に腰掛就職しようとする女子学生も少なくないとのこと。しかし、今の時代、そもそも正規社員で働ける一般職の椅子などあるのだろうか。女子大生の企業での雇用体型は、エリア型、もしくは地域型の”総合職”で、従来からの一般事務のお仕事は派遣社員が担っているのではないだろうか。歌舞伎の世界で求められる妻像は、職種の関係で万事控えめで夫を支えられる保守的な女性でなければいけないから、今回の海老蔵さんの選択を一概に世の中の男たちの好みに当てはめるわけにはいかないとは思うのだが、リカさんの意見でもっともだと思ったのが、「そのときどきにメディアが流す”トレンド”に振り回されるのは危険だ」ということだ。

しかし、トレンドはともかく、今時の若者の保守化もそれなりに理由がありそうだ。
勤務先の女性社員たちを遠くから眺めていて思うのだが、一般職から転勤のない総合職への転換に伴い、当然ながら仕事への責任や求められる役割が重くなっている。不景気でぎりぎりの人員体制で、正社員から派遣社員へのシフト、いつやめられるかわからない非正規社員に囲まれて、結婚、子育てとの両立はなかなか厳しいと思われる。かくして、仕事もでき人柄もよい女性は、次々と結婚して退職していく。残っているのは・・・。

人気モデルの田波涼子さんがファッション雑誌でそのおしゃれな暮らしぶりを写真とともに紹介する記事でコメントも掲載されていたのだが、「主人の好みは・・・、主人が・・・・」と、夫をしきりにたてる良妻イメージの演出が伝わってきた。そういう雑誌ではないぞ、とも思ったのだが、素敵な彼女の口から夫よりも”主人”という名称が出てくるところで生活のクラスの高級感がアップしている。結婚が永久就職と言われたのは、昭和の時代でおわった。離婚も増えたし。とはいえ、こんな厳しい時代では、専業主婦はひとつのこころがやすらぐという意味では安定した就職先にみえてくる女子学生にも同情するものもる。

そんな女の子たちを養わなけれいけない男たちも大変だ。
山田昌弘さんがその著書「なぜ若者は保守化するのか」で、フランスの経営大学院の日本視察団と、日仏の労働状況について懇談したそうだ。
彼らは日本の最低賃金を聞いて驚き、また、200万人を超すフリーター数を聞いて驚いたそうだ。「そんな賃金ではまともな暮らしができないではないか、どうして日本の低収入の若者はデモや暴動を起こさないんだ」と山田さんに質問してきた。私が日本の若者は学卒後も親と同居して生活を支えてもらっているから低収入でも暮らしていけるというと、「日本の経営者がうらやましい。母国語を話せて文句も言わない若者がそんなに低賃金で雇えるんだ」と言っていた。
非婚率が高くなるのも道理。

どうなる?ギリシャ危機

2010-04-24 22:47:49 | Nonsense
[ニューヨーク 23日 ロイター] 23日のニューヨーク外国為替市場ではユーロ/ドルが1年ぶり安値から反発。ギリシャが金融支援策の発動を要請し、ドイツも支援に貢献する意向を示したことから、ユーロの需要がやや回復した。
ギリシャのパパンドレウ首相はこの日、欧州連合(EU)と国際通貨基金(IMF)に支援策発動を要請したと発表した。当初ギリシャ支援に難色を示していたドイツも支援する準備があると表明。ギリシャのパパコンスタンティヌ財務相は、支援の第一弾は5月19日までに実施されるとの見通しを示した。

ただ、アナリストの間では、緊急支援について、財政再建というギリシャが抱える長期的な問題に対する解決策にはならない可能性があるとの見方が根強い。 
ユーロ/ドルは終盤、前日比0.6%高の1.3372ドル。ロイターのデータで一時1.3400ドルの高値をつけた。1.3202ドルまで下落しほぼ1年ぶり安値をつけた。

ウエストパックのシニア通貨ストラテジスト、リチャード・フラヌロビッチ氏は、ユーロはこの日上昇したものの、依然として市場ではギリシャ支援について懐疑的な見方が強いと指摘。このために依然として全般的にユーロは売られる傾向にあると話した。
ギリシャをめぐる懸念からリスク選好が低下し、安全資産としてのドル買いが膨らんだ。強い内容となった新築住宅販売などの米指標もドルを支援した。
ドル/円は0.7%高の94.03円。一時2週間ぶり高値となる94.32円をつけた。バンク・オブ・ニューヨーク・メロンのシニア通貨ストラテジスト、マイケル・ウールフォーク氏は、この日の米経済指標は堅調だったとし「来週発表される第1・四半期米国内総生産(GDP)速報値は3.5―4%になる」との見方を示した。
(4月24日ビジネスニュースより)


