千の天使がバスケットボールする

クラシック音楽、映画、本、たわいないこと、そしてGackt・・・日々感じることの事件?と記録  TB&コメントにも☆

ETV特集「大阪”非常事態”宣言~生活保護・受給者激増の波紋~」

2010-12-27 22:56:18 | Nonsense
今年の9月1日、うだるような猛暑の一日がはじまろとうしている早朝、始業前の浪速区役所前に長蛇の列ができている。ドアが開くと我先にと殺到していく先に、職員が用意しているのは現金が入った茶封筒でぎっしりと箱に入って並んでいる。私は知らなかったのだが、毎月、1日は生活保護受給日だそうだ。40代の単身者は、12万円程度の保護費が支給される。

最後のセーフティネットと言われる「生活保護」に、ここ数年、異変が起こっている。昨日のETV特集は、知られざる大阪市の生活保護の実態を報道していた。不景気もあいまって、最近、生活保護受給世帯が激増していて、1990年代半ばのバブル時代の倍を超えて、今や受給者数は全国135万世帯187万人にも膨れ上がっている。増える一方の、生活保護費は国や地方自治体の財政を逼迫もしている。特に深刻なのが大阪市で、受給者人口13万6600人で、この数字は市民の20人に1人が生活保護を受けている計算になる。平成22年度に計上した生活保護費は2863億円!なんと市税収入の半分になるという。大阪市はどうなっているのかと驚いたのだが、もっと驚かされあきれたのは、受給者を利用して市民の血税を搾取する貧困ビジネスの実態である。

生活保護受給者へのインタビューで浮かんだのは、”悪徳”と言ってもよいような不動産会社とその会社に密着した医療機関の手口である。ある男性Aさんが紹介されて住んでいるアパートは、築数10年もたつ相当古いアパートで、トイレは一応水洗だが、今時見かける事がなくなったタンクが上にあり、チェーンをひっぱって水を流す方式のトイレ。勿論、とても狭い。家賃は42000円。この家賃は、生活保護費が申請できる上限だそうだ。
別のBさんは、千葉県船橋駅前でホームレスをしていたのだが、不動産業者に声をかけられてワゴン車に乗せられ、他の人たちと一緒に大阪に連れてこられた。不動産業者が全国の路上生活者を集めて、大阪の狭いアパートの入居させ、生活保護を受給させて家賃を取り立てる。4畳半程度の質素な部屋で、ここでも家賃は42000円。敷金、礼金、最低限の生活用品も市から支給されている。

それだけでなく、Cさんは不動産業者と提携している病院に糖尿病で1年以上も入院し、退院したらこれをすべて服用したら逆に副作用で病気を併発するのではないかと思うくらいの薬の山を病院から支給されている。診断書には便秘症などと病名?も書かれているのだが、勿論、医療費の請求先は大阪市の税金を直撃。このように生活保護受給者専門のような病院が、大阪市には34ヶ所あるという。確かにセイフティーネットの機能として「生活保護」は必要だが、一見、健康そうな受給者を利用する不動産業者、医療機関の実態を知ったら、大阪市民でなくても怒りを覚える。

このような非常事態に危機感を募らせる平松邦夫市長は、昨年、市役所に「生活保護行政特別調査プロジェクトチーム」を起ち上げ、激増の実態の背景を調べ、解決策を模索している。民間企業のノウハウを導入して、受給者に履歴書の書き方や面接試験の受け方などを指導して就労支援もしているのだが、不景気もあいまって再就職は困難を極める。大阪市が税金を投入して支援して就職できた人が1193人、ようやく自立できた人(保護廃止)はわずか28人。その一方で、派遣きりなのであらたに生活保護に落ちて申請した人は1万人を超えた。本当に大変なことになっている!

「優生学と人間社会」米本昌平・島次郎・松原洋子・市野川容孝著

2010-12-26 16:09:54 | Book
1939年9月1日、ドイツ軍がポーランドに侵攻して第二次大戦の火蓋を切るという歴史的な事件のかげで、この国では「遺伝病子孫予防法」に関する新しい政令が下された。それによって、障碍児や入院中の精神病患者たちが軍によって特殊な施設に移送され、殺された。敗戦までの犠牲者の数は7万人にもなると言われている。ナチスによる全面戦争開始の合図のための安楽死計画、それはこれまでの”低価値者”の断種手術を発展させてナチスによる優生政策の到達点とも言える。後に世界を驚かせたこの事件を題材にした小説「夜と霧の隅で」で、日本の作家の北杜夫は芥川賞を受賞するのだが、現代でも「優生学」という言葉だけでヒトラー、ナチスを連想して眉をしかめる人は多いのではないだろうか。実際、私自身も拒否反応を起こすタイプだった。

ところで、1996年、我が国では国会で「優生保護法」が改正されて「母体保護法」に衣替えをしている。しかし、駅前のパチンコ屋の看板のリニューアルと違い、国際社会に気をつかい”優生”という看板をおろすことでは、生命科学の時代である21世紀において人類の向かう道筋を見つけることはできない。これまでも出生前診断による選択的中絶、体外受精卵の遺伝子診断、生殖細胞の遺伝子治療など先端医療技術の進歩とともに、”良い生命”の選択は必ず優生思想を導くことになるという倫理的な反論をよんできた。本書は(ついでに弊ブログも)、その科学の発展と生命の選択の可否を倫理面に問う場ではない。「優生学」を過去の歴史と単純に結びつけてタブー扱いして封印するのではなく、米国、ドイツ、北欧、フランス、日本の優生学と政策の歴史や各国の事情を検証することで、将来の優生思想との距離を考える基礎づくりが目的である。

