千の天使がバスケットボールする

クラシック音楽、映画、本、たわいないこと、そしてGackt・・・日々感じることの事件?と記録  TB&コメントにも☆

『プッチーニの愛人』

2011-07-27 23:13:05 | Movie
私、個人としては音楽家の下半身に世間的な常識やモラルを求めることはしないことにしている。音楽家として音楽に情熱をもつ資質が、時には婚姻上のパートナーとは別の方にもある種の情熱が発散されてしまうというのもありうる現象だと思う。
「アイーダ」「マノン・レスコー」「ラ・ボエーヌ」「トスカ」「蝶々夫人」と、オペラの傑作を次々とうみだした作曲家のジャコモ・プッチーニ。彼はなかなかの艶福家で、その時の恋人との情事が創作意欲となって数々の名曲が誕生し、まあ、要するに作品ごとに主人公に似ている愛した女性がいたそうだ。彼は、女性を換える度に帽子の被り方を換え、しゃべり方も変えた。しかし、プッチーニ家にメイドとして働いていた娘が、妻から姦通を疑われて激しく攻め立てられ追及された果てに、服毒自殺を図ったとなれば音楽家によるフーガと軽くあしらうわけにはいかない。「ドーリア・マンフレード事件」というクラシック音楽界のスキャンダルにもなった。。。

ミステリー仕立ての軽い音楽映画と予想していたら、名匠パオロ・ベンヴェヌーティ監督のお仕事は全く違っていた。映画というよりも、通俗性を嫌う「作品」と言った方がふさわしい。
1909年、プッチーニ家で働いていたメイド、ドーリアは本当にプッチーニの愛人だったのだろうか。もしドーリアではなかったら、当時の偉大な作曲家の愛人はいったい誰だったのだろうか。考証と推敲を重ねて、近づいていったひとつの真実とは。

プッチーニの別荘があったトッレ・デル・ラーゴの美しい景色を背景に、物語はゆっくりと、そして静かにすすんでいく。通常のセリフらしいセリフは殆どない。まるでサイレント映画のように作曲家の時間がゆっくりと流れ、登場人物たちの手紙が朗読され、その内容から観客は想像して物語を読み解く。俳優たちの演技も、無言劇のようにわかりやすく、演技を楽しんでいるかのようにカタチにはめていく。妻のエルヴィーラが、夫のプッチーニからご機嫌とりに渡された花束を抱える場面などは、観客の反応を期待するかのようにつくりこんで演技をしている。しかし、本作のもっとも大きな優れている点は、プッチーニ(リッカルド・ジョシュア・モレッティ)の内面を語るような静かなピアノ音楽だけでなく、トッレ・デル・ラーゴの自然の音楽や、日々の暮らしのささやかな音楽である。瑞々しく、それでいて斬新で、最後は、なんと大胆にもシューベルトの弦楽四重奏曲第14番『死と処女』が流れる。これまでの静謐な空間が一気に破られるような有名な『死と処女』の音楽。音響デザインは、あの映画『ミルコのひかり』の主人公、ミルコ・メンカッチだった。映画ファンだったら、ちゃんと劇場で鑑賞しておくべき1本だと思う。

ちなみに、メイドのドーリア・マンフレーディ は、自殺した後に検視によって処女であることがわかり嫌疑ははれた。1909年、遺族が訴訟を起こし妻のエルヴィーラは有罪となったが、後に大金を積んで和解した。事件終了後、プッチーニは新作オペラ『西部の娘』を発表した。

監督・原案・脚本・美術 :パオロ・ベンヴェヌーティ
2008年イタリア製作

けっこう危険な稼業、指揮者

2011-07-25 22:42:09 | Classic
そういえば 「サンモン・ラトル ベルリン・フィルへの軌跡」を読んでいて気になったのが、現役最古参のセクシー系にして千秋さま以上の”おれさま”イタリア人指揮者のリッカルド・ムーティさまのことだった。今月の28日にムーティさまは御歳70歳になられる。昨年、米国の名門オケ、シカゴ交響楽団の音楽監督に就任したばかりなのに、今年の2月にリハーサル中に指揮台から気を失って転落して顔の骨を折る怪我をした。幸い、怪我そのものはそれほどたいしたことがなかったそうだが、検査の結果、心臓の不整脈が判明してペースメーカーを埋め込む手術を行い、1ヵ月後には元気に指揮台に復帰した。サントリーホールなどは、指揮台に転落防止の金属のバーがついているが、もともとはあのような枠はご老体の指揮者向けだったような気がするが、近頃では常備されているようだ。

指揮者列伝、転落篇で言えば、亡くなった山田一雄氏が有名である。熱演のあまり客席に転げ落ちたヤマカズさんは、何事もなかったように指揮を振りながら無事、指揮台に生還したそうだが、同じく米国の名門オケ、ボストン交響楽団音楽監督のジェームズ・レヴァインは、2006年にコンサート終了後に指揮台から転落、拍手にこたえてステップもしてみせたが、肩に大怪我をして、それ以来、健康不安が絶えずに3月に引退を表明した。20世紀を代表する巨匠オットー・クレンペラーは指揮台から転落して頭部を強打し、それが死の遠因にもなたそうだ。ご自分も二回ほど転落経験のある岩城宏之さんは、指揮者のお仕事は危険な商売とエッセイ「指揮のおけいこ」で暴露?していた。1回のコンサートで指揮者は多いときで2万回近くも腕を振り、特に曲の最初の出だしで勢いよく振るときの衝撃は、頚椎を直撃すると分析している。「運命」などは、けっこう頚椎にくるのではないだろうか。一年中、無意識に軽度のむちうち事故にあっているようで、とうとう岩城さんは50代で頚椎後縦靱帯骨化症という難病にかかり、大手術を受けて復帰したことは有名だ。(51歳だけど)若手の大野和士さんも、頚椎を痛めて今年の1月に東京フィルのコンサートをキャンセルして一カ月間静養していた。人気指揮者のジュゼッペ・シノーポリなどは、2001年4月20日、ベルリン・ドイツ・オペラでヴェルディの歌劇「アイーダ」を指揮中に、第3幕の所で心筋梗塞で倒れ急逝してしまった。指揮棒を振るのって、けっこう激しい運動だもんね。

