千の天使がバスケットボールする

クラシック音楽、映画、本、たわいないこと、そしてGackt・・・日々感じることの事件?と記録  TB&コメントにも☆

『モリエール 恋こそ喜劇』

2012-02-29 22:27:38 | Movie
フランス人の180万人もの動員して観客満足度96%!
この本国では大ヒットしたが、日本ではプチ不発に終わったのがコメディの恋愛映画『モリエール、恋こそ喜劇』である。フランス人と日本人の笑いのセンスは、多少違うのか?

ところで、フランスが誇る17世紀の劇作家のモリエールの本名は、ジャン=バティスト・ポクラン(Jean-Baptiste Poquelin)。フランス人にとっては、本名の方もよく知られているのだろうが、日本人にはあまりなじみのない長い名前は劇中にもしばしば登場して、慣れるまで多少の時間を要した。それは兎も角、かのモリエールは若かりし頃に旗揚げした劇団が経営難に陥って、破産宣告を受けて投獄をされている。まだ無名の22歳の時、再び破産で投獄されたモリエールは、釈放された後、数ヶ月間、忽然と姿を消していたという。どの伝記にも空白のこの期間、彼はいったいどこで何をしていたのだろうか。

こんな数ヶ月間の隙間から創造されたニッチな隙間産業のような本作は、なるほどとびきりお茶目なコメディ映画に仕上がっている。喜劇が得意だったモリエールに負けず劣らず、現代の映画監督や脚本家のセリフや構成はセンスも抜群でうまい!

モリエール(ロマン・デュリス)は、借金返済の肩代わりに、とある資産家の商人ジョールダン氏(ファブリス・ルキーニ)が社交界に君臨する生意気なセリメーヌ(リュディヴィーヌ・サニエ)に取り入るために身分を隠して働く役割を引き受けることになってしまったのだった。しぶしぶ手入れの行き届いた美しい館についていくモリエールを迎えたのは、おまぬけなジョールダン氏にもったいないくらいの賢夫人のエルミール(ラウラ・モランテ)。熟女マダムの知性と賢さ、美貌にいつしかひかれていくモリエールだったのだが。。。

とってもとってもお金持ちなのだが貴族という身分にコンプレックスをもち、しかも身の程知らずにもなんとか若い娘のセリメーヌにお近づきになろうと涙ぐましい策を弄するジョールダンを演じた俳優は、そこに立っているだけで体型も含めて日本の中年オジサンとそっくり同じで笑える。オジサンの生態と行動は、古今東西あい変らずか。浮気を必死に画策しながら実は詐欺師にだまされている”お人よし”というキャラが、喜劇を倍増して憎めない。そういえば、cocueというフランス語もあった。必死で他の女性にとりいろうと無駄な努力をしている一方で、妻を若い男性に寝取られてしまうのだが、にくめないお人よしのキャラがモリエールを凌駕していると思う。このおっさんこそ、最高の主人公だ。さりげない性的なユーモアも、わかる人にはわかるところがフランス風。

ところで、せっかく練られた脚本も、我が国内ではいまひとつ不発だったのは、やはりモリエールの作品が日本人にはそれほど周知されていないからではないだろうか。せめてモリエールの戯曲「町人貴族」や「人間ぎらい」のベースがあれば、もっと映画の中のウィットやひねられたユーモアを楽しめたのに、と思うとちと惜しい気がする。それはさておき、英国にはシェークスピアがいたが、フランスにはモリエールがいた!

監督:ロラン・ティアール
2007年フランス製作

「父さんの手紙はぜんぶおぼえた」タミ・シェム=トヴ著

2012-02-19 12:05:50 | Book
「父さんの手紙はぜんぶおぼえた」
この文章のタイトルを読むと、どうして、何のために、手紙の内容を覚えたのだろう、という疑問に誰しも自然に導かれるのではないだろうか。そして、何かの事情があって手紙をすべて暗記できるくらいに心に刻んだのだろうかと。

