千の天使がバスケットボールする

クラシック音楽、映画、本、たわいないこと、そしてGackt・・・日々感じることの事件?と記録  TB&コメントにも☆

『アバウト・ア・ボーイ』

2011-12-31 15:45:36 | Movie
今年も年末年始の恒例行事、帰省ラッシュがはじまった。
行くのも帰るのも、待っている家族がいることが、当たり前のように思っていたが、3月の震災を経て、一年に一度、離散?した家族が集まることはとても大事な時間だということに改めて思いをはせる。

ところが、そんな家族をつくることを拒否する男がいた。ノース・ロンドンに住む38歳のウィル(ヒュー・グラント)にとって、人生はシンプルなもの。クリスマス・ソングを一発当てた父親の遺産で、一度も働いたこともないのに、高級車を乗り回し、ビリヤードを楽しみ、クイズ番組で余暇を過ごし、悩むことと言えば、その日に聴くCD選びと、あきた恋人と後くされなく円満に別れる方法。部屋は、スタイリッシュに整え、勿論、独身主義。お気楽に”責任”という文字から回避して人生を謳歌してきた。

ウィルが無職というのは、日本人の感覚がすると不思議なものがある。映画『男はつらいよ』で、さくらが隣の印刷工場の工員さんたちをからかった寅さんに向かって、「額に汗して働く人たちの方が、お兄ちゃんのようにいいかっこしてふらふらしている人よりずっとりっぱ」と説教する場面がある。日本人的には、確かにこうだ。金持ちには金持ちなりの暇つぶしの”仕事”があると思うのだが、そこは英国なのだろうか、いずれにしても、職なし、とりたててボランティア活動も趣味もなさそうなので、人と人とのつながりは薄い。
「人間は孤独な島」
You can make yourself a little island paradise.
を哲学に、独身を貫くのはよいとして、本人は気づいていないようだが、社会からも、女性からも誰からも必要とされていない。姉もそんな極楽とんぼの弟を真剣に心配している。そんなウィルにひょんなきっかけで、彼を必要とする少年が現れた。

12歳のマーカス(ニコラス・ホルト)だった。様々な問題を抱える彼は、ウィルの実はいい人気質を見抜き、自分の人生にウィルが必要だと考えて毎日彼の部屋に強引に通うようになるのだったが。。。

1960年生まれ。撮影時、ウィルとほぼ同年齢。オックスフォード大学卒業、長身、清潔感のある端整な顔、そして間違いなくリッチ。ジョシ的な求める男像のすべてを満たしているようなヒュー・グラントだが、自己中心的で人はよいが軽薄な情けない「ダメ男」を演じたら、NO1!経歴どおりに、繊細なインテリ役もぴったりなのだが、絵に描いたような理想の男キャラを、情けない人物にふりかえるコメディ映画は、もはや彼の王道の定番となっている。スマートな彼だから、ナンパで子持ちと嘘をついたり、女達にふりまわされるから笑えるのである。そして、驚いたのはマーカス役のニコラス・ホルト君。『シングルマン』で、別の意味で孤独な島の大学教授に興味をもち、美しい裸身をさらした彼だったのだ。役柄とはいえ、ださいマッシュルームカットに、ださい服、ださい歩き方の少年が、成長してトム・フォードお気に入りのモデルに豹変するとは!予備知識があっても、アクアマリンのようなきらきらした瞳で、かろうじてあのニコラス君とわかる。

30代なかばで、マンションを買って独身生活を謳歌する女性がいる。モノトーンで統一したご自慢の部屋を見て、母親が「あなたの部屋は人を拒絶する」と言ったそうだ。姉の家に招かれ、赤ん坊の食べ物で汚されたソファーを見て、うんざりするウィルを見ていて、彼女の話を思い出した。年末年始の大掃除の合間にブログを更新する私も、シンプルに生きたいと常々考えるタイプ。整理整頓は不要なものを兎に角捨てる事、と考えてせっせとゴミだしに励むのだが、家族と生活している限りはなかなか自分の思うようなすっきりとした部屋には難しい。つきつめて、何もかも整い無駄のない理想のインテリアにこだわりはじめていくと、一緒に住む人間関係すらいっそのこと片付けたくなる・・・なんてことはできるわけないし。人は都合のよい時だけ付き合うこともできなく、何の気兼ねもなく、観たい時に観たいDVDを好きなだけ観て、行きたい時に行きたいところへ好きなだけ行ければ、とも思うのだが、孤独な島も誰かとつながっているからこそ、人生なのだ。そして、大事なのは、自分の城を守るのではなく、人への寛容さだ。小粒ながら、小粒だからこそ素敵で、今年の言葉、”絆”を感じさせられる映画だった。
皆さま、よいお年を!

