南ドイツにあるハイデルベルクは、詩人ゲーテも魅せられた美しい大学都市。
1870年頃、ライプチッヒもしくはドレスデン近郊の架空の小公国、ザクセンーカールスブルグ公国の皇太子、カール・ハインリヒは優秀な成績で、名門ハイデルベルク大学の入学試験にめでたく合格。幼い頃に両親を亡くし、厳格な大公である叔父に育てられた彼にとっては、一年間の古城の街での留学は、城の外にでる初めての、そして恐らく最後のチャンスだった。心躍る皇太子を待っているのは、下宿することになるネッカー川のほとりにある旅亭リューダー館を営む主人とリューダー夫人、そして彼らの姪にあたるウィーンからきていた愛らしいケーティだった。
皇太子を歓迎するために新しい白いドレスを着たケーティは、花束を胸に頬を薔薇色にそめて歌を詠む。
皇太子さま 遠いお国よりはるばると
わがうるわしのネッカーのほとりまで
お越しになられた御身春らんまんの
いとも麗しき花束をお捧げいたします
さあ心楽しくわが家へお入りください
またいつの日かお帰りになられるとき
いついつまでもお忘れになられぬよう
このハイデルベルクに学ばれし幸せを
下宿やの娘のケーティは学生団のアイドル的存在だった。学生たちが青春を謳歌する中、ハインリヒ皇太子とケーティが、身分の違いをこえて恋の蕾をはぐくむのは、ここ学生の街では自然な流れだった。冷たい牢獄のような故国での暮らしからときはなれて、ハインリヒはよき友と美しい恋人に恵まれて、生まれて初めて人生を生きていた。しかし、大公の急な病という思いがけない事態で別離がやってきたのだったが。。。
こどもの頃、近所の床屋さんに行くと、森の中の白いお城のポスターと赤茶色のレンガで出来た橋と古城を映した美しいポスターがご丁寧にも額縁に入れられて並んで飾られていた。もうはるか昔の記憶だ。外国は、本の童話のなかにある世界だった。成人して、ルキノ・ヴィスコンティの映画『ルートヴィッヒ』を観てあのおとぎの世界のような白いお城がノイシュバンシュタイン城だと知った。ちょうどドイツに旅行に行った友人からもそのお城の話を聞いたが、まだドイツは憧れの遠い国だった。それから歳月がたち、働きはじめた職場の壁に貼ってあった外資系企業の高級なカレンダーで懐かしい橋と古城と再会した。ハイデルベルク。そうか、あれは有名な大学都市のハイデルベルクだったんだ。カレンダーのハイデルベルクの写真が気に入ってよく見ていた私におじいちゃん部長が教えてくれたのが、「アルト=ハイデルベルク」の名前だった。「ハイデルベルクはいい、アルト=ハイデルベルク」と年甲斐もなく?ひとりロマンの世界に入り込む部長の姿を見て、気になっていたのがこの小説。今回、私は戯曲の方をアマゾンのネットで購入。神田の古書店まわりを覚悟していたのだが、アマゾンに掲載されていた京都にある本屋さんに注文して無事に届く。本屋さんをのぞいてほりだしものを探すわくわく感はないが、やはりネットでの買物はありがたい。
1901年にベルリンで初演され、1913年には日本でも上演された「アルト=ハイデルベルク」だが、ドイツでは作者の名前とともにすっかり忘れ去られ、日本でも舞台にかかることもなければ皇太子と下宿やの娘の悲恋も「アルト=ハイデルベルク」の名前とともに消えつつある。しかし、おじいちゃん部長のようなある世代までは、”アルト=ハイデルベルク”というキーワードは、舞台が風向明媚な古都、社会的な制約もなく身分の差もなく自由な時間を謳歌する学生という身分、酒と友情と恋の日々の物語から、失った青春への郷愁をかきたてるもののようだ。本書を読んで笑ったのが、中世以来の伝統をもつ学生団の登場だ。学帽、服、肩からかけるななめのリボンの色や形が異なるそれぞれの学生団は、定期的に会合やコンパを開く。”狐”と呼ばれる新入生は、一年間は先輩に服従、コンパでは大ジョッキのビールの一気呑み!、学生歌を斉唱して盛り上がるそうだ。酒の上での口論の果ての森の中の決闘はともかく、その生態は自分たちの学生時代そのまんまである。