千の天使がバスケットボールする

クラシック音楽、映画、本、たわいないこと、そしてGackt・・・日々感じることの事件?と記録  TB&コメントにも☆

キーラ・ナイトレイがカズオ・イシグロ原作のSF「わたしを離さないで」に主演

2009-06-30 21:54:07 | Nonsense
キーラ・ナイトレイが、日本生まれの英国人作家カズオ・イシグロの小説「わたしを離さないで」(原題「Never Let Me Go」)を原作としたSF映画に主演することが決まった。
米バラエティ誌が報じたもので、同作はフォックス・サーチライトが製作する、「ストーカー」のマーク・ロマネク監督の7年ぶりの新作。昨年、「ウルフマン」(09年末公開)をクランクイン直前に降ろされたロマネク監督にとって、起死回生の作品となる。
原作は、「日の名残り」の原作者イシグロが05年に発表した小説で、同年の英ブッカー賞最終候補作。外界から隔絶された施設ヘールシャムで“提供者”の世話をしている優秀な“介護人”キャシー(ナイトレイ)は、同じ施設で生まれ育った親友のトミーやルースが“提供者”となった時、自らに課せられた運命を知る、というストーリー。その脚色に、「28週後...」の脚本家アレックス・ガーランドがあたる。
ナイトレイ演じる主人公の親友役に、「パブリック・エネミーズ」(主演ジョニー・デップ)が控えるキャリー・マリガン、「ブーリン家の姉妹」のアンドリュー・ガーフィールド。英ロンドンとノーフォークで4月から撮影開始予定だという。
共同製作が、フォレスト・ウィテカーに米アカデミー主演男優賞をもたらした「ラストキング・オブ・スコットランド」、ダニー・ボイル監督のSF映画「サンシャイン2057」「28日後...」を手がけた英DNAフィルムだけに、オスカーへの期待もつきない。

ナイトレイの最新作は、故ダイアナ元妃の祖先デボンシャー公爵夫人を演じた米アカデミー衣装デザイン賞受賞作「ある公爵夫人の生涯」(4月日本公開)。以後も、文豪フィッツジェラルドの妻ゼルダを演じる「美しく呪われし者(The Beautiful and the Damned)」、オードリー・ヘプバーン主演のミュージカルのリメイク「マイ・フェア・レディ」など、話題作が目白押しだ。(映画情報サイトより)


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イシグロ・カズオ著書の「わたしを離さないで」が映画化されるそうだ。しかも、キャシー役がキーラ・ナイトレイと聞いたら、そうかっっ、、、あの役を演じられるには彼女しかいない!とばかりに熱が入る。この報道を聞いてから、私の中ではキーラ・ナイトレイの陶器のような肌の憂い顔が、物語の中にとけこみ動き始めている。今回監督を務めるマーク・ロマネク監督は「スクリーン・デイリー」紙で「イシグロの世界観は、実に美しく愛らしい」と語っており、その出来栄えが期待されているそうだ。監督のこういう世界観とは驚き。4月からロンドンで撮影がはじまり、全米公開は2010年。


「わたしを離さないで」カズオ・イシグロ著
「日の名残り」カズオ・イシグロ著
「わたしたちが孤児だったころ」カズオ・イシグロ著

■キーラ・ナイトレイの素敵な映画
『つぐない』

庄司紗矢香・プレイズ・リゲティ

2009-06-29 22:05:30 | Classic
昨夜のN響アワーは、久しぶりに身をのりだして集中して聴いてしまった。我ながら、ごひいきのピッチャーが勝負をかけた試合の投球を、表情、フォーム、スナップのキレ具合を応援しながら真剣に観察するかのような姿だったと思う。20代なかばにして、もはや実力派のベテランの大御所の貫禄すら感じられる庄司紗矢香さんが、ジェルジ・リゲティ(György Ligeti)の晩年を代表する作品「ヴァイオリン協奏曲」(Konzert für Violine und Orchester)を演奏するからだ。

番組のはじめに、司会をする作曲家の西村朗さんによるこの曲の簡単な解説があったのだが、調弦は半音さげた変則的調弦法(スコルダトゥーラ)ではじまり、途中からソロと伴奏をあえてずらす構成にしながらも、打楽器とソロ・ヴァイオリンが一点でぴたっとあわせるという難曲だ。第一楽章の楽譜の見開きを画面で紹介されたのだが、指揮者のジョナサン・ノット氏の言うように、シンプルなアイデアに満ちた楽曲という鮮明な印象がした。管楽器奏者も、オーボエ奏者はリコーダ、フルート奏者はオカリナといっためったに使われない楽器をたずさえている。庄司さんは、この曲を小学生の時に初めて聴き、宇宙に漂うような不思議な印象を受け、いつかこの曲を演奏したいと目標にしていたそうだ。この演奏会も彼女のたっての希望とのこと。クラシック音楽をいつも聴いている成熟した大人でも、この曲を本当の意味で鑑賞するのは難しいのに。だから、”死ぬほど練習しました!”とにっこり微笑んでおっしゃるのだが、集中力抜群の彼女が自ら”頑張り”を表明するのだから、凡人の努力をはるかにこえた尋常の頑張りではないのは確かだ・・・。

ドレスは、彼女にしては珍しくシルバーに輝く派手めのまさに宇宙を感じさせるようなデザイン。ネックのデザインが70年代風で、この部分が特にモダンな宇宙服のイメージなのだが、ヴァイオリンを弾くにはちょっとネックがじゃまで向かないのではないだろうか。もっともそんな心配は不要とばかりに、庄司さんは一音一音に集中して、的確な音程と高いテクニックでこの難曲を自分のものに完全に消化して弾いていく。音程と正確なリズムをとるだけでおそろしく難しい曲だということは想像できるのだが、最も高いポジションの位置でトリルを入れる部分も、まるで宇宙からの信号が森にこだましているかのように、幽玄にうたっている。ともすれば無機質になりがちな現代曲を、抒情的にしなやかにうたえるのも彼女の個性であろう。第五楽章のカデンツァでは、ロマンティックに情熱的に演奏して、彼女のこどもの頃からの夢を見た思いがする。演奏終了後の充実感があふれた快心の笑顔は、初めて彼女の年齢にふさわしい若々しさを感じるとてもよい笑顔だった。