1940年、ナチス侵攻の猛威はオランダにまで及んだ。当時のことで私たちが最もよく知っているのは、「アンネの日記」だ。アンネ・フランクは父オットーの会社の社員の隠れ家に他の家族と一緒に音もたてずにひっそりと暮らしていた。この本を愛読していた身内の者が、今はアンネ・フランク財団が管理するプリンセンフラハト通り263番地の隠れ家を訪れた時、そのあまりの狭さに驚いたと言っていたのを思い出した。本書の主人公も10歳のユダヤ人の少女だった。しかし、彼女がアンネと違っているのは、ユダヤ人であることを隠してオランダ人らしい「リーネケ」という仮の名前をつけられ、家族と離れ離れになって生物学者の父の知人である医師たちの家を転々としながらオランダ人として日常生活を送っていたのだった。勿論、少女だけでなく、彼女を受け容れた家族全員にとっても命がけのことだった。

ユダヤ人であることが決してわからないように、日々緊張しながらも、真面目で誠実なドクター・コーリーとその妻の陽気なフォネットに優しく守られて暮らしているリーネケの一番の楽しみは、父さんから小さな絵本のように綴られた手紙が届くことだ。しかし、手紙は読んだらすぐに処分しなけらばならなかった。手紙は、地下抵抗活動をしている人々によって、密かに運ばれたもの。万が一、ナチスの手に渡ったら、すべての人に危険が及ぶために厳重に償却されるはずだった。表紙にあるのは、ドクター・コーリーが処分するのがあまりにも惜しく、危険を犯して地中深くにこっそりうめて残しておいた奇跡のような9通の手紙である。本書は父さんからの手紙をエポックに、両親が出会って恋におちた時のこと、家族との思い出、友人やドクター・コーリー家での暮らしが少女の素直な感性の繊細な目で描かれている。そして、戦時下でユダヤ人が次々と苦境に追い込まれ、強制収容所に連行されるようになったことも。

-1943年10月 愛するリーネケ

このように仮の名前で書かれた父さんからの手紙は、末っ子の娘への慈しむような愛情が溢れていて心があたたまる。時には、娘が手紙の返信をなまけていることを厳しく指摘しながらも、誕生日を祝い、成績がよく飛び級で進級したことに手離しで喜ぶ様子は日本のパパと同じだ。画家の心をもった科学者の父さんは、描かれている絵がとても上手で可愛らしく、家族と離れている娘をあかるい気持ちにさせようとユーモスに語りかけている。この手紙の原本は、ワルシャワ・ゲットー蜂起を記念するイスラエルのロハメイ・ハゲタオット記念館に2004年から展示されている。

それにしても、危険を覚悟で自らの良心や信念のもとにユダヤ人を守ろうとした人々がいたことだ。ユダヤ人姉妹のために隠れ家をつくるオーストリア人のコーイマンス夫妻、貧しい中、ユダヤ人をかくまうファン・ラール夫妻や14歳で家族とともに抵抗運動を続けるディーチェ。こういった人々の人間としての善意と強さは現在にも考えさせられるものがある。そして、アンネたちを密告するような人間もいることも。

戦争が終わってリーネケは、ようやく家族と再会することができた。写真で見る今のリーネケは70歳代とは思えないくらい、若々しくく溌剌とした美しいおばあちゃまだ。巻末に著者によるリーネケのインタビューも掲載されているのだが、失われた5年間という時間の重さも考えさせられる。戦時中、ユダヤ人の死亡率はイタリア、フランス、ベルギーでは20%だが、オランダでは70%ものユダヤ人の人々の命が失われた。オランダ政府がナチスに協力したからだ。多くのリーネケの命が奪われたのだった。

「ブレア回顧録」トニー・ブレア著

2012-02-11 19:07:34 | Book
1997年5月から2007年6月まで英国の首相を務めたトニー・ブレアの回顧録の原文は、「A Journey 」である。
このタイトルは、なかなかナイスではないか。毎回、スクリーンの中でヌード姿を披露しているからか?英国一の人気俳優ユアン・マクレガーは映画『ゴーストライター』で、自叙伝を出版しようとする首相の最後まで名前のない”ゴーストライター”役を演じていた。監督があのロマン・ポランスキーというだけでなく、元首相のモデルがトニー・ブレアという話題性も興行成績に結びついたと思う。

