千の天使がバスケットボールする

クラシック音楽、映画、本、たわいないこと、そしてGackt・・・日々感じることの事件?と記録  TB&コメントにも☆

メロスフィルハーモニー第16回演奏会

2011-08-28 22:26:09 | Classic
猛暑の中、汗をかきかきたどりついた紀尾井ホール。
大枚はたいてチケットをゲットした(やったぜっ!)今年のウィーン・フィルの演奏会。(みんなに自慢しているもんね。)それとは別に、ちょっとした思い出とともに毎年楽しみにしているメロス・フィル。ところが、うっかり、本当にうっかり昨年は秋風が吹いた頃にはたと気がつき、とっくにコンサートの日は過ぎていて聴き逃していた・・・。
そんなこともあったが、毎回、メロスフィルのプログラムは楽しませてくれる。もう少し早く来て、せっかくのモーツァルトの「不協和音」のロビーコンサートも最初から聴くべきだった。

今年は、古典からハイドン、メインは同じ変ホ長調のシューマンの「ライン」。この「ライン」については、プログラムの曲目解説に拍節感に関する研究が紹介されていて、「3/4拍子になると旋律の各音に重さが与えられて、ライン川のゆったりとした流れの中に息づく生命感や躍動感が感じられる」と解説されている。これは大変、興味深い。昨年はシューマン生誕200年ということで、奥泉光さんの小説「シューマンの指」映画『クララ・シューマン 愛の協奏曲』などそれなりにシューマン関連の盛り上がりもあったのだが、理知的でいて複雑さも備えたシューマンは、なかなかとっつきにくい印象もある。しかし、今回、メロスフィルの「ライン」を聴いているとシューマンが自分に語りかけているような錯覚がした。えっ、私はクララではないけれど、、、というのは冗談だが、1850年に「ライン」を作曲、と言っても副題は彼自身が名づけた訳ではないのだが、その4年後、ライン川に投身自殺を図り、46歳の生涯を精神病院で閉じた。猛反対をおしきりクララと結婚し、子ども達を愛して子どものための曲を多く残したシューマン。演奏中、そんなことを思いだし、音楽と親密になった。

そして、出色だったのはアンコールのグリーグの「2つの悲しき旋律」である。
グリーグらしい透明感のある哀しみをたたえた清らかな旋律に、3月11日の東北地方を襲った東日本大震災と津波による被害に思いをはせた。震災後のまだ浅い春の夜、カイシャのスタッフさんと食事をした時に、彼女が「あの震災で、私たちも何か変わったと思いませんか」と言った言葉がよみがえってきた。都心とはいえ、職場のビルが二回目にゆれた時、私もここで自分の人生が終わるのか・・・と私ですら漠然たる覚悟をした。今もここで生きていて、こうして音楽を聴けることが、いとおしく宝のような時間なのか。そんなことをしみじみと伝えてくれた演奏だった。

--------- 2011年8月29日  紀尾井ホール  ------------------------------------------


C.M.v. ウェーバー / 歌劇「オベロン」序曲
J. ハイドン / 交響曲第103番 変ホ長調「太鼓連打」
R. シューマン / 交響曲第3番 変ホ長調 作品97「ライン」

■アンコール
E・グリーグ /2つの悲しき旋律 過ぎた春
指揮 / 中田延亮 (メロスフィルハーモニー 音楽監督)

