千の天使がバスケットボールする

クラシック音楽、映画、本、たわいないこと、そしてGackt・・・日々感じることの事件?と記録  TB&コメントにも☆

「アルト=ハイデルベルク」マイヤー=フェルスター著

2010-05-30 23:58:38 | Book
南ドイツにあるハイデルベルクは、詩人ゲーテも魅せられた美しい大学都市。
1870年頃、ライプチッヒもしくはドレスデン近郊の架空の小公国、ザクセンーカールスブルグ公国の皇太子、カール・ハインリヒは優秀な成績で、名門ハイデルベルク大学の入学試験にめでたく合格。幼い頃に両親を亡くし、厳格な大公である叔父に育てられた彼にとっては、一年間の古城の街での留学は、城の外にでる初めての、そして恐らく最後のチャンスだった。心躍る皇太子を待っているのは、下宿することになるネッカー川のほとりにある旅亭リューダー館を営む主人とリューダー夫人、そして彼らの姪にあたるウィーンからきていた愛らしいケーティだった。

皇太子を歓迎するために新しい白いドレスを着たケーティは、花束を胸に頬を薔薇色にそめて歌を詠む。

 皇太子さま 遠いお国よりはるばると
 わがうるわしのネッカーのほとりまで
 お越しになられた御身春らんまんの
 いとも麗しき花束をお捧げいたします
 さあ心楽しくわが家へお入りください
 またいつの日かお帰りになられるとき
 いついつまでもお忘れになられぬよう
 このハイデルベルクに学ばれし幸せを

下宿やの娘のケーティは学生団のアイドル的存在だった。学生たちが青春を謳歌する中、ハインリヒ皇太子とケーティが、身分の違いをこえて恋の蕾をはぐくむのは、ここ学生の街では自然な流れだった。冷たい牢獄のような故国での暮らしからときはなれて、ハインリヒはよき友と美しい恋人に恵まれて、生まれて初めて人生を生きていた。しかし、大公の急な病という思いがけない事態で別離がやってきたのだったが。。。

こどもの頃、近所の床屋さんに行くと、森の中の白いお城のポスターと赤茶色のレンガで出来た橋と古城を映した美しいポスターがご丁寧にも額縁に入れられて並んで飾られていた。もうはるか昔の記憶だ。外国は、本の童話のなかにある世界だった。成人して、ルキノ・ヴィスコンティの映画『ルートヴィッヒ』を観てあのおとぎの世界のような白いお城がノイシュバンシュタイン城だと知った。ちょうどドイツに旅行に行った友人からもそのお城の話を聞いたが、まだドイツは憧れの遠い国だった。それから歳月がたち、働きはじめた職場の壁に貼ってあった外資系企業の高級なカレンダーで懐かしい橋と古城と再会した。ハイデルベルク。そうか、あれは有名な大学都市のハイデルベルクだったんだ。カレンダーのハイデルベルクの写真が気に入ってよく見ていた私におじいちゃん部長が教えてくれたのが、「アルト=ハイデルベルク」の名前だった。「ハイデルベルクはいい、アルト=ハイデルベルク」と年甲斐もなく?ひとりロマンの世界に入り込む部長の姿を見て、気になっていたのがこの小説。今回、私は戯曲の方をアマゾンのネットで購入。神田の古書店まわりを覚悟していたのだが、アマゾンに掲載されていた京都にある本屋さんに注文して無事に届く。本屋さんをのぞいてほりだしものを探すわくわく感はないが、やはりネットでの買物はありがたい。

1901年にベルリンで初演され、1913年には日本でも上演された「アルト=ハイデルベルク」だが、ドイツでは作者の名前とともにすっかり忘れ去られ、日本でも舞台にかかることもなければ皇太子と下宿やの娘の悲恋も「アルト=ハイデルベルク」の名前とともに消えつつある。しかし、おじいちゃん部長のようなある世代までは、”アルト=ハイデルベルク”というキーワードは、舞台が風向明媚な古都、社会的な制約もなく身分の差もなく自由な時間を謳歌する学生という身分、酒と友情と恋の日々の物語から、失った青春への郷愁をかきたてるもののようだ。本書を読んで笑ったのが、中世以来の伝統をもつ学生団の登場だ。学帽、服、肩からかけるななめのリボンの色や形が異なるそれぞれの学生団は、定期的に会合やコンパを開く。”狐”と呼ばれる新入生は、一年間は先輩に服従、コンパでは大ジョッキのビールの一気呑み!、学生歌を斉唱して盛り上がるそうだ。酒の上での口論の果ての森の中の決闘はともかく、その生態は自分たちの学生時代そのまんまである。確かに、画家の東山魁夷氏がハイデルベルクの学生酒場でビールのジョッキを挙げながら、見せかけの青春劇でも涙を流さずにはいられないと言ったように、日本人の琴線にふれる青春ものである。物語の展開は単純ながら、あかるいユーモラスさと後半の悲しい別離の情緒のコントラストがはっきりしていて、時代の変遷にたえうる力があると思う。むしろ単純なことが、はるか先の遠い東洋の女性の心もうつ力になった。それは映画『ローマの休日』を好む趣味にもつながる。孤独な高貴な者のつかのまの自由と平民とのふれあい、ほのかな恋とあまりにも短い青春、そして避けられない別離。男女の違いや時代の隔たりはあれど、名作『ローマの休日』は「アルト=ハイデルベルク」そのものだ。

二年の歳月が流れて再びハイデルベルクを訪問し、彼を待っていたケ-ティと再会した皇太子は、青春がすっかり過去のものとなったことを知り、「ぼくがハイデルベルクを憧れる気持ちは、きみを憧れる気持ちだった。」といとしい恋人に永遠の別れを告げる。