監督:ポール&クリス・ウェイツ兄弟
2002年米国映画

読響「第九」コンサート

2011-12-27 22:58:56 | Classic
今年もいろいろあった。
昨年に続き、我家は又々激動の1年だった。幸い、家内安全、心配事無事解決、旅行も楽しとめでたいことが続いたのでよかったのだが、まさか自分が生きているうちにこれほど大きな未曾有の地震に、日本が被災するとは考えもしなかった。何度も登場した”想定外”という言葉を政府や東京電力は言い訳に利用していると新聞誌上で批判が展開されているが、本当に想定外だったのではないだろうか。

さて、例年以上に厳しい寒さが身にしみる師走。まだまだそんな気分にならないのだが、今年はやはり「第九」を聴きたいとしみじみ思う。「第九」はオケの餅代稼ぎと言われるくらい、日本ではこの時期チケットが売れるから、私はむしろ「第九」以外のマイナーなコンサートに足を運んでいたのだが、今はベートーベンの総決算のようなこの曲を体のすみずみまで浴びたいと心底思う。そんな中、日程の都合よく、又、残席があった読売日本交響楽団の「第九」。指揮者は、昇る龍というよりも踊る熊さんのような下野竜也さんだ。何と、今年の読売日響は、6回も公演が続く、まさに疾風怒濤の「第九」である。

さて、今年お初の下野竜也さんの「第九」はエネルギッシュで実にパワフル。漣のように繰り返されるいくつかの隠しテーマをじれったいくらいにあおり、深遠で哲学的な音楽の造詣も、下野さんの棒がかかると生き生きと音楽の饗宴となってくる。いろいろな演奏方法があるが、今年はゲーテがその才能を認めたが、人格は粗暴野卑と喝破したベートーベン像に近づけてもよいのではないか。比較的早いテンプ感でリズミカルに音楽がすすでいく。

ここで有名な一度聴けばすぐに覚えられるフレーズの「歓喜の歌」だが、プログラムに掲載されている渡辺和氏の解説によると、実はベートーベンのオリジナルではなく、庶民が行進や集会で演説で歌っていたメロディなんだそうだ。今さらながらのトリビア知識に、唖然とした自分。
「そうだったのかっ!」
驚きつつも、これまで延々と流れる哲学的な芸術音楽をぶちこわすような

O Freunde, nicht diese Töne!
Sondern laßt uns angenehmere
anstimmen und freudenvollere.

「おお、友よ、この調べではない!」
なんて、突然のバリトン歌手の雄たけびで否定系で入る「歓喜の歌」のまるでちゃぶ台返しのような構成をわかったような気がする。
今夜のソリストもよかったが、新国立劇場合唱団も素晴らしかった。この合唱団は国内唯一の常設合唱団だそうが、声の厚みがそろっていてレベルが高い。そして、演奏者と指揮者が一体となった渾身の音楽は求心力とともに躍動感いっぱいに大円団に向かっていく・・・というよりも殆ど、暴走状態かも。しかし、その気持ちはわかる。一年の締めくくりにふさわしい演奏だった。

----------------------- 12月19日 サントリーホール

演奏:読売日本交響楽団
指揮:下野竜也(読売日響正指揮者)
ソプラノ:木下美穂子
メゾ・ソプラノ:林美智子
テノール:高橋淳
バリトン:与那城敬
合唱:新国立劇場合唱団
合唱指揮:三澤洋史
ベートーヴェン/交響曲 第9番 ニ短調 作品125〈合唱付き〉

■アーカイヴ
昨年は《バッハ・コレギウム・ジャパン 聖夜の「メサイア」》だった
読売日響第503回の定演から・・・来年は創立50周年になるそうだ

「環境リスク学」中西準子著

2011-12-25 11:30:09 | Book
現代人は様々なストレスだけでなく、様々なリスクと共生していると言っても過言ではなかろう。
いつ北朝鮮から飛んでくるかもしれないミサイル、農薬に汚染されているかもしれない食物や水、新型インフルエンザ、突然配偶者から宣告されてもおかしくない離婚?。おまけに今年は福島原発事故により放射線汚染も懸念されている。不確かなリスクにむやみやたらと騒ぎ立てる輩も如何なものかと思うが、私のように無関心であることは尚悪い。物理学者の寺田寅彦は、次のような名言を残している。

「物事を必要以上に恐れたり、全く恐れを抱いたりしないことはたやすいが、物事を正しく恐れることは難しい。」
全く、正しく物事を恐れるのはなんて難しいのだろう。誰も本当の事を把握できていないのではないだろうか。以前の新型ウィルス騒動では、まるでパニック映画さながらに踊らされていた。この地球という大きな海の中で、私たちは小さな日本という船に乗っている。本書は、環境リスク学研究者の中西準子さんによる物事を必要以上に恐れて騒ぎ立てるのではなく、環境リスクを定量的に評価し、数字で「見える化」してから対応策を考えるべきである、という実に合理的な考えのもと確立された羅針盤である。

本書の構成は、まず中西さんのこれまでの研究者としての歩みが、そのまま今日のリスク学の軌跡となる2004年2月23日の最終講義をまとめた1章、次の章では欧米とのリスク評価の違いや今後の方向性、後半はこれまで書いてきた文章がまとめられている。講義内容を活字化しているので、平易な言葉から中西さんの率直な人柄、周囲の圧力にも屈服しない意志の強さや果敢な勇気が伝わってくる。そもそも、あまりにも物事を恐れないタイプの私が、本書を読もうと思ったきっかけは、読売新聞の「時代の証言者」に中西準子さんが登場し、その生き方に正直、”おもしろい”と感じてしまったからだ。

