千の天使がバスケットボールする

クラシック音楽、映画、本、たわいないこと、そしてGackt・・・日々感じることの事件?と記録  TB&コメントにも☆

『マリア・カラスの真実』

2009-03-30 23:13:50 | Movie
この世を去っても、いつまでも人々の心をつかんで離さない最高の、そして最後の歌姫(ディーヴァ)。オペラを聴かなくても、たとえ音楽には無縁の生活を送っていても、誰もがその名を耳にしたことがあるマリア・カラス。
これまでもカラスの友人でもありオペラを演出してきたフランコ・ゼフィレッリ監督による『永遠のマリア・カラス』、ショルジュ・カピターン監督の『マリア・カラス 最後の恋』と数年の間に2本の映画が製作されてきたが、本作はマリア・カラス没後30年目の2007年9月16日に、ミラノ・スカラ座、パリ・オペラ座で上映されたドキュメンタリー映画である。

ドキュメンタリー映画の作り方として、製作サイドにとって”絵になる”都合のよい写真や映像を順番に貼り付けて、もっともらしいナレーションをそこにかぶせる方法もある。しかも映画のタイトルは、マリア・カラスの”真実”。もしかして、故人にまつわる暴露話めいた展開も。いやいや、余計な心配は全くの杞憂だった。稀代の歌姫の最後の恋をスキャンダラスに描くわけでもなく、勿論お相手の海運王アナシスを誹謗するような印象も与えず、そして最後の孤独な死をことさら悲劇的にドラマティックに盛り上げることもなかった。けれども、歌手としての栄光と凋落、ひとりの女性としての不幸は、装うこともなく”真実”をさらけた。マリア・カラスという女性がギリシャ移民の子としてニューヨークに生まれた時、男児を望んだ母の失望のために幼少より孤独であり、後に懸命に歌のレッスンに励み独特な声と卓抜した技術でベルカント・オペラのディーヴァとして、オペラ界の女王のように君臨するまでが前半、後半はまさに「トスカ」の名曲でありカラスの十八番ともいえる「歌に生き、恋に生き」をオペラの中の主役だけでなく自分の人生でも貫いた生涯を描いた。ここにいるのは、個性的な美貌とそれを強調するメイク、16ヶ月もの間に35キロも体重を落としたモデルのような肉体に流行の先端のファッションと高価な宝石で装った、確かに聴衆に愛された最高の歌姫である。しかし、その素顔は、いくつかの恋愛の果てにたどり着いた最後の恋、最愛の男との結婚を願いながらも失った、もろくて繊細なひとりのごく当たり前の女性の姿である。

強さの裏にのぞく脆さ。喝采と栄光の後に贈られる、人々の失望によるあからさまな非難。愛される立場の自由から、愛を追う人の苦しみ。慎みと抑制のきいた事実を語るナレーションに、それとはあまりにも対照的なカラスのドラマチックで豊かな歌声が重なる。映画は、カラスの53年の短かった生涯の足跡をたどりながら、カラスの声の偉大な曳航も堪能できる。この声に一度とらわれたら、誰もがもはやとりこになってしまうだろう。またルキノ・ヴィスコンティ、グレース・ケリー、チャーチル首相などの貴重なアーカイヴ映像も豊富。声だけでなく生き方もベルカント唱法をまっとうしたカラスの生涯は、現代のギリシャ悲劇さながらである。妻子あるオナシスとの恋愛でスキャンダラスと世間からずっと非難されていたカラスだったが、ようやくオナシスが離婚した時に、いよいよ彼と結婚されるのですかというインタビューに晴れやかに応えた笑顔が忘れられない。どんなに着飾った舞台衣装を着た時よりも、おだやかで満ち足りた表情には女性としての幸福感があふれていたのに。

フィリップ・コーリー監督
2007年フランス製作

■アーカイヴ
『マリア・カラス 最後の恋』

「柴笛と地図」三木卓著

2009-03-29 12:04:29 | Book
春の選抜高校野球甲子園大会もたけなわであるが、いつのまにか白球を追う球児に興味が失った。何故か眉を細~く剃った男の子たちばかりになり、東北地方の代表なのに大阪出身の”野球だけ”の子達を集めて校名の知名度アップをはかる私立が台頭するにつれ、本来の「高校野球」の魅力がうすれたような気がする。本当の文武両道の王道を行く高校生の野球が観たい。そんな勝手なことを言って思い出したのが、県内有数の進学校としても知られ、野球も強いのが静岡高校だった。本作の主人公、加納豊三は、敗戦後の満州の大連で新聞記者だった父を亡くし、引き揚げ列車の乗り帰国途中に祖母が衰弱死。博多にようやく上陸して小学校5年に静岡にやってきて母が小料理屋で下女として働きながら一家を支えようやく市営住宅に入居して生活の安定した頃までの物語が「裸足と貝殻」。本作は、読売文学賞を受賞した前作の続編で、豊三が1951年春に静岡高校に入学するところからはじまり、卒業するところで終わる著者によるとすべて本質的に事実を盛り込んだ自伝小説である。