ところで、学生団の風習は、ナチ時代に全面的に禁止されたそうだ。作家のヴィルヘルム・マイヤー=フェルスターが生まれた1862年は、ビスマルクがプロイセンの首相に就任。1871年には、ドイツ帝国が成立、88年にヴィルヘルム二世が皇帝に就任して、本書が出版された1901年は国力もつき、世界的な強国へと歩み始めた時代だった。当時のドイツでは、国家の隆盛を反映した軍人劇が多かったそうだが、平凡な観客相手に過去の通俗劇で笑わせ泣かせた作家の心情を忖度する。作者が1934年にベルリンで亡くなった時、時代はナチス政権への大きく舵をとった。その後のドイツの歴史を考えるながら、劇中にあるこの詩を読むと「アルト=ハイデルベルク」に感傷するおじいちゃん部長の気持ちもわかる。

 アルト=ハイデルベルク
 栄光あるわが麗しの町よ
 ネッカーのほとり
 ラインのほとりに
 くらべるものとてなし
 心楽しき仲間の集う町
 知恵にあふれ
 美酒にあふる

      ヨーゼフ・フィクトール・フォン・シェッフェルの詩「アルト・ハイデルベルク、麗しの街」より

「経営はロマンだ!」小倉昌男著

2010-05-29 23:48:04 | Book
クロネコヤマトの宅急便で荷物が届いた。勤務先でも他社に送付する重要な書類は、実は宅急便を使っている。いつの頃か、郵便よりも速くて確実なのが宅急便というイメージがしみついている。これはいわば、”民”が”官”をこえているサービスの所以だろう。その宅急便事業の産みの親にして、私が尊敬する経営者の小倉昌男氏が亡くなってもうすぐ5年になろうとしている。小倉昌男、クロネコの親の生き方の経営理念、「官僚と闘う男」なる異名までとった硬骨の信念、そしてこれまでの人生を知ったのは、平成14年1月1日から日本経済新聞で連載された「私の履歴書」からだった。
当時の過去ブログ「クロネコが届けた正しい反骨精神」をふりかえり、考えるところもあり、連載された「私の履歴書」を一冊にまとめて上梓された「経営はロマンだ!」をあらためて読んでみた。

小倉さんの業績はあまりにも有名なので省略するが、新聞の連載よりも内容が盛り込まれている本書によって、とりこぼししていた人となりに気がつくこともあり。すじの曲がったことが大嫌いな反骨精神旺盛な小倉氏に”ロマン”なるスィーツな単語はいったいどこからわいてきたのかと思っていたら、青年、小倉には生涯ただ一度の夫人にも伝えていない大恋愛があったのだった。終戦後、復員して東京大学に復学し、テニス部の復興に奔走するも部員の生活費稼ぎの目的のため、なんとサッカリンを密造する工場をたちあげて取り仕切るようになる。危ない橋を渡りつつも工場は順調にまわるようになると、知人の紹介で雇った才媛で美しい女性と恋におちてしまった。やがて父親の会社、大和運輸に就職する頃になると、真剣に結婚を考えるようになるが、社長でもある父からは嫁を勝手に連れてくるのはもっての他、反対されてまるで相手にされない。とうとう駆け落ちを計画するようになり、その相談で冬の日比谷公園でデートを重ねるうちに風邪をひき、重症の肺結核と診断された。当時の結核は死の病である。

ところで長男として育った小倉さんには、こどもの時に玉川上水に落ちて死亡した兄と3歳の時に脳膜炎で亡くなった弟がいる。小倉さんに対する父親の期待は厳しさとなり、不治の病にふせっても恋人との面接も禁止された。会えなくてもせっせと通う恋人に同情した院長のはからいでこっそり5分だけ面会した彼女から渡された聖書、そしてまもなく訪れた別離。その日の真夜中、涙がとまらない小倉さんの心に突然、光がさしこんだような気持ちがして、自分が神様から生かされているようなおだやかな感情に包まれるという経験をする。その後、医師となった同級生の勧めで転院をして、5年という貴重な青春時代を奪った病だが、奇跡的に回復して復職を果たす。大恋愛をする情熱的な素質が、経営という土壌では、権力を笠に民衆のことを考えない官僚と戦い、理不尽な要求をしていてくる創業以来の取引先の三越百貨店との取引停止宣言、「ライオンがネコにかみつかれた」と言われた三越事件へと発揮されていったのだ。まっすぐな情熱とロマン体質が、経営者としてもそのまま熱い気骨となって魅了される手腕を発揮していく。

また小倉さんも認めている業界体質の泥臭さで思い出したのが、NHKアーカイブで観た25年前に放映された『ああ宅配便戦争』だった。当時の大学生の定番だったトレーナーを着こんで新規開拓に飛び出していくダックスフンド社の新入社員の姿は覚えている。胸にはトレードマークのダックスフンドがのんびりとしているが、なんの手ごたえのないまま帰社する彼らを待っているのは、吠える以外に能力のなさそうな番犬のような先輩たちである。工場ばかりのエリアをあてがわれて取次店をただ獲得してこいっ、と言って根性論をもちだしても、それは非効率的だしそもそも無理な話ではないだろうか。一律に人的資源を投入するのは間違えていると思われる。今だったら、「選択と集中」になるだろう。新人君、先輩、管理職、マネジメントする経営者に、なんのセオリーもない。その点、小倉氏は何度も”理論”を反芻している。理論的であれば、成功への道がみえてくるという経験則、それは反面、理論的でないこと、つまり理にかなっていない事を嫌う発言と行動につながっていく。
なんてことない、かくれ情熱的であることと理論を重要視する点では自分に似ているという親近感があったからこそ、小倉さんを好きだったことに気がついた。しかし、小倉さんが凡百な経営者と決定的に違うのは、理にかなっていない愚かなことをもちだすお上と戦う勇気があったことだ。

常識的に考えれば、お上にたてつくことは会社にとってマイナスと考えてしまうところだが、消費者のためというゆるぎない信念を支えに、理不尽なお達しに納得がいかない理論家の勝利は、やがて福祉の分野にも及ぶところが、この方が並みの経営者ではないところだ。小倉さんの座右の銘は「真心と思いやり」。私財を投じたヤマト福祉財団が98年にオープンした「スワンベーカリー」だが、本書では2002年の7号店のオープンでおわっている。その後、2010年の現在、調べたらなんと27店舗にまでひろがっている。本書の最後は、
「私はヤマト運輸の経営者として宅急便という結果を出し、引退した。しかし、福祉の分野ではまだ駆け出し。結果を出すのはこれからだ」
と結ばれている。この時、小倉昌男氏は83歳。従来の障碍者を保護する福祉の概念をうちこわし、彼が種を蒔いた障碍のある方の自立をたすけ、ともに働く喜びは亡くなった後も着実に育っている。ああ、確かに経営はロマンだ!

