千の天使がバスケットボールする

クラシック音楽、映画、本、たわいないこと、そしてGackt・・・日々感じることの事件?と記録  TB&コメントにも☆

『ワン・ディ 23年のラブストーリー』

2012-06-28 22:43:13 | Movie
賢い女は、意外とダメ男に弱いのか。

1988年7月15日のスコットランド。めでたく留年せずに大学を卒業した日だ。夜通しパーティやら楽しみまくり、まもなく夜が明けようとする街を走っていく若者達。不図、気がつけば、残っているのは、同級生とはいえ、それまで交流のなかったエマ(アン・ハサウェイ)とデクスター(ジム・スタージェス)のふたりだけ。成り行きで、エマの下宿先のベットにころがりこむデクスターは、一応の礼儀としてエマに”お誘い”の声をかけたのだが、気が変わる。心中の落胆をかくすエマに、デクスターは、1年に1日、聖スィジンの祝日の7月15日に会うことを約束して別れる。

7月15日のエマとデクスター。歳月は、ふたりに不都合ではない友情という絆を結びながら、いつしか20年のワン・デイが流れていくのだったが・・・。

本作は、同名のベストセラーとなった原作を作者自らが映画の脚本も書いているのだが、エマとデクスターの対照的なキャラクターが物語でいきている。
エマは、労働者階級から名門大学に進学したように、地味で努力家の女性。チープなメキシコ料理店で働きながら、作家になる夢を忘れずに詩をかいている。そんな真面目なエマを励ますデクスターは、裕福な家庭出身にふさわしい顔立ちもよく、当然、女にはもてまくる。しかし、彼にとっては、所詮、シゴトも含めて世界はこどもの遊び場のようなもの。定職にも就かずバラエティ番組の司会者という知名度をいかして次々と女を抱き、遊びまくり、世の春を謳歌しながらも、あっというまに大衆にあきられていく。

デクスターは、母親に溺愛された金持ちのおぼっちゃま君にありがちな、、、チャラ男!
きれいな女に声をかけられれば、ためらいなく”交流”するのがチャラ男のルール。その一方で、賢い頭脳をもちながらいかすことをせずに流されていき、仕事が下降線をたどるとエマに愚痴り、すぐに泣きつく・・・男のくせにというのは性的差別だが。おまけに、わがままで寂しがりやで自己中心的。エマの気持ちに最初から気がついているくせに、余裕たっぷりに彼女の都合のよい部分しか見ようとしない、だめんず。

そんなだめだめのチャラ男でも、情にほだされてしまうのが、地味な眼鏡女子のエマ。彼女のような賢い女には、チャラ男のデクスターはやっぱりあいかわらず魅力的なのだ。映画『ジェーン・エア』でロチェスター卿が失明したときに、上野千鶴子さんが「男が失明するって、女にとって、最後の解決、この人はもはや私なしには生きていけない。最終的な女の勝利ですよ」と、実に大胆な発言をされていたが、自分を親友として頼り、弱みをみせてぼろぼろになっていくデクスターを前に、ジェーンのように「この人はもはや私なしには生きていけない」という思いがエマの心にうかんだのではないだろうか。映画『プラダを着た悪魔』での役柄と同様、やぼったい女子役も似合って、きっちりメイクしてドレスアップをすると驚くほど美しくなるアン・ハサウエイが好演している。

大学生の頃からずっと好き、今でも愛している。

エマの感情のゆれに共感した私は、デクスターのキャラクターを含めて、誰がなんと言おうとこんな映画も好きだ。

監督:ロネ・シェルフィグ
原作:One Day

「須賀敦子全集 第1巻」

2012-06-24 19:19:58 | Book
ペルージャでイタリア語を学んだ須賀敦子さんが、奨学金をえてローマに渡ったのは、29歳の時だった。1958年のことだった。
女性が結婚することを、”かたづく”などと表現していた時代だった。裕福な資産家の家庭に育った彼女のことだから、周囲はふさわしいお見合い相手を用意していたであろうに、30歳を目前に日本を旅立つのは、はっきりとした目標、女性でも誰かの配偶者として庇護されることではなく自分の生きる道を見つけたいという願いと、それを支える強靭な意志があったのだろう。
夫が急死した後、1971年にミラノを去って帰国するまでの30代の青春が、「ミラノ 霧の風景」「コルシア書店の仲間たち」に静かな炎となって読者の心を照らしている。

