千の天使がバスケットボールする

クラシック音楽、映画、本、たわいないこと、そしてGackt・・・日々感じることの事件?と記録  TB&コメントにも☆

「行動経済学」友野典男著

2008-12-30 15:24:11 | Book
【救急外来「軽症者に加算金」拡大、夜間・休日医師の負担軽減】

緊急性がないのに夜間・休日に救急外来を受診する軽症患者から、全額自費の時間外加算金を徴収することを地方厚生局に届け出ている病院が、123施設に上ることが読売新聞の調査で分かった。制度は1992年に始まったが、最近5年間で76施設も増加。このうち最も多かった理由は軽症患者の抑制で、44施設と6割近くに上る。
医師不足などで患者の「たらい回し」が相次いでいるほか、軽症患者が安易に病院に行く「コンビニ受診」が問題になっているが、勤務医の負担を軽減するための“自衛策”が広まりつつある。(08/12/27読売新聞)


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タクシー代わりに気楽に救急車をよぶ族が増えているため、救急車利用料を請求するという現代人のモラルを問う報道があったが、こんどは「コンビニ受診」の自衛策か。10年ほど前の昔、おじいちゃん部長の息子が幼児の娘の発熱で救急車を呼んだところ救命隊員から緊急性がないと諭されたという笑い話しを消防士の従弟にしたことがある。従弟によると発熱で救急車を呼ぶのは構わないが、そのために本当に緊急性のある病人や怪我人が間に合わなくなってしまうのが問題だと指摘していた。
高熱だったら新米パパが気が動転してつい救急車を要請してしまうのもわからなくもないが、これからはペナルティを請求されるかもしれない。けれど、自衛策のつもりのペナルティも、それほど自衛にならないのではないかと疑うのが「行動経済学」の理論である。

「罰することが道徳心を弱らせてしまう。そのわけは、罰することで罪に償いは終わったと思わせるからだ。(中略)そして、罪を取引できる、計算できるものに変えてしまう。」
フランスの詩人、ポール・ヴァレリーの処罰とモラルの関係性を示したこの言葉を実験した行動経済学者たちがいる。
こどもをあずかるディケア・センターでは、約束した時間にこどもを迎えるにくるルールになっているが、しばしば遅刻する者がいる。そのため、遅刻者を減らすために、遅刻時間に応じた少額の罰金を課すことにしたのだが、なんと遅刻者がこれまでの2倍に増えてしまった。この現象は、罰金が無い場合は、親は遅刻に対して罪悪感を感じて、その感情が遅刻を防いできたのだが、罰金制度ができると「時間をお金で買う」取引の一種と考え、やましさがうすれたために遅刻が逆に増えたと分析される。

今年も年末ジャンボの宝籤を買うために行列で待つ善良なる人々を見かけるが、合理的な経済人だったら宝籤は買わない。体の悪い煙草などもってのほか、コンビニで無駄使いもしないし、まだ乗れる車に飽きたからという理由で新車を買ったりなんてもってのほか、ヴィトンのバッグをいくつももたず、ダイエットにもちゃんと成功する。しかし、少年隊の”あの”東山君を超えるこんな人は現実にはいるわけがない。このような認知や判断に対して完全に合理的な意志決定を行い、自分の物理的利益のみ追求して生きるありえない人物像が合理的経済人。これまでの経済学は、この頭脳にコンピューターが仕組まれていて、矛盾なく常に自分の不変的な趣向にかなった最大の効用をもたらす選択をし、人との関わり方も最大限の効用をもたらすことを計算する”ありえない人間”を前提に発展してきた標準経済学である。
ひるがえって、人は不確実性下では合理的な判断をするとは限らないという前提で経済や金融を捉えようとした行動経済学で2002年度ノーベル経済学賞を受賞したのが、ダニエル・カーネマン。春先の暖かく感じる気温18度を秋では涼しく感じるように、人が変化に反応するプロスペクト理論の創始者でもある。心理学に経済学をあわせ技にしたててにわかに脚光を浴びた行動経済学を一般の人にわかりやすく解説したのが本書である。
たとえばゲームの理論で有名な例がある。当日券50ドルのチケットを会場で買おうとしたら50ドル札を失くしたことに気がついたが、あなたは50ドルをだしてチケットを買うか。或いは、前売り券で50ドル出して買ったコンサートのチケットを紛失してしまったが、50ドルを出して当日券を買うかという問題がある。同じ50ドルの価値あるものを失ったにも関わらず、前のケースではチケットを購入して、後のケースではコンサートをあきらめる人が多い。これは、後のケースでは娯楽費という勘定科目に100ドルを計上することから、娯楽費としては高いとあきらめるが、50ドル札の紛失は勘定科目の収支には影響しないからという理由で説明できる。

このように豊富な実験結果やデーターで、読み進むうちにサブタイトルにあるようにいかに我々は感情で動いているか知らされる。また、私たちは日々生活をしながら無意識のうちに無数の選択と意志決定を行いながら、結局はフレーミング効果から逃れられない。そんな人間の営々とした営みこそは、100年に一度の大暴落を支えなければいけない経済活動につながっているのである。従来の標準経済学を否定するものではなく、新しい発想で考える行動経済学は、ノーベル賞を受賞するに価する独創的な経済学である。しかし、独創的ではありながら、いまだに画期的ではないのがこの分野の今後の課題ではなかろうか。多くの事例が、人間心理がいかに経済学に効用を与えているか示唆しながら、それではそれを発展させて人々の幸福につながる経済学にいまだになしえていない。

デパートやスーパーやコンビニにはあらゆる種類の品物が並び、あまりにも豊富なヴァリエーションのもとに様々な製品が開発されて市場をにぎわしている。こんな飽和状態の選択肢が与えられて、人は最適な選択ができるようでいて、実は逆に消費欲望は衰えてしまっている。著者は、「いまの経済学で絶対に出てこないのが”幸せ”という概念。合理性一辺倒の経済学ですっかりその考えはなくなってしまった。」と、蟹工船より寒い現代の職場を憂えている。国際的な調査で、ある所得水準をこえるとお金よりも健康・人間関係・仕事のおもしろさの方が大事になることが判明した。なにを今さら・・・。一定のお金は健康的で文化的な生活を実現するために必要ではあるが、幸福への切符にはなりえない。東証の大納会は、昨年末から6448円22銭(42.12%)下落し、まるで詐欺横領で逮捕された小室哲哉さん並に過去最大の下落率を記録した8859円56銭で取引を終えた。
今年最後のブログは、自分らしい内容で締めくくりたいと思い出したのが、最近読んだ「行動経済学」だった。自然科学が人類の叡智の軌跡である、芸術や文学が人の心を救い、スポーツが健康と感動もたらすなら、社会科学の女王の経済学はなんのためにあるのだろうか。。。

