千の天使がバスケットボールする

クラシック音楽、映画、本、たわいないこと、そしてGackt・・・日々感じることの事件?と記録  TB&コメントにも☆

「下山事件」最後の証言 柴田哲孝著

2005-12-31 17:45:10 | Book
昭和24年7月6日午前0時24分、上野発松戸行の最終電車第2401Mが、定刻どおりに北千住駅を発車して、東武ガード線を通過した頃、運転手が点々と散乱する赤い肉塊を発見する。おりから雨が降り出する中、鉄道員や警察関係者らが約90メートルに渡り飛び散った遺品と肉片を調べはじめる。
「国有鉄道総裁 下山貞則」
と書かれた名刺を発見し、この5つの部分に切断された無残な轢死体が、昨日から三越本店で失踪していた初代国鉄総裁の下山だったと騒然とする明け方には、小雨が豪雨にかわった。

これが後に戦後史最大の謎といわれ、事件から半世紀たつ今もなおマスコミをはじめ人々の関心を眠らせない「下山事件」の発端である。
昭和24年は、戦後の日本の転換期ともいえる分岐点となる年になった。1月に総選挙で民主自由党が圧勝し、第3次吉田茂内閣が発足。「経済安定九原則」を基盤とした”ドッジ・ライン”が実施され、GHQによる統治下、大量解雇を前提とした最終的には200万人もの失業者を想定した合理化を推進する。5月30日には、「行政機関職員定員法案」が可決され、公務員26万7千人の解雇が発表された。
下山総裁は、国鉄合理化に伴う10万人規模の人員整理の渦中にあり、失踪した前日には第一次整理者3万700人の名簿を発表していた。そしてこの事件以後、急速に共産党は求心力を失っていく。

この事件は、翌月警視庁により”自殺”と判定されたが、半世紀をこえてなお様々な憶測が消えない。

①人員整理を苦にした自殺
②労組左派による暗殺
③GHQの関与による謀殺

ジャーナリストである著者が敬愛する亡き祖父、陸軍の特務機関員出身で米国人よりも英語が堪能で「亜細亜産業」で貿易に関わる仕事に携わったが、会社の実態、仕事の内容、GHQのキャノン機関との関わりも含めて謎の多かった祖父だったが、大叔母から「あの事件をやったのは、もしかしたら・・・」というひと言から、下山事件をたどる日々がはじまる。

下山事件の謎のひとつは、膨大な証言や目撃者がいるにも関わらず、多くの作為と虚偽が交じっているところにある。当日の午後、「末広旅館」で下山総裁らしき上品な紳士がやすんでいったと警察に報告し、事件の結論を左右するとまで言われた証言をした、長島フクから亡くなるまで毎年届いた祖父への年賀状。ロイドめがねをかけて変身して孫におどける祖父を、激しく怒り泣いてめがねを捨てた祖母。(下山総裁のかけていたロイドめがねは、最後まで発見されなかった)三鷹事件のあった日、何故か会社を休み様子がおかしかったと母が思い出す祖父の姿。肉親をはじめ、親族のふるえおびえる胸のうち、真相を知りたくないという感情を理解しながらも、心の衝動が著者をつき動かしていく。

やがて本作の最もドキュメンタリーとして頂点に達するのが、「亜細亜産業」の総帥であるY氏を訪問するくだりであろう。
地方の名士であり、武家屋敷に住むY氏は、老いても眼光鋭く精悍な武士のような佇まいを残していた。著者を正面から見据えるやいなや、突然右手で柄を握ると日本刀を抜き顔面で止めて、「貴様、何者だ」と威嚇する。この両者の息のつまる対峙は、映画さながらのようでもある。そこでの会話にのぼるのは、児玉誉士男、東條英機、吉田茂、佐藤栄作、”M資金”はウィロビーの”W”の裏がえし、エリザベス・サンダーホーム、白州次郎、昭電疑獄・・・まるで昭和の闇に吸い込まれるかのような話である。

「表面的な”結果論”や、新聞社の戯言を信じるな。もっと視野を広げてみろ。あの頃の世界情勢はどうだったのか、その中で日本はどのような立場に立たされていたのか。それさえわかれば、下山がなぜ殺されたのかもわかるだろう」

Y氏のこの言葉に、誰もが慄然とするだろう。
下山総裁は、根っからの鉄道好きで技術畑出身である。正義感も強く、生真面目、労組幹部への理解もある人道派だったという。戦後、台湾を支援する一方、人道的な立場から中国の鉄道網の再建を日本の義務であると主張した。満州鉄道の栄華を象徴した”あじあ号”から名をつけた「亜細亜産業」と同様、満鉄に愛情をそそいだ人でもある。もはや現代において自殺説を信じる者はいないだろう。そんな下山総裁が殺されたのは、私人としてでなく”公人”であるのは、自明の理である。下山総裁は、当初から首切りが完了するまでの「暫定総裁」だった。彼を選んだのは、GHQのシャグノン中佐だ。「政治的な背景を持たない人物」という条件に合致したからだ。運輸省次官から政界に進出する希望をもっていた彼は、友人の佐藤栄作のすすめもあり、次々と他の者が断ったこのポストを佐藤のような政治的な後ろだてをもっていないがゆえに、政界への脚がかりとするために承諾することになる。彼の前に断った人物は、みな殺すには惜しい人材だったから。
そして下山総裁は、役割を果たした翌日、何者かによって拉致され、人体実験のように血液を抜かれ、屈辱的ともいえる暴行を受け、深夜遺体を損傷させるために線路に置かれた。事件の残虐さだけでなく、そこに大きな歴史の歯車と暗いひずみを見るから、さらにその国策の分岐点として捨て駒のように尊い命を失った故人を鎮魂するためにも、私たちは今日に至っても真相をあきらかにしたいのではないだろうか。

