千の天使がバスケットボールする

クラシック音楽、映画、本、たわいないこと、そしてGackt・・・日々感じることの事件?と記録  TB&コメントにも☆

「素顔のカラヤン」眞鍋圭子著

2009-09-29 23:24:49 | Book
もしも本書のタイトルが「カラヤンの素顔」だったら、私は手にとっただろうか。没後20年を過ぎても尚その名前は燦然と輝き、「カラヤン」というブランドだけでも売れるのが、世界で最も有名であり偉大なる指揮者、ヘルベルト・フォン・カラヤン。さまざまな意味と感情をこめられて名前に”帝王”がつくカラヤンは、時にはやはり諸々の感情やおひれがついて”暴君”という冠もつけられたことがある。「素顔のカラヤン」は、1973年に日本人として初めてカラヤンに単独インタビューに成功して以来、すっかり帝王に気に入られて(信頼されて)通訳や秘書役を15年の歳月に渡り勤めるようになり、エリエッテ夫人やふたりの娘とも親交のあった眞鍋圭子さんが語る巨匠の一般にはあまり知られていない素顔である。

巨星のようなカラヤンを書いた本、書かれた小話はとても多い。専門的な音楽家としても著作物も大事だが、本書のようにカラヤンのひととなりを紹介する本も音楽愛好家にとっては嬉しい一冊である。コックピットの中で自家用ジェット機を操縦し、自分の船の舵をきる日焼けしたカラヤン。おしゃれで身だしなみは常に完璧、見映えを意識したアングルでの映像撮影、スピード狂でポルシュを運転し、そばには婚約当時ディオールのミューズとして活躍して世界で最も美しいと言われた美しい夫人がよりそう。そして職業は、ベルリン・フィルを振る指揮者。指揮者として最も華やかな存在だったカラヤン。見方によっては、マスコミの格好の対象の派手な私生活にもみえる。

しかし、ドキュメンタリー映画『カラヤンの美』で撮影されていたザルツブルグ郊外アニーフでの自宅は、庭こそ広いが室内はその華やかな人生と比較して、むしろ簡素でおだやかな静けさに包まれていた。生前のカラヤンは、田舎の静かな暮らしを好んでいたという。そしてふたりの娘たちには、規律正しく贅沢はさせずに質素な生活を教育方針としていた。それこそ、素顔のカラヤンなのだろう。このような本は、一歩間違えれば暴露めいた秘話になってしまったり、世界のスーパースターといかに自分が親しかったのかというさりげないアピールをしつつ、まるで皇室のように非のうちどころのない絶対的存在のように崇め奉るような内容になるおそれもある。しかし、本書はさりげないエピソードを紹介しながら、シャイで口下手なために誤解を招くこともあり、晩年はベルリン・フィルとの厳しい確執もあったが、忍耐強く生真面目に誠実に生涯を”ミューズ”にささげたひとりの努力家のカラヤン像がうかんでくる。
そうだったのかカラヤン、いいヒトだった!!すっかり私も、音楽だけでなくカラヤンその人も好きになってしまったではないか。

本書の成功のポイントは、著者が女性だったことにあると思う。
眞鍋さんの文章は、外国暮らしの長い女性にあるように、日本語がとても丁寧で美しく品がよい。最近の女性作家のエッセイにあるノリがよいが手垢のついた単語が並ぶ文章とは雰囲気がまるで異なる。有能な方らしい機転と率直さや機敏さも想像されるのだが、女性らしいやわらかで純粋な感性と視点があたたかく人々を包み、読んでいるうちに心が洗われていくような気がする。エピローグの89年11月12日のサントリーホールでのカラヤン追悼会の模様では、すっかりこころがうるおってきた。それに、カラヤンの秘書やコーディネイト役をしていたので、ビジネス上の利害関係にはあまりなかったのもよかったのだろう。

そしてその私が最も好きなサントリーホールの設立には、カラヤンの適格なアドヴァイスが生かされている。ご存知のようにサントリーホールはベルリンフィルの拠点と同じ日本で初めてのヴィンヤード型である。当時の日本では、ウィーンの楽友協会のような”シューボックス型”がよいという意見が主流で、日本で初めてでもあり音響的に成功するのが難しいと言われていた。佐治敬三社長に質問にカラヤンはこたえた。
「今の世の中、再生装置がどんどん進歩しているから、よい音楽は家でも聴けます。だからこそ、聴衆がわざわざコンサートホールに足を運んで音楽を聴くのは特別なのです。コンサートでは、一緒にともに音楽をするのであり、それが現代のライブコンサートの意味ではないかと私は思うのです。だから、私はオーケストラを真中において、周囲から聴衆に囲まれて、聴衆と一体となって音楽をしようと思っています。」
私がこのホールを特に気にいっているのは、ヴィンヤード型だからである。また今では常設されているのが珍しくないパイプオルガン設置のアドバイスなど、サントリーホール設立の貢献には、全く感謝である。
「ああー、なるほど。そな、そうしましょ!」
後にカラヤン自身が「音の宝石箱」と名言を残したサントリーホールの形が決定した瞬間だった。83年1月30日のことだったそうだ。

■アーカイブ
『カラヤンの美』
『カラヤン生誕100年 モーツァルトヴァイオリン協奏曲』
「指揮台の神々」

「ドーン」平野啓一郎著

2009-09-27 18:15:40 | Book
米専門委が火星有人探査への推進提言
[ケープカナベラル 9月8日 ロイター] 米航空宇宙局(NASA)による有人宇宙飛行計画の審査を進めてきたホワイトハウスの専門委員会は8日、2020年までに月探査を再開する計画を見直し、火星探査に向けた取り組みを進めるよう提言する報告書をまとめた。NASAが進める月探査計画は、予算総額400億ドル(約3兆7000億円)のうち、既に77億ドルを投じて新型のロケットや乗組員の移動用カプセルの開発を進めている。その一方で、NASAは「ジェネレーション・マーズ」という火星探査構想を策定。今後30年にわたって、火星への有人探査に向けた準備的なミッションを重ねながら、技術開発を進めていく計画という。

