千の天使がバスケットボールする

クラシック音楽、映画、本、たわいないこと、そしてGackt・・・日々感じることの事件?と記録  TB&コメントにも☆

「ノーベル賞の秘訣」

2007-02-27 23:49:17 | Nonsense
今年の元旦に配達された新聞で真っ先に目を通したのは、「日経新聞」の私の履歴書。ノーベル物理学賞を受賞した江崎玲於奈さんが登場したからだ。
だいたい経営者として名をなし成功した方の履歴書は、おおかた保守的でちょい自慢めいてちーっともおもしろくない。退屈だ。その点、芸術家や研究者の履歴書は、発想が斬新で若々しいから読んでいて目を開かれることがある。

江崎さんの履歴書のはじまりは「ノーベル賞の秘訣」というタイトルで、さすがに講演になれていらっしゃる方らしく、読者の興味の惹きつけ方をよくご存知である。全部で五か条あり、これは95年スウェーデンの物理学専門誌「フィジカ・スクリプタ」にて”江崎の黄金律”と紹介されている認定済み(?)とのこと。
①今までの行きがかりにとらわれてはいけない(しがらみを解かない限り創造性は発揮されない)
②大先生にのめりこんではいけない(権威の呪縛につかまり、自由奔放な若さを失い、創造力が萎縮する)
③無用ながらくた情報に惑わされてはいけない
④自分の主張を貫くためには戦うことを避けてはいけない
⑤こどものようなあくなき好奇心と初々しい感性を失ってはいけない

上記の条件は、ノーベル賞をとるための十分条件ではなく、あくまでも必要条件だという。このメッセージは単に研究者だけでなく、社会で働く者、またよりよい生き方をおくりたい者にとっても多くのことを示唆している。また同時にこの条件を最低限クリアするのは、けっこう難しい。そして自信と勇気が必要だ。
江崎さんが大学卒業後、最初に就職したのは、神戸工業という会社だった。当時神戸工業は財政難を理由に新しい研究設備は勿論、満足な研究設備をそろえようともしなかった。研究者としての未来がないと気づき始めた江崎さんは、自分のプランどおりの人生ドラマに運ぶためにステージを変える決意をする。
江崎さんにとっては所属する会社は、働いて給料をもらうところ、というよりも研究者として活躍する”場”に過ぎないのだった。早速次のステージなる従業員400人ほどのベンキャー企業の東京通信工業(現ソニー)に移ろうとするが、神戸工業は退社を認めないどころか研究課から営業課に異動という懲罰的人事までが用意された。江崎さんは怒り、内容証明郵便で「退職届」を送った。8年以上も働き、有力な特許まで取得して会社に貢献したにも関わらず、規定の退職金は支払われなかったという。ちなみに今のこの会社が求める人物像はサイトで調べたら『自らキャッチし、自ら考え、自らやる』ことができる人材のようだ。さらに育成することによって、企業の競争力の鍵となりうる「人材競争力」を高め、熾烈なCompetitionを勝ち抜きNo.1、Only Oneになることが目標・・・だとか。時代が変われば、求める人物像も変わるものだ。
その後更に米国IBMに転進して、半導体の研究でエサキダイオードと呼ばれる電子開発を行い、1973年にノーベル賞を受賞。筑波大学の学長に招聘されるまで32年間米国に滞在した。履歴書を読んでいて、江崎さんは一般的な日本人と発想が違うと感じる部分が多々ある。米国IBM時代のもっとも印象に残る話が、主任研究員として毎年年末に全研究者の順位をつけ、上位10%をブルーと呼び転職防止のために手あつい待遇と高給を保証する一方、下位10%をオレンジと呼んでいかに穏便に放逐するかに頭を悩ませたと回想していた。完全なる能力主義と成果主義、聞きしに優る米国の競争社会で生き抜いた江崎さんの発想が、和の心と多少テイストが異なるのも納得したところである。