本書のような内容に叙情をもちこむべきでないと思うが、事件に著者の祖父や親戚が関わりがあるからか、柴田哲孝氏の筆は情緒にふれた湿ったタッチになっている。本来はこのような文体を好まないが、それにも関わらず本書は必読に値する。しかし果たして、本書の登場によって、読者は真相にたどり着けたのだろうか。柴田氏の提示する結果も、やはりひとつの仮説に過ぎない。事件の核心を握る者も、ひとり、またひとりと昭和という時代とともに、真相をもって墓場に去っていったのである。年末にかけて2005年をしめくくる最後に、手にとるにふさわしい本であった。

*内容を考慮し、ブログでは一部仮名しています。
著者インタビュー 

シュレーダー前ドイツ首相の置き土産

2005-12-30 23:12:21 | Nonsense
「メルケル、欧州をうならせる」(独紙フランクフルター・アルゲマイネ)

先日のEUの中期予算会議で、英国が獲得している還付金の削減・廃止を求めるフランスと、EU農業補助金の改革を主張する英国が鋭く対立したが。ドイツの新しい顔、メルケル首相は両者の間にたち、6月の予算問題を合意に導いた。またシュレーダー首相時代の独仏枢軸から微妙な距離をおき、選挙戦の時から公約していた米国との関係も構築しつつあり、その外交手腕は各首脳から「”屏風の陰”で重大な役割を果たした」と評価されたように、外交方面はまずまずの好スタートだった。

前置きがすっかり長くなってしまったが、ここからが本題。
我が国の首相小泉さんが郵政改革を叫び解散を強行した頃、かの国独逸では、経済停滞と高失業率で人気が凋落したシュレーダー首相が、政権を維持するために総選挙を前倒しでするという荒業にうってでた。対するキリスト教民主同盟(CDU)党首メルケル氏をシュレーダー首相のジャーナリストである妻は、こどもをつくらなかったことで非難を浴びせた。(メルケル氏は、選挙で闘うために正式にパートナーと結婚した。)しかし妻の援護射撃のかいもなく、僅差で社会民主党は敗北。一時はそれでも首相の座にとどまるつもりではあったが、結局は大連立を成立させるために政界を引退した。

「安定政権樹立のじゃまをするつもりはない」

その引き際は日本的な美意識からすると、”きれい”とはいえなかったが、欧州の大国の首相としての矜持をもちつつ静かに去っていった。。。
・・・と思っていたのだが、こんな引退の置き土産を残していたのだった。
それは旧与党の緑の党が反対し決着がつかず論争の的だったトルコとイスラエル向けの武器輸出をひそかに認可していたのである。トルコに対してはレオパルド2型の中古戦車298台、イスラエルに対してはドルフィン型潜水艦3隻(そのうち1隻はクリスマスプレゼント、ふとっぱらである。)。総額10億ユーロの大商い。選挙では敗北したが、商売人としては成功したのだった。メディア型宰相というニックネームとは違った、隠密作戦だったようだ。この潜水艦はなかなかすぐれもので、イスラエル軍は巡航ミサイル発射装置の装着が可能なり、イランを攻撃射程内にはいった。

以前は、対中国相手に武器輸出解禁にご執心だったが、米国にもはばまれ断念した経緯もある。
EU対中国輸出禁止

現首相メルケル氏は合理的で、電話は1分できるそうだが、シュレーダー氏は感情的で怒りやすかったという。沈みゆく大国ドイツにとってこの輸出は恵みの雨のようだが、いつかどこかの国で、これらが弾丸の雨に変わるということを考えると深い闇を見るようだ。もっとも首相在任時に構想を推進した独露間のパイプライン建設の企業幹部に就任することになり、国民から”集中砲火”を浴びているらしい。やっぱりいいことはない・・・。

私だって聴きたい東京都響「矢部の音」

2005-12-29 22:52:18 | Classic
今日届いた情報誌「選択」で最も興味をひき、真っ先に開いた記事が「名器『ストラディヴァリウス』物語」だった。その中に05年11月N響と東京都響のコラボで、モーツァルトの協奏交響曲におけるコンサートマスターの矢部達也さんの演奏を絶賛している。
以下記事を抜粋(著者は無記名)-----------------------------------------------
正式に発表されてはいないが、矢部の楽器は紛れもなく、最高の状態にあるストラディバリウスに違いない。透明にして鮮烈な音色といい、どんな出自を持つ楽器かはわからないが、名器の風格を十分に備えている。ホールの後に行けば行くほど、楽器の音が際立って聴こえるようになるストラディバリウス固有の不思議な特徴も、矢部の楽器は持っているのだ。(敬称略)