番組のおわりに司会の西村さんとの対談も放映されたのだが、なんと、庄司さんは絵も描き個展も開いたそうだ。リゲティのヴァイオリン協奏曲のイメージを描いた絵画(第一楽章と第五楽章の二枚)も披露されたのだが、少女らしく、でも不思議な幻想的な雰囲気の絵だった。なんでも、音楽を聴くと絵がうかぶという実に創造性に恵まれた方だ。幼い頃は、車に酔ってもクラシック音楽を聴くだけで元気になったという、根っからの音楽家。ネイビーのジャケットを着た彼女は、年齢よりも落ち着いた印象だが、西村さんも彼女の人間性の奥の深さと広さ、そして陰影に富んだ内面に心底感心しているようだった。

後半のプロコフィエフのヴァイオリン協奏曲も、丁寧に軽々と余裕すら感じられる演奏だった。ここでの衣装は、黒地に桜の花びらを散りばめたシックなドレス。
先日聴いた佐藤俊介さんの意欲的な無伴奏ヴァイオリン・リサイタル樫本大進さんのベルリン・フィルのコンマス内定のニュースといい、最近の若手はコンクールに優勝してオファーのあった演奏会をこなして、批評家やファンのための試金石にもなるリサイタルといった日本の従来のソリストのタイプと少し違った音楽家へと発展しているように思える。音楽家になることよりも、どういう音楽家になるかということが重要で、模索しながら音楽家としての自分のすすむべく道を探しているようにも見受けられる。

バイオリン協奏曲   ( リゲティ作曲 )
[ 収録: 2009年6月1日, 東京オペラシティ コンサートホール ]
 
バイオリン協奏曲 第1番 ニ長調 作品19 から
   第3楽章   ( プロコフィエフ作曲 )
[ 収録: 2009年6月6日, NHKホール ]
バイオリン : 庄司 紗矢香
管弦楽 : NHK交響楽団
指 揮 : ジョナサン・ノット

「ミシェル・オバマ愛が生んだ奇跡」デイヴィッド・コルバート著

2009-06-28 15:10:01 | Book
1月に行われたオバマ大統領の就任宣誓式の夜、ミシェル・オバマ大統領夫人の着たアイボリーのシルク・シフォンんのドレスは、彼女の長身とチョコレート色の肌にとてもよく似合っていた。名門の出身でもなく、富豪の妻でもない彼女にアイボリーが似合うのは、明晰な知性と意志の強さを象徴する色だから。しかも、人を寄せ付けないような純白ではなく、あたたかみのあるアイボリー。そんな彼女の人となりを紹介した格好の一冊が、本書である。

肌の色で奴隷の子孫とわかるミシェルが、同じく黒人の夫とともにホワイトハウスの主人になったのは、米国の歴史に残るデキゴトだと思うのだが、本書を読むと奴隷という背景を背負った祖先の存在が彼女の人格と生き方を育んだ一面もあり、それゆえにファーストレディになるために生まれてきたような女性にも思えるのだった。
1964年、ミシェル・ラヴォーン・ロビンソンは、フレイザーとマリアンを両親に兄のクレイグの妹としてシカゴに生まれた。ミシェルがものごころがつく頃には、父のフレイザーは多発性硬化症という難病の症状があらわれはじめていた。この父から、ミシェルたち兄妹は人生について実に多くのことを学ぶ。この病気が完治することなく、さまざまな症状がいつでるかもわからず、ゆるやかに重くなることを受け入れるしかないのだが、それでもいつも笑顔を絶やさず、家族を思いやり、杖をつきながら水道局の職員として勤務して、決して愚痴を口にすることがなかった。しかも、障碍による苦しみや痛みやつらさを家族に気づかれないようにふるまうためには、強靭な精神力も備わっていた。こんな父の背中を見て育ったのだ。世の中は不公平であること、それはある意味、事実であるが、それでも努力を怠らないこと、決して手を抜かない、人を裏切らない、計画的に推敲する、そんなことを彼女は学んだ。

ミシェルはプリンストン大学を卒業後、ハーバード・ロー・スクールに学ぶという強力で輝かしい学歴をもっているが、前ライス国務長官のように特別な頭脳をもっているというよりも、むしろ努力の人だった。そして、1947年生まれのヒラリー・クリントンは女性であることの偏見と闘ってきたが、この時代の名門大学でもミシェルはアフリカ系黒人であるという人種差別の苦労も背負わなければならなかった。24歳の弁護士になった彼女の初任給は、何十年も市の職員として働いてきた父の年収4万ドルを上回る6万5千ドルのりっぱな高給とり。ここで人種をこえてステップアップした成功に満足することがなかったのが、ミシェルらしい。将来の大きな収入を捨てて、転職したのがシカゴ市役所勤務という公職だった。映画『グラン・トリノ』と同じように、彼女の育った街でも黒人が住み始めると白人はみな引越ししていった。自分を育ててくれ地域に貢献したいと、次は地域奉仕団体パブリック・アライズのシカゴ支部に勤務することになった彼女の給料はまた下がった。しかし、ミシェルは仕事にやりがいを感じ、組織の内部から変革をしていった。変革、チェンジ。耳になじんだこの言葉は、夫オバマ氏の大統領選挙運動の時のキャンペーンだ。結婚という制度に意味を見出さなかったオバマに最後通牒をつきつめるつもりだったディナーの最後のデザートのトレーにのっていたのは、指輪だった。1992年10月、遠距離恋愛をのりこえてふたりはようやく結婚した。オバマの両親のように離婚の多い米国では、ミシェルの両親をはじめ一族の家庭像は、むしろ伝統的でしっかりした家族制度を思い出す。こんなふたりが結婚して、住人にふさわしいホワイトハウスにのぼりつめる姿は、米国らしいとも感じる。