「父は死刑囚」
連載がはじまってまもなくのこのタイトルには驚いた。中西さんは、1938年中国大連に生まれる。お父様は満鉄調査部に勤務されていたが、後に政治思想犯として死刑囚となり巣鴨拘置所に収容される。(その後、お父様は1945年に釈放され、参議院議員になるもすさまじい理論闘争の果てに除名される。))中西さんが小学生時代にクラスで1番の成績をとって帰ると、お父様は自分は「0番」だったと自慢して切り替えしたそうだ。横浜国立大学から東京大学大学院に進学する多忙な中、結婚、離婚、再婚と2回も!学生結婚をすませている。(もっとも2回めの再婚相手とは後年になって海外へ活動をはじめた彼女と意見が相違して又別れ、現在は、3回めの事実婚だそうだ。)博士課程を取得するも、当然、ひくてあまたの男子に比較してジョシ博士には職など全くなく、東大生が寄り付かなかった汚れものを処理する講座の助手のポストになんとか就任。誰も見向きもしなかったこの汚れ物処理の研究が中西さんにはとてもおもしろく、その後、20年以上も万年助手となる研究室で、2年目に早くも東京都浮間下水所理場調査という大きな仕事にぶつかる。ここでマスバランスの調査を行うが、お上にたてついた結果を反対にも負けずに発表すると村八分状態になってしまった。差別は学生にも及んだために、退職覚悟で告発文を工学部8号館の玄関に掲示したら、学生、職員までまきこんだストライキに発展して、学生も中西さんも生き残ることになった。

その後、家庭用合併処理浄化槽を推進すると建設省にはせせら笑われたり、CNP農薬に有害なダイオキシン成分が含まれていると公表すれば、農水省や三井化学からは告訴するとまで脅され、本当に企業の利益優先で公害があった昔の日本で環境リスクの研究を行うのは、大変な困難が伴ったことがわかる。度々に及ぶ脅迫や嫌がらせにも負けずに、彼女が生き残れたのも事実ファクトへのこだわりと徹底したデータの正確さにあると思う。更に、時には給与まで研究費につぎこんだ信念と情熱のままに行動し、それに死刑囚の娘は事実の前にはひるまないのだ。そして、手弁当で調査に参加した学生の意気もこうした研究を支え、私たちの船は何とか安全な社会に向かっているのである。

2001年には「化学物質リスク管理研究センター」が設立され、そのセンター長に就任する。ここでの活動の目標は次の3つ。
①リスク評価の開発
②30物質についての詳細リスク評価書の策定、公開、活用
③リスク評価のための「読み書きそろばん」の社会への提供

事実にこだわった中西さんが、やがてリスク評価へと研究分野を広げていく過程も納得する。高度な文明に生きる私たちは、今さら環境という意味で安全かも知れないが原始的な生活に戻ることは無理である。だったら、どの程度のリスクなのか、そのリスクを回避するための費用との”バランス”を議論して合理的な決断をすべきである。人は誰しも関心があろうとなかろうと、環境問題の渦中にいる。それは避けられない現実である。「地球に優しい」という響きのよい言葉の意味を、賢明に考えなおすための1冊である。

■関連アーカイブ
「インフルエンザ21世紀」瀬名秀明著

『サルトルとボーヴォワール』

2011-12-22 22:37:45 | Movie
「 女は女として生まれるのではなく、女になるのだ」

現代のフランスの夫婦の3組に1組は事実婚だという。出産後も女性の8割以上は働き続け、共同名義の銀行口座をもち生活費も割り勘。なかなかシビアだが、女性は経済的に自立している、というか自立せざるをえない。しかし、そんなフランスでもつい最近まで、女が働くのは貧しく卑しいクラスだけ、良家の娘はそれなりの年齢になったらそれなりの家にお嫁に行く以外の道はなかった。1908年に生まれた哲学者シモーヌ・ド・ボーヴォワールが生きた時代だ。

素晴らしい成績をもって帰ってきた娘に不機嫌な父親。家庭でもきちんとした服装と威厳ある態度を崩さない夫と、おとなしく家事をこなし夫に従う妻。それなりの資産階級では、夫婦の考え方は典型的なプチ・ブルジョワ家庭のそれだったのだろうが、そんな両親を見つめる娘は賢すぎたのだった。そして奇跡的にも美しさも併せ持っていた。そんな彼女は、ソルボンヌ大学に進学して初めて自分よりも頭がきれる男に出会ってしまった。身長も低く、魅力的ともいえない容貌にも関わらず、その男ジャン=ポール・サルトル(ロラン・ドイチェ)の知性と強引な求愛は、充分過ぎるくらいに彼女ボーヴォワール(アナ・ムグラリス)をひきつけた。そしてふたりの契約結婚がはじまったのだが。。。

