千の天使がバスケットボールする

クラシック音楽、映画、本、たわいないこと、そしてGackt・・・日々感じることの事件?と記録  TB&コメントにも☆

「ライ麦畑でつかまえて」サリンジャー氏死去

2010-01-31 21:53:26 | Nonsense
小説「ライ麦畑でつかまえて」で知られる20世紀米文学を代表する作家、J・D・サリンジャーさんが27日、米北東部ニューハンプシャー州コーニッシュの自宅で死去した。91歳だった。同作を書いて以降、ほとんど作品を発表せず、隠とん生活を送っていたため、生きながらにして伝説の作家になっていた。 同氏の長男で俳優のマット・サリンジャー氏が28日、声明を出した。自然死だったという。
サリンジャーさんはポーランド系ユダヤ人とアイルランド系の両親のもと、1919年、ニューヨーク・マンハッタンに生まれた。10代で執筆をはじめ、40年、ストーリー誌に掲載された「若者たち」でデビュー。42年に米軍に入隊し、ノルマンディー上陸作戦(44年)にも参加した。戦後、ニューヨーカー誌に発表した短編が評判になり、51年の「ライ麦畑でつかまえて」は大ベストセラーになった。成績が悪く高校を追い出された主人公の屈折した感情を、攻撃的な言葉で表現し話題になった。主人公の名「ホールデン・コールフィールド」は、戦後、悩める若者たちの代名詞になるなど社会現象を巻き起こした。

しかし、身辺が騒がしくなったことを嫌った同氏は53年、突然、ニューハンプシャー州の田舎町で隠とん生活に入り、メディアに登場することもなくなった。「ナイン・ストーリーズ」(53年)、「フラニーとゾーイー」(61年)を執筆、65年に同誌に出した「ハプワース16、1924」が発表された最後の作品になった。 「ライ麦畑でつかまえて」は多くの言語に翻訳され、これまで約6500万部以上を売り上げ、現在も毎年約25万部が売れるとされている。日本では、村上春樹さんの新訳「キャッチャー・イン・ザ・ライ」(03年)が話題になった。

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サリンジャーを知ったのは、大島弓子さんの作品からだったような記憶がある。今でも、ホールデンがライ麦畑でこどもたちを守っている絵が目にうかぶ。繊細で、悲しい美しさと慈愛のある絵だった。「ミモザ館でつかまえて」というタイトルの漫画もあったし。大学1年の時、サークルの会報誌で合宿のルポを書かされた時のタイトルは「キャベツ畑でつかまえて」だった。(長野県のキャベツ畑ばかりの民宿が合宿所だったから、懐かしい・・・)その後、庄司薫氏の「赤ずきんちゃん気をつけて」で薫君と出会い、彼を大好きになり、今でも薫君への片思いは続いている。思えば、オトナ社会の欺瞞におりあうことができず、自己のアイディンティを確立できずに悩む光が砕けるような青春像・・・。永遠の名作から、半世紀をへて青春文学は大きく変貌している。

『ロルナの祈り』/LE SILENCE DE LORNA(原題)

2010-01-30 15:00:50 | Movie
ジェームズ・キャメロン監督の最新3D映画『アバター』が、25日に18億5500万ドル(約1670億円)を突破し、1997年に公開された同監督の「タイタニック」が持つ18億4290万ドル(約1660億円)を超える記録を打ち立てた。これは、監督自身の「タイタニック」が約1年半かけて作った記録を公開わずか39日間で更新、キャメロン監督は歴代興行収入の1、2位を独占することになった。 『アバター』は、未知の星を舞台に人類と先住民との戦いを描いたSF大作で、約110カ国・地域で公開中。3Dを駆使した映像が話題で、中国では国産映画を守るため同作を打ち切る映画館が出たほどだ。17日には、米アカデミー賞の前哨戦といわれるゴールデングローブ賞ドラマ部門で作品賞、監督賞の2冠を獲得。カップルや友人たちと複数で鑑賞するのに向いている作品でもあることから動員数も期待され、また映画館で鑑賞することに価値がある映画なので、さほど驚くことでもない。私は、まだ観ていない、というよりもそれほど観たいと思わないのだが、本作は従来の鑑賞する映画という概念を超えた体感型映画として、映画そのものを革新して、今後の映画産業への影響も変えていく作品だと高く評価したい。

さて、そんな3D映画の景気のよい話とはいっさい無縁なのが、社会派で知られるジャン=ピエール・ダルデンヌ、リュック・ダルデンヌ 兄弟監督。少年犯罪を扱った『息子のまなざし』(’02)、人身売買と貧困がテーマーの『ある子供』(’05)、他に 『イゴールの約束』(’96)、『ロゼッタ』(’99)、など常に社会的弱者に視点をおいた作品は、『アバター』のような一般人の人気にはとても遠く及ばないが、カンヌ国際映画祭で2度のパルムドール受賞に輝くなど、映画人には常に高く評価されてきた。心を潤したり扇情するような音楽はなし、カメラワークも固定されずドミュメンタリー・タッチのようなこだわりの映像は、ちっとも楽しくない、気も晴れない、気分転換にもならないのだが、心に残された石のような存在のために、鑑賞後の満足度は高かった。そんなダルデンヌ兄弟の描く女性を主人公とした恋愛映画とは。

アルバニアからベルギーにやってきた移民のロルナ(アルタ・ドブロシ)は、ベルギー国籍を得るために麻薬中毒者の青年クローディ(ジェレミー・レニエ)と偽装結婚している。ロルナの夢は同じ故郷から出稼ぎにきている恋人と小さなお店をもつこと。洗濯屋で働き、一生懸命お金を貯めるロルナ。当然ながら、同居している麻薬中毒のクローディには冷たい。しかし、麻薬中毒から必死に抜けようとしているクローディ、そして彼女にすがりつくように助けを求めてくる彼の姿に、ある計画に罪悪感をもつようになっていったのだが。。。(以下、内容にふれておりまする。)