当時の高校進学は半分にも満たず、女子で大学に進学した者は、60人クラスからたったひとり。大不況とは言いながらも大学全入時代に突入した今とは隔世の感があるが、半世紀前の終戦後はそんなものだったそうだ。だから豊三の同級生や上級生には、弁護士や教師、銀行員の子息、商家の娘など家庭環境も整い、戦後の貧しい時代にも経済的にはそれなりに恵まれていた生徒が多い。しかし、豊三のように母子家庭の引揚者で生活に困窮している家庭の中からも進学した生徒もいた。彼は同じような境遇の生徒を見かけるとシンパシーを感じているところから、引揚体験が彼の人生の終生色濃く影響を与えているのが察せられる。
アチーブメントテスト、原民喜、ベートーベン、社会科学研究部、小田実、「空想より科学へ」、椎名麟三、「暗い絵」、中村真一郎、「どんな犬にも吠える権利がある」と吠えた田中英光、、、作者の三木卓と私はかなり年齢が離れているにも関わらず、彼らの会話に出てくる単語や作家、小説の題名に思わず過ぎ去った自分の学生時代が淡く浮かぶような錯覚を覚えた。自分もその昔は旧制中学だったという伝統を継承した公立高校出身だからかもしれない。

豊三の三年間は、社会科学研究部での活動を中心に、乗っていた自転車のブレーキの故障で危うく自爆しかけたり、海水浴で溺れかけてきれいな先輩のお姉さんに助けられたりと、友人との交流や家族の様子を交えながら、当時としてはおそらくむしろありふれた典型的な文系男子高校生の生活における思想の変遷や、気になる女子高校生との文通、後に作家への道を歩むきっかけとなる同人誌での小説の発表へと続いていく。図らずも文系男子と言ってしまったのには、理由がある。豊三は小児麻痺の後遺症で左脚が悪い。その障碍のために運動ができなかったり、高校受験、自転車乗り、将来への影響と時々青空に雲がさしかかる時があるのだが、彼、彼らに広がるのはどこまでも広くて青い空である。日本の敗戦の復興からようやく立ち直りかけてきた若い芽生えを感じられるあかるさに満たされた、1950年代の青春グラフティである。

ひるがえって今の高校生は、どうであろうか。彼ら、彼女たちは、圧倒的な情報の洪水の中からも、文学を語り、政治を語り、社会を友人と語り合っているのだろうか。「派遣切り」「百年に一度の大不況」という言葉が流行し、世相はいかにも暗い。
豊三たちは、戦争で命を失った友人や家族の死を何度も体験し、その悲しみと恐怖をくぐりぬけてきた。だから、たとえ脚が悪くとも、受験に失敗しようとも、悩みながらも、彼は今生きている日々を精一杯生きようとする姿に、物語全体が瑞々しい生気で溢れている。

浪人して早稲田大学に進学する豊三。作者の気持ちの中ではこの二作ですでに満足されていて続投の予定はないそうだ。残念!!その大学生活を是非とも読んでみたいのだが。

「明治の女子留学生」寺沢龍著

2009-03-24 23:19:41 | Book
移動の交通手段といえば、自動車は論外、正式な鉄道もなく馬か駕籠を使用するか、営業したばかりの人力車に頼るしかなかった明治4年のこと。10歳前後の幼女も含めて5人の日本最初の女子留学生となる少女たちが、横浜港から外洋船「アメリカ号」でアメリカへと旅立った。48名の使節団、58名の官費、私費の男性留学生たちに交じって、両親や家族から離れて10年もの長期間、黎明期にある新政府の意向をくんで太平洋を渡った少女たちは、津田梅子(6歳)、永井繁子(10歳)、山川捨松(11歳)、吉益亮子(14歳)、上田悌子(16歳)。新政府の女子留学生募集に集まった少女たちは、いずれも幕末維新の戦いで賊軍とされた幕臣や佐幕藩家臣の子女たちであった。そのうち、吉益亮子と上田悌子のお姉さん組は病気治療のため、あえなく1年で帰国したのだが、残された3人は、日本語を忘れてしまうくらい当初の目的の期限まで、異国の地で勉学を励むこととなった。

今でこそ飛行機であっというまに海外に飛び、インターネットやメールで留学先からも通信でき、しかも現地では日本人ばかりという所謂語学留学も聞く「海外留学」。1871年、ようやく西欧との交流が始まり近代化を急ぐ日本の国策に近いミッションを親から言い含められてその小さな肩に背負い、自分の希望や意志とは無関係に見たことも聞いたこともないような異国へ旅発つ少女たちの心情は、いったいいかばかりであろうか。船に乗り込む振袖姿のいたいけな小さな少女たちの姿は人一倍異彩を放ち、見送る人々の哀感を誘ったのは自然の情であろう。本書では、その少女たちの10年間に渡る異国・アメリカでの奮闘ぶりと精彩に満ち充実した日々、そして日本語も忘れて帰国した後のそれぞれに苦難の伴う人生を、どのように、そしていかに生きたかの足跡をたどっている。

3人の少女たちは、格別学力試験や面接の選抜を経たわけではないのだが、いずれもアメリカ留学中では意欲的に勉学や生活を楽しみ学生時代を存分に謳歌しながら、尚且つよい成績を残している。たまたま彼女たちの資質もよかったのだろうが、国費を使ってまで留学しているという使命感が自ずと生活を律しながら勉学に励んだ結果でもあろう。日本ほど男女の差別が少なく、女性といえども教育の機会にも恵まれ教養も深く社会的な地位も高く、自由闊達な西欧文化が、優秀な彼女たちを後押ししたおかげとも言える。ところが、派遣期間をおえて母国に帰国して見れば、すっかり日本語を忘れてしまった不安に加え、早々に政府関係や教育関係、実業界で活躍する男子留学組に比べ、彼女たちを生かして伸ばす受け皿は日本にはなかった。そもそも当時の日本では、英国映画『プライドと偏見』と同様に、女性がまともに働く職場などなく、婚期を逃す前に親や周囲にすすめられたつりあいのとれる相手と結婚して、夫に従がうのが女性の唯一の生きる道(手段?)だったのだ。梯子を与えられ、期待にこたえ国家への使命を果たすためにも懸命に登ってみれば、その梯子はもう不要とばかりにはずされてしまい、人生の将来設計も描きようがなかったのが彼女たちである。