サブタイトルに”哲学と愛”というフランス人が大好きでお得意なキーワードが並ぶが、そんな難しい哲学的な愛でもなければ映画でもない。20世紀を代表する哲学者、60年代の若者を熱狂させたというサルトルは哲学界のスーパースター。さしずめ、ハードロックを歌うカリスマ的なスーパースターか、はたまたサッカー界の大スター選手を夫にもった妻や恋人のドラマチックな苦悩の人生を描いた映画のようなもの。

「君との恋は必然的なものだが、人間は偶然的な恋愛も体験しなければならない」

優れた頭脳が、恋人と契約結婚を提案する時の浮気もします宣言の言い訳である。次から次へと恋人をつくりながら、実存主義の実践を標榜するためにも抱き合わせ販売のボーヴォワールを決して手離さないサルトルだが、サルトル役のロラン・ドイチェは童顔で、モデルで長身のアナ・ムグラリスの美貌の前では、こどもっぽいわがままで自分勝手、自己中心的な男に見えてしまう。もっともサルトルは、あくまでも”添え物”で本作の主役はミューズとなったボーヴォワールにある。彼女も自分のお気に入りの教え子をサルトルに斡旋するなど、現代だったらスキャンダルで致命傷になるようなこともしていたようだ。そして初めて女として快楽を教えてくれたのが、米国人作家のネルソン・オルグレン。アメリカ人らしく知性よりも肉体の方が大事だろ!とばかりに自信満々に果敢に攻めていく。それでも、サルトルの演説会で会場にやってきたボーヴォワールのために聴衆が次々と椅子を回す場面で、彼女の功績と威厳がうまく表現されている。

「一生結婚しないわ。誰の召使いにもならないの」
と言い切った彼女の生き方は、サルトルに比べて覚悟が違う。しかし、夫の召使いだった母は、未亡人になって初めて本当の自分の人生を楽しむようになるのだが、それでも夫を愛していたと言う。たとえ召使い扱いでも、夫の庇護のもと守られている妻としての地位は、自由恋愛の契約結婚よりも確かな”絆”なのかもしれない。もっとも現代の日本の妻たちは、家計を握り、夫の財布も管理し、自由な時間を上手に謳歌しているではないか。本当の召使いは”ご主人様”ではなかろうか。

本作は元々フランスのテレビ局で放映されたドラマだそうが、18禁にふさわしい?ベットシーンがあり、シャネルのミューズはここでも素敵な裸体を披露している。さすがに、こんな内容のドラマが放映されるなんてフランスだ。


原題:Les Amants du Flore 「フロールの恋人たち」
監督:イラン・デュラン=コーエン
2006年フランス製作

■アーカイヴ
『シャネル&ストラヴィンスキー』

金正日総書記ついに

2011-12-19 21:58:27 | Nonsense
北朝鮮の国営テレビは19日、最高指導者の金正日総書記が17日に死去したと報じた。69歳だった。
アナウンサーは喪服を着用し、涙ながらに金総書記が地方視察に向かう途中に過労のため亡くなったと伝えた。また、国営の朝鮮中央通信社(KCNA)は、金総書記の三男の金正恩氏について、総書記の「偉大な後継者」、「わが党や軍、人民の卓越した指導者」と表現し、権力継承者であることを示唆した。
KCNAによると、金正日総書記は17日に列車の中で重度の心臓発作を起こし、18日に行われた検視で死亡原因が確認されたとしている。
中国の国営テレビは、北朝鮮の首都平壌で国民が涙に暮れる様子を放映した。ただし、映し出された平壌の街は交通量が少なく、時折トラムやトロリーバスが運行しており、一部の住民が路上で涙に暮れている以外はおおむね通常通りに見える。

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「第九」演奏会の帰宅途中、人類みな兄弟のリフレンが心の中で踊っている上機嫌の中、満員電車の中で見かけた新聞の見出しに大きく黒枠の”金正日総書記”の文字が、とうとう来たかその時が・・・。どんな悪人でも死をまぬがれることはできない。北朝鮮の金正日総書記が亡くなったそうだ。

とりあえずこれまでの過去のブログから・・・↓

北朝鮮の別の顔
今読みたい帚木逢生氏の「受命」
「受命」帚木逢生著
映画『チェンジリング』
独裁者に欠けている共感性

「獄に消えた狂気」平井美帆著

2011-12-15 22:46:23 | Book
本書の書評と一緒に掲載されていた表紙の写真は、一瞬のうちに衝撃を与えて私をとらえてしまった。「獄に消えた狂気 滋賀・長浜『2園児』刺殺事件」というセンセーショナルなタイトルとあわせて、この女性の目に私が凍りつくように感じたのは、すがりつくように誰かに救済を求めるうつろな魂、何かへの執着、そして狂気だった。

