今年も芥川賞受賞者の発表があったばかりだが、いつの頃からかあまり関心がもてなくなってしまった。作品の完成度が高くても、ちょっと韓国映画のようにスケールが小さくてものたりない。そんな中で、平野啓一郎だけは別格。若くして老成とまで言えるほど、熟成した文章がプロ好みというのはこれまでの評価と「葬送」でも証明ずみ。その平野啓一郎が、京都大学在学中の1999年に「日蝕」でデビューしてはや10年。無差別殺人事件を扱った1500枚の大作「決壊」を昨年完成させた。(以下、内容にふれています)
沢野崇は、国会図書館に勤務するエリート調査官。端正なマスクで独身の彼には何人もの恋人がいて”優しい”が、誰とも結婚する気がなく、むしろ結婚そのものを否定している。一方、弟の良介は世間的には適齢期に適当な女性と結婚もして3歳の息子がいる、平凡だが堅実なサラリーマン。2002年10月、京都の三条大橋で犯行声明文つきのバラバラ遺体の”一部”が発見されるのだが、それが数日前に最後に会ってから行方不明になっている弟だったのだ。正確に言えば、猟奇的に殺害された弟の腐りかけた肉体の一部だった。
やがて、警察は犯人像と崇の人物像が一致しているという理由から、崇を拘留して自白を強要するのようになるのだが。。。
崇は本当に実の弟を殺害したのだろうか。
一風ミステリー仕立てにして読者の好奇心と興味本位を煽りながら、難解な哲学のスパイスで気位の高い読書人も満足させる、平野啓一郎は京大の学生というそれだけで脚光をあびる立場で颯爽とデビューした時から、日本を代表する作家への路線を独走していると言ったら褒めすぎだろうか。
これまでも、加害者側の視点、加害者の家族、被害者と被害者の遺族の観点から、フィクション、ノンフィクションの区別なく、この国では犯罪と罪と罰、被害者感情、死刑制度の是非など百花繚乱のごとく読み応えのある小説や作品がうまれてきた。それは、凶悪な犯罪があまりにも多くなった現代の風景と、悪が人間の根源に関わることだからであろうか。けれども、何故、「葬送」で芸術的な作品を書いたこの作家が、すでに何人もの作家たちに踏み荒らされたこの分野で今さら犯罪を扱う作品を、と読むまでは私は思っていた。幸か不幸か、彼の作品に関しては単なるバージョンアップだけでは読者は納得しない。だから、読んでみたい気持ちにもさせられるのではあるが。
「決壊」というタイトルが与えるように、単なる小さな現象をこえて、作家は「人を殺してはならない」という自明の善すら危うい神の不在の現代の混沌を、圧倒するようなスケールで描いた。洗練された文章を書く力量をおさえて読者に投げ出すような荒々しさが成功していて期待にかなう小説だった。
きっかけは小さなブログだった。良介は、優秀な兄へのコンプレックス、仕事がうまくいかない悩み、妻との関係を自分のブログで夜中にこっそり書き綴っていた。妻をとても大切にしているからこそ、妻には打ち明けられない悩み。匿名のネットで開かれた誰にも気づかれないような小さな小さな窓、だからそこに<悪魔>がねらいを定めて侵入してきたのだった。損壊した遺体を早速携帯電話で撮影して知人に送信してあっというまにネットで公表されるばかりか、全裸で残酷に殺されていく良介の画像もまたたちまち掲示板にはられて無数にさらされていく。作品が出版された後、秋葉原無差別殺人が発生するという皮肉なタイムリーでも注目をされた「決壊」。秋葉原殺人事件では、倒れている血まみれの被害者の姿を無言で携帯電話で撮影する不気味な人々の様子も週刊誌で告発されていたが、警察署や事件の現場で報道するアナウンサーの後ろで笑ってサインをする無節操な群集を見ている目からは、驚きながらもやはりそういう時代がきたのだと嘆くばかりである。
冤罪、格差社会、鬱病、円満な家庭を築きながらもセックスレスの良介夫婦と他者とつながれないままセックスだけの関係を女性に求める孤独な崇、いじめられ恥ずかしい写真を撮られ強迫される中学生、そして中学生同士の性交の場面がネットに流出し、最後は無差別殺人が連続していく。<悪魔>と名乗る人物は、無差別殺人の正当化を哲学的に語っていく。どこかで聞いた、見た現代の病巣が広がり、一気に決壊していくラストは、この世の光をすべて失ってしまい暗黒の闇に閉ざされたように衝撃的である。それでも、この腐臭の醸し出すカオスがいつかきた世界、あるいは我々がこれからたどり着く荒廃した世界のような奇妙な現実感をもたらすのは、作家の筆の力であろう。
「神がいない現代の赦しの問題を考えながら書き進める中で、和解のビジョンが見える度、僕は犯罪被害者の家族が犯罪者を赦すのはそんなに単純なことではないと思い、ハッピーエンドへの道筋は見えなかった。理解不能の他者の出現に社会が呆然としている時、やっぱり文学は、一番難しい問題に取り組むべきじゃないか」
本書はそう語る作家の前作「顔のない裸体たち」のいきつく最終章。「ストイシズムとは、たったひとつの秘蹟しかない宗教」とボードレールの言葉を引用したのは、崇の友人だった。物語は良介が帰省する場面からはじまる。山陽本線で人身事故があり、酷暑の中でホームで待たされることになった良介と妻と息子。三島由紀夫のように最後までカッチリ決めて書くタイプの作家らしく、冒頭の描写は最後につながっていく。もはや人身事故もうんざりとするありふれた日常の情景となってしまったのだが。
