千の天使がバスケットボールする

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「暗いブティック通り」パトリック・モディアノ著

2014-10-12 16:49:42 | Nonsense
10月9日、恒例のノーベル文学賞が発表された。今年のスウェーデン・アカデミーはフランス人作家のパトリック・モディアノ氏(69)に授与すると発表した。授賞理由は「記憶の芸術で、最もつかみ難い人間の運命を想起させ、占領時の生活世界を明らかにした」ことによる。
 モディアノ氏は、パリ近郊ブローニュ・ビヤンクール出身。1968年、「エトワール広場」で小説家としてデビュー。ミステリアスな作風で自らのアイデンティティーを探求する作品が多い。これまで、72年に「パリ環状通り」で仏アカデミー・フランセーズ賞、78年に「暗いブティック通り」で仏ゴンクール賞を受賞した。75年に発表した「イヴォンヌの香り」は、パトリス・ルコント監督によって映画化もされている。2011年に発表した「失われた時のカフェで」はフランス国立図書館賞を受賞した。

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というわけで、以前読んでいた「暗いブティック通り」のブログを”記憶”をたどりなから再掲載。

自分探しの旅、そんな旅があるようだが、女性がパリに短期留学するのといったいどこが違うのだろうか。
人がみな人生という旅の旅人だとしたら、記憶を失ってしまった主人公≪ギー・ロラン≫の自分探しの旅は、文字通り「自分探しの旅」である。

本書は、78年ゴングール賞を受賞した、モディアノ34歳の時の作品である。
主人公の≪私≫を記憶喪失症患者で、自分を探すという物語は、人間の存在が、氏名という固有名詞をもった絶対的な存在であることを否定した小説という見方もできる。訳者の平岡篤頼氏の言葉を引用すると、記憶喪失症患者とは「結局仮象に過ぎない現実への足がかりをも失った裸の人間」になる。
他者とのつながり、無数の過去の体験の記憶の糸、社会生活の痕跡、人は、実に多くの”関わり”によって、自分という表層をカタチづくってきたか、ということを考えさせられた。現在の≪私≫の唯一の友人である老いて擦り切れたオーバーをはおる探偵事務所所長、その昔は、テニスの選手で、美青年で知られたコンスタンチン・フォン・フッテ男爵自身も記憶喪失だった。この記憶をなくす、というミステリアスで甘美さすら伴う恐怖が、不思議な雰囲気をかもし出していて、あのペ・ヨンジュン主演の大ヒットした韓国ドラマ『冬のソナタ』の下地にもなっている。私たちが、漂流していく日々の暮らしで自分を見失わないのも、家族や友人、職場の人々との関わりよって生じる記憶の繋索によって、自分の位置を確認しているのかもしれない。

舞台は、65年のパリの街にある≪私≫が勤めていた探偵事務所からはじまる。記憶を喪失していたのは、さらにそれよりも10~20年前というクラシックな道具立てを読者に想像することを求められる。ここで、それを匂いをかぐように雰囲気を官能的に感じられるか否かで、本書を楽しめるか退屈に感じるかがわかれる。
戦争があり、革命によって亡命してきたロシアの貴族、偽造されたパスポート、胡椒のきいた香水の匂い、セピア色の写真、アパートの階段にあるミニュットリー、木蔦でかこわれた蔓棚のあるホテル・カスティーユ、象牙や硬玉製の置物を載せた黒い漆塗りの小円卓、、、物語の活字を追いながら、私が主人公の≪私≫となり、一緒にセピア色の、行ったこともない、この世に存在すらしていなかった時代のパリの街を、≪私≫以前の私を求めてさながら映画の中に入りこんだような旅をしていた。よるべない不安と孤独な魂を抱きしめながら。華やかな貴族の社交があり、退廃していく憂愁もそっとしのびより、最後に≪私≫がえたのは、スタイルもよく綺麗な恋人をスイスの不法越境の時に見失った深い哀しみの追憶だけだった。
すべてが曖昧で霞の中に永遠に眠っている。深い余韻を残す小説である。

自分の名前があり、学歴も、勤務先も家族もいる私。然し、記憶は日々うすれ、ベールのむこうに遠ざかっていく。記憶という不確かな糸を精一杯握り締めて、私は自分探しの旅として、今夜もブログの更新にはげんでいるのだろうか。(2008年11月8日

■こんなアーカイブも

編集者と作家
3年後に村上春樹氏のノーベル賞受賞なるか・・・2009年11月2日
村上春樹氏、ノーベル文学賞受賞ならず・・・2012年10月11日の2年前にも騒がれていました。。。

とうとうノーベル賞が中村さんの手に

2014-10-08 17:14:01 | Nonsense
ノーベル賞の選考委員会は3人の受賞理由について、「3人の発明は革命的で、20世紀は白熱電球の時代だったが、21世紀はLEDによって照らされる時代になった。誰もが失敗してきたなか、3人は成功した。世界の消費電力のおよそ4分の1が照明に使われるなか、LEDは地球環境の保護にも貢献している。LEDは電力の供給を受けにくい環境にある世界の15億人の生活の質を高める大きな可能性を秘めている」とコメントしています。

