千の天使がバスケットボールする

クラシック音楽、映画、本、たわいないこと、そしてGackt・・・日々感じることの事件?と記録  TB&コメントにも☆

「野に咲く花のように」

2007-03-26 13:45:30 | Gackt
今朝は、私がほれてる男、Gacktさんの新曲「野に咲く花のように」をじっくり聴いてみた。
彼の最大の魅力は、「天使のような高音と悪魔のような低音」という”声”にある。
しかし最近ヴォーカルにこだわっているためか、新作でも感じられることが、彼の魅力である幅広い音域とそれぞれの音域の彼らしい持ち味をいかした音楽つくりよりも、謳い方にこだわっているようだ。この「野に咲く花のように」でも従来のディープで難解な彼の世界観から離れた、小学生や中学生でもわかるシンプルな詩をリフレインしている。オトナのファンとしてみれば、単純でこどもじみた言葉の繰り返しには少々ものたりなさを感じたのだが、そこはやはり”Gackt”。同じ詩でもただのリフレインではなく、最初はせつなく、甘美に、そして最後は力強く希望に満ちて見事謳いあげている。この曲は一見歌い易そうだが、実は難しい。またどの曲もそうなのだが、音程をとるのが難しい曲でもある。つくづくこの方は天性の歌手だと、NHKの大河ドラマに出演する時間が惜しい気もする。

ところでこの「野に咲く花のように」が生まれたエピソードは幣ブログの。「Gacktさんが高校の卒業式に出席」でもお伝えしているが、日本の学校では今、卒業式のシーズンをむかえている。新曲は、まさに卒業式の日に聴く音楽である。
「いつかみた夢の場所へ たどりつくまであきらめないで」
そう歌うGacktさんの美声は、あくまでも澄んでいて、尊く、あたたかくも力強い。卒業して、これから社会人になる若者へのエールだ。
けれども、世界にはなんの希望ももてなく学校を卒業して、野に放されてしまう花もある。

ドイツのベルリン市立リュトリ中学校は、「テロ・スクール」としてドイツでもっとも有名である。
暴力、ゆすり、授業崩壊で教育当局と警察が校内正常化対策をとりながらも、とうとう昨年3月末には全教職員からベルリン市教育庁に、事実上の敗北宣言ともとられる公開状が送られた。そこには、日常的に制御不能の状態で、学校が暴力、侮蔑と深い絶望に沈んでいると認められていたという。ヘルムート・ホーホシルト校長は、「根底にあるのは本校独自の欠陥ではなく、中学校のシステム全体の問題」と語っている。
ドイツでは、小学校4年を修了すると大学進学者向けのギナジウム、中堅実務向けのレルシューレ、そしてリュトリ中学校のように主要学校と三つのコースに分かれていく。主要学校の卒業生は自治体や企業がつくる職業訓練校に進み、マイスター制度で職人の卵としてスタートする。そして腕を磨いて晴れてマイスターになるという、ひとつの選択肢だったはずだ。ところが現在では、貧困家庭のこどもや落ちこぼれの受け皿校になってしまった。05年の同校の卒業生は、ドイツ人、移民という民族や出自に関わらず、誰ひとり職業訓練の場をえることができなかった。同校だけでなく、主要学校全体で卒業生が訓練職場にありついたのは、26%。4人に3人は、15歳で卒業すると同時に無職となる。また彼らの親自身もリュトリ校の場合では、36%が失業者だという。
その主な理由として、これは日本でもあてはまることだが、IT化、オートメション化によって産業構造が激変したことにより、単純作業よりもより高度な技能の必要性から中卒レベルの(青年ではなく)少年、少女を受け入れる職業訓練の場がなくなったことによる。無職の親から、就職のチャンスが益々なくなっていくそのこどもたちという貧困の再生産。別の面では階級格差社会ともいえる。貧困家庭のこどもは、いつまでたってもなかなか貧困からぬけだせない。はたしてリュトリ校の教師たちの敗北宣言を、彼らの教育放棄とせめられるだろうか。校長がインタビューで強調する暴力の根が「生徒たちが感じ取っている将来への希望の欠如」に、オトナ世代の一員として考えさせられる。そして悲しいことに、今日このような校内暴力は世界的現象にまでなっている。

「またこの場所で出会うその日まで 野に咲いた花のように 決して負けずに つよく咲きたい」
今日も、どこかで卒業式が行われていることだろう。新社会人には、働ける場があり、食べていけることが当然のようで、実は当たり前ではないことを卒業証書とともに胸に残して巣立っていかれることを願いたいものだ。

「絶望に効く薬」山田玲司著

2007-03-17 23:33:33 | Book
カラダがねじれそうな満員電車で朝から漫画を熱心に読みふけるビジネスマンの姿を見かけると、ある読書家の課長が新人に伝えた言葉を思い出す。
「漫画は読んでもいいけれど、電車の中では読むよな。」
こんなことを言ってしまうと多くの反論がありそうだが、その課長の気持ちもわからなくもない。手塚治虫氏の漫画で育った世代だから、決して漫画を小説よりも低く評価しているわけではない。単に金融業界という戦場で働く男としてのふるまいの、ひとつの美学のこだわりであろう。私だって電社内では、「HANAKO」やファッション雑誌の類はひろげない。

