千の天使がバスケットボールする

クラシック音楽、映画、本、たわいないこと、そしてGackt・・・日々感じることの事件?と記録  TB&コメントにも☆

『サラの鍵』

2012-01-31 22:51:30 | Movie
本作よりも一足速く、昨春公開された 映画『黄色い星の子供たち』は、1942年フランス政府によるユダヤ人を一斉に検挙して迫害したヴェルディヴ(冬季競輪場)事件を、史実を徹底的にリサーチして映像で再現していた作品である。それというのも、フランス政府は、ヴェルディヴ事件の位置づけを長らくナチス・ドイツによる迫害として、国の責任から逃れていたから、まずは悲劇的な事件がテーマだったと思う。1995年、シラク大統領が正式に演説で謝罪した時は、事件そのものを知らなかったフランス国民は大きな衝撃を受けたという。フランス政府の恥部とも言える歴史的な事件を白日の基にして映像で世界に訴えて表現したのが『黄色い星の子供たち』だとしたら、その演説がきっかけで一篇の物語が生まれ、世界的なベストセラーとなったタチアナ・ド・ロネの小説「サラの鍵」を映画化したのが、本作になる。『黄色い星の子供たち』を鑑賞して初めてヴェルディヴ事件を知り、そして『サラの鍵』で現代に生きる女性を主人公にした物語にしたことで、過去の不幸な事件という客観性をこえて、痛みを我が身に置き換え感情をゆさぶる映画となり、たまたまなのだろうが、この公開の順番は私にとっては最適だったとしか言いようがない。

パリで生活するアメリカ人記者ジュリア(クリスティン・スコット・トーマス)は、夫と娘とパリで暮らしている。45歳にして待望の妊娠をしたことの喜びもつかの間、二人目の子を待望していたはずの夫が「本当はこどもは欲しくない」と出産に反対する。はっきりとは言わないが、彼は年齢も年齢だし、すでに前妻との間に自分の娘もいるし、仕事を中心にしたいので新しいこどもは育てる余裕はないから中絶しろ、ということらしい。悲しみに打ちひしがれる彼女は、ジャーナリストとしてヴェルディヴ事件を調べていくうちに、おしゃれに改装中の夫の祖父母から譲り受けたアパートの持ち主がかってのこの事件の被害者だったことに気がついていく。そして収容所から脱走していた長女の10歳のサラの足跡をたどっていくのだったが・・・。(以下、内容にふれてまする。)

この映画は、一言でホロコーストものという分類をされがちなのだが、確かにあまりにも過酷な環境、理不尽な事件を背景にし、又、事件そのものが最終的に悲劇の幕を降ろしているのだが、私はもう少しホロコーストとは別に根源的な人間の罪を考えさせられた。姉の弟を助けるためのとっさの行動が、最大の不運をもたらした。ホロコーストの悲劇だけでなく、彼女には非業な不運を体感してしまったのだった。ユダヤ人の迫害事件がなくても、そして、平和な現代でもほんの遊び心や、ふとした不注意、或いはよかれと思ってした行為が、予想外に別の人間に大きな不運をもたらしたり、場合によっては生命さえ失うこともあるかもしれない。サラが生き延びて優しい人々に救われても、一生罪を背負い、自分が幸福になることを自分自身に決して許さなかった、禁じていた彼女の哀しみと深い暗闇が苦しくも胸を打つ。どんな言葉でもどんな優しい手助けでも深い愛情でも、彼女の心を救うことはできなかった。ある意味、彼女の優しい資質がその優しさがゆえに救いから遠ざけたのではないだろうか。

一方で、現代の同時代を生きるジュリア。彼女や夫にとっては、人生は計画していくもの。こどもを望み妊娠したのも成功者の計画であり、いざ妊娠したら夫が中絶を望むのも 自分の人生のキャリアのため。そこには生命の尊厳さ以前に、自己中心的な自分のライフスタイルを優先する現代人の姿勢がみられる。そもそも、この夫は妻に中絶をすすめるくらいなら、何故、これまで妊娠に協力?をしていたのだろう。ジュリアの高年齢から、まずこどもはできないと軽んじていたのではないだろうか。ありがちな設定とは言え、なじめないものを感じた。

最大の悲劇は、ヴェルディヴ事件よりも、サラが決めた最後の人生の総括の仕方にある。サラの人生を知ってしまったジュリアは、アメリカ人らしく前向きに生きていく。小さな希望を残して。