女性の肉体には、まれに「想像妊娠」という症状が現れる時がある。妊娠に対する過大な期待や恐れが、肉体に妊娠と同じような兆候、つわりや腹部の膨張、勿論、生理もこない症状をもたらす。精神と肉体が結びついていることや女性のデリケートな感情がよくわかる症例だと思うが、もともとストレスなので生理不順になった結果、妊娠をおそれる日ごろの不安がつわりという現象をもたらしたり、逆に妊娠を待ち望む希望が想像でも妊娠したいに結びつきやすいが、ロルナの場合は、事情が少し違う。ここでロルナの肉体に「想像妊娠」をもたらした監督の着眼点に、今回も私は敬服してしまった。行為が先にたち恋愛をうむことがあると思う、が、ロルナの恋は、対象の存在の消滅によってはじめてこの世に生まれた。恋の対象の代替として今度は絶対的な存在として、彼女には”赤ちゃん”が必要だった。また、罪悪感から逃れるためにも、無意識のうちに母として子をうみこの世に送ることを希望、というよりももはや無意識下の命を救う義務感が「想像妊娠」をもたらした。

何度もしわくちゃのユーロ紙幣が行きかい、ぎりぎりの生活と危険性の緊張感がはらむ映像。その中で、これまでのロルナは、男たちにとっては所詮、営利をもたらす女性という性の持ち物でしかなかった。彼女自身は国籍取得とお金のためブローカーを利用しているようで、実は彼女の意志や希望など全く受け入れられない人格すら無視された存在だということが、除々に知らされていく。そこに、ロルナというパーソナリティにすがりつきしがみついてくるのが、クローディだった。これは、純粋な恋愛映画だが、幕をおりてから始まる恋愛映画でもある。母は強し。森の中の小屋に逃げ込んだロルナが、暖炉にくべる「木を探しにいかなくちゃ」と語る。独り言だと最初は思ったのだが、そうではなく”母親”が胎内に宿る赤ちゃんと会話をしていたのだった。病院で妊娠していないと診断されても、それを受け入れることができないロルナ。恋愛映画とはいいつつも、ダルデンヌ兄弟監督の手にかかると社会派らしい超ビターな作品になる。狂気の愛なのか、純粋な愛なのか。どちらにしても、ロルナの祈りにこめられたかすかな希望は、やはりダルデンヌ兄弟流にかわらない。

これまでにもダルデンヌ監督兄弟に出演してきたジェレミー・レニエ(『ある子供』)、常連組のオリヴィエ・グルメ、 『息子のまなざし』からすっかり青年に成長したモルガン・マリンヌが本作でも出演している。その中で、ロルナを演じたのは、アルバニアの隣国でコソヴォ共和国出身の女優アルタ・ドブロシ。現地でオーディションを受けた100人の中から見出した監督は、サラエボまで彼女に会いに行ったそうだだが、ふたりの名匠監督の間で微笑むこのたいそう魅力的で美しい女優が、あのロルナとは。とても同一人物とは思えないっ。さすがに監督の信頼をえただけあるまさに女優だ。映画は、今度技術を駆使した3Dの娯楽映画、先日鑑賞した芸術作品に近い『アンナと過ごした4日間』、そして本作のような社会派映画と映画に求めるコンセプトごとに明確にわかれていくだろう。そして、逆にこれまでの映画履歴で自分が求める映画といものから、映画とは何ぞやという問いも見つかるかもしれない。
自分にとっての映画とは。ダルデンヌ監督の作品にその答えがあるのは、3D映画が全盛時代を迎えてもかわることがないだろう。

監督・脚本 ジャン=ピエール・ダルデンヌ、リュック・ダルデンヌ
出演 アルタ・ドブロシ、ジェレミー・レニエ、ファブリツィオ・ロンギオーヌ、アルバン・ウカイ
2008年 ベルギー、フランス、イタリア 
音楽:ベートーベン「ピアノ・ソナタ第32番ハ短調作品111第2楽章アリエッタ」

■アーカイヴ
『ある子供』
『息子のまなざし』

「ワインで考えるグローバリゼーション」山下範久著

2010-01-28 00:08:35 | Book
2005年、カンヌ映画祭のドキュメンタリー部門に出品された映画『モンドヴィーノ』の本当の主演俳優はワインではなく、またワイン評論家のロバート・パーカーでもなく、コンサルティングのミシェル・ロラン。葉巻をふかしながら太った体を運転手つきのベンツに乗せて、コンサルティング契約を結んでいるワイナリーに出向いてパーカー好みのワインつくりのご指導をする。それであんなにリッチな暮らしぶりになるのが、なんとなく不可解なのだが、映画の中では”悪役”としても成功していたらしく、カンヌでは彼の顔のアップが登場するだけで客席は失笑でわいたそうだ。『モンドヴィーノ』は、ドキュメンタリー映画とは言いつつも、ワイン好きの*1)テノワールに思い入れをもつ監督によるドキュガンダ映画に近い。同じようにワインが大好きで(私も好きだが)グローバリズムを検証しつつ、中立的な立場で、ワインの歴史からグローバリゼーションを考えたのが、現代帝国論を論じるのが本職の学者・山下範久氏による「ワインで考えるグローバリゼーション」である。