■アンコール!
第11回
第12回
第13回
第14回

「アカデミック・キャピタリズムを超えて」上山隆大著

2011-08-27 11:08:21 | Book
「アカデミック・キャピタリズム」というあまりなじみのない言葉で思いだしたのが、我が敬愛なる生物学者の福岡伸一さんの著書「動的平衡」である。
弊ブログでもつぶやいた「ノーベル賞よりも億万長者(ビリオネラ)」でも記したが、福岡さんが90年代初頭にハーバード大学の研究室に研究員として勤務していた当時の研究室では、まるで渋谷「109」ファッションビルのテナントのように、成果の芳しくない(売れない)研究室が潰れて空室になったかと思うと、意気揚々と新しい教授が研究者たちをひきつれて研究チームがまるごと引っ越してきたそうだ。福岡さんがいたほんの数年で、研究者の転入、転出といった入れ替わりがけっこうあったとか。チャンスにも恵まれ新陳代謝が激しく風通しがよいと言えばそうだが、研究費獲得のための果実をえるのか、果実を得るための研究費獲得なのか、いずれにせよ熾烈な競争に神経をすりへらしていった研究者の姿に、本来の研究目的との乖離に私は疑問を感じるのだが、本書の著者によると民間企業からの外部資金研究の増減は、いわば自らの研究のマーケットにおける価値を常に判断され、より多くの研究費を獲得できる研究者を集めることが大学にとっても市場価値を高めることになると解説している。実際、100年ほど前はドイツの大学に留学して帰国した優秀な学生や研究者たちがえた範にそって、米国の研究室は活動していたが、こうした産業界や企業からのパトロネッジとマネジメントの圧力が研究競争に拍車をかけ、現代の米国の科学技術は国際競争力では圧倒的に他国を凌駕しているのは事実。

本書は、米国の大学の成り立ちや歴史にはじまり、第二次世界大戦以降、米国が世界最高峰の研究拠点に躍り出た背景の解説、そして今後の大学のありかたまで述べられている。戦争のため、米国に移住した優秀な科学者をかかえ、戦禍で疲弊し貧しくなったヨーロッパと比較し潤沢な研究資金も科学のフロンティアをおし勧めたが、著者だけでなく私自身も興味をもったのは、米国の科学者が常に政治的な視座をもっていることである。象牙の塔のこもる博士ではなく、社会とつながり、対外活動を旺盛に行い研究の必要性を常に世論に訴えて研究資金を獲得していく姿勢である。昨年、日本中をわかせた「はやぶさ」の帰還であるが、私は打ち上げ当時から注目していたのだが、あの頃は「はやぶさ」の存在を知っている人は殆どいなかった。仕分けで予算削減される前に、もっと日本の宇宙科学の夢と必要性を幅広く社会や大衆に訴えていくべきだろう。

また日本はかっての1960年代以降の大学紛争で産学協同は産業界との癒着が問題になるという風潮があったが、米国では1980年のバイ・ドール法制定により連邦政府からの資金による研究でえられた知的財産権を国ではなく大学に帰属すると整備され、格段に競争力をつけた。おかげで、大学発ベンチャー企業が次々と生まれた。

そしてキー・パーソンとして登場してくるのが、バニバー・ブッシュなる人物。1944年、ローズヴェルト大統領からの戦後米国科学研究の将来構想を求められて、『科学―果てしなきフロンンティア』で答弁している。ブッシュは、科学を人類共通の公共財としてとらえ、公的資金の必要性を論じ、尚且つ、資金の受け皿を一部のエリート研究大学にしぼることを提言した。彼の科学者エリート主義や、一般大衆を科学に金銭的に奉仕する人々ととらえる自然科学至上主義には辟易させられるが、基礎研究から応用研究へ、そして具体的な工業化への展開が最終的な生産に結びつくことで、基礎研究の社会貢献性を訴えた「イノベーションのリニアモデル」は優れていると思う。さらにこのモデルによって、基礎研究と応用研究という二元論の合理的な解決もできる。

某大学でカント哲学を研究・講義している高校時代の同級生が、「学者はカスミを喰っているようなもの」と自虐的に言い切ったが、そんな真理の探究や高邁な精神も、まるで激流に流れされてしまうかのような現代科学研究の商業化だ。ips細胞(人工多能性幹細胞)の研究でも、当初、山中教授には名誉、実利は結局、米国が獲るのではないかともささやかれたが、今月11日にiPS細胞の基本技術に関する特許が、米国でも成立したと発表された。これによって、京都大学は世界のiPS細胞関連の特許をほぼ今後20年間独占することになり、研究の世界的主導権を握ることになった。