監督:ジル・パケ=ブレネール
2010年フランス映画

「君たちはどう生きるか」吉野源三郎著

2012-01-28 15:57:25 | Book
君たちは、どう生きるか。

そう問われても、ここまでこう生きてしまった・・・としか言いようがないくらいの年齢にきてしまった私だが、それにも関わらず、深い感銘を受け何度も何度も感動した。こんなにすぐれた本があったのだ。

「コペル君は、中学ニ年生です。ほんとうの名は本田潤一、コペル君というのはあだ名です」

こんな書き出しではじまるように、著者の吉野源三郎は主人公を青年の入口に立とうとする少年に設定して、若い、未来を担う世代に向けて本書を書いたのである。それには、理由がある。本書の出版は1937年。この年、盧溝橋事件がおこり、以後、8年間に渡り日中の戦争がはじまった年でもある。欧州では、ヒットラーやムッソリーニが政権をとり、日本も軍国主義が勃興し、一気に言論や出版の自由がなくなり、労働運動や社会主義運動が激しい弾圧を受けた時代でもあった。そんな時代の空気の中で、山本有三は荒れ狂うファシズムから、ヒューマニズムの精神を守るために、次世代を担う少年少女に希望を託して1935年から『日本少国民文庫』を刊行し、全16巻のうち最後に配本されたのが「君たちは、どう生きるか」だったのだ。その頃の日本でも、ヒットラーを英雄として賛美された軍国主義の嵐の中、弾圧に押しつぶされそうになりながらも、先見の明を開いた事実に、日本人としてあかるい感慨するわいてくる。

コペル君は銀行員だったお父さんを亡くし、お母さんと暮らすひとりっ子。成績は良いのだが、身体が小さいのが悩み。そんなコペル君をそっとささえてくれるのが、お母さんの弟、大学を出たばかりの法学士の叔父さんだった。コペル君は、資産家の家庭に育ち物静かで美形の水谷君、正義を通す負けん気の強い北見君、貧しい豆腐屋の息子で家業を手伝いながら勉強している浦川君といった友人に恵まれ、彼らとの友情を通して、また、勇気がなくてそんな友達を裏切ってしまったことも経験するコペル君の精神的成長物語となっている。

本書の特徴として、叔父さんがお父さんを亡くしているコペル君のために綴った「ノート」が物語の途中に挟まっている。コペルニクスの地動説、ニュートンの万有引力からガンダーラまで優しく書かれた文章に、この叔父さんの深い教養に代表されるような昔の知識人の厚みに目がくらみそうだ。この叔父さんは、20歳そこそこなのだが、なんと人として成熟しているのだろう。と、読んでいるうちに、叔父さんどころかもっと年上の私ですら、いつのまにかコペル君の立場でコペル君たちにすっかり同化して読んでいることに気がつく。本書のすごさはここである。あの天下の丸山真男ですら、出版された年に大学を卒業して法学部の助手となり、研究者としてスタートしたまさに”叔父さん”世代なのだが、

「しかも自分ではいっぱしにオトナになったつもりでいた私の魂をゆるがしたのは、自分とほぼ同年輩らしい「おじさん」と自分を同格化したしたからではなく、むしろ、「おじさん」によって、人間と社会への眼をはじめて開かれるコペル君の立場に自分を置くことを通じてでした。何という精神的未熟さか、と笑われても仕方がありません。当時私はどちらかというと、ませた青年だ、と自分で思いこんでいましたから一層滑稽なのです」

と感想を述べている。少年少女対象の平易なことばで書かれた本だが、いくつになっても、おりにふれ、再読したい名作だ。つまり、永遠に手離せなくなってしまう本なのだ。最後のコペル君がノートに綴った真摯な文章は、誰の心にも、美しく、清々しく、響くだろう。現代でもそっくりそのままあてはまる。その意味でも、社会科学的なものの見方の基本を考えさせられる。

先日のセンター試験も終わり、いよいよ本格的な受験シーズンがはじまった。新しい学校への入学は新しい人生のはじまりでもある。
新しい学校に進学し、学ぼうとする君たちへ。
寒風にかたかた鳴る窓ガラス、新雪にまぶしいくらいの校庭、若い芽が伸びてくる匂い、自らの五感をぴんと澄ませて、コペル君と一緒に読んでほしい。そして、どうか考えて欲しい、未来ある君たちへ。
「君たちは、どう生きるか」

