千の天使がバスケットボールする

クラシック音楽、映画、本、たわいないこと、そしてGackt・・・日々感じることの事件?と記録  TB&コメントにも☆

「日本の原爆」保阪正康著

2012-07-21 19:51:08 | Book
1955年、反核運動をはじめた原子物理学者たちによる、彼らの”良心”ともいうべき「ラッセル=アインシュタイン宣言」が発表された。
日本の湯川秀樹も署名しているこの宣言では、核兵器が世界の人類を抹殺するかもしれないと訴えている。宣言のおよそ20年前にさかのぼること、1938年、ドイツの科学者オットー・ハーン、フリッツ・ストラスマンは、中性子をウラン235の原子核に当てると原子核が分裂して巨大なエネルギーを生むことを発見した。この科学的発見は、科学者の手から離れ、戦争という有事に軍事に利用され、原子爆弾という大量殺戮兵器となり、アメリカは巨額の経費と人員を投入した成果を、ヒロシマ、そして更にプラトニウム型原子爆弾をナガサキに投下することで確認した。

日本は世界唯一の被爆国だ。この原爆投下という人類史の汚点においては、日本は被害者である。しかし、原爆製造を試みたのは、アメリカだけではなかった。日本でも理化学研究所の仁科芳雄研究室では、2000万円以上(現在に換算すると300億円)の研究費を支給されて製造を軍や政府から要請されていたのだった。

「マッチ箱ひと箱の大きさで大都市が吹き飛ぶ」

当時の日本には、こんな噂がささやかれていたそうだ。戦局が厳しくなり、疲弊しきった日本人には、この噂、つまり大量殺戮兵器がひそやかに期待されつつあり、一方、陸軍将校達はこの噂を本物にすべく、研究室を訪問しては仁科博士を矢のように督促をしていた。戦争という状況下においては、加害者、被害者ともに兵器が勝敗とは別に、人々にどのような結果をもたらすかの人間性の視点はなかったといえよう。不思議なことに、日本で可能な爆弾が、アメリカで先に製造されて吹き飛ぶのが東京になる、という考えは生まれていなかった。

しかし、肝心のウラン鉱石が入手できないことや、設備面など、仁科博士は当初より完成は無理だと予想していた。著者によると、逆に成功しなかったことで、日本の科学者たちは20世紀の原子物理学者としての良心を守ることが出来たということになる。それでは、何故、仁科博士があえて原爆製造の「ニ号研究」に若い研究者をつかせていたのだろうか。まず、何よりも、貴重な人材を、兵士として戦場に送り、戦死させたくなかったからとみるべきだろう。そして、戦時研究という名のもとに多くの予算がつき研究活動が行えたことや、戦争が終わった後に、海外の学者たちから遅れていないように科学者としてのプライドもあった。そして、ひそやかに平和目的には、大きなエネルギーを貯えることができて月への旅行が夢ではなくなると考えていた。軍部との交渉は、自分ひとりが矢面に立ち、若い研究者をまきこむことはいっさいなかったという。親方と慕われた仁科博士の門下生から巣立った湯川秀樹、朝永振一郎氏はノーベル賞を受賞して華やかな表舞台にはばたいていった。

本書は、保坂氏が昭和50年代に日本の原爆製造に関心をもって関わった軍人、科学者、技術将校のインタビューをまとめた「あの戦争から何を学ぶのか」という著書の一部をほりおこしてあらたに執筆された経緯をもつ。その動機は、昨年の3月11日の震災による。著者は「ヒロシマ、ナガサキ、フクシマ」と並列で語られることにおおいなる疑問をもち、本質的に歴史的な意味合いが違うことを理解するために、この本を世におくったそうだ。日本は、20世紀前半に原子爆弾の製造に挑み、後半は平和利用として原子力発電にとりくんできた。本来は人類の叡智である科学も、政治や軍事に翻弄され、これ以上にない悪夢にもなりうることを充分に知っている。いつでも、科学的発見の果実の使い分けを司るのは、国家なのだろうか。インタビューを受けた殆どの方たちが、すでに物故者となっていることを考えると全体的に読みどころがいくつもあり、それ故に焦点が拡散している感もあるが、今のこの時に、本書を刊行した意義はある。