10年前に出版された本書は、今日読んでも「優生学と人間社会」というタイトルどおりの決定版で、何度も読み返す価値がある。ダーウィンは「人間の由来」で、文明社会は、福祉政策の整備や医療技術の進歩によって、その「虚弱な構成員」の生命を維持するよう努めているが、それは人間という種の「変質」を加速させることになっている、という言葉を残した。ギリシャ語で”良い種”を意味する優生という言葉を論文で初めて使ったのが、その彼のいとこのフランシス・ゴルトンだったことは偶然ではないだろう。やがてキリスト教信仰と科学の亀裂をうめるように発展した19世紀の自然科学主義、後に社会主義を背景に優生学も発展していくのは、ある程度、自然な流れなのだが、北欧ではかって手厚い福祉のために断種法が成立し、現代では福祉国家として妊娠した女性の自己決定による出生前診断と選択的中絶を認めている。かっては、国が指導した断種などの優生政策が、最終決定が個人の意思にゆだねられただけで、英国では、希望者には無料で出生前診断を受けられ、その殆どが選択的中絶に繋がり福祉コストの削減という行政側の”成果”に結びついている。個人の選択的自由なのだから、優生学とは関係ないとはたして言い切れるのだろうか。しかも、選択する個人は基本的に産む性の女性になるので、同性として本書から考えさせらることは多い。しかも、それが、100年も前にドイツのアルフレード・プレッツが描いた夢である「淘汰の過程そのものの有機体としての個人の段階から、生殖細胞の段階に移行させること」が優生学の最終目標の実現に近いとまで指摘されると、驚きを禁じえない

その一方で、出生前診断は障碍者差別に拍車をかけるのではないか、という批判は別の新しい認識を広げた側面もある。93年ドイツで開かれた障碍者団体が主催した会議で、当時のリヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー大統領は「違っていて当然」という講演で、出生前診断が障碍者の社会的排除とはたして無縁なのかと危惧を表明したことは重要である。先日、久しぶりに2児のパパとなった乙武洋匡さんの元気な姿をテレビで観たのだが、自宅も公開して、長男に髭をそってもらう微笑ましい姿も披露して、週刊誌「AERA」に登場した時からの歳月の流れも感じた。彼は、障碍をひとつの個性として体現した人でもある。

生殖による個人の嗜好を実現するサービスが、商業化されひとつの産業として市場で発展していくダーウィンの言葉のような予感がする今日こそ、本書の意義は刊行当時よりもむしろ大きくなっているとも思える。本書が次ぎの爆弾のような格言で締めくくられているのを、次世代への重い警鐘の響きと聞いた私の杞憂に過ぎなければよいのだが。。。
「地獄への道は善意で敷き詰められている(The road to hell is paved with good intentio)」

バッハ・コレギウム・ジャパン 聖夜の「メサイア」 サントリーホール クリスマスコンサート 2010

2010-12-24 22:58:00 | Classic
暮れもおしせまる年末になると、どういうわけか合唱を聴きたくなる。
しかしながら、この季節の「第九」は日ごろはあまり演奏会に足を運ばない方も歓喜の歌にひたるためにやってきて、ちゃんと大入り満員になるのだから、なにも私が行くこともないのでは、と考えたりする。(「第九」は、やっぱり年末に聴くのが一番ふさわしいけれど・・・。)ここはクリスマス気分を盛り上げて、ヘンデルの「メサイア」。しかもオケは、アリジナル楽器奏者を擁して鈴木雅明氏が結成したバッハ・コレギウム・ジャパン。ちなみに鈴木雅明氏は、東京藝術大学に古楽科を設立して20年間も教鞭をとり、また地道な演奏活動で評価を積んで、今ではこの分野でのバッハ演奏の第一人者として知られて古楽アンサンブル、BCJは海外でも賞賛されているそうだ。

会場には、クリスマスらしい赤いドレスに高いハイヒールをはいたをタレントの佐々木希さんによく似た(!)とても可愛い女性もいらっしゃるかと思えば、ヴァイオリニストの佐藤俊介さんのお姿もお見かけした。(余談だが、佐藤俊介さんは通常はよく撮れているはずの修正ありの写真よりも、実物の方が好青年で素敵な男性なのだ。)ステージにはクリスマス・ツリーが飾られているが、華やかさよりもむしろ厳かで清らかなクリスマス・イブ気分になるのは、BCJの演奏に通じるものがある。

さて、演奏については、私よりもはるかにBCJに通じているromaniさまのブログにも書かれているように、合唱の素晴らしさに心が洗われるような印象を受けた。6時半に開演して終演は9時半と長い演奏時間にも関わらず、私のような音楽好きだがクリスチャンでない者でも最後まで集中が途切れなく音楽に心をすっぽりとゆだねられたのも、合奏の力によるところが大きい。次に、個人的な好みを反映すると、この曲の要となるのはアルト(カウンターテノール)にあると思う。カウンター・テナーのクリント・ファン・デア・リンデは、romaniさまに音程の不安定さをしっかり聴き取られてしまっていたが、声がメサイアの音楽性にはあっていると思われたので残念だった。しかし、全体を通じて隅々までヘンデルの「メサイア」を熟知している演奏内容に、日本の宗教音楽の演奏レベルの高さに感じ入るものもあり、一年間の心の洗濯をしたような気分で会場を後にした。