しかしこの「絶望に効く薬」は、悩みたちどまる若手ビジネスマンにたとえ公共の場でも堂々と読書をすすめたい漫画である。
以下、本書の著者である山田玲司からの紹介を引用。
「1日平均86人が自殺すると言われる日本。この国で、希望はいったいどこにある…? 漫画家・山田玲司が体を張ってオンリーワンな人々に訊く、悪夢な時代の歩き方!!」
このように著者の内容紹介をサイトからコピーするのは私にとっては禁じ手なのだが、この言葉の皮膚感覚がどのレビューよりも本書のすべてを簡潔に、尚且つあまりにもすべてを伝えているように思われる。
多くの方が自ら命をたってしまう理由と「希望のない日本」を安易に結びつける宣伝には、少々疑問を感じる。つまり極限的でもっとも個人的な行為とマクロな国家観を関連させるには、かっての旧ソ連などの密告社会や恐怖心で国民をコントロールした暗い社会主義国家だったらいざ知らず、生活保護も行き届き、差別の少ない日本はそれほど悪夢な時代の希望のない国とはいえないのではないだろうか。そういう考えもうかぶ。
しかし先進国でそこそこ満たされた生活の中で、心を病んでいく人が多いのは事実である。整った顔立ちとスタイル、難関私大に合格した頭脳、それにも関わらず病から仕事を続けられずに職場を去っていかざるをえない人。あまりにも痛ましいのだが、多分、今の日本では格別珍しい光景ではなさそうだ。そういう意味で単純にこの国に”希望”があるかどうかの検討は別にして、今の日本が生きにくいのは残念ながら事実なのだ。

インタビューアーの選択は、オノ・ヨーコのような著名人になってしまうとすべてはもう知っていることであり、かえって漫画という枠の中ではあまりにも掘り下げ方が足りなかったり、また予備校講師の西きょうじなどは、もっと素敵な話がたくさんあるのに・・・などとファンだったらものたりなさを感じてしまう。むしろ国連WFP協会専務理事の蟹江雅彦氏や東北大学の研究者芳賀洋一氏のような世間的な知名度はそれほどないが、よいお仕事をされている方の紹介とインタビューは、漫画という形式とそれなりの深い語りがうまく枠の中におさまっているように感じられた。(ついでながら、漫画の大好きな芳賀さんが手塚治虫氏の48年に描いた「吸血魔団」が、66年SF映画の傑作「ミクロの決死圏」そのものだという逸話を紹介しながら、これがナノテクで医療工学の目的だと伝えている部分がもっとも興味深かった。手塚治虫さんは、本当に偉大だったなと別の感慨深いものもある。)

いずれにしろオンリーワンの人生をピン(←下品な表現だが)で生きている人に共通するのは、独特の個性とある種こどものような無邪気さがある。この無邪気さは強い!哲学的な根本治療薬にはならないかもしれないが、軽症だったら即効薬にはなる。諸々積み重なり、少々落ち込み気味で低空飛行だった私が元気になった。つまり、最後の”悪夢な時代の歩き方!!”と最後に”!!”をつけるぐらいのノリを寛容できる軽めの症状にはオススメである。本物の絶望には、効くクスリなどない。あったら、私は欲しい。
著者の山田氏自身、学生時代漫画家を志していた時に、周囲から「絵が下手だから漫画家になるのは絶対無理」と言われ続けたエピソードを披露しているところに、この本のスタンスがうかがえる。山田氏は、すごく誠実な方だ。
希望というのは、可能性の一歩。そしてすべてのはじまりでもある。

「ハケンの品格」最終回によせて

2007-03-15 22:57:40 | Nonsense
【派遣社員の事前面接解禁へ・厚労省検討】

厚生労働省は派遣社員の雇用ルールである労働者派遣法を大幅に改正する方向で検討に入る。派遣会社から人材を受け入れる際に企業が候補者を選別する事前面接を解禁する。企業にとっては候補者の能力や人柄を見極めたうえで受け入れの是非を決められるようになる。すでに議論を始めている派遣期間の延長などとともに、企業側の雇用の自由度を高める。
厚労省は今月下旬に労使代表が参加して開く労働政策審議会(厚労相の諮問機関)労働力需給制度部会で、法改正に向けた検討項目を示す方針。月1回以上の頻度で部会を開き、派遣労働の問題点を分析し、法改正の方向性を示す。法案作成や改正時期も話し合う。ただ労働組合は「年齢や容姿、性格などを理由に派遣社員になれない人が出る」と懸念している。
(07/1/11日経新聞より)

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とうとう昨夜、今冬もっとも話題を集めて、高視聴率をマークしたテレビ番組「ハケンの品格」が終わった。