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この耳の鋭い筆者の興奮ぶりは続き、最後に”東京都響と聴衆は素晴らしい宝を神に感謝すべきだろう”と締めくくっている。感謝すべきは、神でなく矢部さんではないか、という半畳もいれたくなるのだが、筆者の言わんとするヴァイオリン、なかでもストラディバリウスの神業の如き美音への深い感動はよくわかる。
昨年、ドイツの誇るヴァイオリニスト、フランク・ペーター・ツィンマーマンのリサイタルをサントリーホールで鑑賞した時のことがよみがえった。(彼の音楽の特徴を最も能弁に語るのが、かってN響と共演したときのベートーベンVn協奏曲であろう。この時の演奏会は、名演奏として今年も再放送されたが、ベートーベンの大きな宇宙観を見事に表現し、尚且つベートーベンの天衣無縫さをもチャーミングに歌っている。)おそらく楽器は、ドイツ財団から貸与されていたストラディバリウスだと思うが、とにかく音が豊饒で艶やかなのである。まるで天上の天使の声のように、輝かしく美しい。そうかと思うと、一瞬のうちに哀切と暗い情念がほとばしる。そのあまりの素晴らしさに、ヴァイリニストの演奏を聴いているのか、ストラディバリウスという楽器を聴いているのか、不思議な感慨さえも覚えた。

アントニオ・ストラディバリ(Antonio Stradivari)は、1644年イタリア生まれ、音量は弱冠落ちるが甘美な音に特徴のある名器の製作者ニコラ・アマティに師事し、後に独立して1737年に93歳で亡くなるまでクレモナで楽器製作に励む。(この長寿をあやしいと私はにらんでいる。ラベルをはるために無理やり長生きさせていないだろうか。)生涯に1200挺を製作(多産家!)、そのうち現存しているのが、600挺と言われている。当時から彼の製作したヴァイオリンは最高級とされ、そのプライドの証としてラテン語では”Stradivarius”と表記されている。

とにかく300年前の彼の製作した楽器を再現してみることは、不可能とも言われている。もっとも楽器の真の価値は、100年たたないとわからないというくらいだから、新作の中に将来のストラディバリウスがかくれているかもしれない。映画「レッド・ヴァイオリン」で女性の生血をニスに交ぜる場面があるが、これもストラディバリウスからくる”伝説”からきている。現代科学を駆使し、ニスの成分や材質を研究し、コンピューターでサイズの黄金比を調べても、美声の謎は今もって解明されていない。いい音の楽器は顔も美しいというのが定説だが、ストラドは写真で観ても本当にほれぼれするほど綺麗な顔をしていてあきない。
ストラディバリウスの使用者は、チャイコフスキー・コンクールに出場するために手にいれた諏訪内晶子さん(現在は日本音楽財団から貸与されている楽器)をはじめ、最近2台めに買い換えてお母さまがことの顛末記を執筆した千住真理子さん、ベテランでは家を売って手に入れた辻久子さん、試奏したら手離せなくて銀行ローンをくんでしまった天満敦子さん、小金がたまったら弓、大金がたまったらヴァイオリンを買い換えると豪語していた高嶋ちさ子さんもつい最近ストラディバリウスをお買い上げ(大金がたまったのか)。こうした使用者をあげても意味がないのだが、往年の名演奏家ヤッシャ・ハイフェッツ、オイストラフから新人ハーバード大学に進学する五嶋龍くんまで、この楽器を愛用。それもそのはず、弦楽器奏者にとって楽器は命の次に大事である。奏でる技量は必要だが、表現したい音をつくるにはそれに応えてくれる楽器が必要という宿命からのがれられない。

300年という時間をこえて、現代の名演奏家が再現するモーツァルトやバッハ、ベートーベン、それらの名演奏にたちあう一瞬こそ、ここに生きていることを神に感謝したい至福の時である。

やっぱり東京都響の定演に行こう♪

『趣味の問題』

2005-12-27 23:32:13 | Movie
ハリウッド大作娯楽映画には背を向けて、18禁映画やマイナーなヨーロッパ映画を好むのも、それは私の”趣味の問題”と言えよう。私の場合、趣味にこだわりをもっているが、決して高尚な趣味と誇れるレベルでもない。しかしまれに自分の完璧に近い趣味にこだわる方もいるかもしれない。そういう貴族趣味の方にとっては、美しい妻や賢いこども、家族もここちよく自分にふさわしい家具のようなものかもしれない。

「趣味の問題」は、徹底的に自分の趣味にこだわるあまり、錯綜した精神に殺される不思議な寓話である。
50歳をこえても若い頃の美貌の名残を残す化粧品会社を経営するフレデリック・ドゥラモン(ベルナール・ジロドー)は、フランス国内でもやり手の実業家でもあり富豪。豪奢な屋敷に住み、自家用ジェット機でビジネスに飛ぶ彼は、その豊富な経済力ですべてにおいて洗練された趣味で統一している。勿論、多少年齢にふさわしい油がのった体型ではあるが、中年太りとは無縁。なかでも美食家である彼は、行きつけのレストランで給仕をしている美青年ニコラ(ジャン=ピエール・ロリ)を発掘する。フレデリックは繊細な舌をもち、それを的確に表現できる彼を気に入り、自分の「試食係り」として高額な報酬で雇うのである。