冒頭の「ラッセル=アインシュタイン宣言」の2年後の科学会議に出席した朝永振一郎は、どういう使い方をすれば悪になるか、また善用がどれだけ好ましいものであり、悪用がどれだけ破壊的なものであるかの正しい評価は科学者が行いえるものであり、科学者の任務は法則の発見に終わるのではなく、善悪の影響の評価、結論を人々に発信し、正しい判断までみとどけなければいけないと呼びかけている。ポツダム会談の時、日本にはもう戦う力がないことは、チャーチルもトルーマン、スターリンも充分にお互いに認識していた。それにも関わらず、原爆がヒロシマに投下された。日本の息の根をとめるというよりも、戦後社会の枠組みを作るため、戦勝国として優位にたつためのショーの舞台がヒロシマになった。そして、続いてナガサキへも。

8月7日の夜、調査団の一員として広島に向かう前日、仁科博士は門弟に手紙を書いて送っている。そこに書かれている「米英の研究者は日本の研究者、即ち理研の49号館の研究者に対して大勝利を得たのである。これは、結局に於いて、米英の研究者の人格が49号館の研究者の人格を凌駕してゐるといふことに尽きる」という言葉から科学者のどのような煩悶を受けとめるか、それは日本の未来を占うと私は考える。

渡辺玲子 無伴奏ヴァイオリン・リサイタル

2012-07-19 22:02:23 | Classic
昔のコンサートや演奏者の音楽批評を読んでいると、よく”バリバリ演奏する”という表現に出会う。
比較的、女性のヴァイオリニストに使われている感もするが、中でも、30歳で飛行機事故によりストラディバリウスを抱きながら亡くなったジネット・ヌヴーがこの言い回しの代表格であろうか。

さて、渡辺玲子さんの無伴奏のみを集めたヴァイオリン・リサイタル。会場は、サントリーホールのブルーローズ。久々に小ホールのこの部屋に入ると、隅々まで並べられたその椅子の数に思わず目が点になった。これまでブルーローズで聴いてきたコンサートでの席数よりも、2倍か3倍くらいもありそうだ。こんなにたくさんの椅子がご出勤することは、この部屋でもそうそうないだろう。”旬”という時期は過ぎたかもしれないが、渡辺さんがまさに油ののったヴァイオリニストとして人気の高さがうかがえる。そして、人気だけでなく、実力の高さも音楽ファンの間では定着しているという評価のあらわれだろう。

バッハのパルティータ第1番。ソ、レ、シ、ソの4つの音の重音ではじまるこの曲を聴きながら、あっ、”バリバリ演奏する”というのは、こういう演奏なのかと、瞬時に胸におちた。たっぷりとした豊穣な音の男前の演奏なのである。使用楽器は1736年製グァルネリ・デル・ジェス「ムンツ」とプロフィールには掲載されていて、やはりグァルネリかとため息をしながら、なんとなく新作ヴァイオリンのような気もしていたのは、それだけ、音に若い衆のような勢いがあったからだ。湿度が高いせいか、第1楽章では音程がなかなかさだまらないようで、少々ドキドキしてしまった。

続いて3番は、軽やかで優雅なバッハではなく、深遠で重く、いかにもバロック時代の雰囲気が伝わってくる。渡辺玲子さんの真骨頂であろう。
後半のヒンデミットは、「SOLO 渡辺玲子」のCDのタイトルにふさわしく、超絶技巧のこの曲を知的にアプローチしていく。音楽高校を中退して、単身で渡米、ジュリアード音楽院に全額奨学生として留学した群れることのない渡辺さんらしい選曲だと思う。
愛らしくて私の大好きな曲「夏の名残りのバラ」も、美しく可憐なバラな花束ではなく、渡辺さんの演奏にかかると堂々とした大輪の1本の真紅の薔薇になる。

時間の関係でCDを買えなかったのが、心残りだ。ついでながら、渡辺さんはスタイリッシュな方で自分に似合う服装と髪型をよくご存知で、ステージ衣装も7月らしい青みがかったグリーンで、小柄な体によく映えていた。

------------------------ 7月19日 サントリーホール ブルーローズ -------------------------

バッハ 無伴奏ヴァイオリンパルティータ第1番 ロ短調 BWV1002
バッハ 無伴奏ヴァイオリンパルティータ第3番 ホ長調 BWV1006
ヒンデミット 無伴奏ヴァイオリンソナタ Op.31-1
エルンスト 多声的練習曲 第6番 「夏の名残りのバラ」
エルンスト シューベルトの「魔王」による大奇想曲 Op.26