「『第九』のすべて」 武川寛海著

2012-01-24 23:22:03 | Book
日本人は「第九」が好きである。
本物の音楽を聴いたことがなくても、音楽家ベートーヴェンの偉業を知らなくても、あのフレーズは大方の日本人の心に何がしかの高揚感をそそるものである。私はこれまで、突如、声をはりあげて「おお、友よ、この調べではない!」と否定形で入るところなど、革新性よりも構成が美しくないと感じていたのだが、やはり一年の集大成をするのは「第九」と、年末になるとこの曲を無性に聴きたくなる。指揮者の下野竜也さんによると作品の成立や構成など、楽曲分析を論文にするとまるまる1冊の本になるそうだ。ま、そうだろう。しかし、楽曲分析は専門家の棒をふったり演奏する方たちにまかせて、全人類に門戸が開かれているこの曲は、聴く立場としてはおおいに楽しめばよいのだが、もう少し知りたい「第九」のこと。音楽評論家の武川寛海さんの本書は、「第九」の成立ちから、指揮者たちから敬遠された後の真価を認められて復活、そして日本での初演など、音楽的な専門知識を除いた”すべて”がつまっているテキストである。

そもそも、シラーの「歓喜に寄す」は、シラー26歳の時に招かれたドレスデンで宗教評議員をしていたクリスティンアン・ゴットフリート・ケルナー家でのパーティで、乾杯の音頭をとった時にシラーが、ケルナー夫人のワイングラスを粉砕したという椿事からはじまる。若く、気負いたっぷりのダルビッシュのように大リーグ選手になろうかというようなシラーが、とっさにギリシャの習慣にならってワインを大地に捧げようと提案し、この長大な「歓喜に寄す」(渡辺和さんによると思想表現のパッチワーク!)が創作された。創られた経緯からもシラー本人はあまり気に入っていなかったが、シラー大好きなベートベーンはこの詩に曲をつけることが20年以上も念頭から離れず、原詩を解体して強引に自分のものにして作曲したのが1824年。長い歳月はかかったが、大傑作である。

1824年5月7日、ウィーンでの初演は貴賓席をのぞいて満席。自ら指揮をしたベートベーンは難聴がすすみ、大喝采が届かない。そのため、アルトの独唱をしたウンガーが巨匠の肩を押さえて聴衆の方に振り返させ、観客はハンカチを振って感動を伝えたという有名なエピソードが残っている。が、やはり演奏時間も長く、難しかったため、この曲は次第に敬遠されて消えていこうとしていた。メンデルスゾーンが全曲をピアノ曲で演奏したという記録もあるが、それも成功したわけではないようだ。

再び復活さえたのは、ワーグナーだった。やはり天才は天才を知るか。「第九」の論文を書いて研究しきっかけをつくり、実際に普及させたのが、あのコジマの元夫のハンス・フォン・ビューロだった。このふたりの因縁となると、さすがに武川さんの筆の運びもすべりがちで、ついつい「第九」の領域からはみだしていくのだが・・・。そして少しずつ世間に認知されていく「第九」。
ところで、今日的にも興味深かったのが、功績の大きかったビューロの対抗馬として登壇してきた新人フェリックス・フォン・ワインガルトナーだ。彼は、鏡の前で身振りを研究して役としぐさを結びつけて全ヨーロッパの流行指揮者になっていった。すらりと格好のよい指揮者は、オーケストラの前で美しい社交家であり、ドイツを別にして観客もその外見を求めたのだった。一般大衆というのは、「間接的に音楽の心に導かれたいと願うもの」と言った武川さんの表現は、現代でもあてはまる。そんなワインガルトナーのライバルとして人気をさらったのが、マーラー。「第九」を中心に19世紀後半の指揮者列伝も、なかなか読ませてくれる。

ちなみに日本での初演は1918年、徳島県にあった板東俘虜収容所で、ドイツ兵捕虜による演奏である。これは映画『バルトの楽園』として映画化にもなっている。本書が出版された昭和61年には「第九」の演奏回数は170回。およそ2日に一回、日本のどこかでFreudeと歓喜の歌が歌われていたのである。年末の恒例行事をこえて、日本人にこの曲がしっくり同化しているのであろう。それにしてもバブルの頃に比較して演奏会自体が減っているとも感じるのは、実に寂しい。

ところで、当時、ベートーヴェンがこの曲で稼いだ金額はいくらでしょうか?
回答は⇒現在の貨幣価値(昭和61年)で換算すると、14,174,080円になったそうです。