ところで、会場にきていた佐藤俊介さんの一昨年のコンサートでは、彼はバロック・ヴァイオリン奏法を学んでいてオール・ガット弦による無伴奏ヴァイオリン・ソナタを弾いていたのだったが、昨年、ライプチヒ国際バッハ・コンクールにバロック・ヴァイオリストとして受けて2位になったそうだ。(以下、公式サイトより)
Violin/Baroque violin
1. price: Evgeny Sviridov (21), violin, Russia
2. price: Shunsuke Sato (26), Baroque violin, Japan
3. price: Friederike Starkloff (19), violin, Germany

指揮者の中田延亮氏も一時古楽を学んでいたりと、ちょっとした古楽ブームとも言われているが、私自身はあまりこのような演奏を好まない。今夜の「メサイア」でずっと違和感を感じていた理由が、我家にあるCDがドイツ語だったことから英語のメサイアがしっくりとなじまないのと同じように、モダンに慣れた耳は古楽は教科書を読んでいるような気分になり、また無宗教主義の私には、絵画で言えば、レンブラント以前の平板な宗教画を鑑賞しているのと同じ感覚で純粋に音楽として聴こえてこないからだ。勿論、古典の調律や当時の演奏スタイルの知識は必要だということは理解してはいるのだが。このような古楽器ブームの中で、ピアニストの岡田潔さんはあくまでもモダンピアノの解釈にこだわる方である。彼が、「ハープシコードよりもクラヴィコードを好んだバッハが現代に生きていたら、もっといろいろな可能性を追求していたのではないか。ピアノがあったらきっと表現や音色に留意して作曲していたに違いないから、バッハが考えた以上の効果を考えて弾こうと思っている」とおっしゃっていたのが興味深い。

最後に、BCJの演奏が作曲家の意図を充分にくんでテキストに忠実な演奏であるだけに、サントリーホールのような大ホールではなくもう少し小さなホールで聴きたかった、というのがわがままな感想である。

-------------------------------12月24日 サントリーホール ------------------

ヘンデル:オラトリオ『メサイア』HWV56

出演者
ソプラノ:アーウェト・アンデミカエル
アルト:クリント・ファン・デア・リンデ
テノール:ジェイムス・テイラー
バス:クリスティアン・イムラー
指揮:鈴木雅明
合唱・管弦楽:バッハ・コレギウム・ジャパン

「テレプシコーラ 第2部5」山岸凉子著

2010-12-24 08:33:31 | Book
第2部、ついに・・・ついに完結!かっ?
・・・って、第2部までの一応の完結であって、近々3部が再開されるのだと思っていたのだが、これで本当に終わっちゃうの!?六花(ゆき)を成長させてくれる次のステージへの切符をもたせておいて、さよならとは随分つれないではないか・・・。
しかし、本作は2000年秋から連載を開始して10年がかりの長期連載漫画だったそうで、ここで一度リフレッシュして念入りにリサーチをして次回からの構想をあたためてから、再出発をしていただきたいと勝手なお願いをする。というのも、この続きを連想させてくれる様々な意味深な?伏線が完結版にも感じられるのだが、それは単に物語の彩と展開に無理をきたさないための読者を納得させるための材料に過ぎない、ということはではないと思いたい。

ダイナミックに超絶技巧の踊りを魅せるローラ・チャンの正体は、いったい何者なのか。彼女が次にすすむバレエ学校を選んだ理由は、何故。確かに小学生時代のあの顔だちでは主人公になれなかったかもしれないが、こんなに美しくかっこよく成長したなら、彼女の失踪してからのその後をサイドストーリーとして1冊の本ができる。これまでも、人の裏側の黒鳥のような心理を描くのが得意だった山岸さんに、ローラ物語の執筆もお願いしたい。

NHK朝の連続ドラマだったら、六花については幼い頃は姉の後をついていっただけのぱっとしなかった少女が、その後、悲劇をのりこえて彼女のもっている才能を発掘されて飛躍していくところで一応の結着をみた。しかし、連載されていたのが少女コミックだったらそれでよかったかもしれないが、相手は「ダ・ヴィンチ」の読者だぞ。向井理クンの表紙だけで満足できるはずがない。ここは、女性として恋もして、ハンブルクでの新たな出会いを通して成長していく六花にも出会ってみたいものだ。山岸さんの漫画の最大の魅力は、バレエリーナの鍛えられた肉体を忠実に再現するだけでなく、理論的で格好なバレエ入門書ともなっている点にある。それに、私の中でも「テレプシコーラ」はまだまだ終わっていない。