『向かいの窓』

2008-12-27 16:12:14 | Movie
ジョヴァンナ(ジョヴァンナ・メッゾジョルノ)と夫フィリッポ(フィリッポ・ニグロ)は、こどもふたりとローマで暮らす若い夫婦。かっては愛情に満ちていたふたりも、最近は喧嘩ばかり。リストラされて夜勤勤務にかわった夫は、人はよいがジョヴァンナに言わせれば”甲斐性なし”。フィリポの親からの援助してもらったアパートに住みながら、ジョヴァンナはケーキ職人になりたいという夢も忘れがちで、今は食料品工場で経理事務をしている。日々生活におわれ心がかさかさになっている彼女のお楽しみは、夜、家事を終えて煙草を一服しながら向かいの窓に映る若く有能な銀行マンを鑑賞すること。彼は、夫よりも若く精悍な肉体で、、、美しい。
・・・欲求不満な妻のストーカー的な18禁映画を期待?したのだが、このさえないプアーな夫婦の前に登場したのが、記憶喪失になってしまった身なりのよい老人。
老人が発する唯一の単語「シモーネ」を彼の名前として、夫婦は彼をとりあえず自分の家に保護することになったのだが。。。

ちょっと衝撃的な展開で物語が始まるのだが、まず物語そのものよりも、ジョヴァンナ役を演じたジョヴァンナ・メッゾジョルノの美貌に関心がうつる。イタリアの宝石と称えられるモニカ・ベルッチとは全く異なる雰囲気の、さすがイタリアの妻、夫への不満の攻撃はすさまじいが本来は知性的で上品な美しさがある女性だ。彼女の容貌と雰囲気の美しさは、物語の中でも必要だったことが除々にわかってくる。察するに若い時に出会った恋を育てて早婚。しかし、夫になった男は生活力も問題解決能力もなく、こどもとゲームに興じる始末。人はよいが・・・。日本でもよくありがちな設定だが、決定的に違うのはジョヴァンナは美人で賢い。そんな妻の前に現れた独身エリート銀行員ロレンツォ(ラオウル・ボーヴァ)は、品のよい小型ベンツを運転し、しかも優しく情熱的な美男。
生活に疲れた美貌の妻が、よろめきかけるのも無理もないではないか、とついつい観てしまうのだが、これだけだったら作品の価値はないに等しい。

ここで重要な役回りを演じるのが、マッシモ・ジロッティ演じる謎の老人である。ジョヴァンナとロレンツォの不倫の恋を描きながら、老人の戦渦にイタリアも激動の時代だった若かりし頃、彼の「禁断の恋」が少しずつあきらかにされ、禁断の恋と不倫の恋のふたつの恋のゆくえがあわせ鏡のように編まれていく。老人の昔の禁断の恋は、現代の不倫ものを美し描くことがもはや不可能の近いのに比較し、それは禁断だからこそ純粋で悲しいくらいに美しかった。かっての青年の苦渋の選択は、彼の人生に栄誉と尊敬をもたらせたが、個人としての生涯ぬぐえないあまりにもつらく苦い結果と唯一無二の恋の喪失の絶望も描く。

ロレンツォがジョヴァンナに、窓ごしから電話で老人のかっての恋人への手紙を読むくだりは、手紙の文章の素晴らしさとその内容が彼らの気持ちに重なり、巧みな構成が優れた場面なぞ、本当によくできている。いみじくもここでロレンツォが、「童話は人それぞれにある」とジョバンナに言った言葉が、その後のジョバンナの決意を予告する。

さて、ジョヴァンナの下した苦渋の選択は。そして彼女が書く自分の童話は。
最後に人間としても成長して、もっと磨かれて綺麗になったジョヴァンナが、それではあなたの童話は、と問いかけて幕を閉じる。
映画は冒頭に”マッシモ・ジロッティに捧ぐ”とあり、名優は完成後亡くなりこの作品が最後の出演となったことを知った。本作品は2004年イタリア映画祭で上映されたそうだが、G・W中は毎年東京を離れている私としては、DVD化をセツジツに待望している。もっとイタリア映画を上映していただきたいものだ。

原題 : La finestra di fronte
監督 : フェルザン・オズぺテク

■イタリア映画祭に出品された輝ける作品
『ベッピーノの百歩』
『輝ける青春』
『夜よ、こんにちは』
『風の痛み』
『ぼくの瞳の光』

リストラに泣く「第4の男」

2008-12-25 23:26:52 | Nonsense
小林、益川、下村氏に栄誉 ノーベル賞授賞式
【ストックホルム10日共同】2008年のノーベル賞授賞式が10日午後(日本時間11日未明)、ストックホルムのコンサートホールで開かれた。物理学賞の小林誠・高エネルギー加速器研究機構名誉教授(64)、益川敏英・京都大名誉教授(68)、化学賞の下村脩・米ボストン大名誉教授(80)にそれぞれ、カール16世グスタフ国王がメダルと賞状を授与。物理学賞の南部陽一郎・米シカゴ大名誉教授(87)は授賞式欠席のため、同日、シカゴ大でスウェーデン大使から授与。

物理学賞は南部さん、小林さん、益川さんと日本人が独占。南部さんは物質が質量を持つメカニズムを提唱し、現在の素粒子理論の基盤をつくったと評価された。小林さん、益川さんは、物質の基本粒子「クォーク」が従来考えられていたより多い6種類あるという説を唱え、その後の実験で確認されたことが授賞理由となった。
化学賞は、下村さんとマーティン・チャルフィー米コロンビア大教授(61)、ロジャー・チェン米カリフォルニア大サンディエゴ校教授(56)が共同受賞。下村さんは、オワンクラゲから緑色蛍光タンパク質(GFP)を発見し、発光の仕組みの解明にも大きく貢献した。(08/12/11 共同通信)