■アンコール
読響「第九」コンサート

「娘時代」シモーヌ・ド・ボーヴォワール著

2012-01-22 11:21:49 | Book
哲学者として歴史に名を残したシモーヌ・ド・ボーヴォワール。
女性の首相も宇宙飛行士も珍しくなくなったこのご時勢、あまりにも有名な「 女は女として生まれるのではなく、女になるのだ」のこの一言とともに、ボーヴォワールを歴史上の哲学者としてこのまま終わらせてしまってもよいものだろうか。そんなことをつらつら考えたのも、先日鑑賞した映画『サルトルとボーヴォワール』で、私の好きな18禁場面は、別の面で彼女を復活させてくれたからだ。作家として、女として、サルトルと切り離したボーヴォワールはどういう人だったのか。そこで手にとったのが、ボーヴォワールの自叙伝「娘時代」だった。これは、大正解だった。本書は、フランス文学の最高峰の一冊と言っても過言ではない。

「私は、1908年1月9日の午前4時に、ラスパィユ街に面した白いエナメル塗りの家具のある寝室で生まれた」
こんな文章ではじまり、誕生からソルボンヌ大学でサルトルと出会い、親友の死の代償として自分の自由を勝ち得たと信じるまでの、恐ろしく頭脳がきれて鋭い感受性の少女が、ついに子供用の手袋を捨てて人生を歩むまでの回想録である。小さな字でびっしり綴られた340ページ二段組の長編だから、それなりに読むのに時間がかかるが、これぞフランス文学という読書の醍醐味を味わえる。これまでも数々の回想録や自叙伝を読んできたつもりだが、これほど精巧な美しさと、趣味のよさ、そしておしゃれな本もないだろう。女性としてこの本を読んでいなかったら、一生の不覚になってしまう。

妻をつくるのは夫で、妻を完成させるのは、夫の仕事と信じる父と彼に従うママン、妹とのフランスの典型的なブルジョワ階級の家庭の暮らし、自立するための勉学、彼女と並ぶ賢い親友との友情、裕福な同級生への同性愛、そして従兄への初恋と失恋。センスのよい言葉と知性的な文章は、少女のヰタ・セクスアリスまで、実に緻密に描かれている。本書を読みながら、この本の最大の読者こそはボーヴォワール自身で、言葉のひとつひとつにかくされた情熱と執筆の興奮が感じさせられる。

そして、ボーヴォワールは生まれながらにしてボーヴォワールだった。
思春期に「アドリーヌ・デジール免状」を授与される頃になると、様々な家庭の四角い窓のつらなりから、無限に繰り返される主婦の家事の向こうに単調な草原を見出し、結婚よりもひとつの仕事の方に希望を見出していく。猛勉強もしたが、それでいて、無防備に夜の街を呑み歩き、危ない目にもあったりする。少女のプライド、悩み、さまざまな疑問が、最強の哲学者の成長物語ともなっている。どこを切りとっても、名文となる文章から、私は率直さで綴られた自伝を芸術作品にまで仕立てたボーヴォワールの才能と生き方に敬服したい。

■アーカイヴ
映画『サルトルとボーヴォワール』

『ミラノ、愛に生きる』

2012-01-18 23:07:50 | Movie
ロシア人のエンマ(ティルダ・スウィントン)は、イタリア・ミラノ在住のマダム。時々、奥様向けファッション雑誌で欧米のハイソなマダムが紹介されているが、エンマの場合はこうしたクラスによくある上流社会の子息と令嬢同志の結びつきではなく、故郷のロシアでたまたま仕事に来ていた繊維業界で隆盛を誇る一族の後継者、タンクレディに見初められて上流階級のマダムになったのだった。二人の息子と娘に恵まれ、夫とも円満、勿論、舅や姑との関係も良好にこなし、パーティの準備も完璧。重厚な邸宅では、厳かに、そして華やかにレッキ家のパーティが繰り広げられているところを、ひとりの青年が訪問してくる。戸外の薄暗い雪景色にとけこみそうな彼は、長男エドの友人で料理人のアントニオ(エドアルド・ガブリエリーニ)だった。ボートレースで、エドに完勝してしまったおわびのタルトを届けにきたとのこと。女性として円熟の美しさが匂うようなエンマと若く野生的なアントニオの出会いだったのだが・・・。

上流階級の人妻が息子の友人と恋に落ちた・・・。一言で言ってしまえば、それだけなのだが、それ以上のものを魅せつけて観客を幻惑させてくれるのがイタリア映画だ。それでは、この映画の何が、それだけでなくそれ以上だったのか。