そしてもうひとつ、指揮者の持病のようなものが腰痛だ。長時間、やや前かがみの姿勢で指揮をするために若くして腰痛に悩ませられる指揮者もいるそうだ。ビジュアル面でも気を使い、小柄なせいか姿勢がよかったヘルベルト・フォン・カラヤンも晩年は腰痛に悩まされ、腰の手術を重ね、最後は足をひきずるように指揮台にはいあがっていたという。かってカラヤンは、若く溌剌とした小澤征爾を「君のように、しょっちゅう足を動かしている方が、腰の負担が軽くなるんだろうな」と言ってうらやましがっていたそうだが、最近の小澤さんの不調は残念な限りである。

病でなくても思わぬ事故、ウラジミール・アシュケナージさんは、N響を振っているときに、指揮棒が折れて左手に突き刺さってしまったそうだ。いったい、どんな振り方をしたのか、謎だ?

ところで、危ないと言えば指揮台からの転落よりも、女性指揮者のシモーネ・ヤングさんが妊娠中のお腹を抱えて、渾身の指揮をしていた映像を教育テレビで観た仰天したことがある。
大丈夫かっ!
とはらはらさせられたが、最近では大きなお腹をドレスでめだたないようにしてコンチェルトを弾くヴァイオリニストあり、ピアニストの上原彩子さんも深紅のドレスを着て、ちょっぴりめだちはじめたお腹をふさぶりながら、”情熱的に”プロコフィエフ3番の協奏曲を弾いていましたっけ。嗚呼、女性はたくましい・・・。

■アンコール
マエストロ岩城宏之氏が逝く
喝采か罵倒か 指揮者・大野和士「プロフェッショナル 仕事の流儀」
「情熱大陸」大野和士・指揮者
「指揮台の神々」ルーペルト・シェトレ著

『光のほうへ』

2011-07-24 10:38:14 | Movie
厚生労働省によると、2010年度に受けた児童虐待の相談件数が、5万5152件に上り、1990年度の集計開始から20年連続で増加しているそうだ。もはや、虐待されたこどもの報道もさほど珍しくなくなってしまった。

デンマーク、コペンハーゲン。ニックと弟は、アルコール中毒で育児放棄をしている母親のかわりに、歳に離れた赤ちゃんの弟を育てている。盗んだミルクを与え、煙草をふかしながら赤ん坊をあやすまだ小学生の兄と弟。荒んだ生活の中で、赤ん坊の可愛らしい笑顔はふたりにとってかすかで唯一の希望の光だった。ふたりは、洗礼の真似事をして電話張から赤ん坊に名前をつける。しかし、兄弟がはしゃいで遊んで眠りこけた翌朝、泣いていた赤ん坊が冷たくなっていた。

やがておとなになったニック(ヤコブ・セーダーグレン)と弟(ペーター・プラウボー)。こんな兄弟が、成人して、学歴をつけ仕事も順調、愛する妻と円満な家庭生活を営めるのだろうか。ある虐待を受けたこどもは、親の乱暴で暴力的な言葉の影響を受けた兄の会話を聞いて育ち、貧しさから食事は奪い合うように口に詰め込む日常だったそうだ。そして、心的外傷後ストレス障害が逃れるために、つらかった時代の記憶がすっぽり抜け落ちて、同級生に会っても名前も顔も記憶になかった。

さて、ニックは暴行事件を起こして服役中だったが、今はシェルターとよばれる臨時宿泊施設に住み、酒びたりの日々を送る。一方、弟は結婚して家族をもったが、妻を交通事故で亡くして幼い息子と公営住宅に住むが、薬物依存症。ソーシャルワーカーから、子どもを育てられないのではないかと質問されている。弟は息子との暮らしを守るために必死なのだが、息子にかくれてトイレで薬を注射する姿はいかにも危ういのだったが・・・。

ニックは弟を思い弟も兄を慕うのだが、ふたりが互いに関わらずにそれぞれ生活していたのは、赤ん坊を死なせてしまったという罪の意識だった。兄弟が会うことは、あまりにもつらい赤ん坊の死を見つめることになるから。最も苦しく悲しい出来事を共有できるのは、本当はお互いに兄と弟しかいないのに、赤ん坊の死をのりこえる機会を失ったふたりのその後の生活がどん底で悲惨なのは、観ていても自然の流れの結末だとも思える。

北欧は、高福祉国家として知られている。映画を観ていても、それとなく福利厚生が行き届いているのがわかる。刑期を終えた元囚人が一時的に暮らす臨時宿泊施設も多少狭いが清潔で快適そうだ。東京だったら、家賃は軽く10万円を超えるだろう。アルコール中毒の母親と暮らしていたアパートにも、真っ白でお洒落なソファーがあった。公営住宅すら日本のちょっとしたマンションなみだし。何より、こどもを預ける保育園が充実していて、シングルファザーにはありがたい。不遇なこどもたちを支援するソーシャルワーカーの存在も高福祉のあかしだ。しかし、社会保障制度が整い、失業保険も充実している福祉社会でも、人が幸福に生きるのは難しいそうだ。弟にとって唯一の生きる希望である息子を福祉制度にとりあげられそうになる場面では、ロシアのジャーナリスト、セルゲイ・コヴァリョフのひとりひとりに保障されたスープ皿は隷属であるという言葉を思い出した。原作が、デンマークでベストセラーになったのも、この国の高福祉=高い離婚率に理由もあるのかもしれない。彼らに不足しているのは、社会制度でもなく、経済力でもない。