■アーカイヴ
「スワンベーカリーでひととき」
「クロネコが届けた正しい反骨精神」
「ああ宅配便戦争」

ウィーン交響楽団

2010-05-25 23:07:15 | Classic
まだ冬のことだった。友人がはりきって「5月公演のウィーン・フィルのチケットを買った」「C席で12000円」と電話をしてきた。
・・・5月にウィーン・フィル?毎年、ウィーン・フィルは秋に来日してきたのに。しかもC席で12000円とは、ウィーン・フィルにしてはファスト・ファッション並みのチケット価格?と、友人には悪いが、その話にはとびつかなかったのだが、ほらほら、やっぱり「ウィーン交響楽団」じゃん!(とは言っても、ウィーン・フィルが歌劇場の管弦楽団である成り立ちを考えると、1900年創立の同オケはオーケストラとしてはウィーン第一の楽団になる。)
そして、当初私は関心を示さなかったのだが、友人のご家族が急に海外出張が決まったためおつきあいをすることになった。

プログラムはブラームスの第2番&1番。渋い・・・。五嶋龍君がソリストとしてコンチェルトを演奏される別の日程は早々に完売されたそうで、あいかわらず龍君の人気の高さがうかがわれるが、今日のコンサートもフィラデルフィア管弦楽団ほどではないが、高額なよい席ほど空席率が高いものの、まずまずの入り。”ウィーン”という名前の威光は音楽シーンでは確かにいきている。私のC席は、二階席の後方ほぼ中央。音響の優れたサントリーホールだったら、高いチケット代を払ってS席の隅よりも音のバランスもよいC席の方が私は好きである。

指揮者のファビオ・ルイジは59年生まれでイタリア出身。パリ音楽院でピアノを学び、その後、指揮を学ぶためにグラーツに渡り、グラーツ歌劇場で指揮者としてのキャリアをスタートさせる。ベルリン、ミュンヘン、ウィーンの国立歌劇場で次々とデビューを飾り、まさに指揮者としての王道を歩んできた。彼の指揮ぶりは、順調なキャリアを彷彿させるような端整な振りだが、前半では率直に言っていまひとつ求心力に欠けるようなものたりなさも感じる。ブラームスらしい豊かさと陰影がなく、立体感に乏しい軽めの音楽に、これだったら海外のブランドものでなくても手ごろなお値段の国内産で充分、などと不遜なことをちらっと思ってしまった。後半あたりからだんだんと音楽の彫像の彫りが深くなるが、最後までこれは私のブラームスではないと違和感をぬぐえなかった。第一番の完成まで20年もかかったんだぞ、、、、とついつい余計なことを考えてしまう。しかし、ヴィブラートをたっぷりと入れるコンサートマスターの美音は、遠いC席でもはっきり聞きわけられた。コンサートマスターのアントン・ソロコフ氏には、オーストリア・ナショナル・バンクよりガルネリ(1731年製「エクス・ソルキン」が貸与されているそうだ。

アンコールでの大判振る舞いの3曲の演奏こそ、ウィーン交響楽団の本領が発揮された。やっぱり、ウィーンはウィーンだ。

-----------------------5月25日(火) 19:00 サントリーホール ---------------------
ウィーン交響楽団
指揮:ファビオ・ルイジ

ブラームス:交響曲第2番
Brahms: Symphony No.2

ブラームス:交響曲第1番
Brahms: Symphony No.1

.シュトラウスⅡ :ピッツィカート・ポルカ

J.シュトラウスⅡ:ポルカ・シュネル『雷鳴と稲妻』 op.324

J.シュトラウスⅡ :ワルツ『ウィーン気質』 op.354

Googleの中国撤退

2010-05-24 23:50:47 | Nonsense
2009年12月25日、北京市第一中級人民法院(地裁)は、反体制作家・劉 暁波氏に国家政権転覆扇動罪で懲役11年の判決を言い渡した。
その主な罪状は、08年12月9日にインターネット上に発表された「08憲章」を中心になって起草したことによる。この08憲章とは、共産党の独裁体制を批判して、民主主義への移行、言論の自由や人権擁護などを訴える内容で、知識人や作家、大学教授ら303人が署名して、発表後の4日間で約7000人もの人々が署名していたにも関わらず、その後、あらゆる削除から徹底的に削除された。

08憲章は、本来、世界人権デーの12月10日に発表する予定だったのが、一日繰り上がったのも劉 暁波氏の公安局による身柄逮捕にある。劉氏は発表後に身柄を拘束されるのは覚悟していたそうだが、細心の注意をはらい極秘にすすめていたXデーの前日に連行されたことには、別の衝撃がある。今回署名した多くの人々が利用していたのが、ユーザーの秘密保護で評価の高いGメールだった。Gメールから08憲章計画がもれたという証拠はないが、Gメールを利用する知識人や民主活動家へのハッカー攻撃が頻発していたこと、そして劉 暁波氏への重すぎる判決にGoogleが中国から撤退した理由がありそうだ。