他にも「生命は誰のもの」チャクラバティ事件、ヒト遺伝子の国家による所有、ミリタリー・サイエンス、マンハッタン計画と内容が実に充実している。一般的に上昇志向が強く自分の能力に自信のある研究者は米国が肌にあい、じっくり物事を考えてとりくみたいタイプの者はポスドクとして勤務するにはドイツが向いていると聞いたことがある。どちらがよいというのではなく、また一概に「アカデミック・キャピタリズム」がよいとも言い切れず、問題もあるが、日本の科学研究の国際競争力をつけるためにも、大学のあり方としてのアカデミック・キャピタリズムを考える決定版が本書である。

■こんなアーカイヴも
”生命”の未来を変えた男

「犯罪」フェルディナント・フォン・シーラッハ著

2011-08-23 22:02:30 | Book
私は常々思っているのだが、この世で一番怖いのは人間である。どんなにあかるく健康的な人でも、人間の深層心理にはそれなりに深い闇がひっそりと沈められていると考えてしまうのは、。たとえば、ナチス親衛隊による強制収用所でのユダヤ人大量虐殺で、それをいとも淡々と事務的にしかも効率的に処理をすすめたアイヒマンの心理を理解するのは現代人としては難しい。しかし、あの時代にあのヒトラーの演説に出会ってしまったら、多くの人がアイヒマンになる可能性を秘めているかもしれない。

本書の著者はプロフィールによると、ナチ党全国青少年最高指導者バルドゥール・ベネディクト・フォン・シーラッハ(Baldur Benedikt von Schirach)の孫にあたるそうだ。彼は、ウィーンのユダヤ人移送にかかわったが、ニュルンベルク軍事裁判でかろうじて死刑を免れた人物である。名前からわかるように貴族出身。こんなディープで特異な出自が影響したのだろうか、フェルディナントさんは1994年からベルリンで刑事事件弁護士として活躍しているそうだ。そんな業務上知りえた(かかわった)事件に素材を借りて、人間の狂気と悲しみ、そしてそれでも人間であることの慈しみをスリルに、そしてここがポイントなのだがそこはかとなくユーモラスさえただよわせて描いた短編傑作群。

たとえば最初の医学生のフェナー氏の恋物語の顛末が語られる「フェナー氏」。
フリートヘルム・フェナー氏は田舎風美女のイングリットとパーティで出会った。ハンサムで生真面目、しかも優秀な成績で博士号を取得する予定のフェナーをたちまち気に入ったイングリットは、彼の望むもの、要するに豊満な肉体と巧みな性の技巧と絶頂を施して結婚にゴールイン。イングリットにとっては、願ってもない夫は、夫にとっても最高の妻だった。ふたりが最初で最後の素晴らしい新婚旅行の時まで。
新妻は夫に抱かれながら金切り声で叫んだ。
「あたしを捨てないと誓って!」
フェナー氏は妻との誓いを守り、生涯をかけて彼女を愛した・・・、が。。。

物語の凄惨さや不条理や狂気を淡々と乾いた文章が事務的にあぶりだしていく。著者が刑事事件の弁護士であることが、うっすらと思い出される。車の中で、人妻との情事が報道されて離婚した(された)俳優の内野聖陽さんを民事で弁護するようなケースとは違って、刑事事件となればあらゆる犯罪を扱うことになる。中には、常人の理解を超える恐ろしい事件も担当することもあるだろう。最近の大阪の「一斗缶事件」でも、当然、犯人である50代の男性にも弁護士がつくのだが、仕事とはいえこんな猟奇的な事件を詳細に調査しなければならない弁護士という職業もやわで繊細な神経ではやっていけないのではないだろうか。
まるで裁判の記録を読むように、冷静に客観的に事実が述べられていて、その中で起こった人間のふるまい、まぎれもない犯罪行為に読者は驚嘆するだろう。
やはりこの世で一番怖いのは人間、もしかしたら優しいあなたの配偶者かもしれない。
ドイツでは発行部数43万部、世界32カ国で翻訳されて数々の文学賞を受賞しているそうだ。