*******************************************************************
「借金王1000兆円!」懐かしや、弊ブログで日本の高額な借金を嘆いたのは、今から5年ほど前の2005年3月のことだった。
おかげさまであれから順調に?借金は膨らみ、国債683兆円、地方債163兆円&政府借入金や短期証券で163兆円で合計1009兆円!!年収を上回る借金を抱えて、しかも増え続けている。通常は、節約して収入を増やすよう努力するだろう。でも、もしリッチな兄弟がいたら、ちょっと泣きついて助けてもらうかも。

日本にはそんな優しい家族はいないが、ギリシャにはEU(欧州連合)がついている。
日本の1000兆円にくらべてみれば、まだましなように思えてしまいそうな約3000億ユーロ(37兆円)。しかし、GDPの113%と聞いたら世界がこの暢気な国に危機感をもつのは当然だろう。また、この国を信用できないのは、09年にギリシャ政権が交代して前政権による財政収支の粉飾が発覚したことだ。しかも初犯ではない。01年に欧州単一通貨のユーロ導入を許された時も、条件だった財政収支のデータをごまかしていたのだった。

こんなギリシャの借金地獄の原因は、働く人の約4割が公務員。公務員に偏見はないが、市場原理が働かない職種ばかりとはいかがなのものか。手厚い社会保障制度も理想だが、まずは現実の足元を固める努力を怠ってはいないだろうか。そこでギリシャ政府がうちだしたのが、公務員手当てや年金1割削減の切り詰めと増税で税収を増やすこと、3月には公務員の賞与3割削減や年金凍結、付加価値税の2ポイント引き上げで総額48億ユーロ規模の緊縮財政を発表した。ところが、これに反発した国民の怒りによって労働組合は大規模なストやデモを敢行。3月5日アテネでは国会前で警官隊とデモ参加者が衝突した写真を見た。増税回避のために、資金を国外や闇経済に避難させる国民まで。

日本も大借金だが、いざとなったら67兆円分の米国債を売却、もしくは日銀が紙幣をどんどん発行して銀行が国債を購入するサイクルを続ければ倒産しないという説もある。しかし、ユーロ加盟国は、景気刺激策として国内に出回る通貨量を独自に増やすことができないし、北朝鮮のように勝手デノミなどを行って、自国製品を外国へ輸出しやすくすることもできない。もしかしたら、ギリシャはユーロという家族から家出をするかもしれない。GDPで言えばユーロ圏16カ国全体のわずか3%の小国ギリシャではあるが、加盟国の危機管理が問われ、ユーロの信用問題に関わる。ユーロ安を個人的に歓迎できない事情もあり、スペインやポルトガルの財政問題も気になる。

■アーカイヴ

「借金王1000兆円!」

世界的な免疫学者・多田富雄さん亡くなる

2010-04-22 22:53:34 | Nonsense
訃報:多田富雄さん76歳=東京大名誉教授
 国際的な免疫学者でエッセーや能の作者としても知られた東京大名誉教授の多田富雄(ただ・とみお)さんが21日、前立腺がんのため死去した。76歳。葬儀は近親者のみで行う。「偲(しの)ぶ会」を6月18日午後6時半、東京都千代田区丸の内3の2の1の東京会館で開く。喪主は妻式江(のりえ)さん。

多田さんは茨城県生まれ、千葉大医学部卒。東京理科大生命科学研究所長、国際免疫学会連合会長などを務めた。71年、免疫細胞の一つで、免疫反応にブレーキをかけるサプレッサー(抑制)T細胞を発見。T細胞はそれまで体内に入った細菌などに対し、抗体を作るアクセル役と考えられていた。従来考えられていたT細胞とは逆の働きをする抑制T細胞を発見することで、アレルギーなど免疫疾患の治療に道を開き、世界中の反響を呼んだ。執筆活動も精力的に行い、免疫学研究を書いた「免疫の意味論」で93年大佛次郎賞、「独酌余滴」で00年日本エッセイスト・クラブ賞を受賞、84年に文化功労者。アインシュタインの相対性理論や脳死、原爆投下を主題にした能も作った。01年に脳梗塞(こうそく)で倒れ、右半身不随になった。06年4月に診療報酬が改定され、リハビリの保険給付が最大180日で打ち切りになった際には「リハビリ中止は死の宣告」と批判し、反対運動を展開。闘病生活をつづった「寡黙なる巨人」で08年小林秀雄賞を受賞した。(22日毎日新聞ニュースより)