でも最も興味深かったのが、江崎さんが提唱する”オクシロモン(oxymoron、撞着語法)”である。
萌芽的業績は個人の創造力に負うところが多く、彼らは独立を求め干渉されることを好まない。一方、研究所長は管理者として秩序ある体制を求める。この二律背反が起こった”組織化された混沌”、部分的には自由奔放に見えて全体ではバランスがとれている状態が素晴らしい研究が生まれる環境だという。
それを企業にも応用してはどうか、というのが江崎氏の提案である。部分的には混沌としているが、全体的には筋の通った体制である。若干、一時流行したカオス理論と重なる点があるかもしれないが。
この対立する語句を並べて深い意味をもたす語法も含めて、ひとつの組織論としておおいに共感した。こういう思考はすごく好きだ。

『フライトプラン』

2007-02-26 23:15:43 | Movie
18世紀の英国では、紡績工場が一大勢力で安価な労働力を大量に必要としていた。ある工場主は次のように語った。
「私は力織機には女性だけを使う、既婚の女性、とりわけ扶養家族のいる女を優先する。熱心で従順だし、生活に必要なものをえるために必死だ。」(アイビー・ピンチベック著「女性労働者と産業革命」より)
この時代、食べ盛りのこどもがいるママたちは、男性よりも低賃金で”極度な肉体労働に耐えさせるのが容易な労働力”として実に重用されていた。

現代の航空機設計士という最先端の頭脳労働に従事するママ、カイル(ジュディ・フォースター)も夫の自殺ともとれる突然の事故の哀しみにひたるまもなく、我が娘を救うために勇敢に戦う。その戦いは孤独で知能と体力のすべてを発動させる必要があったが、たくましいアメリカのおかん、ジョディ・フォースターの前に敗北という文字はない。

カイルは亡き夫をいれた棺とともに、一人娘のジュリアを連れてベルリンからニューヨークに行きの飛行機に乗っていた。上空10000フィートの機上で、不意に襲った眠りから目覚めると、娘の姿が抱いていたくまのぬいぐるみとともに忽然と消えていた。しかも乗客の誰も娘の姿を認めず、また機長から「ジュリアは6日前に死亡している」と記された通知書を渡される。思考が混乱する中で、確かにジュリアも一緒にいたという痕跡を見つけ、必死に彼女を探すカイル。機長をはじめ、乗務員・乗客すべてを敵にまわしても必死に娘を探す彼女の姿は、単に役柄を乗り越えてジュディ・フォスターそのものである。

世界で妻にしたいのは日本女性、もっとも妻にしたくないのがアメリカの女、そんなことわざがあるくらいアメリカの女性はマッチョだと断言したい。映画『エイリアン』で気持ち悪い異生物や『死と乙女』でテロリストとマッチョな戦いを挑むシガニー・ウィーパーしかり、『G.I.ジェーン』でくりくり坊主になってしまったデミ・ムーア、いずれ劣らず並みの男以上にシゴトができるだけでなく、強い!たくましい!「東京タワー」に見るニッポンの母がこどものために、おおらかに、しかも辛抱強く耐える忍従のつよさをアピールすれば、米国のママはストレートに勝負にでる。小柄でさえた美貌、頭の良さに定評があるジュディ・フォースターは、『告発の行方』で役者魂を見せたように女優としてのプライドも超一流だ。彼女の鍛えたしなやかな肉体に、個性派俳優で存在感のあるピースー・サースガードも完敗。

また密室劇、窓にのこされた絵、偶然乗り合わせた乗客全員が誰も娘の存在を知らないなど、随所にヒッチコックの映画『バルカン超特急』へのオマージュが感じられる。この名作を懐かしみながらも、70年近く前に製作された古典には足元にも及ばない凡作だったのが残念だった。最後の結末と筋書きに強引な感じもするのだが、密室劇の推理よりも単純なアクション映画として観ればそれなりに楽しめる。なんと言っても、あんな可愛らしい少女の存在を誰も気がつかないほど、現代人は他人に無関心で殺伐としてはいないだろう。
飛行機好きの方は、二階建ての豪華なつくりを楽しむこともできるが、所詮いつもエコノミー・クラスの人間には縁のないバーだったりもする。
産業革命の時代から、女は弱し、されど母は強し。。。