フレデリックの試食係りに求めるレベルは、趣味人らしく高い。ニコラは禁煙をし、雇い主の好む高級スーツに身をつつみ、常に行動を共にするようになる。高額な報酬のためというよりも、ニコラ自身も年上の成功者である彼にひかれていくからである。これは契約関係に基づく支配者と奴隷の関係である。だから恋人のベアトリス(フロランス・トマサン)にも、経営アドバイザーとみえすいた嘘をつき、仕事の内容をあかしていない。ニコラの精進と努力のかいもあり、雇い主の求める理想的な「味見係り」をこなしていく。すると、舌だけでなく、すべてにおいて自分の味見係りとしての役割、自分のもうひとりの分身としての存在へと要求がエスカレートしていく。料理だけでない、女性を味わう時も、怪我をした時の痛みや苦痛も。ニコラに求めるのは、自分の趣味にあったするどくて素適な感覚をもっている体である。
ニコラは、少しずつ自分を削っていくようになり、消耗して衰退していく。これは危険なゲームなのか。フレデリックは、ニコラがどこまでこのゲームについていくか試しているのか。

最初は首尾よく、青年の高額なお金で買った趣味の調教と飼育に成功した。しかし趣味の問題が、その人の存在そのものに関わるアイデェンティティーだとしたら、やっかいなものである。趣味を同一させようとすればするほど、ニコラは精神と肉体の乖離がすすんでいく。ニコラがフレデリックを乗っ取ろうと近づくにつれ、男女の愛とは違ったゆがんだ独占欲が芽生えてくる。それを試すためにあらたにニコラのかわりの試食係を採用してみせびらかすフレデリックと、そんな光景に激しい嫉妬を覚えるニコラ。彼らは同一の存在に同化するにつれ、互いへの依存と憎しみを感じるようになるのである。

趣味人は大変である。常に美味しいものを食べ、センスの良い服装を整えて、身のこなしも洗練させていなければならない。日々努力が伴うのである。たとえ命をかけても。
「美食は芸術である」
監督・脚本:ベルナール・ラップ
フランス映画は、料理と同様奥が深くて複雑だ。

ハイドン/オラトリオ「天地創造」 N響定期演奏会より

2005-12-25 22:24:55 | Classic
Gacktさん、ごめんなさい。。。クリスマス・イブの最初で最後の東京ドームの「DIABOLOS」ライブを欠席いたしました。

貴方のことだから、あれほどこだわっていたところをあえて東京ドームという大規模会場でライブを敢行するからには、”普通ではない”と予測しておりましたが。そうですか、半年前から準備して5億円もの経費をかけて華麗に乗馬に乗って登場されたわけですね。その勇姿が「中世の貴公子」というよりも、やっぱり「暴れん坊将軍」に見えてしまうのは、愛のなせる錯覚とお許しください。

さて、そんな貴重なライブをあきらめてまで私がかけつけたのは、一年前から予定をたてていたNHK交響楽団定期演奏会、ハイドンのオラトリオ「天地創造」。指揮者である広上淳一さんが御するのは馬ではなく、世界的にも知名度の高いNHK交響楽団と国内トップランナーのソリスト、そして母校の東京音楽大学合唱団です。
指揮者の広上さんは、容姿を話題にするのは失礼ですが、舞台に登場するときも着席しているオケのメンバーにうずもれてしまいそうなくらい身長は低いです。(当日の指揮台もあまり例のない二段重ね。)近年髪も後退し(←この点はひとごとでないのですが)、見栄えはGacktさんとは、月とスッポンくらいう~んとかけ離れております。⇒⇒
しかし、彼の指揮は実にチャーミングで演奏家や観客を魅了させるのです。通常音大の合唱となると女声は、声楽科からオーディションを通過した者が参加でき、男声は他楽器をよせ集めてなんとか人数をそろえます。そうした男子学生の中には、歌うことに関してあまり熱心でない輩もいるのですが、広上さんの指揮で彼の曲の解釈や指導を受けるにつれ、除々に歌うこと、声で音楽を表現することの楽しさにめざめるそうです。今回のサプライズといってもよい最後の「きよし この夜」も、広上さんの発案だそうです。何も知らずに半分ぐらいのお客がすでに出てしまった後、静かに流れた東京音楽大学合唱団のアンコール、クリスマスにふさわしいこの歌は、しみじみと心にしみ渡りました。

またオケも合唱も小編成、チェンバロを中央においた今回の演奏会では、本来ハイドンの時代では、「天地創造」は教会で歌われるべきものということをあらためて思いおこさせます。それにしては、NHKホールは音の響きも悪く、あまりにも広すぎて音楽の本来の主旨がいまひとつ伝わらず残念です。もし会場がサントリーホールだったなら、もっと舞台と客席が一体となり、天地創造の神々しさに、私のような世俗にまみれているものも深く敬虔な気持ちに更正できたのに。

ソリストはすでにご活躍されている実力者ぞろいらしく、終始安定し、堅実な声で楽しめました。欲を申せば、ソプラノの釜洞祐子さんの声は、骨格がしっかりとしていてどんな役でもオールマイティ、けれどもその分もう少し透明感が欲しいところです。ガブリエルという大役ですから、こうした落ち着いた声がふさわしいのかとも思えますが。東京音楽大学合唱団は、一年かけて研鑚を積んだ女声上位?の効果があり、昨年よりもさらにレベルアップしているもよう。

年末、どこでもベートーベンの「合唱つき第9番」でにぎやかですが、私はこのような合唱が好きです。

「妻が、さやしくしとやかに寄り添う。朗らかな無垢な心で、魅力あふれる春のすがたをした妻は 
愛と幸福と喜びを ほほえみのうちに彼にもたらす」
      -Haydn オラトリオ<天地創造>より