考えてみれば、彼女の文章は創造された小説ではなく、イタリアという外国で暮らしていた今ではブログでもやまほどある滞在記、いわば日本人にしてみれば異国の地での人々の出会いと別れを綴ったエッセイという形態にも関わらず、丸谷才一に愛されるほどの一流の作家の列に加わった。そして、今でも熱心なファンに読み継がれている。改めて気がついたのは、処女作の「ミラノ、霧の風景」を上梓して脚光を浴びた時は、61歳だった。

旅先の思い出が語られる文章に、どうしてその場所に行ったのかわからない、何故旅行することになっったのか覚えていないが、といった20~30年の歳月が彼女の記憶を曖昧模糊としている部分があるのだが、それがいかにも遠い異国での話し、過ぎ去った遠い昔の寂寥感をもたらす効果を与えている。そして、重要なことは文章にするまでの長い歳月の風化が、まるで上質なワインが熟したかのような円熟という果実を須賀さんにもたらしていることだ。同じく須賀さんを愛読する福岡伸一さんが”奇跡”と書いていた記憶があるが、30代とまだ感性も瑞々しく、好奇心に満ち、ベッピーノ氏との愛情をバックボーンに、多くの体験が時代と時間を経て60歳になって紡がれたということ事態が、我々にとっては実に奇跡のような幸運だったのではないだろうか。

それにしても、なんとコルシア書店に勤務していた夫婦の暮らしのつつましさか。
ベッピーノ氏の父は社会主義者でマッチ箱のような信号所に勤務する平社員で終わり、実家は狭い鉄道官舎だった。そんな中、彼は苦学をして大学に進学して、コルシカ書店に関わるようになる。母親の年金まで融通してもらわざるをえない乏しい収入と妻の翻訳で得た報酬が生活費だったのだろう。高級なデリカ・テッセンのにぎわう客を眺めながら、自分の財布が軽さがうらめしかったり、ヴィッフィ・スカラの食卓に招かれてはでやかなハイ・ソサエティーにどぎもを抜かれたり、人が振り返るくらいのボロボロの友人の車に同乗しながらも、それでも車を所有できることをうらやましく思ったり。苦学の留学生が、そのまま貧しい家庭の妻となった暮らしぶりがうかがえる。しかし、生活水準は兎も角、彼女の知性と持ち前の好奇心、品性が、結局、ミラノでの生活をひろげていったとも感じる。お嬢さまの育ちのよさに、成熟した女性の知性とつつましい生活がもたらした怜悧で深い洞察力が須賀さんの魅力である。文章も静謐で美しい。

コルシア書店は、カトリック左派のダヴィデ・マリア・トゥロルド神父やカミッロ・ピアツが数人の若者とはじめた書店で、通常の本を売るだけの書店とは違い、講演活動やボランティア活動の拠点もあり、仕事帰りの教師、聖職者や学生でにぎわっていたのだが、やがて革新運動の流れにおされて、交流の場が闘争の場になり、思索より行動、政治が友情に先行するようになっていった。教会当局にもにらまれ、まだ権力をもっていた教会の決定は、仲間の社会的生命にもかかわる重さをもち、ついに亡きベッピーノ氏の後任の男性は立ち退きを決断する。それは、書店のひとつの若さの終わりであり、彼らの青春の終焉でもあった。

「若い日に思い描いたコルシア・デイ・セルヴィ書店を徐々に失うことによって、私たちは少しずつ、孤独が、かつて私たちを恐れさせたような荒野でないことを知ったように思う」

彼女のこんな言葉を、私はしみじみと我が身におきかえてかみしめている。

■アーカイヴ
「ベェネツィアの宿」須賀敦子著
須賀敦子さんがみたミラノのマダムたち

須賀敦子さんがみたミラノのマダムたち

2012-06-23 16:23:28 | Book
須賀敦子さんを読む。
三島由紀夫や村上春樹だったら、ミシマ、春樹と簡略して言ってしまいそうだが、彼女の場合は須賀敦子さんと敬称がついてくる。レディであるということもあるかもしれないが、彼女の文章を読んでいくと、作品に登場している人々、そして彼ら彼女たちと時間を過ごした著者自身へのつつましやかな敬意というものがいつしかわいてくる。それは、作品の力や作家の文才とは別の、怜悧さとあわせもつ彼女自身の感性の美しさと人となりのおかげなのだろうか。決して、他の男性作家に敬称にふさわしい人徳がないわけではないが・・・。

