千の天使がバスケットボールする

クラシック音楽、映画、本、たわいないこと、そしてGackt・・・日々感じることの事件?と記録  TB&コメントにも☆

民主主義の夜明け

2005-01-31 23:04:37 | Nonsense


朝日新聞元次長に無罪 義足調整を誤認の可能性 (共同通信) - goo ニュース
はたして未必の故意ともいえる猥褻行為だったのか、それとも判決どおり女子高生の予断と偏見だったのか。

元次長は酔ってバスの最後部座席で、義足の調節をしていたらしい。しかも下半身を露出して。「下半身露出」→ということは、下着もさげちゃっていたのだろうか、そうでなくてもバスの車内でズボンを下げた時点でたとえコートに隠したとしても、義足の調節を痴漢行為と誤認されても仕方がないのではないか。先入観を植え付けられてしまうほど、女子高校生をはじめとして女性が痴漢の被害にあうことが多いのである。
そんな偏見をもたらした元次長にも罪がある。
配慮してコートに隠すなら、バスに乗る前に義足の調節をすべきであろう。

と怒りつつも、本当に語りたいのは、イラクに民主主義を確立する政治プロセスとなる暫定国民議会選挙の投票が行われたことだ。当然ながら、自爆テロや銃声が聞こえても米国は、高い投票率に達しそうなこの選挙を自由と民主主義への発展と高く評価している。
民主主義とはなにか。自由とはなにか。
正しい少数派の意見も大衆の多数の論理にのみこまれることなのか。
自由とは、米国の傘のしてでみる希望なのか。
口あたりのよいご馳走をいただいているうちに、どこかの大国の支配化におさまっていた、なんてことにはならないように。
複雑でモザイクのような民族であやどられるこの地において、本当の民主主義が根付くのは簡単ではない。

   民主主義とは国民が政治に参加する最悪の方法である。しかし、それ以外に国民が政治に参加する方   法を人間はまだ見つけていないから。

          ―by チャーチル



メロスフィルハーモニー第11回演奏会

2005-01-30 16:42:24 | Classic
私は基本的にはアマチュアオケに足を運ぶことはない。但し、知人が出演しない限り。
それは、観客として求める音楽に対するポリシーに所以する。
近年こうしたアマチュア演奏家たちの音楽会に接する機会がふえるにつれ、いろいろ感じ、考えることがある。

それはともかくとして、このメロスフィルの演奏はフレッシュで、アマチュアにしてはレベルが高いので充分に楽しめる。つまり指揮者の技量もあり、日本の音楽教育も成熟期に入り、アマチュアで学生だったり、趣味として楽器演奏をたしなむ者の中にも技量も高く、音楽的な素養のある人が増えた結果なのだろう。

1曲目の歌劇序曲が集中力に欠けていたが、次のハイドン「ロンドン」を聴いた瞬間、霧のたちこめるイギリスにいるような気分になれたのは、存外に幸福だった。重さと、優雅さと、しめりけのある名演奏だった。
モーツアルトの「ジュピター」は、私自身がクラシックを聴くきっかけになった曲である。今でも大学の生協で、この「ジュピーター」を購入した時のことは覚えている。そして音楽とは無縁な環境だったにもかかわらず、もはや音楽のない人生は考えられない、そんな転機になった思い出の曲でもある。中田さんのモーツアルトは、彼自身の前途を祝福するかのように若々しく、明るくテンポ感の溢れる演奏だった。その分、私が感じるモーツアルトに必要不可欠と考える哀しいほど透明な美しさと優雅さに欠けてしまったのは残念だが、それはそれで別の表現に触れる良い演奏会だった。

どらえもんののび太君が大人になって、静ちゃんと結婚して故障したどらえもんを修理するためにロボット工学者になったとか。そんなエピソードを思い出す風貌をもつ中田さんだが、今後ヨーロッパに留学して指揮の勉強をされるとか。益々音楽家と成長されることを期待したい。

http://orchestra.musicinfo.co.jp/~melos/

**********2005年1月29日三鷹市芸術文化センター風のホール***************************

1 W.Aモーツアルト 歌劇「皇帝ティトゥスの慈悲」序曲K.621

2 J.ハイドン   交響曲第104番 ニ長調 「ロンドン」

3 W.Aモーツアルト 交響曲第41番 ハ長調K.551 「ジュピター」

 アンコール

* J.ハイドン   交響曲第1番1楽章 


Gackt等身大フィギュアをオークション

2005-01-29 22:34:53 | Gackt
2004年12月26日スマトラ沖地震被災者への支援目的として、Gackt等身大フィギュアをチャリーティオークションにかけ、その売上を被災者に寄付