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日本人のノーベル賞受賞の朗報のかげで泣いた不運な男がいた。その人の名前は、ダグラス・プラッシャーさん。
新聞のノーベル賞受賞式の大きなニュースの片隅に掲載されていた不運な男の記事は、友人ともちょっとした話題になった。というのは、友人は現在米国住まいだから。

今年、化学部門で下村脩氏とともにマーティン・チャルフィー氏とロジャー・チェン氏は、「緑色蛍光タンパク質(GFP;Green Fluorescent Protein)の発見と開発」で名誉あるノーベル賞を受賞したが、その緑色蛍光たんぱく質GFPの遺伝子をつきとめた生化学者がプラッシャーさんである。この遺伝子を彼からもらって実験した3人は受賞したが、プラッシャーさんは選考からもれてしまった。今や生命科学分野で欠かせないたんぱく質の動きを見えるようにした道具を開発した功績は大きいが、そもそもGFPの遺伝子の発見がなかったらありえなかった。ノーベル賞の受賞者は3名まで、という枠内からこぼれ落ちてしまった研究者は珍しくないのだが、この「第4の男」に取材が殺到しているのは、なんと彼が2年前に研究職を失って、日系自動車販売店で顧客の送迎をする運転手になっていたからだ。
時給は10ドル!

失業する前の彼は、NASAの契約企業で先端プロジェクトに関わっていた。ところが、2003年のスペースシャトル・コロンビアの事故後、飛行回数の大幅削減を考えていたが、国際宇宙ステーションに実験棟を付設したい日本と欧米の反対にあい、シャトルの安全対策や後継機の開発に巨費をつぎ込んだために、科学プロジェクトをきった。プラッシャーさんたちだけでなく、生命科学系の研究者も大量解雇された。日本では派遣社員切りが話題になっているが、NASAのような外部への委託が多い米国の公的研究機関は、研究計画を時代や要請にあわせてよく言えば柔軟に対応するが、ある意味優秀な頭脳も冷酷に犠牲にする。これぞ、米国流究極のリストラ。

そんな彼に「腹がたつだろう」とは、記者のいじわるな誘導だが、彼はうらやむ気持ちもなく「食うのに困っている時、考えることは職を得ることだけ」と家族を思いやる。時給10ドルではワーキングプワー。米国ではノーベル賞候補に名前があがり優れた業績をあげても、リストラされたら単純作業の生活苦。あまりにも不遇ではないか。プラッシャーさんは現在57歳だが、米国では雇用に年齢差別がなかったはず。
せめてものなぐさめは、ふたりの受賞者が彼もストックホルムの受賞式に招待し、8日のチェン氏の記念講演後に紹介されたプラッシャーさんは会場から万雷の拍手を浴びたと言う。

『英国王 給仕人に乾杯!』

2008-12-24 22:01:50 | Movie
よく作家は処女作に還るというが、28歳の長編処女作『厳重に監視された列車』と同じ原作者ボフミール・フラバル による小説を映画化した70歳のイジー・メンツェルの最新作。『厳重に監視された列車』の見習鉄道員、ミロシュがまだ幼い顔立ちで小柄だったように、『英国王 給仕人に乾杯!』の主人公ヤンも小さな国の童顔の小さな男。給仕人として働く彼、ヤン・ジーチェはビールを片手につぶやく。
「私の幸運は、いつも不運とドンデン返しだった」

1963年、チェコスロヴァキアのプラハ。
初老の男が、監獄から出所する。彼の名は、ヤン・ジーチェ(オルドジフ・カイゼル)。15年前、給仕人としてプラハ最高の「ホテル・パリ」の主任給仕まで勤め、高級ホテルのオーナーにまでなった彼が、何故、監獄へ。物語は、現代(1963年のチェコ)のヤンが、過去(1930年)への回想禄と同時進行していく。
「何も見るな、何も聞くな、そしてすべてを見ろ、すべてを聞け」
これは田舎町のホテル「黄金のプラハ」のパブで見習い給仕人をスタートしたヤン(イヴァン・バルネフ)に与えた、給仕長の教訓。給仕人ヤンは、その小さな体を存在しないかのようにふるまいながら、ラッキーとアンラッキーの表裏一体を体現しながら、同じく背の低いユダヤ人の成功した行商人ヴァルデン氏のひきたてで活躍の場を昇格させていく。そしてヤンは、その後富豪たちの別荘「チホタ荘」を経て「ホテル・パリ」にたどり着く。ここで出会った「私は英国王の給仕もした」スクシーヴァネク給仕長は、初めてヤンが本気で尊敬できる人物だったのだが。。。

回想の中のヤンの行動には、軽妙で諧謔に満ちた笑いが寓話のように散りばめられている。大国と戦局に翻弄されるチェコの歴史の間の中で、この小さな男だけが自分を中心にくるくると回っている。祖国がどのような運命をたどろうと、「カネがあれば世界は自分のもの」。ホテル王をめざして、自分より小さなドイツ人の妻を娶り、ドイツに占領された「ホテル・パリ」に不遜な客としてやってくる。そんな軽佻浮薄なヤンを苦々しく見つめるスクシーヴァネク給仕長は、誇り高く断固としてナチスを拒否して秘密警察に連行されてしまう尊敬すべき男。映画では、抵抗運動を続ける青年や少年たちの処刑を想像させられる場面がさらりと出てくるだけだが、おそらく給仕長も連行された後、処刑されたのであろう。
ここで思い出すのが、タイトルの『英国王 給仕人に乾杯!』(I Served the King of England)である。この風変わりな題名の原作は、本国では出版禁止本とになったため地下出版でひそかに読み継がれ、およそ執筆から20年の歳月がたったビロード革命後の1989年にようやく日の目を見た小説である。
ナチス、旧ソ連に翻弄されつづけたチェコの民族のプライドが、給仕長の姿に重なる。まさに滑稽さの中に悲劇をさらりと浮き上がらせるイジー・メンツェルらしい真骨頂であるが、ヤンの喜劇を通して、実は一番描きたかったのは”悲劇を生きた本物の知性をもった給仕長”にあるのではないだろうか。スクシーヴァネク給仕長を演じたマルチン・フバの名前が、主演ではないのにタイトル・ロールにもなっている。