さて、須賀敦子さんがイタリアで過ごしたのは、1954年のペルージャ留学時代を経て、58年に再度イタリアに渡り、61年のベッピーノ氏と結婚するものの67年に夫が急逝、71年にミラノの家を引き払って帰国するまでの、わずか10年あまり。「須賀敦子全集1」に収められている「ミラノ 霧の風景」や「コルシア書店の仲間たち」には、このミラノ時代に彼女が出会った人々が現れてはきえていくのだが、なかでも興味がひかれたのが、日本人にはあまりなじみのない所謂上流階級出身の女性や貴族たちだった。

今日では隔世の感があるが、半世紀前のミラノではそもそも日本人が珍しかったことや、夫となる寡黙なインテリだったベッピーノ氏のつながりで、須賀さんは上流社会の邸宅の食事に招かれたり、会話をする機会に恵まれた。スカラ座の指定席を保有している大叔母さんをもつジャーナリスト、コルシア書店のパトロンだった独身のテレーサおばさん、パルチザン活動家をそうとは知らずに自宅に泊めてサン・ヴィットーレ刑務所に連行され奇跡的に生き延びた変わり者のマリア、映画監督ヴィスコンティと幼友達の侯爵夫人や銀行家たち。

彼らは夏や真冬をのぞいて市街の中心地、ナヴィリオ運河を埋め立てた大聖堂を囲むエリアから旧城壁の間に住んでいるいろいろな意味で特権階級に属する人種たちである。門番に会釈をしてベルを鳴らすと、お仕着せのワンピースに糊のきいたエプロンをつけた”召使”がやってくる。或いは、馬車が出入りした18世紀からの面影を残して、入口から中庭に通じる天井がアーチ型になっている4階建てのアパートメントのすべてを所有していたり。多くの絵画が飾る壁、ペルシャ絨毯、飴色に磨かれた床。一見して仕立てのよいドレスを着た妻や娘たち。優秀な家庭教師を雇ってやすやすと大学に進学するこどもたち。文学や音楽などこれまで観てきた映画の中の貴族たちの世界が、この時代では当たり前のように存在していたのだった。

アメリカのパーティとは違って、彼らは常連を晩餐に招待して、食後は気楽な独身男性も招いたりして、全員が椅子に座って会話を楽しむ「サロン」。 そこでは、文学、音楽といった芸術もかわされるが、ファッションや流行、噂話、ちょっとした陰口もささやかれる。女性の立場からすると、日本のママさんの公園デビューや幼稚園デビューで神経を遣う”社交界”とそれほど変わりはないのではないか、とも思った。そんな晩餐会や食事会で、会話やミラノ生活を楽しみながら、いつも財布の軽い結婚生活を送っていた須賀さんは、女性たちのシックで野蛮なテーブルマナー、それを楽しげに眺める鷹揚な男達、侯爵家だから許されるふるまいのヨーロッパの厚みにのめりこみながら、自分は彼らを楽しませるためにいるのではないかと感じる時もあったそうだ。

さて、須賀さんが結婚指輪を買い求める時、由緒正しい家柄出身の友人に紹介されて行った店は、うらぶれた小さな通りに面した古い建物にあり、品のよい女主人はご心配なさらずにと予想外にはるかに安い指輪をすすめてくれた。ミラノの伝統的な支配層は、先祖代々の資産価値のある宝石をもっているから、日常使いの装飾品はひそかにこうした店と見事に使い分けているのだった。そして、店を教えてくれた友人、コルシア書店の中心人物だったルチア・ピーニは、名のある名家出身だった。彼女の友人たちと一緒の旅行先で、ルチアは同じ書店の仲間からのプロポーズを「あんなのと私が結婚するはずがない」と言い切った。その言葉の乾いた冷たさに、須賀さんは夜も眠れないくらい考えた。「あんなの」という意味は、資産もバックグランドもない仲間は全く相手にならないという意味だとたどりついた須賀さんは、血の凍る思いだったと感想を述べている。その後、一緒に働いていた「あんなの」のひとり、ベッピーノ氏と須賀さんは結婚することになる。

映画『ミラノ、愛に生きる』は、上流の特権階級に所属する一家の妻のめざめを描いていた。ロシアから嫁いだ主人公が、最後に、高級な服を脱ぎ捨ててはだしで大きな邸宅を去る姿が、なんとなく少しわかるような気がしてきた。