----------2005年12月25日 NHKホール---------------------------------


指揮 :広上 淳一
ソプラノ:ガブリエル、エヴァ:釜洞 祐子
テノール:ウリエル:佐野 成宏
バリトン:ラファエル、アダム:久保 和範
合唱:東京音楽大学

曲目:ハイドン/オラトリオ「天地創造」


『ロード・オブ・ウォー』

2005-12-24 19:48:59 | Movie
「LORD OF WAR」武器商人、戦争王、そして死の商人。どんな呼ばれ方をされようと、そこに需要があるのだから経済原則に従って、彼らは商談に飛ぶ。今度の顧客が待っている地は、アフリカか、中東か、それともアジアか。
今世界に5億5丁の銃がある。これは、およそ15人に1丁にあたる。どんどん生産して、銃を売ろう。ひとり、1丁の世界に。たとえ一発の弾丸が、少年の額を打ち抜くことになっても。
(以下、かなり映画の内容に触れております)

ウクライナからの移民ユーリー・オルロフ(ニコラス・ケイジ)は、少年時代にNYにやってきて両親の経営する汚くてちっぽけな食堂を手伝う。さえない日々に鬱屈していたところ、ある事件をきっかけに、彼は食堂が食事を提供するように、戦場で武器を供給するビズネスを思い立つ。語学に堪能で、能弁で嘘をつくのがうまい彼にとって、”幸運”にも武器ディーラーの仕事は水にあっていた。しかも片腕として協力を依頼した弟のヴィタリー(ジャレッド・レト)のようなやわな神経でなく、タフでもある。たとえ目の前で紛争により少年たちが撲殺されようが、内戦で兄弟が銃で撃たれて蜂の巣になろうが、自分とは関係ないこととビズネスマンに徹することができる。戦場で、商談に励み、クールに電卓もたたける。天敵インターポールの刑事ヴァレンタィン(イーサン・ホーク)の追求も絶妙なタイミングでかわすこともできる。

「私は殺し屋ではない。人を撃ったこともない。戦場で稼いでいるが、人が死なずに済めばと願っている。」
そう、彼ら武器商人は、ただそれを所望する人々に品物を売っているだけだ。
ユーリーは世界の政界、軍要人が招かれる1982年ベルリンでの「兵器ショー」にも潜伏する。ここでは、堂々と最新兵器や高性能の武器を売り出す場となっている。たくみな嘘をつく商才は、破産覚悟でホテルをかしきり、ジェット機を準備してまで舞台演出をし、幼なじみで初恋の相手トップモデルとして活躍するエヴァ(ブリジット・モイナハン)を落とすためにも役立った。両親を銃撃されたエヴァにとって、センスよく高価なインテリアで囲まれたあたたかい家庭を築くことは夢だった。だからこそ、その生活を支える資金がどこからでているのか、それを笑顔でかためられた嘘に気がつかないふりをして問わない。

こどもにも恵まれたユーリーの運は、さらに上昇基調。米ソの冷戦終結宣言。表では平和と民主主義が高らかにうたわれ、ゴルバチョフはノーベル平和賞を受賞する。その裏で、武器商人たちはこのビッグチャンスをとらえて旧ソビエトから膨大な武器や兵器を強奪して、アフリカをはじめとする開発途上国へ供給して大もうけした。1982年から10年間でウクライナだけでも320億ドル以上の武器が盗まれている。なかでも自動小銃AK47カラシニコフは弾薬も入手しやすく、丈夫。しかも重さも軽いため、カラダの小さい少年兵でも扱いやすいメイン商品である。戦争犠牲者の9割が、こうした銃で殺されている。

やがてエヴァが夫の商売を直視する時がやってくる。高価な宝石も、シルクのドレスも、高級家具も血塗られたビジネスで買ったことを知る。悩み泣くエヴァだけを責めることはできない。アメリカ、ブッシュ政権をたたくことが、平和を望む人々の共通のテーマーにもなっているようだが、こうしたビジネスに、西側のほとんどの大国は無縁でない。明日、表参道で高級中華店でランチをして、ハイドン「オラトリオン」を鑑賞する予定の私も、アフリカをはじめとする勃発する紛争や戦争を踏み台にして繁栄している日本のいち国民だから。

映画の全編は、軽い音楽とユーモラスで流れていく。こうした手法は、実にさえている。そしてこの映画の鑑賞方法は簡単だ。
アンドリュー・ニコル監督の言うように、戦争は永遠に終わらない。世界に絶望すれば、このエンターティメント映画を充分に笑いながら楽しむことができる。そう、、、絶望できれば。
今日もユーリーは、スーツをすきなく着こなし、現金と商品の見本をいれたアタッシュケースを手に戦場に向かう。彼にとってこの商売は、天職だ。たとえ彼が不運にもなだれ弾で命を落としても、次のユーリーが現れる。

民主党代表前原氏の厳寒

2005-12-23 12:07:22 | Nonsense
民主党の最後の切り札とささやかれていた前原代表の前途は、実に多難である。
お得意の安全保障問題で張り切りすぎたのか、イラク政策問題でブッシュ政権からはつれなく扱われ、中国からは会見拒否という冷や水を浴びせられた。帰国すれば、シ-レーン防衛強化や憲法改正の必要性を訴えたことから、旧社会党出身の横路孝弘衆院副議長は「自民党と民主党は、カレーライスとライスカレーのように、名前が違うが中身が違わないことになる。これでは、次の選挙戦で負けてします。」と、怒りまくる。帰国すれば、まさに日本列島は厳寒だった。さぞかし前原代表にとって、寒さが厳しいことだろう。