バラクとミシェルは、男性主導で内助の功を期待される妻という夫婦ではなく対等なパートナーとして新しい大統領カップル像を築いている。政治家として多忙を極めるオバマは、州議会議員時代にハワイへの家族旅行を優先して重要な法案の決議の欠席をしたことがあるが、記者達の非難よりもミシェルの怒りの方が恐ろしかったからというエピソードがある。しかし、彼女の強さが自分に必要であり、自分のカリスマ性をひきたたせるのを充分に知っているのもオバマだろう。家族を何よりも優先するミシェルは、やがて夫に多くを望まないことを決める一方で、夫を上手に教育し、夫は調教された。まさに彼女は、ママ司令官だった。意志の強さは時に頑固さにもなりうるし、綿密な計画は拘束性という二面性ももち、和をもって尊しとする日本ではミシェルのようなタイプ完全にスポイルされるだろう。それでも、時々周囲をあわてさせるくらい率直に語る気さくな彼女は、両親から愛されて慈しみをたっぷり受けた女性がもつ魅力的なファーストレディであることに間違いない。

■こんなアーカイブも
『プライドと情熱 ライス国務長官物語』
「ヒラリー氏と”女”の大統領選」

「ランジェ公爵夫人」「金色の眼の娘」オノレ・ド・バルザック

2009-06-27 13:57:14 | Book
嘘かまことか、中沢新一さん情報によると、文豪バルザックは”こと”が終わると、抜いた×××が湯気をたてたまま寝室からでてきて、なべからコーヒーをすくって飲みながらまた小説を書いたくらいに精力絶倫だったそうだ。バルザックって、文豪なだけではなかったんだ。
先日観た映画『ランジェ公爵夫人』の内容が奥深く、これは是非とも原作にもあたらなければと考え、選んだのが藤原書店の西川祐子さんの翻訳である。「十三人組物語」の第3集に収められているのは、この他に「フェラギュス(禁じられた父性愛)」と「金色の眼の娘(鏡像関係)」。副題は訳者によりものだが、「ランジェ公爵夫人」には、そのものずばりの「死にいたる恋愛遊戯」だった。

女人禁制、男子限定秘密結社クラブ「十三人組」が活躍する拠点は、パリである。パリでなければならなかった。それは、彼らが21世紀のこの時代に生きていたとしても、攻撃範囲が世界中に広がったとしても根城は、なんたってパリなのである。王冠をいただくこの都会は、いつも妊娠中でおさえきれない欲望を抱く女王である。パリは地球の頭であり、才能と創造性をもつ芸術家にして物事を見抜く政治家でもある。パリでは、どんな上流の社会において女は女であり、へつらいと世辞と名誉心を糧に生きている。本物の美貌、素晴らしい容姿も賞賛なければ、何の役にも立たない。女の勢力証明は、多くの男たちを従がえることである。けれども、ただひとりの男の心の住人になる望みが叶わなければ、豪奢な社交界ですべての男たちの関心をひきつけることでうずめあわせ、そのため時間とお金をかけて化粧ときらびやかな衣装をまとう。これは、バルザックの皮肉でも女性蔑視でもない。死にいたる恋愛遊戯は、何代も前からパリに住む人々だけが楽しめる人生の特権である。

愛とは、お互いの愛情と変わらぬ喜び、快楽の交換、といった強い結びつきを含む。(産婦人科医のウィリアム・H・マスターズと心理学者のバージニア・E・ジョンソンによる実験は、ここでの快楽の交換のみに終始していたのだが、バルザックだったら彼らの生態をどのように筆をふるのか知りたいものだ。)所有は手段であって、目的ではない。情熱は、愛への予感であり、愛への永遠の予感であり、希望でもある。都合のよいことに、いくつもの”情熱”をもつことも可能であり、期待が消滅すれば情熱の炎も沈下し、次の機会まで、たとえ老いても種火を絶やさず潜伏する。ところが、精力絶倫だったバルザックですら、こう語る。
「だが、愛は、一生のうちにひとつしかないものである」と。
えーーーっ、たったひとつですかっ!!と、つい叫びたくなる日本の女の私は、本物の愛を知らないのか。
恋愛遊戯に身をまかせても決して女たるもの、夫に自分の落度をにぎられてはならない。公爵夫人のアントワネットの身の振り方を案じる老公妃は、恋の熟練プレイヤーとして彼女にアドバイスをさずけるのだった。

「金色の眼の娘」では、資産あり容姿も端麗で余計な係累のない花の独身男、アンリの恋愛の冒険談である。或る日、彼は太陽のように金色に輝く瞳の女性を街でみかけた。まるで男から恋されるためのように生まれたかのような理想的な容姿をもつその女性、パキタも純白のハンカチを落として彼を誘ってくる。これまで狙ったすべての女の城をあっけなく陥落してきた彼は、難攻不落な城に幽閉されているパキタをものにしようとあれこれ手を尽くす。ようやくコンタクトがとれて、目隠しをされて連れて行かれた部屋で待っていたのは、無口で貧相な老婆だったのだが。。。