■アンコール
バッハ 無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第2番より「サラバンド」

渡辺玲子(Vn)

『アメイジング スパイダーマン』

2012-07-16 17:53:54 | Movie
全世界で25億ドルを超える大ヒットとなった『スパイダーマン』から5年たち、新たな視点で描かれた『アメイジング スパイダーマン』が6月30日から世界に先駆けて公開されている。今年は、1962年にマーベル社から原作のコミックが登場して50年となる記念の年にあたる。7月3日封切りの全米だけですでに3500万ドル(約27億9000万円)の興行収入を、たたきだしていて、本年度の大ヒットを予感させてくれる。

しかも、初の3D映画。
しかも、監督は、意外にも低予算でほろ苦い青春映画『(500)日のサマー』を撮ったマーク・ウェブ監督が2作目で制作費2億ドルの大作に挑戦。
しかも、スパイダーマンになる主人公ピーター・パーカーには『わたしを離さないで』で繊細な演技をしたアンドリュー・ガーフィールド。・・・えっ、本当か?

『わたしを離さないで』は、役柄上かもしれないが、弱っちくて、やせっぽちで、ナイーヴで内向的な青年役がはまっていたアンドリューだった。この映画での彼の演技は、ふたりの魅力的な女子をひきつけるレベルにはなかなかいけてた。しかし、巷では、美青年とかイケ面俳優でとおっているらしいが、あんななよっとした長ネギ男が大作の「スパイダーマン」の主役をはれるほどのいい男かっ?

そんな私的には食欲をそそられないアンドリューだったが、映画で高校生活がはじまると、彼をキャスティングした意図がたちまちに了解した。監督自身もスパイダーマンの大ファンで、それ以上にピーター・パーカーのファンと公言している。「彼は、スパイダーマンとして激しい闘いを繰り広げる一方で、普通の男の子として家の用事をしなくちゃならなかったりする。最も身近に感じるヒーロー」。ピーターは、科学オタクだが、女の子には全くもてないさえない高校生。いじめられている同級生を助けることもできずに、逆に馬鹿にされ、殴られる始末。前作のトビー・マグワイアのように、マッチョなハンサム男よりも、見るからに喧嘩が弱そうで頼りない男子が、”スパイダー・センス”を身につけて悪者を退治するから観客はわくわくするのだった。おまけに、どう考えても彼には高嶺の花としか思えない弁論部に所属する美人で才媛のグウェン(エマ・ストーン)といい雰囲気になったりもする。ヒロインは、前作よりもずっと魅力的で共感できる。しかも、アンドリュー・ガーフィールドはかなりの演技力がある。実年齢は28歳だそうだが、彼の若々しい演技力には、ついついひきこまれていき、ピーターがこれまで以上に魅力的な人物となってくる。スパイダーマンを演じる役者に、”演技力”を期待していなかった私の認識を一変させてくれるではないか。

ウィリアムズバーグ橋にぶらさがり、危機一髪でこどもを救出するスパイダーマン。摩天楼のニューヨークを爽快にかけまわり、ローワー・マンハッタンではゴジラのような怪物”リザード”と果敢に対決する。初鑑賞の3D映画も、まさにスパイダーマンにふさわしく、ピーターの視点からの映像が臨場感たっぷりで、自分自身が物語りに入り込んだようなおもしろさがある。又、映像も美しい。近頃、私は白黒の旧作映画を観ることが多い。色彩もなく、音楽もぼやけていていても、映画の力には関係がない。しかし、このようなスピード感を楽しむ娯楽映画では、一度3D映画を観てしまうと、映画館で2D映画にはもはや戻れなくなる。それを考えると、すべての映画とは言えないが、これからは3D映画の体感型映画の時代だ。

さて、続編は2014年5月2日(現地時間)より全米公開予定とのこと。サム・ライミ監督の前作シリーズも完成度が高かったから、本作を制作するにあたり、プレッシャーも相当あっただろうが、新シリーズにはそれらをこえる魅力がある。ソニーは、2012年3月期の連結決算で過去最悪となる4566億円の最終赤字に陥ったが、本作の大ヒットを期待したいものだ。

「優雅な生活が最高の復讐である 加藤和彦・安井かずみ最期の日々」

2012-07-15 11:49:08 | Nonsense
「私の城下町」「危険なふたり」「危ない土曜日」 など数多くの歌謡曲を 作詞した安井かずみさんは、1977年に8歳年下のミュージシャン・加藤和彦さんと結婚した。38歳の妻がガンでなくなる55歳のその日まで17年間続いたふたりの優雅でスタイリッシュな結婚生活は、伝説の物語を残した。