*****************************************

先日読んだ「ダウンタウンに時は流れて」で深く感銘を受けた免疫学者の多田富雄さんが亡くなった。

「女は”存在”だが、男は”現象”に過ぎないように思われる」(「生命の意味論」)
T細胞の発見ではノーベル賞級と評価されて世界中の学会から招かれた多忙な中、名エッセイストとしても知られ、数々の名言を残した方でもある。ゆっくりと残された軌跡をたどってみたい。

「冬の伽藍」小池真理子著

2010-04-21 23:18:48 | Book
軽井沢の別荘地。麻布にある病院の分室である白い小さな診療所。妻に自殺されて心に闇を抱える彫刻のような端整な美しい青年医師、兵藤義彦が診療するこのしゃれた病院にやってきたのは、同じように夫を事故で亡くしたばかりの薬剤師の悠子だった。前任の薬剤師は、情にあつくて善人そのものの親友だった。彼女はその友人の摂子が内科医と結婚して退職したために、後任として冬の軽井沢にやってきた。

・・・とここまで書いたが、これ以上ないくらいの典型的な草食系女子好みの舞台と登場人物。最初から最後まで、悠子と摂子は義彦を「先生」と声をかける。前半は悠子の視点で書かれているためさほど具体的な容姿の記述はないが、勿論、悠子も美青年の義彦のお相手になるには充分な美貌を備えている。しかも、華奢な体型に豊満な胸。さすがに小池文学の特徴は、肉食系女子をも満足できる官能のスパイスとエロスの匂いも手抜きなし!彼らにからに重要な役割を演じるのは、現代の老いたカアノヴァかドン・ファンのような好色な義彦の義父・英二郎。(ここで英二郎について”スケベ爺ゐ”などという下品な表現は禁句。あくまでも資産家の医師が、愛嬌たっぷり、性愛を知り尽くしたフェロモンの衰えないおとなの男性として登場。)大先生の英二郎は若い愛人を携えて、手練手管で悠子にせまるのだが、作家が小池さんなら単純なよくある三角関係とあなどってはいけない。

優れた男性の小説家の中でも、女という生き物を上手に書ける作家はそれほどいない。吉行淳之介は別格である。それと同じように、女性作家で男の生態をリアルに書ける人もあまりいない。かくして、少女漫画の延長のような義彦のような女子好みの男が文学の中で氾濫していて、それも日本の小説をつまらなくしている原因でもあるのだが、本書で圧倒されるのが性欲のかたまりのような、ある種、中年男性の羨望を集めそうな英二郎の描写である。ユーモラスで言葉が巧み、甘いものも酒も好み、鷹揚で余裕綽々年の割には精悍で若々しく、瀟洒な別荘を所有する英二郎。しかも、ただの金満家ではなく教養もありそう。先日、鑑賞した映画『ドン・ジョヴァンニ』では、数え切れないくらいの女性遍歴を繰り返して老年の域に達したカサノヴァの姿に凄みを感じたように、小池さんの筆にかかった英二郎の存在や描写には、まるで逃れられない蜘蛛の糸にからめとられてゆるやかに餌食となっていくような恐怖と、むしろ自ら甘んじて身を投じて悪魔の餌食となって官能の嵐に翻弄されたいという欲望が混在していく。罪悪感をもちながらも、甘美な誘惑を待つ悠子の感情が無理なく自然に描写されている。

しかも、対する義彦との関係は、静謐で冷たい軽井沢の冬の気候のようにはじまる設定もよく描かれている。読書暦は殆どなかったが、小池真理子さんは文章も巧みでストリーテラーだと実感する。そして、この小説に音楽を伴奏としてつけるとしたら、やはりペルゴレージの《スターバト・マテル》もよいが、ヴィバルディの《四季》もリクエストしたい。中間では、それぞれの手紙形式にして義彦と悠子の距離感を表現し、後半、摂子の視点で第三者的にふたりの物語と状況を語らせることで、自己満足的な安易さと悲劇性から救われている。こんな構成も成功している。
哀しみの中に誰にも入り込めない厳しくも純粋な愛情の世界を描いた本書は、女子の恋愛小説の王道である。韓流ドラマよりもはまりそうだ。。。