留学先で同じく留学組の男性と帰国早々恋愛結婚をして、ピアノを学んだ技量をいかして音楽教師と子育てのキャリアウーマンの先駆者になったのが、永井繁子だった。美貌の誉れ高く、年上の陸軍卿・大山巌と結婚して、留学経験を「鹿鳴館の貴婦人」として内助の功を発揮したのが、山川捨松。そして、最後まで独身を貫き子女の教育に生涯を捧げ孤高を生きたのが、ご存知津田塾大学創始者の津田梅子である。女性も男性と同じく社会的な存在であらねばならないと考えた津田梅子が、また経済的にも自立する必要がるとこの時代に職業として選んだのが、教職だった。彼女が耕し種を蒔いた女子教育は、やがて着実に実った。帰国後は、殆ど着物を着て目立たない束髪に髪を結っていたと伝えられる彼女は、最後まで日本語よりも英語でものを考え英語で論じる女性だったのだ。
彼女たちの人生の航海は、決しておだやかではなかったはずだ。波乱万丈の荒波にも関わらず、読後感は多少の悲哀も交えたすがすがしさであろう。彼女達は悩みながら、国のために、そして精一杯自分の人生を開拓したのだから。

まだ少女の我が娘を異国に旅立たせるのは、母親としても相当の覚悟がいっただろう。「捨松」の松は、無事の帰国を”待つ”という意味で改名された。そんな山川捨松の母親を説得した長兄のはなむけの歌がある。
「異国(とつくに)によしや誉をあげずともわが日の本の名をば汚しそ」

~美の巨人たち~レンブラント「夜警」

2009-03-23 22:55:31 | Art
一昨日の「美の巨人」に登場したのは、数々の謎が残るレンブラントの大作「夜警」である。この絵画の謎を解くには、たった30分番組では到底及ばない、、、なんちゃって、侮ってはいけなかった。なんと今回の番組では「夜警」というタイトルそのものをゆるがす真相の解明が行われていたのである!

ロシアのエルミタージュ美術館には、「レンブラントの間」と呼ばれる部屋がある。彼の作品は、今も、昔も人々の心をとらえて離さない。自画像、風景画、宗教画、歴史画、肖像画、日本の鷲の羽根も使用されていたエッチングなど、生涯に渡って800点余りもの作品を残した多作家のレンブラント。その豊富な作品の中でも、最も有名な絵といえば集団肖像画の「夜警」であろう。

1606年、レンブラントは製粉業を営む家に8男としてライデンに生まれた。ラテン語の大学に進学するもわずか数ヶ月で退学。その後、得意の絵をいかしてアムステルダムに渡り、最初は肖像画として人気を誇るようになる。当時の年収は、200ギルダー。さらに名門の娘、サスキア・ファン・オイレンブルフを娶り、名声、富とともに人生の栄光の日々を迎える。そんな絶頂期にまいこんだのが、火縄銃手組合からの集団肖像画の依頼だった。『フランス・バニング・コック隊長の市警団』と名づけられた作品には、警備隊の長官と副官である中央のふたりは、服装も何度も丁寧に重ねて描いているが、他の人々はまるでひき立て役のようにあらいタッチで描かれている。前方は、ザラザラとした絵の具を使い、後方はつやつやとした質感の絵の具で描いている。しかも、警備隊のシンボルである鳥をぶらさげた謎の女性や本来いなかった犬や、画家自身もちゃっかり登場している。全部で18人だった人物がいつのまにか増えて、実際何名いるのかわからない始末。

1946年、2度の洗浄作業でこの絵を修復すると、長官の手の平に射す光はまぶしく、副官の服に落ちたその影は濃かった。「夜警」ではなく、本来は昼間の出来事だったことが判明した。更に、ダム広場の市役所に移された時にあまりにも絵のサイズが大きくて入りきらなかったために、左に60センチ、右側と下部が10センチ、上部が25センチもカットされていたのだ。本来のサイズのCGで想像すると、中央のふたりがもう少し右によっていて、絵画全体に動きと躍動感が伝わってくるのがわかる。不運な絵画は依頼人からも不興を買ったようだが、そのせいだろうか、アムステルダム経済の衰退とともに肖像画の依頼もめっきり減り、また愛妻のサスキアも亡くなり、残ったのは多額の負債でとうとうレンブラントは破産する。最後は、スラム街に身を落とし、亡くなった後は共同墓地に埋葬された。

「画家が目的を果たした時に、絵は仕上がる」
そう言ったレンブラントは、合計34人の人々を描いて筆を置いた。
レンブラントの謎や神秘性に深く入り込んでしまった様子を「魔法使いと呼ぶしかない」という言葉で表現したのは、ゴッホだった。現代に至るも尚、多くの謎を残した「夜警」。その絵は、アムステルダム国立美術館に飾られ、訪れる人々の心をとらえて離さない。

