千の天使がバスケットボールする

クラシック音楽、映画、本、たわいないこと、そしてGackt・・・日々感じることの事件?と記録  TB&コメントにも☆

『スローガン』

2008-09-30 23:14:57 | Movie
あなたは51歳なのに33歳に見せる必要があるの?
とりあえず、かけた投資金額よりも、全身に手術を施し文字どおり満身創痍になった勇気?は、凄いと思いますが。以下、サンスポより↓

********************************************
【51歳・安達ママ600万円かけ全身整形!】

女優、安達祐実(27)の母で、タレント活動をしている安達有里(51)が24日、都内で会見し、2カ月間で全身整形に成功したことを発表した。(中略)オンナ、五十路を迎えても輝いていたい。黒いドレス姿の安達ママが登場し、無数のフラッシュが光る。全身整形プロジェクトの成功が伝えられると、会見場はどよめきに包まれた。
 「20代の体になりたい」の一言が、すべての始まりだった。全国展開している湘南美容外科クリニックで整形に着手。歯は、上下計12本を白く輝いてみえるダイヤモンドセラミックに変えた。太ももとお尻、ウエストなど9カ所から脂肪を吸引し、その脂肪を今度は両胸に250ccずつ移植してバストアップ。髪の生え際にはメスを入れて顔の皮膚を45度まで引っ張り上げ、目の周りのしわとクマを消すためにレーザー治療を施した。(08/9/25)

********************************************

「あなたは40歳なのに、33歳に見せる必要があるの?」
久しぶりに自宅に帰宅した鬼才CMディレクターのピエール(セルジュ・ゲンズブール)は、妻のフランソワーズ(アンドレア・パリジー)にこう問われた。
「君には、僕の老いを止められない、僕を若返らせてくれる娘がいる」

これは、製作された1968年当時、何かと物議をかもしたらしいセルジュ・ゲンズブールが映画『スクープ』で演じたピエールの妻との会話である。
CM界の鬼才と評判の高いディレクターのピエールは、ベニスでグランプリを受賞。そこで、婚約者と観光でやってきた英国人のエヴリーヌ(ジェーン・バーキン)と一目で恋に落ちた。ピエールの長年連れ添った賢い妻は、妊娠中。仕事も私生活もすべて順調、おまけに仕事柄かいつも美しい女性には不自由していない。そんな美女達と次々と恋の遊びを繰り返していたのに、18歳のエヴリーヌとはどうやら本気モードになってきて、可愛い娘が生まれたのに、妻子とは別居して彼女と同棲する。世間では、充分にスキャンダラスな事件だった。パーティで冗談のように、自虐的にエヴリーヌを「家族の破壊者」と紹介するピエールだったが、子どもを欲しがるエヴリーヌとの生活にもやがて倦怠感が漂ってくるようになる。
「たった18歳なのに、自分が老ける前にこどもが欲しいだと!」
ふたりの心は少しずつ離れていくのだったが。。。

ゲンズブールとバーキンは伝説のカップルだそうだ。何が伝説なのかは知らないのだが、ふたりはこの映画の共演で出会って実際に結婚したそうだ。
どうしてこのさえない爬虫類系の風貌の中年男がもてるのか、日本人にはフランス女の感性がいまひとつ伝わらないのだが、ジェーン・バーキンのキュートさは真の伝説に価する。これまで私にとってはジェーン・バーキンと言えば、数年前にCM活動のために来日したことのある大物タレントの分類に入る方。日本人のインタビューに答える、紺のジャケットに白いTシャツにGパン姿の彼女はよく言えば洗練されているが、逆に洗練され過ぎていた。雑誌のインタビューアーがまるでロイヤル・ファミリーとの面談のようにおそれおおく彼女を褒め称えている記事には、薄っぺらな印象すら与えたのだが、この映画の中の20歳のバーキンは最高の旬で輝いている。長い髪をゆらせながら超ミニのワンピース姿で長い手足で優雅に、でも快活に踊る姿は、女性でも思わずくぎ付けになる。しかもそれだけでなく、笑うと大きな口元がちょっと下品な色気がある。ブリジット・バルドーの豊満な肉体とは違った次元の、スレンダーな肢体のセクシュアルさを世に認知させた”功績”もある。全身整形などしなくてよかった・・・。18歳、カラダが若いだけでなく精神面もまだまだ幼い彼女が舌足らずでフランス語を勉強している場面は、映画撮影終了後に彼女をお持ち帰りしたゲンズブールの伊達男としての”実力”に、世の男性軍は完敗したことだろう。また映画全般を飾る、米国のリッチさとは異なるスタイリッシュな雰囲気が今でもあせることなく魅力的である。

エルメスの「バーキン」でも有名なジェーン・バーキンだが、この映画の中でもっていたバックは、たった一個。藤の大きめのカゴバックだけであるが、半袖がちょっとふくらんだ白いミニワンピースに茶色のロング・ブーツをはいて、このカゴバックを手に持って歩いている姿がとても可愛い。一方、ピエールの妻は、今流行の服と全く同じようなタイプのガラス石の飾りが襟のまわりにつき、背中が割れているドレスを着こなす容姿に、中村江里子さんには到達が難しいと思われるマダムの貫禄がたっぷりである。インテリアも趣向を凝らし、主人公がCM界の鬼才という設定にふさわしくすべてが素敵でおしゃれ。1968年だぞ、あの『三丁目の夕日』とそれほど時代は違わないのに、この”差”はいったいなんなんだ。

”Je t'aime moi non plus”
かくして、日本人のフランスびいきはとどまることを知らない。

ところで、若い娘との火遊びをたしなめられて反論するピエールに、妻はこう諭す。
「若い気でも若くはないわ。相手を変えても同じことよ」
ピエールは、CMのディレクターとして、常に若者に受ける作品をスポンサーから求められていた。安達ママと同様、仕事上いつも身を削りながら加齢と闘うのも大変である。