中国政府は、ネットの普及を奨励しながら、監視システムの整備も怠らなかった。”有害情報”を阻止する金盾プロジェクトには、ハード・ソフトの両面からチェックを行い、その運用人数も5~10万人にも及ぶというからそら恐ろしい。その成果は、天安門事件、民主化、人権運動の単語や人名が検閲で網羅され、体制や指導者への批判は禁句。ユーチューブもアクセス不能というありさまだ。その一方で、ネット世論のプロバガンダも推進している。ネット情報員とネット評論員を全国に設置して、党の指導のもと、党の意向をくんだ書き込みをする報酬が、1本あたり5角(7円)。そのおかげで言論の自由を推進していたはずのGoogleが、いつのまにか「米国の価値観の宣伝道具」になってしまった。

ことは、一外国企業の問題なのか、米中のサイバー覇権にまで及ぶのか。中国側はGoogleに中国でやりたいのは、ビジネスか政治かと問いただし、ビジネスだと答えるとそれなら他の外国企業と同じように中国の国内法に従うよう交渉したそうだ。その結果の中国市場からの撤退とあいなった。そこには、「核のない世界をめざす」オバマ政権の中国との協調路線の思惑から米政府のバックボーンがえられないとの観測もある。ネットを制するものは、世界を制するのか。
ただ私は、イーユン・リー著の「さすらう者たち」で娘が処刑される朝、「何かを書いたからって、あの子が死ななきゃならないなんて」と声を押し殺しながら泣く母の心情を思う。

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(ニュースサイトより)
米国と中国は13日、2年ぶりとなる人権対話をワシントンで再開した。2日間にわたって、宗教や表現の自由などの諸課題を非公開で話し合う予定。中国当局による検閲などを理由に米インターネット検索大手グーグルが中国本土から撤退した問題なども議題になるとみられる。
人権対話は昨年11月の米中首脳会談で今年2月までの再開が合意されていた。しかし、米国による台湾への武器売却決定に加え、オバマ大統領が2月にチベット仏教最高指導者、ダライ・ラマ14世と会談したことに中国側が反発、実施が先延ばしとなっていた。
13日の対話には米国からポズナー国務次官補(民主主義・人権・労働担当)、中国からは陳旭外務省国際局長が出席している。クローリー米国務次官補(広報担当)は声明で、「率直かつ突っ込んだ議論を期待している」と米中関係の進展に期待感を表明した。
2日間の対話で米国は、チベット問題や中国政府による人権派弁護士など民主活動家の弾圧にも言及するもようだ。

「さすらう者たち」イーユン・リー著

2010-05-23 14:53:47 | Book
1971年3月21日、その日は夜明け前にはじまった。春分の日だった。鳥や虫や木や川は大気の変化を感じ取り、季節の移り変わりを示す役割を果たしてくれるのだが、老夫婦にとってはこの日には何も意味がない。ひとり娘が処刑される日、悔悛しない反革命分子という勝手な罪状で無実の罪をきせられて、死刑の日をきままに決められたように。

68年、湖南省に住む元紅衛兵の19歳の少女が、文化大革命を批判する手紙をボーイフレンドに送ったところ、彼は要職のポストと引き換えに彼女を密告した。この世でもっとも危険な生き物は人間なのだ。その後、逮捕された少女は10年収監されて最後には処刑されるという事件があった。その処刑の模様や、その後の市民達の行動こそがストーリーなのでここであかすことはできないが、「さすらう者たち」で重要な役割を演じる顧(グー)夫婦の処刑される娘の珊(シャン)たちは、著者がインターネットでこの実際に起こった事件をモデルにしてあくまでもリーの創作した物語となっている。リー自身はこの小説を、「歴史や政治の記録として読まないでほしい。登場人物たちは、私たちと同じようにささやかな幸せや富や愛を得たいと望みながら、日々の暮らしを続けている。そんな人々を時代の犠牲者にしたくない」と語っているそうだ。彼女のこの願いには考えさせられる。もし、彼、彼女たちを”時代の犠牲者”と読んでしまったら、本書は文学たる力もなく、そもそも文学の必要性もないだろう。衝撃的な事実を、過去の歴史を個々人で反芻して養えばよいのだ。5年前、短編集「千年の祈り」で数々の名誉ある新人賞を受賞した著者初の長編作品は、雪解けの春の日のひとつの処刑をきっかけに、無数にある小さな石ころのひとかけらのような街の人々の人生がつながりあい、事件から逃れようもなくまきこまれていく姿を、時にはそこはかとないユーモラスさえただわせて何年も読み継がれるであろう完成度の高い作品となっている。全く、期待以上の彼女の仕事ぶりに驚かされる。30代半ばの女性の作品とは思えないくらい感情を抑えて静謐な雰囲気が彼女の作品の特徴であり、原作の英文はシンプルだがエレガントだとも批評されている。中国在住の中国人作家・余華が意図的に粗野な作風で問題小説の「兄弟」を書いたことを考えると、同じ中国人作家でも対照的なふたりなのだが、その原点は案外近いのではと私には感じられる。ふたりとも語り口は大きく異なれど、扱う内容にはこの国の事情だけではなく人間に対する大胆で鋭いきわどさがありながらも、人間へのいとおしさがベースにある。

さて、ヒロインを珊の元同級生で政府幹部の息子と結婚した美しい凱(カイ)にしたら、悲劇性が強まる恋愛に比重がおかれ、あるいは、娘を処刑される顧夫婦を中心にすると時代性をおびた人情ものに傾くのだが、登場人物と一定の距離をおいた作家の位置や、大学院時代には免疫学の研究者を目標にしていた冷静さが作品のスケールの大きさに貢献している。そして作家と彼らの絶妙なバランスを維持する存在として賢く素直な小学生の童(トン)の役回りがいきてくる。密告。互いを監視しあい、たとえ愛する家族を守る目的であれ、罪のない隣人を踏み台に生き残りをさぐる密告社会が悲劇をくりかえすのは、現代でも続いている。
「今日は肉屋でいても、明日はおまえがまな板の肉になる。他人の喉を切り裂いたナイフは、いつか自分の喉を切るんだ」
まだ幼い童が、顧師のこの言葉を受け止めるにはあまりにも重くつらい。