監督:ロベルト・シュヴェンケ

中国太子党の活躍

2007-02-25 15:34:18 | Nonsense
戸田誠二氏の「化けの皮」に「春香伝」という物語がある。
舞台は、朝鮮半島。主人公の夢龍は、都に渡り科挙の試験を受ける。昼間は働き、夜は科挙のための猛勉強。然し過酷な科挙の試験に何年も通らずに、あせりをつのらせている時に、ひとりの男性が声をかけてくる。
「おまえがいくら成績が良くても科挙には通らん。下級貴族でコネもないからだ。
そういうときは役人に金を握らせるんだ。」

中国共産党では、金を握らされた役人による官職売買の横行に警戒感を強めて実体を公表している。
黒竜省の元党書記長、馬徳は市幹部から600万元(約8700万円)を握らされて、死刑判決を受けた。ところが同省政治協商会議元主席の韓桂芝も馬徳から金を握らされて書記昇任に便宜を図り死刑。馬徳は、更に国土資源相まで務めた田鳳山にも賄賂を贈っていた。カネでポストを買い、その地位を今度は売るという鉱脈が地方から中央まで繋がっているところに、この国が未来の大国と風聞されながらも近代国家と言われない由縁がある。

毛沢東の時代、共産党内には権力の世襲に対する戒めがあった。そしてまた小平は天安門事件をきっかけに、太子党という共産党幹部の子弟の中央政権入りを禁じた。ところが、小平が現在の最高指導者に選んだ胡錦濤主席は、自分を牽制する江沢民から劣勢をカバーするためにすりよったのが、共産党の長老たちだった。彼は次々と小平時代からの長老をてなずけるために、その子や孫を大きな利権をうむ要職や官職につかせてきた。

かって権力を握った老革命家のために、「革命家のこどもは革命的」と太子党は文化大革命以前から生活、教育、就職とあらゆる機会に優遇されてきた。彼らは文化大革命の時には、地主や資本化を迫害もした。そして今、多くは特権をいかしてビジネスの分野で成功している。生まれた時から生活レベルが一般中国人と異なり、高い教育を受けた太子党は身のこなし、表情、服装にいたるまで”並み”ではないというハイソな「貴族」。革命を実行した目標は受けることなく、ただ功労受益だけを最大限に引き継いだ彼らに、貧しい農民を理解することは無理だという。そもそも理解する気持ちすらない。そんな太子党の中心的世代は50代。彼らは派手な生活で民衆に嫌われながらも、次々と中央政権入りしている。

文化大革命の時代は、党内の反対派を封じ込めるには「走資派」などという凄まじい階級闘争とイデオロギーが横行した。当時の最大の武器は、敵対勢力の腐敗の摘発だった。いまや経済資源を党が確保し、高給官僚になって蓄財するのが権力闘争である。しかも権力に繋がる地位は、カネで買えるのである。

どんなに努力しても拡大する貧富の差や太子党のような特権階級の存在。理不屈な世の中をあきらさせるのを、グローバル化した情報社会は待たないだろう。北京オリンピックを控え、なんと危うく脆い大国なのだろう。

下級貴族でコネもなかった夢龍は、声をかけられた男性の養子になる。彼をすくった汚いカネにまみれた親父のために、夢龍は貴族の権力をふるうようになる。たとえ民衆に憎まれても。

「化けの皮」戸田誠二著

2007-02-24 23:50:15 | Book
「本当に素晴らしい。絶対買いです。オススメです。これを読んでいないなんて、人生損です。素晴らしい。」

あの「物語三昧」のペトロニウスさまが、戸田誠二氏の「化けの皮」を読み直した時、感動のあまり落涙してしまったという。その姿を私はクールな元サッカー選手の中田さんの意外な一面としてイメージしたいながらも、それを打ち消すようにタコ八郎が泣いている姿が目にうかんでくる。
それは兎も角として、人生を深く生きたい私としては「化けの皮」はずっと気になる本だった。