原題: SLOGAN
製作総指揮・脚本: フランシス・ジロー
監督・脚本: ピエール・グランプリ
音楽: セルジュ・ゲンズブール
1968年フランス映画

モーツァルト :オペラ『魔笛』

2008-09-28 23:02:26 | Classic
モーツァルトって、、、やっぱりアインシュタイン以上に天才だ。
モーツァルトの音楽を聴くといつもそう感じるのだが、この感想の中には、純粋に音楽のみを楽しむだけでなく、ちょいと生意気にも批評家の目線が入っている。しかし、このオペラは誰が作曲したのか関係ない、作品の解釈も不要だ!、ただただオペラの『魔笛』が、それだけが素晴らしいのであり、その音楽の調べにどっぷりとひたればよいのだ。聖徳学園創立75周年記念演奏会の『オペラ』を聴き、私は泣いた。。。

これまで、何度も聴いてきて、何度も観てきた『魔笛』。ようやく、私はその魅力に覚醒しつつあると言えよう。
演奏途中で、2年前に観た1975年製作イングマル・ベルイマンの映画『魔笛』の幕開けを思い出していた。ベルイマンは、序曲の音符にあわせるかのように、次々と、老人、若い顔、こども、娘、男性、白人、黒人、東洋人、日本人、インド人、アフリカ人・・・と様々な年齢、多くの人種の顔を映していた。ここにベルイマン監督の意図と『魔笛』の素晴らしさがこめられていたのだった。そうだったのか。そして、昨年のケネス・ブラナー監督による映画化も、何故、彼が『魔笛』を選択したのか、本当に意味で実感したのだった。

『魔笛』で歌われているのは、裏切りあり、策略あり、憎しみがあり、争いがあり、それでも神話から紛争が至る現実の今の世界においても、最も大切なのは普遍的でシンプルな人々の愛である。大げさに言ってしまえば、人種、国籍、年齢をこえた人類愛なのだ。タミーノはパミーナの愛情を支えに試練を乗り越え、パパゲーノとパパゲーナは出会って恋に落ち、これからたくさんこどもを産もうと抱き合って歌い上げる。時代がどんなに移り変わろうとも、単純なところに普遍性があり、モーツァルトの音楽が永遠に人々に愛される由縁である。

会場がサントリーホールだったので、私も初めてのホールオペラ形式。通常のオペラに比較して、軽めで堪能できないのではないかという懸念は、全くの不要だった。会場内はいつもより照明を落とし、フロアに設置されている危険防止の足元のランプのほのかな明かりがワインヤード式の客席内に点在し、幻想的な印象すら与えてくれる。平素はパイプオルガンが見える所にスクリーンが置かれ、場面にあわせてパウル・クレーの絵画が暗闇の中に次々と浮かび上がる。鮮やかな色彩の絵画に、シンプルなデッサン画。特に『忘れっぽい天使』は、大学を卒業する時にサークルの後輩たちがプレゼントしてくれた思い出の絵である。舞台セットは豪華にはできず、演技や演出もむしろ控えめにならざるをえないホール形式だが、クレーの絵画と『魔笛』の音楽が驚くくらい雰囲気があって、美術好きな私には格別な演奏会になった。

パミーナ役の島崎智子さんの声が清楚で美しく、またパパゲーノ役の青戸知さんは、さすがにベテランで軽妙な役柄を好演。重要なフルート奏者は高木綾子さんと、オーケストラはプロの演奏家の名前が多いようだったが、演奏もうまかった。降り出した小雨の中、急ぎ足で会場を後にしても、余韻の残る愛の調べは、”魔法”をかけられたかのようにいつまでも心の中で響いていた。

------- 2008/9/28 サントリーホール -----------------------------

指  揮:高橋大海
■演  出:十川 稔
■公演監督:高 丈二
■出  演:
黒木  純(ザラストロ)
島崎 智子(パミーナ)
志田 雄啓(タミーノ)
加賀ひとみ(パパゲーナ)
青戸  知(パパゲーノ)
宮部 小牧(夜の女王)
米谷 毅彦(モノスタトス)


・聖徳大学音楽学部記念オペラ合唱団
・聖徳大学川並記念オーケストラ

■アーカイブ
・イングマル・ベルイマン監督:映画『魔笛』
・ケネス・ブラナー監督:映画『魔笛』
・カナダ・ロイヤル・ウィニペグバレエ団『魔笛』

『12人の怒れる男』

2008-09-27 23:17:55 | Movie
これを単なる「リメーク」だと先入観をもっていたら大間違い!
およそ30年ほど前、当時32歳のニキータ・ミハルコフが、没落貴族の邸に集う人々のある夏の一日を描いた映画『機械じかけのピアノのための未完成の戯曲』で革命前の帝政ロシアを撮ってから、時代は旧ソ連を経て、再びロシアに戻り描いたのが、この『12人の怒れる男』である。

ある古いアパートでセンセーショナルな殺人事件が起こった。
胸をナイフで刺された被害者はロシア軍の将校で、被告人は養子のチェチェン人の少年。最高刑を求刑する検察側に人々も同調し、3日間の審議も終了し、12人の陪審員の評決を待つことになった。
一般市民から選ばれた12人の陪審員たちは、改装中の陪審室のかわりに体育館に案内され、携帯電話を取り上げられ評決に入ることになったのだが。。。