ところで、振付師というのはそんなにえらいものなのかっ。本作でローザンヌ・バレエ国際コンクールの審査委員長を務めるジョン・ノイマイヤー(John Neumeier)をモデルにしたJ・N氏の発言力は大きかったのは委員長という立場はあるが、もし時代が古典も大事だがコンテンポラリー重視に流れているのであれば、振付師の役割もそれに伴い大きくなっていくのは理解でくるのだが。同じく山岸さんのバレエ漫画の「黒鳥」は、1904年に生まれて「ニューヨーク・シティ・バレエ団」を設立したジョージ・バランシンをモチーフに描かれているのだが、バレエの知識のない私にはバレエを観ても誰がどう踊るのかに殆どの関心を奪われてしまうのだが、この作品からは自分の振付を踊らすために誰が必要かという独裁者のような芸術家のエゴが伝わってくる。クラシック音楽で言えば、音楽を解釈してオケを振り自分の思うがままに楽譜を再現する指揮者の権威にも通じるところがあるようだ。

さて、来年のローザンヌ国際バレエコンクールは、2月1日から6日に渡って開かれる。予選を通過された方の名簿の国籍には、ChinaとJapanが随分めだつ。音楽だけでなくアジア勢の台頭が実感させられるのだが、コンテンポラリーの充実に伴う男子の健闘も最近のコンクール・シーン。現実のバレエ界でも六花や茜ちゃん、大地君のような将来が期待される名花や大器が登場するのか。楽しみがふえた。

■アーカイヴ
「テレプシコーラ/舞姫」
「テレプシコーラ/舞姫 第二部3」
「黒鳥」

「黒鳥 ブラック・スワン」山岸凉子著

2010-12-21 23:11:14 | Book
xtc4241さまのブログで映画『ブラック・スワン』公開情報を知ったのだが、主人公のバレエリーナを演じるナタリー・ポートマンがおそろしくはまり役だと感じる。クラシックのバレエリーナーとして身体能力は必須だが、容姿に求められるのは、努力で補うことは叶わない美貌とバランスのよい手足の長さは勿論だが、何よりも華奢で小柄な体型は重要である。それに、豊満な胸は10代の姫君を踊るにはむしろ邪魔である。迫力あるハリウッド女優は、やまのようにいるが、確かに知性的な品のあるコンパクトなカラダのナタリー・ポートマンは、生まれながらのバレエリーナの雰囲気がある。

さて、日本の漫画は世界でもひとつのカルチャーの分野として認知されつつあるが、私がナタリー・ポートマンさんにインスピレーションを与えてくれると思うのが、山岸凉子さんの「黒鳥-ブラック・スワン」である。1943年、ニューヨーク。マリア・トールチーフは黒い髪と大きな瞳に個性があるバレエリーナの卵。マリアは、ニジンスキーの妹にすすめられて、ロシアから亡命してきた天才振付師が手腕を発揮するニューヨーク・シティ・バレエ団に入団する。バランシンことミスターBとの初対面で、彼から贅肉を落とすように忠告されたマリアは、怒りながらも自分の丸みをおびた優雅な体型が時代遅れでもはややぼったいことを感じ始める。偉大な師から自分は気に入られていないと感じているマリアだったが、ミスターBの美しい女優の妻から自分が嫉妬をされていることを知らされて驚く。

やがて、その妻とも2回目の離婚をしたミスターBから自分に霊感を与える女性とほどなく求婚されて、21歳の彼女は正式な妻となった。才能あるミスターBの妻として、またバレエリーナとして幸福を味わうのもつかの間、彼の求める斬新な振付に、もはや自分の踊りのスタイルは旧式となっていることに気がつきはじめた。そして、ミスターBの視線が、マリアを通りすごし、17歳のやせて手足が長くモダンな振付も踊れるタニヤにあることを。
それでも妊娠を喜ぶマリアに、ミスターBは優れたバレエリーナは人類に美をもたらす存在と諭し、決して出産をのぞまない。マリアは少しずつ、気づきはじめる。彼が求めて追求する”美”の正体を。。。

「白鳥の湖」は、音楽、衣装、豪華さ、物語性とともにもっともバレエらしいバレエで、言わばバレエの王道である。王子のジークフリートは森の中の湖で白鳥の化身となった王女オデットの清楚な美しさに、心から永遠の愛を誓う。ところが、ジークフリートの成人の祝賀会にやってきたのは、オデットに瓜二つの悪魔の娘のオディール(黒鳥)だった。そうとは知らない王子はオディールにも愛を誓ってしまうのだった。オデットとオディールはひとり二役で踊られることが多いのだが、オデットの乙女チックな清楚さとは一転して、オディールは黒いチュチュを着て妖しくも誇り高く王子を誘うのである。所詮、悪魔の娘は悪魔の娘、”なりすまし”のかりそめの恋とは知りつつも。「白鳥の湖」と聞けば、誰もが脳裏にうかぶのはあの楚々とした優美な白い白鳥だろう。しかし、純粋で穢れを知らない白鳥と狡猾で官能的な黒鳥は、実は表裏一体であることを少女は本能的に知っているものである。

映画『ブラック・スワン』は来春公開だそうだが、これは是非とも観に行かなければ。

■「テレプシコーラ/舞姫」の第二部5巻が昨日発売されていた!
これから本屋に行かねば・・・。
「テレプシコーラ/舞姫」
「テレプシコーラ/舞姫 第二部3」

「あまりにも騒がしい孤独」ボフミル・フラバル著

2010-12-18 22:42:25 | Book
「35年間、僕は故紙に埋もれて働いている──これは、そんな僕のラブ・ストーリーだ。」

チェコを代表するボフミル・フラバルの「あまりにも騒がしい孤独」は、こんな素敵な文章ではじまる。35年間、文字にまみれ、35年間、水圧式プレスの緑のボタンを押して3トン分もの故紙と本を潰してきて、そのおかげで注)魔法の蘇りの水で溢れんばかりのピッチャー状態になってしまい、うっかりすると美しい思想が滾々と流れだしてしまいかねないハニチャ。1976年出版された本書の主人公、そんな年金生活までもう一息の夕暮れ時のおじさんのハニチャ、彼の若かりし頃の哀しくも美しいマンチンカやジプシーの恋人との恋の物語は、当時のチェコの検閲が厳しかったために地下のタイプ印刷や海外の亡命出版社でひそかに出版されたという。