■これまでの私の恋愛遍歴
『東京アクアリウム』

『オーケストラ!』

2010-04-20 22:30:23 | Movie
この映画の原題は、”Le Concert”。
でも映画をご覧になった方にはわかっていただけると思うが、邦題の「オーケストラ!」の方がはるかにこの映画の感動にふさわしい。そして最後に「!」がつくのも。

名門ロシア・ボリショイ交響楽団で劇場清掃員として働くアンドレ(アレクセイ・グシュコブ)。バケツと箒や雑巾の似合うさえない中年男のアンドレ。そんな彼がかっては天才指揮者だったとは、いったい誰が想像できよう。しかし、優れた芸術家たちが次々と粛清されていた時代もあるあの旧ソ連という恐ろしい国だったら、才能が無駄死されることはありえない話ではない。あのリヒテルでさえ、中村紘子さんによると40歳過ぎて初めて西側に知られたのだった。今から30年ほど前のあのブレジネフ政権の頃、ユダヤ系演奏者たちの排斥を拒絶したという理由で”ユダヤ人主義と人民の敵”と糾弾されたアンドレは、名声の絶頂で解雇されたのだった。

そして30年後、いつか再び指揮棒をふる日がくる夢を捨てきれず、マネージャーの机をせっせと指揮棒のかわりに雑巾片手に掃除する彼が偶然見つけた届いたばかりのFAX。キャンセルされた米国の有名オケのかわりの出演依頼がシャトレ劇場から舞い込んできたのだった。彼以外にはまだ誰もこのFAXの存在を知らない。神の天啓か、はたまた指名か、アンドレはとんでもないことを思いつく。彼と同じように排斥されて落ちぶれて何とか暮らしているかっての演奏家仲間を寄せ集めて、”なりすましオケ”で花の都パリに乗り込むことをだった。曲目は、チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲ではなければいけない。そして独奏者は、パリ在住の若きスター、ヴァイオリニストのアンヌ・マリー・ジャケ(メラニー・ロラン)でなければいけないっ!アンドレのこだわりの理由は何故なのか。。。

あの「のだめカンタビーレ」効果で、どうやらクラシック音楽がちょっとしたブームになっているらしい。一般のコンサートに足を運ぶ度に、いったいどこにブームがやってきているのかと失望するのだが、映画ではどうやら本当らしい。日曜日とあってほぼ満席の盛況ぶり。早めに行って正解だった。クラシック音楽フォンとしては、こういったにぎわいは歓迎したい。
さて、ルーマニア出身で実際に国家によって活動の場を奪われた芸術家を見てきた監督だが、今回は政治的なトーンは抑え目で、途中散漫な印象になる場面もあるが、全般的にユーモラスにコメディタッチで進行させながら、最後に謎解きと音楽とともに感動の場をつくったことでエンターティメント性をうちだし、幅広い観客の心をつかんだと思う。主役は、3人。まずなんといってもアンドレ。前半のアンドレ役を演じるアレクセイ・グシュコブの背中には、さえない中年の清掃員の貧しさがほこりのように積もっている。自ら提案した計画にも関わらず何度も挫折しそうになる繊細な部分が、反転して、後半の指揮をする表情がまさに本物の指揮者の鋭い視線になりかわっている。オケを前にして観客に背を向ける背中が、威風堂々たる風格を漂わせている。曲と独奏者にこだわった理由の告白も、ある意味指揮者という職種のつきもののエゴイストぶりだと思う。この点で、彼はカラヤン型の指揮者だとも言える。だからこそ、悪賢い共産党員のイワンに「オーケストラこそコミュニズムだ」と激しくつめよるセリフが生きてくる。

そして演技はしなくてもよい、ただヴァイオリンを片手に立っているだけでよい、というか完璧に美しい、、、アンヌ役のメラニー・ロランがとにかく美しいのだ。清楚なスタイルと真珠のような輝きをもつ美貌。氷を散りばめた感じの色のロング・ドレスもとてもよく似合う。ちなみにこのドレスは、実際にヴァイオリンを演奏するのに向いている。演奏をしているときの哀しみをたたえた表情と微笑む姿に私はただただ見ほれてしまった。物語の内容から考えるとこれほどの美貌と容姿は必要ないだろう。しかし、彼女を見てしまったからには、アンヌ役はもはやメラニー・ロラン以外には考えられない。最後は、勿論、音楽、中でもチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲。私はダヴィッド・オイストラフ独奏の豊かで輝かしい音のCDが大好きだが、この名曲はアレグロ・モデラートの序奏部ではじまり、やがて悠々たるロシアの大地を連想させるような主題に入る。まさにロシアの魂を感じさせられる一曲である。ロシアという国に芸術家生命を絶たれ、でも耳に離れないの、ロシアを代表するチャイコフスキー。このヴァイオリン協奏曲も主役である。一緒に鑑賞した友人は、”あれで”この曲のすべてだと思ったそうだが、映画では第一楽章からの抜粋だけを演奏されている。実際にコンサート会場で、一度聴いていただきたい。僭越な言い方を許していただければ、映画の深みにもっと到達されると思う。そして「オーケストラ!」という言葉の素晴らしさも。