さて、こんなビッグニュースが飛びこんだけれど、ほぼ10年前の我が拙いブログから再掲載。

***************** 2005年1月11日 「スレイブ中村さんは勝ったのか」  ********************************************

本日、一番ホットな話題はこれでしょう。

<青色発光ダイオード>和解成立 日亜化学が中村修二さんに8億4000万円の支払い

発明の対価はその発明者か、給料をあげて生活の保障と研究の場を与えた企業にあるのか、さまざまな議論をよび、また次々と報われなかった発明者の訴訟を起こすきっかけとなった裁判が今日決着した。

【中村さんのコメント】和解額には全く納得していないが、弁護士の助言に従って勧告を受け入れることにした。問題のバトンを後続のランナーに引き継ぎ、本来の研究開発の世界に戻る

【日亜化学】当社の主張をほぼ裁判所に理解して頂けた。特に青色LED発明が1人ではなく、多くの人々の努力・工夫の賜物(たまもの)とご理解頂けた点は大きな成果と考える


中村さんにとっては、和解金額としては当初の200億円を大きく下回るということを正当な評価と受け入れにくく納得はしていない。しかし、そもそもは売られたケンカで自身の発明まで封じ込めようとした日亜化学の行為に端をなしたわけで、和解を受け入れて今後は研究活動に専念したいというのはもっともだろう。
ひるがえって日亜化学は、発明が多くの人々の努力の成果という理解が判決に反映されたといっているがどうであろうか。東京高裁の指摘は、日亜化学の経営を考慮した日本的な財界人たちもほっと胸をなでおろせるラインにソフトランディングしたという見方もできるのではないか。

【弁護側】当初の2万円のご褒美からすると国内史上の最高額を支払われることから成功した

弁護士としては、中村さんの胸中はともかくとして、これだけの話題性充分、金額も大きい訴訟でこのような結果に至ったことは充分成果があったと満足できるだろう。知名度もあがり、知的所有権を争う訴訟依頼も増えるかもしれない。もしかしたら一番の勝利者は行列ができるかもしれない弁護軍団だったのだろうか。

ノーベル賞に近い研究者と言われる中村修二さんの発明した青色発光ダイオードが、半永久的な光源をもたらすということで画期的で莫大な利益をもたらすことは事実。
そして大企業の優秀なチームが見向きもしなかった別の方法で、たった一人で、会社の行事も欠席し、変人扱いされ、装置から手作りして生み出したブレイクスルー。それは報奨金のあつさだけでは量れない素晴らしい研究の成果である。

【北城恪太郎経済同友会代表幹事】発明対価は、企業と従業員の間の合理性を持った事前の合意によって決められるべきだ

今後は企業も研究者との事前のお約束は必要だ。まるで結婚するときに離婚したときの条件をかわすハリウッドのように。

********************** 2005年1月13日「続報:スレイブ中村さん怒る」**************************************************

~日々是好日~の管理人さまより

>当初の報奨金である「社長賞」が2万円。これはいかがなものでしょう
と私のコメントへの上記のレスがついていたが。「社長賞」2万円。まさにスレイブな金額だ。

日亜化学というところは、今でこそ全国区の仲間入りをしているが、元々の出自は四国の田舎の中小企業。それに当時の日本社会においては、ソニーなどの一流企業でも、社員の優れた発明に対する報奨金はアッパー100万円程度だったような記憶がある。今回の訴訟で慌てて報奨金制度を見直しして金額をひきあげた企業も多いが、日本的な企業と従業員の関係は欧米諸国ほどスマートととはいえない。
それに、そもそも熱心で集中力はあるが、変人で扱いにくい社員が掘り起こした成果がノーベル賞に近くとてつもない金鉱だったと、理解できる役員もいなかったのではないか。

江崎玲於奈さんのお話しであったが、たとえば米国というのは、優れた成果をだしたとしても、乗ったタクシーの運転手よりもお客の研究者の報酬が低かったら運転手よりも評価されない社会だと。
これは、大リーグの野球選手の契約金と実力が比例するという簡単な図式をあてはめるとわかりやすい。それもどうなのかと、清貧を尊しとする日本人には疑問に感じる部分もあるが、(実際、選手への高額な年棒のために経営難になった野球チームもあるから)かの国でそういう感性が肌にあった中村修二さんにとっては、本来あるべき社会と映るのも納得する。

「実力にある研究者はアメリカへ来い!」

自分に自信があり、野望と大志を抱く若者は太平洋を渡れ、、、と私も応援したい。

それにしても中村さん、全くの無名のいち社員時代から、言いたいことを言い、やりたいことをやり、スレイブナカムラと揶揄されても魂までは決してスレイブではなかった!


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この間、アメリカに飛び立った中村さんは国籍も米国となっていたのは、ちょっとした衝撃だった。理由として、米国籍でないと軍から予算がおりないからとのこの方にとってはごく当たり前のことだった。

「技術立国日本」

こんな某首相の聞こえだけのよい音頭が聞こえてくるが、その掛け声の虚しさを背中に、研究者たちは活躍の場を海外に求めていくのだろうか。

・・・とりあえず、おめでとう中村さん。

■番外の小話
クラシックを聴く人は紅茶党