妻が肺がんを発病し、余命1ヶ月と告知された夫は、誰にも病名を告げずにすべてを引き受けて、延命することよりも「優雅な生活が最高の復讐である」というスペインの諺を希望する妻を献身的に支え愛した。番組は、彼女の残された日記をもとに最後の日々を追った舞台劇のようなドラマである。

お洒落で美しかった安井かずみさん(ZUZU)を麻生祐未さんが演じ、長身の優しげな面立ちの加藤和彦さん(トノバン)は袴田吉彦さんが演じている。ひとつの空間に、自宅、病室、「キャンティ」(夫妻が通ったレストラン)、旅行先のホテルの室内、ハワイ、といった小さな舞台がセッティングされていて、ドラマというよりも室内劇のような雰囲気で、間に生前夫妻と親しかった友人のインタビューが入る形式になっている。

偶然観た番組だったのだが、観はじめたらどんどんひきこまれてとうとう深夜の最後までテレビのスイッチをきることができなかった。
病室にいる安井さんは、これからの闘病生活をクイーンエリザベス号に乗船して出発する優雅な旅にたとえた。荒波にもまれても、やがて船は港に着き、病は治っていると。パーサーは、夫。しかし、最後の港が死であることは夫だけが知っていたのだが、妻もいつしか気づいていく。

凝った手法の舞台劇と脚本は、生活感を排除したスタイリッシュな生活を最後まで貫いたふたりを非現実感をともなって美しくもうきあがらせていく。なんといっても、全く知らなかったが安井かずみさんというキャラクターとライフスタイルが印象に残る。いつか、加藤さんが丼ものは食べないとテレビで発言していたのを聞いたことがある。なんと、優雅で上品な暮らしをされているのだろうと感嘆し、丼ものが好きな私はちょっと憧れていた。しかし、そんな暮らしは安井さん流だったことがこの番組でわかった。ふたりは、結婚を機に、それまでの友人と距離をおいて離れていったという。コシノ・ジュンコさんは、結婚して安井さんのファッションがありえないコンサバになったことから、離れていくのも当然と感じたようだ。

思うに、ふたりは夫婦になりながら、究極の親友になったわけだから、相手がいれば24時間ふたりだけの濃密な時間があればそれですべて満足できたのだろう。もともと安井さんは恋多き女性だったそうだ。恋人ができると生き生きし、恋を失うと精神も不安定になりがちだったところ、加藤さんという理想的な夫をえることでやすらかで幸福な日々を送ることができた。

友人の松山猛さん(この方もとてもお洒落!)によると、加藤さんが結婚してゴルフやテニスをはじめたので驚いたそうだが、彼は敬愛する女性にあわせて自分やスタイルを変えられる人とのこと。ブリティッシュ・スタイルを好む安井さんは、家でもスーツにネクタイの夫を期待し、8時には仕事を終了して美しく整えられた自宅で、ふたりで料理をして、美味しいワインをかたむける優雅なくらし。毎日、毎日、上質な料理、上質な衣装、上質な、贅沢な暮らし。

結婚してからの友人だった大宅映子さんの自宅を加藤さんが訪問した時、絶対に安井さんが作らなかった味噌汁やなすの煮物を出した時に、京都出身の加藤さんがほっとするなと言っていたというエピソードが披露されていたが、すべてを妻の趣味にあわせるには、夫もそれなりの努力をしたのだろう。そんな夫の愛情にこたえるかのように、加藤さんの誕生日のプレゼントは、薔薇の花束にひそませた新車ポルシェの鍵だった。

葬儀で残された夫は、淋しいけれど悲しくはないと語った。当時の主治医は、多くの夫婦をみてきたが、彼らのような夫婦はいなかったと証言している。一瞬も惜しみなく、妻のために生きてきた加藤さんにとって、愛妻の死は悲しみを超越するくらいの愛情に満ちた日々だったのだろう。そこには、もっとこうすればよかったという後悔がはいる余地などないくらいに。