1914年、チェコに生まれた著者のボフミル・フラバルはプラハ・カレル大学で法学を学び博士号を取得しながらも、大学を卒業後、様々な仕事に就いて働きながら、スターリン政権下が求める社会主義リアリズムとは全く異なる前衛的な作風で出版される望みのない作品を書き続けた。実際、ハニチャの仕事と同じように、後のベルリン国際映画祭で金熊賞を受賞した映画『つながれたヒバリ』の原作は、植字までされた後に出版中止という悲哀も味わう。フラバルの本だけでなく、次々と価値の高い貴重な本やイデオロギーに不適切だという理由で発禁処分になった本が昇天していった。本書が書かれたのは、人権擁護運動「憲章77」によって、ヴァーツラフ・ハヴェルが投獄され、哲学者のヤン・パトチカが過酷な尋問の末亡くなるという「プラハの春」が旧ソ連の軍事的介入でつぶされて、”自由”がハニチャの本と同じ運命をたどって圧殺された時代でもある。また、本書のハニチャが一番親しかったのは、犬小屋に繋がれた犬のように労働に縛り付けられた大卒の教養人で、元科学アカデミーの会員の下水清掃人だったように、この時代は大学教授のような自由派知識人たちが職を奪われて、清掃人やボイラーマンとして働かざるをえなかった。

しかし、フラバルの作品の特徴として、二年前に日本でも公開されて評判をよんだ映画『英国王給仕人に乾杯!』(原作:僕はイギリス国王に給仕した」)や『厳重に監視された列車』でも感じられるように、政治的な抑圧や不条理を理路整然とした主張で告発するのではなく、ユーモラスな語り口と滑稽な喜劇として表現して、その底にあるグロテスクさと悲劇をうきあがらせている。北杜夫が「どくとるマンボウ青春記」で自身の戦争体験から悲劇と喜劇、滑稽と悲惨がきわめて近くにあることを感じたように、本を潰す作業のきめ細やかな描写の中に、この国では知性と芸術が圧死されている悲劇も、いやらしい滑稽さとあいまってシュールなギャグのような作風ともなっている。言論の自由や表現の自由など徹底的な統制の監視下で、このような手法をとったというのではなく、それがフラバルの文学的才能であることも伝わってくる。ビールが大好きで本当はおなかが突き出たおじさんになっているはずのハニチャが、「僕」という一人称を使用してけがわらしくも奇妙なできごとを語るうちに、国や政治的体制をこえてその文章から漂ってくるのはささやかな美しさと孤独な生命が若々しくも清冽な印象もあたえる。

35年間、故紙の潰してきたそんな僕は、とうとう超巨大な圧縮機でプラハの街ごと自分自身も潰される白昼夢をみるようになるのだが。。。

なるほど、中国の劉暁波が「08憲章」を起草したことで国家政権転覆扇動罪で懲役11年の判決を言い渡されたのは悲劇だが、その彼がノーベル平和賞を受賞するや対抗して大学教授らが体制におもねるように「孔子平和賞」を創立したのは喜劇だった。しかし、この喜劇はイジー・メンツェル監督の力量をもっても、魔法の蘇りの水で景気をつけても爆笑までには届かない単なる”失笑”ものである。
注)「魔法の蘇りの水」とはビールのことである。

■これはとってもお薦めの映画
映画『英国王給仕人に乾杯!』
『厳重に監視された列車』

「どくとるマンボウ青春記」北杜夫

2010-12-17 23:35:27 | Book
「僕のリーベ」
若かりし頃、作家の辻邦生が高校時代の友人である北杜夫への手紙の書き出しは、この呼びかけではじまる。これが、かっての旧制高校の雰囲気かっ!とまるで萩尾望都や武宮恵子さんの描く禁断の園を期待(妄想)しつつ、開いたのが「どくとるマンボウ青春記」。しかし、そこは女人禁制の恐ろしい魔窟でもあった・・・。

私が読んだのは、中公文庫のこの表紙のもの。この絵のとおり、ついこの間まで紅顔の微?少年だったはずの彼らは、寮の先輩たちの薫陶を受けてむさ苦しい猛者に変貌を遂げバンカラ街道一直線。酒、不潔!!、デカンショの三種の神器でストームをかけては寮歌を吼えながら街中を繰り出す。辻邦生から漂うカント、ヘーゲル、キエルケゴール、ゲーテ、ベートーヴェンの知性の高貴さとマンボウ氏の破天荒でユーモラスな剛毅さが拮抗し、教師を含めて奇人変人が跋扈する舞台、それが旧制高校なのか。今ではあまりにも遠くなってしまった旧制高校生が活躍した時代が再現された本書に、現代の草食系男子を扱い慣れた乙女はその野蛮なる行状にのけぞりながらおののきつつ、やはりここは爆笑するしかない。