「脱労組依存」を掲げて代表におさまった前原氏にとって、この旧社会党系議員たちは運命共同体でありながら、やっかいな存在である。元社会党書記経験者の赤松宏隆氏は、副代表に就任。マニフェストを作成した中心人物の仙谷由人や自治労出身の峰崎直樹氏などが、要職をしめハバを効かせている。やがては衰退していく種族なのだが、党の政策スタッフ、事務局を殆ど社会党から引き継いだため、いまだに影響力を残している。

大阪市では、組合の圧力により、いまだに一般行政職の大卒の割合は25%におさえられている。市営バスの運転手の年収は、1400万円。大阪市民は、なんと高給取りのお方に運転をさせているのか。おそれおおいことだ。次々とあかるみにでた官公労の実態に怒る国民感情を、自民党はたくみに選挙で利用してきた。
前代表の岡田克也氏は、対立する中国問題に関連して、「中国に厳しく対応すれば政治家としての評価が高まる傾向にある。そんなものにのって政治をやろうと思わず、それを吸収する政治でなけらばいけない」と、若い世代の不満をいさめる。こうした岡田氏の温厚な姿勢を高く評価するが、昨年の経済同友会の席での「自治労や日教組と敵対せずに、彼らと一緒にこの国を変えていくつもりだ」という、”温厚”な理想は、あまりにも現実を知らな過ぎた。

こうした事態を反省し、民主党の勢力をまきかえすために、まだ若く最後の切り札だった前原代表が登場したのではなかったのか。旧社会党系の反発におしきられ、前原氏は改正テロ特措置法も賛成の立場を反対にかえざるをえなかった。かっては、社会党の存在は労働者にとって必要だった。権力に立ち向かい、働く者の当然の権利を主張するためにも、弱者が力を寄せ合い戦う必要があった。けれども世の中は、めまぐるしく変わった。時代遅れの思想が、彼らにはびこるのは何故か。それはやはり旧態依然とした既得権益で温室に育ったために、世間の冷たい風を知らないという堂々めぐりなのだろう。
次回の選挙への危機感、それは党全体だけでなく、旧社会党系議員自らにかえるということに、気がついていないのだろうか。

「ピアニストが見たピアニスト」青柳いづみこ著

2005-12-23 00:05:33 | Book
先日、久しぶりに手にとった「音楽の友1月号」で、旧ユーゴスラビア出身のピアニスト、イーヴォ・ポゴレリッチのお姿を拝見して、おもいっきりのけぞってしまった。そこで目撃したのは、日の出をかついでいるような”おしゃれな”ファッションに身をつつんだりっぱな中年男性のいでだちのイーヴォである。「スカルラッティ・ソナタ集」のエキゾチックで眩惑的な彼は何処へ・・・。ピアノは他の楽器にくらべて圧倒的にレパートリーも多いが、また演奏家の層もあつい。確立された個性が変容してたちあらわれなければ、生き残れない。ピアニストをめざすなら、そこにはマーケットで必要とされている数だけの熾烈な席とり争いが待っている。そんな試練とは無縁な、天からのその時代の授かりもののような天才と言われるピアニストたち。聴衆から愛され、世界中を演奏旅行。待っているのは、賞賛の嵐のような拍手と名誉。
けれども、どんなところにも光りがあれば影もあり、垂涎の天賦の才の輝きがまぶしければ、その闇はなお深く暗いものでもある。

「ピアニストが見たピアニスト」は、文字どおりピアニストである青柳いづみこさんが、神のような才能を賜れたピアニストたちを音楽的にも人間性からも分析した稀な著書である。

<目次からの引用>
負をさらけ出した人・・・スビャトスラフ・リヒテル、イリュージョニスト・・・ベネデッティ=ミケランジェリ、ソロの孤独・・・マルタ・アルゲリッチ、燃えつきたスカルボ・・・サンソン・フランソワ、本物の音楽を求めて・・・ピエール・バルビゼ、貴公子と鬼神の間・・・エリック・ハイドシェック。

現役ピアニストも含めて、20世紀後半に幸福な時間をもたらしてくれたピアニストたち。彼らは際立った才能に恵まれながらも、コンサートピアニストとして特有の緊張感と孤独、競争、自虐的な演奏への反省、常に自分自身への存在感への不安にさらされている。これは特殊な職業がもたらすものなのか、はたして著者のいうクラシック音楽をとりまく環境問題、商業主義の弊害、たえて繰り返すことを求められる演奏行為そのものむずかしさなのか。

