千の天使がバスケットボールする

クラシック音楽、映画、本、たわいないこと、そしてGackt・・・日々感じることの事件?と記録  TB&コメントにも☆

「証言・フルトヴェングラーかカラヤンか」川口マーン惠美著

2013-11-24 22:50:32 | Book
「フルトヴェングラーかカラヤンか」

フルトヴェングラーはフルトヴェングラーだし、カラヤンはカラヤンだよ~~~。
音楽理論でふたりの巨匠を比較するのはそれなりに読み応えがありそうだが、この手の暴露めいた内容を予測されるタイトルはNGか。しかも、その前に”証言”がついているぞ。音楽の芸術性とはちょいかけ離れたベルリンフィルの舞台裏を踊った両巨匠の超絶技巧?が、今こそあかされる・・・のか。

品のない話はいつも聞き流し、できれば近寄らないことにしているのだが、芸能週刊誌のノリのタイトルをさけられないのが、標的が指揮者という謎の領域。ところが、クラ女子の私が、ついつい手に取った一冊は、読み始めたらやめられなかった。

ヴィルヘルム・フルトヴェングラーは、1886年1月ベリリンに生まれ、1954年に亡くなるまでベルリン・フィルの芸術監督として不動の地位と名声を誇りつづけた。彼の亡き後、当時の文化大臣が「フルトヴェングラーの後継者になりたいか」という事前に頼まれていた質問するや、カラヤンは、実に晴れ晴れとした笑顔で「千の喜びをもって!」と応えたそうだ。その瞬間、この言葉は世界中に発信されて、事実上、終身の首席指揮者のポストを手にした帝王カラヤン。1908年生まれのヘルベルト・フォン・カラヤンは亡くなっても尚、世界で一番有名な指揮者だろう。今日のベルリン・フィルの名声を築いたふたりだが、フルトヴェングラーはまだ若造だったカラヤンを徹底的に排除しようとしたエピソードは、これまでも様々に語られている。ベルリン、ウィーン、そしてカラヤンが生まれた故郷のザルツブルク音楽祭からもフルトヴェングラーは彼をしめだそうとし、又、実行させた。

音楽の中に生き、音楽を愛することを体現したかのようなフルトヴェングラーと、世界中を自家用ジェット機で飛びまわり自ら広告塔のような存在のカラヤン。感情豊かで感情の人だったフルトヴェングラーと、知性的な音楽家だったカラヤン。そんなふたりの確執を反映したかのような世論と音楽理論は、何度も転調しつつ今日に至っても奏でられていて鳴り止まない。著者の川口マーン惠美さんは、名前から想像されるようにシュトゥッガルト国立音楽大学院でピアノを学び、ドイツ人とご結婚されて同地在住。彼女が、2007年からほぼ10ヶ月かけて、ふたりの指揮者のもとで演奏したベルリン・フィルの11人の元団員たちに会い、そして彼らについてそれぞれに語ったインタビューが本書である。(5人はカラヤンだけ)

本書からの印象は、フルトヴェングラーを絶対化し、本物の暴露本を書いちゃったティンパニー奏者のテーリヒェン氏をのぞいて、団員の”証言”は、総じて理性的で考え抜いたような回答だった。著者はピアノを学んだ者として音楽を理解しているが、日本人女性で若くはない、、、が、それが本書の成立としてプラスに働いている。相手を思いやる細やかな日本人女性らしい気配りが感じられ、団員の誠実な証言というよりも誠実な回想をひきだしている。人生の集大成を迎えた第一線で活躍してきた老いた音楽家たちは、最高年齢96歳の品格のあるヴァイオリニストも含めて、それぞれの音楽家の人生を感じさせてくれる。彼らはみな人間的な味わいがあり、一方で音楽家としてベルリンフィルで演奏していたという誇りと情熱が感じられる。そして、そんな彼らを支えているのが、有能な秘書のように知性的で美しい妻の存在だ。予想外に質素なアパート暮らしのコントラバス奏者もいるが、大方の団員は閑静な高級住宅街に屋敷を構えている。昔の世代の演奏家は、音楽家の血筋をひく育ちのよい人が多い。