「東大全共闘 1968-1969」渡辺眸

2011-08-13 11:47:24 | Book
産経新聞社会部より出版されている「総括せよ!さらば革命的世代」というなかなか興味深い本がある。人は歴史となって過去をふりかえるものなのか、昨年来、テレビなどで全共闘世代の学生運動をとりあげた番組をちらほらとみかけるようになった。これが本当にひと昔、いやふた昔前の日本の学生なのか、気骨満々、理論武装した勇姿の白黒映像を不思議なものを見るような感覚でみている自分がいる。さて、その「総括せよ!」の本の表紙は、本書の写真家、渡辺眸さんの写真を漫画家の山本直樹さんが絵にした一枚である。

1968年、この年は、世界的に政治の嵐の時代で、パリでは学生たちによるデモがあり、プラハの春があり、渡辺さんのお母様も王子の米軍野戦病院設置反対運動にエプロン姿でデモに参加していたそうだ。そうだったのか、今ではとても考えられないママたち。そんな中、日本の大学、東大では、初秋から駒場の教養学部はすでにストライキに入っていた。 やがて運動の飛び火は次々とひろがり各学部が学生大会でストライキを決議し、渡辺さんは東大全共闘と行動をともにし、唯一の写真家として、安田講堂のバリケード内に泊り込み、記録写真を撮り続けた。

時系列で進行していく写真は、祭りのにぎわいと同時に不思議な静けさがただよう。数え切れない多くのヘルメットの波が学生運動のひろがりと熱気を伝え、戦士の休息が若さと真摯さの曳航を予感させて、残された瓦礫が祭りの終焉を宣告している。最後から二枚目の写真には、駅の売店にヤマのように積まれた「夕刊フジ」に、「東大全共闘 山本議長逮捕 日比谷で」と大きく手書きで書かれたチラシがたれている。もっと刺激的で臨場感に溢れる写真を見たこともある。森田童子の歌がいかにも似合う哀しい抒情性をかもす美しい写真もあった。しかし、本書の写真は、それぞれが貴重な記録写真なのだと思う。しかも、幸いなことにジャーナリストとしての視点がない。

さて、もうひとつ大事なことは、前述の夕刊フジのトップニュースを飾った元東大全共闘の山本義隆さんの貴重な寄せ書きにある。
これまでいっさい学生運動について沈黙をしていた山本氏は、彼なりの総括とも言える「六八・六九を記録する会」を作って、東大闘争と日大闘争の記録を残す仕事をはじめたことがあきらかにされている。以下、少々長いが山本氏の記録を残す目的についての記述の一部抜粋。

「東大全共闘なるものの主張や思想と言うべきものがあるとすれば、東大全共闘に結集する各学部や研究所の学生や大学院生や助手・職員よりなる闘争委員会や小集団さらには個人の、ときに奔放でときに過激で、そしてつねにひたむきで真摯な発言の総体こそがそれであろう。(中略)歴史的事実の東大闘争の全容と恣意的な歪曲や隠蔽を許すことなく・・・当時のビラ類を一次資料として保存するアーカイブを作ることから始めなければならない。」

そのために、本書に寄せ書きをするということにもなったのだろう。67年から69年2月までのごく短期間にくぎったのは、後の連合赤軍事件と切り離すことで、純粋な全共闘運動の墓碑として完結したいためであろうか。ビラ、討論資料、学生大会議案、パンフレット、当局文書からメモまでダンボール10箱分を回収。約5000点をパソコンのデーター・ベースを用いて整理、総目録をつけて『東大闘争資料』としてハードカヴァー本全23巻とマイクロ・フィルム3本が国立国会図書館に納められている。コピーを積み上げると1メートル50センチ近くなる資料を6年の歳月をかけて整理したそうだ。この寄せ書きを読む限りでは山本さんたちの怒りももっともだな・・・。