なかでも一番興味をひかれたのは、何回か生で演奏を聴いている女性ピアニスト、マルタ・アルゲリッチである。元祖野獣派として誰からも絶賛されるマルタ・アルゲリッジが、悪性の皮膚癌の手術を米国でする時に、誰もつきそう者がなかったという。それを聞いた海老彰子さんが仕事を1ヶ月キャンセルして、彼女につきそった。わがままで自由奔放な彼女をつかまえ、手術を説得させた。高額な医療費は元夫シャルル・デュトワをはじめ、4人の人物に出資させ、マネージャーには元気になったら必ず返すと約束した。
もの心がついた頃から、その才能ゆえに母やマネージャーからピアノの椅子に座ることを求められたアルゲリッチ。彼女は多くの人に愛され、何回も結婚したけれど、結局人が見ているのはあくまでもピアニストとしての彼女であり、ひとりの女性として、ひとりの人間としての関心を誰もはらってこなかったと私は考えている。音楽家としては最高に幸福な彼女が、ひとりの女性としても幸福なのだろうか。彼女は、こどもの頃から才能に恵まれたがために、孤独だった。
ソロで演奏するのを嫌い、近年室内楽に軸足を移しているアルゲリッチを、相対的で刹那的、疾走する時間の流れの中であらゆる可能性を探り、イマジネーションの対位法を楽しんでいるという著者の分析は、非常に鋭い。また、ピアノを殆ど聴かない私なのに、読んでいるうちに空想のなかで音楽が響いてくるような錯覚もするくらい、それぞれのピアニストの演奏に対する批評が優れている。これは、青柳いづみこさんの音楽家としての感受性の豊かさと冷静に分析する知性、文章表現能力のレベルの高さからくるのだろう。新聞の著名な音楽評論家とは違った、同調と優しいまなざしを感じる本である。

今週号の「週間AERA」の表紙は、新進気鋭のユンディ・リ君である。彼は5年前のショパンコンクールで、15年間空位だった1位に輝いた。今年のショパン・コンクールでは、ショパンの母国ポーランド出身の青年が、圧倒的な強さで優勝。ピアノだけでなく髪をアイドル歌手のように整え、ユンディ・リ君も、これから一時も休まずに芸術への厳しい道のりを走らなければならない。なんといっても、聴衆はあきやすいものだ。
「夜のガスパール」を聴きながら。

*ピアノを好きな方、ピアニスト、ピアノ曲に関してご教示いただけたらありがたいです。

『ハッピーエンド』

2005-12-21 22:41:31 | Movie
先日、Gacktファンクラブの会報が届いた。
そこではオシゴトに励むGacktさんの写真が見られるのだが、1枚のショットに思わず顔を近づけてしまった。
舌長自慢!「舌が長いと色々と便利なんだよ。イロイロとね(微笑)」・・・とのコメントもあり。
確かに貴方の場合は、その長い舌をたっぷりとイロエロと活用されたのだろう。
そんな長い舌がご自慢のGacktさんは自分があくまでも主導権を握っていると思っているかもしれないが、積極的に楽しんだのはむしろ女性の方かもしれない。
女性が積極的に楽しむのも自然な流れ、しかし状況判断を怠るととんでもない”ハッピーエンド”な結末に落ちる。

チェ・ボラ(チョン・ドヨン)は、こども対象の英語学院の院長である。ぴったりしたスーツがなかなか似合うのだが、エレガントというよりも職業上の立場と生活を支えるビジネスマンの戦闘服にも思える。なぜならば、夫であるソ・ミンギ(チェ・ミンシク)は、銀行をリストラされているからである。家事と育児を手伝ってくれるのはありがたいが、古本屋で恋愛小説の立ち読みをしている夫はあまりにも頼りなく、またものたりない。。。

そんな彼女の息抜きは、大学時代の恋人キム・イルボム(チュ・ジンモ)との情事である。
「昼下がりの情事」、そして秘密の情事は萌えるらしい。明るい光りの入るキムの部屋で、様々な体位を楽しみ汗をしたたらせるふたりは、イケナイこととわかってはいるが、どんどんと快楽の底に沈んでいく。今でも学生時代のふたりの写真を飾るイルボムは、彼女との生活を考え始める。ボラは毎日仕事に追われているが、そろそろ恋人との関係を終わらせるべきだと考えている。そして、ないがしろにされている夫のミンギが、秘密の箱の存在に気づき、開いてしまうのは、いつ?三人のバランスが少しずつ歪みはじめてきている。

この映画でボムとイルボムのふたりの人物描写のうえで重要なSEX場面では、チョン・ドヨンは堂々と全裸で挑んでいる。”挑んでいる”という表現がなによりもふさわしいのは、こんな撮影エピソードである。
ベッドシーンに不馴れなイルボム役のチュ・ジンモがNGを連発すると、先輩格のチョン・ドヨンが彼の手をとり自分の裸の胸にあて、
「私たちが恥ずかしがっていては、この映画はダメになるのよ」と励ましたという。
まったく身長180センチ、体重71キロの理想的な肉体のチュ・ジンモとしても、このからみにひるむのもうなずけるくらいの大胆さである。とても同時期に「我が心のオルガン」で素朴な小学生の役を演じていた人とは思えない。ただ脱げばよいというわけではないが、演技派という評価は、女優チョン・ドヨンにふさわしい。

この映画は、である。

夫を裏切る激しいSEX描写という理由もあるかもしれないが、18歳未満にお薦めできないのは、むしろおとなしく飼いならされた夫のとった最後の行動にあると思う。ハッピーエンド。夫の幼いこどもを抱え、漂白して疲労の滲む表情と、このタイトルの恐ろしさに身がすくむ・・・人はくれぐれもご用心。油断は禁物である。

目の保養にもなる裸をお披露目した映画が大ヒットしたおかげで、主婦層もとりこんだチュ・ジンモ君。
「最近、近所の女性がおしかけてきて、家にいるのが恐い」
←とも言っていたらしい・・・。

弁護士になる元殺人者

2005-12-17 23:58:24 | Nonsense
人はどこまでも赦されるのか。そして罪をあがなう罰は、どこまで求めるべきなのか。
そんなことを考えさせられるCBSレポートより。