本作のおける訳者の鏡像関係の副題は、さえている。アンリは美青年というよりも女にも負けぬ美貌の持主だった。偶然街で見かけたパキタほど、物語において”運命の人”はいないだろう。アンリが自分の人生と恋愛の危険を知るためには、パキタという恋愛に必須な美しいという形容詞だけのただの女が必要だった。ミステリー仕立てのようで、誰もが予測つかない結末に”性愛”の妙を読者に披露するバルザックは、確かに中沢氏が笑うエピソードも簡単に信じ込ませてしまう。しかも、このフランス産の上質なワインは「人間喜劇」のほんのセレクション。バルザックは、今だったら大食いの「テレビチャンピオン」に出場できるくらいたらふく食べ、莫大な借金に負われたが、残した遺産も莫大だった。フランソワーズ・サガンが18歳の時の処女作で「悲しみよこんにちは」を発表して364億円の印税を稼いだ時、「あなたの小説はバルザックよりかるい」と記者からインタビューされるが、比較するのは見当違い。超人バルザックは、恋の達人であるフランス人にとって偉人であり唯一無二の作家なのだから。幼い頃から母の愛情に欠乏して、多くの女性たちとの遍歴を重ねた「バルザックにおける女」をいつか別の機会に語りたい。
静謐で死者特有の輝きすら感じられるランジェ公爵夫人の遺体に、友人のロンクロールはモンリヴォーに「かって女であったあれはもうなにものでもない」と海に投げ込むことを提案する。こどもの時に読んだ本のように。物憂げにモンリヴォーは、その意見をききいれる。
「あれは、もう一篇の詩に過ぎない」と。
私が本書を読んだ動機は、最後のこの言葉だった。

■アーカイブ
映画『ランジェ公爵夫人』

「リスク 神々への反逆」ピーター・バーンスタイン著

2009-06-25 23:03:39 | Book
作家の林真理子さんの中年から熟年にかかるお仲間うちでは、最近離婚される方が少なくなったという。離婚した後の”リスク”を考えると、婚姻関係を継続した方がよいのが理由だそうだが、そもそも林さんのお仲間の方たちは、結婚後の暮らしぶりを予測してちゃんと相手のデーターを計算されて配偶者を選んでいる方たちばかりなのだろうから、そういう発想になるのかと妙に感心した。しかし、未来の配偶者との結婚までの助走は、その後のふたりの人生に比べればはるかに短いし、ほんの一口のティスティングと香りをかいだだけでワインを選ばなければならない。わずか30銘柄で構成されているダウ工業株指数が、何兆ドルもの家庭の資産や金融機関の富、場合によっては存続すらも決定してしまう。人生には、かようにさまざまなリスクが伴う、ものである。普段は全然意識していなくてもね。

リスクは、時間と表裏一体となって存在している。明日がなければ、リスクも存在しないし、時間はリスクの姿すらも変えてしまう。我々にとって意識しなくても、未来こそが、真のギャンブル場なのである。フィボナッチ数列を用いてその未来の予測が可能だと信じる者がいれば、確率論で株式をもてるリスクともたざるリスクを予測する者もいる。いずれにせよ、古代ギリシャ人の時代から、空の雲の流れのようにたえず変化する不確実性下における唯一絶対の答えなど存在しないことを理解していながらも、人々は過去を解釈することから、未来への予測へ渡る橋を絶えず考えてきた。本書は、リスクという概念の定義にはじまり、神のみぞ知る未来へのリスクを回避するために、嵐の中の海をすすむ灯台の明かりの如くさまざま手法を考えて貢献してきた天才たちの歴史的軌跡を語る。登場人物は、こんな人もと楽しませてくれるくらいに多彩で、哲学者としておなじみのパスカル、最終定理で350年以上も数学者の人生を奪ったフェルマー、彗星の名前で有名なハレー、数学者のガウスから、確率論のヤコブ、優生学研究に没頭したゴールトンなどなど・・・それらの系譜は、現代のブラック=ショールズに継承されていく。ひと言で本書の感想を問われれば、私の回答も本の帯にあるモルガン・スタンレーの投資顧問会社会長の「新しい古典」にぴったり一致する。ひとつひとつの物語とエピソードが機知に富んだ実験であり、

思うに、世界はほんの少しの幸福なサプライズと不幸なサプライズに満ちている。戦争、不況、民族紛争など、大きなサプライズから満員電車の中で足を思いっきり踏まれたりと、経験則をシュミーレーションしていても自分たちを待ち受けている事態に気がつかないものだ。しかも著者によると、リスク・マネジメントの科学は、古いリスクは制御できても、逆に新しいリスクを生む場合もある。シートベルトの着用が、攻撃的な運転を招くという調査もあるそうだ。パワーポイントで作成されたきれいに並んだ統計やグラフは、説得力もあり関わる人をなぐさめてもくれる。しかし、数字だけを頼る人は、リスク・マネジメントや意思決定に際して昔の「神のお告げ」がコンピューターにとって変わられただけだと思う。要するにケインズにならって、確実の重要性はそれを手引きに行動するのが合理的だと判断してはじめて派生するものであり、だからこそ確率が人生の手引きになりうるのだ。

「われわれの決定的に重要な局面において、神は人類に確率の薄明かりのみ与えた。けだし、この薄明かりさえあれば、神が我らに賜へた凡庸さと神に召されるまでの期間には十分だからである」
ロックのこの言葉は、名言である。
昨年来のサブプライム・ローン問題に対してリスク管理はいったいどうなっていたのかという関心から、家に積みっ放しだった本書を読んだのだが、著者のピーター・バーンスタインは、1940年生まれでハーバード大学を優秀な成績で卒業、銀行や投資顧問会社勤務などを経て、ポートフォーリオ専門誌の編集長を経験、現在はコンサルティング業を営み多数の著書がある。金融工学や計量経済学を学ぶ学生、金融関係に勤務されている方だけでなく、とてもおもしろく数学の苦手な方にも大丈夫!幅広い方にお薦めである。

*表紙はレンブラントの「ガリラヤ湖の嵐」

■この方もリスクを予測できなかった
グリーンスパン氏の過ち

渡辺謙が昭和の名刑事演じた『刑事一代』高視聴率を獲得

2009-06-23 22:17:42 | Nonsense
俳優・渡辺謙が、久しぶりにドラマ主演を果たしたテレビ朝日開局50周年記念ドラマ『刑事一代~平塚八兵衛の昭和事件史~』が20日(土)と21日(日)に放送され、それぞれ19.4%、21.6%という高視聴率(ビデオリサーチ関東地区 番組平均)を記録した。共に同時間帯トップの視聴率を獲得し、同局の『開局50周年記念』最後の作品として、見事有終の美を飾った。