ところで、蓮實センセイだったら、処女作『厳重に監視された列車』と本作品に繰り返しに意味を見出すだろう。『厳重に監視された列車』では、列車が駅を通り過ぎる場面や、駅の承認印を書類と女性のある部分に押すエロい場面、ミロシェが恋人のおじの家の建てつけの悪いドアを何度も閉め直す場面などで、同じシチュエーションの繰り返しで笑いと情緒を表現したように、『英国王 給仕人に乾杯!』でも様々な動きが繰り返される。こんな手法が監督お得意芸のようだ。また、『厳重に監視された列車』では、エロスだけでなく兎やガチョウを食料用に始末する場面などの「死」(タナトス)を観客に印象づけさせ、ラストの場面につなげるという芸当もあったが、この映画では戦時下とあってエロスも強烈だが、死も日常と隣り合わせ。エロスとタナトスの背理一体の描き方も濃厚で、その分、監督も老成して円熟したのか。
一方で、前作がシリアスなリアルさの中にもリリシズムがあったが、晩年の本作は一部CGも使い、詩情といよりも御伽噺めいたファンタジーの要素が強まった。それも亡命せずにチェコに留まったからこそ描けるファンタジーである。

最後に今のヤンが、たった一人で何枚もの鏡に向かって自己の過去を向き合う場面は、美しくも悲しい。その鏡に映るかってのヤンは、大国に翻弄されつづけた小さな国、チェコのあり方ではないだろうか。

監督:イジー・メンツェル
原作:ボフミル・フラバル
撮影:ヤロミール・ショフル

■才能溢れる28歳の時の映画
『厳重に監視された列車』
さて、プラハを訪問した時に呑んだ黒ビールは、わが生涯の中でも最も美味しいビールだった。ヤンと英国王給仕人に乾杯!

『厳重に監視された列車』

2008-12-22 23:20:11 | Movie
とんでもない映画を観てしまった。『つぐない』ももろ私好みだったがチェコのイジー・メンツェル監督の『厳重に監視された列車』は、今年度鑑賞した中で最高の映画!、というよりも間違いなく生涯のベスト10に入る映画である。

第二次世界大戦下のナチス・ドイツに占領されたチェコの田舎町。(以下、一部内容にふれております。)
まだあどけない顔立ちのミロシュ(ヴァーツラフ・ネツカーシュ)は、年金の支給がはじまると早々に楽隠居した父と同じ鉄道員になった。のどかな田舎の駅で、鳩を飼うのが趣味でまぬけなメタボ腹の駅長と一日中女のことばかり考えている後頭部の薄くなりかけた女たらしのエロい先輩の元で、せっせと鉄道員の見習いをはじめる。小さな国のチェコは、あいかわらず大国に翻弄されているが、目下ミロシェの頭を翻弄している重要事項は、恋人の車掌のマーシャの存在だった。先輩にベッドの彼女の感想を聞かれたりとからかわれるのだが、内気なミロシェは、実はまだ・・・チェリー・ボーイ。
しかし、彼だって大人の世界には興味しんしん。

「女は自然が生んだ最高の宝石だ」

駅の用務をこなす爺さんだって、そう言っているではないか。
そんなミロシェにねがってもない初体験のチャンスがやってきた。マーシャから、彼女の叔父さんの家にふたりでお泊りするという甘い甘いお誘い。これにノラナイテはない。ところが、素敵なお誘いと彼女にのったはいいが、彼は経験不足ゆえに思うように”コト”は運ばなかった。(涙、もしくは爆笑)
なんとミロシュは最初の失敗で、自分は一生女を抱けないカラダと思いつめてしまうのだったが。。。

友人との待ち合わせ時間までのほんの軽い時間つぶしぐらいの感覚で観た映画。「ぴあ」で見つけた小さな作品紹介で、チェコ、モノクロ映像、暗そう、マニアックっぽい、「童貞」の2文字(←やっぱりそれか)で気に入りそう値踏みして鑑賞したのだが、本編がはじまる前の同じ監督の『英国王、給仕人に乾杯!』の予告編ですでにイジー・メンツェルの世界に私はすっかり魅せられてしまったのだ。つぎはぎだらけの予告編にも関わらず、この監督が個性的で独創的な世界を築いていること、そして笑いの質が芸術的であり、尚チェコ出身というお国柄だろうか、どうやら政治的であることも感じた。

そして観た本作品。冒頭のひなびた田舎の駅の佇まいだけでも笑える。駅舎から鳩がいっせいに飛ぶのを観ても笑い、タイトルをバックにエルガーの「威風堂々」が流れては笑い、ママが可愛い息子ミロシェの初出勤の着替えをさせながら帽子をかぶせる優雅な場面で笑い、3分に1回は笑い、そのたびに映画つくりのセンスのよさ、完成度の高さ、要するに監督の才能に感嘆させられた、というよりもミロシュを励ます青年医師役でもほれてしまった。この映画を製作した時、彼はまだなんと28歳。セリフは最小限に抑え、脚本、キャスティングも優れていて、構図は完璧。主人公の童貞喪失と成長や、女たらしの先輩のエロい遊戯やマーシャのセクハラ大好き叔父さんといったシモネタ話しを中心に次々と笑いの中に物語は展開していくのだが、市井の人々の牧歌的な暮らしと戦争下における不条理、支配者とレジスタンスといったシリアスさの社会性もさりげなく漂わせている。緊張感が高まるうちに最後はどうオチをつけるのかと思っていたら、想像もしなかった衝撃的な結末。誰も予測できないラスト。
93分映画の90分間、何度も笑った私の笑いはいったいなんだったのか。あのすべての笑いは、ラストの3分でそっくり意味をもって重く返すためだったのか。さすがに、チェコ人だ。日常におけるエロスとは、生命の輝きだったのだ。そして、そしてなんと尊い命の儚いことだろうか。