兄と弟は精一杯、人を愛そうとしているのに、その愛し方がわからないのは、自分自身が親から愛された体験がないからだろうか。人は人から愛されて、学習して、人を愛していくのだろうか。いや、それでも幼い兄弟たちは、もっと幼いあの赤ん坊の弟を心から愛した。それは悲劇的なこども時代の、唯一のひかりだった。そのひかりはいつまでも兄弟の心にともり続け、そしてそれは、明日へのかすかな希望のひかり、”絆”につながっていく。大切な名前とともに。

乾いたドキュメンタリータッチの寒々しい映像は、監督がいかにも作り事めいたハリウッド映画とは一線を画す「ドグマ95」の創設者で、オールロケ、手持ちカメラで光をつかわずに撮影されているからだそうだ。兄の包容力と孤独を演じたヤコブ・セーダーグレンと、息子を愛しながらも繊細で頼りない父親を演じたペーター・プラウボーともに、デンマーク映画の魅力を代表する作品だった。

原題:SUBMARINO
監督・脚本:トマス・ヴィンターベア
2010年デンマーク

『サンザシの樹の下で』

2011-07-23 14:13:41 | Movie
新聞誌上の新作映画品評会で、本作『サンザシの樹の下で』を中国の巨匠チャン・イーモウ監督が、今さら日本の60年代の恋愛映画を撮る必要はないと酷評していた。私にはむしろ、携帯電話やネットで簡単に異性に出会えて恋がめばえ、親も周囲も10代の恋愛に一定の理解を示す風潮に、あえてこの映画を撮る必要があったと思われる。単なるノスタルジーではない。親を敬い、家族を思い、相手のことを真剣に考える思慮が失われつつある現代の風潮に、”巨匠”が美しい初恋を大切に慈しむように描くことに価値がある。

1970年代の文化革命の時代。学生たちが下放政策により、農村地帯に住み込みでやってきた中のひとりの少女ジンチュウ(チョウ・ドンユィ周冬雨)。彼女がきた村にある一本のサンザシの樹は、抗日戦争で亡くなった兵士の血が染み込み、白い花が赤く咲くという伝説があった。反革命分子とみなされ迫害を受けている両親を救い絶望的な家庭環境からぬけるためにも、教師になりたいというよりもならなければならなかったジンチュウだったが、同じ村に地質調査をするために滞在していた青年スン(ショーン・ドウ)と出会い、お互いに淡い恋愛感情を抱くようになる。

スンは、長身で爽やかな笑顔の好青年。しかも、高収入(なのは理由があったことが後でわかるのだが)で育ちも人柄もよく誠実で・・・と、ママ的には娘の婿としてはこれ以上の物件はそうそうないでのはないかと思える。こんな理想的な青年と無垢な乙女は、14億の中国人受けを意識している。彼らが美しければ美しいほど、恋の悲劇がきわだってくる。そう、純愛を成立させる大きな障害に中国の歴史と時代性をもってきたのが、チャン・イーモウ監督だった。それは、おかしくも悲しい文化大革命だった。中国の多くの映画で描かれてきたこの国の歴史的な運動は、喜劇と悲劇がまだ身近なだけに中国人の心を生々しく今でもゆさぶるのだろう。但し、映画で描かれているのは文革の歴史性にしかれた青春ではなく、あくまでも純愛にある。その点で、本作はチャン・イーモウ監督の『初恋のきた道』と同じ路線の恋愛映画の王道である。スラリと手脚が長く華やかな美貌の女優という職業にふさわしい容姿のチャン・ツィイーとは全然タイプの違うチョウ・ドンユィ、彼女は小柄で地味な顔立ちの癒し系。演技力よりも普通で今時珍しい幼い素朴さが、本作のイメージにあったのだろう。いずれにせよ、きちっと編んだおさげ髪が似合うことがポイントだ。

そして、愛すればこそ男として恋人の体を抱きしめるのか、それとも触れずに見守ることが本物の愛なのか。文革の嵐が吹き荒れ、ジンチュウのおかれた状況を考えれば、あれがスンとしての精一杯の”行為”だった。いかに、彼女を深く愛しているか伝わってきて、それがいっそう涙を誘う。深いふたりの愛の前に、名前は必要ない。
しかし、もし時代を現代においたらどうであろうか。いくら草食系でも自らの将来を覚悟したスンはまた違う判断をしたのではないだろうか。相手を優しく守る気持ちよりも、自分の愛を貫くために。そして、それが本当の愛情に対する誠意ではないだろうか。
意外にも、映画がおわって私の心にうかんだのは、与謝野晶子の次の句だった。相手に触れてこそ、恋じゃないかっ?

「柔肌の 熱き血潮に触れもせで 淋しからずや 道を説く君」

監督:チュン・イーモウ
2010年中国

■こんなアーカイヴも
「兄弟」余華著
「さすらう者たち」イーユン・リー著
「毛沢東のバレエダンサー」リー・ツンシン著
二つの戸籍をもつ中国・・・本作よりもはるかに好みの映画『小さな中国のお針子』のオマージュ
映画『天安門、恋人たち』

『ベッカムに恋して』

2011-07-19 22:19:58 | Movie
【なでしこ世界一!】

女子W杯 ▽決勝 日本2(PK3―1)2米国(7月17日・フランクフルト) FIFAランク4位のなでしこジャパンが、同1位で3度目の優勝を狙う米国をPK戦の末下し、女子W杯で初優勝した。日本は1―2の延長後半12分にセットプレーからMF沢が押し込んで同点に追い付いた。PK戦ではGK海堀が好セーブを連発し、日本が頂点に立った。沢は通算5得点で得点王に輝き、MVPを獲得した。 PK4人目に登場したのは、まだ20歳のDF熊谷だった。将来のなでしこを引っ張る背番号4は、ボールをセットすると落ち着いてゴール左上に蹴りこんで、日本の優勝をつかんだ。