 渡辺が演じた平塚八兵衛は、警視庁捜査一課で“落としの八兵衛”“ケンカ八兵衛”“鬼の八兵衛”など、さまざまな異名を持ち、その強烈なキャラクターは、これまでに数多くのテレビドラマで主人公刑事のモデルになってきたと言われている。手掛けた事件は殺人だけで124件にものぼり、“帝銀事件”“下山事件”“吉展ちゃん事件”“三億円事件”など、戦後事件史を飾る大事件のほとんどを担当した、まさに“伝説の刑事”といえる存在だ。

 渡辺自身も、今回の作品に特別な思い入れがあり「心の底から誇れる作品と出会えた」と語っていた。
(09年6月23日ニュースサイトより)

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先日、今野勉氏の「テレビの青春」を読んで近頃のテレビには観たいと思う番組がないっ!と嘆いたが、二夜連続の『刑事一代~平塚八兵衛の昭和事件史~』はすっかり真剣にテレビ画面に釘付状態にさせられてしまった。本気になれば質の高い番組を撮れるじゃん!渡辺謙氏が鬼気迫るくらいの迫力で演じた主役が、1913年生まれ、交番勤務を経て退職するまで刑事部捜査一課で最前線で活躍し、「捜査の神様」「鬼の八兵衛」「喧嘩八兵衛」と異名をとり、警視総監賞を94回も受賞した平塚八兵衛。在職中に扱った事件は、殺人事件だけでも124件というまさに刑事一代の男だった。(下山事件にも参加していた。)
その数多くの手がけた中でもドラマでとりあげたのは次の事件である。

①昭和23年1月26日、帝国銀行椎名町支店で東京都防疫班の名のる男が行員に毒を飲ませて現金を奪った「帝銀事件」。
②昭和33年9月11日、銀座そごうデパートの倉庫で警備員が刃物で刺され死亡した「警備員殺害事件」。
③昭和38年3月31日、東京都台東区の公園で当時4歳の吉展ちゃんを誘拐して殺害し、世間を震撼させた「吉展ちゃん誘拐事件」。
④そして事実上、刑事生活の幕ひきになった昭和43年12月10日、東京都府中市で三億円を積んだ銀行の現金輸送車が白バイ警官を装った男に車ごと強奪されて「三億円事件」。
いずれも昭和を語る事件である。

戦後の混乱と貧しさが漂う中、乗車している蒸気機関車の窓から洗った褌をなびかせて乾かしながら容疑者である平沢貞道を追う刑事たちの姿から、高度成長期を迎えて街に活気が溢れ、これまでにない組織的な頭脳プレーによる計画的な大事件へと、時代の変遷と日本の景色が実によく描かれていた。衣装、小道具、言葉遣い、髪型と忠実にほぼ完璧な昭和の再現だったのではないだろうか。凶悪な事件が日本人の記憶に刻印した昭和史を堪能したテレビ朝日開局50周年記念に全くふさわしいドラマの仕上がりである。これも、渡辺謙氏をはじめ、犯人役の小原保を演じた萩原聖人、脇を固める高橋克実らの熱演と名演技は称賛に価する。小原保の取り調べが終わって部屋に戻る時の片脚を引きずる痛々しい後ろ姿を何度も映し、罪を憎んで人を憎まない八兵衛の人間性にもせまる素晴らしいドラマだった。平塚八兵衛は、愚直な信念の名刑事だった。

閑話休題。
八兵衛の愚直さと信念は、多くの困難な事件を解決に導いていった。吉展ちゃん誘拐事件など、まさに彼の事件だった。しかし、刑事としての資質にさらに犯人への執着と思い込みが加わったらどうであろうか。ここで思い出したのが、ミステリー映画ベスト10に入る韓国映画『殺人の追憶』だった。将来を嘱望されるエリート刑事ソ・テユンは、犯人を憎むあまり”自分の中で”確信したあるひとりの青年に執着して彼を追いつめていく。反面、見えない犯人に彼もまた追いつめられていくそこまでの心象風景がこの映画の優れたところなのだが、本当に、あの青年が真犯人だったのかは最後まで謎であり、いまだに解決されない悲劇として韓国の人々の記憶に残されている。もしソ・テユンが視点と発想を変えたら、別のところに真犯人を見つけたかもしれない。八兵衛も帝銀事件では、犯人を平沢貞通と”確信”して徹底的に追いつめていったのだが、そもそもその捜査と尋問に無理があったのではないだろうか。その後、死刑囚となった平沢は冤罪を訴え、歴代の法務大臣が死刑を執行しなかったのも冤罪の可能性があるからだ。
(尚、『殺人の追憶』で91年に容疑者のDNA鑑定を依頼したのは、映画の中では米国のFBIとなっていたが、実際は日本に依頼したそうだ。足利事件の再審も決まったが、犯人に仕立て上げられた菅谷さんも同じ頃の精度の低いDNA鑑定で自白を裏付ける犯人とされていた。)
八兵衛の捜査方法が、時代の変遷とともに風化していったのもよくわかる。
「捜査の神様」と祭り上げられたが、全能なる神はいない。彼はあくまでも過ちもおかしやすいひとりの人間であり、刑事だった。だからこそ、最後の場面で小原が埋葬された土を抱く彼の姿に共感できるのだろう。

オーガムズ研究者の晩年

2009-06-21 15:35:02 | Nonsense
他の男のものになった初恋の女性を、51年9ヶ月と4日もの長い間待ちつづけた男がいた。
これは南米を代表するノーベル賞作家、ガブリエル・ガルシア=マルケス原作を映画化したマイク・ニューウェル監督の映画『コレラの時代の愛』の主人公、フロレンティーノの物語だった。ところが、米国にもフロレンティーノはいた。ブロンドの”運命の人”と再婚した彼は、「55年間、片思いをしていた」と有頂天で語っていたという。それでは、この米国版フロレンティーノは稀なるロマンチストかと思えば、執着心はフロレンティーノに勝るのだが、前妻との交際期間と結婚生活をあわせた32年間はむしろ冷徹な科学者としてのSEXライフだった。彼は、カメラを内蔵した人工ペニスを使ってまで性行動の探求に人生を捧げた科学者だった。