おりしもGoogleの中国撤退ニュースの報道があったが、リー自身は、母国の中国では創作活動もできないし、中国語では心にバイヤスがかかって創作活動ができないと白状している。訳者によると、幼い頃には作品中のハイライトとともなる批闘大会にも出席したこともある彼女だが、舞台となった渾江という地方都市は夫のまだ彼女自身は一度も訪問したことのない地方都市をモデルにしているそうだ。出版されるやたちまち評判をよび、20の言語での翻訳出版が決まったが中国では出版されるのだろうか。もし彼らが本書を手にとることができたら、顧師の次の怒りをどのように受けとめるのだろうか。

「繰り人形が芝居に奉仕するように、殉難者は大儀に奉仕する。この国ではもう誰も歴史を見なくなったがね、歴史を振り返れば常に殉難者は、大規模に人々をだます目的に奉仕してきた。宗教であろうとイデオロギーであろうと」

■アーカイヴ
短編集「千年の祈り」

ノーベル賞よりも億万長者(ビリオネラ)

2010-05-20 22:31:57 | Nonsense
You can not get wealthy by salary.

今や売れっ子の分子生物学者の福岡伸一氏が、90年代初めにハーバード大学で研究員をしていた時に、ボスのジョージ・シーリー博士からこう言われたそうだ。福岡氏のサイエンス・エッセイ「動的平衡」のプロローグはこのようにはじまる。エピローグのジョージ・シーリー博士のわずか10ページの物語は、私の心に落葉樹を渡るようなしめやかな風をもたらした。

ハーバード大学と言ったら世界で最も有名な大学であり、毎年大学ランキング1位に輝く大学である。シーリー博士の師匠は、ロックフェラー大学で細胞内タンパク質が規則正しく移動する経路とメカニズムを明らかにした研究成果により、74年ノーベル医学・生理学賞を受賞。また兄弟子にあたるギュンター・ブローベルは、その研究をさらに発展させてタンパク質が細胞から外部へ分泌される機構について研究を進めて、分泌されるタンパク質にはシグナル配列という特殊な構造をもっていて、それが荷札として識別されて細胞内にとどまるタンパク質と外に分泌されるタンパク質を仕分ける研究で99年にノーベル賞受賞。ふたりのノーベル賞受賞に寄与したシーリー博士の業績は、人がうらやむくらいに優れていた。事実、研究者の競争に勝ち抜いてハーバードで自分の研究室をもつようになった。

ところが米国の場合、大学と研究者の関係は貸しビルとテナント店舗の関係である。研究者は、米国の厚生省にあたるNIHに研究費を申請したりして、研究予算をぶんどってくるしかない。その中からポスドクまで含めて給与を支払い、ショバ代を大学に納めることになる。ハーバードのような超一等地の貸しビルは激戦地区。福岡氏がいたほんの数年でさえ研究者の転出、転入が繰り返されたそうだ。終わりなき研究費獲得競争に疲弊したシーリー博士は、93年、ハーバード大学医学部のポストを辞して、なんとベンチャー企業をたちあげた。当時、福岡氏とともに研究していた遺伝子データを基本特許に薬品開発につなげる化合物をほりあてるのが、起業の目標だった。とは言っても、本音は営利目的の企業の収益は、本来の研究のための基礎研究の受け皿として必要だったからだ。しかも博士によると、これまで免許とりたての博士は、ポスドクという修行時代を経て、大学に職を求めていたが、最近のポスドクは大学の二倍の報酬にひかれて、またストックオプションをえるためにもベンチャー企業に流れているそうだ。
彼らのスローガンは
「ノーベル賞よりも億万長者」

2000年6月、福岡氏は米国中の知性と富が集まる米国西海岸の小さな町ラ・ホイア(スペイン語で「宝石」を意味する)にあるシーリー氏のベンチャー企業を訪問してインタビューをした。ソーク生物研究所など超一流の研究教育機関が集まるラ・ホイア。青い空、太陽、潮風。そこはまた新しい技術を生み出すセンター・オブ・エクセレンスとしても機能する町だった。福岡氏も共同研究に携わり特許もとったフレックスという技術をつかって完全長遺伝子のコレクションを組織ごとにはじめて遺伝子の在庫を約500万個を保管しているアルファ・ジーン社は、順調そうにみえる。もし会社が上場されたら博士はどれくらいお金持ちになるのか、という質問に秘密だが9桁を期待しているとうちあけた。

世界初のバイオ企業ジェネンテック社が設立されたのは今から30年ほど前。同社の株が公開されるやいなや、研究者たちは一夜にして億万長者となった。福岡氏も共同開発者のひとりとしてアルファ・ジーン社の初期株式25万株ほど分けていただいていたそうだ。しかし、星の数ほど勃興したバイオ関連企業で実際に成功したのは数万社のうちほんの5社にも満たない。しばらく健闘していた同社も、ほどなく投資家からの支援が途絶えて流れ星となって燃え尽きていった。勿論、福岡氏の株式もただの紙くずとなった。生命現象を扱う研究が、そもそも商売として成り立つのか。基礎研究のための熾烈な研究費獲得の戦いに何の意味があるのか。

インタビューしたその日、福岡氏はシーリー博士のオフィスの棚に人目にふれないようヴァリアムの小瓶がおかれていることに気がついた。ヴァリアムは精神安定剤である。
現在、全く別の人生を歩くシーリー博士が、アルファ・ジ-ン社の興亡を語るまでには傷が癒されていないそうだ。