誰にも一度は訪れる青春期。本書は恥ずべき生態をさらけだし、戦後の貧しさと飢えをしのぎながら連帯感に繋がれた高校の寮生活の時代から、東北大学医学部に進学した仙台時代、そして最後に父の斎藤茂吉が亡くなり青春に訣別し作家を志すまでの青春エッセイものだが、往復書簡集「若き日の友情」に掲載されていた北の写真の表情に見られるように、どこかひょうひょうとしているが、醒めた視点がすくう人間の深い底が感じられる。

印象的なエピソードとして、学徒動員で工場勤務していた時に、外にいた友人を防空頭巾をかぶった神官が非国民とわめき散らして夢中で叩いた事件である。北はこの時にのっぴきならぬ教訓を学んだ。ひとつは、賢しからぬ人間が権力らしきものを握ると恐ろしいことになること。これは、現代でも学校や会社という小さな社会から、北朝鮮のような国レベルでも実感する。そして悲劇と喜劇、滑稽と悲惨がきわめて近くにあることである。マンボウ・シリーズのユーモラスさと、「夜と霧の隅で」にみられる人間の尊厳にかかわる純文学との北杜夫のかけ離れた二面性は、著者の精神状態の反映だとばかり思っていたが、実はその観察力と描写力にあるのではないかと、本書でも感じられた。

甘酸っぱくも美しくもない青春時代。本当にこの人たちはばっかじゃないか、と笑ったのだが、いったい彼らのエネルギーはどこからきたのだろうか、そんなことをつらつら考えたのだが、エリート予備軍としてオトコばかりの学校や寮に言わば隔離された状態で、性の体験については晩生だったことも彼らの行動に作用したのではないだろうか、というのも私の感想。女性に向かう思春期から青年期のリビドーが、文学、哲学、ストームそしてさまざまな情熱的なふるまいに発散されていたのでは。実際、北自身も童貞を捨てたのは遅かったと告白している。女性としては自由で性的にも古い因習から解放された現代の方がより過ごしやすいが、その反面、当時の旧制高校生たちは女子への関心を全身に蓄えながらも、今の若者には持ち得ない教養という下地も心の財産として蓄えはじめた時代でもあった。こんな彼らがその後の日本をひっぱってきたのだった。それを考えると、日本の将来はこれからどうなるのだろう、、、と余計な心配もわいてきた。

■こんな本も
「夜と霧の隅で」
「若き日の友情」

「わたくしが旅から学んだこと」兼高かおる著

2010-12-13 22:26:26 | Book
取材で訪問した国は31年間で約150カ国、移動距離にすると地球を約180週、1959年から1990年まで続いたテレビ番組のために一年の半分を海外で取材のために生活してきた。今だったら、映画の『マイレージ、マイライフ』でジョージ・クルーニー演じるライアンより先に航空会社の"コンシェルジェ・キー"をゲットしたかもしれないこのトンデル方は、「兼高かおる世界の旅」でナレーター、ディレクター兼プロデューサーを勤めていた兼高かおるさんご本人の近著である。これほどの長寿番組なのだからおそらく人気も高く良質な番組だったのだろうが、残念なことに私は観た記憶がないのである。兼高かおるさんの事も殆ど知らないのだが、これほど多くの国を訪問した方なのだから、何か特別な見識や意見をお持ちなのではないだろうかと期待して本を開いた。

活字からうかぶ兼高さん像は、「旅の思い出グラフティ」のコーナーに溌剌としたグラビアアイドル以上にかっこいい水着の写真のとおり、バイタリティ溢れて率直な女性。私はこのような旅番組は、あらかじめきちんとプロデュースやコーディネイトされていて、そのお膳立てされたセットに乗って初めて行動するのかと思っていたが、さすがに兼高さんは違った。カメラマンとスタッフのふたりの男を従えて(←連れてではない)、車の助手席に乗ってまるでハンターのように自分で取材対象を発掘し、大物にももの怖じせずにインタビューをする行動派。清潔な欧米だけではなく、発展途上のアフリカ、中東、中南米とそれこそ世界中、しかも一般女性として初めて南極点にたどりつくだけではなく、氷点下30度の北極点も還暦過ぎて制覇。帰国して日本に滞在中は、ナレーションの準備、資料整理、次のリサーチと更に多忙な日々、、、にも関わらず日本全国旅をしている。「世界の旅」時代は、99%をこの番組のために費やしたと告白しているが、その情熱は自身への徹底的なプロフェッショナルな自意識とプライドが感じられて圧倒するものがあるのだが、ついていくカメラマンやスタッフ、周囲の人たちも良くも悪くも彼女を前にして緊張したのではないかと想像される。その厳しさには、明治生まれのお母さまからしつけや教育を受けてきた育ちのよいお嬢様の顔がのぞかれる。

しかし、その反面、兼高さんの提唱するサラリーマンの42歳定年説は理想かもしれないが、その後の40年近い生活費はいったいどのように確保したらよいのだろうか。また、そろそろこどもの教育費にお金がかかる年代で会社をやめられないどころか何とかリストラされないようにしがみついて、ママも家のローンやこども教育費捻出のために働かざるをえない事情をご存知ないのだろう。昨今、話題にもなっている”ワーキングプア”という人種が、日本という地域に増殖中の現象をどのようにお考えなのか、と感じる部分もある。兼高さんのお友達の財界人にもお尋ねしていただきたい「日本の旅」でもある。