監督・脚本:ラデュ・ミヘイレアニュ

『ドン・ジョヴァンニ 天才劇作家とモーツァルトの出会い』

2010-04-17 15:41:33 | Movie
「ダ・ポンテと申します」
「私はアマデウス・モーツァルト」
天才が天才を引き寄せ、ふたりは握手をしながら自己紹介をする。すべてはふたりの出会いから始まった。

《フィガロの結婚》《コジ・ファン・トゥッテ》、そして《ドン・ジョバンニ》。と、タイトルを書いているだけで、劇中のモーツァルトの音楽が頭の中で流れてきてとまらない。しかし、そこは悲しいかな、私の使用言語は日本語だけ。。。多少は有名な詩の内容は知っているのだが、字幕やCDの解説書の歌詞を”読まない”と意味がわからない。ダ・ポンテ3部作の傑作として世界中で演奏されているオペラなのに、すっかりその傑作の脚本家としてのロレンツォ・ダ・ポンテは、天才作曲家の存在に隠れてしまっている。本作は、ダ・ポンテにスポットをあてて、モーツァルト、妻のコンスタンツェや稀代の色事師ジャコモ・カサノヴァ、そしてあのサリエリまでが登場して、《ドン・ジョバンニ》の制作過程を劇中劇として進行させながら、聖職者でありながら放蕩三昧の暮らしを送るダ・ポンテ自身の恋愛を描いている。

映画のはじまりのバック・ミュージックは、ノリのよさ抜群なロック調の《四季》。1781年、これまでの神をも恐れぬ数々の背徳行為がばれてヴェネティアを追放されたダ・ポンテ(ロレンツォ・バルドゥッチ)と友人のカサノヴァが、夜の運河の船上にいる。ダ・ポンテの今後の身のふり方をアドバイスするカサノヴァ、その彼らの船の後ろからやってきた大きな船に、大道具や小道具の荷物とともに運ばれて、次の巡業先に向かうのは「ドン・ジョバンニ」の姿だった。その大きな白い像のなんとまぬけなことよ。年齢問わず、身分の差はおかまいなく、冬は太めの女、夏はやせている女と年間フリーパスで女を口説いて励み、イタリアでは640人、ドイツでは231人、スペインでは何と1003人!と、その名声?がとどろき渡る貴族の哀れな引越し姿を見て、嘆くのは同じく好色家で有名なカサノヴァだった。この頃、様々な作曲家によって上演されていた大衆に愛されているドン・ジョバンニはすでに11人もいたのだが、カサノヴァの美意識はどのドン・ジョバンニも気に入らない。扇情的にかきたてられるヴィヴァルディの音楽が、ここではそんな情けないドン・ジョバンニをからかうように効果的に流れる。このはじまりは、意表をついていて実に傑作である。
そしてめでたく?追放されたダ・ポンテはカサノヴァの紹介状を携えて、芸術の都、ウィーンへと旅立ったのだが。。。