■こんなアーカイヴも
「総括せよ!さらば革命的世代」
「マイ・バック・ページ ある60年代の物語」川本三郎著

『黄色い星の子供たち』

2011-08-09 22:53:38 | Movie
ユダヤ人大量虐殺のホロコーストものは、正直、出尽くした感があったのだが、また私たちは優れた新しい作品に出会うことになったようだ。

ナチス占領下のパリ。11歳のジョーの家庭は、貧しいながらも思いやりの深い両親と姉ふたりの5人家族。ジョーは成績は抜群だが、少々やんちゃな元気いっぱいの男の子。今日も学校から帰宅するなり、いたずらをしたりと狭いパリの路上を友人と走り回る。パリのどこにでもいるような平凡な家族、どこにでもあるような都会の片隅の風景が映画の画面からはみでるように生き生きと流れていくのだが、ただひとつナチス・ドイツによってユダヤ人に義務付けされた黄色い星の印が胸にあることの違和感がつきまとう。

当時のヴィシー政権は1940年10月にユダヤ人の身分法を制定し、ユダヤ人の登録をすすめていた。最初はただユダヤ人であることの印だけだった。けれども、あえて黄色い星をつけさせたのは、差別して排除することが目的だった。移民してきたユダヤ人の半数はフランス国籍をもち、フランスで生まれたこどもたちの日常語のフランス語は彼らにとっては民族とは関係なく母国語なのに。ここでは、ユダヤ系フランス人という考え方はない。やがて、黄色い星をつけたユダヤ人は、公的な場所、図書館、公園、レストランから次々に法的に締め出され、1942年7月16日の夜明け前、とうとうフランスの警察によって一斉に検挙されて、冬季競技場のヴェル・ディヴに集められた。

その前から不穏な空気が流れ、ジョーの姉も米国への亡命を父に訴えたが、資金不足もありとりあってくれなかった。パリに生活の根をはり、今の暮らしを捨てて大金をはたいてまで、米国に移住するのを父はためらったのだった。彼らの気持ちの中では、検挙されたとしても精々、軍事工場の労働者として使える健康な成人男性だけで、それも一定の期間のお勤めが住めば家族の待つ我家に帰れるというものだった。私たちは、その後の彼らの運命、アウシュビッツで起こったことなど歴史を知っているが、その時のジョーの父を楽天的と責めることはできない。人としての”人道”が少しでも備わっていれば、赤ちゃん、こども、老人、女性、病気の者までユダヤ人だということだけで、検挙するとは想像すらできなかっただろう。まして、アウシュビッツであのような非人間的な扱いをして大量殺人を行うとは。

映画の後半から、理性的なユダヤ人の象徴として自らも検挙されながら必死でヴェル・ディヴに収容された病人を診るシェインバウム医師(ジャン・レノ)、フランスの良心として彼らを支える看護師アネット・モノ(メラニー・ロラン)の視点も加えて、何が起こったのか、ジャーナリスト出身のローズ・ボッシュ監督は記録文書など3年間の徹底的なリサーチを基に綿密に再現していく。冬季競技場から収容所に移送されて、ジョーの輝いていた髪は不潔になり、母親たちの服装も汚れ、こどもたちの表情がみるまにやつれていく。ここでは、彼らは人間扱いをされていない。冬季競技場で、食料も水すらもなく5日間収容されていたのは、それなりの理由があった。誰もがまさかと思う理由が。これからどんな運命が待ち受けているのか、うっすらと気づきながらもナチスの銃の前に彼らは羊のようにおとなしく従っていく。

フランスは哲学と自由の国として知られている。そういうフランスらしいフランス人もいれば、検挙されたユダヤ人をうとましく見ている人もいる。監督は、多くの登場人物の小さなふるまいや会話を広い冬季競技場に反響させていく。この日、収容されたユダヤ人は13000人。競技場の観客席をうずめつくすたくさんの、本当にたくさんの人々。しかし、生き残ったのはほんの400人程度だったそうだ。
長い間、ヴェル・ディヴ事件をナチス・ドイツによる迫害としてとらえていたフランス政府だったが、1995年にジャック・シラク大統領が当時の政権が関与したことを正式に認めた。