『デンジャラスな妻たち』

2010-05-18 23:22:57 | Movie
邦題は『デンジャラスな妻たち』って・・・、私のことではない。
主演は大女優のダイアン・キートン。結婚以来、専業主婦としてずーーっと安泰な椅子に座ってきたブリジット(ダイアン・キートン)。掃除の行き届いた瀟洒な邸宅に住み、趣味のよいインテリアに囲まれて良妻賢母として家族を支えてきた彼女は、苦労とは無縁な奥様。ところが大変!高給”鳥”の夫がリストラにあって一気に失速。邸宅も手離すはめになるかもしれない危機を迎えた。ところが、文学部出身で長く専業主婦だった彼女には、キャリアも就職に有利なスキルもなく、ようやく見つけたのが連邦準備銀行の掃除婦のお仕事。いつもは洗練された服装なのに、地味なつなぎの作業着に映画『オーケストラ』の元指揮者と同じように雑巾やバケツ、モップを積んだワゴンをひきながらの清掃活動。紳士トイレだって、お仕事とあれば侵入。ところが、彼女は偶然に古い札束を廃棄処分するシングル・マザーのニナ(クィーン・ラティファ)と出会ったことから、不要なお札をちょっとばかり、あくまでもほんの少し失敬することを思いつく。そして、いつも踊っている風変わりなジャッキー(ケイティ・ホームズ)も仲間にひきいれてなんと廃棄する札束を横領する計画を実行するのだったが。。。

本作は、実際にロンドンでおこった事件をテレビ映画化された作品をハリウッドでリメイクした映画である。女三人寄れば姦しいだけか、とんでもない。文殊の知恵どころか、男たちもかなわぬくらいの策士になり、またある時は大胆不敵な行動家になる。そしてお決まりの女の友情も花を添える。ダイアン・キートンは、あいかわらず均整のとれたスタイルがよく素敵な初老に近い中年の女性を演じている。私は『ミスターグッドバーを探して』という映画を初めて観たときに、ダイアン・キートン演じる女性教師の深い孤独に胸をうたれたのだが、彼女の本来のキャラクターはあかるさと聡明さにあると思う。その点で、掃除婦の仕事がおわって作業着を脱いで一歩職場を退社したら中産階級の妻にふさわしいセンスのよい服装に着替えたブリジット役、そしてふたりの共犯者や夫たちもまきこんでいきながらみんなを束ねる役柄がよく似合っていると思われる。
しかし、その大女優をこえるくらいの体重と存在感を示したのが、ニナ役のクィーン・ラティファだった。胸も豊かな堂々たる体格の包容力!彼女の犯行の動機が賢い息子たちの教育費のためとは泣かせる。黙って立っているだけでいい味だしている女優だった。余談だが、ドラッグ常習犯で危ない雰囲気のジャッキー役を演じたケイティ・ホームズはトム・クルーズの恋人だとか。キャスティングは日本未公開映画にしては豪華。

ところで、彼女達が勤務する連邦準備銀行を統括するFRBに関する過去記事を復習すると(米国の不思議な聖域「FRB」)、FRBは米財務省に小切手をきって財務省短期証券(TB)を購入し、それを”準備”してドル札を発行する業務だけでなく、ドル=マネーの信頼を維持していくためにも、通貨共通量のコントロールという役割を担っている。彼女たちが廃棄処分予定の札束を横領したのは1億円相当と思われる。本来なら市場に出回るべきでなかった1億円が増加しても、日本国内の通貨量(紙幣と硬貨)が70兆円であることから、マネーのバランスが崩れるほどのものではない。感覚として国を相手どりボロ布をリサイクルするくらいの罪の意識で被害者がいないという点で気楽に鑑賞できる娯楽映画が成立した。ちなみに、国内で日本銀行が新札と交換して廃棄処分にする札束は年間3000トンにものぼるそうだ。2007年に某地方銀行では、34歳の女性行員(準職員)がパンツの中に100万円を着服した事件が発生した。同日に残高があわなくて問題が表面化して、男性調査員が男性行員の身体検査を行なったが女性の身体検査はなかったそうだ。ご本人が自供して、横領したお金を全額返金して告訴は免れたそうだが、今後は検査の見直しをするとのことだがどこまでやるかっ身体検査・・・が気になる。
本作でも、外部委託している警備会社がけっこうキーポイントとなっている。仕事を終えて退社する時に男性警備員がお金をもtだしちないかひとりひとりチェックするのだが、実際、冬だったら100万円パンツどころか、女性の場合、全身で1000万円ぐらい”着服”できそうな感じがする。

監督:カーリー・クーリ

『恋のエチュード』

2010-05-16 22:41:16 | Movie
内緒話をしている優雅で美しいふたりの女性は、英国人の姉妹である。
左の大きな瞳が印象的な女性が、あかるく活発で恋愛にも自由な思想をもち、ロダンを愛する彫刻家志望の姉のアン(キカ・マーカム)。妹のミリュエル(ステーシー・テンデター)は、ナイーヴな一途さで清教徒のような愛し方しかできない。姉妹は、母の旧友の一人息子のクロード(ジャン・ピエール・レオ)と出会い、そして愛した。(以下、内容にふれておりまする)

20世紀初頭、パリに遊びにきていた母の友人の娘、アンと出会ったクロードは、妹のミリュエルに会わせたいと誘われて、語学研修の目的で英国に渡り海辺の姉妹の家の客人になる。美しい姉妹と最初は兄のように親交を深めた彼は、年頃のふたりの娘に微妙な恋心を抱くようになり、やがてミリュエルに愛されていることを感じ始めたことから、彼女との結婚を決意する。姉妹の母であるブラウン夫人は喜ぶが、クロードを身ごもっている時に夫を亡くした母ロック夫人の方は、目を悪くしていたミリュエルの健康を案じ、また一人息子を奪われるおそれから結婚に反対をした。妥協案として、一年間離れて生活をしてもお互いの愛情が変わらなければ結婚してもよいことになった。
パリに帰国したクロードを待っていたのは、都会で再開した生活とさまざまな魅力に満ちた女たち。青年にとって、新しい情事が純愛を”不実”な恋へとかえるのにさして時間はかからなかった。彼からの別れの手紙を手にして気を失って倒れ、毎日深い哀しみに苦しむミリェエル。やがて3年の歳月が流れ、美術評論家として成功しつつあるクロードは、彫刻の勉強にパリにやってきたアンと再会する。これまで情事を繰り返してきた女性たちにない魅力を、アンに感じはじめるクロード。実は、アンもクロードを愛していたのだが、妹のためにあきらめたことを彼は知らない。お互いにひかれるふたりは、とうとうスイスの別荘で結ばれたのだったが。。。