「コミカルな要素があるほど悲劇も際立つ」
今回の来日時のインタビューで応えている彼のベクトルは、最初の長編映画でもわかる。アカデミー賞外国語映画賞を受賞して世界にその名を知らしめたイジー・メンツェルも、今ではすっかりお爺さんになっている。

監督: イジー・メンツェル
原作 :ボフミール・フラバル
脚本 :ボフミール・フラバル/イジー・メンツェル
1966年チェコ製作


『4ヶ月、3週と2日』

2008-12-21 15:04:40 | Movie
ヴェネチア国際映画祭で金獅子賞を受賞したマイク・リー監督の『ヴェラ・ドレイク』は、50年前の時代事情。同じように望まぬ妊娠をしてしまった1987年の女性の一日を描いて、2007年カンヌ国際映画祭でパルムドール賞をルーマニアとして初めて受賞したのが『4ヶ月、3週と2日』である。

1987年、チャウシェスク大統領による独裁政権の末期、望まない妊娠をしてしまった大学の寮のルームメイト・ガビツァの非合法な中絶の手助けするために奔走する、女子大生オティリア(アナマリア・マリンカ)の緊迫感に満ちた一日を描いている。
『ヴェラ・ドレイク』が同じように非合法な中絶を扱いながら中絶の是非を論じるわけではなく「家族」をテーマーとしたように、本作品のテーマーも中絶の是非や女性の友情ではなく、独裁政権下における「自由」にある。胎児の”4ヶ月、3週と2日”の重さに、妊娠した友人と対照的なタイプのオティリアの”1日”の奔走ぶりを、ドキュメンタリー風に描いた作風は、まさにヨーロッパ人好み。受賞と称賛に値する映画だった。

当時のルーマニアでは、労働力の確保から4人まで出産しないと避妊も中絶も禁止されていた。こどもを何人望むのか、避妊するかしないかは個人の選択にゆだねられるべきなのに、この国ではそれも政府が決めること。映画は、鉄のカーテンの向こうだった当時のルーマニアの様子を次々とリアルに描いていく。中絶をするホテルの予約係りの不手際やフロントマンたちの怠惰で下品な視線。受付でICカードの提示を求められ、厳重な監視体制が窺がわれる。しかもそれなりのホテルにも関わらず、廊下の電灯はところどころ切れているところがあり、全体が薄暗く寒々しい。闇中絶をする”ベベ”の運転する車も含めて、走っている車も少なく、かなり老朽化している廃車寸前の車ばかりである。死んだように停滞して活気のない田舎町。こどもをたくさん産んでも育てられる経済力がなく、こどもたちが路上に捨てられていったという話しもリアルにせまってくる経済状態だ。

こんな状況でも工学部の学生のオティリアは、ひともうらやむエリート候補生。認知症になりかけている老母を叱る中年の独身男性”ベベ”にとっては、いずれ貧困から脱出できるパスポートをもっている若い女性に見える。彼が要求した非情な”こと”は、そんな彼女へのやっかみからくる復讐のようにも私には思えるのだが。またオティリアもそこまで友人のためにする必要があるのか。緊迫感のある描写が、彼女たちが後戻りできない危険な状況にいることを、更にその弱みにつけこむベベの絶望と政権がうんだ悪も描いている。ここで「自由」を観客に投げかけるのであれば、ベベを絶対悪の存在にしたり、オティリアを友情溢れるしっかり者の女性として描いてはいけないのだ。
そしてオティリアの恋人が登場することで、男性側の本音を語らせている。母親の誕生日にオティリアも招待して、贈物用の花を指定してこだわる恋人。大学教授という知的な家族に囲まれて育った彼は、一見賢く育ちもよく優しいのだが自己中心的な幼い青年に過ぎないこともわかる。ガビツァの不運は、自分にも充分起こりうるオティリアのいらだちにまるで気がついていない。彼にとっては、母親の誕生日にふさわしい花を恋人が贈ることの方が大事なのである。

輝くトロフィーを手にしたクリスティアン・ムンジウ監督は、39歳。彼らと同じ大学生として青春を過ごしたのだろうか。遠い日本に住む者には、今でははるか遠くに感じ関心も薄いチャウシェスク大統領の独裁政権も、”そういう時代だった”ことを過去形だけで語るには、あまりにも苦いものがあるのではないだろうか。違法中絶を施すベベとの交渉、堕胎された胎児の始末と衝撃的な映像が続くが、監督が最も伝えたかったのは、最後の緊張から解き放たれて食事するガビツァを前に、空腹にも関わらず何も食べることができないオティリアの表情に表れている。疲れきったオティリアの視線が、人間としての自由を我々に問う。

監督:クリスティアン・ムンジウ
2007年ルーマニア製作

■かよわき者、汝の名は女なり?
『山の音』
『ヴェラ・ドレイク』
『4ヶ月、3週と2日』

『ヴェラ・ドレイク』

2008-12-20 18:10:15 | Movie
映画『山の音』を撮った成瀬巳喜雄監督は、黒澤明が男性としたら女性を撮るのがうまい監督だそうだ。原作の川端康成の作品では、義父の尾形信吾の心境が中心となっていた記憶があるが、映画では嫁の菊子、妻、長女、愛人たちやその友人の表情や立ち居振舞いが鮮やかだった。なかでも、原節子演じる菊子と女性関係にだらしない夫の愛人の絹子(角梨枝子 )のふたりの対照的な雰囲気は、女性としてはかなり気になる。妻と愛人は、同じ時期に懐妊した。こうした状況における世間の慣習とは異なり、ふたりはそれぞれの反乱を密かに決意して実行する。中産階級の妻は、こどもさえいれば夫婦はどうにかなると安易に考える姑の考えを受け入れられず、また夫の不誠実な関係を是正しないままこどもを産むことを自分にとって潔しとせず中絶をする。一方、愛人の絹子は、戦争未亡人となり生活のためにダンスホールで女給をする身分。しかし、堕胎をすすめる信吾を前に、戦死した夫との間にこどもができなかったこともあり、せっかく授かった命を運命と受け入れ、ひとりでおなかのこどもを出産して育てる決意を宣言する。