*********************************************************************************
いったいマジでどのようなお方が、どんな目的でこんな萌えるオークションに参加されているのだろうか。

①宣伝広告
②偏愛
③鑑賞用美術品
④投資目的

①私が会社やお店を経営していたら、落札したい。現在の入札価格は131万円だが、制作費に比べたらけっして高くはないだろう。但し、今のところは。話題性を考えたら広告費としては安いし、経費で落ちるからもっと高値でも充分ペイできる・・・はずだが、最終日2月14日にはいったいいくらの値段がつくのだろう。

②女性のGacktファンだったら多かれ少なかれ、あの人形をマイ・ルームに飾って鑑賞したいという”所有欲”はあるだろう。あまりにも怖い事実だが、自分の気持ちの中にも確かにある。変態と世間に誹られても、いいじゃん!と居直れる勢いもある。が、しかし、もし落札できたとしても、所詮人形は人形。
所有した時に、本物の生きているGacktとの距離にたまらない寂しさを感じるだろう。

③一番気持ちのうえでは、この目的には共感できる。何しろ、顔よりカラダ派の私としては、Gacktは芸術品ともいえる存在だ。

④今後のGacktの更なる活躍を予想し、投資目的に購入する。活躍と希少性で年月とともに都心地価より高騰する可能性が高いから、投資目的としては、好物件ともいえそうだ。ただし、元本割れのリスクもあるということは、きちんと理解しておこう。

さあ、あなただったらいくらの値段をつける?

http://auction.excite.co.jp/user/896641

さて、こんなに盛り上がっている義援金やら、セレブな方達の寄付金だけれどそのありがたいお金は有効活用されているのか。

たとえばインドで最大の被害者は、「ダリッド」と呼ばれる最下層の住民たちだ。職業を固定するカースト制度のために職業もかえることができず、仕事を奪われた猟師達は、行政からも見捨てられ、海外からの救援物資も届かない状況だ。それにもかかわらずインド政府は国連安保理事常任国入りをめざすために、海外支援に頼らない政策をすすめている。
根本的にこのような時代にもまだ身分制度を残しているこの国に、安保を語れる資格があるのだろうか。

Gacktさん、気持ちをみせることはお金を寄付することではないと私は疑問に感じているのだが。

「ノーベル賞経済学者の大罪」

2005-01-27 22:46:29 | Book
経済学におけるレトリック専門家、ディアドラ・N・マクロスキーが”ありったけの愛で”クライン、サムエルソン、ティンバーゲンらノーベル経済学賞受賞者をしかっているのがこの著書である。あかたも、そう、まさに著者曰くお砂場遊びに興じる甥っこらを見守る叔母の気持ちで。

計量経済学における統計的有為性の間違った使用、理論の繰り返しによって世界の諸事情を見失っている現実(世間でエコノミストの予測はアカデミックで正論だが、あたらないといわれているのと同じことかな)、そして近年隆盛を誇る社会工学の思い上がりを、ディアドラ叔母さんは厳しく、しかし包容力たっぷりに経済学者たち男どもをおおいにしかっているのである。その語り口は饒舌なおばさまそのものである。但し、その装飾にまどわされていたら、著者の主張の本質をつかめない。果たして「市場主義」万能時代は人々に幸福をもたらすのであろうか。

  

訳者の赤羽さんの、語り口をおねえ言葉で統一した決断には感服するが、本屋で平積みされていたくらいであるから、その作戦も成功したのだろう。現場のビジネスマンの感想を聞きたいものである。

最後に、最も特筆すべきは妙齢の金髪ディアドラ叔母さんの経歴である。女性エコノミストは世界中見渡しても殆どいない。だから本のカバーのディアドラ叔母さんの色っぽい写真には思わず興味をひかれた。次に、経歴を読んでたまげてしまったのは私だけだろうか。
Deirdre N.McCloskey:1942年生まれ。53歳で男性から女性に性転換する以前の名はドナルド。アイオワ大学教授を経て、現在、イリノイ州立大学シカゴ校(University of Illinois at Chicago)文理学部教授。専門は経済学・哲学・歴史学
なんと叔母さんは髭をはやしたドナルドおじさんだったのですかっ。
もしかしたら、この本よりも「性転換―53歳で女性になった大学教授」文春文庫
こちらの方を読むべきだったのかも。

プライドか単なる意地か-朝日新聞VS「NHK」

2005-01-23 17:55:19 | Nonsense
NHK「朝日の報道は歪曲」「回答誘導する取材」 番組改変特集記事 (産経新聞) - goo ニュース