映画『突然炎のごとく』の原作「ジュールとジム」を執筆したアンリ=ピエール・ロシェは、生涯に二冊の小説しか残さなかった。本作は、そのもうひとつの小説「二人の英国女性と大陸」の映画化である。映画の中では、クロードがふたりの女性を愛した経験を、女性におきかえて主人公にして初めて小説を執筆するのだが、そのタイトルが「ジェロームとジュリアン」である。ひとりの男性が姉妹を同時に愛する題材はそう珍しくもないが、クロードの背景からアンリ=ピエール・ロシェの自伝的小説とも言われている。
ふたりの愛する対象が親友だった『突然炎のごとく』、そして本作は姉妹が相手と二作のトリフォー作品が対極にある。邦題の「恋のエチュード」は、パリのアンの部屋で情事の後の朝、彼女がショパンのエチュードを弾く場面からきたのだろうか、確かに若かりし頃のクロードの二人の姉妹との恋愛の”経緯”の演奏がテーマだが、エチュードとよぶにはあまりにも本格的な旋律でビターであり、この邦題はいただけない。英国とパリ。何度も手紙の往復がいきかい、書き手の姉妹のどちらかのクローズアップの映像と手紙の文章を読むナレーションが登場する。姉妹の顔立ちの違いは、常に妹を気遣う姉、姉との情事を知らず理性と感情のはざまでゆれる妹と立場の相違に現れている。

そして重要なことは、未婚で処女の女性の初体験の儀式?にある。自由な恋愛観をもつ姉は、クロードとの初体験を通過して更に成熟した自信ある女へと変貌し、妹は長かった恋を葬るために彼に身を任せるのだった。信仰心が篤いミリュエルが実はこどもの頃から自慰行為にふけって罪悪感に苦しんでいたことや、シーツを染めたおびだたしい初夜の時の血が、生々しくも7年という長い歳月の彼女の痛みを象徴している点など、意外にも女性が初体験から真のおとなの女性へと成長していく物語にもなっている。但し、「anan」が提唱する現代のきれいになれるSEXとは別、たくさんの眠れぬ夜をかかえて迎えたおとなの夜である。しかし、すべてを理解し包み込むにはクロードは若すぎた。
クロードが英国滞在中に、姉妹とブラウン夫人と一緒に出かけた山登りの最中ににわか雨にあって岩陰で雨宿りをした時に、”レモンしぼり”と名づけたおしくらまんじゅうをしながら寒さをまぎわらす場面が思い出される。姉と妹のふたりの間ではさまれて、彼女たちの肉体を感じながらおしくらまんじゅうにとまどうクロードの表情。そのとまどいの表情のまま、いつしか時代は流れ、気がつけば孤独にたたずむひとりの中年の自分の顔をみる。若葉のような青春の瑞々しい香りが、今、自分の前から遠ざかっていこうとする。ロダン美術館でのエピローグに万感の思いがこみあげてくる。姉妹との三角関係を気品ある文芸調にしあげた時代の正装感ある衣装と音楽、そしてロダンの彫刻も貢献している。

監督: フランソワ・トリュフォー
原作:アンリ=ピエール・ロシェ
1971年フランス製作

■こんなアーカイヴも
『趣味の問題』

『映画は映画だ』

2010-05-15 11:46:21 | Movie
スタは高慢でプライドが高く演技にリアルさを追求する映画界のトップスター。そしてガンベは、俳優になることの夢を捨てきれない非情なヤクザ。そんなふたりが偶然に出会い映画で共演することになった。
「短い人生むだにするな」とヤクザを上から目線で忠告する人気俳優のスタ。
そして「演技とは苦労を知らない奴が人のマネをすること」と言い放つヤクザのガンベ。
ふたりの一言は、作品全体の通奏低音となり最後にはテーマ自体にも関わっていくようになる。

私はバイオレンスものは苦手である。どんなに評判がよく興味をひかれる監督の作品でも、映画館での鑑賞は無理、家のテレビ画面の小さな箱の中でDVDでの鑑賞すらためらうタイプ。おまけに主役のひとりは、最も嫌う業種?のヤクザ。にも関わらず、本作を手にとってのは、監督があの鬼才キム・ギドクだとすっかり間違えて思い込んでいたからだ。監督で選んだのが、この『映画は映画だ』である。

さて、鑑賞後の私の感想は一言で言って、すっかり作品の世界に入り込んでしまった。気になる場面は、巻き戻しして再生までしたのだから満足度は高かったのだろう。しかし、私としては監督狙いで観ているわけだから、ずっと映像の流れやカットの雰囲気がどう考えてもキム・ギドクとは思えないくらいよくも悪くも完成度が高いと感じていた。丁寧で暴力シーンが多いわりには、”上品”なしあがりで強烈な毒や泥臭さもない。それもそのはず、キム・グドク監督のもとで助監督を務めていたチャン・フンが、キム・ギドクの全く異なる世界で生きてきたふたりがお互いの世界を求めあうというアイデアを、一年かけて脚本にしあげて監督したのが本作だった。