そして本書を読んで自分の誤った思い込みに気がついたのだが、カラヤンは実に計算高くベルリンフィルの終身の首席指揮者をものにしたが、ライバルのチェルビダッケはその前に団員からおいだされる予定だったことだ。あまりにも過酷なチェリの注文に、団員たちの反発があったのは残念だが、その時の指揮者は団員たちにとってはカラヤンがオンリーワンだったのだ。カラヤンは帝王として君臨したようにみえながら、実は大変な努力家でもあった。何も新しいことを学ばなかった日は、彼にとっては失われた1日になったという名言もあるくらいだ。カラヤンの指揮で演奏してきた団員で一致しているのは、あまりにも有名なザビーネ・マイヤー事件だ。彼女がオーボエ奏者としてベルリンフィルの音にあわないという団員たちの一致した意見を受け入れなかったカラヤンのふるまいは、やはり越権行為の謗りを受けてもしかたががないと思う。晩年のカラヤンは、自身の健康不安もあり、満身創痍だったのは悲しい事実だ。

フルトヴェングラーかカラヤンか。そもそもふたりの音楽性を比較することに意味はない。しかし、私にとってフルトヴェングラーは豪華なフリルをふんだんに使ったオートクチュールのドレスだ。そしてカラヤンは、世界中に流通するプレタポルテのようなもの。ベートーベンの「運命」だけは、フルトヴェングラー以外にないのだが、カラヤンは好きだ。私は、96歳のバスティアーン氏の

「聴く者の心境が変わると評価も変わる。音楽には”絶対”などない。それは、愛情に似ているかもしれない。一度目の愛情は、二度目、三度目とは違う。でも、その瞬間は、やはりどれも最高で本物」

という言葉を思い出している。

■アンコーーールッ!
「素顔のカラヤン」眞鍋圭子著
「指揮台の神々」ルーペルト・シェトレ著
「舞台裏の神々」ルーペルト・シェトレ著
けっこう危険な家業、指揮者
カラヤン生誕100年「モーツァルト ヴァイオリン協奏曲」
映画『ベルリン・フィル 最高のハーモニーを求めて』
・ベルリン・フィルを退団する安永徹さん
「コンサートマスターは語る 安永徹」
ドキュメンタリー映画『カラヤンの美』
ヴィオラ奏者清水直子さんの「情熱大陸」
樫本大進さんがベルリン・フィルのコンサートマスターに
「近衛秀麿 日本のオーケストラをつくった男」大野芳著←日本人にして初めてベルリン・フィルを振った指揮者
「オーケストラ大国アメリカ」山田真一著
「バレンボイム/サイード 音楽と社会」A・グゼリアン編
映画『オーケストラ!』
「サイモン・ラトル ベルリン・フィルへの軌跡」ニコラス・ケニヨン著
映画『ベルリン・フィルと子どもたち』

『ハンア・アーレント』

2013-11-17 15:58:40 | Movie
なぜ、今アーレントなのか。

岩波ホールの階段で、次の上映を待つ長い行列に並びながら考えた。岩波映画なのに、いや岩波映画だからなのか、この大盛況ぶりはいったいなんなんだ。そもそも、いろいろな意味で難解なあのアーレントを主人公にして映画になるのか。しかも、私の周囲には世代の違いもあるかもしれないが、「ハンナ・アーレント」など誰も知らないからだ。

もっとも、私も比較的最近アーレントに出会ったので大きなことは言えないのだが、その時以来、彼女は自分にとって特別な人になってしまった。だから、商業主義映画には背を向けて、行列覚悟で「ハンナ・アーレント」なのだ。

アルゼンチンの暗い田舎道。ほこりをたてて一台のバスが止まったかと思うと、懐中電灯を片手にひとりの中年の男性が降りてきたらしい。すると、反対方向からやってきた貨物車から飛び降りた男たちが、あっというまにその男を拉致して走り去って行った。彼こそは、歴史にその名を残した”スペシャリスト”のアドルフ・アイヒマンその人である。

1932年ナチ親衛隊に入隊して、3年後にユダヤ人担当課に配属されるや、アイヒマンは指揮する立場として、実に効率よくユダヤ人を強制収容所に移送して有能さを発揮した。そんな男が裁かれる。イェルサレム裁判でのアイヒマンは、世界一セレブな男となった。

ニューヨークに住むドイツから亡命したユダヤ人の哲学者、ハンナ・アーレント(バルバラ・スコヴァ)は「ザ・ニューヨーカー」に裁判を傍聴して記事を書きたいと伝える。自らも、パリに亡命したにも関わらず、フランスのギリュス強制収容所に連行されて脱出するという過去があるだけに、友人たちにも心配されるが、彼女の意志は固く、1961年イスラエルに飛ぶ。アイヒマン=”巨悪な怪物”という世界中の世論の想像のおしよせる渦の中で、裁判を傍聴するアーレントは考える。