■こんなアーカイブも
映画『レンブラントの夜警』

「わたしの名は 紅」オルハン・パムク著

2009-03-22 11:16:32 | Book
「1 わたしは屍」
「いまや死体だ、わたしは。屍だ、この井戸の底で。最後の息を吐いてからかなりになる。」
1591年の厳しい冬、円熟期のオスマン・トルコ帝国の都イスタンブルで、殺されたひとりの才能ある細密画師の死体の告白で物語がはじまる。いったい”優美”さんと名づけられた彼を殺したのは誰なのか。そしてその理由は。
やがて12年ぶりに故郷に帰ってきた同じく細密画師のカラが、街一番の美貌を誇る未亡人で幼なじみのシュキュレへの恋をえるための行動といやでも巻き込まれていく殺人事件の顛末までの9日間の出来事である。カラの帰郷には、当時、オスマン・トルコ帝国のスルタン、ムラト三世はイスラム暦千年を飾る「祝賀本」の作成をこころみ、シュキュレの父、そしてカラの叔父でもあるエニシテ(細密画師をたばめる頭領)は、その完成を命じたという事情から、かって指導された叔父によびよせられたという経緯があった。(以下、内容にふれております。)

「本書を読んでまず感じたのが、日本の作家・谷崎潤一郎の影響と日本人にも親密性を感じられる感性である。昨夏放映されたETV「東と西のはざまで書く」では、講演会のために来日していたパムク氏が神田の古本屋街の散策中に、谷崎の「細雪」を早速見つけて大事に抱えている映像があった。大江健三郎、三島由紀夫、川端康成、安部公房などの作品も英訳で読んでいるそうだが、西欧化を受けいれながらも後に背を向けて、ひたすら耽美的な古典に回帰した作風の谷崎の「春琴抄」を彷彿させるのが名人の行動である。年老いて失明する細密画師に対し、彼らは全生涯をその細密画にかけて最後のアラーの神から賜る最後の幸せと語るのである。アラーがご覧になる無比なる光景は、厳しい研鑚の末に到達できる盲目の暗黒の世界ではじめて完成する。しかし、個人の署名も個性も認められていない、神が見たままを描く細密画においても、肖像画や遠近法を取り入れた近代的なヨーロッパの文明がおしよせていく。西欧の画法は、彼らにとっては神への冒涜である。しかし、見たまま感じたまま描いてはいけないのだろうか。新しい細密画を弟子たちに描かせようとしたのが、エニシテである。それはすなわち人の顕示欲や嫉妬をもうみ、細密画師たちの混乱の中で発生したのが殺人事件だった。その一方でアラーの神への忠誠と最後の砦を守るため、名人オスマンは羽飾りの針で自らの目を突く。

さらに、次々と登場人物が入れ替わり告白や語ることによって、物語が進行していくのは三島由紀夫の「鏡子の家」を連想させる。しかも、本作の特徴でもある人物だけでなく、金貨、犬、馬、そしてタイトルにあるように色の”紅”が主語となって語る前衛的なスタイルが、トルコ国内でも大学生やインテリ層に圧倒的な人気を誇る理由がありそうだが、明治時代に一気に西欧化をとりこんだ我々日本人にも、個人のアイディンティティと国家への忠誠、芸術家たちの苦悩や欺瞞も、訳者の力量もあり美しく整然とした文章に、もっと幅広く日本人にも読まれるべき作品だと思う。それに、カラとシュキュレとの往復書簡に秘められた恋のやりとりと、その細い糸がかろうじて手繰り寄せるふたりの結びつきまで、久々に豊潤なエロチックの”官能”という美味を思い出した次第でもある。

98年に刊行された本書は、2002年に発表された「雪」とあわせて読むべきであろう。
主人公とも言うべき「カラ」という名前は、実際トルコにはない名前だそうだ。カフカを愛読する著者らしく「雪」の主人公の名前が「Ka」だったことと同様。シュキュレに自分の母の名前、彼女の息子たちにオルハンと兄の名前を使うことに意味があるように、「カラ」と「Ka」に実態のない名前をあてはめたことは、父不在の少年時代を過ごした著者の心情を探りたくなる。亡命先のドイツから12年ぶりに一時帰国したKaの職業が詩人というやはりカラと同じく芸術家で、学生時代から憧れていて美貌のイペッキにKaも激しく恋をする。しかも、帰国してみれば市長殺害事件や少女の自殺事件で街はゆれている。そして、雪に閉じ込められたほんの数日間で完結される展開は、本作と相似する。「わたしの名は 紅」がやがて滅びゆく芸術に重きをおき、「雪」は現代にうつした社会派小説であることの違いであろうか。本書は海外で多くの賞をとり、英国BBC放送は21世紀を代表する21人の世界文学者にオルハン・パムクを選んだ。権威ある賞の受賞歴や他人の評価は関係ない。自分の拙い文章力ではとうてい「わたしの名は 紅」の素晴らしさを伝えきれないもどかしさを感じる。本物の文学から香る高貴さに、ただただ圧倒されるばかりだ。

■アーカイブ
「雪」
ETV「東と西のはざまで書く~ノーベル賞作家オルハン・パムク」

『招かれざる客』

2009-03-19 23:30:29 | Movie
今日の出勤途中の早朝、中年の少々メタボ腹の白人男性と、長身でとてもスリムなまるでモデルのような若い黒人のカップルを見かけた。手をつないだふたりの年齢差や体型の差よりも、白人男性と黒人女性という異人種の組み合わせの方が印象に残った私は、自由と権利を標榜しながら実はひそかに人種差別の根をもっているインテリともしかしたらあまりかわらないかもしれない。