1.音楽
映画は、ショスタコーヴィッチを彷彿させるジョン・アダムズの音楽とともに、古色蒼然たるモノトーンのミラノの雪景色からはじまる。リズム感溢れる打楽器の旋律、それでいてノスタルジックな音楽は、まるで映像で表現したオペラのような印象だ。これまでオープニングで一気にひきこまれた作品にはずれがなかった経験値から、これはいかにも女性好みのハイソなよろめきものという想定をこえてお気に入りの映画になるかも、と期待する。重厚で一族の歴史を感じさせるインテリア、壁を飾る名門にふさわしい絵画、磨きこまれた床、忠実な召使たち。それらを背景に、エンマの内省をドラマチックに奏でる音楽が、最後まで心をひきつけて離さない。そもそもオペラのドラマは、人間の根源にせまりつつ、意外に単純なものである。女として目覚めたエンマのなるふりかまわない直情径行なふるまいは、オペラとして鑑賞するとすんなり受け容れられる。映画『愛の勝利を』でも、映像と音楽が見事に融合していて重厚なオペラのようだったが、今後、イタリア映画音楽はクラシック系に回帰していくのかもしれない。

2.ファッション
話題となったエンマ役、ティルダ・スウィントンが着こなすのがジル・サンダーの衣装。彼女自身もジル・サンダーのデザイナー、ラフ・シモンズがお気に入りだそうで、私生活でも好きなデザイナーか友人が選んだ服しか着ないそうだ。ジル・サンダーはイタリアではなくドイツのブランドで、シンプルだが微妙なカッティングと高級素材でおしゃれ上級生でないとわからないデザインと価格設定のブランドである。とがってはいないが知的な辛口ファッションでもある。ジル・サンダーを着こなすには、それ相応の肉体を求められるのだが、金髪、白い肌に長身のティルダ・スウィントンにはおそろしく似合っている。立っているだけで、上流階級のマダムオーラを放っているのはりっぱ。自分を表現するファッションとしてイタリアらしい華やかなブランドではなく、ジル・サンダーを選んだところがポイント。おおらかなで華やかなイタリアには、心の底では同化していなかったのではないだろうか。

3.現代版「チャタレイー夫人の恋人」
経済力があり、イタリア男にしては珍しく誠実な夫、それぞれに母を慕う3人のこどもたち、問題なくうまくやっている舅や姑、働き者の召使たちに囲まれ、なに不自由のない豪邸暮らしのエンマ。それにも関わらず、分別のあるマダムが、息子の友人というのは兎も角、男としてそれほど素敵とは思えない料理人にすべてを捨ててまで情熱のままに走れるのだろうか。本作についての賛否両論があるとしたら、エンマの最後の行動への共感性でわかれるだろう。使い古された”何不自由のない生活”は、そんなに手離したくないものなのだろうか。異国の街でロシア名を捨ててイタリア人として生きてきたエンマ。彼女は、自分の人生を生きていなかった。夫が言い放つ「君は存在していない」という痛烈な罵倒は、夫やレッキ家にとってではなく、彼女自身の自分の人生に、エンマは存在していなかった事実にかえってくる。それは、女性として最高の生活を捨ててまで取り戻したい自分の人生ではないだろうか。それを目覚めさせたのは、アントニオとの”性愛”だった。私の目からは"只野お兄ちゃん”だが、彼女にとっては、初めて恋というものを教えてくれた相手なのだ。その点で、この映画は「チャタレー夫人の恋人」を映画化した『レディ・チャタレー』に通じるものがある。

恋というものは突然はじまる。理屈も理由も、言葉すらもいらない。「つきあってください」「好きです」そんな会話の成り立ちが私にはわからない。男性群には、かなり不評なこの映画。ヴィスコンティと比較できるかどうかは別として、私は最初から最後までかなり気に入って、大満足した。

ところで、余談だが、映画で気になるのがレッキ一族のブランド買収劇である。コニャックのヘネシー、ドン・ペリニヨン、ヴーヴ・クリコなどの高級酒業だったブランドグループLVMHは、次々とブランドを買収して一大コングロマリットを形成しつつある。昨年、あのブルガリもついに傘下に入った。伝統ある家内工業のブランドも大きな波にのみこまれていく、そんな時代の潮流も思い出した。