「この事件を書くのは難しいと思うよ」
一審の公判を傍聴した頃から、著者は記者や編集者から何度もこう言われたという。

表紙の女性の名前は鄭永善。日本名は充恵(みえ)。2006年2月17日、滋賀県長浜市立K幼稚園の送迎当番だった彼女は、登園の道すがら経路を変更して農道脇で同乗していた後部座席の園児ふたりを包丁で刺して殺害した。被害者のふたりは、彼女の長女と同じ幼稚園に通い、家も近所だった。何の罪もないのに、20数箇所も刺されて、未来を絶たれた幼い命。ところが永善は、凶行に及ぶ前、精神神経科に入通院暦があり、放火、妄想といった病態もあり、「統合失調症」の病名診断がされていた事実にも関わらず、検察側は簡易精神鑑定すら行わず死刑求刑を方針にして起訴していた。

加害者は、500万円もの仲介手数料を業者に支払ってお見合いで農村に嫁に娶った中国人妻、そして約100人にひとりが罹患する統合失調症という精神障害者であること。何よりも被害にあったのが、非もなく抵抗できない幼いこどもたちだったことが、永善の立場を書くことへの罪悪感になり著者は悩み、また、私も本書を手に取ることにおおいなる躊躇が伴った。

「訴えられるかもしれないから」
何度も頓挫した出版計画に、ある編集者が断る理由としてあげたのがこれだ。どこから訴えられるのか訝しむ著者に人権団体とか、という返答が返ってきたそうだ。あぶないノンフィクション本には手をつけたくないという出版社の保身もわかるが、逆にそれがわかるだけに様々なタブーにせまろうとした本書は逆に読者をひきつける。当初、事件現場に押しかけてきた新聞や一般雑誌の記者たちも、犯人に精神疾患があったことがわかってくると曖昧な表現で、潮がひくように小さく簡潔な報道へと逃げ腰のマスコミ。タブーとは、決して遠くの出来事ではないからタブーなのだと思うのに。

日本人男性と結婚する中国人妻は増加し、現在、新婚カップルの61組に1組にものぼり、妻よりも夫も方が10歳年上という特徴がある。夫婦にはそれぞれの組み合わせがあり、単に中国人妻というレッテルで見るのは間違えているが、永善に対しては”中国人妻”という事情が大きくその後の人生が転落していったと感じる。祖国では、専門学校を卒業し通訳をしていた彼女は、エリート中のエリートなのだそうだ。失礼ながら、もし本当に彼女がエリートだったとしたら、本書から伺える夫のふるまいや言動からは、古い言い方で夫婦の”釣合い”がとれていない不幸も感じる。上昇志向が強く、負けず嫌いで日本に来ることで期待するものが大きかった彼女は、出産して娘という宝をえるかわりに絶望も感じ、中国にも帰国できず、また日本にもいられなく孤独感を募らせて病んでいく。更に、通院しながらも適切な薬物療法も中断したりしていくうちに、症状は深く重くなっていった。滋賀県は、琵琶湖を抱え風光明媚でおだやかな土地柄である。大きな門構えの伝統的でりっぱな日本家屋も多く、住民の流動性には乏しい。そして、冬になると湖南から北へ橋を渡るたびに降雪量が増え、予想外の冬の厳しさを実感することもある。

いかなる事情があろうとも、幼いわが子の命を奪われた両親や遺族の心情を考えると、永善に同情することはないし決して赦されることでない。しかし、検察側の対応、裁判の進行、また、現在も適切な治療を受けていないのではないかと思われる獄中の彼女の処遇は、司法のあり方を考えさせられる。著者のためらいながらも真摯に取材して向き合う姿勢が丁寧な文章となっている一方で、ありのままの永善を書く狙いからは、多少の斬り込み不足も感じてしまう。それでも、本書を出版にこぎつけた努力に値する一冊となっている。

離婚して鄭永善になった彼女に下った判決は、無期懲役。2審の国選弁護人は本人さんの意向と言い放ち、上告はされなかった。かくして、犯罪と狂気のしがらみを抱えたまま牢獄に閉ざされ、彼女は獄に消えていった。

どこへ届ける日本郵便

2011-12-12 22:13:57 | Nonsense
師走の声を聞く頃になると、駅の周辺に登場するのがサンタクロースではなく、どういう訳か郵便局員。寒空の下、声をはりあげて年賀状を一生懸命売っている。彼らのソフトバンク並みの熱心さにも事情があるようで、最近、知ったのだが、郵便事業会社は競争する会社もないのに、利幅の薄い年賀状に、社員やゆうメイトに強引とも言える販売ノルマを課しているそうだ。私も頼まれて、毎年、爺さんの知り合いから年賀葉書を買っていたのは、こうした苦しい目標があったからだった。

ところが、駅の近くの金券ショップに立ち寄ったところ、大きな字で「年賀状 47円」と書かれたA4サイズの紙が3枚下がっているではないか。わずか3円の差額だがどうせ買わなきゃいけないからと、行列に並ぶ人は絶えないようだ。郵便局で働いている人たちが厳しいノルマを達成するために、とりあえず自腹で年賀葉書を購入して、余分な葉書を金券ショップに持ち込んでいるという。これでは、更に街頭での懸命な販売努力は実を結ばない。そう言えば、小泉改悪がすすめた「郵政民営化」により、郵便局と郵便事業を日本郵政に統合し、その傘下にゆうちょ銀行とかんぽ生命を入れる改革法案もあったが、その後、どうなっている?〒だ。情報誌「選択」によると、やっぱりとんでもないことになっていた!