さて、映画を鑑賞した者としてはこれほど痛烈なパンチを浴びせられた当のブレア元首相に、良質と評価の高かった映画の感想を聞いてみたいものだが、実際の回顧録は政権をとる頃から退任に至るまで、ゴーストライターを使ったかどうかは不明だが3年間もかけて上梓した旅路では、予想外に自分自身の心の動きを含めて率直に語っている。その10年に渡る長くも短くもある「旅路」をふりかえることが、懺悔の旅路なのが、過去の栄光の残影を感じさせるものなのか、つい他国の人間としては皮肉な視点で読み始めてしまうのだが、計算された正直さは、そうとわかっていても読んでいて興味深かった。(残念ながら、時間の関係で私が読了したのは、上巻だけ。)

まずは、ブレア首相についてのおさらい。
久々に拝見した表紙のブレア首相はすっかりふけてごく普通の初老の男だが、自由主義経済と福祉政策を両輪にした第3の道を提示し、"New Labour"新生労働党を目標にして有権者の支持を集めて首相になった時は、弱冠41歳の若造だった。長年、典型的な労働者出身で固めた労働党をカルト集団とまで言い切るブレア首相は、当然ながら労働者階級出身ではない。勿論、写真の中のダークスーツを着た父親は、学者から弁護士になった保守党員。ブレア自身は、オックスフォード大学出身で弁護士となり、妻も弁護士というエリートの中産階級出身だ。それでは、何故、彼は汗くさい労働党員になったのか。

自分自身が支配階級にとってさほど重要な人物になれないことを自覚している点と、もうひとつは長髪、Gパン、はだしのヒッピースタイルの彼の写真が語っている。
「私の魂は、今も、そして今後もずっと、反逆児の魂であろう」

そうきたか・・・。その反逆児としての反骨精神は、まずは労働党の改革、そして国民の意識の改革に向かい、在任中は、医療サービス、教育、法律などの成果を挙げている。

次にどうして大衆は彼を支持したのか。戦後の英国における首相の中で最も知名度も高く、屹立しているのは、マーガレット・サッチャーだと言われ、ウィストン・チャーチルにも肩を並べると伝えられている。在任期間も10年と長期間だったのも影響力を与えられたのだろう。サッチャーは、経済的に行き詰った英国の現状から、ゆりかごから墓場までの社会主義的福祉国家路線を革命的に変換させた。民営化、市場競争原理の導入、労働組合を腰砕けにした”鉄の女”という名誉あるニックネームまでちょうだいした。そのサッチャーと比較されるのが、ブレアである。彼は、サッチャー政権により、向上心を刺激されて社会階層があがる機会を与える政策で新しく中産階級になる層をとりこむことに成功した。しかし、そのニュー中産階級を産むきっかけをつくったのはサッチャーであり、そもそもサッチャーを支持していた。しかし、トニーの父と同様、サッチャーは努力して何故成功しないのか理解できないタイプの人間だった。まるでできの悪いこどもを理解できない母親のようだが、彼女が性格的にも弱者切捨ての”鉄の女”だったのは否めない。

そこに登場したのが、まるで民主党のように弱者にも優しい人間味にあるブレアのニューレーバー&ニューカントリーだった。そして、政治家としては若いブレアは見事に”普通の人々”を奪うことに成功した。永年、野党に甘んじていた旧態依然たる労働党から彗星のごとく飛び出したトニー・ブレアに、大衆は喝采した。訳者の分析で大変興味深かったのが、サッチャーが保守党のアウトサイダーであり、党首流派に反乱を起こしたとすれば、ブレアも労働党の中でもアウトサイダーであり、反逆児だった点で似ていると述べていることだ。そして、ブレア自身も党派をこえてサッチャーの実現した変革を支持することを告白している。