「NEWS WEEK」の伝記の記事で知ったこの偉人?か奇人の名前は、ウィリアム・H・マスターズ。そして、彼と同じく科学者として実験に参加したのがバージニア・E・ジョンソン。ふたりは「研究室での観察結果の理解を深めるため」に、全く精神的な繋がりが皆無な結婚生活を22年送った。

アンドルー・ロマーノによる記事は、著者トーマス・マイヤーのマスターズとジョンソンの伝記『セックスの権威たち(Masters of Sex)』の書評から戦後最大の性行動研究が残した遺産への考察と奥の深い文章である。記事によると最近の米国の高校生の性交渉の体験者は約30%と、91年の半分以上が経験者という数字から初体験が遅くなっているそうだ。それに伴ってであろうか、10代の妊娠も激減し人工中絶も低下している。80年頃の「フリーセックス」という言葉よりも、彼らは「愛のないセックス」に興味を示さずに責任あるセックスというカタチで対応しているというのが、記者の分析である。

それは兎も角として、心底驚いたのが彼らふたりである。
ウィリアム・H・マスターズは産婦人科医であるが、心理学者のバージニア・E・ジョンソンを前述したように研究のためにとくどいて?、32年以上もの性交渉を続けた。推定14000件ものオーガズムの観察例を集めた研究をはじめた57年当時は、米国民の性知識は限られたものだった。確かに映画の『愛についてのキンゼイ・レポート』によるとようやく50年前後にキンゼイ・レポートが公表されて米国中は大騒ぎになったのだ。二人が出版した66年の「人間の性反応」と70年の「人間の性不全」によって、米国人はようやく性行為の”基本”を知る機会をもったのだから、彼らの私生活の実験と実技がもたらした功績は確かに大きいのだろう。しかし、感情の伴わない動物的なSEXの”現場”を、やがてマスターズは快楽の伴う「相互的な自慰行為」としてのベットと考えるようになった。たとえ行為そのものが男女間にとりあえずのエクスタシーをもたらしても、それは苦い一瞬の悦楽しかないのだろうか、性の解放を探求したふたりは冷たいベットから離れて離婚、その後それぞれの伴侶を見つけて伝統的な夫婦として再婚生活をはじめる。マスターズは、初恋の女性と半世紀を経て結ばれた。
悲しいのは、「愛とセックス」を切り離して長年考えつづけたジョンソンの方だ。3度の離婚を繰り返し、最後は老人ホームでかってのパートナーへの恨み節をもらすのだが、名のる姓が「マスターズ」だったという。
「NEWS WEEK」には、1969年当時のミズリー州セントルイスを拠点に夫婦と面談するふたりの白黒写真が掲載されている。白衣のせいか、どこか冷徹な印象を感じるのは私だけだろうか。

■アーカイブ
映画『愛についてのキンゼイ・レポート』←これはお薦めです!

樫本大進さんがベルリン・フィルのコンサートマスターに

2009-06-19 12:00:34 | Classic
ベルリン・フィルハーモニー:コンサートマスターに樫本さん就任へ
-2代続け日本人


「ドイツの音楽関係者によると、世界の最高峰のオーケストラ、ドイツのベルリン・フィルハーモニーのコンサートマスターにドイツ在住のバイオリニスト、樫本大進さん(30)の就任が内定した。ベルリン・フィルの日本人コンサートマスターは3月で退任した安永徹さんに次ぎ2人目。ベルリン・フィルでは安永さんの後任を募集、世界第一線のソリスト数人が最終候補に残り、審査を受けていた。樫本さんは9月から今後約1年、試用期間として同フィルでコンサートマスターを務め、団員の3分の2以上の賛成を得てから完全な契約を結ぶことになる。樫本さんはロンドン生まれ。3歳からバイオリンを始め、ドイツ・リューベック音楽院でザハール・ブロン氏に師事。ケルン国際バイオリン・コンクール、ロン=ティボー国際音楽コンクールなどで優勝。(09年6月19日毎日新聞)

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おろろいた!(←「驚いた」とは微妙にニュアンスが違うので)
樫本大進さんの実力を考えれば世界最高峰のベルリン・フィルのコンサートマスターに内定するのも驚きに価しない。東洋人への差別もなく、日本人音楽界のめざましい活躍ぶりと実績を考えれば、安永徹さん就任時の”事件性”はもはやない。どうして驚いたかというと、樫本さんと言えば、ザハール・ブロン門下生の3兄弟の三男坊。長男のワジーム・レーピンや次男のマキシム・ヴェンゲーロフと同じように、ソリストととしての王道を行くのだ思っていた。それが、ベルリン・フィルとはいえオケのコンマスに!?樫本さんが、ベルリン・フィルをバックにソリストとしてコンチェルトを弾く姿を想像していたが、今後はコンマスの席に座る。ビクトリア・ムローヴァが金髪、革の服で登場して以来の私にとっては驚きであり、だから私にとっては”事件”なのだ。

送られてきた高校の同窓会報の最新号の表紙に、母校出身の樫本さんとほぼ同世代のある男性ヴァイオリニストの写真とインタビューが掲載されている。
偶然、彼が学生の時受賞した時の音楽コンクールの予選を聴いていたのだが、その後、彼は藝大から米国や欧州に留学して、今は地方オケのコンサート・マスターに就任している。
彼によるとコンマスのお仕事は「指揮者とオーケストラを繋ぐ中間管理職の要素があるが、ソロやカルテットではできないスケールの音楽ができる」そうだ。大学在学中は、コンマスというのは頭になかったが留学して勉強をしているうちにコンマスもやりつつ、オケから声をかけていただき就任したとのこと。
コンマスのメリットとして次の三点がある。