子会社の名古屋の運送会社に飛ばされた東海林主任(大林洋)が、自分以外は全員ハケン社員でみんなからすっかり嫌われて孤立して、里中主任に愚痴メールを送信してしまう場面には爆笑してしまった。ハケン社員の大前春子を名前でなく「とっくり」と呼んでいた彼が、今度はまわりのハケン社員から「ネクタイ」と呼ばれている。カイシャのお荷物社員でツカエナイという評価だった里中主任は彼らしい誠実な姿勢で仕事を次々と決めていく有能ぶりを発揮する。その一方で男女差別のガラスの天井を感じていた負けず嫌いの黒岩女史は、マーケティング課の新しい主任としてはりきっている。もっとも社会人として成長した森美雪(加藤あい)は里中主任の契約更新を断り、紹介予定派遣として正社員をめざすことになった。

この番組のスポンサーが派遣会社ということで、人材派遣会社としてのご都合主義に流れるのではとの懸念はよい意味ではずれていた。ハケンのつらい現実や厳しい実体、社員食堂での食費などの正社員との待遇格差なども臆することなくドラマであきらかにしていた。

㈱S&Fの会長の「派遣というシステムははたしてよいのだろうか。」という問いに対する里中主任(小泉孝太郎)の答えは、「自分にもよくわかりません。」だった。
実際、派遣制度すべてが悪いわけではない。SEのように正社員と同レベルの賃金でハケンという形態が自分の就労感に一致するケースもある。けれども気の毒なのは、森美雪のように正社員で働きたくても、就職氷河期で正社員になれなかったハケンである。森美雪の努力して正社員をめざすという選択は正解だ。頑張れ、森美雪!

ところで、番組終了でもっとも寂しいのが「ネクタイ」と「とっくり」のバトルを観られなくなることだ。里中主任の言うように、東海林主任タイプは好きな女の子をいじめるタイプ。そこで以前「ハケンの品格」を話題にしたブログで登場したことのあるA君とB子の結婚後のはなしである。その衝撃的な結末は、友人から送信された私へのバースディのグリーティング・メールで知ることになった。A君とB子の結婚は数年前に破綻していた。きわめて優秀な頭脳とプライド高く独特のオーラを放つA君は、日本中知らない者がいないある花形マスコミ企業に就職した。しかし、彼はその後自らの命をたった。

老いたサッチャー夫人

2007-03-13 23:12:58 | Nonsense
「鉄の女」、マーガレット・サッチャー元首相は老いた。それもそのはず、現在81歳の御年になる。エリザベス女王も臨席した昨年の80歳の誕生パーティを最後に、公式の場を引退するという新聞報道を読んだ記憶があるのだが、今月号の雑誌「選択」で掲載されていた上院本会議場内の自身の銅像の前に立つ姿の写真や、最近のサッチャー氏の動向を伝える記事によると、往年の「鉄の女」の面影はない。

サッチャー夫人は「小さな政府」をめざし、政府が干渉しない自由な市場競争を敢行した。労組の徹底的な弱体化、金融制度改革や国有企業の民営化、それらは病める大国をよみがえらすカンフル剤として大胆な手術の手腕を発揮したともいえる。しかし英国映画に観るように、光もあればそれにとり残された影も濃い。その最大の弊害は、貧富の拡大であろう。サッチャー政権下の富裕層の上位20%は、下位20%の所得の伸びよりも10倍以上のスピードで上昇した。自由な競争への参加、スタートラインにさえたてない層が存在しているのだ。参加できない社会的弱者に競争を促すシステムが福祉であり、政権交代したブレア首相ひきいる労働党の売りは、ウェルフェア・トゥー・ワーク(労働参加のための福祉)やNHS(国民医療サービス)予算の増額だった、はずだ。

ところがユニセフによると欧米の先進国の中では、英国は依然として膨大な貧困階層を抱えているという。
その国の平均所得60%未満の貧困層が、全体の平均が10%以下に対して英国は16.2%、なんとサッチャー政権誕生時の2倍にもなる。また英国の世帯の1/3の700万世帯が福祉に頼っている。この数字の意味するところは福祉切捨てによる政策が更なる貧困層をうみ、逆に福祉依存症候群をつくったのだろうか。いずれにしろブレア首相がサッチャー時代の功績をいかしながら、罪は修正する路線が福祉依存体質を再生しているという結果がみえてくる。政府の役割は自由な競争参加の支援であり、国民は勤労の義務がある。この両輪が整わなければいけないはずなのに。そしてNHS予算不足でプライベート診療に流れる歯科医続出のため、歯の治療には一年まちだという。
ブレア首相はサッチャー政権の鉄の自由主義とかっての大きな政府の中庸を行くを道をめざしつつも、近頃では上院議員推薦にまつわる融資スキャンダルにまみれて公共サービスの改革も頓挫する気配。