ロシア、中国、朝鮮、アイヌの古典を脚色して漫画化した戸田誠二氏の作品の魅力を「まるで、フィッツジェラルドや村上春樹の最も暗い側面を読むときと同じ、感覚に引き込まれる。作者が抱える闇の本質が、現代都市文明のなかで孤独で震えて暮らす僕らの魂の孤独と共振するからと思う。」とペトロニウスさまが批評しているのだが、あたかも良質な短編小説が長編小説に優るような作品である。

私が最も印象に残ったのがアイヌの村を舞台にした「金の刀」。(内容にかなりふみこんでいます。)
キクナのおなかの中には、まもなく結婚を控えた幼なじみウトレントクとのこどもがいる。茶色い髪と茶色い瞳、色白のキクナは村では異人のような存在だった。そんな彼女にいつもやさしく声をかけくれた彼と愛し合うようになる。ところがキクナには大きな秘密があり、彼はそれを知るところになる。
キクナは和人との交易で栄えた村を嫉妬してその村を襲う”トパットゥミ”の風習の犠牲になった村の、たった一人の生残りだった。このトパットゥミの原則は、生残りに復讐されないために女子供も皆殺しするという徹底ぶりである。しかし殺すに忍びない赤ん坊を村に連れて帰り、育てたのがキクナだった。

村を守るために、キクナを殺すために、隠れた居場所を追求されるウトレントク。裏切れば家族ごと見せしめにすると迫る長老達。ここで彼はキクナよりも家族、ひいては村を守る選択をする。心は残しながらもキクナとおなかの中の自分のこどもを捨て、村の別の器量良しの娘と結婚する。ウトレントクは、男である。個人的な愛情(キクナと息子)よりも、地域社会=村を守るという選択が、個人の幸福に背をむけても国家のために戦場に向かっていく兵士を彷彿させる。その志は、まさに「作者が抱える闇の本質」と同じ、いかのにも男性的であると女性の私には映る。
またキクナが運良く再会した奇跡的に生き残っていた兄達も、結局は復讐のためにウトレントクが家族と住む村に向かう。
「オレたちは、このために生きてきた。復讐がよくないのはわかってる。・・・だが、やめることはできない。」
この兄達の言葉は一見平易で簡潔だが、その奥底にある人間心理に震撼する。

私はこの話から、ちょうど10年ほど前の「ペルー日本大使公邸占拠事件」を思い出した。96年12月、ネストル・セルパをリーダーとするトゥパク・アマル革命運動(MRTA)の活動家たちが、多くの人質をとってリマのペルー日本大使公邸を占拠した事件である。当時のフジモリ大統領は、自ら銃を携えながら指揮し、見事にテロリスト14名を制圧した。この時、16歳の少女テロリストも銃殺されたことに同情したおじいちゃん部長に、たとえ未成年でもテロリストはテロリスト、テロの根を根絶するためにはフジモリ大統領の決断は正しいと思うと私は伝えた。この場合、16歳の少女というよりもテロリストという事実が優先される。テロ行為への制圧は、温情もなく絶対にゆるさないという強い姿勢を示す必要がある。その一方で、テロリストのこどもが復讐のためにテロリストにならないよう、裁判では無期懲役を最高刑にしたのもフジモリ大統領だったのだが。テロリストと国家に横たわる復讐の連鎖は、世界がかわろうとも続く。それは、この「金の刀」の時代から悲しいことに変わっていない。

また復讐がより深く自分を傷つけることがわかっていながらも、武器をとらざえるをえない男達の哀しみに比較して、キクナはたった一人でこどもを産む。彼女はこどもを育てるために、必死で生きる。大義のために社会と生きる男性と違って、女性はたったひとつの新しい命を守るためにはなんでもする。その動物的ながらこれもまたひとつの闘いともいえる本能のままに生き抜く行動は、無益な彼らの憎しみをこえる。ウトレントクがせめてもの誠意を示して用意した手切れ金かわりの小屋も食料が尽いたために出て行き、食料を求めて放浪を始める。自分のためではなく、生まれた赤ん坊に乳をのませるために食料を探し求める。彼女の一人だけ容姿が異なることから村で疎外され、また婚約者からも去られて漂流する孤独は、都会に生きる日本の現代人の孤独感にも呼応する。ここで作品の支持率が高く読者の心をとらえるのは、キクナの最後に見るヒューマニストとしてのあたたかみとゆるしに満ちた作者の視点だろう。
髪の色も、瞳の色も、どこの出身であろうとキクナを受け入れる別の小さな村の素朴な男性と出会い、彼女は新しく暮らしをはじめた。