また、ブレア首相の人物像については、私は現実をみる合理主義者であるという感想をもった。失礼な言い方をすれば抜け目のない人物。自伝ではなく回顧録という形式で、関心のあるチャプターだけでも読んでもよい形式からか、政治家としてのテクニックに感心こそすれ、彼が政治家をめざしたきっかけや目標などが今ひとつ見えてこない。もっとも生まれ変われるのであれば、弁護士ではなく産業の分野でイノベーションを起こしたいという発想から、根っからの保守派ではなく革新派だ。愛妻との間に、4人のこどもを持つくらい家庭的なイケ旦。但し、育児にはそれほど熱中できないようで育メンにはなれそうにない。政治家の常らしく、饒舌な男でもある。プレゼンテーション能力が高く、コミュニケーション力もある。一般的な英国人というよりは、米国人に近い印象をもったのだが、やはり、親米派で特にクリントン大統領を政治家としても尊敬しているのが記憶に残る。

余談だが、英国のマスコミの対応に何度も怒りと悲鳴をあげていて、マスコミ対策に追われているのは、悲劇と喜劇だった。下巻は、いよいよ9・11、イラク戦争の核心にせまる。
現在のトニー・ブレアは、2008年に設立したトニー・ブレア・フェース財団を通じて、異なる宗教間の対話促進と教育のための活動を行っている。ニュートニー・ブレアはとどまることを知らない。

■こんな回顧録も
世界で最も長い就職試験
クリントン大統領の「マイライフ」
老いたサッチャー夫人
・サッチャー元夫人が認知症に
「インタビューズ!」
「波乱の時代」上グリーン・スパン著
「波乱の時代」下

ロベルト-クララ-ヨハネス- 音楽で結ばれた絆

2012-02-10 22:36:29 | Classic
シュトゥットガルト国立音楽大学およびザルツブルク・ モーツアルテウム国立音楽大学修士課程首席卒業。
第25 回サレルノ国際ピアノコンクール第1 位併せて最優秀ドビュッシー演奏賞受賞、
第10 回シューベルト国際ピアノコンクール第2 位、第9 回ブラームス国際音楽コンクール第2 位、
第1 回アントン・ルービンシュタイン国際ピアノコンクール第3 位に入賞。オーストリア政府よりヴュルディグング賞を受賞。

錚々たる音楽暦だが、最近の日本人の音楽家の腕前は、”超円高”と同じくらい。ピアノだけでなく、世界的なコンクールのファイナルに日本人の名前を見ることがないくらいだ。そしてよくみかける”世界的な”という形容詞にも幅広い解釈をすれば誇張がない。この優れた経歴をもつピアニスト、今川裕代さんもこれまでつい最近までザルツブルクに住んでいらしたそうで、主な活動拠点は海外だった。そのためか、日本ではまだ知られていないが、実力だけでなく素敵な音楽性をもっている。そんな今川さんのリサイタルは、クララ、シューマン、ブラームスをとりあげて、ご存知、親密で信頼関係で結ばれた三人の間に流れる敬愛や情念、愛情を演奏するという「ロベルト―クララ―ヨハネス 音楽で結ばれた絆」がテーマーだ。

プログラムにわかりやすいHISTORYが掲載されていて、ブラームスがシューマン夫妻と出会ったのは1853年、シューマンが亡くなったのが1856年と3人の交際期間は思っていたよりもとても短かい。しかし、彼らの出会いが音楽の歴史的観点からも重要であるところから、今川さんは今回のリサイタルを企画されたようだが、とてもおしゃれでロマンチックなプログラムではないだろうか。

今川さんの演奏は、洗練された身のこなしからも想像されるように、良い意味でのしっとりとした落ち着きがありエレガント。知的でいて、それでいてあたたかみもあり、モダンな東京文化会館の小ホールがヨーロッパのサロンのような雰囲気をかもしだす。演奏中、うまく小さくまとめるのではなく大きな音楽観を求めているというのが感じられる。後半のブラームスも感情をコントロールしつつ、繊細さの中にも確固たる構成もある。友人に勧められて来た演奏会だったが、本当に心から演奏を楽しむことができた。

ところで、アンコール曲を弾く時に、最近、美味しい日本酒を呑んだ時に「神秘」を感じたことから、音楽にもたくさんの神さまからの秘密が入っていてそれを感じられる演奏をしたいと語っていた。(その美味しい日本酒の銘柄を教えていただきたい。 )これからの活躍が期待される。