実力派、ミハルコフ。内容も優れているのだが、技術的にも成功していて完成度が高いのがこの映画である。この場合の技術というのは、なにもハリウッド風のCGやスピード感を言っているのではない。留置所に閉じ込められたチェチェン人の少年の脳裏に浮かぶ形で、美しい母と素朴な父の家族の思い出のあかるく透明感のある映像と悲惨で残酷な紛争の臨場感のある映像が、何度も何度もフラッシュバックで陪審員の議論の中に挿入される。陪審員たちの白熱する議論、その議論についていけないしらけた表情や冷静な思索、12人の人生経験を積んだ様々な陪審員の表情に中に入る、この回想の映像は少年の一人称での表現である限り現実感はないにも関わらず、観客はいやおうなく次第に高まる緊張感の中に放り込まれる。

その舞台に選ばれたのは、学校の体育館。しかも、そこに一羽の鳥が迷い込んでくる。40年前のずさんな建築により、あちらこちら老朽化した体育館に閉じ込められた彼らには、遠くでこどもたちのがかすかに聞こえてくる活気ある声によって、ロシアの国を考えさせられ、この国の行く末を案じる。また、迷い込んできた鳥を眺めながら、ロシア語を満足に話せないチェチェン人の少年が、自分達の評決次第では一生刑務所暮らしになることに思いをはせる。なんと言う重い選択であろうか。最初は、有罪で早く結論を出そうと考えていた彼らだったのだが。舞台がこの体育館であることが物語の要となっていき、鳥が少年を象徴していたことを、最後の場面で納得する。

ヘンリー・フォンダ主演の『十二人の怒れる男』が民主主義の勝利を感じさせる点で、映画としては不朽の名作だと思いながらも、決して好きな映画ではなかったが、ミハルコフ監督の頭の中には、米国流の民主主義賛歌はかけらもない。陪審員たちの語りには、監督のロシアへの思いが、愛情が、そして悲しみが滲み出ている。人の差別意識、家庭の問題、賄賂や権力がもたらす愚かさといった人種や国をこえて普遍的な”人間像”を描きつつも、ロシア人の苦しみや迷い、ロシアの悲しみに、私は圧倒された。この点で『機械じかけのピアノのための未完成の戯曲』から、芸術家でありながら実は国粋主義的なミハルコフは全く変わっていないとも言える。父としてのロシアという大国のあり方とチェチェンとの関係を、ミハルコフが演じた陪審員長に重ねる向きもあるが、私はそうではないと考える。
窓から吹雪の中を高く飛翔していった鳥こそ、大国から離れて独立していく国であろう。たとえ、厳しくとも、鳥自身が自由を求めたのであり、それが真実ならば。

「かえるぴょこぴょこ」のかえるさんの感想に「1人くらい目の保養になるイケメン青年がいてもいいんじゃないかと」という記載があるが、私も全く同感だったので笑ってしまったのだが、やはり残念だがイケメンがいたら作品のテーマがぼやけてしまうのだろう。この映画に関しては、イケ面で観客を釣ってはいけない。爺さんを含めたおじさん達ばかりでも、最後まで決してあなたを退屈させない堂々の160分。

監督:ニキータ・ミハルコフ
2007年/ロシア映画

■アーカイブ
・『機械じかけのピアノのための未完成の戯曲』・・・『シベリアの理髪師』もよかった
・『12人の優しい日本人』

生保会社をたちあげた岩瀬大輔氏

2008-09-25 22:41:15 | Nonsense
ここ数年、毎年海外旅行に行っている。それはさておき、海外への旅行に忘れてはいけないのが、常備薬よりも旅行保険。私の周囲では、ネットでの申込みだったら30%引きになる某損害保険の旅行保険が人気がある。損保もネットで割安になるのなら、生保だってネットで申込みたい?生命保険は長期に渡り、しかも高額になるので、ネットでの加入は難しいと思っていたのだが、やっぱり、というかついにたちあがったのが、ライフネット生命である。
この新生保会社に関してテレビでちらりと報道されていて、見るからにIT小僧風の副社長の風貌に流行ものと思い込み、読売新聞に「起業家精神 生保で発揮」というタイトルで副社長の岩瀬大輔氏の経歴と談話が掲載されていた。ネット⇒IT関係出身、という連想は全くはずれていて、岩瀬氏の話しはなかなか興味深い、というよりもそのロジカルな会話に感心した。

それもそのはず、彼は東京大学在学中に司法試験に合格、その後留学したハーバード経営大学院では、日本人4人めの上位5%の優秀な成績を修める。司法試験に合格するも司法修習を受けなかったのは、早く社会で自分の力を試したかったとのこと。卒業後、コンサルティング会社や投資ファンドなどの4社を渡り歩いた彼のお仕事選びのポイントの軸は3つ。

①魅力的な人たちと仕事ができる
②何らかの社会的意義を感じられる
③自分にしかできないような個性的な仕事

この”3つ”がポイントだというのも、別な意味でポイントだと考えられる。「4つ、金を稼げる」なんて、4つ以上を挙げるのはスマートではない。聞くほうも覚えられない、すぐ忘れる・・・。
但し、彼はあくまでもオーナーシェフとは違い、雇われシェフに近いと思われる。
「ライフネット」立ち上げに参画したのは、投資銀行の世界で”大成功”した投資家の方から(黒幕は誰?)、「君は起業したら絶対儲かる、おっと間違い、失礼、いや成功する。君が成功するのを見たいから、僕がサポートする」とくどかれ、岩瀬氏のお父様と同い年の社長の出口治明氏にひきあわされたのがきっかけ。
岩瀬氏の損保ビジネスプランの市場規模4000億円は、出口氏の生保ビジネスプランの45兆円規模に完敗。

留学中のアントレプレナーシップ(起業家精神)を受講しまくった岩瀬氏によると、ベンチャーの成功要件は、3つ。

①市場規模が大きい
②そこそこに非効率がある
③それが変わろうとしている


まさに生保はぴったり、コンビニのように契約者が来店する店舗型の生保ショップもたちあがりつつある中、生保業界も変化の兆しがみえる。発想自体は、さほどの斬新さがあるとは思えないが、なんと言っても岩瀬氏は弱冠32歳で2児のパパ。