原題: La Rafle
監督:ローズ・ボッシュ
2010年フランス製作

■こんなアーカイヴも
「NHKアウシュビッツ」第一回大量虐殺への道「NHKアウシュビッツ」第3回収容所の番人たち
「NHKアウシュビッツ」第四回加速する殺戮
「NHKアウシュビッツ」第五回解放と復習
「夜の記憶」澤田愛子著
映画『MY FATHER』
「われらはみな、アイヒマンの息子」ギュンター・アンダース著
映画『さよなら、こどもたち』

「エリザベート ハプスブルク家最後の皇女」塚本哲也著

2011-08-06 19:30:44 | Book
NHK大河ドラマ「江」よりも、比較にならないほどはるかにおもしろかったのがハプスブルク家最後の皇女エリザベートの波乱万丈の生涯。読み始めたらとまらない、これぞ読書の醍醐味である。エリザベートと言っても、ヴィスコンティの映画『ルートヴィヒ』のバイエルンの狂王ルートヴィヒ2世が従兄の息子という関係で親しかったエリザベート・アマーリエ・オイゲーニエではなく、このオーストリア皇后のひとり息子、映画『うたかたの恋』にもなった男爵令嬢マリー・フォン・ヴェッツェラと「マイヤーリング事件」にて謎の死を遂げたルドルフ皇太子の一人娘のエリザベートである。

1883年、オーストリア・ハンガリー帝国の栄華を誇るハプスブルク家の皇女として生まれ、広大で美しいシェーンブルン宮殿で育った現在ではありえない究極のお姫さまなのだが、一般庶民とは違ったかたちで社会の変化の悲運の波をかぶるのもやんごとなき高貴な身分の方たち。5歳で父であるルドルフ皇太子が今でも謎が解明されていない「マイヤーリンク事件」で亡くし、15歳の時には自由闊達で欧州一の美貌で知られた同じ名前の祖母エリザベートがアナーキストによって暗殺されるという体験をする。優雅でありながら、かすかな憂いが繊細な美しいベールのようにおおっているようで、それが尚いっそう美貌がひきたつのも、ハプスブルク王朝の皇女として生まれてしまった彼女の数奇な運命を予言しているようでもある。それは、まさに中欧の激動の現代史を体現しているかのようであった。世紀末文化の花開くウィーンは、同時に20世紀ヨーロッパの運命を左右する政治思想のショーウインドーさながらで、また実験場でもあった。
いみじくも、1953年9月22日、70歳の誕生日を迎えたエリザベートが自分の館がフランス軍に接収されて狭くて荒れた小さな住居に仮住まいをしていることについて、新聞にはこう書かれていた。
「欧州でもっとも贅沢に慣れた王室の娘であるエリザベート皇女の運命は、現在のオーストリアの立場を象徴している。この15年間オーストリアは占領され続け、自分の国の住人として、自らの意志で生きることができなかった。オーストリアはなんという運命だろうか。」

美しい女性として、また何でも望むものは手に入る立場の女性として、エリザベートは3度の(うらやましい限りの!)激しい恋をした。
最初の夫オットー・ヴィンディッシュ=グレーツは、宮廷舞踏会での初対面で彼女の一目ぼれ。今で言えば、イケ面サッカー選手か大リーグでも活躍できるプロ野球選手。その後、全ヨーロッパ馬術競技会で見事に優勝したオットーの勇姿と再会して恋の炎は燃え盛り、お祖父さまのフランツ・ヨーゼフ皇帝におねだりをして、婚約者からオットーを強引に奪って、皇位継承権は放棄するが持参金300億円と一緒に結婚する。しかし、幼い頃から教養を積んできて社会や政治にも関心の強い知性的なエリザベートにとっては、体育会系の夫は見栄えはよいがものたりない凡庸で虚栄心の強いただの飾り物。3男1女に恵まれながらも夫婦仲は後の冷戦時代のごとく冷え切った。淋しいエリザベートの心に登場したのが、端整な容姿を海軍の軍服で着こなす少尉エゴン・レルヒだった。ウィーン社交界の暗黙のルールなどおかまいなしに、堂々と若く颯爽とした年下の軍人を尊敬し、情事にのめりこむエリザベート。しかし、つかのまの逢瀬も、第一次世界大戦によるレリヒの戦死で悲恋と散る。そして第3の男は、その後の夫とのこどもの養育権をめぐって泥沼の離婚劇に突入した時に、こどもとともに彼女を救った社会民主党の指導者レオポルト・ペツネックだった。これまでの容姿端麗、皇女にはとても及ばないが身分もそれなりに高い男性だったのが、今度のペツネックは、素朴な容貌で貧農出身でしかも孤児院育ち。人生の辛酸をなめ陰影を知ったおとなの恋は、ゆっくりと時間をかけてお互いの人間性を知って近づき少しずつ育んでいくもの、、、そんなふたりの最後の恋だった。