理論家でありながら、その底に”情”という豊かな感情が静かに、或いは奔流のように流れている方の共感をよぶ一冊である。


「ハケン弁当」のお値段

2007-02-22 23:21:20 | Nonsense
【日銀、0.25%の利上げ決定・8対1の多数で】

日銀は21日の金融政策決定会合で、政策金利の引き上げを決定した。金利を動かす対象としている無担保コール翌日物金利の誘導目標を現状より0.25%引き上げ、年0.5%とする。福井俊彦総裁が利上げを提案、政策委員の8対1の賛成多数で決めた。反対は岩田一政副総裁。利上げはゼロ金利を解除した2006年7月以来、7カ月ぶり。(07/2/22日経新聞より)

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そうなのだ。98年以来8年半年ぶりの金利引上げである。
ところが現在の私の目下の関心は、テレビドラマ「ハケンの品格」である。

S&F創立80周年企画イベントがせまっている。募集要項の「社内外問わず」という文言をまにうけ、派遣社員の森美雪ははりきって企画を考える。

不図頭に浮かんだ庶民的で身近なランチとして「ハケン弁当」を思いつく。片想いの里中主任の励ましと奨めもあり企画書を作成する。春子は企画を通すなら、企画者を「マーケティング課里中賢介」とすべきだと主張するが、里中主任は森美雪の名前で経営企画部宛に送信してしまった。コンペの最終選考にまで残るのだが、思わぬ事態に発展して荒れ模様。。。

「ハケンの品格」放映がはじまってからというものの、水曜日はブログの更新ができなくなった。こんなにテレビドラマを熱心に観たのは、韓国ドラマ「美しき日々」以来であろう。なんとあの「華麗なる一族」を抜いて視聴率のトップを独走中ということだ。いまや3人に1人が非正社員であるというひずみが生んだドラマかもしれない。強い立場=正社員、弱い立場=非正社員という明確な役割分担、人件費圧縮のため正社員が減って社員の負担は重くなり、非正社員はどんなに働いても収入は軽いという現実。ドラマでは正社員対非正社員の対立を描き、仕事はできないがヒューマニストの勘違い里中主任をクッションに両者の本音がもれるあたりが人気の秘密だろうか。第7回の「企画コンペに恋は厳禁」でも、正社員をだしぬいたカタチになった派遣社員、森美雪に対する正社員・非正社員の嫉妬心が彼女を攻撃する。そこで大前春子スーパー派遣が啖呵をきる。

「ハケンに負けたくやしさをハケンにはらいせする正社員はサイテー!」

このセリフはお見事。けれどもこのような対立は、かっての負け犬論争を思い出す。結婚している女性対未婚の女性にみる女性同士の対立をけしかけたような週刊「AREA」ではないが、派遣社員の殆どが女性であることを鑑みると、アプローチはなかなかよいのに底の浅いドラマに完結しそうな予感もする。惜しい気がする。

そして企画者・森美雪の名前に激怒した桐島部長(松方弘樹)が、”我社の社風にあわない”と派遣社員の契約を一方的に打ち切ろうとする。これは誰もがひどいと同情するが、実際現実なのだろう。