それは、殺人を犯した元受刑者が、服役中にアリゾナ州立大学で学位を取得し、アリゾナのロースクールで弁護士をめざす1994年当時の学生の姿から始まる。
髭をはやし、図書館で専門書を読むジュームズ・ハムの姿は、社会人枠で入学したかのような少々年を重ねた勤勉な学生にしか見えない。けれどもかっての彼は麻薬の密売を商売とし、1974年仲間とともに男性ふたりを襲い、銃で殺害して金品を強奪した”元”殺人者である。殺人を犯したときも、判決を宣告された時も、なんら悔悛もみせず、何も感じなかったという。それが、司法取引ですべてを認めることによって死刑を免れ、刑務所に服役したまさに翌日、ここで精一杯生きることが自分の”務め”だと思うようになった。

17年間の服役中に、彼はアリゾナ州の税金を遣い、無料で学位も取得した。そして服役後、優秀な成績で入学条件をクリアーしてロースクールにも通学するようになる。勿論、このロースクールでの経費は、州民の血税がそそがれることになる。そのため、州民の反発は大きい。アリゾナ州グランズ・ウッズ総長は、怒る。
「この20年近く、アリゾナ州は彼の欲しがるものをすべて与えた。彼は殺人の罪を犯したおかげで、税金の恩恵にあずかってきた。」
この厳しい指摘は、結果論ではあるが、ある側面の事実をいいえていると私は思う。
それに対して、彼は「自分といういち個人の問題ではなく、もっと根深いものがある。つまり刑事裁判制度、受刑者の更正、社会復帰に対する市民の不満が自分への入学許可によって爆発したのだ。」と、未来の弁護士を予測させるかのように、つとめて冷静に理知的な印象さえも与えて明確の反論する。

それから10年、彼はどうしているのか。しわのふえたウォーレス記者が、再び彼にインタビューをしている。
現在の彼は、フェリックスにある法律事務所で、弁護士の補助職員として働いている。つまりいまだに障害があって、ロースクールを卒業したものの弁護士にはなれないのだ。けれども今年初めて弁護士になる資格試験に合格。アリゾナ州最高裁判所に弁護士になる手続きを正式に申請中、またまた大問題になる。市民の怒りはおさまらず、州の法曹界も彼の弁護士就任には反対の立場である。元殺人者が自分たちと同じ高いポジションにたつことに、プライドが許さないというわけではないだろう。法律にたずさわる者には、一定の基準を設けるべきだというのが彼らの主張。97年ロースクール卒業した時に講師へのオファーがあったのに、再び騒動がもちあがり、翌日契約は破棄された。ジュームズ・ハムの更正への道のりは、こうして厳しく、どこまでも”元殺人者”という前科がつきまとう。

彼の日常生活は、法律事務所で働きながら、元判事の妻と「Middle Ground」という団体をたちあげ、刑務所改革運動に取り組んでいる。

映画「スリーパーズ」(1996年)は、私がブラッド・ピットを初めて世間の評価どおりの美青年と認識した映画だ。N・Yデイリーニュース紙、元記者の実体験によるノンフィクションを映像化したこの映画で、彼は少年時代に仲間とともに非行を犯し少年院に収監され、やがて地方検事となり、記者になった友人と協力して少年院時代に虐待された事実を暴き、合法的に彼らに復讐していく物語である。
金髪を七三にわけ、ダークスーツと白いYシャツに地味なネクタイをしめ、陰のある検事役のブラッド・ビッドは最高に素適だった。それにしても、少年院に入所していた前科のある少年が、やがて検事になるのは日本ではとうてい考えられない。やはり米国はチャンスの国だと実感した。映画の中の少年たちが、非行に走るにはそれ相応の背景がある。

ジュームズ・ハムは、確かに長い間塀の中で拘束されてはいたが、命を奪われた被害者や遺族の感情を考えると、その罪ははかりしれなく大きい。「Middle Ground」の活動は、せめてもの罪ほろぼしになると彼は考えている。
「罪をあがなう方法を見つけてほっとしている。これで被害者の死を無駄にしないですむ。社会に恩返しをする活動が、被害者への罪を償うことにつながる。」
あまりにも模範解答である。自分を救済するための活動ではないか、と思わず揶揄したくもなる。

番組の冒頭で、ストレッチャーにのせられた顔面血だらけで裸の若い被害者の上半身と、もうひとりの遺体で発見された時の背中の写真が紹介されていた。歳月を経て、髪に白いものがまじる紳士然とした加害者の姿に、私の脳裏にはその映像が何度も重なって映る。元殺人者に税金を投資したにせよ、こうして彼は有形無形のかたちで一般市民に少しずつ返済している。けれども亡くなった被害者が、還らないのも事実だ。彼が今後どんなにりっぱな事業や活動をせよ、元殺人者という重いレッテルを背負って生きるべきだと私は考える。たとえ、一日でも自分の犯した罪を忘れてはいけない。たとえ一瞬でも決して心の底から笑うことは許されない。にも関わらず、努力して更正して社会に役立つ仕事につこうという彼を、そのチャンスのたびに元殺人者という前科でつぶしていこうという一般市民の感情にも疑問は残る。
人はどこまでも赦されるのか。そして罪をあがなう罰は、どこまで求めるべきなのか。その結論は、、、いまだに模索している。

*日本では、禁固刑、懲役刑を言い渡された者は、弁護士になれない。