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先日観た映画『宇宙へ』は、月をめざした米国NASAのプロジェクトと宇宙飛行士たちのフォロンティア精神のドキュメンタリー映画だった。天文学的と言いたいくらいの巨額なお金と膨大の労力と宇宙飛行士たちの尊い生命をかけて、ケネディ大統領の宣言どおりに米国は1969年に月面に人類を送り込んだのだった。そして40年たった今、世界の関心は火星へと向かっている。

本書の主人公である佐野明日人は、2033年に人類で初めて火星におりたった宇宙飛行士のひとり。およそ2年半の人類史上最も長い旅行をおえて無事帰還した彼を迎えたのは、宇宙飛行士として、また唯一の日本人宇宙飛行士としての世界的英雄に与えられた人々の喝采と賞賛だった。しかし、この世紀の大成功にも関わらずNASAでの帰還後の彼の評価は低かった。実は、宇宙飛行船「DAWN」では、起こしてはならない”ある事件”が発生していて、明日人はその事件に関与した当事者と疑われていたのだった。おりしも米国では大統領選挙をめぐって激しい選挙戦が展開され、火星探索のミッションの是非をめぐる議論も影響を与えていた。そして、その事件の真相とは。。。

『葬送』でショパンを主人公にして緻密で重厚な文章で、文壇の正統派の花道を歩むかにみせて、平野啓一郎さんの書き下ろしの最新作は、なんと近未来に舞台をおいたエンターティメント性を重視したSF小説。その理由を著者は、ネット社会の到来により「文学はある時期から難しいテーマを扱った作品と読者が乖離してしまった。本にあまり興味のない人にも読んでもらうにはどうしたらいいのか。書き方も工夫しないと作品を読まれなくなるなという危機感があった」とインタビューでこたえている。最初は読みながら、どうにも平野さんの小説を読んでいる”つもり”で瀬名秀明さんの小説を読んでいるではないか、という錯覚に何度もおちた。特に、明日人と今日子夫婦の東京大震災で亡くした二歳の愛息”太陽”のDNAを利用して再現した、ARというシステムがつくりあげたバーチャルな”太陽”の存在だ。彼(?)に触れることはできないが、確率の統計をプログラミングされて成長していく太陽をそのまま再現したかのように走り、しゃべり、感情をもち、まるで人口知能を搭載した”映像”で存在するヒューマノイド型のロボットのようだ。しかし、最後にはエンターティメント性を装いつつ、ジャンルにこだわるつもりはないが純文学の筆がさえた才能ある作家の傑作だとおちつく。本書はまぎれもなく、平野啓一郎氏の作品だった。

才能ある作家、そういった若くしてデビューする作家は、これまでも芥川賞受賞騒動の中から生まれてきたが、なぜ、私が平野啓一郎さんの作品に関心をもつのかも本書で解明したような気がする。米国の大統領選挙、アフリカ問題、アウトソーシングされる戦争や紛争、生物兵器、監視社会、格差社会、宇宙開発、ネット社会がもたらす可能性と闇、、、私が関心をもってきた((おそらく多くの方も)社会や政治、未来と現実、個人のアイディンティティなどそれらを見事にほりさげて、発想は豊かにしかも的確に小説にしてきたのが平野啓一郎氏であり、それらが凝縮されたのが「ドーン」だった。監視カメラがとらえる≪散映≫と検索機能、可塑整形、≪ウィキノヴェル≫など、まさに何年、何十年か後には実現していそうで、著者の発想に感心させられる。そして、今度あらたに提示してきたのが「分人主義dividual」である。

分人主義とは、相手や状況によって「異なる自分」になるという概念である。本当の自分に仮面をつけた単なるキャラの使い分けや、多重人格のような病気とも違う。本書からの引用によると

「夕方までの就労時間中は社会の中で機能的に分化し、それ以後は、ネットや友人関係の中で趣味的に分化して、対人関係の多様さの分だけ、人間は自分の中に分人をどんどん増やしていかないと、とても生きていけなくなった」

思わず、うなってしまった。内弁慶という言葉があるように、学校や家庭で人柄が多少違うのはよくある現象。しかし、分人主義は全く違う概念である。昔は、閉鎖的だが家庭の延長のようなコミュニティが存在した。しかし、都市化がすすみ人間関係が希薄になり、その一方でネットを通じて顔のない人間関係がひろがる世の中で、ひとつの個だけで生活するのではなく、場や相手に応じて自己を調整することが求められるようになった。作品の中では、保守的な共和党は否定し、民主党は多様化を肯定するためにも分人主義を認めている。そもそも自分はなぜブログをはじめたのか。開設当時の文章を読むと、確かにカイシャとは違う自分を取り戻す意図があったようだ。カイシャでの自分は仮面をつけた自分でもキャラを使い分けているわけでもなく(そもそもそんなの無理だが)、カイシャにふさわしい多面のうちのひとつの顔、カイシャのために用意したちょっと居心地の悪い”ディヴ”だったのではないだろうか。おっと、私も分人主義を自然とやってきてしまったようだ。平野さん曰く”認めた方が楽になる”そうだから告白。「日蝕」から「ドーン」まで、圧倒的な筆の力で実に多彩な作品を世に送ってきた作家自身の作品も”分人主義”が≪散映≫に残したディヴだろうか。これまでの集大成のような作品を読み逃さず幸運だった。救いのある結末の感想は、結婚してから平野さん、少し変わったかも、になる。現在、読売新聞の夕刊で初の恋愛小説「かたちだけの愛」を連載中。