安井かずみさんが最後に遺した言葉は「金色のダンスシューズが散らばって、私は人形のよう」。
湿度の高い猛暑にうんざりしてだらけている私には、最後の瞬間まで優雅さを失わなかった彼女の存在に考えさせられる。どんな本を読み、どんな音楽を聴き、どんな映画を選ぶか、というほどにどのような暮らしをしたいのかを、自分はそれほど大切にしてこなかったのではないだろうか。

なぜメルケルは「転向」したのか 熊谷徹著

2012-07-12 21:54:12 | Book
2011年3月に発生した福島第一原子力発電所の事故は、遠く離れたドイツの原子力の歴史に終止符をうった。福島からはるか遠く、1万キロメートルの離れたドイツのエネルギー政策は大転換をしたのだった。ドイツ連邦議会は、2011年6月30日に原子力法の改正案を可決し、22年12月31日までに原子力発電所を完全に廃止することを決定した。ドイツのアンゲラ・メルケル首相はこれまで保守政党CDUの方針にそって原発推進派だったのに、事故からわずか3ヶ月目のこの”転向”に世界は驚いた。政治的な嗅覚に鋭く、変わり身の早さに定評がある首相にしても、この素早い寝返りには私にとっても印象に残るできごとだった。著者によると、メルケル首相はこの時の連邦議会で、政治家としても物理学者としても敗北を認める演説を行っているそうだ。

なぜメルケルは「転向」したのか?

まさに私のような日本のいち国民としての素朴な疑問に、ミュンヘン在住20年をこえるジャーナリストの熊谷徹氏が応えたのが本書である。
メルケル首相は旧東ドイツの牧師の家庭に誕生し、カール・マルクス大学で理論物理学を学び、東ドイツ・科学アカデミーの理化学中央研究所で科学者として働きはじめる。(メルケルという姓は、当時の最初の夫の名字)やがて、メルケルは東西統一後の最初の選挙で当選して連邦議会議員となった。以後は、CDU(キリスト教民主同盟)の党首、ヘルムート・コール首相に抜擢され、コールのお嬢さんと揶揄されることもあったが、CDUの不正献金事件が発生すると恩師のコールを公開書簡で批判するという”鉄の女”ぶりを示し、地味な科学者からドイツ初の女性首相にのぼりつめたのは周知のとおり。彼女の恩師をきったリスク管理の鋭さは、今度は原発を停止させるという政策の大転換をもたらした。といっても、メルケルの独断で先行したのではなく、むしろ83%の議員が反原発を支持したことからも、サブタイトルのドイツ原子力40年戦争の真実からみるドイツという国や国民性が、原発停止を選択したのだった。

そもそも40年戦争とあるように、ドイツにおいては原発をめぐる反対運動の歴史は長く、又、途中で地球温暖化現象への関心から下火となった時期もあるが根強く、運動自体が全国展開をしているという土壌ができている。地方分権制度をいかして、実際に、原発建設を中止さえた実績もある。その背景には、ドイツ人は環境への意識が高いというとおしゃれにきこえるが、かってナチスによる欧州征服や第三帝国への野望に国民が一丸となったように、直情径行型で猪突猛進する国民性が環境保護への執念に変貌している節もある。福島の原発事故発生当時のこの国での報道のあり方は、むしろもう少し冷静になったらいかがでしょうか、といいたくなるくらいだ。

又、欧米社会がドイツ人を理解するキー・ワードGerman Angst (ドイツ人の不安)は、不況や大量失業の社会的不安からヒトラーを生んだという過去の歴史からも説明される。そんなドイツ人の不安を解消するかのような彼らの徹底したリスク管理は、「反原発の不都合な真実」を書いた藤沢数希氏の合理的なリスク計算とは別の次元にあると思われる。彼らの不安は、島国育ちの日本人のお気楽な楽観主義とは大きく乖離していてさすがに心配し過ぎとつっこみたくなるのは、私が根っからののんき者だからだろうか。つきつめていくと、そんな彼らの悲観主義からくるリスクへの意識は、自分さえたすかればよいという個人主義にも通じるものがあると私は感じるのだが、それでも、著者が、今回の原発への対応から木を見て森を見ない日本人と木を見なくても森を見るドイツ人という民族性の比較を感じていることに、残念だが反論はできない。