信吾の視点が映画ではポイントだから、どうしても菊子よりになるのだが、私はむしろ愛人の絹子の存在が印象に残る。スーツを着た絹子が恋人の父を拒絶するためにあえて斜めの位置に座るのだが、背筋をのばしてまっすぐに信吾にむかって不倫の子をひとりで産む決意を語る場面は、瞳がきらきらと輝き凛とした雰囲気が実に清々しい。およそ半世紀も前の日本の妻と愛人の対照的な存在が、妊娠という人生の”事件”に立ち向かう時、しかしふたりは自らの意志でそれぞれの”選択”をした。ここであえて”選択”という言葉を使用したのだが、昔も今も妊娠は女性にとっては生死の伴う大きな出来事だが、法律や宗教によって選択ができない時代と国がある。

ヴェラ・ドレイクも菊子や絹子と同じ時代、1950年代に生きる女性。
ヴェラ・ドレイク(イメルダ・スタウントン)は、ロンドンの労働者階級が住むアパートで弟が経営する自動車修理工場に勤務する夫スタン、工場で働く地味な娘と昼間は紳士服店に勤務しながら夜学に通い、週末はダンスホールで青春を謳歌する息子と暮らす平凡な主婦。そう、一見地味で平凡なのだが、ヴェラは少し違う。体の不自由な隣人や母を訪ね、裕福な家庭の家政婦として通いで働く彼女は毎日を懸命に丁寧に慈しむように生き、夫の言うとおりその笑顔はダイヤモンドのように輝いている。
しかし貧しくも小さな部屋で家庭の団欒を大事にしてるヴェラには、家族にも内緒にしていた秘密があった。当時の英国では、妊娠出産が母体の命に危険をもたらすと医師が判断した場合のみ中絶は合法とされていた。そして手術費は大変高額だった。それでは、予期せぬ妊娠をしてしまったら。どうしても産めない状況だったとしたら。
そんな事態に遭遇してしまった”困っている娘さんたちを助けるために”彼女は自分の行為が犯罪であることを知りながら、非合法に堕胎を施していくのだったが。。。

マイク・リー監督はごく普通の家庭の大切さを諭すように映画の中で丹念にヴェラの日常生活を、家族を追っていく。ヴェラの家族の本当に小さな居間と食事をするテーブル。それにひきかえ家政婦として働く家庭には、まぶしいばかりの豪華なシャンデリアに大理石の広い床。洗練されたマントルピースの金の装飾を膝まづいて懸命に磨くヴェラ。それにひきかえ義弟の妻は、女優のように着飾り、広い家、車と裕福な家庭にこだわりをみせてヴェラを嫌っている。家事をせっせとこなすヴェラの手と後姿は生活感がにじみでている。さりげない日常の繰り返しと娘と青年の婚約という家族の慶事を通して、平凡な家庭と人生の大切さがせつせつと観る者にせまってくる。ヴェラ役を演じたイメルダ・スタウントンは英国では有名な舞台女優だそうだが、とても演技しているとは思えない存在そのものがリアルな描写にまず驚嘆させられる。実年齢よりも老けて見える顔の皺、年寄りくさくいかにも貧しげな所作。こんな演技を見せ付けられると、女優にとって顔立ちの美しさはただのパーツの表層にしか過ぎないようにみえてくる。そして、裕福な家庭の嘘っぽさと冷たさに比較してヴェラが夫ともに築いた家庭の暖かさはやがて妻の逮捕劇によって一瞬のうちに崩れつつも、家族が深い絆を取り戻して寄り添いながら再生していく。

本作品テーマーは、ヴェラの生き方とすべてを受け入れ赦し、深い愛情の絆に結ばれた家族の素晴らしさとなるだろう。が、女性として少し違う視点で考えることも多い映画だった。
ヴェラの堕胎の方法は、いたって原始的だが危険性が伴う。無知がうんだ妊娠、不倫の果ての中絶、貧困のための中絶とさまざま少女から女たちまで、それぞれの事情で中絶せざるをえない。彼女たちを笑顔で励ましながら、淡々と無報酬で業務をこなすヴェラの無謀さと無知と無教養を私には受け入れがたい。この点で、彼女を自己中心的と嫌悪する義弟の悪妻の感情もわからなくもない。ヴェラは善意100%のひとである。その善意が、次々と小さな尊い命を始末していたことを知った息子の非難に、むしろ私も同調する。不安で一杯の女性たちに根拠のない「大丈夫」という声を帰り際にかけるヴェラの”優しさ”には違和感や怒りすら感じる。ところが刑務所で同じ罪で収監されていた囚人たちとの会話で、ヴェラは初犯だが、彼女たちは再犯であることが知らされる。彼女たちには、罪を償う気持ちよりもいかに安全に堕胎させるかの方が関心が強い。何度も犯す罪。その罪には、息子の非難以前に、何よりも妊娠したが事情によって出産できない少女、女性たちの必死さがすがりつくようにはりついていたのである。男性主導の生活で、自分の体も男性たちがつくった法律に拘束され、すべての罪と責任が女性たちにおわされていた時代と社会。

すべてが露見したクリスマスの夜、ヴェラが用意したチョコレートを回す場面がある。
あからさまに拒否する義弟の妻、やはり受け取らない息子。最後に娘の婚約者はチョコレートの箱をしみじみと眺める。空襲で母を亡くし、天涯孤独だった彼はヴェラの誘いでドレイク家を訪問し、娘と愛情を静かに育み婚約した。そんな彼はつぶやく。
「人生で最高のクリスマスをありがとう」

今年はクリスマスケーキの売れ行きは、昨年の50%増だそうだ。不景気で外食よりも家庭でクリスマスを過ごす人が多いそうだが、恋人同志だったら兎も角、クリスマスの日こそは家族団欒が一番。そんなことを思い出させてくれる映画だった。