ワイン界の帝王、評論家のロバート・パーカーは米国人である。何故、米国人なのに世界を制覇するようなワインの評論家になれたのか。パーカーは、英国人でもなく、フランス人でもない生粋の米国在住のアメリカ人。映画を観て、そんな疑問をそもそももつこと自体から、グローバリゼーションを考えることができるかもしれない。彼がワインの評論の舞台に彗星の如く登場する前は、私のイメージどおりにこの分野の”権威”は貴族的伝統の延長にある特権集団のような英国人の独占市場に近かった。抽象的に飾られた言葉でご託宣的にくだされる批評は、むしろ意味不明で生産者たちとの親密な関係も無視できないものだった。パーカーのワイン初対面は、大学在学中、フランスに留学していた恋人に会うために訪問したパリのレストランで、1ドルもするコーラのかわりに頼んだワインだった。コーラとワイン。なかなかおもしろいエピソードであるが、1947年生まれで弁護士になったパーカーの憧れは、欠陥車訴訟で戦った消費者運動のラルフ・ネーダーだったことから、従来の権威ある特権階級の批評から、消費者本位のワイン批評をプリンシプルにしたのだった。しかも、明確に100点満点の点数化をした。(但し、最低ラインは0点でなく50点。)そして彼の驚異的な記憶力、タフさ、そしてティスティング能力で、この見える化した点数・数値は、たちまちワインの産地の拡散と品種の収斂といったポスト・フォーディズム的なビジネス・モデルとなった。”権威”を否定するつもりの手製のニュースレターが圧倒的な評判をよび、自らが権威ある立場になってしまった皮肉もあるが、彼の絶大なる力と影響力はゆるぎない。

フォーディズムは、自動車会社のフォード社が確立した生産システムに由来する言葉だが、農業も大量生産、低価格の安定供給が実現して「工業化」することによって、さらに大量生産ができるようになると、やがて情報化が加わり多品種少量生産で無在庫経営をめざす経済、ポスト・フォーディズムの時代がやってきたのだった。著者によると、グローバリゼーションが進んだことによってポスト・フォーディズム化も進んで多様性に価値を見出され、そのうえでテノワールという概念が成立するのであり、パーカーリゼーションとはむしろオルタナティヴというよりも双子の関係にある。映画で観られるようなグローバリズムとテノワール主義の対立ではなく、質の向上と多様化、ブランドの確立と文化の保護といったワインの希望の「価値の共有」へ向かって想像力を働かせたい。本書は、架空の講義形式で全13回の講義になる。ワインの歴史にはじまりその希望まで、はっきり言って学術的なティスティングで、お気楽にという目論見ではしっかり味わえない意外さがあった。それはともかく、今宵もワインを傾けよう。

*1)テノワール:ワインに表現されるブドウ畑の個性

■アーカイヴ
映画『モンドヴィーノ』

『アンナと過ごした4日間』

2010-01-24 22:40:13 | Movie
最初にアンナの部屋を訪問した深夜、男はロープからさがっている彼女の白衣のとれかかったボタンをつけ直した。
2日目、女の部屋の汚れていた床を磨き、寝息をたてて眠っている彼女の足の小さな爪にそっと深紅のマニュキュアを不器用にぬってやる。
翌日は、女の誕生日。真っ赤な薔薇を抱き、精一杯正装して男はやってきた。机の上の呑み残しのウォッカで陽気に乾杯。懐にはリストラされて渡されたわずかな退職金で買ったダイヤモンドの指輪。そして、4日めは。。。

ポーランドの地方都市に暮らす中年のレオン・オクラサ(アルトゥル・ステレンコ)は、病院で雑役をしながら病弱な祖母のめんどうをみる独身。友人もいない孤独な男の心にある名前は、たったひとり”アンナ”という女性だけだった。夜、自室の小さな窓から向かいの看護師用の宿舎に住むアンナを双眼鏡でのぞくレオン。静かにじっと煙草を吸いながら、彼女の様子を眺めることだけが楽しみな日々。しかし、祖母が亡くなると、思いは狂おしいほどにつのり、深夜に彼女の部屋に侵入するようになった。(以下、内容にふれておりまする。)

私は、不覚にもイエジー・スコリモフスキという監督を知らなかった。ところが、映画館においてあった教会が見える街を歩くひとりの男のワンシーンの、まるでフランドル派の絵画のような映像美につかまってしまった。言葉にこだわり気の利いた一言が大好きな私に、殆ど省略されたセリフ、絵画のような映像美と不安をかきたえるような音楽と効果的な音ですべてを完結させた監督に、映画における芸術を目を開くように教えられた。何よりも芸術性に優れているのが本作の特徴だ。こんな映画もあるのだ。

この映画のテーマーはパンフレットにあるように「愛、愛、愛、すべては愛ゆえに。」の究極の片想いかもしれない。しかし、その愛が深ければ深いほど、ひとりの中年の男の孤独の闇が私には胸にせまってくる。アンナと運命的な出会いになる事件を目撃して通報しながらも、冤罪をはらすことができない不器用さで、この男に誰ひとり関心をもたないことが説明される。長年看護にくれた祖母を亡くした葬儀の夜、祖母の持ちものをすべて燃やし尽くして泣く姿は、たったひとりの肉親を失った悲しみなのか、それとも解放感からなのか。病院で人の嫌がる仕事をする彼は、社会的には最下層に属する人間でその存在はあまりにも軽い。愛情の反対は無関心、と言ったのはマザー・テレサだった。いや、この映画を語るにはむしろ言葉はいらないだろう。高倉健さんのような寡黙な男には、言葉は記号に過ぎない。