ライフネット生命は、わかりやすくシンプルな商品、20~40歳には国内最低水準の保険料と斬新な取組みで話題になり、予想以上の反響があるそうだ。保険の原点に戻り、「どこよりも正直」「どこよりもわかりやすく、シンプルで便利で安い商品・サービスの追求」を理念に掲げ、5年以内に保有契約15万件以上を目標に掲げている。私がサイトを訪問した限りでは、まだまだ工夫の余地がありそうだが、注目したい企業である。

『マリア・カラス 最後の恋』

2008-09-24 22:28:51 | Movie
20世紀、最高の歌姫と聞かれたら、マリア・カラスと答える往年のファンの方は多いだろう。
時々聴くマリア・カラスの歌は、決して美声とは思えないが重くずっしりと響き、ドラマチックな歌い方がいつまでも心に響く。彼女の声を聴いたなら、誰もが振り向くだろうとよく言われるように、その声につかまったら抗うことはできない。カラスの親しかった友人でもあり、オペラの舞台の演出もする名匠フランコ・ゼフレッリの映画『永遠のマリア・カラス』が、愛するオナシスとの恋も失った後、『カルメン』の映画化に情熱を燃やすカラスの誇り高い芸術性と孤高の人の孤独を描いたとしたら、本作の『マリア・カラス 最後の恋』は、彼女と海運王オナシスとの恋愛を描いている。いみじくも”彼女”という言い方をしたが、歌姫のマリア・カラスではなく、ひとりの女性としての悲恋物語である。

たとえ世界の海運王であろうとも、実業家のあさましい性格やビジネス・ルール、私生活を暴露しても、事実なら誰も非難しないだろうが、カラスほどの芸術家になると生々しい恋愛も彼女の生涯の傷になるような描き方は中傷と謗られ人々には受け入れられない。よくある言い方をすれば、”芸術性を損なうような表現”は慎むべきだろう。だからであろうか、夫もあるカラスと妻子のいたオナシスとの恋愛のはじまりからその結末は、あまりにもオナシス側には辛口表現だった。

オナシスは、自分しか愛せない男。アリストテレス・オナシスと出会って、恋愛関係になったカラス(ルイーザ・ラニエリ)にそう忠告するのは、彼の妻だった。しかし、恋は盲目。カラスは、すっかりオナシス(ジェラール・ダルモン)に夢中になり夫と離婚して、歌手ではなくひとりの女性としてごく当たり前の幸福をつかもうと、未婚にも関わらず母になろうとしていた。しかし、待望の赤ちゃんは死産。しかも、愛するオナシスは妻と離婚しても、なかなかカラスとは結婚しようとしないのだったが。。。

ここで描かれているオナシスは、世界の海運王として巨万の富を築きながら、コレクションのようにカラスをものにし、尚且つビジネスに彼女の名声と存在、美声を利用までしている。確かにとんでもない富みを築いた男には、独特のオーラと色気があるものだと聞くから、年下の芸術品であるカラスの心を奪うのはたやすかったのだろう。しかし、作品中のオナシス像は、あまりにも自己中心的で老いても、ビジネスに執念をもやす野心のかたまりのような冷たい人物として描かれている。『永遠のマリア・カラス』でも、オナシスに対して歌姫の声を衰えさせた元凶のようなさりげなく表現があり、監督のくやしさがにじんでいたと同様に、本作品も彼の存在は、カラスにとっては不幸の種だった。どんなにカラスが自分のキャリアを犠牲にしてまでもオナシスを愛しても、どんなに彼のために尽くしたとしても、豪華な別荘はあっても誠意のある思いやりはかえってこなかった。彼女は、ごく平凡な結婚生活を望んでいたのだった。しかし、彼が最後に結婚したのは、米国のケネディ元大統領夫人のジャッキーだった。逆に言えば、ジャッキーをおろそかにすることは米国の国民の誇りがゆるさなかったから、オナシスはジャッキーに追い詰められたという見方もできる。

本当のところは、誰もわからないのではないか。オナシスがすべて悪いとは思えないし、”上流階級”には戦略結婚という選択もありだろう。カラスの壮絶なダイエットは、オナシスの愛をえるためという仮説もあるが、どんなに尽くされても、結婚には向かない女性もいる。
原作のタイトルが「CALLAS E ONASSIS」であるように、世界的にセレブな男とセレブな女たちの恋愛物語を、芸術性ぬきに鑑賞すればよいのだ。カラス役を演じたルイーザ・ラリエリは大変魅力的な女性で、また当時の素敵なファッションも楽しめる。

監督:ジョルジオ・カピターニ
2006年イタリア製作

■ジャッキーとは
・ファーストレディの掟。

チェロ界の伊達男 古川展生さん

2008-09-22 22:59:12 | Classic
そうだ、そうだ、近頃コンサート案内のチラシなどでよく目につくこの御仁が気になっていたのだが、昨夜の東京テレビ「みゅーじん/音遊人」に登場!
改めて古川展生さんの経歴を知ると、次のようになる。↓(番組のHPより)


「桐朋学園大学卒業。1995年、日本音楽コンクール2位入賞を果たし、翌年、ハンガリーのリスト音楽院に留学。帰国後、東京都交響楽団首席チェロ奏者に就任、現在に至る。
ソリストとしても、全国各地においてリサイタルや室内楽の活動を展開するほか、サイトウ・キネン・オーケストラ、宮崎国際音楽祭にも毎年出演するなど、精力的な活動を続けている。ソロ活動においては、クラシックのみならず、ジャズ、タンゴ、ポップスなど幅広いフィールドで目覚ましい活動を続け、2007年には藤原道山(尺八)、妹尾武(ピアノ)とユニット「KOBUDOー古武道ー」を結成した。」