映画に登場するドン・ファンは3人。物語上の架空の人物でキーになるドン・ジョバンニに加えて、実在の人物であるカサノヴァとダ・ポンテ。女性遍歴を繰り返した結論が、たったひとりの女性にすべての愛情を献身的にそそぐべきか、今後もすべての女性に愛を分け与えるのか、ふたりの見解が対立する後半が緊張感をはらみつつ盛り上がる場面で、今ひとつわかりにくいのは、放蕩息子だったダ・ポンテが私にはむしろ正直な聖職者に見えてしまうことだった。老いつつあるカサノヴァの凄みが伝わる中、ダ・ポンテは絶世の美女、しかも名前もアンナに一目ぼれをしてしまったあくまでも仕事ができる前途有望な青年にしか見えない。だから、改心を拒み地獄の業火にやかれるドン・ジョバンニの生涯もそれはそれでよし。
もっとも本作のテーマは恋愛論ではない。音楽とドラマがコラボレーションしたオペラと、同じく音楽とドラマが融合した娯楽としての芸術映画に意味がある。実存主義を追求したリアリティよりも、観客を鑑賞の快楽へとサービスする監督の意図に気楽にのればよいのだ。時代のポップスターとして活躍するモーツァルトの様子になごみ、劇中劇として上演される《フィガロの結婚》の花嫁の処女権を主張する領主のこっけいさをともに笑い、人目ぼれの女性との密会を目撃されて愛人の嫉妬にうろたえるダ・ポンテに共感し、その後尚、上昇志向が強く気の強い愛人のオペラ歌手フェラーゼの歌いっぷりが妙にはまっていると思ったら、彼女はケテワン・ケモクリーゼKetevan Kemoklidzeという本物のオペラ歌手(メゾ・ソプラノ)だった。容姿も優れている彼女は、有望株かも。ユダヤ人がカトリック教会で出世をするのは非常に困難だったと思われたこの時代に司祭にまで昇進し、オーストリア皇帝ヨーセフ二世に召したてられたが皇帝の死後は宮廷から追放され、最後は新天地ニューヨークで晩年をおえた色男のダ・ポンテ。
《フィガロの結婚》の寛容な伯爵夫人は、ダ・ポンテ自身の理想の女性だったのかも。そんなことまでつらつら考えて映画の旋律は続く。

-めざめていようと恋を語り
 まどろんでいようと恋を語り・・・

監督:カルロス・サウラ
イタリア/スペイン制作

「椿の花に宇宙を見る」寺田寅彦著

2010-04-16 23:59:48 | Book
そうだった、そうだった。
先日読んだ瀬名秀明さんの著書「インフルエンザ21世紀」には、寺田寅彦氏のエッセイの文章の名言「ものをこわがらなすぎたり、こわがりすぎたりするのはやさしいが、正当にこわがることはなかなかむつかしい」が、象徴的に引用されていた。明治11年に生まれ、昭和10年に亡くなった地球物理学者の寺田寅彦氏の本をいつか読んでみたいと思いつつ、もう何年も経過してしまった。近頃、科学者が書いた本を読むことが多い。興味と関心が元々科学分野にあるのは自分の読書傾向でわかるのだが、それだけでなく科学者でありながら文章も達人の域の”作家”に出会える幸運もある。しかし、文章表現の巧みさだけでなく、いつも次の一冊を探している理由として、科学者たちの社会通念に流されることのないその発想の豊かさと本質を見抜く確かさにある。そんな彼らの先駆者、文豪でもなく、小説家でも作家でもない明治生まれのひとりの科学者、寺田寅彦の随筆は、現代でも愛読される。

まずは一冊と検索したら、わずか57歳で生涯を閉じた本業が研究者の著書が、出てくる出てくる、まさかこれほど多くあるとは思わなかった。近代国家への道を歩む明治の男の知の力の濃密さをみたり。しかも、著書には、筆名「牛頓(ニュートン)」で綴った俳句から、映画論、作家論、美術批評など広範囲にわたる。そこで考えたのが、”同じ物理学者”でもあり、高校時代から愛読していて”全集を読破している池内了先生が厳選した”という手っ取り早い信頼感で随筆集「椿の花に宇宙を見る」を手にとることにした。

「鼻は口の上に建てられた門衛小屋のようなものである。生命の親の大事な消火器の中へ侵入しようとするものをいちいち戸口で点検し、そうして少しでも胡散臭いものは、即座に嗅ぎつけて拒絶するのである。
人間の文化が進むにしたがって、この門衛の肝心な役目はどうかすると忘れ勝ちで、ただ小屋の建築の見てくれの美観だけが問題となるようであるが、それでもまだこの門衛の失職する心配はなさそうである。」(「試験官」より、昭和8年9月、改造)

・・・とはじまって、匂いの追憶の不思議さと私はほのかな官能すら感じられた短いエッセイが続く。確かに、現代でも鼻はその機能や役割よりも外観の美こそ問題になる。それにしてもこんなユーモラスな語り口のうまさに思わずうなり、匂いの記憶にまつわる事象は現代人の心にも時空をこえてフィットする。「透明人間」では、透明ではなく物理学的には”不可視”であることから、人間の寿命が100歳以上延長になることや男女の性転換という空想を否定できないが、不可視人間は不可能であることを物理学的に解説している。「蛆の効用」では自然界の平衡状態(イクイリブリアム)を論じ、笑う回虫博士の師匠のように現代の抗菌ブーム現象に一石を投じ、「沓掛より・草を覗く」では利己がすなわち利他である天の配剤ことから人を苦しめる行為は結局自己を殺すことにもつながると論じている。「花火」では人の思い込み、「金平糖」では統計的異動、「身長と時間」では生物時間、とここらあたりまでは自分でもわかる。さらに池田先生の解説によると「電車の混雑について」では物理学で重要な概念である<不安定>、「自然界の縞模様」ではプリゴジンが提唱した<散逸構造>という最先端の科学に通じるそうだ。「満員電車」では昭和の初期から満員電車があったのかと妙に感心したが、現代の通勤電車も同様に私たちはむしろ好んで混雑している電車に乗っている確率が高いことがわかる。また高速道路の渋滞の原因と緩和策などは、本書にあった寺田理論の延長でもあり、当時は科学者が本気で研究されなかった事象も、現代では有効な研究として注目されて生活に活かされていることからも、その先見性にあらためて驚かされた。