なんと、郵便事業会社は、9月末に日本通運と事業統合して発足したJPエキスプレス(JPEX)の拡大する赤字を埋めるために、46000人もの大量人員整理をはじめた。結果、特に首都圏近郊の大規模支店、集配センターでは人手不足による集配作業に大混乱状態になっているという。正社員200人、契約社員とパート(ゆうメイト)400人が働く某支店では、夜遅くまで灯りが消えない。これまで正社員とともにあらゆる業務をともに支えてきた65歳以上のゆうメイト80人が一斉に”雇い止め”されたからだ。機械で郵便番号順に並んだ郵便物の束を、配達の経路順に効率よく並べる必須業務には、熟知した経験がものをいう。ベテランさんが消えて、この段取り間に合わなくなりつつあるそうだ。張り詰めた空気の中での超過勤務で不眠症になる人もいるかと思えば、サービス残業をせざるをえない事態にまで追い込まれている支店もある。

そもそも、経費削減でそんなに簡単に人を斬るなと言いたい。ここまで赤字になったのは、いったい誰の責任なのか。日本郵政ガバナンス検証委員会で「経営判断としての合理性を大きく逸脱している」と指摘されているにも関わらず、経営陣は誰も責任をとらない。その一方で、「平成22~23年度における人件費削減に向けた取組」によると、会社として必要な人件費削減額訳20億円、15万人の契約社員Ⅱとパートタイマーのうち、9月30日時点で満65歳以上の者と雇用期間の短い者を”確実に”雇い止めするよう指示されている。長年、低賃金で現場を支えてきたゆうメイトが、どうして犠牲にならなければいけないのか。65歳になればそろそろ引退してもよいではないか、という考えもあるが、少ない国民年金の受給だけでは食べていけず、働かざるをえない人もいるかもしれない。

職場では書類の配達に宅急便を利用することが多くなった。しかし、郵便事業会社は、1日あたり約6400万通もの郵便物を3100ヶ所の世帯や会社に届けている国民にとっては重要な物流インフラを担っている。現場を知らない無責任な経営者こそ、退場していただきたい。来年の年賀状配達に向けて、益々混乱が予測されているというのに。

『わたしを離さないで』

2011-12-10 22:15:04 | Movie
1950年代、世界は画期的な医療革命が起こり、やがて人間の寿命は100歳を超えるようになった。映画のはじまりは、主人公キャシーと名乗る女性の静かな語りではじまる。そう、この映画は近未来のこれからの話ではなく、もうひとつのあったかもしれない”過去”の世界の物語である。

美しい自然に恵まれた寄宿学校の”ヘーシャム”。ここ”ヘーシャム”は奇妙な空間だった。優しいが、どこか修道女のような教師達と従順で素直なこどもたち。外界と切り離され徹底的に管理された学校には、なにか不自然さが感じられ秘密がありそうだ。

ここで学ぶ賢く愛らしいキャシー(キャリー・マリガン)とおませで美しいルース(キーラ・ナイトレイ)は、親しい友人同志。生まれた時から一緒に育った少女たちの気になる存在が、かんしゃくもちでよく男子たちからよく仲間はずれにされている変わり者のトミー(アンドリュー・ガーフィールド)だった。それぞれがそれぞれを思いやるうちに、いつしか3人の絆は深まっていく。やがて、幼な心の異性への関心が息吹き始めた初恋へとかわり、キャシーは講堂でトミーとルースが密かに手をつないでいるのに気がついてしまう。講堂では、新任してきたばかりの、若い教師の突然の退職を告げられている時だったのだが、キャシーの哀しく涙をこらえる表情はその教師との惜別ばかりではなかった。そして、18歳になった3人は寄宿舎を出て、コテージで仲間達とともに共同生活をするようになり、外の世界を知っていくようになるのだが。。。

英国の美しくも詩情豊かな田園地帯の映像が流れていく。研修でロンドンに3ヶ月赴任していた先輩によると、最高に素晴らしい日々だったそうだ。初夏にかけて、という季節もよかったのだろう。本作は、衝撃を受けて夢中になって読んだ「わたしを離さないで」の映画化である。これまでもイシグロ作品は何度も映画化されてきたが、さすがにこの作品の雰囲気と世界観を映像にするのは無理だろうと思っていたのだが、映画は映画でとてもピュアなまさに珠玉のような作品に仕上がっていた。
そこで、映画の背景となったのが英国の美しい田園地帯。あの繊細な緑の自然を見ただけで、映画は小説とは別もので、切り離してこれはこれで鑑賞するべきだと感じる。小説との比較はしないこと。磨かれて手になじんだ木の机、暖かいウール100%のカーデガン、壜に入った牛乳。すべてがノスタルジックに懐かしく、ほんの少し悲しい。この映画は、米国でも日本でもなく、英国の田園を背景としたから映画化が可能だったと考える。美しい季節は、ほんの一瞬。うつろいやすい気候の中で、人は自分が生きる意味を見出すのは難しい。