「わたしにとって最も重要なことは理解すること」

彼女の理解力は、アイヒマンを巨悪な怪物ではなく職務に忠実で無自覚な平凡な役人ととらえた。しかし、「ザ・ニューヨーカー」に連載されたレポートは、全米で激しい論争を呼び、ユダヤ人だけでなく世界中から非難をあびることとなった。しかも、教授として勤務している大学から辞職を勧告され、イスラエル政府からも記事の出版停止の警告も受けるのだったが。。。

映画は、タイトルどおりにアーレントその人を映していく。
ヘビースモーカーだったのは知っていたが、次々と煙草に火をつけて考えているアーレント。こどもはいなかったが二番目の夫を喪ったとき、かなりやつれたというくらい愛情が深かったことを思い出させるアーレントの夫への会話やしぐさ。そして支援者や友人とのあたたかい交流。女性らしく、美しく、魅力的なアーレント。意外な印象にとまどううちに、そんな彼女を飾るエピソードのように、既婚者のハイデガーと恋愛関係におちる若く純粋な女学生のアーレントが映像にたたずむ。

何故、ここでこんな若かりし頃の情事をさりげないしおりのようにはさむのか。
しかし、練られた脚本を読むと、彼との恋愛が、アーレントその人自身をつくる基盤のひとつとなったことがわかる。ハイデガーは思考することで自分の存在を説いてきた哲学者だった。戦後再会したハイデガーは、アーレントが博士論文で「アウグスティヌスの愛の概念」を書いたことから、アウグスティヌスの「相手より先に愛すことほど、愛の世界へいざなう偉大な招待状はない」という言葉を武器に関係修復を誘う。嗚呼、アーレントは愛情に包まれた人だったのだ。

こういったアーレントは、後半、嵐のような誹謗中傷に負けず、思考を重ねて真実を語り、学生の前で圧巻の講義する、それもアーレントらしい彼女を見事にうきあがらせていく。。特別な人間ではない者すらも、状況により、思考することを放棄すればどんな”悪”にも手をかけるのか。やはり原題のタイトルどおりに、この映画は「ハンナ・アーレント」だ。

私が育ったときは、アイヒマンは悪魔などではなく、「悪の陳腐さ」という言葉とともに凡庸な人という見方がスタンダードだった。そのため、アーレントがこんな風に批判されていたなど全く知らなかった。アーレントは、私にとっては特別な人であるのも、おりにふれ、悩む時、私は彼女の次の言葉を思い出しては気をひきしめていたからなのだが、本作を観終わるとこの言葉の深層がうかびあがって心にきざまれてくる。

「わたしは自分自身について忠実でなければならない。わたしは、自分と折り合いがつかないようなこと、思い出したくないようなことを行ってはいけない。わたしがある事柄を行動できないのは、それを行うとわたし自身と共に生きていくことができない。」

彼女の信念は、アイヒマンの”悪の陳腐さ”と対極にある。何故、今アーレントなのか。それは、今でも「なぜアーレントが重要なのか」と同じである。

監督・脚本:マルガレーテ・フォン・トロッタ
原題:"Hannah Arendt"
2012年ドイツ・フランス・ルクセンブルク製作

■アーカイヴ
・「なぜアーレントが重要なのか」E・ヤング=ブルーエル著
映画「ハンナ・アーレント」が上映される
「われらはみな、アイヒマンの息子」ギュンター・アンダース著

レイ・チェン ヴァイオリン リサイタル

2013-11-05 22:08:15 | Classic
11月3日、日本中が注目する中「東北楽天ゴールデンイーグルス」が優勝した。もうまー君というのは失礼かもしれないが、大活躍をした田中将大選手は実に男前だった。来年は、国内であの勇姿が見られないかと思うと残念だが、そういえば、かってのライバルだった”何かをもってらっしゃる”ハンカチ王子さまの勇姿を近頃は見かけない。彼はどこへ行ったのだろうか。

閑話休題。
何かをもっている人、私的にはそれはハンカチ王子ではなくヴァイオリニストのレイ・チェンその人である。
ほぼ一年ぶりに来日してきたその人は、リサイタルを開いただけではなく、サントリーホールではシベリウス協奏曲も演奏したそうだ。昨年は、ノーベル賞受賞式でブルッフのヴァイオリン協奏曲を弾いた時の山中さんとのツーショット写真が新聞などにも掲載され、今年はアルマーニのモデルも務めたりと、いろいろな意味で彼が若者らしく演奏だけでなく人としてのハバを広げていることが感じられる。しかし、今回のプログラムの内容から、レイ・チェンの演奏活動は意外と堅実で慎重であることも感じられた。