こうした現実から遠く、かっての鉄の女は数年前の軽い脳卒中の後遺症で物忘れがひどく、少し前の話を覚えていないために医師から公の場での発言は禁止されている。
しかし先月大衆紙「デーリー・メール」ではサッチャー氏の特集があり、そこに掲載されていた娘のキャロルさんに語ったという言葉には、日本人としても深く考えさせられる。
「私の時代の人々は、何かを”したい”と考えた。今の人たちは、何かに”なりたい”と考えている」
老いてもなお、自身の胸には英国と英国民のあり方を考える火は絶えない。たとえ鉄の女と言われても。

『幸福(しあわせ)』

2007-03-11 17:20:27 | Movie
ピクニックの風景の主役は、必ず家族かカップルだ。そこには一人ではない誰かとのつながり、平和と幸福が描かれている。
映画「幸福(しあわせ)」の冒頭も、パリ郊外でピクニックを楽しむひとつの家族の風景からはじまる。1965年、初夏にふさわしい音楽は、愛すべきA.M.モーツァルトの「クラリネット五重奏曲 イ長調 K.581」。

フランソワ(ジャンクロード・ドルオー)は、妻のテレーズ(クレール・ドルオー)と幼い娘とよちよち歩きの息子と平和に暮らしている。仕事は、叔父が営む小さな木工場での室内の内装をてがけている。妻はふたりのこどもを出産した後も充分魅力的で、ふたりのこどもを育て家事の片手間につつましい自宅で仕立て屋もしている。家族でピクニックに行き、初夏のきらめく光を浴びながら妻の胸にもたれてめざめるとさざめく可愛いこどもたちの姿と妻の笑顔。
「ボクは幸福だ。」
すべてが満たされている。

そんな規則正しく平和だった彼に、ひとつの小さな出来事が訪れる。隣の町の郵便局に行って、そこで受付をしているコケティッシュな女性(エミリーマリー・フランス・ボワイエ)と知り合いになる。二度目に会った時、ふたりはカフェで一緒にお茶を飲む。三度目に会った時には、引越ししたばかりの彼女の部屋でふたりはベッドをともにする。彼はエミリーに妻を愛していると伝える。そして君のことも好きだと。

この映画は、当時のフェミニズムの運動におされるかたちで実現した女性監督アニエス・ヴァルダ による女性のための映画だ。1965年という時代の女性の地位や役割を考えて観ないと、作品の本質にはせまれないだろう。場面の随所に女性監督らしい視点が感じられる。それはおそらく男性には、なかなか共感できない部分であり、またそこがこの映画のツボにもなっている。
映画には、ふたりの対照的な女性、妻と愛人が登場する。貞淑で可愛らしい妻。こどもたちの世話をやき、市場で買い物をして洗濯物にアイロンをかけ、部屋に花を飾る妻。その一方、愛人の方は、妻子ある男性との恋愛ははじめてではないとフランソワに告白し、ためらわずに肉体関係を結ぶ。彼女の室内は、簡素で生活観がない。テレーズが製作したウエディング・ドレスを着た娘が結婚式を挙げ、写真を撮る時の背景がエミリーの職場である郵便局になっている。ダンスに興じるカップルに交じる夫婦。こうしたダンスでは、パートナーを替えて楽しむものである。私がこの映画でもっとも好きな場面は、エミリーをはじめて抱いた後フランソワが、「君を抱いて、初めてボクはボクを知った。」と伝えるシーンだ。おとなしい妻とのSEXでは、自分の方が情熱的になるがどこかさめて客観的になってしまう自分を意識するのだが、愛人とは同じ波長で快楽におぼれることができる似たものどうしということが理由だ。ここでフェミニズムとしては、なるほど旧タイプの女性としての妻と新しいタイプの解放された女性としてのエミリーを見る。ふたりの共通点といえば、室内に花を飾ること。この感性の一致が、花=男という趣味が近い暗示でもある。
ところがこの映画の本質は、ひとりの男性を間に対立する新旧の女性を配置しているところではない。
物語は、彼と彼女たちの日常生活を淡々と描いていく。そして、またピクニックに家族ででかけて幸福で充実感のあふれた男は、妻に愛人の存在を打ち明ける。
今までと全く変わらず、妻とこどもたちを愛している。ただもうひとり愛する女性ができただけだ。自分の幸福は、妻の幸福でもあると。
しばらく考えて、妻は「あなたが幸せなら私はそれでもいいと思うわ」とやさしくほほえんだのだったが。。。

映画『悲しみよこんにちは』の場合、夫の軽薄な女性への睦言は浮気であり、単なる遊びだった。しかし『幸福』は、本物の恋だ。女性にとって、浮気はゆるせないが本気はある意味認めるしかない。何故ならば人のこころは不連続に常に変化していくものだから。しかし、自分も愛されていながらもうひとりの女性も愛しているという夫のシチュエーションは、『悲しみよこんにちは』の裏切られたというアンヌの絶望よりはるかに深く重い。(このへんは個々人で受け止め方に差異があり、異論もあるだろうが。)
そして夫にとって、妻の存在とはなんだったのだろうか。最後のピクニックの姿を観て、この映画がベルリン国際映画祭審査員特別賞を受賞した理由もわかる。名作である。少なくともあのモーツァルトの音楽をこんなに緊張感といらいらする気持ちで聴いたことはなかった。
先日NHKで放映した過去の番組の中で登場した作家の石川達三氏が、女性にとって”結婚とは性生活の伴う女中”と名言を残した小説のタイトルが「幸福の限界」である。