映画のテーマには、将来に可能となる自分のクローンによる臓器移植問題ととらえることもできる。しかし、別の視点で考えると、意外にも同じイシグロ作品の英国の執事を主人公にした「日の名残り」と共通するものがある。「日の名残り」の名執事スティーブンスは、同じ屋敷に仕えた父も執事だった。こどもの頃からダーリントンホールで育ち、父親の仕事を見ながら、自分もご主人様に尽くす執事になるのは自然の流れだ。執事という仕事の悲哀に、大国だった英国の衰退に重ねたブッカー賞受賞にふさわしい傑作なのだが、狭く小さな閉鎖的な世界に閉じこもり、自らの運命を受け容れる執事スティーブンスは、キャシーたちに近いものがある。

何故、逃げ出さないのか。何故、反抗しないのか。映画だけ観ていると、そう疑問に感じるかもしれない。しかし、かっての日本の若者も、神風特攻隊員として、その命を自ら捨てていた時代があったではないか。現代のようにテレビもネットもなく、閉ざされた小さな社会では、人は与えられた運命を受入れながら、同時にささやかな生きる価値を見出していくものである。映画の中で、キャシーもルースも”オリジナル”にこだわっていた。本来だったら、会いたい人は父や母になるところだが、彼女たちには両親という意味での遺伝的な親は存在せず、”オリジナル”が自分たちが生きている意味になるのだから。スティーブンスが執事という仕事にプライドを生涯もったように、彼女たちも”終了”に向けて、自らが生きている価値と使命を受け容れていく。儚くも、純粋培養された若者たちの短かった青春は、俳優たちの演技に支えられ、胸にせまる余韻を残す。私はこの映画はかなり気に入った。

監督:マーク・ロマネク
2010年イギリス映画

■あれこれアーカイヴ
「わたしを離さないで」カズオ・イシグロ著
「日の名残り」
”生命”の未来を変えた男 ips細胞革命
「生命の未来を変えた男」
「ヒューマン ボディ ショップ」A・キンブレル著

「ウルフ・ホール」ヒラリー・マンテル著

2011-12-08 23:32:18 | Book
ブッカー賞をはじめ、全米批評家協会賞、ウォルター・スコット賞を受賞した話題の本。しかも、チューダー朝に1509年から47年まで長期間、王位に君臨し、その間、娶った王妃は6人にのぼる英国史上、最も有名なヘンリー8世。ジョシとしては、あの映画『エリザベス』で祖国との結婚宣言をしたヴァージン・クィーン、エリザベス女王1世のパパがヘンリー8世で、背景は『ブーリン家の姉妹』を思い出すと読みやすい。

兄の亡き後、かねてより好意を抱いていたスペインから嫁いできた兄嫁のキャサリン・オブ・アラゴンを最初の妻に迎えたヘンリー8世だったが、跡継ぎの息子が生まれないことや年上妻の容色が衰えたことが気になっていた。いらだつ王の前に表れたのは、異性関係が問題になってフランスに追いやられてクロード王妃の女官として仕えていたが、再び呼び戻されて帰国した外交官の娘、アン・ブーリンだった。小さな顔、きつい目をした華奢な娘アンに、たちまち夢中になったのはヘンリー8世ばかりではなかった。しかし、最も権力のある男は、彼女を思うと欲望に身がふるえ、肉欲を鎮めるために他の女を試したみたが、効果はなかったほどのめりこんでしまった。

「余は、一頭の不思議な雌鹿を追いかけている。臆病で大胆な不思議な雌鹿を。余は、その鹿を追いかけてたったひとりで森の奥へと入っていく。」

しかし、キャサリン王妃との離婚を願うヘンリー8世と王妃になることを熱望するアンの前にたちはだかるのが、ローマのカトリック教会と教皇だった。そんな状況下、ウルジー枢機卿の勢いが衰えていくと、入れ替わるように台頭して王の側近になっていくのが、トマス・クロムウェル。貧しい鍛冶屋の息子として生まれながらも、数ヶ国語を流暢に話し、抜群の記憶力、自らの才覚と会話術だけで政界の中枢によじのぼり、ヘンリー8世に気に入られ、やがてカトリック教会と独立してヘンリー王自らがイギリス国教会の長となり、プロテスタント教王国誕生にかかわる重要な立役者となっていく。あまりにも有名な歴史的事件であるが、主人公を超自己中心的なヘンリー8世でもなく、7年間もスカートの裾を最後まであげることなくさんざんじらしながら王の心を操縦して女王に即位したアン・ブーリンでもなければ、信念を貫き断頭台の露と消えた清廉な人格者トマス・モアでもなく、権謀術数にたけ上昇志向の強いヒール役のトマス・クロムウェルを主人公にしたのが、読者の支持をえたのだろう。人は独創的だから成功するわけではない、聡明であることも、力があることでも成功しない。狡猾な詐欺師であることで成功するのだ。そう、実感するトマス・クロムウェルだから、人は興味をそそられるのではないだろうか。