監督:マイク・リー
2004年英・仏・ニュージーランド製作

■女性は必見だと思うこんな映画
『山の音』から『4ヶ月、3週と2日』

「エネルギー」黒木亮著

2008-12-19 23:37:50 | Book
黒木亮氏の小説「巨大投資銀行」が、海外でもなかなか好評な売れ行きだという。理由は、サブプライムローン問題を考えるに格好なテキストだそうだ。
経済小説は何よりも鮮度が大事だと思っていたのだが、黒木亮さんの著書は経済活動の生きた実態を書き記した教科書のようであり、その充実度は文句なく最高峰だろう。最近の著書「エネルギー」も昨年の原油価格の異常な高騰ぶりから、一転OPECが過去最大の減産調整をしたのにも関わらず、NY原油は続落している。いみじくも1年前のブログで石油専門家の常識として1バレル40ドル以下が本来の正しい価格との情報どおりとなったわけである。
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「NY原油:5営業日続落、一時35.98ドル」


【ワシントン】18日のニューヨーク・マーカンタイル取引所の原油先物相場は、世界的な景気の悪化でエネルギー需要が減退するとの観測が強まり5営業日続落。指標である米国産標準油種(WTI)の1月渡しは一時、前日終値比4.08ドル安の1バレル=35.98ドルまで下落し、04年6月以来、約4年半ぶりの安値をつけた。7月につけた最高値(147.27ドル)からの下落幅は75%超に達し、原油価格はわずか5カ月で4分の1となった。終値は同3.84ドル安の36.22ドルだった。

 石油輸出国機構(OPEC)が日量220万バレルと過去最大の減産を決めたが、世界同時不況の懸念で自動車業界や運輸業界が苦境に直面する中、エネルギー需要の先行きに対する弱気見通しが市場を覆い、減産効果はほとんど見られなかった。
(08/12/19毎日新聞)

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思い起こせば昨年の暮れ以来、納得のいかない原油価格の高騰で庶民の生活は苦しくなり、イカつり漁船は出漁しても赤字になるため休業、トラック業界もガソリン価格値上げに泣いていた。その度に、日本人は翻弄される。

本書の登場人物は主に5人。主人公の金沢明彦は商社の燃料本部の社員。実家は北海道網走市で漁業を営み、オイルショックによる燃料価格高騰で漁師達が悩んでいる姿を見てエネルギー・ビジネスに強い商社に就職した。その一方、長崎の傾いた船会社の息子、エネルギー・デリバティブの専門家の秋月修二は先物市場でボラティリティを利用して大もうけをして高額な報酬を得ている。そして、越前の豪雪地帯で父親が営んでいた小さな染色工場がオイルショックで倒産した経験をもつ通産省の官僚の十文字一は、貧困と東京大学文学部出身のハンディをバネに権力の世界でのしあがっていこうとする。そんな彼らを中心に、脇を固める中堅商社のベテラン商社マン亀岡や熱心なNGO活動で油田開発を阻止しようと運動する金沢の妹。

1998年、ベイルートからヨルダン。そしてイラクに向かう長い石油街道を走る商社の男達。物語は、さらにシンガポール、中国、ロシア、東京と舞台をうつしながら、いかにエネルギーを国に安定的に供給し確保するために奔走する商社マン政治家、石油価格の変動をビジネスチャンスに利用して成功する者や破綻する者とおよそ10年の歳月を通して、今ではレトロな銅相場で巨額の損失を発生させた住友商事銅取引巨額損失事件やニック・リーソンによる名門の「ベアリングズ銀行破綻事件」、9.11テロ、新潟大地震など時の趨勢を盛り込みながら淡々とビジネスは進行していく。経済小説の宿命として、深い人物描写や繊細な表現は期待してはいけない。点と線がからみあいながら、”エネルギー問題”を考えさせてくれる作品である。

金沢が愛読している本が、マサチューセッツのケンブリッジ・エネルギー研究所に勤務するダニエル・ヤーギンが7年の歳月をかけて書きピューリッツアー賞を受賞した「石油の世紀」である。本のカバーにはヒトラーだけでなく真珠湾を攻撃した山本五十六提督の写真も掲載されている。

「石油の一滴は血の一滴」

第一次世界大戦のさなか、フランス大統領クレマンソーが米国に石油の緊急支援を求めた時の言葉である。昭和16年7月、米国が対日石油の全面禁輸に踏み切ると全石油消費量の8割を米国に頼っていた日本にとって、石油確保は死活問題となった。当時、日本では石炭が主要なエネルギー源だったが、軍事用と船舶輸送用として利用していた石油を失うことは、軍艦や戦車、戦闘機が機能しないただの鉄の塊になることを意味した。

現代でも石油を欠かすことはできない。夜になれば電気をつけ、車の運転をして、快適な生活をする現代人にとってエネルギー確保は重要な課題である。資源のない日本人にとっては、それを認識するだけでも本書は価値がある。そして、それゆえの環境汚染を見過ごすこともできないのだが、進化した文明に慣れてしまえばもはや後戻りはできない。

■そういえばこんなアーカイブ
「巨大投資銀行」黒木亮著
家計震える師走入り
中国流ODAのゆくえ
アフリカを巧みに繰る非鉄メジャー「アングロ・アメリカン」
アウトソーシング事業部戦争チーム

読売日本交響楽団第477回定期演奏会

2008-12-15 23:03:21 | Classic
いいフランス男ふたりよりも目立つ広上さんって・・・。
しかし本日の呼びモノは、フランスからやってきたゲスト・アーティストのおふたりのルノー・カプソン(ヴァイオリン)とゴーティエ・カプソン(チェロ)兄弟。
元々は王子ホール主催ピアニストの児玉桃さんとのトリオのチケットが即日完売になってしまっため、涙をのんでセカンドの読響との共演である。兄弟の人気とその実力の評判にも関わらず意外にも8割程度の客席の入りで、満席には及ばす。そうか、巷では「第九」まっさかりの季節。こういう一見地味目のプログラムの定演は客足をとられて掘り出しものかもしれない。