「米国もパワーとスピードだけでなく、しっかりとした技術があり、欧州勢も素晴らしかった。
女子サッカー全体が創造的になってきている」―佐々木則夫監督談話より。


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決勝戦は、日本のスポーツ界の歴史をつくっただけでなく、世界のサッカー界の伝説までつくったと思う。あのなでしこたちの不屈の精神、最後まであきらめないたくまさしさと粘り強さ、そしてサッカーが大好きという気持ちがこぼれているようなあの笑顔!本当に感動をもらったよ。近年、日本でもサッカーにうちこむ小学生や中学生の女子選手が増えているそうだが、今回のW杯制覇は女子サッカーの裾野を更に広げて、未来のなでしこ予備軍の活躍も期待される。

今回、準優勝になった米国で女子サッカーが誕生したのは、40年前の教育修正法がきっかけだった。それ以来、米国が重んじる”男女平等”や”勤勉”の象徴として女子サッカーが位置づけられたこともあり、今や競技人口は300万人を超える勢いおいだ。教育熱心な中上流家庭の母親は試合会場への送迎に勤しみ、90年代以降は「サッカー・マム」と呼ばれて、社会現象にまでなった。

さて、英国に移住したインド人家族の次女、ジェスの場合は・・・。
インド系英国人のジェス(パーミンダ・ナーグラ)は、ベッカムがごひいきのサッカー大好き少女。兎に角、サッカーが大好きで両親には内緒で男子たちに混じってサッカーに興じる。そんなジェスのプレーを見ていて関心を寄せたのは、地元の女子サッカー・チームのエース・ストライカー、ジュールズ(キーラ・ナイトレイ)だった。ジュールズに誘われ、コーチのジョー(ジョナサン・リース・マイヤーズ)にも才能を認められ、益々サッカー熱がヒートアップするジェス。しかし、彼女の最大の敵は相手のゴールキーパーではなく伝統と保守を重んじるパパとママ、そしてインド系の社会だった。娘が脚を露出するはしたない格好で走り回る姿を見て仰天するママと、若い頃、英国の人種差別にはばまれクリケット選手をあきらめたパパの心配もジェスにはわかる。サッカーよりも料理の腕をあげ、弁護士になり、インド人と間違いなく婚約することを期待する両親と大好きなサッカーをする夢との間に、悩みまどうジェスだったが、とうとう誤解から彼女のせいで姉の婚約が破談になってしまったのだが。。。

米国で男女平等の象徴となるスポーツのサッカーが、インド社会では逆に女子がするにはふさわしくないスポーツとなる。インドの伝統を、男女差別意識や偏見ときるのは簡単だが、やはり、それぞれの文明や文化を尊重しなければいけない。英国で根をはって暮らしていても、彼らの生きる社会はやはりインドの社会なのだ。それにサッカーが盛んで労働者階級出身の若者がはいあがれるチャンスは、ミュ-ジシャンになるかサッカー選手になることだと言われるイギリスでも、女子サッカーは男子に比べて完全に低く軽視されている現状も本作から伝わってくる。様々なことに逡巡し、家族のために一旦は夢をあきらめかけたジェスが、自ら道を切り開いていく雄姿が、サッカーを知らない私でもつい身をのりだしてしまう。

ジュールズのママは、ひとり娘にはなんとか男子ウケするように胸を盛り上げ、ひらひら女の子らしいファッションをしてもらいたいと一生懸命な姿にユーモラスさをちりばめ、姉のド派手なインド式結婚式に重要な試合が重なりという祭りだワッショイ風エンターティメント性もあり、最後は一途なジェスを応援したくなる。そう、彼女にとって誰のものでもない自分の人生だから。

日本の女子サッカーの代表選手たちも遠征費用を用意できず、交通費節約のため国内合宿を関東と関西で別々に行ったこともあった。景気悪化で企業クラブの廃部が相次ぎ、2000年シドニー五輪のチャンスはなかった。そんな中でも選手たちは懸命にプレーを続け、情熱だけが強みで「今はだめでも未来の選手のために頑張ろう」と走り続けた努力が実った。なでしこリーグの観客も200人程度しか集まらないことも珍しくないし、サッカーに専念できる環境もそう多くはない。しかし、なでしこジャパンが世界の頂点にたてたのは、決して夢をあきらめなかったからだ。

原題:「Bend It Like Beckham」(ベッカムのようにカーブして)

あの時代が残したもの

2011-07-18 09:53:25 | Nonsense
早朝、「なでしこジャパン」の日本のスポーツの歴史をつくった大金星の活躍には、久々に胸が躍った。ルールを設けて、正々堂々と闘って勝利するということにこれほど盛り上がるということに、人間にはよきにつけ悪しきにつけ、本来、闘争本能が装備されていることを実感した。それが、スポーツという素晴らしいフィールドで表現されるのが近代の文明ということだろうか。

ところが、時代が違えば、列車に間に合っていたら、もしかしたら自分の中にもあるかすかな闘争本能が権力や体制に向かっていたかもしれない、と思ってしまうのも60年代の学生運動だ。産経新聞社会部がまとめた「総括せよ!さらば革命的世代」より、リアルタイムで続いている某大学と党派の攻防を前総長(1994~2002年)で現在は学事顧問を務める奥島孝康さんのインタビューから。。。(詳細は本書を読まれたし)