確固たる信念の人だったトマス・モアは、本書では自らの信条に従って次々と異教徒たちを逮捕して火炙りの処刑をすすめていく頑固で非情な人となる。一方、もうひとりのトマス(クロムウェル)は、狡猾な人物像から逆転して、家族を大切にし思いやり、貧しい人や弱い人にも心をかけ、市民の流血を防ぐよう働く人物として描かれている。宮廷に登場する人々のあらゆる人々が、憎悪をむきだしに策略をねっている。地位のある者、身分の高いもの、資産のある者、もてる者はもてるゆえに反転した時の滑落は恐ろしいものがある。あれほど王の心をとりこにしたアンですら、王妃になって3年後には不貞の罪で処刑された。また、トマス・モア処刑の数年後には、もうひとりのトマス・クロムウェルもヘンリー8世に尽くしたにもかかわらず処刑され、かっての政敵トマス・モアと同じロンドン橋に首をかけられたそうだ。また、後日談として、約100年後、彼の子孫、オリバー・クロムウェルが、今度はチャールズ1世を処刑し、王制を廃止する。まるでオセロゲームのように白が一気に黒に変わる権力闘争のすさまじさは、いかにも肉食系の民族らしい。気になるのは、映画『ブーリン家の姉妹』では、姉がアンだったが、本書では姉がメアリー、妹がアンとなっている。いったいどちらが正しいのだろう。

上等な人 北杜夫さん逝く

2011-12-04 16:01:52 | Nonsense
作家の北杜夫さんが10月24日に亡くなった。
訃報の報道があった時は、あいにく機上にいたために遅くなってしまったが、あらためて北杜夫さんのことを振り返ってみたい。

どくとるマンボウというニックネームのとおりに多作の人気作家だった北さんだったが、あまり関心がなかった私が初めて彼の著作物を読んだのはちょうど一年前のことだった。
たくさんの著作作品の中から手に取った本は、偶然にも、優れた文学者、北杜夫を語るにふさわしい3冊を読んでいたのではないかと今さらながら思う。

「夜と霧の隅で」
「どくとるマンボウ青春記」
「若き日の友情」
「夜と霧の隅で」で、彼は一度も住んだこともない憧れのドイツを舞台に、ナチス政権下の精神病院に勤務する医師たちを中心に人間存在の不安を書いて33歳にして芥川賞を受賞した。若くして、深く透明な洞察力をもつ、そんな北杜夫さんを育てたのは、旧制松本高校の土壌だった。当時のおかしくもバンカラな高校生活を中心にしたエッセイものが「どくとるマンボウ青春記」。北さんは、生前、 母校のことを、学校の勉強以外で教師や友人と深く触れ合ったのが旧制高校で、「松本高校(現信州大)に入ったことが人生の転機になり財産になったと思っている」と語ったそうだ。

旧制高校は、小学校(6年制)の上に5年制の中学があり、更に1%未満の厳しい受験競争を勝ち抜いたエリートが入学する学校(男子校)だった。1学年200人ほどのほどよい生徒数に、貧しくもお互いに切磋琢磨する寮生活。先輩・後輩のみならず、うらやましいのは教師達との濃密なふれあいである。物理の試験がさっぱりわからなくて詩を書き綴った答案に59点(60点以上が合格)をつけた教師、トーマス・マンと出会い、その翻訳者として名高かったドイツ語教授として赴任していた望月市恵氏を尊敬し、終生の友となる先輩、辻邦生との友情の出発点も旧制松本高校だった。”僕のリーベ”ではじまる作家の辻邦生さんとの往復書簡集「若き日の友情」は、乙女心もわくわくする女子禁断の、まるでドイツのギナジウムのような旧制高校の雰囲気がただよっている。野蛮さと繊細さ、しかし、そこにはぶあつい教養の萌芽が確実に根ざして育っている。

大学は大衆化とともにマスプロ教育化していき、教授とのふれあいどころか、友人とのつきあいもサークル活動などに限られてきた。エリート教育から、平等、そしてゆとり教育へ。ゆとり教育の弊害で知力のないこどもが育ち、その一方で、受験に特化した中高一貫教育校の人気、かってのナンバースクールだった都立高校の凋落。数学は高校一年で修了する文系の受験者、高校で生物を学ぶことなく医学部に進学していく医学生。いずれも、受験で有利になることを視野に入れた、受験のための勉強ではないだろうか。躁鬱病という病を抱えて、84歳の生涯を存分に生きた北杜夫さんの本から、感じることは多い。

軽妙なトークが好きな阿川佐和子さんが、若かった頃、さわちゃんの結婚式では、遠藤周作はピエロの格好して、吉行淳之介は着流し、北杜夫は阪神タイガースのユニフォームで出席すると言っていたそうだが、みんないなくなり、残っているのは父だけだとラジオでしんみりと語っていたそうだ。

「いい人で、すぐれた文学者であることは間違いありません。でも、それ以上に『上等な人』としか、言えないような方でした。人品骨柄が普通と違う」と、長年担当した元・新潮社の栗原正哉さんはこう回想した。

■アーカイブ
「夜と霧の隅で」
「どくとるマンボウ青春記」
「若き日の友情」辻邦生・北杜夫 往復書簡集