事故だろうか、男の左手を焼却炉に投げ入れたその同じ汚い労働者の指でダイヤモンドの指輪を選び、祖母の死から次第に薄汚れていく服そう、川を流れてくる不吉な牛の屍体、ベッドの下にひそむ男の目の前でそれとは気がつかずストッキングをはく肉感的な足、部屋にかかっている使い古したタオル、女性裁判官による裁判と男性裁判官による裁判。映像が、これほど豊穣で能弁だったとは。物語は時系列で進行しない。ひとつひとつの映像が、煙草の火がはぜる音、サイレンの音、鳩時計の音、床をきしませる足音が、少しずつアンナと過ごした4日間の物語に集約されていく。その点で、受身で3D映画のように体感する映画とは違う。94分間、一瞬のゆるみも無駄もなく、最後にアンナのとった行為まで完璧に構成されている。それゆえに、久々に集中力を要する映画だった。めくるめくような官能を味わうよりも、いっそプラトニックな愛情を犯罪とよぶにはあまりにも痛々しい。ストーカー、変態、そんな単語も踊るのもこの映画。しかし、女子的には映画『恋する惑星』のフェイの行動の可愛らしさに共感もしてきた。最後にアンナのとった行為は正しい。そして、それでもレオンの恋は成就できたと。
ところで、 あまりにも美しかったこの映像は、今では我が家のパソコンの壁紙におさまっている。

監督/脚本/製作:イエジー・スコリモフスキー
2008年/フランス・ポーランド

4人にひとりは移民 シンガポール

2010-01-23 15:55:52 | Nonsense
ちょうど1年前、NHKで放映された番組「沸騰都市 シンガポール 世界の頭脳を呼び寄せろ」には、軽いショックを受けた。
この国を支配するリー一族のリー・シェンロン首相のしたたかな戦略に感心しながらも、その冷徹さに同じ人間としてなじめない部分も残った。当時の番組を再放送するかのように、情報誌「選択」に更に詳細が掲載されていたのが「移民国家 シンガポール」だった。

シンガポールの住民は、499万人。この内、シンガポール国籍と永住権取得者は373万人しかいない。4人にひとりが、母国から派遣されている駐在民もいるかもしれないが「移民」となる。しかし、この「移民」の実態を考えると、恒常的にこの国で生活していく「移民」ではなく、「雇用のバッファー(調整弁)」要員になるのが特徴である。この他にもサービス業、事務職など外国人労働者を100万人受け入れている。

トップレベルの”バッファー”は、番組でも紹介された03年から総額5000億ドルを投じて始まったバイオメディカルの研究拠点「バイオポリス」です。高額報酬、トップレベルの研究施設、素晴らしい生活環境、税制優遇などの”餌”に、ノーベル賞クラスの頭脳が集まる。この”餌”という表現は、日系企業幹部が使用したのを拝借したのだが、人類に貢献するかもしれない研究活動も、所詮、研究者も成果がなければ簡単にきられる雇用の調整弁であり、日本の税金も援助して育てたかもしれない頭脳の成果の果実もシンガポールに落とされていく。このトップレベルの人々とは対極的にあるのが、3Kシゴトに低賃金で使われるインド、スリランカ、バングラディッシュからの10万人にのぼる出稼ぎ労働者たち。労働ビザは二年間の期間限定で更新はなし、住民との結婚は不可、女性は妊娠したら国外退去とはっきりしている。長期滞在する外国人には、場合によっては学歴証明書やエイズの検査結果などの提出をビザによっては必要になる。

この国の上層部は、リー一族、中華系特権階級、小学校からの厳しい受験競争を勝ち抜いたごく一部のエリートで構成されている。それでは、能力至上主義についていけないごく普通の庶民はどうしているのか、と思う。生活費や教育費高騰でなかなか大変らしいのだが。
すると、言論統制、表現の自由もないこの国に見切りをつけ、海外移住や留学に活路を見出す者が増えているという。知識階級、優秀な頭脳の海外流出がとまらないために、研究所はそれを補完するための「頭脳」の輸入の目的でもあったのだ。出産ボーナス、有給出産休暇の延長、官製お見合いの効果もなく、出生率は1.24%と過去最低記録を更新中。シンガポールの雇用情報や企業紹介を行う首相府直属機関を、06年に英国に開設して約10万人のUターン推進事業ももはや焼け石に水。

ところで、長々とシンガポール事情を書いたのは、同じアジアとはいえ、エゴイスティックな政策やリー首相が統治する小さな他国に不快を感じるか、参考にするかの話ではない。ここ数年、気になっているのだが、都内のコンビニの店員や飲食店に中国人がとても増えていることだ。先日も渋谷を歩いていたら、中国人がとても多いことに気がついた。日本に住みついている雰囲気だが、表情や服装、顔立ちでなんとなく日本人と違う中国人とわかる。これまでの銀座を見物に来る観光客とはちょっと違う。彼、彼女たちを最初は学生の留学生たちのちょっとしたバイトだと思っていたが、もしかしたら日本に住居を移した移民なのではないだろうか。中国の極貧の農村事情を知れば、日本に避難してくる気持ちもわからなくもない。また、今後は、介護士や看護婦という典型的な3K分野にもインドネシアやフィリピン人が進出してくる。安い賃金で、サービス業や3K仕事に移民を使えることは、日本人の生活にリッチ感をもたらすかもしれない。しかし、渋谷の路上に止められた車からすさんだ顔の貧しい身なりの中国人男性たちが降りてくる様子を眺めていると、はっきり言って治安の悪化の懸念もある。海外生活の経験もなく、島国で育ったおおかたの日本人のひとりとして、移民政策を考えなければいけないのではないだろうか。そんなことも感じている。