W大学の学園祭は日本一の学祭で入場者の数は15万人!当時の学祭期間中は、学生や教師であっても入場券かわりの1冊数百円のパンフレットを購入しないとキャンパスに入れなかったそうだ。たこ焼きを売って、サークルの活動費を稼ぐという可愛いらしい規模ではない。何しろ、マンモスで人気大学。その売上金は、自治会の主導権を握るある(わかる人にはわかる)セクトの資金源に流れていった。公安関係者によると、サークル補助金の流用も含めて、このセクトに流れていった資金は年間2億円を超えた。

一方では、大学側も不審な新興宗教や悪質な商法をキャンパスから追い出してくれ、セクトをうまく利用すれば学生管理もしやすいという大学側の目論見もあった。
しかし、奥島さんが特に問題視したのは、学生大会でストライキ決議が可決された期末試験の中止というのが、慣例化されていたことだった。なにしろ、値上げもしていないのに、値上げ反対スト決議が可決という事態すら生じ、ちょっと失笑してしまったが、こんなことが長年続けば教育が荒廃すると立ち上がったのだが、学生を追い詰める必要はないと大学執行部は及び腰。当該派に批判的な姿勢をみせようものなら、盗聴器で次々とスキャンダルを暴露されていたからだ。アジトから奥島さんの自宅の鍵もでてきた。こうした慣例を振り切り、93年1月23日、奥島さんは法学部長時代に期末試験を強行する。(おにぎりをほおばりながら教室前でピケをはって抵抗したのが40、50代のおじさん活動家だったというのは、物悲しいが・・・。)激しくもみあいながらも、拡声器で教員が「試験は予定どおりに行う」と伝えると学生が教室になだれこんだ。この事態は、その後の大学VS○○○派との攻防の分水嶺だったのではないだろうか。95年に各学部自治会の公認を次々と取り消し、自治会費の代理徴収もやめ、ついには経理に不透明な大学祭そのものも中止するという手段をとった。

12年に渡る闘いをしてきた奥島さんだが、思想的には”左”で60年安保闘争の時には、クラス委員として赤い腕章をつけてデモの先頭にたっていたそうだ。ともに闘った今も大学に残る”同志”への取材は、大学側からリスクがあるのでと断られた。表面上では、放逐された(撤退した)活動派は、今でも大学近くに拠点をもち潜伏しながら活動を続けているという。

また関西のD大学のように、学生の自治組織「学友会」を解散するところも表れた。同大学の学友会は、自治会とサークルの代表で構成される学生組織で、各サークルからスタッフを定期的に送り込むシステムが定着していた。予算は1億円。しかし、学生気質もかわり、学友会への関心は薄れ、自治会選挙の投票率も低下。学生自治の大切さを認識はしていたが、カルト宗教や特定の政治セクトにのっとられるよりは、休止するよりも2004年に解散を選択した。自治会をなくして本当によいのか、と考えなくもないが、これも時代の流れだろうか。歴史に終止符をうった最後の委員長の決断は、はたして正解だったのか、それとも早計だったのだろうか。

■アーカイヴ
産経新聞社会部がまとめた「総括せよ!さらば革命的世代」

「総括せよ!さらば革命的世代」産経新聞社会部

2011-07-16 09:40:42 | Book
大学1年生の秋、学内でひとりの大学生が内ゲバで襲われた。現場を目撃したサークルの先輩情報だったので詳細は不明だったが、大学という学び舎で白昼堂々と暴力行為が多くの学生がいる中で行われたということに衝撃を受けた。しかも、被害者は友人だったかも知れない同じ大学生。私が入学した時は、学生運動はとっくに衰退していたが、授業料値上げでロックアウトにより試験がレポート提出となったり、ヘルメットをかぶった人がビラを配り、タテカン、某政党に所属するカオも頭も育ちもよい学生が授業がはじまる前にやってきて話をするオルグ活動もあった。またそういう大学でもあった。昔のよど号ハイジャック事件、あさま山荘事件、内ゲバ、何も知らなかったが、何も知らないだけに学生運動に対して恐怖心と嫌悪感が残されたのが、60年代以降の三無主義のシラケ世代。考えてみれば、催涙ガスをあびることもなくまともに授業を受けられて運がよかったのか、全共闘世代の負の遺産に去勢されながらも残り香をかいだために、次の個人主義的な享楽を求める世代とも価値観があわず、私たちって不運な谷間の世代なのだろうか。

しかし、そもそもあの時代、40年前のキャンパスで何が起こったのか。時代をゆるがすような盛り上がりをみせた運動が急に沈静化していった理由は。本書は、全共闘運動を知らない30代の産経新聞記者による時代の証言者のインタビューを集めた一冊である。

革命家・重信房子、元日大全共闘議長の秋田明大、赤軍派議長だった塩見孝也、作家の三田誠広や立花隆、西部邁、あさま山荘事件で広報担当幕僚長だった佐々淳行、数多くの発言が並ぶが、所謂著名人でない市井の人になった方は、ほぼ全員匿名希望だったのが印象に残る。

バリケードの外から見ても本当に革命が起こるのではないかという盛り上がりに命がけだったと語る人もいれば、女にもてたかったと語るものがいる。課長、島耕作だったらファッションとして関わるだけ。どちらも正直な感想であり、だから盛り上がりもあったのだろう。無責任にノスタルジックにひたれるのはつつがなく社会生活にスライドできたからであろうか、トップレベルの国立大学に進学しながらずっと社会的には不遇な暮らしを送りつつも、今でも無血革命の理想を追い求める老いた戦士も登場する。ただ、様々な証言からうかんできたのは、当初の学生運動の動機は、誰もが共感できるしごくまっとうなものだったということだ。インテリが集まる東大で大学解体を掲げる賢い学生の反乱だとしたら、日大闘争は間違ったことにおかしいと言っただけの百姓一揆。実際、安田講堂攻防戦を指揮した佐々淳行さんは、68年に日大使途不明金問題の捜査でロッカーから一杯に積まれた2億円もの札束!を発見するという事件に遭遇した。日大価格は、学生に1点1万円、裏口入学の相場が800万円だったそうだ。警察側の佐々さんですら、日大で、秋田明大の演説に心を打たれ、「言っているとおりだったんだよ。彼らの怒りは当たり前だった」と百姓一揆のそれなりの理由に同調している。労働者をはじめとした、社会市民の理解をえられたのも初期の頃だった。