これだけ自宅を離れて旅をしてきた結果なのか、これだけの旅をできたのも、兼高さんが恋人ができても結婚には至らずにお嫁にいくことがないまま独身だったこともある。究極の幸福は信じる人に愛されることと悟られた兼高さんだが、おひとりさまの先駆者であり達人でもある。ひとりで行動することが苦手な女性も多い中、経済的にも精神的にも自立している姿は堂々としている。振り返れば、結婚できるときにはあまり考えずに飛び込み、産めるときには産んでおけという教訓をあげながらも、兼高さんのだんなさまは夢中になった「世界の旅」だったそうだ。番組が終了して20年。言わば、未亡人となってしまったわけだが、まだまだわたくしの旅は続いているとのこと。老いても美しく意気軒昂という言葉はこの方のためにある。

『白いリボン』

2010-12-12 08:54:10 | Movie
今年最も観たかった映画が、2009年カンヌ国際映画祭でパルムドール大賞に輝いたミヒャエル・ハネケ監督の最新作『白いリボン』。受賞の報道から待ち続けること1年あまり。そして、先日、ようやく鑑賞することができた私の個人的な感想は、この映画は今年度最高の映画だったということだ。

唐突に映画は始まる。黒いスクリーンに、白い小さなドイツ語の文字でタイトル、監督、編集、美術などの名前が静かにうかんでは消えていく。そのそっけなさに、小心者の私が久々に恐るべしハネケ監督との再会の心構えの準備をしていると、白黒の映像で美しいドイツの田園風景が広がる。その名画のように完成度の高い構図を開放感で鑑賞する間もなく、馬に乗ってひとりの男がやってきたかと気がつくと、またもや唐突に男はいきなり落馬して草の上に体が投げ出される。私はある程度の予備知識として、医師の落馬事故が物語の発端ということも知っている。しかし、この不親切とも思える映画のあっけないはじまりに、冷徹な作風が特徴のハネケらしさを感じて次の展開に期待しながら心を映像に集中していく。

そして、一般の映画には解答が用意されていて、鑑賞をすることによって完結するのではなく、観終わった後から観客は謎を解きながら考える課題を与えるのもハネケ流で、それゆえに難解と敬遠されがちだったが、今回は、村の小学校から赴任してきた若い教師が老後に過去をふりかえりながら出来事を語るナレーションが流れる手法をとり、第三者の客観的な視点、無力だが素朴で善人な”良心”という視座を設定することでこれまでの作品に比べたらぐっと受容れやすい。年齢とともにこの方もカドがとれたのかと思いきや、いや、むしろこれまで散々嫌われてきたアメリカ人向けに多少”わかりやすく”仕立てたのではないだろうか。冗談はともかく、古典的な作品は気品すら漂っていてひたすら美しい。ハネケ監督は映像をカラーではなくモノトーンにした理由を、美しさと客観性と説明しているが、それだけでなく役者の内面の心理を表す演技に集中できたと思える。実際、出演しているこどもたちも含めて俳優たちの演技には目を見張らせるものがある。半年間という歳月と7000人のこどもたちから選ばれた彼らは、架空の物語に残酷なくらいのリアリティを与えている。(正直、よくこれだけの役者を集めたと驚いた。)

ここから本題に入るが、ハネケらしいと言えば、彼ほど人間の心の闇を情け容赦なく暴き立てる不快な監督はいない。私たちがかろうじて、理性という衣装を着て隠している、海老蔵並みの高慢さや嘘、悪意、偽善、暴力性をひきずりだしてその醜い裸体をさらす、と言ったら人間不信者になるのだろうか。ハネケ作品を観ていると、100%善の人やまたその逆の人もいないように、私たちはかろうじて均衡を保ち、なんとかつつがなく平穏に生きている、もしくは生きていると思い込んでいるということに気がつく。本作も嫌らしくも、村たちの底にある悪が次々とうかびあがり、連鎖反応のように不穏な暗い空気がただよってくる。しかし、これまで個人の人間性の深淵を徹底的に追求してきたのだが、本作では個の集合体としての全体主義にせまることであらたな普遍性をうちだしている。私たちは時代からナチス台頭の萌芽をそこに見ることになるのだが、これは過去の歴史をふりかえる映画ではない。劉暁波氏のノーベル平和賞受賞に対する中国のふるまいを見るにつれ、悪しき全体主義を考えさせられる。また、それは厳格な支配階級と被支配階級の関係が硬直した社会の恐怖にもつながっていく。ここでハネケは、神という偶像の力を借りて人を支配する人間を描くことで神の存在すらも否定している。最後に流れる賛美歌の美しさが胸にせまってきて、やはり恐るべし作家ハネケと感嘆のため息をのみこんだ。

審査委員長が映画『ピアニスト』でカンヌ主演女優賞を受賞したイザベル・ユベールという事情が今度こそパルムドール賞、という下馬評どおりになったが、ハネケの集大成とも言える本作の美しく完璧な映像の前に、そんな揶揄は一掃されたはずだ。審査される監督と審査委員長の親しい事情を受賞の情実に結び付けたいマスコミに「とにかく素晴らしい映画を選んだだけ」とイザベル・ユベールは見事に打ち返し、「映画のテーマとの距離のとり方が完璧。メッセージを送ろうとするのではなく、物事を静かに描写している。」と称賛したそうだが、おっしゃるとおり!