------------------------- 2月10日 東京文化会館 小ホール ------------------------------------

クララ・シューマン:ロベルト・シューマンの主題による変奏曲 嬰へ短調 op.20
ロベルト・シューマン:フモレスケ 変ロ長調 op.20
ヨハネス・ブラームス:ヘンデルの主題による変奏曲とフーガ 変ロ長調 op.24

■こんなアンコールも
映画『クララ・シューマン 愛の協奏曲』
「シューマンの指」奥泉光著
映画『僕のピアノコンチェルト』

「小澤征爾さんと、音楽について話をする」小澤征爾×村上春樹

2012-02-05 13:37:49 | Book
小澤征爾さんと村上春樹さん。
このおふたりの組み合わせに意外な感がしたのが、私だけではないだろう。何しろ、村上春樹さんはジャズの人だったではないか。ところが、村上春樹さんはクラシック音楽もお好きだそうで、売れている人気作家の特権、自由な時間、自由な移動、自由に遣える経済力を存分に生かし、高校生の頃から多くのレコードを聴き、海外のオペラなどにも足繁く通っている(欧州に暮らしている時は文字通り浴びるように聴いていたそうだ!)年期の入ったクラシック音楽ファンだった。また、指揮者としての小澤征爾さんと彼の音楽がとてもお好きで、ずっと愛聴していた雰囲気が伝わってくるため、読者を爽やかな風が吹くような、或いは暖炉でぬくもるような幸福ないい感じにさせてくれる。

ありがとう、、、マエストロと村上さん!

しかも、村上さんは多くの演奏、CDに精通していて聴き比べもして素人ながら鋭い感性で評価してくる。批評や評価に正解はないと思うのだが、自分なりの音楽的解釈で貪欲に良い音楽を求める姿勢は、分野は違っても創造する職業を選択した人種のもつ厳しさと鋭い感性、そして自分の求める音楽や作品なりを追求するあまり自我を通す強さが伝わってくる。但し、所謂”音楽的な知識”を披露したり、”音楽的な経験”を聞きだすのが目的でもないし、村上さんは専門家ではない。その点で、最後まで表面をなぞるような多少の物足りなさも感じたのだが、本書の対象が単純に音楽が好きっという幅広い読者と楽しい時間を共有することだとすれば、これほど素敵な一冊はない。

さて、小澤さんの話しは、限られた時間の制約の中、又、大病後のリハビリ中ということもあり、テーマをある程度決めて、レナード・バーンスタインとカラヤンの比較から、グレン・グールド、内田光子といった音楽家から、ベートーベンのピアノ協奏曲第3番、グスタフ・マーラーの音楽、オペラ、最後に小澤さんが主催する「小澤征爾スイス国際音楽アカデミー」といった教育活動にしぼられている。音楽を聴いたりしながら、自然な話が展開しながらも、練られた構成だ。どれも興味深く、小澤さん自身も「そう言えば、これまでこういう話をきちんとしたことなかった」という貴重な話もでてくる。若かりし頃の小澤さんの「ボクの音楽武者修行」もとてもおもしろいのだが、当時のエネルギッシュな自然児という小澤さんの印象は世界のマエストロになっても劣るどころか、益々、多忙な中で生き生きとしている。

特にマーラーについては、クリムトの絵画とマーラーがものすごく大好きな身内の者がいて、クリムトは兎も角、何故、彼女がそれほどマーラーに熱中するのか不思議だったのだが、マエストロが30年前からウィーンで仕事をするようになり、美術館に行くようになってクリムトの絵を観てショックを受け、クリムトの精緻な美しさにひそむ狂気とマーラーの音楽が伝統的にドイツ音楽から崩れた狂気とに共通性を感じたところという逸話があり、私も瞬間にひらめいたところがあった。