原題:LE BONHEUR

『悲しみよこんにちは』

2007-03-10 23:21:29 | Movie
最近、昔のオードリー・ファッションが流行している。ジパンシーに愛されたミューズ、オードリー・ヘップバーンの上品でキュートな服装は、こどもの頃から写真を見るたびに好みだった。近頃お財布が軽いのは、流行の波にのってしまう”女の子”が姿を表しているからだ。
そんなワケで、17歳で作家デビューしたフランスの”女の子”フランソワーズ・サガンの処女作「悲しみよこんにちは」を映画化したDVDが目にとまる。

15年前にママを亡くした17歳のセシール(ジーン・セバーグ)は、実業家で元祖ちょい悪オヤジのパパ(デイヴィッド・ニーヴン)と2人暮らし。パパは、娘の躾や教育よりも仕事や女遊びの方に関心があるタイプ。物語では、そんな金あり色気ありのダンディな父と早熟なムスメを恋人のようにパーティを渡り歩く二人を「理解あるニュータイプ」な親子としているが、単に娘の教育方針を間違えている自己中心的な父と単に遊び好きなムスメとしか私にはうつらない。これは、私が精神的にオトナ?になってしまったからだろうか。
そんな親子がアタマが少々軽いがチャーミングな父の愛人エルザ(ミレーヌ・ドモンジョ)と過ごす南仏セント・トラペッツの丘の別荘でのバカンスは最高だ。昼間は海で泳ぎ、夜は街でパーティやギャンブルとお酒。たくましい法科の大学生の恋人フィリップとの交際も順調。セシールは、なにもかも楽しく、万事うまくやっていたのだ。そう、あの人が訪問してくるまで。あの人は亡くなった母の親友で、夫と離婚したばかり、中年のわずかに脂肪ののった肉体と笑うと目元にさざ波のようにほんのり浮かぶしわ。エルザに比べたらあきらかに女としては下り坂。それにも関わらず、優雅で洗練された気品と威厳のあるオーラを放つあの人は、今まで父親の遊び相手をしていたタイプの女性とは全く異なるタイプ。だから、セシールは彼女を歓迎しその魅力にひかれながらも、不安な予感にゆれていた。
あの人、アンヌに。

「いま、血を流しているところなのよ、パパ」
そんな衝撃的な文章ではじまる作家の倉橋由美子さんの1965年発表された「聖少女」や映画「勝手にしやがれ」を意識した太陽に乾いた貝殻のような文体の「夏の終わり」などの10代で読みふけった数々の小説をこの映画を観ながら思い出す。クラハシの”文学”は、もっと繊細で残酷で研ぎ澄まされた少女小説というジャンルでは、自意識の塊である少女を主役にしながら圧倒される知的世界をも構築している。小説の方は読んでいないのでなんともいえないし、映画と小説は別ものという考えもあるのだが、稚拙な罠をしかけてそれにはまったオトナを描いた少女特有の残酷さという点では、到底クラハシの作品には及ばない。罪は罠をしかけたセシールにあるのではなく、ほとんど病気の女好きで浮気症の父であり、そんな男の品格をみぬけなかったアンヌにある。
「あの時から、どんな日も暗い。意味のない1日を迎えようとする朝、私はつぶやく、悲しみよ、こんにちはと。」
そうつぶやくセシールのアイロニーな無表情も、少女の自己中心的な世界に満足している愚かさにも見える。確かに17歳で心は老女のようだというコンセプトは、当時は新鮮だっただろう。小説はもっと深読みできるのかもしれないが、所詮英語でのハリウッド製作の映画では、登場人物のおしゃれなファッションしか印象に残らない。
しましまのTシャツはこの夏もヒットしそうだが、セシールの着ていたシャツはボーダーが変則的ですごく可愛い。金髪の髪型は、当時セシール・カットと人気を呼んだらしい。

原作者のサガンは、映画製作の1957年に皮肉にもスピード狂でスポーツカーを大破させて奇跡的に命が助かった。ヘビー・スモーカーでギャンブルと酒好き。おまけに麻薬を所持していて逮捕される。天才少女と世界中から脚光を浴びた彼女の私生活は、不幸だったのかもしれない。そしてセシールを演じて魅了したジーン・セバーグは、女優としてしては本作品とゴダール監督の『勝ってにしやがれ』以降人々の記憶から消えていく。南フランスの太陽を浴びてはつらつと演じた少女だった彼女は、失意のうちにパリの路上で放置された車の中で変死体として発見された。酒と睡眠薬を友とした彼女のあまりにも短い40年の人生。
この映画よりも彼女たちの17歳とそれからの日々の方が、ドラマがあり興味をひかれる。同じく10代で芥川賞を受賞した綿矢りささんが、最近ようやく新書を発表して話題をよんだが、それもこの映画のサイド・ストーリーとともに考えさせられる。
ちなみに、セシールが着ている黒いドレスが気に入ってしまったのだが、ジパンシー製だそうだ。