■アーカイブ
「ウェブ人間論」
「顔のない裸体たち」
「決壊」

辻井さんのチケットがネットオークションに

2009-09-26 11:20:23 | Classic
米国のバン・クライバーン国際ピアノコンクールで優勝した盲目のピアニスト、辻井伸行さんが京都府福知山市で行う公演の指定席チケット約50枚が、高額で大手ネットオークションに出品されていることが25日、福知山市への取材で分かった。
中には正規価格の約13倍の値段が設定されているものもあった。主催した市は「安く地元の人に聴いてもらおうと補助金を出していた。大変残念」としている。市実行委員会事務局によると、確認しただけで今月20日以降に約50枚が出品された。市は補助金90万円を出して指定席を1500円に設定していたが、オークションでは最前列連番の3席が1枚2万円に設定されるなど高値となっていた。
市はことし3月、10月12日の公演を決定。辻井さんが6月に優勝した後は全国から問い合わせが相次いだ。7月7日の発売日には約600枚のチケットを求め前日から列ができたという。
事務局は「警察にも相談したが、取り締まりは難しく残念だ」と話している。


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今朝のスポーツ新聞で読んだこの記事には、残念な気持ちとともに諸々考えさせられてしまう。主催者側の福知山市が辻井さんの公演を企画したのは、最初の3月のリサイタルがすでに終演していることから、米国バン・クライバーン国際ピアノコンクールで優勝するよりももっと前、昨年のことであろう。すでに一部では「全盲のピアニスト」として知名度抜群の辻井さんではあったが、”商売”としての興業主としては結果的に先見の明があったとえる。しかし、ここまでの有名人にならなくとも、私は都から離れたいち地方で、辻井さんのリサイタルを企画したのは意義と価値があると思っている。中村紘子さんが、米国で音楽家としてやっていくにはもはや何らかの”ストーリー”がないと成り立たないということをおっしゃっていた。先週のN響アワーで、フランスを代表する未来の巨匠と期待される22歳の新鋭ピアニスト、ジャン・フレデリック・ヌーブルジェが登場してベートーベンのピアノ協奏曲1番を演奏していたが、その音のクリアさと奥の深さにテレビでの鑑賞とはいえ感嘆した。20代だけでも素晴らしい音楽家が百花繚乱状態なのが、現代の音楽シーンである。その中で光をあびるための米国人好みらしい”ストーリー”があるのが、辻井さんであろう。ピアニスト、音楽家としての評価は、目が見えるか見えないかということとは全く関係ないと私は思っている。しかし、素晴らしい音楽を演奏するピアニストの方が全盲であるという事実は、音楽以上の、音楽とはまた別の感動を聴衆に与えるのもまた事実であろう。その意味で、福知山市の企画は自治体としての役割をよく果たしているスマッシュヒットの好企画である。しかも、90万円もの補助金を出して、気楽に足を運びやすい1500円という映画のチケット並の破格のお値段。自治体だから可能なお値段である。

ところが、6月に米国バン・クライバーン国際ピアノコンクールで優勝するやいなや、福知山市には全国から問い合わせが殺到。発売前日の7月6日には、一般販売数(597枚)を超える人が列を作ったそうだ。そんなプレミアムなチケットを入手した方の中から、今月20日からオークションサイトに出品したチケットは指定席約50枚で、値段は6000~2万円になるという。発売当時、1人2~5枚という制限があったにも関わらず、出品者には大阪の同じ女性の名前が表示されているそうだ。主催関係者の「組織的に入手したが、独自にさばけず、ネットに出したのではないか。」との憶測はあたっているのではないか。ウィーン・フィルのチケットも発売当日にすでに定価よりも高値でオークションサイトに掲載されているからだ。一番この報道に接して残念なのは、「空席になる可能性もある」という主催関係者の心配である。音楽は、瞬間芸術である。その時を共有したい演奏家と聴衆の不在が50席。予定していたコンサートが都合が悪くなり行けなくなりそうという経験は、誰でもあるだろう。映画ほど一般受けするわけでもなく、チケット代もそうそう安くないともなれば、そういった場合、オークションサイトを利用する手段もやむなしと思える時もあるのだが、あきらかに営利目的の転売は禁止されているにも関わらず、このようなケースがクラシック音楽にもひろがり、本当にその音楽を聴きたい人気公演のチケットが逆に入手困難になってきている。先日、私が映画の前売り券をよく購入している某チケットショップではウィーンフィルのチケットが定価プラス送料程度の金額で売りにでていた。価格は売主が設定しているが、オークションではないので金額を吊り上げることはないし、そのチケットを買った場合は、掲示されているチケット代の他に300円の手数料をお店に支払うだけである。このようなシステムが、もっと普及すればよいのに・・・。

ちなみに辻井さんのリサイタルは10月21日紀尾井ホールでも開かれる。大手オークションサイトで検索してみたら、やっぱり指定席、2階B×の○列が 10000円で即決されていた。この出品者は、ウィーン・フィルのチケットも出品していていずれも即決で落札されているし、これまでの(チケットだけでなく)出品実績が1000を超えている。
今日は王子ホールのチケットの発売日、ブログを更新しつつようやく電話がつながりなんとかチケットを予約できてほっと胸をなでおろす。やれやれ。。。

『サボタージュ Sabotage』

2009-09-25 22:12:46 | Movie
水曜日。今からおよそ70年ほど前の戦争の足音が今にも聞こえてきそうなロンドンのことだった。(以下、内容にふれております)
市内は急な停電で暗闇に包まれ、人々は不安と混乱で騒々しい。原因は、発電所を破壊されていたことによるのだが、その破壊工作をした犯人のヴァーロック(オスカー・ホモルカ)が、こっそり経営する映画館に帰宅する様子を、隣の果物店の店員・テッド(ジョン・ローダー)が目撃していた。店員のテッドは、実はロンドン警視庁の刑事スペンサーだった。善良で社会良識のある夫を信頼する若い妻(シルビア・シドニー)と彼女の弟スティービー(デズモンド・テスター)は、ヴァーロックを疑うことも知らない。

木曜日。ヴァーロックは水族館に出向き、待ち合わせをした男から時限爆弾とともに危険の伴うあるミッションを受取ることになった。一方、妻と弟はテッド(スペンサー刑事)に誘われてレストランで食事をする。ヴァーロックを犯人と焦点をしぼり尾行や見張りをするテッドはさりげなく彼女たちから彼の情報をえようとするのだが、夫を犯人とは全く気がつかない妻からは、無邪気に夫に感謝する言葉しか聞き出せなかった。そんな純粋な妻に、いつしかスペンサーはひかれていく感情をもてあますようになったのだが。