■アーカイヴ
「ベェネツィアの宿」須賀敦子著

「丘」ジャン・ジオネ著

2012-06-18 22:33:59 | Book
欧州危機の火種だったギリシャの再選挙の結果は、財政緊縮策支持派が議席数の過半数を獲得し、ユーロを離脱することなく、とりあえず金融市場のパニックを招く最悪の事態は回避することはできた。しかし、スペインの財政・金融不安という更なる火種を抱えて危機収束にはほど遠い状態には変わらない。今、発売中の「Newsweek」の”現実味を増す世界同時不況”というタイトルが気にかかる。いつまで続くこの不況・・・。漠たる将来への不安や憂鬱な気分を抱えている人は、私だけではないだろう。

ここに1冊の本がある。
作家はフランスのオート・プロヴァンス地方で生まれたジャン・ジオノ(1895-1970)の処女作だ。

舞台は、リューム山を望む山間の小さな集落で、わずか4軒の家には13名の住人が暮らしていた。彼らは、貧しいながらも、美しくも厳しい自然や、動物たちや生き物と共生して日々の暮らしを営んでいた。そんな平穏な生活を脅かすように、小さな異変が次々と起こり始める。異変は、村人たちに大きな不幸をもたらすかもしれない不運と言ってもよいだろう。不安にかられる村人たちの心情をあおるかのように、死の床にある長老各の爺様のジュネが、うわ言のように不可思議な言葉を繰り返しているのだった。やがて、村人たちは異変がとうとう山火事にまで至るとジュネに原因を求めるようになっていくのだったが。。。

リューム山を抱くある地方を想定しながら特定せずに、ただ漠然たる「丘」というタイトルからも想像されるとおり、この小説は一種の寓話であり、空想と現実のはざまで遊離しながら、ひとつの作品として見事に昇華している。特に素晴らしいのが自然や生命の描写で、20歳の時から5年間、激しい戦地で戦闘を体験して、生涯、戦争の恐怖から逃れられなかったジオノだからこそであろう。

さて、昭和11年に出版されて以来、長らく忘れてしまったかのようなジャン・ジオノの処女作が、この現代に岩波書店から改めて出版された。それは、時代が変われども、この寓話が現代人に、いや、むしろ今こそ人々に語り継ぐべき普遍的な様々なものが宿っているからであろう。又、自然と共生すること、生命を慈しむこと、人間のたくましさなど、アンドレ・ジッドが賞賛したというエピソードのとおりに、美しく巧みな描写で表現されていて、文学としての水準も高い。訳者による解説も充実している。

ところで、すっかり遠くに忘れてしまったかのような牧歌的な暮らしぶりは、人々の素朴さを讃えている。しかし、その素朴な素直さは、少しずつふくらんでいく不安という風船が破裂しそうになると、ひとつの事柄、ひとつの事件、ひとりの人間を、一気にヒステリックなまでに集中攻撃していくことで憂さをはらそうとする愚かさをもあわせてもっていることも忘れがちである。

おりしも世界同時不況という不安や原発再稼動への不安、誰しも大なり小なりありそうな不安という種が恐怖へと育ってしまったら、人々はどこへ暴発を求めていくのだろうか。連日の、益々私たちの不安をあおるかのようなマスコミの記事を前に、本書を読んでそんなことも考えてしまった。私は、深代惇郎の「滅亡への道を歩んでいると考えるヨーロッパの恐怖心が、憎悪と復讐をかかげた「ヒトラー」という狂気を生み出したのかも知れない」という言葉を思い出している。

『ジェーン・エア』

2012-06-12 22:01:13 | Movie
ジェーン・エアが生きた時代、1847年頃の英国の”カタギ”の娘がつけるまともな職業といえば・・・。
上野千鶴子さん流の表現をすると”女の指定席(妻)をゲットできなかった”場合の職業は、唯一ガヴァネス(家庭教師)になることだそうだ。しかし、ガヴァネスというのは愛人すれすれで、妻にのしあがったジェーン・エアはとてもラッキーなガヴァネスとなる。