上記の音楽暦はとてもシンプルだが、古川さんのオフィシャルサイトと番組の放映によると、1973年の京都生まれ。35歳!(←!がつくのはどういう意味か、自分につっこみたくなる)大学教授の父とピアノ教師の母の元に生まれ、最初はピアノを学ぶも9歳でチェロに転向し、故井上頼豊氏に出会って運命は決まる。
15歳で桐朋学園女子高校(共学)に進学するために上京、留学を修了して帰国早々に東京都響の首席チェロ奏者に迎えられ、以降様々な演奏活動を行っている。それはオケの団員、ソリストだけでなく、室内楽の分野では、ストリング・クァルテット「Arco」を結成して活躍することに留まらず、彼の知名度アップに貢献しているのではないかと思われる「古武道」の活動に番組は進む。私自身は、やはりモーツァルトやハイドンの室内楽を聴きたいと思うのだが、ジャズほどマニア対象でもなく気楽に大人のカップルや友人同士で音楽を楽しめる「古武道」のコンサートは、大人気でサイン会にも長蛇の行列。サイン会での表情から窺える気さくさと、それと同じくらいノリがよく親しめる気さくな選曲も、今時の音楽シーンでは多くのファンを獲得する流れなのか。
そして、この番組の最も伝えたいテーマーが、古川氏の兄とも慕う亡くなった親しい友人のために作曲した「空に咲く花」。亡くなったご友人と奥様は古川氏と同じマンション内に住んでいらして、いかにも家族のように親しい交際が感じられる写真も公開されていた。外見のスタイリッシュなクールさとは反対に、内面の熱い方だと察せられた。

ライヴを楽しむ髭をはやした人気シェフか新進デザイナーのような風貌から一転、教え子たちへのチェロのレッスンでは厳しい表情と音楽家精神がのぞく。
中学生の女子のレッスン生には、「自分で音程がはずれているのをわかっていますか。」と檄が飛ぶ。まだ中学生とはいえ、もしも彼女がプロの演奏家をめざすなら、古川氏の指摘は至極当然だろう。また生徒たちとの合宿中では、自分の言葉できちんとしゃべることが大事と苦言を呈していたが、全くその通り。たとえ寡黙でも、内容の深い音楽だったら、そんな意見もでないだろう。天才ならいざ知らず、音楽家としてやっていくには、自分の考えをプレゼンテーションする能力もこれからの時代は必要だ。こんな合宿を通して、日本のトップ・プロと同じ窯の飯を食べながらのレッスンができる彼ら彼女たちは、恵まれているとも思える。日本人の音楽教育の環境は、本当に整ってきている。

番組では、古川氏のご自宅にも侵入。独身!!
番組では紹介されていなかったが、目下の伴侶は、愛器の50年前の英国製とフランスのシャルル ・ぺカット製作の弓らしい。。。インタビューアの質問に「掃除も料理も自分のことは自分でやる」と答えているように、料理もしているが、整理整頓、お掃除もしている様子。ホワイトで統一され収納がたっぷりありそうな快適なマンション住まいのようだが、一番奥の居間には、真っ白なソファにミッドナイトブルーと紺に近い紫色のソファが並んでいる。素敵!インテリア雑誌に掲載されているようなお洒落な独身男性の部屋である。逆にここまで完璧にコーディネイトされた部屋で生活していたら、結婚も難しいかも。番組に出演していた私服のTシャツやステージ衣装も含めて、伊達男の面目躍如。

『タロットカード殺人事件』

2008-09-21 15:17:22 | Movie
どうやら72歳!ウディ・アレン監督の今一番のミューズは、このスカーレット・ヨハンセン嬢らしい。
確かに、日本のスクール水着の色を臙脂色にしたようなシンプルな水着を着たスカーレット・ヨハンセンは、女性の感度から察しても相当色っぽい、と言うか犯罪に近いくらい色気がある。。。

これまでニューヨークにこだわってきたウディ・アレンが初めてロンドンを舞台に移し、お得意の都会の軽妙洒脱なコメディとはうって変わって、貧困層から上流階級に成り上がる若者の罪と罰をテーマにしたシリアスな作品で、その才能を再確認させられたのが、前回の映画『マッチポイント』。野心家の青年の前に、彼の運命を翻弄するファム・ファタールのような存在として登場した妖しくも幻惑的なノラ役を演じたヨハンセンは、今度は、少々お尻が軽くて短絡的だがチャーミングなジャーナリスト志望の女子大生役でコメディエンヌぶりを遺憾なく発揮している。

アメリカの女子大生のサンドラ(スカーレット・ヨハンセン)は、夏の休暇を利用してロンドンの上流階級の友人の家に滞在している。好奇心でのぞいたマジック・ショーで亡くなった敏腕ジャーナリストのストロンベルの幽霊にから、ロンドンで起こっている連続殺人事件の犯人が、青年貴族ピーター・ライモン(ヒュー・ジャックマン)であるという特ダネを明かされる。彼女はジャーナリスト志望。この特ダネをものにしようと、三流マジシャンのシドニー(ウッディ・アレン)と一緒にピーターに近づいていくのだったが。。。