ハワイに行っていた最愛のひとり娘のジョーイ(キャサリン・ホートン)が、急に帰国してきた。彼女はハワイ大学に講演でやってきた博士とパーティで出会い、生まれて初めての恋、素晴らしい恋人に夢中になっている。彼との出会いと婚約を報告する娘の顔と瞳に幸福があふれんばかりに薔薇色に輝いているのを見て、母のクリスティ(キャサリン・ヘップバーン)はあまりにも急な話で驚くのだが、祝福する気持ちになっていく。すると夫マット・ドレイトン(スペンサー・トレーシー)の書斎から、その娘の心を射止めた男性が出てくる。彼を見て、母親は卒倒しそうになる。後に新聞社主の夫の調査で知ることになるのだが、1954年にジョン・ホプキンス大学卒業、1955年、エール医大で助教授3年、ロンドン医大で教授3年、世界保健機構で副理事を3年・・・、と相手のジョン・プレンティスは、娘の夫になるべく経歴も人格も最高クラスの優れた男性だった。たったひとつ、、、肌が黒いことをのぞいては。

映画の時代背景は、1967年。米国では、昨年、女性初の大統領よりも、予想外に早い黒人の大統領が誕生した。歴代初の黒人大統領のバラク・フセイン・オバマ・ジュニアは、1961年に黒人男性と白人女性との間に生まれた。しかし、この時代においては、異人種間の結婚はタブーですらあった。人種差別に反対し自由を掲げる新聞社の社主である父と、画廊を経営するおしゃれでセンスのよい母。そんなリベラルで知的な夫婦でさえも、我が娘の結婚相手が黒人となると、衝撃があまりにも大きく動揺を隠せない。綺麗な信念は、本物ではなかったのか。インテリ家庭の本音と建前が暴露されていく。ここで、根強い人種差別のあつい壁をシニカルに描く作り方もあっただろうが、この映画での物語はあかるい結末に向かう。それには、人種差別に反対する両親から育てられた娘のなんの疑いをもたない純粋さ、母に言わせるといつも笑顔で幸福が服を着ているような雰囲気と、37歳の黒人博士役を演じた名優、シドニー・ポワチエのすべてを悟りながら相手の気持ちを気遣いおだやかな完璧とも思える人間性をもつ人格者を無理なく演じきれるかどうかが要となる。

映画は、サンフランシスコ空港にたどりついたふたりが、婚約の報告のためにドレイトン家に向かうところから始まる。最初はなんとなく年齢差もあり、黒人と白人のカップルのふたりに多少の違和感も感じるのだが、お互いを見つめあい相手への愛情があふれんばかりの笑顔と軽快でテンポよく流れるような動作が、まるで見ている者も幸福にするような場面になっている。やがてジョンの両親、マットの友人を交えて7人の室内劇の様相に呈していく。親達の結婚に対する反対の根拠が単なる自分たちの偏見という個人ではなくて、最初から予測できる差別に伴うふたりが今後受けるであろう困難や苦労、やがては生まれてくるこどもたちへの懸念という”社会”に理由があるところが本作の肝であろう。結婚生活に伴う多かれ少なかれの苦難は、夫婦間の信頼と強い愛情があればのりこえられるという普遍的な愛情論に、驚きと困惑に早々に決着をつけられる母親たちが、いつでもどこでも強い。しかし、バスの車掌の息子に生まれながら、黒人として尊敬される人物になりえたジョンが、これまでどんなにか多くの差別に耐えてきたかと想像される悪い感情を抑えて理性的にふるまう紳士の顔から、「仕事でもつ重いカバンに耐えたのは、僕のためではなくそれが仕事だったらから、自分の生き方に口をはさまないで欲しい、自分は黒人ではなく人間として生きたい」と、結婚に猛反対する父親に向かっておそらく初めて感情を爆発させて反論した場面が白眉である。ちなみに、何故こんないい男が37歳まで独身か。8年前にベルギーでの列車事故で妻と2歳の息子を亡くし、その傷心でもう結婚はすまいと思っていたからだ。

公開当時は、おそらく論議をよんだかと思われる重いテーマーを扱っていながら、全体的にあかるくユーモラスで軽快な仕上がりになっている。父のマットが、ふたりの間にできるこどもが受ける差別を心配して、こどもをつくる予定があるのかとジョンに質問する場面がある。
ジョンは笑いながら「ジョーイは、僕たちのこどもを大統領にさせると言っている」と応えている。この時代では、それは婚約したカップルの楽しい”ジョーク”。彼らは自分たちのこども世代に黒人の大統領が誕生するなんて、そんな未来はまだ夢のようだったのだ。久しぶりに、米国の良心をみたような気がする。

■こんなアーカイヴも
「O・J・シンプソンが告白本を出版」
映画『白いカラス』
「プライドと情熱」ライサ国務長官物語

AIGのボーナス支給は納税者に対する侮蔑か

2009-03-17 23:33:48 | Nonsense
 【ワシントン】オバマ米大統領は16日、事実上の政府管理下で経営再建中の米保険大手AIGが、幹部社員に高額のボーナスを支給した問題について「納税者に対する背信行為だ」と強く非難し、「あらゆる法的な手段で阻止するようガイトナー財務長官に指示した」と明らかにした。
AIGのボーナス支給については、サマーズ米国家経済会議(NEC)委員長が「言語道断だ」と強く批判していたほか、米下院金融委員会のフランク委員長(民主)も「法的に回収可能かどうか検討しなければならない」と話すなど米国内で波紋が広がっていた。
また、ロイター通信によると、米財務省高官は、AIGへの追加支援の枠組みについて「国民の税金を取り戻せるよう再検討する」との方針を明らかにした。
米紙ウォールストリート・ジャーナル(電子版)によると、AIGはすでに前週末13日に、幹部社員らに総額1億6500万ドル(約162億円)のボーナスを支給。公的資金投入を受けた金融機関の報酬問題を調査しているニューヨーク州のクオモ司法長官にボーナス支給について報告した。これに対し、同長官はボーナスの支給リストなどの情報開示をAIGに求めたという。(3月17日毎日新聞より)