これまで本の出版部数は500万部を超え、18回も映画化されてきた「ジェーン・エア」が再びやってきた!
主役のジェーン・エアを演じるのは、22歳のミア・ワシコウスカ。オーストラリア出身ということだが、名前から想像するとおり母親はポーランド出身、特別美しい顔立ちではないけれど、肌が白くノーブルな雰囲気が彼女にはある。ハリウッド女優のコテコテ感がなく、控えめな意志の強さが感じられる女性だ。これまでの成熟したおとなの女性ジェーン・エアというイメージとは違い、年齢の割りには体型も少女のような彼女が演じることに当初はとまどいも感じた。さすがに、ハンサムだがマイケル・ファスベンダーのもうオジサン顔のロチェスター氏とならぶと、10代の小娘にしかみえないのだ。

が、しかし、あなどってはいけないのが小娘ジョーン・エア。愛人すれすれと言われるガヴァネンスで、たとえお屋敷に雇われた召使の身分とはいえ、確固たる愛情を裏打ちされた契約がなければ安易にご主人様にはカラダを開いてはいけない。孤独に負けず、愛する人を求める気持ちが強いからこそ、社会ではなく自分自身の心のモラルにおいては決して妥協しない。たとえ、本当に彼を心から愛していても流されない。一方で、狭い社会の寄宿学校育ちのいち家庭教師を相手に、熟練のロチェスター氏は家庭内別居状態とはいえ妻がいる立場で、ものにしようと必死にくどいていく。恋愛の条件においては、貧しく身分の低いガヴァネンスは圧倒的に不利な位置にいるのだが、相手に”隠し妻”という重荷がいることを中心に、一気に形勢が逆転していく。むしろ、自信にあふれて堂々たる紳士だったロチェスター氏の方がジェーンの愛の奴隷、召使のような弱い僕となっていく。

清らかで純粋なジェーンの心は、愛する男性と家族を求めてゆれ動き苦しむのだが、女は強し。一時的に避難していたリバース家で、神のお告げという都合のよい理由でジェーンと結婚をもくろむ牧師のジョンの申し入れは拒絶し、真の愛情を求めてつかんでいく。

原作の舞台となったダービーシャー州の風景が、まるでジェーンの内面を表したかのように荒々しくも素朴な美しさがある。『闇の列車、光の旅』でデビューしたキャリー・ジョージ・フクナガ監督の第2作が古典的な『ジェーン・エア』とは意外な感じがしたが、丹念にジェーンの心のひだを丁寧に映していく。シンプルな物語だから逆に集中力を要する作品だ。名前からわかるように日系人の監督だからだろうか、繊細さには日本的なものを感じた。時代を再現した素朴な衣装もみごたえある。

「ジェーン・エア」が時代の変遷をこえても尚、読み継がれ、撮り続けられるのも、ひとりの孤独な女性が自らの意志で幸福をつかむことと、ころがりこんだ遺産というそうそうありえない幸運もありながら、単に玉の輿にのるのではなく、相手の弱さも受入れて人生をともにいちからスタートするところにも不動の人気の秘密がありそうだ。決定版をつくりたかったという監督の自信にうなづける作品となっている。

監督:キャリー・ジョージ・フクナガ
2011年英国・アメリカ製作

■ここにもジェーン・エアが
・フランコ・デフィレッリ監督の『ジェーン・エア』

『眺めのいい部屋』

2012-06-09 17:08:27 | Movie
最近、いつも利用しているレンタルショップでは旧作映画が100円になった。人生があまりにも短いことを考えて、これまで一度観ていた映画よりも未知の映画に出会いたいと本も再読することはなかったのだが、同じ時間を消費するなら、そこそこの新作を観るよりは不朽の名作をもう一度!
・・・と、そんな気分で探していたら、真っ先に目がついたのがケースもくたびれていたこのジェームズ・アイヴォリー監督の『眺めのいい部屋』だった。長年通ったレンタルショップで、すっかり見飽きた棚だったはずなのに、このDVDを手に取った時の喜びは、全く小躍りしたいような嬉しさだった。

映画は、オペラ歌手キリ・テ・カナワが歌う「私のお父さん」(プッチーニの「ジャンニ・スキッキ」)のアリアではじまる。以前観たのは、ビデオだったのだが、これは、絶対に映画館で観たかった映画だと感じる。キリテ・カナワの上品で美しい声が素晴らしく、又、夢見る乙女を情熱的にかりたてるこの歌も私は大好きだ。そして、具体的な人物や景色のないエレガントな紋章のような絵画を背景に流れるこの歌は、これからはじまる物語の”運命”をほのめかしている。そう、あるささやかながらロマンティックな運命がこれからはじまる。