■アーカイブ
・「顔のない裸体たち」
・「ウェブ進化論」梅田望夫×平野啓一郎
沢野崇は、国会図書館に勤務するエリート調査官。端正なマスクで独身の彼には何人もの恋人がいて”優しい”が、誰とも結婚する気がなく、むしろ結婚そのものを否定している。一方、弟の良介は世間的には適齢期に適当な女性と結婚もして3歳の息子がいる、平凡だが堅実なサラリーマン。2002年10月、京都の三条大橋で犯行声明文つきのバラバラ遺体の”一部”が発見されるのだが、それが数日前に最後に会ってから行方不明になっている弟だったのだ。正確に言えば、猟奇的に殺害された弟の腐りかけた肉体の一部だった。
やがて、警察は犯人像と崇の人物像が一致しているという理由から、崇を拘留して自白を強要するのようになるのだが。。。
崇は本当に実の弟を殺害したのだろうか。
一風ミステリー仕立てにして読者の好奇心と興味本位を煽りながら、難解な哲学のスパイスで気位の高い読書人も満足させる、平野啓一郎は京大の学生というそれだけで脚光をあびる立場で颯爽とデビューした時から、日本を代表する作家への路線を独走していると言ったら褒めすぎだろうか。
これまでも、加害者側の視点、加害者の家族、被害者と被害者の遺族の観点から、フィクション、ノンフィクションの区別なく、この国では犯罪と罪と罰、被害者感情、死刑制度の是非など百花繚乱のごとく読み応えのある小説や作品がうまれてきた。それは、凶悪な犯罪があまりにも多くなった現代の風景と、悪が人間の根源に関わることだからであろうか。けれども、何故、「葬送」で芸術的な作品を書いたこの作家が、すでに何人もの作家たちに踏み荒らされたこの分野で今さら犯罪を扱う作品を、と読むまでは私は思っていた。幸か不幸か、彼の作品に関しては単なるバージョンアップだけでは読者は納得しない。だから、読んでみたい気持ちにもさせられるのではあるが。
「決壊」というタイトルが与えるように、単なる小さな現象をこえて、作家は「人を殺してはならない」という自明の善すら危うい神の不在の現代の混沌を、圧倒するようなスケールで描いた。洗練された文章を書く力量をおさえて読者に投げ出すような荒々しさが成功していて期待にかなう小説だった。
きっかけは小さなブログだった。良介は、優秀な兄へのコンプレックス、仕事がうまくいかない悩み、妻との関係を自分のブログで夜中にこっそり書き綴っていた。妻をとても大切にしているからこそ、妻には打ち明けられない悩み。匿名のネットで開かれた誰にも気づかれないような小さな小さな窓、だからそこに<悪魔>がねらいを定めて侵入してきたのだった。損壊した遺体を早速携帯電話で撮影して知人に送信してあっというまにネットで公表されるばかりか、全裸で残酷に殺されていく良介の画像もまたたちまち掲示板にはられて無数にさらされていく。作品が出版された後、秋葉原無差別殺人が発生するという皮肉なタイムリーでも注目をされた「決壊」。秋葉原殺人事件では、倒れている血まみれの被害者の姿を無言で携帯電話で撮影する不気味な人々の様子も週刊誌で告発されていたが、警察署や事件の現場で報道するアナウンサーの後ろで笑ってサインをする無節操な群集を見ている目からは、驚きながらもやはりそういう時代がきたのだと嘆くばかりである。
冤罪、格差社会、鬱病、円満な家庭を築きながらもセックスレスの良介夫婦と他者とつながれないままセックスだけの関係を女性に求める孤独な崇、いじめられ恥ずかしい写真を撮られ強迫される中学生、そして中学生同士の性交の場面がネットに流出し、最後は無差別殺人が連続していく。<悪魔>と名乗る人物は、無差別殺人の正当化を哲学的に語っていく。どこかで聞いた、見た現代の病巣が広がり、一気に決壊していくラストは、この世の光をすべて失ってしまい暗黒の闇に閉ざされたように衝撃的である。それでも、この腐臭の醸し出すカオスがいつかきた世界、あるいは我々がこれからたどり着く荒廃した世界のような奇妙な現実感をもたらすのは、作家の筆の力であろう。
「神がいない現代の赦しの問題を考えながら書き進める中で、和解のビジョンが見える度、僕は犯罪被害者の家族が犯罪者を赦すのはそんなに単純なことではないと思い、ハッピーエンドへの道筋は見えなかった。理解不能の他者の出現に社会が呆然としている時、やっぱり文学は、一番難しい問題に取り組むべきじゃないか」
本書はそう語る作家の前作「顔のない裸体たち」のいきつく最終章。「ストイシズムとは、たったひとつの秘蹟しかない宗教」とボードレールの言葉を引用したのは、崇の友人だった。物語は良介が帰省する場面からはじまる。山陽本線で人身事故があり、酷暑の中でホームで待たされることになった良介と妻と息子。三島由紀夫のように最後までカッチリ決めて書くタイプの作家らしく、冒頭の描写は最後につながっていく。もはや人身事故もうんざりとするありふれた日常の情景となってしまったのだが。
■アーカイブ
・「顔のない裸体たち」
・「ウェブ進化論」梅田望夫×平野啓一郎