間違ったことに疑義を唱え、改善を要求した学生による大学改革が、いつのまにか一部の尖鋭部隊によって世界革命という大層なことに向かい、またきわめて残酷なる内ゲバ闘争に向かっていたのか。映画監督で『実録・連合赤軍』を撮った若松孝ニさんによると「集団があると権力者が生まれ、権力を握った者はそれを守ろうと内向きに攻撃をはじめる。相撲部屋のリンチが起きたように、どんな組織でもおこりうる」そうだ。一般的なノンセクトの活動家だったが、理系の知識を頼られかかわるうるに実行犯になったHさん(本書では実名)の、周囲がより厳しい状態に追い込むことで本人が成長できる発想は、社員教育や体育会にもそうした風潮があり、あの時は制裁ではなく教育のためという考え方に陥っていたという証言は、いかにも日本的で印象に残る。

その一方で、多くの学生はヘルメットを捨て、長髪を切り、Gパンからダークスーツの資本主義の企業戦士へと転向していった。(そういえば、内ゲバ事件を目撃した先輩の好きな歌がユーミンの「いちご白書をもう一度」だった。)長年、彼らの変わり身の早さと合理的な考えが謎だったのだが、哲学者ヘルベルト・マルクーゼの「体制の外側からの革命ではなく、体制に身を置いて理想を実現せよ」とうダブルスタンダードの高等戦術でわりきれることを理解した。なるほど、この理論だったら私だって革命家として企業に潜伏していると考えることができる。しかし、ノンポリの立場を貫きこだわった大塚将司さんによるとその後動きだした気配もなく、実は体現すべき自己がなかったのではないかという厳しい批判も伴う。組織の中で闘う学生運動の構図に慣れた人たちにとって、むしろそのままカイシャという組織の中に所属することは何ら違和感がなかったのではないかとも想像する。

本書は予想外におもしろかったのは、取材した人は100人以上というそれぞれの人のそれぞれの総括?に考えさせられるものがあったからだろうか。それでもいまだに総体としてひとことではとらえることができないのもあの時代だ。
「おいしいところだけもっていった彼らは、時代の熱狂と自分たちの青春時代が偶然にも一致した幸福かつ不幸な世代」(鴻上尚史)
「誰もが他者のことを考えるかけがえのない”われらの時代”」(川本三郎)
あらためて私も問いたい、彼らが社会から引退してしまう前に、総括せよ!

チャイコフスキー国際コンクールの幕がおりる

2011-07-15 22:54:23 | Classic
うっかりしていたが、今年はチャイコフスキー国際コンクールの年だった。
早速、ジャパン・アーツから「チャイコフスキー国際コンクール優勝者ガラコンサート」の案内チラシが届く。今回の優勝者の特徴としてわが日本からは誰も入賞者がいないことと韓国勢の台頭が著しいことだろう。
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◆ピアノ部門
第1位 ダニール・トリフォノフ 20歳(ロシア)*聴衆賞も併せて受賞
第2位 ソン・ヨルム 25歳(韓国)
第3位 チョ・ソンジン 17歳(韓国)
第4位 アレクサンダー・ロマノフスキー 26歳(ウクライナ)*クライネフ特別賞も併せて受賞
第5位 アレクセイ・チェルノフ 28歳(ロシア)

◆ヴァイオリン部門
第1位 該当者なし
第2位 セルゲイ・ドガージン22歳(ロシア)*聴衆賞も併せて受賞
第2位 イタマール・ゾルマン25歳(イスラエル)
第3位 イ・ジヘ25歳(韓国)
第4位 ナイジェル・アームストロング21歳 (アメリカ)
第5位 エリック・シルバーガー22歳 (アメリカ)

◆チェロ部門
第1位 ナレク・アフナジャリャン22歳(アルメニア)*聴衆賞も併せて受賞
第2位 エドガー・モロー17歳 (フランス)
第3位 イワン・カリツナ18歳(ベラルーシ)
第4位 ノルベルト・アンゲル24歳(ドイツ)
第5位 ウンベルト・クレルチ30歳 (イタリア)

◆声楽部門
<女声>
第1位 セオ・スンヤン<ソプラノ>27歳 (韓国)
第3位 エレーナ・グーセワ <ソプラノ> 25歳(ロシア) *聴衆賞も併せて受賞

<男声>
第1位 パク・ヨンミン<バス>24歳 (韓国)
第2位 アマルトゥヴシン・エンフバット<バリトン>24歳(モンゴル)*聴衆賞も併せて受賞

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1958年、旧ソ連政権下で、国の威信をかけたはじまった4年に一度のチャイコフスキー国際コンクールは、数々ある国際コンクールの中でも、注目度、レベルの高さでも群を抜いている。また、作曲家の冠をつけたコンクールは、ショパン、ヴィニヤフスキーなどもあるが、幅広い部門で競い合うチャイコフスキー国際コンクールは華やかさでも際立っている。ところがこのコンクールの歴史をみると、1990年代頃にはスポンサーに恵まれずロシア人に有利と審査に疑問視する声がでるようになった。と言っても、ヴァイオリニストの諏訪内晶子さんが最年少でしかも全審査員の一致による優勝したのは、1990年。2000年代に入ると、コンクールで使用される楽器としてもYAMAHAやトヨタ自動車が大口スポンサーになると日本人演奏家たちが入賞するようになり「見えざる手が作用している」とまでささやかれ、近年では、入賞にはコネとカネがものをいうとまで悪評がたった。確かに、神尾真由子さんの演奏を聴いていると実力的には申し分ないが、更に名器で演奏できるバックボーン(カネ)の力も大事だと思わされた。