金曜日の夜、そして運命の土曜日。

映画の冒頭で、タイトルにある「サボタージュ」を”大衆の不安をかきたてることを目的とした破壊活動、妨害工作を「サボタージュ」という”、といった説明がされる。日本人がよく使う「サボる」意味でのサボタージュではなく、この場合は本来の金銭を目的とした社会の破壊活動に主眼がおかれている。さしずめ、現代だったら思想なきテロになるだろうか。若い妻だけでなく、彼女の生きがいでもある弟の面倒もみる”優しい夫”ヴァーロックの仮面から、冷酷で利己主義的な素顔が徐々に暴かれていく場面、それとは知らずにヴァーロックに頼まれて時限爆弾を抱えた弟スティービーがピカデリー・サーカスまでの道中を時計の針の進行とともに描いていく映像は、ヒッチコックらしいサスペンスの教科書のようなタッチが実にさえている。無邪気なスティービーの少年らしいちょっとした寄り道をした時の行動や、そのために時間までに荷物を届けようと何度も時計を見る仕草、バスの中で同乗した犬をなでる可愛らしい仕草。そういった心がなごむ描写の連続もハラハラドキドキのサスペンス調がさえ、その後の顛末が妻の表情、スペンサー刑事の妻への慕情、ヴァーロックの残酷さに反映して、コンパクトなプロットがよくねられ心理劇としてもまさに教科書のように優れた作品となっている。初期の作品にしてすでに完成品。

勿論、監督がヒッチコックなのだから、「サボタージュ」をテーマーにしても社会性よりもサスペンスタッチのエンターティメント映画になるのだが、せめてもの救いのような都合のよいまとまりの結末が、本作の底にある悲劇性を薄めている。しかし、監督の意図とは別に、私はサボタージュの卑劣さと残忍さを別の意味で感じる強烈な映画となっていた。ともあれ、70年も前の白黒映画でも、鑑賞した最初から最後まで気をゆるめることができなかったのはさすがでござる、ヒッチコック!

監督:アルフレッド・ヒッチコック
1936年英国製作


『バルカン超特急』

「なぜGMは転落したのか」ロジャー・ローウェンスタイン著

2009-09-23 11:51:38 | Book
[8月27日 ロイターより]全米自動車労組(UAW)は27日、トヨタ自動車がカリフォルニア州フレモントにあるゼネラル・モーターズ(GM)[GM.UL]との合弁工場「NUMMI」の閉鎖を決定したことを非難する声明を発表した。
 UAWは声明で、工場閉鎖の決定は「何千人もの従業員に大きな打撃を与える」とし、トヨタは従業員とカリフォルニア州を見捨てたと非難。UAWのゲッテルフィンガー委員長は、米政府の自動車買い替え支援策で多大な利益を得たトヨタが工場閉鎖を決めたのは「不幸なこと」だとしている。UAWは、同工場の運営を継続するためにトヨタ、およびカリフォルニア州当局と協議する意向を持ち続けているとしている。
NUMMIは、トヨタの工場としては唯一UAWにより組織化されている。


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この世界一有名な全米自動車労働組合の委員長、リチャード・ゲッテルフィンガーは、インディアナ州出身のフォードの元シャーシー修理工である。UWAの弁護士であるブルース・ミラーは、1950年代のGM黄金時代の伝説的社長、チャリー・ウィルソンと現代のCEOのスティーヴ・ミラーを法廷で対比させることにした。
「裁判長、1950年代のはじめ、GMの当時のCEOがこう宣言したことはよく知られています。GMにとっていいことは、アメリカにとってもいいことだと。」
しかし、この言葉は実は正確ではない。誤った表現がそのまま流布して人々が信じたのも、それほどGMは米国経済を支えるくらいビックだったからだ。そのGMも転落して、2009年6月1日に連邦倒産法第11章の適用を申請した。

なぜ、GMは転落したのか。
本書は3つの構成になっていて、ビック・スリーの一翼を担うGMとUWAの対立、ニューヨーク州都市交通局(MTA)と全米運輸労組(TWU)との攻防(←公務員という名の「特権階級」)、そして破産寸前のサンディエゴ市。これらの死に至る病の症例の病巣は、「年金」である。米国は、「年金」という時限爆弾を抱えている。

ご存知のように米国では、公的年金も健康保険制度もない。労働者の悠々自適の薔薇色の老後をめぐる年金、保障の獲得合戦に、いかに経営者や自治体は屈っしていったのか。労組も経営者も、要するにツケは後回しにすればよい、ということだった。今そこにある危機ではないし、未来の危機なんか自分にはもう関係ない。役員だってとてつもなく高額な賞与を手にしているだろう。既得権益を拡大することに執心する労組と彼らの一票をえるために安易に飴をお約束する政治家たち。登場人物が日本人にとっては”外国人”のため今ひとつおもしろみに欠けるが、数字を使って説明される本書のそれぞれの転落のストーリーは、サルでもわかる図式である。

勿論、GMの転落には年金問題だけではなく、貿易保護でトヨタなどの日本車を規制した結果の競争力の低下、技術力の後進、市場というパイの拡大が鈍っているにも関わらずそのパイを争う自動車メーカーの増加、単純に新興国の台頭がしてきたからだ、という理由もある。しかし、本書を読む限りは「年金」の重みに潰されたのが一番の原因に考えられる。クリントン大統領時代に、ヒラリー・クリントン氏が国民健康保険制度を支持する案を策定しようとした時、GMは企業の利益を健康保険のコストで食いつぶしていたから強い関心を示していた。商工会議所も賛成していたのに、共和党から強い圧力を受けて、最終的に企業は反対の立場に寝返ったという経緯がある。GMの莫大な富は、年金基金に移動していった。2005年に、GMは退職者とその家族を含めて110万人の治療費を支払い、年間53億ドルにものぼる。そのコストを支える在職中の従業員は、14万人に過ぎない。しかも、高卒で働けば50歳になる前に完全給付金を手にしておさらばというご褒美も待っている。レイオフで一時的に自宅待機をしてもベテランになれば補償があるから安泰、彼らのお金を確保するために新たに従業員を雇用しなければいけない始末。年齢の差別がないのでかなりのお年になっても生涯現役で働く方がいるのも米国だが、日本人のようにあくせく働かずに早期にリタイヤしてのんびりと生活を楽しむ米国人のうらやましいライフ・スタイルの根拠がここにあったのか。