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現在、米財務省などは、最大300億ドルの追加資本注入を柱とした支援策をまとめて詳細をつめているところに、この一報はオバマ大統領のみならずおおかたの米国民の神経を逆なでしたのではないだろうか。しかし、彼らの厚顔ぶりと恥じ知らずは今回が初めてではない。昨年の金融機関の経営者が受け取ったボーナスの総額は、184億ドルにのぼるという。日本円に換算するとおおかた1兆6500万円!ジョー・バイデン副大統領は「刑務所送り」だと息巻くが、現行の法律では返金を命じることができないらしい。(「2009.2.11NEWSWEEK」によると)そのため、クレア・マカスキル上院議員は公的資金を受け取る企業の関係者は大統領の年棒(40万ドル)を超えるボーナスを受け取ってはいけないという明快な方針を打ち出した。しかし、そんなお灸がいったいどこまで彼らに効いているのだろうか、と疑問に思うことがある。米国のみならず、諸外国も注目していた米自動車産業の救済に関する公聴会に、トム・クルーズのようにプレイベートジェット機ではせ参じたビッグ3のCEOがいた。納税者の血税を物乞いするのに、エコノミーだったら288ドルの旅路を、デトロイトからワシントンまで1時間あまりのフライトに2万ドルもかけて世界の笑いものになった昨年秋の珍事の記憶も新しい。

ある調査によるとウォール街で働く人の46%は、自分は”もっと”ボーナスをもらって当然と考えているそうだ。彼らの場合、ボーナスが給与総額の70~90%を占めており、基本給は”たったの”20~30万ドル。ボーナスがなければ給与は50万ドルを下回ってしまうらしい。これに関する「NEWSWEEK」誌のコラムリストであるジョナサン・オルター氏のコメントがふるっていて笑える。彼曰く「なるほど、そりゃ大変だ」さらに、金融機関の幹部には「ボーナスをケチると、不良債権処理をする専門家がいなくなって困る」と主張するやからもいる。確かに彼らには、価値のないくず証券を売る特技がある。なるほど、そりゃ大変だ、と私も思うさ。

たった半年間で米国民の個人資産のマイナス30%の目減りのみならず、日本経済もぼろぼろにさせた彼らのために7000億ドルもの公的資金を注入した。日本では派遣切りが流行語になっているくらいなのに、おかげで彼らは延命したではないか。それでも、ご褒美の賞与が184億ドル?184億ドルといっても庶民にはぴんとこないが、毎年50万人もの米国民の命を奪う癌研究費の5倍、雇用を創出する公共交通網整備のための予算の2倍にあたる。米国民でなくても「カネ返せ」と言いたくなる。彼らが週15000ドルもする高級貸し別荘で優雅な日々を過ごす前に。

そんなことを思いつつ、今日の読売新聞の「山びこ学校」休校にまつわる編集手帳が泣けてくる。昭和20年代半ばに在籍していた中学2年生の男子生徒の作文が紹介されているのだが、その少年は幼くして父を亡くし、今また母も亡くなり弟と妹は親戚にもらわれて、自分は祖母と家に残っている。自分の家は、村でも一番くらい貧乏だとその少年はいう。めったに笑わない母が、臨終の病床でにこりとしたことを<それは、「泣くかわりに笑ったのだ」というような気が今になってします>と書かれていたそうだ。そんな少年は家業の炭焼きの手伝いで学校に通えない友の身を案じ、僕たちがもっと力を合わせれば、友人をもっとしあわせにすることができるのではないだろうかと、その作文は結ばれている。こんな少年の心を失った日本は、いったいどこへ行こうとしているのだろうか。

カザルスホール 来春閉館

2009-03-16 22:47:26 | Classic
日本初の室内楽のホールとして1987年に開館したあの「カザルスホール」が、来春閉館されるという記事が3月13日の読売新聞に掲載されていた。とうとう、そう感じたのは私だけだろうか。現在の正確なホール名は、元の所有者だった「主婦の友社」の経営悪化によって土地・建物を買い受けた日本大学の冠をつけた「日本大学カザルスホール」になる。日大総務部によると御茶ノ水キャンパス再開発計画の準備のため、2010年3月31日いっぱいで使用を中止。ホールの生存を含めて?今後は未定とのこと。。。

設計は建築家の磯崎新というところに、創立時の関係者の意気込みを感じられる。座席数は511席。王子ホールよりは、少し大きめでサイズはほどほどなのだが傾斜があまりないので後方席が若干観難いのが難点といえば難点だが、小ホールにしては珍しく左右に二階席もある。元々室内楽は、オペラと同様に長年の音楽ファンがたどりつく究極の音楽シーンであることから、集客が難しかったのだが、日本のクラシック音楽層の成熟にあわせるかのように、王子ホール、トッパンホール、JTアートホールなど、素晴らしい室内楽用のホールが都内に次々と誕生した。そんな音楽ファンにとっては恵まれた環境の中で、残念なことに、総合プロデューサーだった萩元晴彦さんが亡くなられてから、「カザルスホール」独自のプログラムや企画に精彩さが欠けてきたように思われた。一流の音楽家の一般的なリサイタルだったら、カザルスホールにこだわらなくとも、一年中どこかのホールで開催されている。かってカザルスホールに脚を運んでいた愛好家は、今では王子ホールの会員になっているのではないだろうか。