■アーカイヴ
「沸騰都市 シンガポール 世界の頭脳を呼び寄せろ」
代理出産ビジネス

シャネル&ストラヴィンスキー

2010-01-20 23:03:58 | Movie
恥を知れ! ロシアに帰れ これは騒音だ!
1913年5月29日、パリのシャンゼリゼ劇場をうめた満員の盛装した紳士淑女の怒号が飛び交い、騒然となった。
ピエール・マントゥー指揮、印象的原始主義の代表作「春の祭典」が初演された時のことだ。激しいリズムの狂乱、ヴァッラフ・ニジンスキーによる白い化粧の妖しい雰囲気の振り付けとあいまって「春の祭典」は大事件となった。作曲家は、ロシアから亡命してきたイーゴリ・ストラヴィンスキー。そして、大騒動の中、じっと前衛的な音楽に聴き入る人目をひくひときわおしゃれな女性ココ・シャネル(アナ・ムグラリス)の姿があった。彼女は、「春の祭典」の音楽に魅せられていた。

それから7年後、パリのパーティで、シャネルとロシアから亡命したストラヴィンスキー(マッツ・ミケルセン)は再会した。デザイナーとしていまや名声と富みを築きつつあるシャネルだったが、最愛の男性ボーイ・カペルを事故で亡くしたばかりだった。
「悲しみの中でもエレガントな女性」
黒い衣装のシャネルは、貧しい異能の作曲家・ストラヴィンスキーの才能を理解して援助を申し入れて、一家は彼女の郊外の別荘に移ることになった。白と黒で配された屋敷やインテリア、シャネルの衣装と洗練の極みである。彼女の庇護を受けるのは、当初は胸を患う妻と子供たちのためだったのだが。。。

「春の祭典」なのである。にぎにぎしく、土臭く強靭で多彩なダイナミズムに富んだ「春の祭典」。確かに騒音だと私だって思う。しかし、今年はどういうわけか苦手な春の祭典を聴きたくなり、4月のオール・ストラヴィンスキー(「春の祭典」と「火の鳥」)のコンサートのチケットを予約してしまった。映画は、その「春の祭典」の演奏会ではじまる。あまりにも斬新過ぎて、観客に受け入れられるか緊張するストラヴィンスキーたちに、容赦なく襲う怒号と逆に音楽を援護する声で混乱きわめるサマが、音楽の変拍子のリズムにのって展開していく。音楽にまつわる映画製作によくある効果的な幕開けとはいうものの、そのリズムのど迫力にぐいぐいと呑み込まれていく。圧巻である。そして、香りをきくとも言うが、音楽も聴く。異なる分野のふたりの才能の遭遇が、こころと肉体の遭遇に移行するにはそれほど時間がかからない。と言っても、私も知らなかったのだが、確かにストラヴィンスキー一家がシャネルの別荘に二年間住んでいたことは事実だが、恋バナに関しては、そこから後世の人間が想像で勝手にふたりの恋愛を仮定したできた物語になる。まったくご本人たちにはお互い迷惑な話ではあるが、ここで描かれている近代的で意志の強いシャネル像は、「春の祭典」の力強いリズムに負けていない。男性社会において、それでなくとも好奇の目で見る人々の中で、才能を開花させるのも容易ではなかった時代だ。かっては飼われていた愛人だったのが、逆に芸術家のスポンサーになるまで成長した。

あんな数学的緻密さで計算された変拍子をベースにした曲を創作したストラヴィンスキーにひかれて足を運んだ映画だが、ともあれシャネルのミューズ、アナ・ムグラリスの美貌がここでも際立ってしまう。ギリシャ系の秀でた鼻、大きくてエキゾチックな瞳と、本作でも彼女の完璧な容姿が、そのエレガントな動きにあわせて5番の香りが漂うようににおってくる。少し低音の声も心地よい。ところで、ちょっと陰気で小心な感じがするストラヴィンスキー像だが、意外や意外にも?脱いだらすごいんです・・・。特にお尻のラインがたくましいのだが、マッツ・ミケルセン、やるもんだ、と思ったら若い頃はアストリートだったそうだ。久々の18禁映画はエロスというよりも、春の祭典らしく土着的な官能。そうそう、春の祭典は別名「性の祭典」とも言われている。映画のタイトルロールでは、まるで細胞分裂が花開くような蠢動を連想したのは、考えすぎか。
女の生き方としてもかっこいいシャネル。もしご本人が生きていたら、この映画の仕上がりには満足だろう。ストラヴィンスキーがつれなくなったシャネルに「君は洋服屋だが、僕は芸術家だ」とすがりつき、情けなくもたたかれる場面があるが、別荘のインテリアはもはや芸術の域。黒とベージュに近い白で最高にシックな装いは、シャネル本来の美を再認識させてくれる。

監督:ヤン・クーネン
フランス映画 2009年製作

■もうひとりのココ
『ココ・アヴァン・シャネル』
『そして、デヴノーの森へ』

やっぱり炭酸ガスの地球温暖化説は誤り?

2010-01-18 23:13:22 | Nonsense
地球温暖化を疑う私でも、北極のちょっとしたアパート規模の巨大な氷塊が轟音とともに崩れ落ちていく映像を見た時は、思わず一瞬真剣になってしまった。北極の氷がこんな風に次々と溶けていったらやっぱりまずいんじゃない?。視覚的にインパクトを与える数十秒の映像は、科学的な解説よりもはるかに説得力がある。私が見た映像は、二酸化炭素による地球温暖化の「実例」として世界の多くの国で繰り返し放映されてきた。しかし、これは地球物理学の第一人者赤祖父俊一氏によると、異変でもなんでもない、らしい。氷河は文字どおり氷の河で、ゆっくりではあるが水が流れているものだそうだ。08年には、逆に7%も氷河が増大している。しかも、今年の冬の欧州は記録的な大寒波に襲われ、英国では暖房などに用いるガスの供給が途絶える懸念が高まっているそうだ。インドでは寒波で300人以上もの人が亡くなり、フロリダでも農作物に甚大な被害があり政府に支援要請も。日本列島もここ一週間、冷蔵庫に閉じこもっているようにさぶいっ。温暖化なんて嘘でしょっ?
気候変動に関する政府間パネル(IPCC)による予測は、不正確である。現在、気温上昇は過去10年止まっていて、これは世界で認められる観測事実である。そもそも地球の気候は、人類の活動に関係なく種々の変動を繰り返してきたのだ。