『 Bee's  3大協奏曲 2007 』

2007-03-06 23:44:53 | Classic
ヴァイオリン一挺を片手に、ふらりと舞台に現れた人物を目撃した瞬間、私は思わず「のだめカンタビーレ」の峰くんだ!と叫びそうになった。
画像を後でよくよく観察すればロッカーで男っぽいキャラの好みのタイプ、峰君の風貌と異なることは一目瞭然なのだが、シルクの暗めな真紅のシャツにブラウンに近い金髪、耳元が遠めになんだかきらきらしている・・・それが最初にお目にかかった室内楽の魅力をもっともっと広めたいとトリオの大作を作曲した敬愛するBeethovenから命名した「Bee」のメンバー、ヴァイオリニストの石田泰尚さんだった。この「Bee」は、現在もっとも私が注目している男闘組である。

結成した翌年の本格的に演奏活動をはじめて昨秋のコンサートのチケットが、なんと満席でとれなかったという経緯がある。デビュー10周年を迎えたソフトなホスト系の雰囲気とダイナミックで情熱的な演奏スタイルに定評のある元祖茶髪のピアニスト、及川浩治さんの人気によるものだろうか。本日の芸術劇場という大ホールを満席にする集客力は、国内ではあまりなじみのない”トリオ”という男三人の新しい抱き合わせ販売の成功でもある。
冗談はさておき、オーケストラを担当した神奈川フィルハーモニー管弦楽団のソロ・コンサートマスターというポストに就任している石田さんは1973年生まれ。国立音大の在学中よりゲスト・コンマスとしても活躍した前途有望なヴァイオリニスト。メン・コンは及川さん曰く「情熱と繊細さが同居している」という彼の持ち味に、まさにふさわしい選曲である。この日も一緒に同席した友人がすべてのコンチェルトで最も好きだというメンデルスゾーンVn協は、ヴァイオリンを習うおこちゃまたちが中学生ぐらいから弾かせてもらえる憧れの一曲でもある。しかしその人の人間性や音楽性があらわれる大変難しい曲で、むしろコンクールや受験で選ぶ曲ではないかもしれない。あまりにも耳になじんだ珠玉の名曲は、かえってどんなに上手に弾いても聴衆のこころをつかむのはやさしくない。まさに情熱と繊細さが同居しているメンコンを、この業界では奇抜で不要なアピールとも受けとめられかねない風体とは別に、石田さんは自分の音楽性を存分に発揮している。彼の表現したいコンセプトは、そのスタイルとともに明確である。しかし惜しいことに楽器の質が、彼にはあっていないかもしれない。

これはチェリストの石川祐支さんにもいえなくもない。札幌交響楽団の首席を努める石川さんが、99年日本音楽コンクールで第1位を受賞した時の、毎日新聞主催による受賞者記念演奏会から注目していた人物である。石川さんの演奏は、安定したテクニックとともに音楽に真面目に取り組む真摯な姿勢が伺われる。今夜のドヴォルザークのVc協も、天才ジャクリーヌ・デ・プレほどの奔放な謳いには至らぬものの、整った演奏である。もっと楽器が響けばさらに素晴らしい音楽になると感じた。

最後の発起人である及川さんは、さすがにベテランである。のだめ効果で人気あるラフマニノフの2番を演奏。トリオだけでなくオケもしきり、盛り上がるところは派手なパフォーマンスで団員のお尻をたたく。わずかなミスタッチは気にしない。彼らも私たちも音楽の楽しみを求めているのだから。ピアニストの中村紘子”さま”が、「プロの音楽家は演奏だけでなく演出も必要」という格言を体言している及川さんはりっぱである。彼がイケ面を集めたと冗談飛ばすように、3人とも全然イケ面ではない。少なくとも私は全然好みではない。しかしピアニストととしての華がこの方には備わっている。そして自分自身のプロデュース能力とセンスもあり。
「僕は男が好きなもので(笑)。熱い音楽を持ったヤツと全身全霊をぶつけ合うような音楽をやりたいんですよ。それには男同士の方がいい。」と断言する及川さん。
もしかしたら意外と体育会系?そんな彼らの次の演奏会も決定。(10/28 オペラシティ)今後の活躍にも期待したい男闘組である。