そのピーターに接近するためのこの水着姿!
会員制の高級スポーツクラブで泳ぐピーターの気をひくために、溺れる”フリ”をするサンドラ。ここでのお見事な演技が結末でいきてくるのだが、彼女のこの素晴らしい肉体の演出には、誰もが惹かれるだろう。男性の女性の好みはいろいろあるだろうが、それはさておき、プールでこんなポーズをとった無邪気で健康的な女性の誘惑に抗うのは難しい。(水着姿をまた貼るのも我ながら少々しつこいと思うのだが、こうして考えると女優というのも、その恵まれた容姿で運をつかむ職業だとつくづく感じる。)この映画は、今最も旬な女優、スカーレット・ヨハンセンにアレンから捧げられた作品とも言ってもよいだろうか。単純であっけなくピーターの手中に落ち、相手がどんなにセレブな貴族の息子であろうと、気取りも計算もなく眼鏡をはずせない少々やぼったい女の子。コンビを組んだシドニーとの会話は冴えていて、まるで漫才を聞いているようだが、ウディ・アレン監督は、彼女のこれまでの役柄とは別のキャラクターの引き出しを出したことに成功している。

映画の中では三流のマジシャン役だが、映画つくりには、やっぱり彼は一流のマジシャンぶりを発揮している。ロンドンが舞台という基点から娼婦を狙った連続殺人事件、貴族階級、米国と英国、急死した敏腕新聞記者、プールと湖畔のボート、死神とあの世への旅立ち。まるで映画そのものがマジックのようで、どこかに謎が隠されているのではないかとつい目を凝らして考えてしまう。と言っても、この映画は「殺人事件」というタイトルこそついているが、気楽にカップルで観る映画である。「白鳥の湖」や「ペール・ギュント」等、とりいれたクラシック音楽も洒脱。全く、殿堂入りの老名人には、”巨匠”という冠の価値を下げるくらいの変幻自在な自由な才能が涸れることなく溢れている。

原題:Scoop
監督:ウディ・アレン
2006年英国・米国製作

■どちらかというとシリアスものが好き
・『インテリア』・・・一番好き
・『メリンダとメリンダ』
・『マッチポイント』

『ヒトラーの贋札』

2008-09-20 11:50:15 | Movie
ここは、平壌の高麗ホテル。まだお元気だった将軍さまが、自国ブランドの精巧な贋100ドル札が国内で広まってしまったため、日本製の紙幣の識別機を導入するように指示をした。すると、副官がおそるおそる言ったことには、「将軍さま、真札の識別機のほうがよろしいのではないかと」。

これは、平壌の冗句であるが、我が国のお札の価値は兎も角、その紙幣としての製造技術は世界一ではないかと思われる。そう簡単には贋札は作れないから、識別機も優秀なのである。それにしても国を挙げての偽札づくり。笑っちゃうではないか。映画好きの将軍さまにお薦めしたいのが、この『ヒトラーの贋札』であろう。

第二次世界大戦中の、ドイツ、ザクセンハウゼン強制収容所では、やせこけたユダヤ人の命が、まるでぼろ屑を捨てるようにナチの手によってあっけなく始末されている。次々と処分された遺体のヤマから漂う異臭。しかし、収容所内には別世界のような秘密の工場があった。天才的な贋作師のサリー(カール・マルコヴィクス)、印刷技術師・ブルガー(アウグスト・ディール)や美校生だった若いコーリャなどの技術者に課せられたミッションは、「完璧な贋ポンド」を作ることだった。
与えられた清潔なベットやまともな食事、そして工場内を流れる美しい音楽。
人間らしいくらしは、彼らの人としての尊厳にふれるようでもあり、それはある種残酷な苦悩を彼らにもたらす。サリーたちの命をかけた贋札づくりは、ナチスの資金提供にもつながり、結果的に収容所にいる家族や同胞を更に苦しめ続けることにつながる。そのため、巧妙に贋札づくりをサポタージュする彼らだったが、とうとうしびれを切らしたナチス親衛隊の将校ヘルツォークは、期日までに完成しなければ、見せしめに5人を銃殺すると宣告するのだった。。。

1959年、オーストリアのトプリッツ湖から大量の贋ポンド紙幣が発見された。残されていた資料から、第二次世界大戦中、ナチス・ドイツが英国の経済混乱を謀った「ベルンハルト作戦」によって、強制収容所で製作された贋札だということが判明した。国家による史上最大の贋札事件の「ベルンハルト作戦」。
本作品は、実際に贋札づくりに関わった印刷技術師のアドルフ・ブルガーの著書をベースに製作された映画である。

特別な任命を受け持つ工員としてきちんとした背広を与えられながらも、その背広の背中に収容員である目印の縞の布をはられ、腕にID番号の刺青をされるサリーたちユダヤ人。このような人を峻別する行為に胸を衝かれるような思いがわくが、程度の差こそあれ、現代もこのようなことは続いているのではないかと考えさせられる。所詮、元々その才能を芸術家ではなく贋作師として暗躍していた孤独なサリーは、過酷な運命の中を要領よく生き延びていくうちに、繊細なコーリャの庇護者として関わっていく。また、コミュニストのブルガーは、理想主義者として真実を印刷してきた誇りを捨てることができない。それぞれの主張と意見がぶつかるなか、唯一見出されたたったひとつの残された道。それは
「生きろ」という自らに課した使命だった。

贋札造りで、悪に協力する行為。ここに、私はまるで今の中国とスーダンの関係に近いものをみる。
女優のミア・ファローなどが所属するダルフール虐殺でスーダンのバシル政権を批判する人権活動家たちが、チベットにおける中国の人権抑圧を糾弾し、北京五輪開会式のボイコット運動を行ったことは記憶に新しい。彼らの論理は、「スーダン政府に援助外交をする中国は、結果的にダルフール地方の民族浄化、虐殺に手を貸している」ことになる。7月には、国際刑事裁判所(ICC)の検察局は、虐殺と人道の罪でバシル・スーダン大統領の逮捕状を請求したが、スーダンは反米デモを組織し、安保理常任理事国である中国に、安保理が逮捕状執行の停止や延期を決議できるICCの規定16条からなる支援を求めた。これで、中国はスーダンとともに益々表裏一体となっていくという観測の元、スーダンは中国の梃入れによって「スーダン・モデル」という経済発展途上にある。欧州人は、自国の国益を考える反中国感情もさることながら、このような遠隔的な民族虐殺の”支援”をゆるさない。もしかしたら、この映画は将軍さまだけでなく、中国の胡錦潯首席にもお薦めかも。