地球温暖化問題の諸説はいろいろあるが、赤祖父氏によると、1980年代に英国の原子力問題、米国や日本の繁栄を制御する目的のためにとりあげられた政治的な問題で、炭酸ガスとは関係がない。”仮説”が”事実”にすりかえられ、政治家、一部学者、官僚たちが大騒ぎをし、映画を製作して、ひとがよい一般市民は炭酸ガスが地球温暖化の原因とすりこまれてきたのだ。数年前、ロンドンのチャンネル4は”The Great Global Warming Swindle”という番組を放映して世界各国で誰でも同時に見られるようにした。赤祖父氏は、アル・ゴア米国元副大統領の映画『不都合な真実』を娯楽映画と言い切る。やっぱり、日本は国際会議で「おだてられ、はめられ、たかられて」、結局「排出権取引」という名目で国民の税金が無駄使いされるだけではないだろうか。発展途上国援助なら感謝され政治的に有利になれるかもしれないが、排出権取引なら罪を犯した賠償金となる。このままでは、日本経済そのものが温暖化ではなく氷河期に突入してしまう。

・わかりやすい田中宇氏の「地球温暖化のエセ科学」

■アーカイヴ
「排出権商人」黒木亮著
地球温暖化説は誤った説?

~美の巨人たち~カラヴァッジョ「聖マタイの召命」

2010-01-17 23:29:58 | Art
-あなたはあなたの絵と同じ。
 光の部分は限りなく美しく、
 影の部分は罪深い

16世紀イタリアを代表するバロック絵画最大の巨匠カラヴァッジョ。後のレンブラントやベラスケスに大きな影響を与え、数々の名画を後世に残したカラヴァッジョだが、彼ほどその作品と人物像がかけ離れている画家もまたいないだろう。今年は、彼が亡くなって400周年になる記念の年である。来月、謎に満ちた画家の生涯と傑作誕生の裏側にせまった映画『カラヴァッジョ』が公開される。カラヴァッジョの絵画の特徴と画家の内面の対比を巧みに表したこの言葉は、その映画の広告に使われていたものを拝借した。今夜の一枚は、「聖マタイの召命」。

場末の汚い酒場だろうか、ギャンブルと酒でくさい息を吐く男たちは、金勘定に余念がない。そこへ登場したのが、ふたりの男たち。突然の闖入者に、気色ばみ思わず身をのりだそうとする男、保身からだろうか逆に身をひく男、一心不乱にうつむいてお金を数える男。現れた男のうち、やせて金色の輪が頭上に見える男がイエス・キリストである。光の差す向こうに、キリストが指す男は誰なのか。後に聖マタイとなる罪深き収税吏レビを、キリストが自らの使徒にして召そうとする瞬間が描かかれた「聖マタイの召命」。これまでも多くの画家が描いてきたモチーフだが、カラヴァッジョは、芝居の舞台のような劇的空間をつくりあげ、既成の宗教画の概念を破った傑作でもある。

1571年、ミラノに生まれたカラヴァッジョ(本名はミケランジェロ・メリージ Michelangelo Merisi)は、シモーネ・ペテルツァーノの工房で修行を積んだ後、ローマに移る。一説によると、暴力事件を起こしてローマに逃れてきたという激情型で暴力的な性格が伝わる。今でいうホームレスのような貧しい暮らしをしながらも、絵筆をとれば天才性は秀でて、1595年頃にフランチェスコ・マリア・デル・モンテ枢機卿にその才能を見いだされて画家として成功していく。収入が入ると仲間を引き連れて呑み歩き、一銭もなくなるとまた絵筆をとるという繰り返し。喧嘩はお手の物、日常茶飯事で多くの敵をつくり、決闘で相手を殺してしまったために、ナポリ、やがてはシチリアへと流転していく。革新的な絵画は物議をよんだが、たとえば「トランプ詐欺師」のように舞台劇をみるかのような圧倒的な構成力は認められていった。

カラヴァッジョの現実主義的な特徴をあらわした代表作として有名なのは、「病める少年バッコス 」であろう。不健康で、それでいて官能的ですらある不思議な絵。カラヴァッジョ自身を対象としたバッコスは、これまでのギリシャ神話の登場人物の酒神バッコスを美化せず、モデルを正確に写実的に描いている。そしてその写実的描写力で画家の類まれな才能を示した頂点とも言えるのが、「果物籠」。葡萄の瑞々しさと同時に虫に喰われた傷のある林檎、枯れて乾いた質感のある葉と伸びていく生命感のある枝、緻密に描かれた果物籠、テレビの画面だけでもその徹底したリアリズムによる溢れんばかりの才能が伝わってくる。小さな画面の中のその絵にすっかりひきこまれてしまった。

さて、キリストに指をさされてうつむく男がこの劇の主人公である。ある時は時代の寵児に、ある時は反逆者、犯罪者の烙印をおされ、38歳でその短すぎる生涯を閉じるまで波乱万丈の生涯を送った謎のカラヴァッジョ。映画の公開がまたれる!