問題は、10周年に導入したドイツの名匠ユルゲン・アーレント作の世界的にも貴重な北ドイツバロック様式のパイプオルガンの行く末だ。閉館してから空調管理が行われないと繊細な楽器も傷むし、楽器とホールは一体なので楽器だけ残すわけにもいかないそうだ。設計した磯崎新氏は、ブランドごと買い取った日大にも存続の責任があると語っている。日大側の対応は、日本の文化度の問題とも。一方、開館当時の初代支配人だった石川康彦氏は「我々が断念したホールを引き継いだ日大には7年間存続してくれて感謝している」と語っているそうだ。このような寂しい報道に接して、カザルスホールでの数々の名演奏や思い出が、まるで走馬灯のように私にもよみがえってくる。自分の人生にいつも音楽が寄り添っていたように、そこには確かにカザルスホールがあった。私もこれまでホールを維持してくれた日大に感謝したい。

『ダウト~あるカトリック学校で~』

2009-03-15 16:23:29 | Movie
恒例の雑誌「FRAU」で特集された2009年前半・新作映画の中で、最も観たいと思った映画が『ダウト ~あるカトリック学校で~』。
教会にも”チェンジ”の波が届こうとしている1964年、ニューヨーク・ブルックリンにあるカトリック系の教会学校。信仰と信念のもと、強い意志をもつ生徒からも恐れられる厳格なシスターの校長アロイシス(メリル・ストリープ)は、進歩的で生徒や信者にも人気と人望のあるフリン神父(フィリップ・シーモア・ホフマン)が気にかかる。彼が、校内唯一の黒人生徒をとりわけ目をかけている点に、小さな”疑惑”を抱きはじめる。ひそかな疑惑とは、立場を利用してフリン神父が黒人学生と不適切な関係に及んでいるのではないだろうかと。
或る日、若い修道女の教師シスター・ジェイムス(エイミー・アダムス)から、その黒人生徒の息にお酒の匂いを嗅いだことなどの報告を受け、校長の”疑惑”の芽は一気に広がり、彼女にとっては単なる疑惑をこえてもはや既成の事実となり、フリン神父の必死の否定や釈明も心には届かない。
そんなふたりの口論を聞きながら、人を疑うことよりも信じたい純粋なシスター・ジェイムスは、まるで心に根をはってひろがった”疑惑”に支配されたかのような校長にとまどいと違和感を隠せないのだったが。。。

果たして、アロイス校長の”疑惑”は偏狭な彼女の単なる妄想だったのか。それとも進歩派を装いつつ、人望のあるフリン神父こそは、実は狡猾な小児性愛者だったのか。

本作は、2005年にトニー賞及びピュリッツアー賞を受賞した舞台劇を脚本を書いたジョン・パトリック・シャンリイ自らが監督を務めて映画化した作品である。ケネディ大統領が暗殺されたアメリカとしても暗い時代背景の雰囲気が、映画に郷愁のような趣を与えている。人種差別も色濃く残っていた当時、フリン神父のような自由で革新的な聖職者は、最初とても魅力的な人格者に見える。ところが、さすがにそんな神父役を演じたのが名役者フィリップ・シーモア・ホフマンである。全身を黒のシスター服に諸々の俗な欲望を閉じ込めたきわめて禁欲的な生真面目なシスターたちに比較し、彼が素晴らしい説教をすればするほど、豪華な法衣に隠された太ったフィリップ・シーモア・ホフマンの肉体から、なんともいえないいかがわしさと胡散くささを感じるようになったのは、私だけであろうか。校長の疑惑の芽が、私の体内に飛んできたわけではない。この劇の意図としては、どんなに理路整然と疑惑を否定しても、優れた神父から観客に疑惑を残す必要があったのではないか。『カポーティ』でその演技力を感嘆させられたフィリップ・シーモア・ホフマンの独特の存在感が、他の神父が凡庸なまぬけに見えるくらいきわだっているのである。

その一方、すべてに対照的である保守的な校長を演じたメリル・ストリープは、映画に登場した時からその歩き方、口のゆがめ方から期待どおりの名演技を楽しませてくれる。この映画でメリル・ストリープらしさを感じたのが、音楽が流れる食堂でお酒を呑み、煙草を吸いながら大声でジョークを楽しみながら食事とする神父たちとは対照的に、私語を禁止し、食事の席でも厳格で真面目な態度を貫く場面である。視力が劣り殆ど目が見えなくなった老シスターをかばい、神父たちにわかると施設送りになることを彼女は心配する。厳格な校長は、頑固で冷たい面だけではなく、老シスターを思いやる優しさをあわせもつ複雑な役は、メリル・ストリープらしい知性が光る演技である。同時に、単純に善と悪に分けることができない点や、”疑惑”に敗北していく人間の深淵に、これまでのハリウッド映画とは違うところに、あの9.11に影響をうけたアメリカの良心を感じる。ピュリッツアー賞受賞という評価の根拠を理解する。そして、校長室に神父とシスター・ジェイムスを呼んで尋問をはじめる場面では、神父は部屋に入るやさりげなく両者の立場をわからせるかのように、校長がいつも座っている執務机の椅子の方に当然のように座るのである。ここでは映画『マグダレンの祈り』でも感じた男性優位の教会における女性の低い立場を示唆しているとも思える。