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指揮:現田茂夫
ピアノ:及川浩治 ヴァイオリン:石田泰尚 チェロ:石川祐支
演奏:神奈川フィルハーモニー管弦楽団
曲 目: メンデルスゾーン/ヴァイオリン協奏曲 ホ短調 Op.64
ドヴォルザーク/チェロ協奏曲 ロ短調 Op.104
ラフマニノフ/ピアノ協奏曲 第2番 ハ短調Op.18

「あなたのTシャツはどこから来たのか?」ピエトラ・リボリ著

2007-03-04 13:55:18 | Book
産業調査にかかわる格言によると、「繊維がわかれば、すべてが見える」ということだ。その理由として、原綿の生産から紡織・縫製に至るまで裾野が広く多くの知識が必要とされるからだ。なかでも服は富める者も貧しい者も、裸で生活するわけにはいかないので地球上のすべての人々が必要としている。
ジョージタウン大学の国際経済学者ピエトラ・リボリ教授は、ある日キャンパスでひとりの女子学生のグローバル化に伴う繊維産業に携わる発展途上国の労働者の悲惨を訴える演説を耳にした。
グローバル化や貿易自由化が発展途上国の労働搾取を生みだすというこの女子学生のような反グローバル化の活動家たちと、対立する「グローバル化や国際貿易の推進が世界中に富をもたらす」とする経済学者たち。どちらが正しいのか、著者は1枚6ドルのTシャツの一生をたどる旅をはじめた。西テキサスの広大な綿農園から中国のひしめく小さな家族経営の工場、そして米国のNYのリサイクル業社に戻りTシャツとともにたどり着いた終着駅は、アフリカはタンザニア、活気あるマンゼゼ露天市場だった。
そこからうかびあがったのが、これまで”グローバル化によって自由競争が行き渡っている”という固定観念がただの思い込みと誤解だったという意外な事実。6ドルのTシャツの運命を左右しているのは、グローバル化による市場競争というよりも歴史や競争をさけるための知恵や政治力だった。

現在世界最大の原綿生産国の覇者は、映画「風とともに去りぬ」の時代から米国となっている。この背景には、創意工夫による労働者の適切な確保や機械化、大学との共同の科学技術の進歩と導入がもたらした生産性の高さもあるが、重要なのは絶大な政治力をもつ綿農家が米国から取り付けている40億ドルにものぼる補助金という”保護”である。この金額は、世界最貧の綿産数ヶ国のGDPを上回る。かなうわけがない。米国の綿生産者は、トーマス・フリードマンの唱えるグローバル化の勝者、ガゼルとライオンの両方に該当する。
そして中国ではグローバル企業が劣悪なる環境で長時間労働を強いて労働者を搾取しているという批判は、勤勉で器用な女子工員による「農村で働くよりずっとまし」というポシティブな笑顔で投げられる。ここにも貿易を有利に運ぶ通貨管理制度、先進国から見ると奴隷のような工場労働も戸籍制度などの産業構造が安価な農村女性の労働力をうんでいる。
結局、真の自由市場でグローバル産業が成り立っていたのは、古着マーケットだった。
アフリカで良質な古着のTシャツ市場の活況をもたらすのも、消費者天国、米国の高賃金労働者による飽きた古着の大量放出によるというのも皮肉なはなしである。これはかねたからの私の関心事でもあるのだが、物量の国の”タダ”が貧しいアフリカの繊維産業の自立する芽を潰しているのか。著者は、仲介業者の儲けを認めつつも、あらたな繊維産業をつくる資金供出になっていると記しているのだが。アフリカ人は、誇りの高い民族である。白人が着古して慈善団体にタダで捨てた衣類が露天市場に登場して再利用することに抵抗感がある。従来の民族衣装とは異なる古着を”ミトゥンバ”という呼び方に彼らのプライドと文化が感じられる。おおらかで体格のよいリビリ教授は、ミトゥンバを探して着る事は、米国人に追従するのではなく、価格のうえで賢明で発掘とおしゃれをを楽しむ買物といいきる。
この最後に矛盾に満ちたアフリカにたどりついたTシャツの旅路は、時には豊かさをもたらす可能性も示すが、勝者になれない各国の不均衡と不健全な政治経済をも暴く。

おりしも本書を読み終えた後、3/3号の「週刊東洋経済」に、松井秀喜選手が着るような特大サイズのTシャツをかかげるピエトラ・リボリ教授による誌上レクチャーが掲載されていたことに気がついた。(余談だが、週刊「東洋経済」のチャート図はいつも大変わかりやすい)そのインタビューから、私が興味をひかれた意見や感想を抜粋。

Q:Tシャツの一生で予想外だったこと
A:①古着貿易がグローバル産業として成り立つこと ②米国の綿産業の規模の大きさに驚いた ③公共政策の複雑さ

Q:Tシャツ市場以外に興味ある商品
A:製薬業界。欧米の大企業が研究開発しているが、倫理的な役割から市場経済の原理や自由貿易で操作できない。市場と政治の組合せという観点からおもしろいと思う。