映画の後半で、解放された後、工場内に収容されていたサリーたちと同じ収容所内の一般収容者たちが出会う場面がある。少なくとも人間らしい生活を送れたサリーたちとあまりにも過酷な収容所を生き延びた亡霊のような人々。その対比の意味するところが、万感せまるブルガーの瞳に溢れる涙にあらわれている。

監督:ステファン・ルツォヴィッキー
2007年ドイツ・オーストリア製作

麻生太郎さんを首相と呼べますか

2008-09-19 15:50:58 | Nonsense
ブログつながりというのも不思議なご縁だ。検索でヒットしたり、リンク先を訪問したりと、たまさかの偶然がもたらしたネットでのつながりとはいえ、旧来の友人のような存在感が日常生活にとけこんでしまったブロガーの方もいらっしゃる。その中で、本音が炸裂する映画侍さんのブログの記事には、私は少なからず魅了されてきたのだったが、最近は、残念なことにブログから遠ざかってらっしゃった。ところが、どうやら原点に戻って再会宣言!したらしいっ。

早速、気になる記事からリンクいたしました。(映画侍さまへ 了承なしでごめんなさい。)
===========================

「総裁の資格」(9月15日 「東京新聞」より 北海道大学教授の山口二郎氏)

「自民党総裁選挙が始まったが、麻生太郎氏が大きくリードしていると新聞は伝えている。私は麻生太郎という政治家を基本的に信用していない。理由は以下の通りである。
 魚住昭氏が書いた『野中広務 差別と権力』(講談社刊)という本の中で、麻生氏が野中氏について、被差別出身者を総理にするわけにはいかないと自民党河野派の会合で発言したこと、その後、引退直前の最後の総務会で野中氏自身が麻生氏の面前でこのことを暴露し、厳しく糾弾した。ことが書かれている。先月末、野中氏がTBSの番組に出演し、麻生氏を批判したことには、こうした背景があると思われる。
 発言が事実なら、麻生氏は総裁失格どころか、政治家失格、人間失格である。差別を是認する者は、公的世界から即刻退くべきである。事実無根ならば、麻生氏はきちんとそのことを訴えるべきである。決して曖昧にできる話ではない。
 メディアにもひとこと言いたい。一国の最高指導者になろうとする政治家について、その言動をチェックし、適格性を吟味することは、メディアの使命である。
 アメリカのメディアは大統領候補について、そうした厳しいチェックを行っている。これだけ重大なことが本に書かれていながら、なぜ日本のメディアは何も伝えないのか。」

===========================

「裕福な家庭出身=品のよいお坊ちゃま」という世間の思い込みの図式を不正解であることを教えてくれるこの麻生太郎氏の品のなさは、政治家としての能力を問う気力をそもそも萎えさせてくれる。秋葉系の漫画好きの人々からの人気から、彼らオタクを非難する気持ちは毛頭ないが(むしろ私はオタクを評価している)、この方の場合、漫画好きは世界の首脳と渡り合えるほどの知性も教養もないことのではという疑問がわき、その一端がわかるエピソードが、山口二郎氏も紹介されている魚住昭氏の『野中広務 差別と権力』であかされたエピソードであろう。
麻生太郎氏を嫌いな映画侍さんは怒る。
「前回のアメリカ大統領選で、ニューオーリンズの貧乏黒人たちが、一斉にブッシュに投票したのと同じ。
日本でもニートが大挙して小泉に投票して、いまの日本になったのに。」と。
まさしくおっしゃるとおり。「自民党をぶっ壊す!改革」のセンセーショナルなアジにのったのは、最も被害をこうむるワーキング・プアな人たちだった。
3年前の「野中広務の居場所」を再掲載↓。

****************************************

「私、野中広務は今期をもって政界を引退することを決意しました」
2003年9月9日、あっというまに政界の中枢、自民党幹事長にまでのぼりつめながらも、この日鮮やかに引退表明して第一線からしりぞいたこの男、野中広務のことを何も知らなかった。
被差別出身でその事実を隠さずに政治活動を行い、登る龍の如く権力の頂点に近づいた人間は、この国では野中しかいない。
何故知らなかったのか、出自は隠さないが受けた差別を語る男ではなかったということもあるかもしれない。

作家の魚住昭が、そんな野中の評伝を書いた。取材は難航をきわめ、野中自身に会うこともなかなか叶わなかった。ようやく会えたとき、野中は魚住に何度も問うた。
「君がのことを書いたことで、私の家族がどれほど辛い思いを知っているのか。そうなることが分かっていて、書いたのか」
「・・・これは私の業なのです」
そうやっとかろうじて答えた作家に、老政治家はそれ以上聞こうとしなかったが、その厳しい表情には、うっすらと涙がうかんでいた。

野中のこれまでの人生は、成功の光とともに影のようにつきまとったのが、被差別出身からくる屈辱の歴史といっても過言でない。
大阪鉄道局業務部審査課主査、優秀ゆえに特進につぐ特進で25歳という異例の若さで到達した。しかし或る日更衣室から、日頃から面倒を見ていた中学の後輩のひと言が聞こえてきた。
「野中さんは、大阪におれば飛ぶ鳥を落とす勢いだが、園部へ帰ればの人だ。」
この発言があっというまに広がり、昇進ぶりをねたむ者たちの抗議と、信頼していた人の態度の豹変ぶりが、野中を「ここはおれのいるべきところではない」と決心させた。そしているべき場所、園部へ帰り、町議を振り出しに地方政界、国政に参与するやあっというまに頭角をあらわした。そして金丸信をして「あと10歳若かったら天下を狙えた」といわせた野中の最後の自民党総務会。2003年9月21日、淡々とはじまり円滑に終了する予定だった会議の最後の最後に、野中は「総務会長!」と声をあげたちあがった。