そんな声を受けて、ロシア政府はコンクール組織委員長にロシアの名指揮者ヴァレリー・ゲルギエフを任命して大改革を推進。人脈を使って、審査員にウラジミール・アシュケナージ、アンネ=ゾフィー・ムター、ウラジミール・オフチニコフらの錚々たるカオを呼び、審査員の誰ひとりとして参加者の指導者であってはならないという決まりを遂行した。また、本選の生中継をしてインターネットで人気投票も受け付けた。その結果、特に声楽部門を男女ともに韓国人だったことは、快挙といえよう。これには韓国人がもともと声質に恵まれているうえ、英才教育の成果が現れたという意見もある。しかし、私はヴァレリー・ゲルギエフの「説得力ある演奏が評価された」という言葉が気になっている。

「チンチン電車と女学生」堀川惠子・小笠原信之著

2011-07-10 17:00:40 | Book
1945年8月6日、ヒロシマ。
その日の広島は、雲ひとつない快晴の日だったという。午前8月15分、原爆が投下された時も市内をいつもどおりに走っていた路面電車は70車両で、そのうち7割の通称チンチン電車の運転手と車掌を務めていたのは、14歳から17歳の女子学生たちだった。彼女たちは、戦局がつのり、男性乗務員が次々と戦地にとられた穴をうめて、懸命に電車を走らせていたのだった。

そういえばそんな話を聞いたことがある。本書は「モスクワの孤独」で深い感銘を受けた米田綱路氏による「書評的対話」で、ジャーナリストの小笠原信之さんとの対談でとりあげられていた一冊である。昨日乗った地元のバスの運転手は、女性だった。近頃では、女性がバスの運転を務めていてもさほど珍しくもなくなった。それに、彼女の乗客や歩行者に配慮した運転技術と勤務ぶりは、これまでの男性運転手たちの中でもぬきんでている。しかし、あの時代に、少女たちが路面電車を運転していたという事実には、多少の驚きと違和感を感じるのは正直な感想だ。少女たちは、1943年に開校してわずか2年半だけ存在していた”幻の女学校”「広島電鉄家政女学校」で学びながら、勤務する勤労女子学生だったのだ。

本書は、広島電鉄ですら忘れられていた事実を、当時、広島テレビの報道記者だった堀川惠子さんが広島市政に関わる取材で、広島電鉄を訪問した際に、たまたま偶然従業員から聞いた話からはじまった。その時、被爆電車「650形」の前で何気なく話された”幻の女学校”という言葉に、堀川さんは頭の中で火花が散るほどの衝撃を受けたそうだ。男性社員の空席をうめるために開校された広島電鉄家政学院。大きな歴史の中にうずもれていた少女たちの小さな歴史を、彼女は執念で倉庫の大量の段ボール箱から女学生名簿を見つけ、また広島大学原爆放射線医科学研究所による航空写真で女学校の姿を確認してほりおこしていく。

原爆を生き延びた少女たちの証言からは、戦下の中でも生き生きとした青春が伝わってくる。彼女たちが家政学院に進学した理由は、経済的な理由によるところが大きい。貧しくて進学を断念していた少女にとって、寮に入り、わずかな給料をもらいながらも勉強できる学び舎は希望の場でもあった。厳しい寮生活の中でも向学心をもちながら、家族を思い、友情を育み、公的交通機関の乗務員としての高い職業意識を学び、そして男女交際が禁止された時代にささやかな初恋に胸を高鳴らせることもあった。そして、あの日も、いつもどおりに晴れ渡った空の下、さまざまなことを思い、感じながら、おさげ髪にきりりと鉢巻をしめてにチンチン電車に乗務して懸命に働いていた。そんな少女たちの、ひとりひとりの大切な一日、大切な時間が、あの日、一瞬のうちにすべてが焼き尽くされたのだった。

本書の著者は、経歴からもわかるように映像の人である。映像の力を信じる人らしく、声高に反戦を訴えることもなく、おそらく酸鼻をきわめたであろう被災者たちの姿を詳細に披露することもなく、敗戦後、男性乗務員が戻ってくると学校も閉校し、失職した少女たちの姿に男女差別を論じることもない。しかし、それゆえに、読者に多くの考える余地を残してくれたと思う。与えられるのではなく、さりげない日常や少女たちの姿から感じ、考えることが、むしろ読者の心にしっかりとさまざまなことを根付かせている。

今年も8月がやってくる。戦争を証言できる人たちが少なくなる中で、本書は今の少女たちこそ読んでほしい貴重な一冊である。原爆投下された3日目に、あたり一面廃墟となった広島の街をチンチン電車が走っていたそうだ。運転をしていたのは、広島電鉄家政学院の第二期女学生だった。

■こんなアーカイヴも
・映画『二十四時間の情事』
「菊池俊吉写真展―昭和20年秋・昭和22年夏」 

「サイモン・ラトル ベルリン・フィルへの軌跡」ニコラス・ケニヨン著

2011-07-09 19:45:49 | Book
今から12年前の1999年6月23日、世界最高峰のオーケストラと評されるベルリン・フィルハーモニー管弦楽団が、次期音楽監督にそれほど知名度がなかったサイモン・ラトルを指名した。ラトルの名前は、極東の日本の新聞にまで掲載されたことからも、このオケの音楽監督が特別な地位だということがわかる。当時の下馬評では、ベルリン・フィルをものにするのは、年齢、キャリア、実力、知名度、人気の総合点ですべてにおいてバランスよく高得点をとりベルリン・フィルの伝統を継承するにはふさわしいとされたダニエル・バレンボイムだったが、楽団員の選挙では特にロビー活動も選挙運動もしなかった対抗馬のラトルが勝利した。(ちなみに”第3の男”として浮上したダークホースがカラヤンの薫陶を直接受けたマリス・ヤンスンス)
サイモン・ラトルとはいったい何者なのか。インタビュー嫌いと言われるラトル自身の豊富な発言、当時の家族や証言者からインタビューに加えて、本書はベルリン・フィル音楽監督にラトルが導かれた道のりが、ロンドン在住の批評家の著者によってあきらかにされたのが本書である。