ドイツの原子力の発電量に占める比率は17.7%とそれほど高くはない。そして、陸続きで簡単にエネルギーを輸入するという裏技もありのドイツ。お国の事情もことなるのだが、同じ著者の熊谷氏による「ドイツ病に学べ」のように、今回の事故からも我々はドイツに学ぶこともありそうだ。しかし、ドイツの日本の原発の技術力への信頼をうらぎることがなければ、事情は少しかわったかもしれない。以前から、津波の影響への懸念を発言していた政治家がいたにも関わらず何ら手をうってこなかったこと、事故後の政府の対応の不手際、事実の隠蔽は、どう考えても言い訳の余地がない。公正な立場で審議できる第三者機関でチェックする機能があれば、ここまでには至らなかったのではないだろうか。

「女中がいた昭和」小泉和子編

2012-07-08 16:18:01 | Book
偉大なるオペラ作曲家、ジャコモ・プッチーニと聞いてもすぐにわからない方もいるだろう。しかし、映画『眺めのいい部屋』でも素晴らしく効果的に使用されていたのもプッチーニの「わたしのお父さん」だったように、有名なアリアは映画やCMに頻繁に登場するから、旋律にはなじみを覚える方も多いと思う。プッチーニほど、時代をこえて愛されるオペラをつくった作曲家はいないのではないだろうか。

さて、そのプッチーニだが、情熱は芸術分野だけでなく、妻以外の女性たちにも向けられて、新しい女ごとに情事をはずみに次々と傑作をうんだ。そんな中、プッチーニ家に雇われたメイドのドーリアが、嫉妬にかられた妻に今度のお相手として疑われて、厳しく追求されて追い詰められた果てに服毒自殺をするという事件が起こった。1909年当時、大スキャンダルとなった「ドーリア・マンフレード事件」をセンスよく描いたのが、『プッチーニの愛人』である。離れの家に監禁されたようなドーリアに、この頃のメイドは雇用主の所有物なのか、と社会におかれた彼女たちの立場がよくわかる。

ところで、プッチーニ家は成功した作家として大きな館を構えて複数の使用人をつかっていたが、戦前の日本の中流以上の家にも、メイドならぬ女中をおいたのが一般的だったそうだ。本書は、女中の成り手が多かった大正初期から女中が消えていく1960年頃までのリサーチから、今では差別用語として使用されていない”女中”を通して、昭和の一面が書かれている。先日、ほぼ同世代の女性に今読んでいる本ということでタイトルを伝えたら、「えっ、いやだ~・・・」と微笑されて終了・・・。

そ、そんな反応をしなくても、、、と思うのだが、女中に何か誤解を招く部分はあるのだろうか。その昔、石川達三が「幸福の限界」で”妻とは性生活の伴う女中”という今だったらユニークな名言を残してくれたが、そもそも”女中”という言葉に、人それぞれ微妙なニュアンスのイメージをもっているのかもしれないが、女中は、かっては40万~100万人程度までいて、戦前までの女工に並ぶ女性の二大職業のひとつであり身近な存在だったのだ。我家の平凡なる家族史をたどっても、確かにお嫁に行く前の花嫁修業として所謂”奉公”をしていたおばあさんもいる。本書は、半分以上の女性が大学に進学をする時代にあって関心をひかれるようなテーマではないかもしれないが、写真、資料、統計が豊富で眺めているだけでも楽しいのだが、実は社会学の講義を聞いているようなアカデミックな内容である。

かっての、家長制度のひとつの企業のような経営単位から核家族化への移行に伴い、生産から切り離された女性は経済的に夫に依存するようになり、主婦という言葉が登場するようになった。兎に角、昔の女性の家事は大変だった。私だってルンバが欲しい!と思っているが、炊事、洗濯、掃除、育児だけでなく、雨戸の開け閉め、洗い張り、半襟のつけかえ、お風呂をわかし、衣替え、蚊帳や雨具、夜具の手いれ、接客、毎日のルーティンワークから、季節、年ごとの仕事や行事が入り、高度な技術も求められたのが、この時代の家事だった。確かにひとりですべてをこなすのは厳しいことから、そこそこの家庭でも女中の需要はあったのだ。一方で、都会に憧れたり、口減らしなどで働きたい女性は大勢いた。多くの女中として働く女性対象の「女中訓」も出版され、守秘義務だけでなく、寸暇もおしんでしっかり働き、気働きまで求められ、よい女中はよい嫁にも通じるところが、結婚を控えた女性としても人気職種だったのだろう。

しかし、ご用心!誠実なご主人だったらよいけれど、プッチーニ家のスキャンダルのように、低い人権のもとに主人や若様にセクハラを受ける悲劇も珍しくなかった。第4章「女中と性」では、この時代におかれた女中の理不尽な立場まで、資料からほりおこしてしている。