その一方で夏の温泉宿でこどもたちが見たという人魂を解明しながら、人魂を怖がらないこどもたちを少しかわいそうなような気がして「怖いものをたくさんもつ人を幸福だと思うからである。怖いもののない世の中を淋しく思うからである。」と、文明の発達がもたらす空想力の欠如を憂えているが然りである。そういえば、作家の横溝正史氏や漫画家の山岸凉子さんの作品から漂う妖しい気配は、近代的なヴィトンやエルメスのビルが林立する都会で生息している身では、あまりにも遠い日本の風景となってしまった。
寺田寅彦のエッセイの特徴は、日常の事象から物理の原理をやさしく解説したものから、現代科学にも通じるものの考え方や感じ方が、没後、75年たっても色あせないばかりか、益々その価値が伝わってくる。

バービーちゃんの就職活動

2010-04-14 22:40:47 | Nonsense
4月9日発売された「ウォール・ストリート・ジャーナル」にバービーちゃんが従事する次のお仕事にまつわるおもしろい記事が掲載されていたようだ。Y新聞掲載分より要約すると次のようになる。)

今冬、バービーちゃんの製造元マテル社は、彼女の次のお仕事を決めるために自社のHPで公募をするにあたり、建築家、ニュースキャスター、コンピューター技術者、環境運動家、外科医の5つの職業を提示して受付たところ、60万人以上の投票があったそうだ。世界中の女の子たちの圧倒的な人気(支持?)を集めたのはニュースキャスター。確かに、知性と美貌を兼備え、最も旬で最もホットな世界情勢を報道する彼女たちの凛々しい姿は憧れの職業だ。しかも、アラ還になっても田丸美寿々さんのように実力がちゃんとあれば一定の支持もえられてがんばれる。マテル社の上級副社長のステファニー・コータさんによると、この結果は「想定の範囲内」。しかし、同時に出た結果は「本当にびっくり」と想定の範囲外だったらしい。コンピューター技術者が1位となったのである!
実はこれにはからくりがある。投票は誰でもできるが、当然ながら複数回は不可と制限されている。投票がはじまるや1週間経過すると、”おとな”のコンピューター女性技術者たちがネットで投票を呼びかけて、あっというまに票があたかも洪水のようにおしよせてきたそうだ。

1959年に発売されたバービー人形は、今でも世界で最も売れている人形で、関連商品を含めて年間の売上は13億ドルを超えている。また、ファッションモデル出身の彼女の職歴はこれまで124職種ととても幅広いのだが、社会の変化を時には先取りするくらいに映すお仕事をしてきた。偶像にしかないバービーちゃんに、コンピュータ技術者であるお姉さんたち(おばさんたち?)が期待を寄せるのも、情報科学分野で働く女性たちの処遇全般がこの20年間で地盤沈下してきている危機感からだ。コンピューター科学の学位取得者も85年には37%だったが、一昨年には18%に減った。米国防総省で科学技術の研究をしているエリン・フィッツジェラルドさんも投票に貢献した。
「数学や科学、コンピューターに興味を持っていると、創造性や面白みに欠け、社交性のない退屈な人間と思われがち」と語る。確かに、日本でも理系の女子大学院生というと、めがねに白衣、無表情、音楽にも興味なしと思い込んでいる方が職場にもいる。何故か!しかも、同じ女性なのに。