後発隊のグーグルなどが、いっさいの”年金なし”、現金その場限りのクールさも厳しいと感じるが、こんな症例を見せられたらそれも企業の防衛策として仕方なしとも思えてくる。民間企業で年金制度に加入しているのは、わずか18%。この低い加入率も連邦政府の保険機関であるPBGCは、破綻した年金基金に数10億ドル吸い寄せられ赤字は190億ドルという悪循環に陥っている。長年、勤勉に働いてきた退職者の面倒はみる必要がある。年金は退職時の3本の柱に過ぎない。社会保障も整備して、個人でもせっせと老後の備えて貯金をしておけばよい。
ちなみにチャリー・ウィルソンが上院軍事委員会で証言したのは、
「国にとっていいことは、GMにとっていいことだし、逆もまたしかり」だった。

本書を読んでなんて強欲なアメリカ人!とあきれたのだが、年金、ツケ、既得権益・・・こんな単語にざわざわとしてくる。
今の高齢者の方に支払われている年金は、彼らが働いていた時におさめていたお金ではなく、現役世代、つまり我々の給与からまかなわれている。少子高齢化、3人にひとりは非正規雇用社員、年収200万以下の労働者の増加。赤字国債も膨らんでいる。日本の公的年金も国ももはや破綻寸前ではないかっ!


外務省での記者会見「全メディアに開放」 岡田外相

2009-09-22 11:18:00 | Nonsense
岡田外相:外務省での記者会見「全メディアに開放」

岡田克也外相は18日の記者会見で、外務省での記者会見について「原則としてすべてのメディアに開放する」と述べ、記者クラブに所属する報道機関以外にも参加を広げる方針を明らかにした。岡田氏によると、対象となるのは「日本新聞協会」「日本民間放送連盟」「日本雑誌協会」「日本インターネット報道協会」「日本外国特派員協会」の各会員と、「外国記者登録証保持者」。また、これらの媒体に定期的に記事を提供する人に限り、フリーランス記者も認めるとした。ただし記者は事前登録を必要とする。(09年9月18日毎日新聞より)

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鳩山内閣の顔ぶれを見て、これまでの大臣就任式とは違う印象がした。選ばれた大臣の顔にこれまでの誇らしげな表情ではなく、真摯な意気込みを感じられた。確かに国民の我々は、彼らとともに未知の世界に入るのことを選択したのだった。私は格別民主党を推奨してきたことがないが、政権交代をしてから目がさめるようなことがあり、政治をおもしろいと感じている。生まれてからずっとほぼ自民党による一党政権が続き、選挙があってもこの国は変わらないというあきらめから、もっと悪くなるという投げやりな気持ちしかもてなかったのに。今年の3月24日、民主党の(当時)小沢一郎代表の記者会見でひとりのフリージャーナリスト、上杉隆氏が発言した。小沢氏が会見をフリージャーナリストや海外メディアにも開放したことに「敬意を表したい」ということだった。これまで知らなかったのだが、民主党は代表、代表代行、幹事長らの幹部クラスの記者会見をフリーランスや海外メディアにも開放してきた。

・・・えっ!!、全く私は無知だった。世界の常識とは逆に、これまで日本の政治=自民党による記者会見は、国内大手メディアで組織する記者クラブに所属する記者のみが出席して自由にインタビューをできたのが現実だったのだ。私たちが新聞などの報道で耳になじんでいた「政治記者」「番記者」というのは、ある種の特権階級に所属している閉鎖的なクラブの記者だったのだ。ご存知のように、日本の政治は長らく自民党の一党支配が続いていた。その一党にずっとはりつく「自民党の派閥記者」と言ったら”花形記者”と想像がつく。派閥の幹部を朝晩ラグビーの試合のように取り囲み、時には赤坂あたりで飲食をともにして人間関係を築いてモノにしたオン・オフレコの話を記事にして、それを私たちは活字で知らされてきた。彼らはやがて、デスク、政治部長と順調に出世して局長や論説委員長を経て役員になり、社内では「政治部支配」を担い、社外では「マスコミ経世会」なるやからもいて影響力を発揮しているそうだ。こうした図式には問題点がある。

私は読売新聞の論説委員長の橋本五郎氏の人情の機微のある記事が好きだが、時々気になるのが慈愛のある橋本氏の人間性が時に大物政治家への熱い心情へと筆が流れることである。まつりごとも人の営みであれば、それ自体番外編として知ることの価値はある。しかし、人情が記者と長らく一党政権が続く政治家の”癒着”にはならないだろうか、という危惧である。風通しの悪さもないだろうか。有力政治家の「本音」、オフレコばなしを探ることに記者生命をかけているうちに、なんとなく肝心の政治・政策の中身よりも、誰が何を画策したのかという物語的な「政局」の方に主軸がうつってきていたのではないだろうか。それで、本物の政治記者と言えるのか。缶ビールを片手にした森喜朗氏の小泉劇場の役者ぶりを報道したメディアにも罪があるが、その名演に酔った国民に罰がくだされた格差社会と貧困の広がりだったと思う。

さて、今後、世界では当たり前の記者会見が実現したらどのように変わるのか。「政策記者」が不足しているという説もあるが、外交、教育などの専門的知識のある政治部ではなく社会部、経済部、文化部の記者や優秀なフリーランスのジャーナリストが専門知識を使って分析と推敲をした記事を読者に提供してくれるのではと期待できる。政局の修羅場を知り尽くした大物政治記者ほど「人の心の機微」や「政治の非合理性」が身についているが、政策に関しては大学院生にも及ばないことが珍しくないそうだ。ようやくプロフェショナルな時代がやってくる。昨夜の「タケシのtvタックル」で若手の自民党議員がいみじくも「自民党総裁選挙でのテレビでの扱いがとっても減った」と嘆いていたが、政権交代を機にメディアも”チェンジ”することが課題である。