今年の演奏もモーツァルトのソナタからはじまる。伴奏は昨年同様、もはやベテランの風格の漂うジュリアン・カンタン。(これまでクエンティンという呼び方で日本語記載されていたが、正しい発音はカンタンだそうだ。)モーツァルトのソナタは、演奏するのは技術的には易しいが、音楽として演奏するのはとても難しい曲だと常々思う。しかし、ヴァイオリン・ソナタ イ長調 K.305は、レイ・チェンの音楽性と個性との相性がよいはずだと私は確信している。しかし、昨年の記憶がよみがえってきたのだが、真摯にこの曲に取組むあまり、本来の伸びやかさとエレガンスさが少しものたりない。贅沢でわがままな注文かもしれないが、プロとしての経験を積んで純粋に演奏することを楽しんでいる彼らしい音を待ちたい。

さて、次のプロコフィエフのソナタは、息をつくまもない技巧的な熱演を要する難曲である。民族風でありながら、機械的なリズムが重奏となって続く。鉄のようなリリシズムの中に、美しさも求められる。この曲は、彼にとって今度の勝負パンツ(失礼!)ならぬ勝負曲ではないだろうか。卓抜したテクニックと渾身の演奏に会場もおおいにわいた。

後半のバッハになると、レイ・チェンの魅力がさらに輝きはじめた。バッハの精神性の高さを追求しつつ、エンターティメントらしさも盛りこんだ音楽にあかるくなり心から楽しめる。そして、色気とチャーミングがまぶされたお得意のサラ・サーテのハバネラ。更に、情緒たっぷりに弾いたかと思うと、後半はとんでもないハイテンポにも関わらず、破綻なく躍動感に満ちた疾走するツィゴイネルワイゼン。ピアニストのジュリアン・カンタンの演奏もさえまくっていた。

毎年毎年、鮮度のよいヴァイオリストが誕生して泡のごとくいつのまにか消えていく。音楽の世界でソリストとして第一線で活躍するのはあまりにも厳しい。1989年生まれのレイ・チェンは8歳の時すでにクイーンズランド・フィルハーモニー管弦楽団と共演、翌年長野オリンピックの開幕祝賀コンサートにも参加している。2008年メニューイン・ヴァイオリン・コンクールで優勝し、翌年はエリザベート王妃国際コンクールにて、最年少出場者で優勝した。こんな薔薇色の素晴らしい音楽暦も、彼の将来を約束しているとまではいえないのがこの業界だ。しかし、彼は何かをもっているヴァイオリニストだ。その何かが、いつしか熟して比類のない音楽に育つことを私は楽しみに待ちたい。だから、浮気はしてもずっと見守って演奏会に足を運んでくれる息の長いファンをつかむためには、アルマーニで武装した鍛えられた精悍な肉体と甘いマクスを売りにしないで欲しいとちょっと願っている。アーモンド形のきりっとしたきれいな目をしているけれど、何よりも”素敵な音楽”をもって生まれたからにはね。

余談だが、最初のモーツァルトの第一楽章が終わった時に、拍手がわいたのはちょっと気の毒だった。( 私がよく聴く往年のオイストラフのチャイコフスキー協奏曲のCDで、感動のあまりやはり第一楽章で待ちきれなかった観客の拍手の録音が入っているのとは事情が違うであろうから。)それから、舞台を去る時に、通常新人でも主役が先に歩くところを、カンタンに道を譲っていたのは、演奏とは全く関係ないが感じのよい印象が残った。

--------------------------  2013年11月5日 浜離宮ホール --------------------------------
[出演]
レイ・チェン(Vn)、ジュリアン・カンタン(Pf)
・モーツァルト:ヴァイオリン・ソナタ イ長調 K.305
・プロコフィエフ:ヴァイオリン・ソナタ 第2番 ニ長調 作品94bis
・J.S.バッハ:無伴奏ヴァイオリン・パルティータ 第3番ホ長調 BWV1006
・サラサーテ:ハバネラ 作品21-2、プレイラ 作品23-5、ツィゴイネルワイゼン 作品20

■アンコール
・グルック:メロディ(クライスラー編)
・ジョン・ウィリアムス:シンドラーのリスト

アンコールを弾く時に、「私の演奏は、私のお・も・て・な・し」と日本語で話して会場に笑いが広がった。彼の声はよくとおる。

■昨年の演奏会もアンコール!
・レイ・チェン 未来のマエストロシリーズ