監督:ルカ・グアダニーノ
2009年イタリア

■イタリアがんばれっ
中国にのみこまれるイタリア

奇跡のピアニスト ホルショフスキー

2012-01-01 21:57:17 | Classic
2012年、新年最初のブログを更新するにあたり、何よりも私がとりあげたいのはミェチスワフ・ホルショフスキ(Mieczysław Horszowski)のことだ。
彼の職業はピアニスト。1892年6月23日ポーランドのルヴォルフに生まれ、99歳のリサイタルを最後に1993年に100歳で移住先の米国フィラデルフィアで死去した。日本に来日演奏したのは、生涯でたった1回、25年前のことだった。残念なことに、私がホルショフスキーの存在を知ったのは、つい最近の芥川喜好氏の「ホルショフスキーの奇跡」という記事からだった。(以下、芥川さんと評論家の石川宏さんのCDの解説を参考に)

ホルショフスキーの最初のピアノ教師は、母のヤニーナ・ロージャ・ワーグナー。彼女自身が、ショパンの弟子ミクリから学んでいるという経歴からも、ホルショフスキーの音楽的環境が整っていたことは間違いないだろう。やがて7歳になった早熟な少年は、ウィーンに渡り、あの!ツェルニーの弟子だったレシェティツキのもとでピアノを本格的に学ぶ。10歳で正式にリサイタル・デビューをするや、たちまち欧米では天才少年と讃えられ、フランスではフォーレの前で弾き、サン=サーンスと出会ったりと、ホルショフスキーの世界各地へと多忙な演奏旅行が続く。ところが、青年になったホルショフスキーは精神の求めるままに18歳にしてアンリ・ベルグソンの講義を聞きたくなり、一旦、演奏活動から離れてソルボンヌ大学で哲学、文学、美術史を学ぶ。その才能を愛したカザルスの勧めで再び音楽に戻ってからは、ソロ演奏だけではなく室内楽やカザロスの伴奏者としても活動をするものの、ナチに追われて50歳で米国に移住した。その後のホルショフスキーの活動は、日本の世間一般には途絶えていき、やがて忘れ去られていった。

その背景として、石井さんは音楽家を人気と話題性でスターに仕立てて売る米国の商業主義にあると指摘している。
同じようなタイミングでピアノ界の鬼才が鳴り物入りで初来日してマスコミも含めて大騒ぎになったのは、私にも記憶に残っている。ホルショフスキについては、そんな脚光には関心もなく、自分をセールスすることも、力のある人間に擦り寄ることもなかったのだろう。しかし、後進の指導にあたりながら、日々、音楽に親しんだ彼の純粋な音楽性が見事に結実しているのが、1987年9月、95歳にして初めて来日したカザルスホールでの落成記念演奏会だった。日本では全く無名だったはずのホルショフスキのリサイタルのチケットは、あっという間に完売し、急ぎ追加された公演もたちまち満席となったそうだ。日本のジャーナリズムがとっくにお蔵入りしていた名ピアニストを、その夜、カザルスホールに集ったピアニスト、音大生、愛好家は決して忘れていなかったのだ。その幸福な夜のライブ演奏がこのCDである。

バッハ、モーツァルト、ヴィラ=ロボス、メンデルスゾーン、そしてショパン。それぞれの様式美の中で響き輝く音の粒は、限りなく純粋でまるで天上の音楽のようだ。技術を超える、95歳にして成熟した深い精神性の宿ったまさに奇跡のような音楽。会場には、涙を流して聴き入るピアニストの姿もあったそうだ。

先日、或る日本人ピアニストが、カーネギーホールでデビューリサイタルを開くまでのドキュメンタリー番組を観た。しかし、私がその映像で観て感じたのは、哀しいかな、彼の本来の音楽家としての活動よりも人気ピアニストに群がる商魂だった。芸術と商業主義について、ホルショフスキを紹介した芥川さんが次のような鋭い意見を言っている。
「人々が同じ言葉を口にし、同じもの、同じ人をもてはやす現象は、いわば現代における商業主義の勝利の風景でしょう。みんな一緒に盛り上がりながら、その実、人間一人の想像力や判断力の貧しさを語っているようにもみえます。」

来日した時のホルショフスキーは、ルーヴィンシュタインと同じ症例で90歳頃から視野の中心が見えなくなり、殆ど失明していたそうだ。そんなハンディを全く感じさせない素晴らしいピアノ演奏を再現したCDを聴ける喜びを、私はこの冬のさえざえとした夜空と心のぬくもりを忘れないだろう。