それに大学教授が調査のアシスタントとして時給25~30ドル(高額!)で院生を使うが、同僚にはインドのニューデリー大学の院生にアウトソーシングしているとのこと。また米国では、Tシャツ産業と仕事をなくした人と生活を向上させた人がいる。明暗の分岐点は、年齢と教育。

全米出版社協会より2005年の最優秀学術書(金融・経済部門)に選ばれた本書は、繊維産業の歴史から入り、また現場の空気感も伝えて大変わかりやすくおもしろい。序文の扉に「東京で売られている米国の古着Tシャツ」という写真が掲載されているのだが、その中の一枚ロッカーのTシャツは我家にもあるぞ!、ということで誰もがもっているTシャツを題材に旅をした本書は、著者の人柄の魅力も伝えてお薦めの一冊。

*副題:誰も書かなかったグリーバリゼーションの真実

『機械じかけのピアノのための未完成の戯曲』

2007-03-03 13:28:30 | Movie
手嶋龍一氏の人気小説「ウルトラ・ダラー」の主人公であるスティーブンがモスクワ出張にあたってラジオ番組の「シネマ紀行」のテーマとして選んだのが、ニキータ・ミハルコフ監督の代表作『機械じかけのピアノのための未完成の戯曲』だった。
ロシアの作家チェーホフは、父親が破産したために貧民街で生活しながらモスクワ大学の医学部で学んでいた。生活費稼ぎのために20歳から数々の短編小説や戯曲をうみだした。その多くの名作のなかで、唯一未完の大学時代の戯曲「プラトーノフ」に「文学教師」「地主屋敷で」「わが人生」のモチーフを加えて脚色して映画化したのが、「ウルトラ・ダラー」の諜報部員として活躍するスティーブンが訪問したモスフィルムの秘蔵っ子でチェーホフを撮らせたら彼に並ぶ者はないとまで言わしめたミハルコフ監督だった。30年前当時32歳だった監督のこの作品は、欧米人の高い関心と評価をよんだという。

時代は革命前の帝政ロシア。ある初夏の日、美しい田園地帯にある没落した貴族の屋敷に人々が集まりはじめる。未亡人の女主人であるアンナ・ペトローブナは誇り高く美しく装っているが、亡き夫の継子であるセルゲイは気弱で頼りない。しかしそんな彼もソフィアというよき伴侶に恵まれた。老いた退役軍人や医師トリレツキー、そして小学校教師のプラトーノフと彼の妻サーシャ。近隣の地主たちも交えて再会を喜び祝福する彼らを、ロシアの短い夏の透明な光が弱々しくまぶしく輝かせる。この硝子のような独特の淡い影の色彩は、同じく旧ソ連時代の名監督アンドレ・タルコフスキーの映像美を彷彿させる。そしてロシアの風景は、民衆の事情にはなにも関わらず広大で美しい。
彼らはそれぞれの生活の不満を忘れ、おしゃべりやダンスに興じる。屋敷の最後の一人になった召使は彼らをもてなすために給仕をしながら、正装の服装のまま女主人に命ぜられて豚を追いかけていく。彼らの饗宴は、夜が訪れてディナーの席になっても続く。滑稽な彼らの振る舞いと実りのないただ笑うだけの会話にのぞく空虚さへの風刺、そこにわずか44歳で人生を閉じたチェーホフの視線が感じられる。
そんな彼らの茶番めいた進行に、爆発したのが教師のプラトーノフだった。最近読んだ短編小説として、学生時代のソフィアとの恋愛を語るプラトーノフ。生涯たった一人のソフィアとの貧しさゆえに実らなかった恋が、自らの夢すらも壊したと彼女をせめる彼は慟哭して破綻していく。

「おれはもう35歳なんだ!それなのに、なにもしていない!」
プラトーノフの深い絶望の悲鳴は、空しくロシアの大地にこだましてしていく。
35歳、なにものかをするためにはもう時間切れなのだろうか。人生はやりなおせない。時間は日々刻刻と進んでいく。失った夢のかけらを抱きしめて、失意のどん底にむなしさをかみ締めるのが35歳という年齢なのだろうか。

容姿に優れているニキータ・ミハルコフは、自身俳優としても活躍しているように本作品中でも急診を断る医師役としても出演しているが、「シベリアの理髪師」を撮った時の発言に見られるように貴族出身を誇りとしている。

今日、3月3日は私の誕生日でもある。朝、15歳になったばかりの高校の入学式で運命的に出会った美少女(元?)の友人から、思いがけずにお祝いのシャンパンが届いた。私には、やっぱり花より酒だと?お互い忙しく今では年に数回しか会わない彼女と自分のこれまで一緒に歩いてきた時間と全く別のそれぞれの人生、自分が生まれてきた意味、そして今の年齢やこれからのこと。そんなことも考えた。おしよせる焦燥感と明日のこと、希望が混在してこころが騒ぐのは、この映画を観たせいだろうか。
プラトーノフを最後に救ったのは夢の続きのソフィアではなく、これまで素朴で善良なだけがとりえの退屈な妻サーシャだった。