ラトルは、1955年1月19日リヴァプールに、趣味としてジャズ・ピアノを弾く両親のもとに生まれたが、特別な音楽の英才教育を受けたわけではなかった。平均的な家庭で唯一特殊だったのは、9歳年上の姉スーザンの存在だった。聡明な頭脳をもちながら肉体的には障碍のあった彼女の存在なくしてラトルは語れない。4歳の時のクリスマスに買ってもらったドラム・セットを叩き壊すくらい音楽に熱中している弟に、自宅で過ごすことの多い姉がもたらしたものは、図書館から借りたシェーンベルク、ショスタコービッチなどの多くの20世紀音楽の楽譜とそれらの読み方を教えられる時間だった。小学生のラトルは、姉からてほどきを受けて、実際の年齢よりはるかに上のオトナの精神構造でレコードや音楽を聴きながら、まるで漫画を読むように譜面を読めるようになった。彼は神童ではない、と私は思う。しかし、彼が過ごした幼少年期はきわめて特殊な時間だったことは間違いない。労働者、中産階級のこどもだった彼は、まるで映画『リトル・ダンサー』のような状態で学生オケに参加するまで友人がいなかったそうだ。また、小学生で熱心に毎晩ラジオから流れる音楽を聴く息子のために、夕食は7時半までに済ませて、ラトルが音楽を聴く時間をつくったのは両親だった。

やがて、16歳でロンドン王立音楽院に進学し、学生オケを振るようになった彼は、ジョン・プレイヤー国際指揮者コンクールで優勝。1976年、まだ若造の身分でニュー・フィルハーモニア管弦楽団を指揮してプロ・デビューした。この演奏会では、きめ細かく威厳をもった指揮でオーケストラの心をつかみ輝かしいスタートをきった。その後、すべてが順調だったかと問われれば、そんなことはない!のも音楽業界だ。指揮者という商売もオファーがあって成立する完全なるフリーター家業。しかも、常に聴衆と批評家、そして何よりも怖い楽団員の評価にさらされている。クラウディオ・アバドのように健康面で難ありではせっかくの地位が続かないし、最後の帝王リッカルド・ムーティのように指揮台から転落しては自分の指揮者人生そのものも転落しかねない。フラデルフィア管弦楽団からは「求む、音楽の天才 セックス・アピールある者 英国人のラトルはまさに当てはまる」と新聞が掲載してまで熱心にくどかれだが、某世界的オケからは冷たくあしらわれ、演奏会も失敗に終わり傷心して永遠の決別をすることとなった・・・。

しかし、ベルリンフィルのポストをもたらしたラトルの最大の魅力を、著者は彼が「21世紀の指揮者」だからと説明している。
サイモン・ラトルはなぜ高く評価され、彼の創りだす音楽と他者の違いは何か、回答はひとつ、今日活躍する最も優秀な指揮者の中でラトルが最も多岐にわたった音楽様式に精通している点である。彼ほど、豊富なレパートリーをもち、しかも非常に高いレベルで異なった種類の音楽を指揮できる者はいないのである。ダニエル・バレンボイムが素晴らしい指揮者であることに異論はない。もし、彼がベルリン・フィルの音楽監督になっても大成功し、批評家たちも満足するだろう。しかし、世界的にクラシック音楽界は商業的には低迷している。カラヤンのように楽譜なしで颯爽と指揮台に立つラトルは、まだ若くテレビ映えもするあかるいカリスマ性と楽員が必要とされた時重要な指示をだしてショーマンシップすらものぞかせる大器。結局、ベルリン・フィルはドイツ音楽の伝統と重みよりも、リスクが伴っても若くエネルギッシュでリハーサルでも全力で挑み、エキセントリックな「革新」に舵をきったとはいえないか。私はウィーンでサイモン・ラトルが指揮をするバーミンガム市交響楽団のショスタコービッチを聴いたことがあるのだが、あの時のショスタコービッチほど、生き生きとした音楽はないと思っている。本書を読むと20世紀の音楽を聴き、ドラムを叩きまくった少年時代の彼の音楽性の原点に納得するものがあるのだが、即ち、とても楽しかったということだ。そして、2002年秋に就任して以来、確かにベルリン・フィルにはアグレッシヴさが加わったような感じが私はしているのだが。

ところで、ベルリン・フィルが次期音楽監督を発表する前日に、奇しくも?ウィーン国立歌劇場の音楽監督に小澤征爾が就任すると発表された。先手必勝なのもこの業界?!

■けっこういろいろあったアーカイヴ
映画『ベルリン・フィル 最高のハーモニーを求めて』
・ベルリン・フィルを退団する安永徹さん
「コンサートマスターは語る 安永徹」
ドキュメンタリー映画『カラヤンの美』
ヴィオラ奏者清水直子さんの「情熱大陸」
樫本大進さんがベルリン・フィルのコンサートマスターに
「近衛秀麿 日本のオーケストラをつくった男」大野芳著←日本人にして初めてベルリン・フィルを振った指揮者
「オーケストラ大国アメリカ」山田真一著
「バレンボイム/サイード 音楽と社会」A・グゼリアン編
映画『オーケストラ!』