同社には、「いけてる感じにして」「白衣はやめて」「おたくっぽくしないで」というシカゴに本部がある女性技術者協会からの要望も届いている。しかし、ポニーテールの髪に、ピンクのアクセサリーとやぼったいめがね、無線通信のヘッドセットをつけて、かかとの低い靴をはいたバービーちゃんが今秋にデビューすることになった。色っぽいタイトスカートにハイヒールのバービーちゃんは技術者には見えないだろうから、いかにもその職業”らしく”みえなければいけない彼女のおしゃれな(実はやぼったい)装いが、逆に女性コンピューター技術者への世間のイメージや思い込みをさらに助長するようなパラドックス。技術者協会のノラ・リン会長は、バービーをきっかけに、将来、技術者を希望する女の子たちが増えることを期待しているそうだが、その通りにいくだろうか。
ちなみに、一緒に社会人デビューする同期のライバルは、ニュースキャスターのバービーちゃんである。

『ジェイン・オースティン 秘められた恋』

2010-04-12 00:01:06 | Movie
生意気で高慢。女たらしで法律の勉強にも身が入らないくらいに放蕩を繰り返す遊び人。しかも失礼にも、小説を執筆しているうら若き未婚の乙女、ジェイン・オースティン(アン・ハサウェイ)に向かって、”経験”がないから作品の内容に深みがないと、自分は数多くの経験者とばかりに余裕でからかい半分にえらそうに批評までしちゃう。この今だったら間違いなくセクシャル・ハラスメントと罵倒されそうな男は、後見人の叔父からこれまでの悪行を叱責されてしばらくの田舎暮らしを余儀なくされたトム・ルフロイ(ジェームズ・マカヴォイ)だった。
なんたる失敬な奴だと思うのだが、高飛車で大胆な?指摘はその実、鋭く、ジェインの才気を刺激する優れた知性を彼が備えている事を披露する。人望もあつくて立ち居振る舞いがチャーミング、おまけにエリート予備軍、そして一番大事で肝心なことなのだが、彼は誰もが認めざるをえないくらいハンサム・マン。ふたりが反発しあうのは、同じレベルで会話ができる唯一の異性だから。そして反発が相手への強い関心の現われであることに、気がついていくジェインとトム。しかし、そんなジェインにまたとない縁談がもちこまれる。資産家で地元の名士でもあるレディ・グレシャム(マギー・スミス)の甥、ウィスリーとの縁談だった。女性がまともに職業をえることも難しかった18世紀末の時代、女性が飢えずに食べていくことはすなわち結婚することだった。中流家庭とはいえ、恋愛結婚の果ての貧しいオースティン家の両親は、末娘の玉の輿の結婚を願っているのだったが。。。(以下、内容にふれてまする。)

我が日本の文豪、夏目漱石もお気に入りだったと伝えられる英国の女流作家のジェイン・オースチン。生涯独身だった彼女だが、2003年に伝記作家のジョン・スペンスによって20歳の時に激しい恋をしたという説が発表された。確かに本作を観て、この生涯たった一度の恋愛事件が、彼女の後の作品に大きな影響を与えたと楽しい想像ができる仕上がりとなっている。(ちょっとまぬけで大柄なウィスリーは『プライトと偏見』のダーシーを思い出す。「愛情の花はゆっくりと咲く」とジェインに求婚するさえない男のウィスリーだが、懐が深くて案外こういう男は将来よい夫になるかもしれないと、私は彼の味方をしたいくらいだ。)それにどんなに才能はあっても、身を焦がすような恋のひとつやふたつなくては女もすたるというものだ。しかもその恋が成就できなかった理由も本作は浪漫チックにうまくまとめている。ジェームズ・マカヴォイ大好きな私としても、トムはとてもとても素敵な青年だが、階級社会の英国のこの時代に財産の全くない前途有望な青年が同じく貧しい娘と駆け落ち結婚するのは、それぞれの家族の哀しみだけでなく大きな犠牲を伴ったという背景は理解できる。ジェインの父の「貧しさは人の心を砕く」という忠告も、この時代だっらそれもそうだ。ジェインの最後にくだした決断は、賢明な優しさという美しい品格を作品は残してくれた。

そのジェイン役を演じたアン・ハサウェイは、容姿が際立ち過ぎるのではないかとの懸念は解消して、予想外にも好演している。知的でとてもよく作家を理解しているのがその演技から感じられたのだが、ジェイン・オースティンが大好きで全作品を読み込んでいて、卒論もジェイン・オースティンだったそうだ。その役を演じることができて幸福な女優である。ところで、今一番のお気に入りの俳優のジェームズ・マカヴォイ君だが、当時のヘアースタイルと服装でめかしこんだ彼を見て、高校時代の化学の教科書で見たアメデオ・アヴォガドロを思い出してしまった。

■懐かしいアーカイヴ
『プライドと偏見』
『EMMAエマ』