華やかなスターらしくまぶしいような白いスーツを着こなすスタと、裏街道を歩く定番黒シャツにダーク・スーツのガンベ。感情がすぐに表情に表れてむきになる直情径行型のスタと、無表情で背景のわからない暗いガンベ。スタを演じた育ちのよさそうなお坊ちゃまっぽい顔立ちのカン・ジファンと、ぼさぼさの髪で髭をはやしたガンベ役のソ・ジソブはよく見れば鼻筋の通った100%美青年。本作の魅力は、このふたりを演じた俳優の容姿にもある。ふたりの美しい男が、かたや鍛え上げた肉体美を披露し、かたやスリムな長身をダークスーツで隠して、それぞれに魅力的だが異なる容姿が演じる役にいきていて、やっぱり暴力的なシーンを演じるには美しい男でなければいけない、というのが私の女子的結論。その一方で、日本のかっての『仁義なき戦い』のように”ヤクザ”や”暴力”が、映画芸術として成立しうる韓国社会というものも考えさせられる。「契約書」によくみられる文言の”反社会的勢力”というスマートな言い換えにはたどりつかない遅れた国に、失われつつある素朴な人間くささを郷愁のように感じるのもありだろうか。

そして、全く正反対な社会でありながら、どちらもある種リアルな現実社会とは離れた虚構の世界で生きているための孤独は共通している。女性の愛し方も知らないふたり。うき沈みが激しい芸能界もヤクザな世界と言われることもある。それが「映画は映画だ」というタイトルが、生きたかった別の人生をついに歩くことがかなわず所詮「ヤクザはヤクザだ」になる衝撃的なラストシーンにつながっていく。壮絶な泥にまみれてふたりが同化したかのような戦いの場面と、ガンベが「これから映画を撮りに行く」と伝えた悲しいラストシーン。緊張をはらみながら予想をこえる最後の場面は、作品の質を一気に高めて韓国映画の傑作コレクションに加わる。ここでのふたりの表情がとても素晴らしく、韓国人俳優の演技力の底力をみせつけけられるようだ。

鑑賞後、「映画は映画だ」というタイトルを何度も考えてみる。近頃つくづく思うのだが、現実社会で起こっている事実や事件は小説や映画をはるかにこえている。虚構の小説や映画は、現実にかなわない。小説は小説だし、映画は映画だ。それでも、大事なことは私たちはこれからも本を読み、映画を愛していくだろうということだ。

監督:チャン・フン

■キム・ギドク監督のアーカイブ
『うつせみ』
『サマリア』
『受取人不明』

「宇宙137億年の歴史」佐藤勝彦著

2010-05-11 22:52:20 | Book
私たちが生きているこの地球、そして地球の仲間である太陽系、更に銀河系・・・そして無窮とも思える宇宙は、137億年前に誕生した。
その宇宙の開闢の頃、宇宙は真空のエネルギーに満ちていて、このエネルギーの働き、つまり空間を押し広げる力(宇宙項)によって宇宙は想像を絶するような加速度的な急激な膨張を引き起こした。そして、この膨張が終わる頃、真空のエネルギーが熱のエネルギーへと解放されて、灼熱の火の玉宇宙、通称ビックバンが生まれた。この現象は、今日、インフレーション理論と呼ばれている。

ビックバン、インフレーション、と今では経済界ですっかりおなじみの言葉だが、アインシュタインが人生最大の不覚と嘆いた”宇宙項”に、宇宙創生の鍵があることを明らかにしたのが、著者である宇宙物理学者の佐藤勝彦氏の業績である。このインフレーション(宇宙)理論によって、従来のビックバンモデルでは説明できなかったモノポール問題や物質・反物質対象な宇宙モデルが作れることも示し、飛躍的に宇宙への理解が深まったそうだ。その優れた業績により、世界の宇宙論をリードしてきた著者が、昨年3月に東京大学小柴記念ホールで行われた大学院生以上を対象に行った最終講義を、一般人向けにわかりやすくしたのが本書である。

「神が天地を創造したはじめに、地は荒涼、混沌としていて、闇が淵を覆い、暴風が水面を吹き荒れた」
よく知られているキリスト教の聖書にある『創世記』(天地創造)である。一方、日本の古事記では「天地初めてひらけし時、・・・海月(くらげ)なす漂へる時・・・」と書かれ、どの国でも宇宙創生の神話があり、どことなく科学的に真相をついている部分もあって古代人の慧眼に驚くものがあり、またいつの時代の人々も遠く神秘なる宇宙誕生の秘話に関心を残していたことに共感をもてる。人類の英知と知的好奇心が、御伽噺から科学的な解明へと発展していくのが、ニュートンからアインシュタインへの継承とわかりやすく紹介されている。1964年に京都大学に入学、林忠四郎研究室に所属して宇宙物理学の研究をはじめ、ノーベル賞を受賞した益川敏英氏との関わりや候補者と言われつつ惜しくも亡くなった戸塚洋二教授の”ニュートリノ検出前夜”の様子、ライバルのアラン・グースとの熾烈な競争など、研究最先端のホットな話から、重力波を扱う天文学誕生によって未来の宇宙がわかるのではないかという次の課題(楽しみ?)にまで話題に及ぶ。

佐藤勝彦氏の最終講義は、学生や関係者でホールは人が溢れていたそうだ。そして、会場に入れないで外のモニターを熱心に見上げる多くの人もいたとのこと。佐藤氏の研究業績とお人柄の魅力もあるのだろう。しかし、やはり宇宙への人々の見果てぬ夢や好奇心も大きいのだろう。鎌倉時代の歌人・藤原定家の「明月記」には、客星出現の例として超新星のことが書きしるされている。

「後冷泉院・天喜二年(1054年)四月中旬以後の丑の時、客星嘴(し)・参(しん)の度に出づ。東方に見(あら)わる。天関星にはいす。大きさ歳星の如し」

オリオン座の東、おうし座ζ星の近くに木星ぐらいの大きさの超新星の出現を意味し、現代では爆発して大量の物質をまき散らして雲のように広がりカニ星雲(SN1054」と呼ばれている。(本書のカバー写真が、そのカニ星雲である。)

■そういえばこんなアーカイヴも
「現代のガリレオ 情熱大陸より」