天下の公器NHKと左翼系インテリに好まれる朝日新聞が、平成13年に放映された「戦争をどう裁くか」という番組で政治的介入による番組改変があったという朝日新聞側の報道とNHKの事実無根の誤った記事という主張、両者のバトルが続いている。どちらも一歩もひかない激しい争いは、報道する使命を問われる今回の騒動だから当然である。しかし、何故かさめているように見受けられる国民の反応は、もはや両者ともにそのジャーナリズムの精神が滅びつつあると感じているからだろうか。

エビ様などと小ばかにした通称で称される海老沢会長を始めとする昨年からのスキャンダルが続く、公営放送であるNHK。
全職員(1万2千名)に占める報道局員は1千59名、それにもかかわらずNHK発信の国際放送が海外メディアで相手にされない屈辱的な現状はどういうことか。ただの報道機関から、自己の意見を主張する言論機関への転身が今後は必要なのかもしれない。事実の羅列だけでは、海外ではもはやジャーナリストとしては受けないのである。
それから紅白歌合戦での視聴率に一喜一憂するのは、もうやめよ。
以前のように、”お茶の間”で家族みんなでテレビを楽しむ素朴な時代ではないのである。暮らしの豊かさと情報量が増えるにつれ、人々のライフスタイルや価値観、興味の範囲も驚くほど多様化しているのである。国民の大半が同じ娯楽番組を観ていたとしたら、それも変だと感じる世の中なのである。民放のようなスポンサーのために、視聴率をとるためだけにつまらない番組を垂れ流す必要はないではないか。

正直いって、私は朝日新聞が好きだ。文章がうまいし、冴えている。教養も感じられる。
けれども北朝鮮問題で偏向的な左よりの記事で読者の信頼を失いつつあるのではないか。ちょっとなんだかおかしいぞ。それに今はインターネットで、無料で多くの情報を得られ、しかもそれぞれを比べることができる。これだけの洪水のような情報社会にいたっては、新聞の存在価値そのものが問われているのである。これは朝日新聞に限ったことではないが、長崎県佐世保市の小学生の事件のとき、被害者の感情を配慮して実名を報道しなかった児童の父親の勤務先の新聞が、何故同じ日の自社の週刊誌広告の見出しに実名と顔写真を載せたのか。

どちらも報道する者としてのプライドがなくなったということか。



「ビッグ・フィッシュ」

2005-01-22 16:05:13 | Movie
ティム・バートン的な奇妙な夢のあるファンタジーと感動できる者は、かなりこの映画を気に入るだろう。
大男、歌う双子の姉妹、小柄なピエロやサーカス、おまけに水仙の花畑が良く似合う妖精のような後に妻になる女子学生。

美しい映像とともに語られる死の病にふせる父親のホラ話が、帰郷した息子の脳裏によみがえる。あのサーカスでの話や、不思議な街、戦争中の冒険談、成人してビシネスの世界に生きる息子はそんな父親を嫌悪していただが、あることをきっかけに父を、本当の父親に出会う旅にでることになる。

一人の男の人生と家族愛を、このような手法と映像で撮ったティム・バートンはやはり監督としての奇才に溢れているのだろう。けれども、その世界に入れない私にとっては、ファンタジーも愛も感じることができなかった。女性には入れない男たちの自己愛。ジェシカ・ラング演じるあまりにも理想的な妻の像に、彼の妻となったヘレナさんは応えることができるのかと余計な心配もした。

「ビッグ・フィッシュ」*********************************************************************


監督:ティム・バートン
原作:ダニエル・ウォレス
出演:ユアン・マクレガー アルバート・フィニー ビリー・クラダップ ジェシカ・ラング 

あたたかい人柄の善良な方々にはお薦めのライトボディのワイン。
シニカルな方には少々甘めでお口にあわないお菓子かも。

「科学の最前線で研究者は何を見ているのか」

2005-01-21 23:44:54 | Book
新たな時空の旅へ

ナビゲーターである瀬名秀明さんのこのようなタイトルの前書きから始まるこの著書は、読者が日本人の(←ここがポイント)18人の研究者達が何を考え、何のために、何を研究して何処へ行こうとしているのか、一緒に時空への旅をする物語(←ここもポイント)である。

まず最初のポイント===日本人であること。科学の世界は世界共通でもあり、西洋的な価値観の中から科学の方法論ができているが、日本人の価値観が独創的な研究が生まれることもある。また日本で研究している意味を考えている研究者が実に多い。
この点に関しては、「環境がつくった文明と科学」で安田喜憲さんが科学革命が何故西洋でおこったのかという話がおもしろい。ヨーロッパは麦作農業で稲作よりもはるかに手入れが簡単なので、あまった時間を利用して地主達が都市に集まり、市民社会が成熟して科学革命が芽生えたという説である。