■こんなアーカイブも
世界で最も長い就職試験

『ジェイン・オースティンの読書会』

2009-09-21 09:42:29 | Movie
有閑マダムさまが、「読書感想文など嫌いだった!それが大人になってから、誰に書けとも言われないのに読んだ本の感想をいちいちブログに自主的に書くようになっているのだから、おかしなもの」と告白しておりましたが、思わず笑ってしまったのは、私も実は全く同感!感想文を書くのは大の苦手で嫌いだったが、批評と読書会は別。大学時代に参加した読書会を懐かしく振り返るように手にとったDVDが「ジェイン・オースティンの読書会」。

1775年に生まれたジェイン・オースチンの作品が、米国ではブームのように愛読されているそうだ。日本では江戸時代の「せっしゃでござる」の時代である(ちなみに、百姓一揆が1787年)が、ジェイン・オースチンの作品で書かれている人間模様が現代でも通用する普遍性をもっているのがよくわかるのが、この映画でもある。人の悩みや営みは、豊かになりハイテク化して情報社会になってもそうそう変わらないものらしい。読書会の中心的存在である離婚歴6回のバーナデット、ブリーダーで犬を愛するが独身主義のジョスリン、突然夫から離婚をされるのがシルヴィア、その娘で同性愛者のアレグラ、ハイスクールのフランス語教師のブルーディ、そして唯一の男性会員として参加してきたのがSF小説愛好家のグリッグだった。日本人からすると、超個性的に思えるレアなメンバーがとりあげるのは、代表的な6作「エマ」「マンスフィールド・パーク」「ノーサンガー僧院」「高慢と偏見」「分別と多感」「説得」。

この読書会の会場は、参加者の自宅でワイン片手にゆったりしたソファー。大学の教室を借りてレジメを配り、観念的な感想や意見を述べ合い、会が終わったら居酒屋で酒盛り!という貧しかった我々とは違う。それぞれの暮らしとスタイルが感じられる室内から、やがてジェイン・オースチンの作品に自己の悩みや疑問がうかんでいく。オースティンの作品を読んでいたらもっと楽しめたのにと残念なのだが、真剣に批評する彼女たちの表情と現実は微妙なさじ加減で脚本がよくねられていると思われる。登場人物のそれぞれが、小説を通して成長してそれぞれの”ハッピー”を取り戻していき万事まるくおさまるのは米国らしい仕上がりで、それこそがこの映画の最大のテーマーなのだが、本当のジェイン・オースティンは英国人らしくシニカルな皮肉のスパイスが効いているのがこれまでの私の映画体験(『いつか晴れた日に』『プライドと偏見』『エマ』)の感想である。その女性らしい観察の鋭さは、現代で言えば亡くなられた向田邦子さんに近いのではないだろうか、と勝手に想像している。
映画の中の登場人物たちの人物像と起こる事件?は、今では人種の差はないとは思いながらも、米国らしいあかるさも感じられる。図書館でのディナーやパーティなんぞは、とても素敵。生活の楽しみ方が、欧米人は巧いとつくづく思う。

ジョスリンが人のよいグリッグに「ジョイン・オースティンを少女小説だと思っているのでしょう」と切り返す場面があるのだが、古典としてその作品は評価され、日本でも熱心な研究者がいる。

監督:ロビン・スウィコード
2007年/米国

■アーカイブ
・『プライドと偏見
・『エマ

『白と黒の恋人たち』

2009-09-20 15:32:21 | Movie
冬のパリ。17歳ですでにカメラを回していた若き映画監督のフランソワ(メディ・ベラ・カセム)は、新作映画製作の資金集めに奔走していた。ドラッグ中毒の果てに事故死したトップモデルの恋人キャロルをモデルに、ドラッグの危険性を訴える映画を構想していた。(以下、内容にふれております)
「君の映画は、素材もレシピもそろっているのに料理がないように、常に未完成だ。次回作は是非協力したいから、脚本は読まない」
と、彼の映画に理解を示しながらも婉曲に断る社長から、ようやく10万フランの小切手を受取ったフランソワ。その帰りに女友達と歩いていた女優志望のリュシー(ジュリア・フォール)と出逢った彼は、たちまち彼女に激しく恋をして、新作映画の主人公のマリー=テレーズに起用することになる。このカフェでリュシーを見つめるフランソワの表情は、観客にかなり印象を与える。メディ・ベラ・カセムの顔を正面からアップで数秒間、静止してとっているのが映画の中で唯一だからでもあるのだが、10代で作家デビューしてフランスでは著名と伝えられるメディ・ベラ・カセムの顔立ちが、ぼさぼさの髪の中で美しく整っている美形のためもある。

やがてフランソワは最大のスポンサーとなるシャス(ミッシェル・シュボール)を脚本の力で感動させる。とても感動したよい作品だからと多額の資金を提供するシャスが取引として提案したのが、あるカバンをスイスから運んできて欲しいという要望だった。麻薬の危険性を訴える映画を製作する監督に、その麻薬を金稼ぎのために”運び屋”として危険な仕事を命ずるシャス。映画の中の痛烈な皮肉と矛盾は、監督はスパンサーや資金提供者にとってはどの国ももしかしたら狂言回しのような存在かもしれないという感想を抱かせる。しかし、映画の主題はあまりにも苦いこの現実ではない。皮肉と矛盾は、キャロルを鏡にしたリュシーと彼女が演じるマリー=テレーズ像の矛盾へと発展していく。

映画がはじまり、リュシーはマリー=テレーズ役に没頭する。キャロルをモデルにしたマリー=テレーズの激しさと劇的な人生を演じているうちに、自分の平凡さをコンプレックスに感じはじめ、リュシーは”マリー=テレーズ”の重みにつぶされるようになって混乱していく。そこへ救いの手をのべてきたのがシャスの愛人であり、彼女にすすまれるままにヘロインに手を染め始めるのだったが。。。