確かに、画家の東山魁夷氏がハイデルベルクの学生酒場でビールのジョッキを挙げながら、見せかけの青春劇でも涙を流さずにはいられないと言ったように、日本人の琴線にふれる青春ものである。物語の展開は単純ながら、あかるいユーモラスさと後半の悲しい別離の情緒のコントラストがはっきりしていて、時代の変遷にたえうる力があると思う。むしろ単純なことが、はるか先の遠い東洋の女性の心もうつ力になった。それは映画『ローマの休日』を好む趣味にもつながる。孤独な高貴な者のつかのまの自由と平民とのふれあい、ほのかな恋とあまりにも短い青春、そして避けられない別離。男女の違いや時代の隔たりはあれど、名作『ローマの休日』は「アルト=ハイデルベルク」そのものだ。
二年の歳月が流れて再びハイデルベルクを訪問し、彼を待っていたケ-ティと再会した皇太子は、青春がすっかり過去のものとなったことを知り、「ぼくがハイデルベルクを憧れる気持ちは、きみを憧れる気持ちだった。」といとしい恋人に永遠の別れを告げる。
ところで、学生団の風習は、ナチ時代に全面的に禁止されたそうだ。作家のヴィルヘルム・マイヤー=フェルスターが生まれた1862年は、ビスマルクがプロイセンの首相に就任。1871年には、ドイツ帝国が成立、88年にヴィルヘルム二世が皇帝に就任して、本書が出版された1901年は国力もつき、世界的な強国へと歩み始めた時代だった。当時のドイツでは、国家の隆盛を反映した軍人劇が多かったそうだが、平凡な観客相手に過去の通俗劇で笑わせ泣かせた作家の心情を忖度する。作者が1934年にベルリンで亡くなった時、時代はナチス政権への大きく舵をとった。その後のドイツの歴史を考えるながら、劇中にあるこの詩を読むと「アルト=ハイデルベルク」に感傷するおじいちゃん部長の気持ちもわかる。
アルト=ハイデルベルク
栄光あるわが麗しの町よ
ネッカーのほとり
ラインのほとりに
くらべるものとてなし
心楽しき仲間の集う町
知恵にあふれ
美酒にあふる
ヨーゼフ・フィクトール・フォン・シェッフェルの詩「アルト・ハイデルベルク、麗しの街」より
1870年頃、ライプチッヒもしくはドレスデン近郊の架空の小公国、ザクセンーカールスブルグ公国の皇太子、カール・ハインリヒは優秀な成績で、名門ハイデルベルク大学の入学試験にめでたく合格。幼い頃に両親を亡くし、厳格な大公である叔父に育てられた彼にとっては、一年間の古城の街での留学は、城の外にでる初めての、そして恐らく最後のチャンスだった。心躍る皇太子を待っているのは、下宿することになるネッカー川のほとりにある旅亭リューダー館を営む主人とリューダー夫人、そして彼らの姪にあたるウィーンからきていた愛らしいケーティだった。
皇太子を歓迎するために新しい白いドレスを着たケーティは、花束を胸に頬を薔薇色にそめて歌を詠む。
皇太子さま 遠いお国よりはるばると
わがうるわしのネッカーのほとりまで
お越しになられた御身春らんまんの
いとも麗しき花束をお捧げいたします
さあ心楽しくわが家へお入りください
またいつの日かお帰りになられるとき
いついつまでもお忘れになられぬよう
このハイデルベルクに学ばれし幸せを
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1e/47/3969604b4b87dc7a9a455249e83c44a1.jpg)