物語===次に安田さんは学会発表や論文などで「物語」と言われるのは評価が低いことだが、物語は必要であると力説している。A~Bの事象を結びつけるためには物語が必要なのに、それを拒否したから日本の科学は面白くなくなった。
科学には客観的な事実と正確なデーターの膨大な積み重ねのうえに華開くものであろう。しかし事実と事実をつなげるには独創的な物語をつくる能力も大事なのではないか。門外漢の発言ではあるが。

最後に真理ははたして存在するのか。
「宇宙に残された96%の謎」で佐藤勝彦さんが、科学博物館設立準備の会議のとき、「宇宙の謎を解き明かす真理を探求している」という話をしたら、生物学者から「真理なんてものは存在しない。我々はあくまでも自然のメカニズムや機構を調べている」と反論されたらしい。
真理というのははたして存在するのか否か。
これはもはや解答のできない永遠のテーマーであろう。
物理学者のロマンと生物学者の形而下的な考え、これも科学なのである。

米国は普通の主婦がスーパーで科学雑誌を購入する国でもある。
科学の最先端と一般の人の橋渡しをする結果となった良質な本なので、売れるといいなと願っている。
そうそう、瀬名さんの増加した体重に、お仕事の充実ぶりを連想するのも科学的な物語、としておこう。

韓国映画「我が心のオルガン」

2005-01-19 22:59:51 | Movie


なんともだっさいタイトル、、、ではある。
それもそのはず、1960年代の韓国の農村を舞台に、ソウルから赴任してきた新米のカン先生(イ・ビョンホン)を中心に、彼が想いを寄せる同僚の美しい年上の女性教師ヤン先生(イ・ミヨン)、カン先生に恋をしてしまった家庭の事情で17歳にして小学校に通学するホンヨン(チョン・ドヨン)、そして個性的な教師たちやわんぱくなこどもたちがくりひろげる一年間の小さな小さな物語である。

どこか遠くで観たようなのどかな景色、どこかで聴いたようなオルガンの調べ、おまけに新米の先生にいたずらをする手口や運動会、学芸会の様子はかっての日本の生活によく似ている。ここには南北朝鮮問題の悲劇もない、行き過ぎた学歴社会ゆえの入試カンニング事件もない、テレビも勿論インターネットもない、ただ善良で素朴な人々のつつましい暮らしと生活だけが寄り添うようにあるだけだ。

しかも純朴で誠実なカン先生、毅然とした態度で自らの教育理念を通すヤン先生の気高い佇まい、恋をしているという自覚もない一途なホンヨン、あまりにも定番な人物描写と物語なのだ。それにもかかわらず、最後まで弾むような想いとせつなさを味わったのは「初恋」というものが何処の国でもどんな時代でも普遍的な人間の感情であるということ、そして当時26歳にして17歳の小学生を見事に演じたチョン・ドヨンをはじめとした韓国の俳優たちの演技力にみせられたためだろうか。
(イ・ビョンホンのファンだったら下宿先の庭でこっそり下着を大急ぎで洗濯していたところを、人のよいおかみさんに見つかってしまい、洗濯物をむりやりとりあげられてしまった場面などは必見である。)

さて、彼らの恋の顛末はどうなったのか。
それは一枚のLPレコードに象徴されている。
そして最後の最後まで、楽しめる映画でもある。

「我が心のオルガン」1999年******************************************************

監督:イ・ヨンジュ
出演:イ・ビョンホン、チョン・ドヨン、イ・ミヨン

韓国映画の好きな方、お試しあれ★

B型女は嫁にくるな

2005-01-17 23:13:56 | Nonsense
なんですと~~っ。
地下鉄の中吊り広告の週刊「AERA」の見出し。
こんなあざとい客引きをするような雑誌だったのか、「AERA」は。
そんな見出しに吸い寄せられるように誘われ、手にとり立読みしたきた自分も情けないが、B型人間としてはこのようなヘッドコピーはやり過ごすことができなかった。(と、言い訳)

にわかには信じ難いが、B型人間がその血液型判定による性格が災いして、世間から迫害され、斬られているとの記事。公器である朝日新聞を母体としている雑誌だから、血液型と性格には科学的に相関性はないと最後にはきちんと説明しているが、大真面目に特集するほど血液型による性格判断が日本のみならず、お隣韓国でも信じられているらしい。初対面の方とコミュニケーションをとるために血液型の話をすることはあるが、こんな非科学的なことは信じていない。簡単に信じる人が不思議である。