もうひとつの見どころは、なんと言っても黒人生徒の母親を演じたヴィオラ・デイヴィスの演技である。
忙しい仕事のあいまに校長の呼び出しに応じた彼女は、帽子をかぶりきちんと上品に正装している。清掃の仕事に従事している貧しい労働者階級ではなく、息子のために息子の将来のために、校長と対等に話をするためにやってきた母親としての威厳がその服装に表現されている。彼女にとっての戦闘服は、母として息子を思う必死さの現われである。校長を独身だと思っていたのが、実は戦争で死別した夫がいた、つまりそれなりの性体験があるという経歴を知ったことが、後の息のつまるような校長との白熱した議論の伏線として生かされている。このあたりは、実に緻密な脚本となっていて、またヴィオラ・デイヴィスの演技に主役級がかすむくらいだ。

もともと舞台劇だったことから、無駄なく核心にせまるセリフと、俳優たちの迫真の演技に、すっかり映画を堪能した。・・・と、私は大満足だったのだが、例の「FRAU」の女性ジャーナリストの批評では「ストーリー自体のあまり盛り上がりがないため、退屈はしないものの、全体的に地味な印象はぬぐえない。やはり映画より舞台向けの素材のようだ」ということになるらしい。。。う~~ん、よくあることだが、残念ながら映画というものをわかってないジャーナリストのようだ。

監督:ジョン・パトリック・シャンリイ

65歳女性新聞配達員の悲しき殉職

2009-03-12 22:33:12 | Nonsense
クリント・イーストウッド監督の公開中映画『チェンジリング』に、主人公であるシングルマザーのクリスティンが小学生の息子のウォルターから「どうしてぼくにはパパがいないの」と寂しげに尋ねられる場面がある。クリスティン役のアンジェリーナ・ジョリーは、彼の目を見つめながら
「あなたが生まれた日に、パパに贈物が届いたの。その箱を開けると”責任”という贈物が入っていて、パパはその重さに耐えられなかったの」と応える。そして、どんな時にも男らしくりっぱに行動するように、と息子に諭すのだった。

先日6日の早朝、奈良県の近鉄線の踏切で、65歳の新聞配達員の女性が配達中に列車にはねられて亡くなるという事故が起こった。
都心まで通勤していると、本当に不謹慎な言い方だがうんざりするくらい人身事故が日常的に起こっている。ところが、私が新聞の片隅に掲載されていた事故がなんとなく気になったのが、犠牲になったのが65歳という高齢の、しかも女性の新聞配達員だったことである。

Aさんは、現場の踏切の幅が狭いためバイクを押して渡っていたところ、折からの雨のためか滑って転倒してしまう。たまたま車で通りかかった男性が、すぐに車から降りて助けに行きバイクを踏切内から出して振り返るとAさんが、起き上がったので安心した。ところが、Aさんはバイクのカゴから線路内に落ちてしまった新聞に気がつき、すぐに拾い集め始めた。そうするうちに踏切の警報機が鳴り、遮断機も降り始めたので「「おばちゃん、危ないでー! 早う出ぇや!」と男性が大声で叫んだのだが、新聞を拾うことに一生懸命だったのか、線路内でそのまま拾い続ける。
次の瞬間、近鉄の橿原神宮前行き列車が猛スピードで走り抜けていった。
販売店によるとAさんは、勤続21年のベテラン。ひとり息子さんも同じ販売店で約20年働いていて、事故にあった日も親子そろって出勤していたそうだ。Aさんの勤務ぶりは、非常に熱心でこれまで休むことも殆どなかったという。
この日の配達は殆ど終えて、配達先の都合で遅い時間に届けながら帰宅する途中だった。残っていたのは、たった3部だけ。

Aさんが亡くなった午前7時といえば、人によってはぬくぬくとした布団からようやく起床する時間帯といえよう。配達の仕事は、想像するだけで大変だと思う。ましてベテランとはいえ、そろそろ隠居してのんびりと過ごしても許される年代にさしかかっても、まだ働き続けたAさん。
通常、会社のような組織に勤務していれば、年に何日も有休休暇があったり、夏休み、冬休み、大型連休とお休みをとれるが、新聞が配達されない日が一年もないことを考えると、配達員には忌引きや病気や怪我でお休みをしても、有休休暇の消化という感覚はあまりないのではないだろうか。私たちは、休刊日でもなければ、早朝、午後3時頃には新聞が絶対といってよいくらい届いているのが当たり前のような感覚になっている。少しでも遅配が発生すれば配達所に尋ね、配達もれなどあったら苦情の電話をかける。こんな当たり前を支えてくれているのが、雨や風、雪にもかかわらず間違いなく契約者の新聞を届けてくれる配達員の方々の仕事への”責任感”にある。そんなことを改めて考えると、Aさんは残されたたった3件の配達先の大事な新聞をぬらしてはいけない、汚してはいけない、お客さまに届けなければいけないという気持ち一心に、列車がすぐそこまでせまっていることに気がつかなかったのだろう。あまりにも悲しい”殉職”である。

ひるがえって、我が国の政治家たちのあまりにも無責任過ぎる言動とふるまいはどうであろうか。国民の税金をもらいながら、そんなに簡単に病気になって仕事を投げ出したり、薬の飲み過ぎだなどと言い訳をしたりと、このAさんに比べたらあまりにも情けなさ過ぎる。贈物の箱を開いたら「責任」が入っていたから途中で逃げ出した、そんなウォルトンのパパみたいではないか。宇宙飛行士になるための最終試験で「覚悟」を問われるように、ひとたび政治家を志して国会の赤絨毯を踏んだなら、それなりの責任への覚悟をもっていただきたい。