エリザベートの恋愛と実母との確執、孫娘を愛した祖父との繋がり(この祖父は精神分析学者フロイトのファザー・コンプレックスの父親像だそうだ)、あんなにも愛情をそそいだこどもたちの離反と和解など、女子的にも還流ドラマよりも華麗でドラマチックな世界に酔いしれる。残されたわずかな写真からも、父方の長身で美形の血筋を感じさせる整った容姿が想像され、ありえないくらい細いウエストのくびれや、現代では製作不可能ではないかと思われる絹のドレスのレースの芸術的な美しさと豪華さにひきよせられる。物語の主人公として最高の素材である。著者の塚本哲也さんの整然とした文章にも登場人物に感情移入した会話には情緒がただよい、乙女心のツボをいい感じでついてくる。しかし、それは本書の白眉ではない。エリザベートの波乱な生涯は、そのまま中欧の20世紀の苦悩の歴史に重なる。著者が書きたかったテーマーは、エリザベートというひとりの女性の生涯を中心にすえた、ふたつの大戦、スターリンやヒトラーの台頭と支配、ハンガリー動乱、鉄のカーテンといった中欧の政治的背景と苦難の歴史そのものにある。歴女でなくても、単なるお姫様の恋愛物語以上におもしろい。そして旧ハプスブルク王朝時代は、まがりなりにも多民族が共存、共栄していた事実から多民族を統治するモデル国家だったという意見もあり、英国のチャーチル首相は「ハプスブルク王朝が滅亡しなければ、中欧の諸国はこれほど永い苦難の歴史を経験しなくてもすんだであろう」と嘆いたそうだ。

1963年3月16日、エリザベートはモーツァルトがその鬱蒼とした森に囲まれた幻想的な館をみて「魔笛」の曲想がうかんだというエピソードが残る通称「エリザベートの館」で、79歳の生涯を閉じた。愛する夫ペツネックはすでにこの世を去り、愛犬に囲まれた静かだが孤独な晩年だったそうだ。ハプスブルク家のすべての美術品は国に返却すべきだという故人の意志に基づいた遺言に従い、国宝級のコレクションはすべてオーストリア共和国に寄贈された。観光客の足のたえない歴代のハプスブルク家の柩が安置されているカプチーナ教会の荘厳なにぎわいとは離れ、彼女は郊外の小さな墓地にペツネックとひっそりと眠っている。歴史のもうひとつの裏舞台ともなった愛の館も、今では優雅な昔日の面影はすっかりなくなっているそうだ。