第一次世界大戦直前の1913年、ドイツ北部の小さな村。
大地主である男爵が統治するこの村で、人々はプロテスタントの教義に基づき忠実に静かに平穏に暮らしていたはずだったが、医師の落馬事故をきっかけに次々と奇妙な事件が起こる。疑心暗鬼におびえる村人たちに、やがてもっと大きな悪がやってくるとは知りようがないのだったが。。。

原題:"Das Weiße Band"
監督:ミヒャエル・ハネケ
2009年/ドイツ・オーストリア・フランス・イタリア合作

■アーカイヴ
『隠された記憶』
『カフカの城』
『ピアニスト』
『71フラグメンツ』

さえない中国の茶番劇

2010-12-09 23:01:06 | Nonsense
【北京時事】中国の民主活動家、劉暁波氏に授与されるノーベル平和賞に対抗して、中国の大学教授らが「孔子平和賞」を創設し、北京で9日、第1回受賞者に台湾の元副総統、連戦氏が選ばれたと発表した。
 中台間の平和の懸け橋になったというのが授賞理由だが、台湾メディアによると、連氏は授与の連絡を受けていないとされる。また、トロフィーと賞金10万元(約126万円)は連氏とゆかりのない北京市内の小学生の女児が代理人として受領。ノーベル賞に先んじるため、急ごしらえの授賞式となった。
 同賞選考委員会主席を務める譚長流氏は「平和を愛する人たちが、恒久平和に貢献した人に贈る賞」と意義を説明。主催は民間団体で、政府とは関係ないことを強調した。


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中国語で”茶番劇”のことをなんと言うのだろうか。
今朝の日経新聞で「孔子平和賞」なる創設記事を読んで、失笑してしまった。当該賞は、政府とは関係のない民間団体主催ということだが、それにしてはメディアの数も多いし、10万元もの賞金の出資者もあきらかにされていない。選考委員の大学教授は「10億を超える人口を持つ中国は、世界平和についても語る権利を持っている。ノーベル平和賞の選考にあたっては世界の人々の声を聞くべきだ」として、ノーベル平和賞に劉暁波氏が選ばれたことを批判しているそうだ。
しかし、自由な弁論の機会のないところに、平和があるわけがないと世界の人々は考えるだろう。但し、中国以外の世界の人々とすべきか。

今年の5月のGoogleの中国撤退報道に関するブログを再掲載↓

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2009年12月25日、北京市第一中級人民法院(地裁)は、反体制作家・劉 暁波氏に国家政権転覆扇動罪で懲役11年の判決を言い渡した。
その主な罪状は、08年12月9日にインターネット上に発表された「08憲章」を中心になって起草したことによる。この08憲章とは、共産党の独裁体制を批判して、民主主義への移行、言論の自由や人権擁護などを訴える内容で、知識人や作家、大学教授ら303人が署名して、発表後の4日間で約7000人もの人々が署名していたにも関わらず、その後、あらゆる削除から徹底的に削除された。

08憲章は、本来、世界人権デーの12月10日に発表する予定だったのが、一日繰り上がったのも劉 暁波氏の公安局による身柄逮捕にある。劉氏は発表後に身柄を拘束されるのは覚悟していたそうだが、細心の注意をはらい極秘にすすめていたXデーの前日に連行されたことには、別の衝撃がある。今回署名した多くの人々が利用していたのが、ユーザーの秘密保護で評価の高いGメールだった。Gメールから08憲章計画がもれたという証拠はないが、Gメールを利用する知識人や民主活動家へのハッカー攻撃が頻発していたこと、そして劉 暁波氏への重すぎる判決にGoogleが中国から撤退した理由がありそうだ。

中国政府は、ネットの普及を奨励しながら、監視システムの整備も怠らなかった。”有害情報”を阻止する金盾プロジェクトには、ハード・ソフトの両面からチェックを行い、その運用人数も5~10万人にも及ぶというからそら恐ろしい。その成果は、天安門事件、民主化、人権運動の単語や人名が検閲で網羅され、体制や指導者への批判は禁句。ユーチューブもアクセス不能というありさまだ。その一方で、ネット世論のプロバガンダも推進している。ネット情報員とネット評論員を全国に設置して、党の指導のもと、党の意向をくんだ書き込みをする報酬が、1本あたり5角(7円)。そのおかげで言論の自由を推進していたはずのGoogleが、いつのまにか「米国の価値観の宣伝道具」になってしまった。

ことは、一外国企業の問題なのか、米中のサイバー覇権にまで及ぶのか。中国側はGoogleに中国でやりたいのは、ビジネスか政治かと問いただし、ビジネスだと答えるとそれなら他の外国企業と同じように中国の国内法に従うよう交渉したそうだ。その結果の中国市場からの撤退とあいなった。そこには、「核のない世界をめざす」オバマ政権の中国との協調路線の思惑から米政府のバックボーンがえられないとの観測もある。ネットを制するものは、世界を制するのか。
ただ私は、イーユン・リー著の「さすらう者たち」で娘が処刑される朝、「何かを書いたからって、あの子が死ななきゃならないなんて」と声を押し殺しながら泣く母の心情を思う。