プライバシーもないような日本的家屋の中での雇用関係で、家族ではない存在の女性。本書に掲載されている女中部屋の写真や間取り図は、彼女たちのおかれた立場を象徴しているようだ。編者の小泉和子さんは「昭和のくらし博物館」の館長だそうだが、隆盛期から女中が消えていくまでとてもよくまとまっている1冊だと思う。女性の生活史としても価値のある本である。

山形交響楽団 さくらんぼコンサート2012

2012-07-05 23:01:54 | Classic
本日のコンサートは、開演前にプレトークありか・・・。
会場内の掲示を眺めがら、そうか、とさして期待していなかったのだが、山形物産展らしき緑のエプロン姿にハッピをはおった長身の男性が登場した時は、思わずのけぞりそうなところをこらえて二階席から身をのりだしていた私。
えっっ、、、まじっすか。私の席からは全く顔が見えないのだが、あのりっぱな長身、ジムで鍛えた女性のためにあるようなあつい胸は、ど~う考えてもマエストロではありませんか?!似合わないエプロンとハッピに混乱しているうちに、次々と解説が続くのだが、ちっとも頭に入ってこない。ブラームスの話は楽しいが、山形の物産の宣伝やスポンサーへのお礼など、どう考えても指揮者というよりも、おらが農協のちょっと年季の入った青年の語り口だべさ。

ビジネス本の傑作「マエストロ、それはムリですよ・・・」で知った山形交響楽団と飯森範親氏の奮闘。これは是非、さくらんぼコンサートを聴きたいと願っていたのがようやく実現。(毎年、6月27日にオペラシティで開催されていたようだ。)プログラムによると、飯森氏は、日本経営士会が主催する2010年ビジネス・イノベーション・アワード大賞を受賞していて、名誉会員になっていらっしゃる。本気度が、違う。会場に入るや、「やまがたへきてけらっしゃい」というチラシや旗が並び、新品種のお米「つや姫」が展示されている。勿論、抽選で観客にプレゼントされる山形産さくらんぼも、クラシックCD売り場よりも活気があって販売されている。いつもと違う雰囲気のアットホームのコンサート、それだけでもちょっとうれしい。

さて、肝心のコンサートだが、最初はN響アワーでおなじみだった西村朗氏の委嘱作品。創立40周年記念を迎えた山響も力がはいっている。当日、ご家族の事情で欠席された西村さんの解説によると、「悲」は仏教のカルナーのことで、人生の苦海に生きる人への同情同苦を意味するそうだ。音楽を聴きながら、日本の苦難の道を考えたりする。緻密さが要求される曲だと感じるが、ていねいな音づくりだ。

いよいよ真打登場!おなじみのダニール・トリフォルノフ君だが、有名な冒頭の出だしから、音が美しくクリアで一気に観客の心をつかんだと思われる。第二楽章の私が好きなソロの部分でも、音の粒が水滴に反射してきらめくように夢のような音楽だ。マエストロも彼の演奏を、音色が多彩で音のレンジも広いと絶賛している。彼の演奏を聴いていると、これまで出会ったことのないくらいのとても想像力が豊かなピアニストという確信が深くなる。自由でのびのびとした演奏が、ダニール君の年齢の若さとあいまって、一瞬も一時も聴かせてくれる。アンコール曲も素敵でいくらでもひきだしがありそうだ。ところで、演奏終了後、間近でみたダニール君は、どこからあんなに大きな音がでるのか、エネルギッシュな演奏が想像しにくいむしろ小柄な少年のような容姿だった。

最後のブラームス。チャイコフスキーのVn協奏曲が、ソリストのダニール君に圧倒されているようで、いまひとつさえなかった山響。世界の頂点をめざす逸材との我彼の差をみせつけられたようだが、ブラームスは重厚でよく響きわたった。彼らがこの曲を大切にされているような感じが伝わってきて、さくらんぼの抽選は残念なことにはずれてしまったが、来年の6月27日にも再会したい。

------------------------ 2012年6月27日  オペラシティ  ------------------------------------

飯森範親(指揮)、ダニール・トリフォノフ Daniil Trifonov (ピアノ / Piano)
山形交響楽団(演奏)