1907年、産業革命の発達から黄金のヴィクトリア朝からエドワート朝に向かうイギリス帝国の時代、良家の娘のルーシー・ハニーチャーチ(ヘレナ・ボナム・カーター)は、年上の従姉シャーロット(マギー・スミス)に付き添われてイタリアのフィレンツェを訪問した。英国人観光客の定宿でもあるペンション”ベルトリーニ”に到着したふたりは、希望していたドゥオモをのぞむアルノ河に面した部屋ではないことに失望を感じ、なかでもシャーロットは腹を立てていた。ディナーの時にも怒りのおさまらないシャーロットに、息子のジョージ(ジュリアン・サンズ)と宿泊している元新聞記者のエマソン氏は、自分たちの部屋は眺めがいいからと交換を申し出る。そんな親切な申し出にも関わらず、不躾だとシャーロットは益々怒って席を立つのだが、結局、ビーヴ牧師の説得で好意を受けることになった。

女流作家のミス・ラヴィッシュ(ジュデイ・デンチ)と案内人なしにフィレンツェの街を散策するシャーロットから解放されて、ルーシーもひとりでサンタ・クローチェ教会に出向くとそこでエマソン親子に出会うのだったが。。。

少女ルーシーが、結婚する前の初めてのイタリア旅行でエマソン親子に会ったのも運命。いつも世界のことを心配して教会でひざまずくジョージを見かけて微笑むのも、広場でイタリア人青年が喧嘩によって刺される事件に遭遇して失神して彼に介抱されるのも、宿泊客たちとフィエーゾレ渓谷にでかけて偶然ジョージとふたりっきりになるのも、彼を忘れようとするかのように貴族の青年と婚約した後に、やがてジョージと再会してしまうのも運命。日頃は、安直な”運命”という言葉を使わない私だが、かようにロマンチックで美しい”運命”にも関わらず、エレガントに心に輝くように響くのは、映像、衣装、脚本、音楽、物語、キャスティングと、すべてに調和と美しさが完璧に整然とあるからだ。

『モーリス』の陰にかくれた本作が、これほど素敵な映画だったとは。
おそらく前回観た時は、ただきれいな恋愛映画でおわっていたのだろう。監督は米国人だが、これはまぎれもなく英国映画だ。付添い人なしでは、ひとりで旅行にも行かれない良家の娘という保守性。又、イギリス人にとって風光明媚であかるいイタリアは憧れの地である。そのイタリアで、ひとりの娘が心を少しずつ解き放ち、真実の愛と性、自己にめざめる成長物語でもある。ルーシーは良家の子女だが、婚約者セシル(ダニエル・デイ=ルイス)の上流階級に比較すれば中産階級である。そしてエマソン親子は、もう少し低い階層だが自由な精神の知識人。この階級のちょっとした”差”が感じられると、この映画は更におもしろい。自由な思想をもつエマソン父子とビーヴ牧師に対比して、因習にしばられる独身のシャーロットが狂言回しになり、教養は高いが女性の愛しかたを知らないセシルは滑稽にうつる。そのふたつの階層のはざまで一番のびのびと演じているのが、ルーシーのやんちゃな弟役のルバート・グレイヴズだ。

そして、もうひとつ、音楽にも重要な意味がある。フィレンツェの宿のピアノで、音楽好きなルーシーはベートーベンを演奏する。すると、その演奏を聴いていた牧師が「ベートーベンを弾く情熱と人生があうならば、あなたは素晴らしい人生をおくるでしょう」と語る。その後、セシルと婚約した彼女は、彼の邸宅で義理の母にも満足してもらえるシューベルトを弾く。彼女が好きであっているのは、ベートーベンなのに。りっぱな青年と婚約をしたということで、一人前のおとなの女性としてふるまいたいルーシーだが、溌剌とした精彩さが失われていく。本当のキスの妙薬を知ってしまった彼女の心の窓は、人を愛する情熱でまさに開かれようとしている。

ユーモラスな場面もあり、深遠な会話もあり、こんな映画だったのかと再発見もあり。もっと年齢を重ねたら、さらに味わいも深くなりそうな不思議な映画だ。それにしても「眺めのいい部屋」というのは、なんと奥のある優れたタイトルなのだろう。眺めのいい部屋だったら、何度でも訪問して観たくなるではないか。。。