後半から、映画の中の映画製作が進行していく。リュシーと架空のマリー=テレーズが交互に登場し、ヒロインが中毒に落ちて地獄に墜落していくさまと、自己をマリー・テレーゼの裏のキャロルに投影させて演じることの苦しみから逃れるためにヘロインに溺れていく哀れなリュシーが交錯していく。監督のフィリップ・ガレルは、寡黙な作家である。冒頭は、30歳に近いと思われる男性が、マッチで火をつけてやかんでお湯をわかす場面からはじまる。彼はフランソワにトランクを広げて「妻は中身を見てから渡すのはルール違反。何も見ないで渡して」と言ったというセリフからはじまる。次のこの男性が赤ん坊にミルクを飲ませているシーンで、ようやくお湯を沸かした理由セリフの意味、彼が亡くなった恋人の弟だということ、トランクの中身は遺品、フランソワが次回作を資金繰りのためになかなか製作できない映画監督だということがわかる。リュシーが映画の中で着た服装は、シンプルなワンピースにカーデガン、そして切りっぱなしのシャツとジーンズだけ。コートを脱いで冬から初夏の到来を感じる。少ない登場人物と抑制のきいた演出は、白黒映画にふさわしいが、もう少し光で季節の移り変わりを演出してもよかったのではないだろうか。

私たちは映画を観ていくうちに、嫌でも正確に結末を予感していく。
「ずっとぼくのそばにいて欲しい。映画でも人生でも」
恋をする男、愛を知った男の願いは、シンプルで純粋である。しかし、その純粋さが互いを見失うこともある危うさ。恋が突然やってくるように、悲劇もまたしかり。秋の夜にふさわしい映画である。

監督・脚本:フィリップ・ガレル
2001年/フランス・オランダ

『ココ・アヴァン・シャネル』

2009-09-19 21:30:03 | Movie
紀尾井ホールでのコンサートの夜、開演前に私の好きなとあるレストランで友人と食事をした時のことだった。席についてオーダーを済ませると、友人がダークグレーのツィードのスーツのジェケットを脱ぐと、なんと裏地がパステルカラーのいくつもの円形が重なる柄のシルクだった。軽い衝撃をかくせない。
「もしかしたら・・・シャネル?」
と、つきあいの長い友人だったので率直にリサーチすると「そうよ、シャネルよ」とゴージャスな微笑みがかえってきた。
雑誌では何度も何度も見たことはあるが特に関心もなかったのだが、マジカで拝見した本物のシャネルは、そのゴージャスな投資にみあいそうな”一生もの”に思えた。これまでは、いかにも名古屋のお嬢様が好みそうな趣味にもみえれば、一歩間違えれば銀座のお水系にころびそうだと感じていたシャネル。しかし、女らしく、そして美しく、友人にとても似合っていた。

1909年にガブリエル・ボヌール・シャネル(Gabrielle Bonheur Chanel )、通称ココ・シャネルがマルゼルブ大通り160番地で、帽子のアトリエを開業してから今年で100年。記念するようにシャネルを主人公にした映画が今年から来年にかけて3本も上映される。本作は、黒い髪と黒い大きな瞳が魅力のオドレイ・トトゥがココ役を演じ、孤児院と修道院で育ち場末のキャバレーの踊り子兼お針子だったココが、裕福な貴族で将校のエティエンヌ・バルザンと知り合い、結婚を考えた唯一の男性との恋愛を経て帽子店を軌道にのせるまでの青春時代を描いたのが本作である。

キャバレーで歌ってる時のココは、単にはっきり自分の意見を言う貧しい女性でしかない。ところが、その酒場で客としてきていた将校のバルザンと出会い、まるで押しかけ”愛人”のように彼の郊外の壮大な屋敷に住むようになるとふたりの男性との出会いを通して少しずつ成長していく。バルザンは、親からの資産で遊び暮らす放蕩な中年男性。彼にとって、ココは気まぐれに関わった次の愛人をつくるまでの歌って踊る女でしかない。彼女は正式なディナーの席に座る女ではなく、どんちゃん騒ぎのパーティの余興で下品な歌を披露する女であればよかった。ココは、繊細な感性をもったプライドの高い女性。バルザンや使用人の自分への扱いに傷つきながらも、少しずつ自分らしさと自分の存在感をだしていく。やがて屋敷にやってくる多くの客の中から出会ったのが、英国の実業家アーサー・“ボーイ”・カペルである。本を読み、男物のパジャマを着て、ドレスではなく少年のような服装で馬に乗って颯爽とポロをするココ。ボーイの知性は、人は良いが俗物のバルザンが見抜けなかったこんなココの才能と女性としての魅力に惹かれていく。この時代に、シンプルさに美しさをみいだし、豊満な女性ではなく少年のようにスリムで個性的な女性を愛するボーイが、映画の中で読んでいた本が「貧困の哲学」だった。さまざまな飾りをつけた白いドレスの女性たちの中で、極上のシルクの黒いドレスのココとタキシード姿のボーイがダンスをする場面は、映画の中でもハイライトである。この映画は恋愛映画としてもよくできている。