指揮:飯森範親
曲目:西村朗/弦楽のための悲(ひ)のメディテーション(創立40周年記念委嘱作品)
   チャイコフスキー/ピアノ協奏曲第1番変ロ短調
   ブラームス/交響曲第2番ニ長調
   アンコール:チャイコフスキー/18の小品より第13曲「田舎のエコー」

■こんなアンコールも
・マエストロ・飯森範親氏列伝「マエストロ、それはムリですよ・・・」
第14回チャイコフスキー国際コンクール 優勝者ガラ・コンサート

『キューポラのある街』

2012-07-02 22:55:09 | Movie
名画再発見!の日本映画編。
というわけで、サユリストなる一大派閥をつくった吉永小百合さんが16歳の時に主演した『キューポラのある街』を選んでみた。(初鑑賞)

埼玉県川口市。キュープラと呼ばれる鋳物工場から飛び出た鉄を溶かす煙突が林立する街に、中学3年生のジュン(吉永小百合)は父母とふたりの弟と暮らしている。父親の鋳物職人である石黒辰五郎(東野英治郎)が、長年勤めた小さな工場が大きな工場に買収されることをきっかけに、勤務中の怪我の後遺症もあることから、解雇されることになってしまった。長屋のお隣に住む塚本克巳(浜田光夫)は猛反対して、贅沢をする親方をせめてくってかかるのだが、辰五郎はお世話になった親方を逆にかばうありさまだ。しかも、職人気質の辰五郎は、組合の調停の依頼も”アカ”の世話にはなりたくないとつっぱねる。
威勢はよいが、辰五郎の転職先もなかなか決まらず、妻の出産もあり、生活は日に日に逼迫していくため、ジュンの修学旅行資金すらも捻出できなかった。
そんな環境でも、成績の良いジュンは、絶対に県立第一高校に進学したいと頑張るのだったが。。。

これは、ほんの物語のはじまりである。この映画のあらすじを書こうと思うと、けっこうな分量になりそうだ。1962年に公開された「キューポラのある街」は、100分の映画ながら、ジュンのゆれる少女の感情を中心に、貧困、政治活動、格差社会、人種差別、友情、思春期の芽生えと内容も盛りだくさんで今日でも考えさせれるところがある。そして、わんぱくなこどもたちのいきいきとした躍動感が画面いっぱいにひろがり、日本映画の名作の評判に違わない。

ところで、映画の中で重要な役回りを演じるのが、ジュンの学友のヨシエや弟のタカユキ(市川好郎)の子分・サンキチの在日韓国人である。監督は、当時の韓国人に対する差別意識を描き、そんな差別意識をはっきり否定するように、わけへだてなく自由な思想をもつジュンやタカユキなどの新しい人々の意識の違いもみせている。さて、後半からヨシエもサンキチも、家族とともに在日韓国人の帰還事業により、北朝鮮に帰国することになり、みんなで見送りをするために、寒い冬の日に川口駅に集まる場面が登場する。当時の北朝鮮は楽園だと喧伝されて、生活に困窮していた家族はもう少しましな暮らしをのぞんで北に渡ったのだった。その数は、9万人以上にものぼるという。

先日、金正恩第1書記の実母・ 故高英姫の映像を集めた記録映画が製作されていたという報道があった。亡くなった将軍様の3番目の妻は、在日朝鮮人であるために、殆ど公舞台に登場することはなかった。北朝鮮では、日本で生活経験のある同胞を資本主義に毒されているとかなり冷遇していたからだ。ところが、後継者に威光をもたらす作戦として実名や経歴はふせて、映像で優しい”偉大なるお母様”という象徴的な存在として表舞台に現れた。

私たちは、その後、北朝鮮に渡った人々の苦難な生活や、国をあげての赦し難い犯罪行為を知っている。映画が上映されたのは、昭和37年。日本は高度成長期をかけぬけ、25年後には一気にバブルの頂点にまで過熱した。その後のジュンは、幸福になったのだろうか。失業して酒におぼれる父に「高校に行くから面倒みてくれよ」と叫んだタカユキは、進学できたのだろうか。そして、北朝鮮に渡ったヨシエやサンキチはいったいどうしているのだろうか。そんなことまで気になる映画である。

もっとも忘れがたい場面は、ジュンが勉強をみて上げるために訪問した裕福な友人宅の二階の窓から、外を眺めるシーンだ。吉永小百合の神々しいまでの笑顔とキューポラが並ぶくすんだ川口のモノトーンの街にブラームスの交響曲第4番が重なる。