こどもの頃、近所の床屋さんに行くと、森の中の白いお城のポスターと赤茶色のレンガで出来た橋と古城を映した美しいポスターがご丁寧にも額縁に入れられて並んで飾られていた。もうはるか昔の記憶だ。外国は、本の童話のなかにある世界だった。成人して、ルキノ・ヴィスコンティの映画『ルートヴィッヒ』を観てあのおとぎの世界のような白いお城がノイシュバンシュタイン城だと知った。ちょうどドイツに旅行に行った友人からもそのお城の話を聞いたが、まだドイツは憧れの遠い国だった。それから歳月がたち、働きはじめた職場の壁に貼ってあった外資系企業の高級なカレンダーで懐かしい橋と古城と再会した。ハイデルベルク。そうか、あれは有名な大学都市のハイデルベルクだったんだ。カレンダーのハイデルベルクの写真が気に入ってよく見ていた私におじいちゃん部長が教えてくれたのが、「アルト=ハイデルベルク」の名前だった。「ハイデルベルクはいい、アルト=ハイデルベルク」と年甲斐もなく?ひとりロマンの世界に入り込む部長の姿を見て、気になっていたのがこの小説。今回、私は戯曲の方をアマゾンのネットで購入。神田の古書店まわりを覚悟していたのだが、アマゾンに掲載されていた京都にある本屋さんに注文して無事に届く。本屋さんをのぞいてほりだしものを探すわくわく感はないが、やはりネットでの買物はありがたい。
1901年にベルリンで初演され、1913年には日本でも上演された「アルト=ハイデルベルク」だが、ドイツでは作者の名前とともにすっかり忘れ去られ、日本でも舞台にかかることもなければ皇太子と下宿やの娘の悲恋も「アルト=ハイデルベルク」の名前とともに消えつつある。しかし、おじいちゃん部長のようなある世代までは、”アルト=ハイデルベルク”というキーワードは、舞台が風向明媚な古都、社会的な制約もなく身分の差もなく自由な時間を謳歌する学生という身分、酒と友情と恋の日々の物語から、失った青春への郷愁をかきたてるもののようだ。本書を読んで笑ったのが、中世以来の伝統をもつ学生団の登場だ。学帽、服、肩からかけるななめのリボンの色や形が異なるそれぞれの学生団は、定期的に会合やコンパを開く。”狐”と呼ばれる新入生は、一年間は先輩に服従、コンパでは大ジョッキのビールの一気呑み!、学生歌を斉唱して盛り上がるそうだ。酒の上での口論の果ての森の中の決闘はともかく、その生態は自分たちの学生時代そのまんまである。確かに、画家の東山魁夷氏がハイデルベルクの学生酒場でビールのジョッキを挙げながら、見せかけの青春劇でも涙を流さずにはいられないと言ったように、日本人の琴線にふれる青春ものである。物語の展開は単純ながら、あかるいユーモラスさと後半の悲しい別離の情緒のコントラストがはっきりしていて、時代の変遷にたえうる力があると思う。むしろ単純なことが、はるか先の遠い東洋の女性の心もうつ力になった。それは映画『ローマの休日』を好む趣味にもつながる。孤独な高貴な者のつかのまの自由と平民とのふれあい、ほのかな恋とあまりにも短い青春、そして避けられない別離。男女の違いや時代の隔たりはあれど、名作『ローマの休日』は「アルト=ハイデルベルク」そのものだ。
二年の歳月が流れて再びハイデルベルクを訪問し、彼を待っていたケ-ティと再会した皇太子は、青春がすっかり過去のものとなったことを知り、「ぼくがハイデルベルクを憧れる気持ちは、きみを憧れる気持ちだった。」といとしい恋人に永遠の別れを告げる。
ところで、学生団の風習は、ナチ時代に全面的に禁止されたそうだ。作家のヴィルヘルム・マイヤー=フェルスターが生まれた1862年は、ビスマルクがプロイセンの首相に就任。1871年には、ドイツ帝国が成立、88年にヴィルヘルム二世が皇帝に就任して、本書が出版された1901年は国力もつき、世界的な強国へと歩み始めた時代だった。当時のドイツでは、国家の隆盛を反映した軍人劇が多かったそうだが、平凡な観客相手に過去の通俗劇で笑わせ泣かせた作家の心情を忖度する。作者が1934年にベルリンで亡くなった時、時代はナチス政権への大きく舵をとった。その後のドイツの歴史を考えるながら、劇中にあるこの詩を読むと「アルト=ハイデルベルク」に感傷するおじいちゃん部長の気持ちもわかる。
アルト=ハイデルベルク
栄光あるわが麗しの町よ
ネッカーのほとり
ラインのほとりに
くらべるものとてなし
心楽しき仲間の集う町
知恵にあふれ
美酒にあふる
ヨーゼフ・フィクトール・フォン・シェッフェルの詩「アルト・ハイデルベルク、麗しの街」より