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「ウィーン・フィルとともに」ワルター・バリリ著

2012-12-28 18:07:47 | Book
日経新聞の書評で見つけたワルター・バリリの名前と写真は、ちょっとした慶事だった。
何しろ”往年の名演奏家”としてすでに鬼籍に入られていたヴァイオリニストだと思っていたのに、今般は「深い友情で結ばれたウィーン・フィルハーモニーの仲間たちに捧げる」という巻頭言で回想録を出版していたのだ。

ところが、不図、実際にワルター・バリリの演奏と記憶の箱を思い出しても見当たらない。それもそのはず、バリリ四重奏団は1957年に来日公演をおこなったが、まもなく第一ヴァイオリンのバリリ氏の右腕を故障してカルテットは解散、1973年に歌劇場とウィン・フィルでの活動も35年間の勤務を経て退職、引退していたのだった。

ワルター・バリリはオーストリア・ハンガリー帝国崩壊まもなく、1921年6月16日に貧しくとも美しいもの音楽を楽しむ心をもった両親のもとに生まれる。幸運にも国立アカデミーでヴァイオリンを学ぶ叔父から4歳の時から手ほどきを受け、めきめきと上達して才能を開花させていく。やがてバリリ少年も国立アカデミーの入学試験に合格し、恩師の活動拠点の異動に伴い、ミュンヘンについていき36年にはわずか14歳でデビューを大成功で飾った。ドイツ各地でソリストとして順風満帆の音楽家人生を歩きはじめた頃の38年、オーストリアはナチス・ドイツに併合。そしてこの年の9月1日、バリリ青年はウィーン国立歌劇場楽団とウィーン・フィルハーモニーに入団。翌年、わずか18歳で世界最高峰の雄であるオーケストラでコンサートマスターに昇格した。

ところが、オーストリアはナチス・ドイツとともに第二次世界大戦に参戦。そんなさなかにも、1939年年末、ウィーン・フィルは最初のニュー・イヤー・コンサートを開き、クレメンス・クラウス指揮でバリリも出演する。ドイツ軍によるパリの占拠、ソビエト侵攻、日本の真珠湾攻撃という状況下にありながら、1942年のウィーンではウィーン・フィル創立100周年を祝う豪華な記念式典が開かれる。戦争と音楽。緊迫した命がけの戦局と遠く対極にある美しい調べ。本書の読みどころは何といっても中盤の戦火の中の音楽活動だろう。

日本人の多くが戦争で苦しみ、原爆投下にもあいぼろぼろになっている時に、美しい音楽がウィーンでは流れていたという事実。やがてウィーンも空襲にあい、バリリ家族も奇跡的に九死に一生をえて、ソ連占領下の危険な状況で多くの死体の間をかいくぐり、ウィーン・フィルの団員たちと地下室で過ごす日々。それでも、彼らには音楽があった。本書を読んでいて、昨年の東日本大震災の時、このような状況で音楽をすることの意味や是非の議論を思い出した。バリリ氏に本書の執筆をうながし”その気”にさせて出版にこぎつけた訳者が、震災後に無力感に苛まれ苦しんだ日本のプロの演奏家たちに本書を捧げたいというあとがきに、わが意を得たりという思いだ。戦火の中、全てが崩壊し死者が溢れかえれる日常でも、1945年の春は例年以上に素晴らしく花々が咲き乱れ、自然は美しく輝いていたという。

往年の名指揮者のハンス・クナッパーツブッシュ、カール・ベーム、ヴィルヘルム・フルトベングラー、カラヤンやバーンスタインらの挿話や豊富な写真も貴重な資料である。私生活では一度離婚を経験しているが、最愛のフランス生まれの恋人、ジャン・バプティスト・ヴィヨーム製作の名器は生涯寄り添ってくれるそうだ。今年もあわただしく過ぎていこうとしている。昨年の震災以来、やはり年末は無性に「第九」を聴きたくなる。来年もウィーンフィルにはご縁が遠くとも音楽とともに!

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