「ロシアの声」トニー・パーカー著

2010-01-16 11:31:51 | Book
トニー・パーカーは、タイトルのネーミングがうまい。
「Life after Life」(邦題:「殺人者たちの午後」)を上梓する前に”テープレコーダーの魔術師”として高い評価をえたのが、本書の「Russian Voices」、日本語では「ロシアの声」である。ロシア”からの”ではなく、”の”にすることで、市井の人々の素朴なはなしという雰囲気が伝わる。原作は1991年、英国で刊行。当時のロシアの政治を振り返ると、1985年に旧ソ連の指導者となったミハイル・ゴルバチョフが冷戦を終結、そして国内ではペレストロイカを掲げて改革に取り組むも、91年8月のクーデターで巧妙にチャンスをつかんだボリス・エリツィンが権力を握り、翌年ロシア連邦条約により、ソビエト連邦共和国はロシア連邦(ロシア)になった。パーカーは、激動の旧ソ連時代に5ヶ月間にも渡りモスクワに滞在し、10代の学生から老人まで、音楽家、配管工、グム国営百貨店支配人などの職業の人々、同性愛者、美人コンテスト女王などの30名以上の人々の声を活字にした。

まず、ロシア人の告白?するその内容の率直さに、驚かされる。日本で言えば、熟女に近い年齢の美しい女性(夫婦生活は破綻しているが夫あり)が、若い男性と同世代の既婚者との性生活を語り、同性愛者が自らの性行ではなく自分が浮気性であり生涯をともにするパートナーがいないことの悩みを語り、生理用品が慢性的に不足している不満や中絶が多い現状を怒りをこめて語る女性作家あり。(セクシュアルな部分が特に印象に残ってしまうのは、私らしいのだが)当時は、まだまだよくうかがい知れない鉄のカーテンの向こうの人々の多種多彩な生の声が、誰もが礼儀正しいことを除けば、まるで長年の親友相手に語るように、聞こえる。ロシアは多様な民族な集合体ではあるが、もともとロシア人本来は親しみやすく素朴な人柄だ。
パーカーが、こうして実際は141人の人々と自由に話しあい230時間ものインタビューをできたのは、彼のインタビューアーとしての優れた才能もあるが、やはりペレストロイカのおかげでもあろう。と言っても政治的な話はない。(なかには、官僚主義と特権がはびこりKGBが暗躍する社会に住み慣れたた習慣で、体制への変化の希望をもちつつも、自分の発言がいつ再び問題になり逮捕されるかと用心する人もいる。)あくまでも、彼らは自分自身とその暮らしを語っている。

そして彼らは、受けた教育、職業、背景に関わらず、とても話の内容の理論が整っている。インタビューして4~5人の人の話からひとりを採用しているという点で”選択”が入っているからなのか、モスクワ市民のみという大きな都市で暮らす市民生活者が対象だからなのか、それとも国民性なのか、トニー自身の声は今回も封印されているので不明である。ただ当時は、西側のような豊かな物資による娯楽がない反面、言論統制があったために内省的にものごとを考える習慣が身についているのではないだろうか。体制は変われど、国は変われど、人として同じだと共感する部分もあるが、やはり社会主義国独特のものの考え方、ロシア人らしい素顔もかいまみられて興味深い。現代でもロシア人は早婚で、とりあえず20代で結婚、その後離婚というパターンが多いが、本書に登場する人々も10代や20歳そこそこで恋愛結婚、そして愛情がなくなれば話し合ってあっさり円満に離婚というケースが多い。社会主義国なので、女性も働くのが当然で、いざという時に経済的な不安で離婚を躊躇する専業主婦像はここではみあたらない。離婚の理由、また再婚した相手とのきっかけの出会いに、アルコール中毒がキーワードになっているのもお国柄か。まあ確かに、極寒をのりきるには、ウォッカが必要だよね。医師の給与や待遇は、ものを生産するプロレタリアートに重きをおき、医師は人体の修理工に過ぎないという考えから、旧ソ連ではあまり高くない。それにも関わらず、自分の仕事に誇りと遣り甲斐を感じている医療従事者の声には、本来の医療の目的を思い出させる。それにしても、男女平等の社会主義国では女も細腕にツルハシかついで働くのに、ロシア男性は保守的でバースコントロールはしない意外な面も。

結婚しても住む家がない。えっ、と思うのだが、新居を購入する金銭的な理由ではなく、住宅の不足により新婚夫婦の彼らは、祖母の家や、親戚の家に間借りをして、早くふたりだけのアパートを配給してもらえるような努力をするという事情もなるほどと思うのだが、その話しぶりから彼らのおおらかさも伝わってくる。新婚で間借りは、ありえないだろっ。恋に萌える彼らも、日本人から見れば親子関係は逆に淡白に思える。もう何年も会っていない両親や父は数年前に亡くなったらしいというのも、離婚が多いことや、国土が広大過ぎて帰省するのも大変という事情もあるのか、少々寂しい気もした。だから残念なのは、対象者がモスクワ市民だけなので、地方生活者の声も聞きたかったことにある。そして、現代のロシアの声は、と考えたら、携帯電話も普及し、近代的ビルも建設され、資本主義化しつつあるなかでは、一般のロシア人にインタビューする価値もなくなってきている。そう思うと、本書に登場するロシア人に郷愁すら感じてしまった。
ところで余談だが、平成4年に出版された本書の帯に近刊「Life after Life」も出版予定とあり、本当に沢木耕太郎さんに、読者を待たせたねと言いたい。

■アーカイブ・・・ロシアと言えばこんな記事も
映画『父、帰る』
「自壊する帝国」佐藤優著
「国家の罠」佐藤勝優著
おろしや国訪問記④
「エルミタージュの緞帳」小林和男著
「1プードの塩」小林和男著