監督:ジェームズ・アイヴォリー
1985年イギリス映画

■イギリス映画は美味しい
「スクリーンの中に英国が見える」狩野良規著
『炎のランナー』
「『チャタレー夫人の恋人』裁判」倉持三郎著

『オレンジと太陽』

2012-06-07 22:40:52 | Movie
にわかには信じがたいことである。
英国で児童養護施設にいたこどもたちが、大量にオーストラリアに船で移送されていたのだった。中には、良い養父が見つかってひきとられたとこどもに会いにきた母親さえも知らされずに。そんな児童たちの数は13万にものぼるという。遠い昔の過去の出来事ではない。殆どの英国民が事実を知らないまま、1970年代まで児童移送が行われていたのだった。

1986年、ソーシャルワーカーであるマーガレット・ハンフリーズ(エミリー・ワトソン)のもとに、ひとりの女性が現れる。
「自分が誰なのかを知りたい」
そう訴える彼女は、4歳の頃、数100人のこどもたちと船に乗せられオーストラリアに渡ったという。
具体的な養子縁組ではなく、こどもたちだけを大勢集めて別の国に移送するなんて、マーガレットのようにソーシャルワーカーという職業に従事していなくても、一般的な良識からありえないと考えるだろう。実際、彼女も当初は半信半疑だったのだが、同じようにオーストラリアに移送された弟から手紙をもらったという女性の話をきっかけに調査をはじめたところ、やがてかっての植民地への児童移送が政府の政策によって行われていたという事実があかるみになってきたのだった。。。

何故、そんなに大勢のこどもたちを移送したのか。親切な養父母候補者がオーストラリアには大勢待っているからだろうか。オーストラリアの方が福祉が充実してこどもたちが育つ環境に適しているからだろうか。日本でもこどもも農作業や労働のための働き手であった時代は、そう遠い昔のことではない。こどもたちを待っていたのは、たった1枚の服と1足の靴、そして過酷な労働だった。そして、もはや驚きではない聖職者による性的な虐待。

ある中年の女性はモップで床を磨いている。7歳でこの国に来てから、40年間ずっとモップで床を磨き続けている。家族も一般的な教育を受ける機会もなく、ただひたすらおとなに言われるがままモップで床を磨き続けてきた彼女の人生はいったいなんだったのだろうか。そんなことを考えるのだが、ジム・ローチ監督は英国とオーストラリアの衝撃的な汚点を暴いて告発する視点から、家族をひきあわせようと働くひとりの女性の奮闘を描いていく。そのために、マーガレットの役を演じるのにふさわしい腰のりっぱな中年女性に変貌していたエミリー・ワトソンをキャスティングしたのだろう。誠実でまじめだがごく普通の市民だった女性が、数々の脅迫や嫌がらせに屈せずに、彼らのために強い意志で働く姿をエミリー・ワトソンがいい味で演じている。暑いオーストラリアの太陽の下でも、地味な長袖スーツの上着を常に持ち歩いているのが、英国のソーシャルワーカーという職業を象徴していた。

そして映画を観ていて疑問に思ったのが、そんなにたくさんのこどもたちは、何故、養護施設に入っていたのだろう。映画『愛する人』でも14歳で未婚の母となった主人公が、経済的な理由ではなく、若くて育てられないために娘を出産と同時に教会を通じて手離していたという設定だった。本作の冒頭でも若い娘が泣きながら赤ちゃんを渡す場面からはじまっている。日本では、若年層の出産でも祖父母や家族の支援でなんとかこどもを育てているところが違うのだろう。

又、成人した彼らは、一様に父親ではなく母親をひたすらに探し求めているのが印象に残った。本名もわからず、母親の生死もわからず、自分は何者なのかというアイデンティティ探しも胸にせまってくる。久々の岩波ホール訪問だったが、やはり今でもずっと変わらずに良い映画を上映しているのがうれしかった。

監督:ジム・ローチ
2010年英国製作

「反原発」の不都合な真実 藤沢数希著

2012-06-05 22:34:50 | Book
某週刊誌の特集に原発再稼動を推進する国会議員のリストが掲載されているようだ。
何でも原子力ムラがらみの「カネと票」に群がる議員というお題目に、まるで彼らがA級戦犯扱いに感じられるのだが、国民が本当に知りたいのは誰が原発再稼動を推進しているかということよりも、もっと本質的な原発の是非ではないだろうか。しかも「国民の大半が再稼動なんてありえない」と扇情的でヒステリックな言い回しには少々うんざりしている。私の意見としては、再稼動はありうるとふんでいた。米田綱路氏が日本のマスコミに本質的なことを批判していく姿勢はあるのかと苦言を呈していたが、まさにその通りである。