それにしても小澤さんのこれまでの指揮者人生には、さすがにいつもというわけにはいかないだろゆが、幸運の女神がついているとしか言いようがない。しかし、最近、スポーツ選手のいう「運も実力のうち」という言葉を私はすごく納得したのだが、小澤さんも間違いなく実力が運をよんでいる。単に運がよかったというのとはあきらかに違う。しかも、彼の場合は、”人間力”もある。運をつかむのもその人の人間力の実力だ。カラヤンに気に入られ、レニーにも可愛がられ、ルドルフ・ゼルキンにも信頼されて反抗期まっさかりの息子ピーターを託されたり、又、学生オケをふっただけの若造の時にも、レニーの天敵のニューヨーク・タイムズの批評家ハロルド・ショーンバーグにはえらく気に入られて、新聞社を長時間案内してくれてお茶までごちそうになったという貴重な?体験もしている。勿論、マエストロになればなるほど、叩かれることも多いのがこの業界の常。ラヴィニア音楽監督に就任するや、彼を潰そうとシカゴ新聞に意図的に叩かれまくり、ウィーンでもザルツブルグでもベルリンでもずいぶん酷評をあびた。ミラノでは、名誉ある?ブーイングもいただいている。しかし、もう慣れた、一緒に音楽をつくるオケの仲間に支持されれば大丈夫、ドイツ語がよくわからないから耳に入らないと、マエストロはたくましく、そしてどこまでもあかるい輝きがある。このあかるさはどこからくるのか。常に次の仕事に気持ちを移行して情熱を傾けているから、新聞の音楽批評家の冷酷な言葉を気にしている暇がないのが実際のところだろう。さらに、求める音楽をどこまでも追求する指揮者のエゴイスティックな部分が、雑音を寄せ付けない点もある。小澤さんは政治的な駆け引きを嫌って、一切関わらないと明言しているが、主義主張を貫くある種の鈍感さや無頓着さが結果的に良かった。

読んでいて、実に楽しかった。本書は音楽ファンやハルキファンのみならず、ビジネスマンにも読んでいただきたい。そして、クラシック音楽に縁のなかったハルキ・ファンに少しでも小澤征爾さんや音楽に興味をもっていただければ、おふたりにとっては望外の喜びでは、と僭越ながら感じる。文庫版化が待たれる。余談だが、ブログなるものをはじめた私が文章を書くときに、唯一心がけたことは、文章のリズム感。流れにリズムが感じられる文章を書きたいと心がけているのだが、村上春樹さんが文章で一番大事なのはリズムと言い切っているのが、ちょっと嬉しかった。

小澤征爾さんは、1935年生まれ。76歳だが、先人の例を見ると指揮者としてはまだまだこれからも元気で活躍できる年齢だ。次回は、活字ではなく、小澤さんの音楽と再会したいと切に願っている。

■ついでにこんなアンコールも
「指揮台の神々」ルーペルト・ショトレ著
「情熱大陸 指揮者・大野和士」
「喝采か罵倒か 指揮者・大野和士 仕事の流儀」
けっこう危険な家業、指揮者
リーダーの条件
『カラヤンの美』
「素顔のカラヤン」眞鍋圭子著
・・・・・
3年後に村上春樹氏のノーベル賞受賞なるか

『ピアノマニア』

2012-02-02 22:55:23 | Movie
現代音楽を担う素晴らしいピアニスト、ピエール=ロラン・エマールが、あのバッハ晩年の未完の傑作「フーガの技法」を録音した!これは、クラシック音楽界としてはちょっとした事件にも近い。
このCDも、期待どおりの演奏に仕上がっているようだが、”作品”の評価と喝采は、永遠に芸術家であるエマールに与えられる。それは当然だ。しかし、彼が望む音、欲求する音を創りだすために、献身的に、時には奔走して支えるのが決して表舞台には登場しない調律師という職業の人、職人である。本作の主人公は、おなじみのピアノのスタィンウェイ社の技術主任を務めるドイツ人調律師、シュテファン・クニュップファー。彼は、現在、ウィーン在住でコンツェルトハウスで演奏されるピアノの調律を行っている。

エマールの一年後の録音に向けて、彼らが選んだのがスタィンウェイ社が誇るピアノの中でもとびきり優等生の”245番”。何と、一年間もかけてわずか数日録音する日のために徹底的に245番のピアノの調律を仕上げていくのだ。それは、あくなき究極の音というよりも”響き”を求める難業の探索の旅でもある。
「今回要るのは広がる音、それとも密な感じ?」と尋ねるシュテファンに、困ったような顔で
「両方とも」と答えるエラール。