「総務大臣に予定されておる麻生政調会長。あなたは大勇会の会合で『野中のような出身者を日本の総理大臣にはできないわな』とおっしゃった。・・・君のような人間がわが党の政策をやり、これから大臣のポストについていく。こんなことで人権啓発なんてできようはずがないんだ。私は絶対に許さん!」
野中の激しい言葉に総務会の空気は凍りついた。かって労働者の酷使で知られた”名門”麻生セメントの御曹司、宮家に嫁いだ妹もいる世襲議員、麻生はなにも答えず、顔を真っ赤にしてうつむいたままだったという。

「人権擁護法案は参議院で真剣に議論すれば一日で議決します。速やかに議決をお願いします」
この人権擁護法の制定は野中が最後に取り組んだ仕事である。しかし人権委員会の所管官庁をめぐって与野党の意見が対立して、審議が行われないまま廃案になったが、現在自民党法務部会で議論されている。

■忘れちゃいけないアーカイブ
・野中広務の居場所
・「野中広務 差別と権力」魚住昭著

「夢の世界とカタストロフィ」スーザン・バック-モース著

2008-09-17 23:03:20 | Book
本書の表紙をご覧になって興味をひかれる方は、この絵画から何を感じるであろうか。
この絵画は、アレクサンドル・コソラポフの1983年に製作された『マニフェスト』である。暗く不安を感じさせる赤い空、、、この赤は、共産主義の象徴であろうか。そして、その空を背景にレーニンの胸像を含む残骸の中で戯れる3人の無邪気なキューピッドは、難しい顔をしてマルクスの「共産党宣言」を解読していようとしている。夢と化した歴史の中の住人である夢想家が、その論理を確固たるものと受け入れているが、目覚めの瞬間に残されるのは、夢が粉砕されるイメージだけである。旧ソ連の反体制芸術家は、体制が崩壊する最後の日々に、その過去の歴史を夢の世界と表層した。
しかし、その「歴史」は終わり、産業の近代化は大衆の幸福をもたらすというユートピアの「夢」さえも、破綻した。

「大衆」という言葉には軽蔑をこめて使われることもあるのだが、著者によると19世紀の工業化と都市化にともなって、社会生活における恒常的な存在となり、大衆社会が20世紀は現象とまでなった。それでは、その大衆の砕けた夢のかけらを拾い集めながら、破局の結果を資本主義の勝利で検証しようというのが、本書のテーマである。
本書を読み砕き咀嚼するには、なかなか時間がかかる。(その点では、実に大衆向けではないのだが・・・。)著者は、コーネル大学で政治哲学や社会理論の教鞭をとっているようだが、言葉の定義自体に哲学的な思惟がひらかれ、まるで言語学の教授による美学の講義を受けているような印象すら感じる。それでも、難解な分析に想像の解釈という羽を与えてくれるのが、ロシア革命当時からの写真から現代美術までの豊富な図版の恩恵であろうか。
貴重な歴史の瞬間のような写真から、白黒であるのが大変残念なくらいの数々の芸術品に、ページをめくるたびに視覚文化論にふれるおもしろさを感じる。
レーニン夫婦の写真、そのレーニンの脳の横断面スライドを1万枚作成した脳科学者夫妻、チャップリンとエイゼンシュタインが並んでテニスラケットを抱えている写真もある。また1930年代の偶然にもそっくり同じような米国のイラスト広告とソ連の新聞のイラストの比較や、象徴的な自画像とその画家の写真。シャガールの絵画もあれば、映画のスチール写真もあり、それらの記録や芸術を鑑賞するだけでも本書を手にとる価値がある。

なかでもその洞察の鋭さに目をひらかれのが、映画『キングコング』である。
コングは巨大な”家のよう”であり、捕獲されて”文明化した”ニューヨークに連れてこられると、『共産党宣言』を読んだ革命的プロレタリアートのように、鎖をちぎって観客を恐怖に陥れる。しかし、権力構造を脅かす力をもったコングも、美しいアンの顔に誘惑されて、脅かすものから愛するものへとその主体性を変化させていく。彼は、まるで『SEX AND THE CITY』のキャリーたちのように流行の先端をゆく女性の美を楽しみ、愛のみならず、ブルジョアの所有への欲望にも屈服する。映画の中で、コングはアンを優しく包み、衣装を花びらのようにむしり取る場面がある。監督は、消費と結びつくと男らしさが減少し、コングが象徴する大衆に「女性らしさ」の面があることも暗示している。そのコングが暴れているビルは、ソビエト宮殿計画案に類似し、コングの位置に巨大なレーニン像が立っているのも単なる偶然だろうか。

冷戦終結後、社会主義は崩壊して資本主義の勝利が謳歌された。確かに歴史は終焉した。しかし、それでは資本主義は本当の意味で勝利したのだろうか。壮大な実験の失敗も、民主主義という鏡をおいて批判すべきであろう。旧ソ連の歴史的実験も、西側の社会や文化があってこそであり、結局、東西の勝敗以前に、社会的なユートピアという「夢」そのものが消滅したのだった。思えば、ジョン・ロックの社会契約論から、随分遠くまできたような気もするが、その実そんなに進歩がないのも人間かもしれない。
ついでながら、国民国家の領土的システムのなかでは、あらゆる政治は地政学であると著者は断言している。同じようなことを佐藤優氏も言っていた記憶がある。

原題:DREAMWORLD AND CATASTROPHE:The Passing of Mass Utopia in East and West(Buck‐Morss,Susan)