①経済的な安定・・・ソリストになれれば高額な報酬を受け取り、世界中を飛び回り自由に好きな音楽だけ演奏できるというイメージだったが、不況になればなかなかそうもいかないのかも。

②出会いが増える・・・いろいろな人と知り合ったり、いろいろな人の演奏を間近で聴け、指揮者のいろいろな音楽を感じられる

③コンマスをしていると他からのオファーもはいる

彼にとっては結果、プラスになることが多いということだ。現在、彼は半分をオケの仕事で地方で過ごし、半分は東京でカルテットやデュオの活動に加え、リサイタルや初のソロアルバムもリリースと今後の活躍が期待される。
それでは、樫本大進さんにとってもコンマス就任のメリットは。
毎年のように世界的なコンクールの覇者が現われ、競争が激しく百花繚乱状態のヴァイオリニストたちの中で、ベルリン・フィルのコンマスということで世界的にも知名度は一気にあがった。音楽界だけではなく、これで国内では幅広く経済産業界にも彼の名前は認知されるだろう。華やかなソリストととしてのイメージはなくなるかもしれないが、経済的な安定のもと地道にソリストととして音楽の本質を追求した活動ができる。唯一心配なのは、時間の制約がでることではないだろうか。地方オケのコンマスのオファーを承諾した某氏のポイントは、コンマスが3人いて時間の拘束が少ないことだった。なんとなく、最近の若者は車を買わないという動向を思い出した。
ザハール・ブロン氏に育てられ、ドイツ音楽の真髄を理解するためにドイツ人に学びたいとフライブルク音楽大学に移り、ベルリン・フィルのコンサートマスターを務めていたライナー・クスマウルに師事して研鑚してきた樫本大進さん。ベルリン・フィルの第一コンサートマスターになるのは、自然の流れだったのかもしれない。そして、バルリン・フィルにとってもメリットがあるはず。いずれにしろ、これからは樫本大進さんのもう一つの顔を私たちは楽しめることになるのだ。
*チケットを買えない方に朗報、ネットで見ることができるそうだ。
詳細は、JIROさんのブログでご確認を。(JIROさん、リンクの件、ありがとうございました。)

■先輩の軌跡
「コンサートマスターは語る」安永徹著
ベルリン・フィルを退団する安永徹さん
映画『ベルリン・フィル 最高のハーモニーを求めて』

「六本指のゴルトベルク」青柳いづみこ著

2009-06-18 21:50:49 | Book
「ETUDE」のromaniさまが面白すぎると絶賛されている「モノ書きピアニストはお尻が痛い」と同じ著者、青柳いづみこさんの近著が本書である。文章も書けるピアニストから、経歴もりっぱにピアニスト・文筆家に昇格された青柳いづみこさんは、作家活動にも益々旺盛にとりくんでらっしゃるようだ。タイトルから察するに、ピアノに向かえば固めの椅子に腰掛け、モノを書く時も椅子に座り、痔主にまで昇格してしまうのではないかと余計な心配をしちゃうのだが、「六本指のゴルトベルク」も主にミステリー小説に主にクラッシック音楽をかけあわせた全部で30の小品ながら、どれもこれも鍵盤をなめらかに転がる白い指(『羊たちの沈黙』のレクター教授は指が六本あった!)のように、筆ものりのり実に冴えているのだ。それもそのはず、青柳さんは今話題沸騰中の村上春樹さんの書評を雑誌から頼まれて、二週間でほぼ全作品読破したという読書家なのだ。ピアノを弾き、文章も書き、生徒にレッスンをして、、、と何足ものわらじをはく多忙な身の上なのに、と私も時間の使い方を見習いたいくらい。

閑話休題。
音楽のエッセンスをふりまいた作品にアプローチした青柳さんの文章は、そのまま恰好の読書案内でもある。当然、とりあげる本の登場人物には、ピアニスト、ヴァイオリニスト、指揮者と、実物、架空の人物を含めて音楽関係のお方たちが中心となっているのだが、思うに元々奇人変人が多い音楽家を主役にしているなら、それでおもしろくなかったら作家の力量不足というもの。それを考えると、企画者の発想はいいところをついているし、青柳さんに執筆依頼をされたのも大正解。映画でも五感を充分に開いて観ているミヒャエル・ハネケ監督の『ピアニスト』やジェーン・カンピオンの『ピアノ・レッスン』すらも、青柳さんの調べで深く音楽的にほりさげられると、原書も読んでみたくなってくる。まして、タイトルすらしらない本になると、実際のピアニストや歴史上の音楽家のエピソードをからめてフィクションにも現実の重みとドラマがかぶさり、ドラマチックで深層心理の彩も複雑で深く、読書意欲をおおいにそそられる。そして、フィクションなのに自身のピアニストとしての体験を重ねてたとりあげた本や主人公達によせる著者の感想は、ちょっぴり苦くもありせつなくもある。音楽家の道のりは、仮想世界でも現実世界でも厳しく険しい。このセツジツさは、名著「ボクたちクラシックつながり」が、ここでもつながっているような気がする。

けれども、幼い頃から完璧な演奏を求められ、『ピアニスト』のエリカのように強迫観念にとりつかれて自傷行為をくりかえし精神が崩壊していくさまに同じくピアノ弾きとして共感しながらも、「音楽の力」を信じている。ペルーの日本大使公邸人質事件を取材したアン・パチェットの「ベル・カント」では、パーティに招待されていたオペラ歌手のロクサーヌもテロ事件にまきこまれる。女性は解放したテロリストたちも、ロクサーヌだけはたてこもった館に監禁状態で手離さない。何故か。テロリストたちも、人質たちも、想いはロクサーヌの歌声と、高い声域のもつ甘い輝きに向けられた。ほどなく、一日が三つの時間にわかれるようになった。
「彼女の歌を待つ時間、彼女の歌に聴きほれる時間、そして彼女の歌を待つ時間」
さてさて、この続きはどうなったのか。原作の力のあるのだろうが、伴奏者のリードもうまいのだ。