また羽飾りのついた帽子をデコレーションケーキと言い、装飾をたっぷりとほどこされた女を強調したドレスを酷評するココのセンスが、当時はとても革新的だったのがよくわかる。自己主張よりも周囲との協調を気にする日本人としては、この時代に華美なドレスが制服のようなパーティに、男性のシャツをリフォームした簡素な服装で出席するココの信念と美意識、勇気に全く敬服するような思いだ。しかし逆に、簡素な美しさを理解できる感性をもっとももっている人種も日本人ではないだろうか。そう言えば、映画の中で友人の女優が着ていた白い襟にノーブルな服装から感じるエロスは、さしずめセーラー服の日本の女子高校生の禁断のエロスに近いものがあるかもしれない。フリル、羽飾り、花々、そんなデコラティブな装飾を支えるドレスには、それはそれで美しいと感じるのだが、なんといっても映画の中ではココの清楚で凛としたシンプルな服装の革新性と美しさがきわだっている。映像は、ココの感性の革新性を鮮明にしかもくどくなく伝えている。シャネル・スーツも、元々男性のスーツのように正式な席で着られるような服というコンセプトで発案されていた。シャネルって、ゴージャスというよりもむしろ洗練されたシックさが売りのハイブランド、そういうブランドだったんだと再考した。
最後に、パリのシャネルで撮影された階段からモデルがこれまでのシャネルの服装を着て降りてくる場面は、その美しさに圧巻である。
ドラマチックに盛り上がる部分を控えめにした本作は、フランスでは大ヒットしたようだが、勝間和代さん的ビジネス成功物語や浪花の商人物語ではなく、『ドライ・クリーニング』のアンヌ・フォネーヌ監督はココの感性を焦点にしているのが、フランス人好みではないだろうか。女性としては、大満足の映画だった。

監督 : アンヌ・フォンテーヌ
2009年フランス製作

「代理出産」生殖ビジネスと命の尊厳 大野和基著

2009-09-15 23:12:02 | Book
最近、シンガポールでオープンした割安の代理出産の斡旋業者「メディアブリッジ社」のサイトでは、「日本人向けにインドでの代理出産プログラムと、韓国での卵子提供での体外受精プログラムを提供」とうたっている。(弊ブログの「代理出産」ビシネスより)代理出産の商業化を合法化したインドでは、国家レベルで代理出産を”成長産業”?ととらえて、生殖ツーリズムを含めて今や年間60億ドルの外貨獲得の重要な産業へと発展している。子宮のレンタル料は、1回につき3000~5000ドル。日本人夫婦からすれば、半期に一度の賞与で行くちょっと贅沢な海外旅行やアクセサリーやブランドものの時計程度の相場は、彼女たちの年収の6~8倍に匹敵するとあって、インドでは代理母候補が殺到しているそうだ。需要と供給がマッチして、しかも不妊に悩む夫婦にとっては「代理出産」とは福音のようなシステムかもしれない。しかし、経産婦だったら想像できるだろうが、代理母の肉体的・精神的な負担はとても大きい。お産というのは、我が身の命(美貌や若さも)をけずるようでけっこう大変なものである。しかも、医療技術が進歩したとはいえ、妊娠中も出産後も母体の命の危険性がつきまとう。そして代理出産で生まれたこどもたちのアイディンティティはどこによるのだろうか。

ニューヨーク州では有償代理出産を赤ちゃん売買に相当するとして禁止、フランス・ドイツでは代理出産そのものを禁止している。国内でも代理出産の法整備を進める動きもあるのだが、「代理出産」そのものを禁止するのか、無償の場合は認めるのか、はたまた有償(報酬あり)でボランティア精神の善意に基づくビジネスとして認めるか、結論を出す前にこの分野の開拓者である米国で長年にわたりリサーチしてきた著者の本書を読もうではないかっ。

米国では当初の卵子の提供も含めた子宮のレンタル制度は、25年前からはじまっていた。万事契約社会の欧米では、「羊水検査で先天性異常や遺伝性異常が見つかった場合の中絶の権利を依頼者が有する」一方で、「中絶に関する決定権を代理母は放棄する」という条文が契約書に含まれたり、妊娠4ヶ月以降の流産では代理母に1000ドル支払うが、それより前の流産では1銭も支払わない、あかちゃんが生まれると同時に養育権を依頼者に渡すことなどがおりこまれている。依頼者にとっては都合がよいが、代理母にとってはまるで金銭の対価とひきかえに産む道具のようなものである。それに、妊婦当人の身体に関わる自己決定権を奪う契約書は、そもそも憲法違反ではないか。実際に、出産後に妊娠中毒症のために瀕死状態になったり、亡くなってしまった代理母もいる。

そんな危険を冒してまで、それほど高額とも思えない報酬とひきかえに代理母になる女性の動機はいかなるものなのか。不妊に悩む姉妹に依頼されてという無償のケースもあるが、概ね不妊に悩む夫婦に「命」を提供するボランティア精神、他人のためにできる素晴らしい行為で代理母のモチベーションは説明される。しかし、純粋に”善意”からなる行為だったら、あらゆる階層の女性から代理母が登場してもよさそうだが、裕福なマダムが利他的な”やさしい”気持ちをもっていたとしても彼女たちのボランティアは主に芸術や文化活動に向けられ、子宮を貸すことはありえない。代理出産をする女性は、みな平均以下の貧しい女性である。数年前に格闘家とタレントの夫婦に依頼されて代理母になった女性の報酬は1万8千ドルに双子だったので2000~3000ドルが上乗せされたのだが、この女性の自動車修理工の夫は約2万ドルの負債を抱えて自己破産していた。妊娠前の三ヶ月間に毎日打ったホルモン注射の副作用の苦しみ、双子であることの不安と負担をのりこえて無事手にした報酬で自宅のローンを返済できたそうだ。依頼した夫婦が体外受精の費用や斡旋業者への手数料などを含めるとおよそ少なくとも1500~1700万円くらいの支払になる。この経済的格差は、裕福な者が貧しい者から子宮を借りること、つまり搾取に他ならないという考え方もできる。子宮を契約で商品化することは奴隷と同じであり、やがて、社会的地位の低いブリーダー・クラス(生殖用の階級)が出現すると警告をならすのがNCAS(代理出産反対連合)である。

そしてたとえ受精卵以前の状態にあっても、商品化して売買する行為は育まれる命そのものを軽視する土壌を作り出すリスクもある。グローバル化がすすんでインド女性のレンタル子宮が繁盛するのも、人が”商品”となって売買される市場が出現したことになるのか。「代理出産」をこどもに恵まれない夫婦の「福音」と認めてよいのか、いずれにせよ日本も法整備の必要がありその前に国民で議論を尽くすべきだろう。「代理出産」はそんなに単純なことではない。

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