・・・それは無理っ!
と私だったら即答したいところだが、、ピアニストのあらゆる要求や望みに全身全霊でこたえようとするシュテファン。そんな彼にエラールは、たった1台のピアノにオルガンのような音をだしたい、はたまたチェンバロを弾いている感じと、次々と生真面目に注文してくる。音に完璧を求めるエラールは、試し弾きをする度に「質問がある」と繰り返し、少しずつ注文のハードルがあがっていくのだった。それは、殆ど、不可能と断言したいくらいに。この芸術家と職人のふたりの会話と表情が、実に絶妙なのである。私は、何度も笑わせられた。この笑いの基は、彼らが響きを追求していく姿勢が、あまりにも真剣であるというのが根底にあるからだ。だから、そこはかとなくユーモラスさが漂うのだった。

さて、ここで表舞台に登場して展開されているのは、調律師というあまりなじみのない職種とオシゴトである。私が知っている、楽器屋さんから派遣される物静かでおだやかな調律師に比較し、シュテファンは相手が世界トップクラスのピアニストということもあり、全く別の次元にいる。兎に角、フットワークが軽い。ピアニストが練習している舞台から録音室まで、階段を何度も何度も、駆け降り、駆け昇る。ラン・ランに用意されていた最新式のスマートな椅子の使い方を説明するやいなや、使い込まれたがっしりした椅子を求めて走って探し出してくる。(確かに、このお兄ちゃんには旧式の重いがっちりした椅子の方が安心だ。)ある時は、ハンマーの太さがわずか0.7ミリ細かったために、深夜まで全部のハンマーを取り替える作業にとりかかる。タフでなければやっていけない。

コンツェルトハウスでのコンサートをひかえるラン・ランは、せっかく彼のために調律したピアノを試奏するや、一言。
「違和感がある。澄んだ音にしてくれ。」
と一刀両断でのたまう。鍵盤の向こうに一瞬固まる調律師シュテファン。そう、タフでなければやっていけない、心身ともに。

映画は調律師のオシゴトをみせながら、シュテファンの人物像にもせまっていく。彼は、創意工夫の人でもある。ピアノを弾きながら指揮をするエマールのために、透明な反響板でピアノの蓋をつくったり、フェルトを弦にはさんだり、様々な試みをしていく。せっかくのアイデアやチャレンジも、裏目にでることも多いのだが、それでも笑顔とユーモラスを忘れない。彼は学究肌というよりも根っからの職人気質である。そして、彼の姿勢は、常に目線がちょうど鍵盤の位置にある。試し弾きをするピアニストの感想を待つシュテファンの心は、どんなにどきどきしているだろうか。そして期待どおりの響きに満足するピアニストが、素晴らしい演奏をした時の喜びはどんなに大きいだろうか。本作の成功は、このシュテファンの人物像によるところもある。私は、最高にこの映画を楽しめた。

ところで、映画を観ていて気になったのは、ひとつある。
あまりにも完璧な響きを追求していくと、やがて人間は進化したコンピューターで創られた音、本物の音楽ではなく、最高の完璧な音をつなげていく音楽をつくりはじめるかもしれないということだ。”完璧”という言葉の魔力に、人は最高の芸術もうんでいくが、その言葉を求めるあまり、一部のピアノマニアは手段を選ばなくなるかもしれない。今のところ、そして近未来ではこんなことは全くの杞憂なのだが。。。

監督 :リリアン・フランク ロベルト・シビス
キャスト :シュテファン・クニュップファー ピエール=ロラン・エマール、ラン・ラン ティル・フェルナー クリストフ・コラー アルフレート・ブレンデル ジュリアス・ドレイク イアン・ボストリッジ リチャード・ヒョンギ・ジョー アレクセイ・イグデスマン クリストフ・クラーセン ロビアス・レーマン マリタ・プローマン ルドルフ・ブッフビンダー