おっと、こんなことを言いたいのではなかった。前置きが長くなってしまったが、本論に入ろう。
本書は欧州研究機関で、計算科学、理論物理学で博士号を取得したリスク分析のプロが、3月11日以降の原発=絶対悪と決め付け、その廃絶こそ正義と感情的に騒ぎ立てるマスコミとは距離をおき、感情論をこえた議論のために原子力技術、健康被害、経済性からエネルギー政策を提案している。

ランチタイムに自宅の電気を60Aで契約していても、ブレーカーが落ちてしまうという話がでた。彼女は電気代節約のために40Aに変更を検討しているそうだが、それはもう難しいのでは、というのが私の懸念。窓の開かない高層ビルもあるし、冷房を我慢できても冷蔵庫、洗濯機、パソコン、携帯電話の充電、近頃活躍している電子レンジなど、人はエネルギーに頼って依存して生活している。「北の国から」の生活も理想郷のひとつだが、人それぞれのライフスタイルが確立されているのが現代だ。エネルギーはとても重要なのだが、今のところ残念ながら100%安全なエネルギーはない。それでは、相対的にエネルギーの単位でリスク計算していくと原子力は最も安全なエネルギー源となる。(この計算には、太陽光発電などの建設に関わる事故のリスクを発電エレルギー単位で割ると、効率が悪いエネルギー源が相対的にリスクが高くなるというからくりがあるのだが。)

今般の福島第一原発も地震に関しては、原子炉は正常に臨界停止していたそうだ。ところが、津波によってすべての予備電源が機能しなくなり、冷却水を循環できなくなったために原子炉圧力容器内の燃料棒が熱暴走してしまったのだが、予備電源を建物内など簡単に浸水しないところに設計しておけば防げた事故であり、安全装置である電源車がかけつけたところコンセントが合わなかったという信じられない設計ミスもあったという。著者は、一連の事故はむしろ人為的ミスとみている。その点について、賛否両論あろうかとも思うが、原発を止めるか稼動するかが政局に利用されて殆どの原発がストップしてしまったが、原発の維持費を払いながら、莫大な化石燃料を追加購入するという経済的損失を負いながら、原発の安全性が高まるわけではないとの意見には、もっともである。

原発の代換えとして風力発電もあるが、ドイツを旅して緑のなだらかな丘陵に規則正しく並んだ真っ白な風車を観た時は、ドイツらしい機能美があるけれど、むしろ自然な景観を破壊しているとぞっとした記憶がある。ビル・ゲイツなどは、ソーラーや風力は”キュート”なテクノロジーで先進国の遊び心でつくる実験的な発電所という考え方をしており、そもそも国民生活を支えられるほどの実力はないし、まして発展途上国が利用するには経済的に困難である。

日本の技術力は世界に誇れる。意識もモラルも高い。福島の原発事故はとてもとても不運で悲しい出来事だったが、だからといって即原発停止と宣言するのは早計ではなかろうか。ピンチは、後世の国民のための糧に転換することも検討していただきたいと、私は本書を読んで考え始めている。

昨秋、被災地を訪問したダライ・ラマが、「放射能におびえずに生きる権利」とあたかも原発を悪と誘導するかのような記者の質問に
「常に物事は全体を見るべきです。一面だけを見て決めるべきではありません。(中略)原子力が兵器として使われるのであれば決して望ましくありません。しかし平和目的であれば別問題です」と応えたそうだ。
ダライ・ラマは、ダムは自然を破壊し、風力、太陽エネルギーは高価過ぎて、発展途上国では十分ではなく貧富の差が広がると考えている。真の指導者というのは、ダライ・ラマのように冷静に将来をみすえて多角的な視点をもちつつ全体を把握していることが望ましい。

本書は当初、別の出版社から話がはじまったそうだが、あまりにも反原発の声が強くて中止となったところ、新潮社に拾われたそうだ。一度、悪いと決めるとマスコミが先導となって猛烈な勢いでたたくのも最近の風潮だが、著者の意見に耳を傾けて再考することも大事だと思うのだが、いかがだろうか。