作曲家の挑戦「形式からの飛翔」

2010-01-15 22:53:04 | Classic
昨年、11月6日の菊池洋子さんの「ピアノ300年の旅」に続いて、今夜は東京文化会館主催・レクチャーコンサート「作曲家の挑戦」シリーズの第4回目「形式からの飛翔」。ナビゲーターの堀米ゆず子さんが選んだ作曲家はブラームスとバッハ。そういえば、最近あまりお名前を聞かないと思ったら、結婚を機に生活の拠点をベルギーのブリュッセルに移してご活躍されていたからだった。記憶によるとふたりのお子さんのママさんだったはず。さぞかし疾風怒濤の多忙な日々という私の想像通り、お久しぶりの掘米さんは、黒い布地でチャイナ服のようなデザインの裾が長い上着から、純白のパンツがのぞいている装いに、どっしりとした腰周りの貫禄が備わっていた。
80年、世界的なコンクールのひとつであるエリザベート王妃国際コンクールで日本人として初めて優勝した堀米さんも、今では同コンクールの審査員、ブリュッセル王立音楽院で教授、というソリストの立場から後輩たちの審査、指導をする役割に活動のフィールドをひろげていた。伴奏を務めるピアニストの津田裕也さんは、息子と言ってもいい年代。世代が、ひとめぐりもふためぐりも変わっている。

そんなベテランの堀米さんにとっても、レクチャーコンサートという形式の演奏会は初めての経験だそうだ。堀米さんの気さくなお話が始まる。当り前だが、コンサートのプログラムは重要である。料理にたとえても、どんなに美味しい料理でも組み合わせのバランスがある。その点でも、今日のプログラムは通常ありえないという点で、これもひとつの挑戦になる。堀米さんの音楽つくりで、重要なハーモニーとメロディのうち、メロディが苦手だったそうだ。ブラームスのソナタを勉強していた時、どうしてもうまくメロディをつかめなかった彼女に、5年間師事した江藤俊哉氏のピアノの音をよく聞くというアドバイスは利いた。彼女は、ピアノの伴奏の楽譜をよく勉強して、ブラームスのメロディの真髄にせまることができたことを経験に、曲のレッスンをする時は、いつもまずピアノの伴奏から学ぶ。この一言には、会場は一瞬感心するため息が漂った。具体的に、ブラームスのソナタのピアノの伴奏の和音を弾きながら音楽の流れを解説されて、聴衆の関心も高まる。また、最近、堀米さんが凝っているのが、ピタゴラスの音程。ピタゴラスの「Aを中心に、完全5度で音程をとっていくと・・・」とトニカ(1度)、ドミナント(5度)と言った和声、倍音に解説がうつる。堀米さんによると、高く移行する5度はだんだんほんの少しずつ高めに、低く移行する5度は逆に低めに音程をとっていくと響きがよいそうだ。(その理由は、・・・と考えると、とってもとっても勉強しないと理解できそうにないが。)
前半のブラームスは、気負いなく円熟の味。音楽が手の中にあり、尚且つ探求心は衰えずといったところか。若い津田さんの手をとって、会場の拍手に笑顔で応える姿もなかなか決まっている。カイシャで言ったら、仕事ができ頼りになる上司といった感じ。

後半は、バッハのシャコンヌにまつわるエピソード。没後、250年以上という長い歳月を経て、尚、ヴァイオリン音楽の最高峰に君臨するシャコンヌは特別な、別格な音楽である。生涯の1曲、と問われたら、膨大な名曲の中でも私にとってはこの「シャコンヌ」を選ぶしかない。堀米さんによると、最初の出だしは人生の苦悩や葛藤を描き、そして中ばでは、実際にヴァイオリンでその部分を弾きながら、キリストが磔刑される道の歩みがかかれているという説を紹介される。ピアノで演奏された「半音階的幻想曲とフーガ」と「シャコンヌ」でバッハのすべてがある。堀米さんは、往年の名ヴァイオリニスト、イダ・ヘンデル氏と10年ほど前にエリザベート国際コンクールで一緒に審査員を務めたことがあるそうで、その時のエピソードを披露してくださった。
40年ほど前に、旧ソ連に招かれてイダ・ヘンデルさんが「シャコンヌ」を弾いた時の演奏を覚えていたレニングラード・フィルのコンサートマスターの、その時審査員として同席していて、「あの時の演奏はとても感動した」と思い出話をされたそうだ。彼女によるとソ連はとても寒くて、演奏をはじめるや音程が狂ってしまい(シャコンヌは、最初から最後までノンストップで集中を続けなければならない)、弓もゆるんでぶかぶかになってしまい、本当に大変だったと語ったそうだ。40年の歳月を経た、ヴァイオリニストと観客の会合をその場にいて一緒に感慨を味わう堀米さんは、彼女の「シャコンヌは、人生のようだ」という最後のつぶやきを聞き逃さなかった。
そうだ、シャコンヌは人生そのものかもしれない。
50代に入った堀米さんが奏でるシャコンヌは、葛藤、苦悩、やすらぎ、希望、そして高みへと私たちを別の世界へ連れて行ったことは語るまでもないだろう。

2010年1月15日
東京文化会館レクチャーコンサート「作曲家の挑戦」シリーズ
第4回 形式からの飛翔

ナビゲーター&ヴァイオリン:堀米ゆず子
ピアノ:津田裕也

ブラームス:F.A.E.ソナタより“スケルツォ”ハ短調
ブラームス:ヴァイオリンソナタ第3番 ニ短調 op.108
J.S.バッハ:半音階的幻想曲とフーガ ニ短調 BWV.903
J.S.バッハ:無伴奏パルティータ第2番 ニ短調 BWV.1004より“シャコンヌ”

■第3回のアーカイブ
ピアノ300年の旅