■アーカイヴ
最後の皇太子オットー・ハプスブルク氏の葬儀
「ウィーン愛憎」中島義道著
「続・ウィーン愛憎」中島義道著

最後の皇太子オットー・ハプスブルク氏の葬儀

2011-08-04 23:07:17 | Nonsense
【最後の皇太子の葬儀行う ウィーン、心臓はハンガリーの修道院に】

第1次大戦まで中欧に広大な領土を有したオーストリア・ハンガリー帝国最後の皇太子で、4日に98歳で死去したオットー・フォン・ハプスブルク氏の葬儀が16日、帝国の首都として栄えたウィーンで行われ、欧州の王族や政治家、市民ら千人以上が参列した。
ハプスブルク氏のひつぎはこの日、ウィーンにある帝国皇帝の納骨所に安置された。AP通信によると、ハプスブルク家の伝統にのっとり取り出された同氏の心臓は、本人の希望でハンガリーの修道院に。
ウィーン中心部のシュテファン寺院で行われた葬儀には、スウェーデン国王夫妻やオーストリア、マケドニアなどの首脳らが参列。葬列は、沿道の市民や観光客らが見守る中、納骨所までウィーン旧市街を進んだ。


*********************************

ハプスブルク王家の最後の皇太子、オットー・フォン・ハプスブルクOtto von Habsburg氏が7月4日に98歳で永眠した。最後の皇太子オットー氏は、フランツ・ヨーゼフ皇帝の後継者である唯一の息子ルドルフが31歳の若さで情死した後、皇位継承者となった弟のフランツ・フェルディナンドの甥の長男として生まれた。ところが、フランツ・フェルディナンドが、1914年に妻のゾフィとともにサラエヴォで暗殺されてしまったために(第一次世界大戦のきっかけとなったサラエヴォ事件)、1916年にフランツ・ヨーゼフ皇帝が死去すると父のカールが皇帝になり、オットーも皇太子となった。しかし、1916年にオーストリアが敗北するとオーストリア=ハンガリー帝国は崩壊し、18年秋には650年間続いたハプスブルク帝国も崩れ去った。父カール1世は、シェーンブルン宮殿を後にした国外に逃れた。

その後、政治家として生きたオットーだが、オーストリアがドイツに併合された時に、たったひとり、パリからフランスの新聞を通じていち早くヒトラーに抗議をして戦いを呼びかけた。

「押しつぶされた国民の名において、すべての国民に訴えたい。再び独立と自由をとり戻す断固たる意志を持つオーストリア国民を支持してくれるよう、すべての国民にお願いしたい。私は最後まで戦う。」

どこからも反応がなかったのだが、唯一の反応がナチスだった。ヒトラーはナチス政権を倒せるのは伝統あるハプスブルク家の復活だという恐怖感をいつも抱き続けていたために、オットー・ハプスブルクを逮捕、死刑に処するとの布告をし、実際に秘密警察によってパリに刺客が送られたそうだ。ふたつの大戦を経験した長い98年間だけでも邯鄲ものだが、本当に数奇な人生だったのだろう。

ところで、オットー氏の曽祖父の兄、フランツ・ヨーゼフ皇帝が1916年に亡くなった時の葬儀は11月30日のことだった。皇帝の遺体がカプチーナ霊廟に着くと、ハプスブルク家の厳かな儀式がはじまった。宮内大臣が固く閉ざされた鉄の扉を銀の杖で叩くと、霊廟の院長が尋ねる。

「そちは何者か。ここに入るを願う者は?」
「それがしは皇帝。オーストリアの皇帝にして、ハンガリーの王なる者ぞ」
と答えると再び
「予はその者を知らぬ。当院に入るを願う者は何者なるぞ?」と問われ、
「それがしは皇帝フランツ・ヨーゼフなる者。ハンガリーの使徒王、・・・(中略)クラインの公なる者なり」と答える。院長はさらに尋ねる。
「予はその者を知らぬ。当院に入るを願う者は何者なるぞ?」
「それがしは、あわれな罪人の一人。神の恩寵を願う者なり」と3度目に宮内大臣がひざまずき答えると
「さらば、入るがよい」
と許され、鉄の扉が静かに開いた。ハプスブルク家の皇帝といえども、神の前ではひとりの哀れな罪人として恭順の意を示す儀式が行われたのだが、最後の皇太子も同じような儀式で別れを告げたそうだ。
それにしても故人の遺志で心臓はハンガリーへ・・・。最後までオーストリア=ハンガリーの皇太子だった。