■語るピアニスト
「ピアニストが見たピアニスト」
「ボクたちクラシックつながり」

『お買もの中毒な私!』

2009-06-16 22:36:46 | Movie
6月も半ばを過ぎると、なんとなく気持ちがそわそわしてくる。白状してしまうと、、、私の弱点は「SALE」の4文字。。。お気に入りのお店から早々に届いた前倒しのSALEのご案内のはがき。待ってました!とばかりに、残業対策を自主的に敢行して、明日はお目当ての戦利品ゲットを目標に、5時にベルダッシュするぜぃ!!安くなったから、お得だもん、自分へのプチご褒美、買い逃しちゃ損、ボーナスが入ったから、今度の合コン用、見栄えを整えるのは女子の武装?この服はまさに自分のためにデザインされたみたい!、なんちって、ジョシがお買物をする理由(言い訳)はい~くらでもある。
「お買もの中毒な私!」
いやいや、私はレベッカ・ブルームウッドほど中毒患者にはなっていない。

レベッカ(アイラ・フィッシャー)は、一流ファッション雑誌の記者を夢に、とりあえず園芸雑誌でちまちま文章を書いている乙女。彼女の趣味は、ストレス解消もかねたお買物。毎日の如く、理屈をつけて無計画にショッピング三昧。るんるんとショッピング・バックをいくつもさげて、支払にすすむとカードの利用限額オーバーの無常さ。すわ、一大事!おまけに自宅に帰った彼女に届いたのは、1万ドルを超過する支払請求書だった。自己破産寸前のレベッカは、一念発起してファッション誌「アレット」の面接試験に挑むが、何故か同じ出版社の難しい経済誌の面接に成功して採用される。場違いなファッションで会議に出席する彼女は飛び交う意味不明の経済用語にあせるのだが、いち消費者の視点で書いた記事が意外にも大評判!おまけになかなかいい男の編集長の信頼までえるのだったが。。。

映画では、NY在住の25歳のレベッカのアパートの部屋も舞台として登場する。10畳のワンルームほどの狭い部屋に大量の服装や靴が氾濫する様は、そうそう我が国でも誇る「着倒れ方丈記」にそっくりではないか。但し、「着倒れ方丈記」に登場する彼、彼女たちは、お買物というよりもそのブランドにほれてしまったある種のファッション・フリークで所有することに価値を見出しているのだが、レベッカはファッションが大好きで単なるお買物大好き人間である。”お買もの中毒”というタイトルは、実に微妙なつけ方だ。”買物依存症”だったらどうであろうか。実際、ここまできたらレベッカも映画に登場する自助グループのメンバーと同じ依存症だろうが、”お買もの”という表現で、ちょっと可愛い許される範囲の女の子限定の弱点におさまっている。それに、セールに突撃するレベッカの気持ちもわからなくもない。

そして彼女の前に登場する編集長のお決まりの王子さま。こんな条件のよい男性と即いい雰囲気に?なんたるご都合主義と言ってしまえばそれまでだが、レベッカのポップでフランスのシックさとは異なるあかるいポシティブなファッションは見ているだけで楽しめるし、編集長(ヒュー・ダンシー)のような生真面目なタイプは、案外知性的な女性よりも自分にパワーをくれる豆タンク系の彼女みたいなタイプに弱いかも。ここで映画『プラダを着た悪魔』のファッションを担当したパトリシア・フィールドがレベッカのために用意した衣装は、殆ど渋谷の109で選んだものだそうだ。確かに映画の物語としての彼女の行動と発想の転換を考えると、ブランドとしては協力しにくいだろうが、レベッカ役のアイラ・フィッシャーは背が低めで胸が自己主張するようにふくよか、元気印の渋谷系ファッションがとてもよく似合っている。唯一、レベッカが着るドレスのブランド名として登場するサン・ローランがあのようなカタチで協力しているのは、大恐慌と言われる景気の中でなかなかの余裕ではないか。

ところで、アメリカ人は消費者天国の国でる。ゴミ袋に大量の古着をリサイクル・ショップにもっていくのに、帰ってくる時は、再び大量の古着を購入した袋を下げているという話を読んだ記憶がある。お買もの大好きなのは、むしろ珍しくないのだろう。レベッカのパパの体格のように、無駄な贅肉を買い込んでいるのもアメリカ人だ。トーマス・フリードマンの「グリーン革命」を読んだのだが、さまざまな分野の科学者によるエネルギーに関する報告書「インターアカデミーカウンシル(IAC)」によれば、人間が生きるために必要なエネルギーは、一日2000ないし3000カロリーだそうだ。。ところが、アメリカ国民の一人当たりのエネルギー消費量の平均は年間3500億ジュールで、一日あたり23万キロカロリーに相当する。ひとりのアメリカ人は、人間が生物として必要とするだけのものを100人分消費している。(日本のような他の先進国では50人分の生命維持のカロリーを消費している。)別の視点から考えると、フリードマンには悪いが世界経済はこのようなアメリカ人の大量消費、浪費に支えられている。

だから私は言いたい。レベッカがショッピングの時間をフィンランド語の学習にあてるのは、けっこう。グリーン革命も大事だ。けれども、みんなが質素にお買ものをやめてしまったら、この未曾有の不景気はいったいどう回復するのだ。「もったいない」という単語はアメリカ人の辞書にはないはず。
だから、レベッカはおしゃれでお買いものが”ちょっと”好きなレベッカでいて欲しい。かくして、私もやっぱり「SALE」に走る・・・べき?

監督:ウィリアム・ゴールデンバーグ


■アーカイブ
「着倒れ方丈記」
『プラダを着た悪魔』
・「着るものがない!」中野香織著