「AERA」でも信州大学の菊池聡さんの談話が紹介されていたが、「科学の最前線で研究者は何を見ているのか」という著書でも、『ひとはなぜ「あんなこと」を信じてしまうのか』というテーマーで、瀬名さんと対談している。***********

二つのことが同時に起こったらなんらかの因果関係があると感じる(随伴性)のが人間の脳の自然の摂理であり、その働きによって人は進化した。(例:真っ赤に燃えているものを触ったら熱かった、これは危ないというような学習行為)しかしこの効率的なシステムが、ジンクスのような誤った信念も生んでしまうことがある。
次に「相関の関係」という何かが起こったら別の何かが起こったというのが強い印象に残るために、雨男、晴れ女のように科学的な根拠がないものを後付けで解釈してしまう。確かにこんな自己都合の解釈は楽なのだ。

それでは、現代社会に生きるためには私たちはどうしたらよいのか。
ものごとを冷静に合理的に判断する態度、クリティカル・シンキング(critical thinking)が重要であり、身につけるべきだろう。*********

このようなクリティカル・シンキングを実行すれば「振り込め詐欺」の被害にあったり、いかがわしい宗教に入団することも防げるのではないだろうか、と考える。そしてくだらない血液鑑定などに踊らされることもない。

それにしてもだいたい、いつも思うのだが、何故B型人間は嫌われるのだろう。
B型人間はマイペース→組織にはなじまないかもしれないが、非常時に威力を発揮する
B型人間は思いつきでものを言ったり行動する→単にひらめくタイプなのだ。それが芸術的な創作活動にいきる時もあるではないか
B型人間はお人よし→優しいと言ってもらいたいね
B型人間は自己中心的→単に素直で単純なだけだ

声を大にして言いたい。本当はB型人間は愛すべきタイプなのだ!
いやいや、そうでなくてクリティカル・シンキングをしよう。

ある友人曰く「B型人間の辞書に常識という単語はない」

名前のないうさぎ

2005-01-16 17:34:58 | Nonsense
1972年当時、公開されたときは猥褻な映画というレッテルが貼られて裁判沙汰にもなった「ラストタンゴ・イン・パリ」を先日ビデオで観た。今となっては猥褻な部分はどこかという期待?をはずされるような、猥褻というよりも人の救いようのない孤独を描いた映画だった。

妻に自殺された中年のアメリカ人(マーロン・ブロンド)が異国のパリ、アパート探しで出会った若い女性(マリア・シュナイダー)と、肉体との交わりだけのつながりを黄昏色に染まった殺風景なアパートで繰る返していく。ただそれだけの映画なのである。浴室で血まみれになった妻の思い出がよみがえったりもするが。部屋の家具もない、会話もない、お互いの名前も知らない、いや知る必要がないのである。
少々暴力的な性行為のみが二人の存在を認めているだけだから。深い絶望を感じる孤独をマーロン・ブロンドが見事に演じている。
最後に、性行為の対象としてでなく、男がはじめて若い女性に近寄り、名前を尋ねた時に悲劇が訪れる。

この映画を観るまでは名前とは、他人と区別するラベルのようなものと生意気にも考えていた。だから○○Aでも、××Bでも名前は本人を識別できればそれでよいとずっと思っていた。そんな私だから、最後のシーンだけでこの映画は大きな衝撃を与えられた。

まめ吉という、現在テトラヒメナの細胞質分裂におけるあるたんぱく質の役割を研究している大学生がいる。まめ吉から高校時代、将来生物の研究をしたいと聞いた時、一番心配したのが生物は実験でマウスなどの生き物を研究と称して、遺伝子操作したり、命を絶つ行為を行なう場合があり、そういう必要がある局面に立ったとき本当に実行できるのかということだ。
年末から血液で抗体をつくるためにうさぎを研究室で飼っていると聞いた。

抗体をつくったら、うさぎはどうなるの?
>一滴残らず血液を抜く
・・・血液を全部抜いたらうさぎは死んじゃうよね
>悩んだけれど研究のためには仕方がない
・・・うさぎに名前はあるの?
>名前をつけたらできなくなるから、イ号、ロ号として区別している

名前をつけたら情がわく。名前をつけたら生き物の命の尊厳の前にたちすくんでしまうだろう。そんな実験がいつか役にたつ日がくることを願うばかりであるが。
名前のないうさぎは、今日別の世界へ旅たつらしい。