兄弟の奏でるブラームスの二重協奏曲は、アイス・ダンスかフィギュアのペア部門のまさに金メダルに価する名演技の匹敵するかのように、美しい旋律が優雅に弧を描きながら息もぴったりである。それぞれが独立した音を奏でながら、ある時はヴァイオリンとチェロの音が完全に溶け合う。かと言って彼らの音には、計算されたともすれば冷たい端正さもなければ、余分な力やためらい、気負いもなく、ごく自然にあるがままによりそうようにすべてが用意された音づくりである。呼吸するかのようなブラームスとは一転、アンコールの「パッサカリア」では自由奔放に難しいパッセージも軽やかに歌い、彼らの若さがホールに響くような印象だった。兄は32歳、弟の方は1981年生まれ。ルノー・カプソンは「2000年の新しい才能」と称賛されているそうだが、そこにはなんら音楽への苦悩はない。そして弟のチェロは、兄とは別な個性と持ち味で演奏を楽しんでいる。似ているようで見た目異なる雰囲気の兄弟だが、楽器が性格を決定していくのか、長子と末っ子の家族構成が性格に影響していくのか、なかなか興味深いのだが、お互いの感性を磨きあえる幸福な兄弟である。

後半は、シェーンベルク編曲によるブラームスのピアノ四重奏曲第一番の管弦楽版である。初演から70年もたって、何故シェーンベルクがこの編曲を思い立ったかというと、第一に彼自身がこの作品が好きだから、第二にこの作品が滅多に演奏されないから、最後にこの作品がいつもひどく演奏されるからという理由だそうだ。指揮者の広上さんは、この曲を細やかに丁寧に、でもいつもながらの渾身のタクトである。最近は、全身でフルというよりも近影の”ノーマル”に見えてしまうお顔のように音楽の造形も円熟しつつあるのかなと思うのだが、彼ももう50代である。

アークヒルズ周辺は、クリスマスのイルミネーションで今年も静かに輝いている。忘年会シーズンの喧騒のさなか、こんな音楽会の夜はイルミネーションに劣らず輝く時間でもある。

-----------08年12月15日 サントリーホール ------------------------

指揮 広上淳一
出演 ルノー・カプソン(Vn)、ゴーティエ・カプソン(Vc)

ブラームス :ヴァイオリンとチェロのための二重協奏曲 イ短調 op.102
ブラームス(シェーンベルク編曲) :ピアノ四重奏曲第1番 ト短調 op.25(管弦楽版)

■アンコール
ヘンデル(ハルボルセン編曲):パッサカリア





『山の音』

2008-12-13 20:40:15 | Movie
先日読んだ「映画論講義」で、蓮實重彦氏が俳優の上原謙の演技を大変ほめていたのが、川端康成の小説を成瀬巳喜男が監督した「山の音」である。学生時代読んだ「山の音」は、私にとっても川端の才能に畏怖に近い感銘を受けた特別な作品だった。果たして、映画ではどのように感じるのであろうか。

主人公の尾形信吾は山村聡。その妻が保子(長岡輝子)と息子の修一が上原謙。そして遊び人の修一の嫁・菊子は、原節子。
今で言えば、最高のキャスティングではないだろうか。いびきをかいて寝る老妻にうんざりしながら、夜遅くまで読書する信吾の知性は、新婚早々の夫の浮気に誇りと家族を思いやる気持ちから気が付かないふりをするけなげな菊子の感性に呼応しながら、このふたりだけが修一の姉も含めて、ひとつの家族の中でお互いに唯一わかりあえる同類であり、また逆に妻がしきる家庭の中では異端であることが映画からさりげなくにじみでている。出戻ってきた娘の財布をのぞく妻を厳しく叱咤する夫と、鎌倉の自然に親しむ繊細な感性の菊子は、舅と嫁という世間的な関係から、やがてお互いを理解していく人間としての親密な関係にすすんでいく。しかし、それは容認できない関係にすすむ危険性もはらんでいた。老いを意識した信吾が、若い嫁に義父以上の感情のゆらぎを覚えるエロティシズムは、川端世界の悲しみにもにた比類のない美しさのひとつであるが、山村聡と原節子は「品格」という今の日本人が失った端正さで好演している。何よりも驚いたのが、信吾が友人に頼まれた購入した慈童のお面の容貌が、原節子によく似ているところだ。もしかしたら彼女に似せてお面を作ったのかもしれないが、笑っているようで泣いているようなお面は、映画の中で見せる彼女の笑顔である。

永遠の処女と神聖化されてしまった原節子を女優としてみても、田中絹代に比較して演技が巧いとは到底思えないのだが、そのぎこちない自然でない演出的な演技が、映画の中では傷ついた心をおさえ、無理して笑顔を”つくりながら”家事にいそしむ家庭の中での演技にうまくはまっている。そして妻の夭逝した美しい姉を今でも思っている信吾は、菊子を思うばかりに彼女を自由にしてやろうと決断する。

ところで、蓮實センセイがほめていた浮気を繰り返すだらしない修一役の上原謙の名演技ぶりであるが、その日本人離れの整った顔立ちが軽薄で酷薄な性格を映し出している。歩き方、背広の着方が、父とは全く違うのである。妻との夜の生活にもの足りなさを感じて、彼女をこどもっぽいとばかにして浮気を繰り返すこの男は、実は愛人たちに平気で暴力をふるう面もある。顔立ちは父譲りの整い方なのに、息子には逆に品格に欠けた暗い内面をただよわせている。あまりにも整った容貌は、恋愛の二枚目役よりもむしろ犯罪に手を染めたり、軽く女をふみにじれるヒール役の方がふさわしい。もっとも蓮實センセイによれば、成瀬作品では、男は女を映すための鏡像に過ぎないのだが。

季節が初夏からはじまり冬で終わる映画は、最後のふたりの新宿御苑での別れの場面で、人生の老いのわびしさとともに静かに幕を閉じる。義父によりそう嫁のようなピアノの調べが、抒情に満ちて冬の静かな風のように通り過ぎて行く。

成瀬監督の映画は原作の雰囲気を忠実に映画化されているが、やはり伝えきれないのは、川端作品の名文の味わいである。だからこそ、どんなに映画を観ても読書も必要だと考える由縁である。川端康成の文章は、こんなにも素晴らしいのである。
「八月の十日前だが、虫が鳴いている。木の葉から木の葉へ夜露の落ちるらしい音も聞こえる。そうして、ふと信吾に山の音が聞こえた。鎌倉のいわゆる谷の奥で、波が聞こえる夜もあるから、信吾は海の音かと疑ったが、やはり山の音だった。」

監督:成瀬三喜男
1952年製作