今日勤務先の派遣社員の方に聞いたのが、彼女が同じく派遣社員という身分で働いていた前の職場の様子だ。私の勤務先ではハケン社員は9:15出勤、残業なしが前提であるが、彼女の前の職場は残業をすることがハケン社員として働く条件だったという。繁網期の3ヶ月の忙しさはハンパではなかったそうだ。深夜残業あたりまえ、夜中の1時に仕事がおわりタクシー(交通費は勿論会社支給)で帰宅して、早朝出勤あり、休日出勤あり、残業代が基本給の2倍あったという。残業を断っていたら更新はなしになる。聞いているだけで、その凄まじさにあきれるのだが、もっと驚いたのが窓のない部屋に机が学校のように全員横並びで前を向いていることだ。私語はいっさいなし、机の上に携帯電話、飲み物、私物をいっさい置くのは厳禁、トイレも一日に決められた時間帯のみ行ける。正社員がハケン社員の業務量を管理して、仕事量の少ない人は更新できない。資本主義社会の残酷な現代版「野麦峠」と私が言ったら、彼女はその職場で働いていた3年間チャップリンの映画「モダン・タイムス」を思い出していたそうだ。それだけ働けば、働かされれば、収入も一般事務職社員よりも多くなるから定着率はそれほど悪くなかったそうだが、ただひたすらお金のために働くだけの結婚できない女性(←彼女曰く)が集まっていた。まるでどこかの国の縫製工場のようだ。

一流大学をでてもシゴトのできない男性はいる。そんな人でも大企業は体力があり、様々なオシゴトがあるから過重残業で働く社員やできる社員集団の片隅でなんとかひっそりと生き残っている人もいる。運よく就職できたあまり賢くなくて迷惑をこうむる女性社員もいる。そんな正社員の妻を養う家族手当も含めて既得権益である高給を維持するために、派遣社員が存在する。確かに厳しいグローバル化時代、人件費圧縮は必須かもしれない。しかしその痛みは、雇用形態を問わず労働者が負っている。

本当の対立は、正社員対ハケン社員ではなくて、労働者と会社や社会ではないだろうか。
「ハケン弁当」、、、お値段は500円だろうな~・・・。

東京クヮルテットの室内楽 

2007-02-19 23:44:13 | Classic
勤務先のクラシック音楽好きの前上司が、私が東京クヮルテットの室内楽を聴きに行くという噂を小耳にはさみ、「さすがにイイところをついているな~。」と、詠嘆調の感想をもらしたそうだ。でしょっ!とちょっとご自慢の私だったのだが、やはり東京クヮルテットの演奏会は、耳の肥えた音楽通の方もうらやましがるくらいの充実ぶり。仕事の万難を排しても、銀座王子ホールにかけつける価値大であった。

冒頭のハイドン「五度」の音の最初の発音からして、その音の豊潤さんに圧倒される。これまでのハイドンのユーモラスながら人の良さそうな室内楽というイメージを修正されるではないか。幸松肇氏のライナーノーツにあるように、ハイドンの芸術性への心境が成熟期にあたる劇場的演出効果という言葉どおりに、ドラマチックに情熱的に音楽が奏でられる。この時代の上品だがむしろ純粋な室内楽という枠にはおさまらない東京クヮルテットのアプローチ。
CDやこれまでの経緯から、創立35年を超えた世界最高峰のカルテットという円熟さへの期待を、よい意味で裏切られた。
やっぱりさすがに気迫、集中力充分の世界中を演奏旅行している大人の4人組である。
続くベートーベンの「挨拶」も、ベートーベンへの深い理解と愛情が感じられる愛らしく、さらにエネルギッシュな演奏に会場は、少しずつ静かな熱気に包まれていく。

後半は、出演者のご「挨拶」もかねて、簡単にトークを交えてなごやかな雰囲気で演奏が続く。プッチーニの「菊」をイタリアで初演したときに、この曲がかの国では葬儀の時のBGMとは知らず、会場が居心地の悪い水を打ったような静けさに包まれたというエピソードを磯村さんが披露された。確かに「菊」は、葬儀にふさわしく粛然とした美しくも悲しい情感に満ちた曲である。一音、一音、魂をこめた音づくり、悲しみをたたえているとは言え、積極的で力強さをひめた演奏は、東京クヮルテットの個性と選択を最も感じられた。余韻にひたりながらも、シューベルト、ヴォルス、ボロディンと多彩なアンコール・ピースが並ぶ。
最後の文字どおりアンコール曲の熱演に、観客は興奮に包まれた。使用楽器は、95年より日本音楽財団からパガニーニが所有していたという「パガニーニ・クヮルテット」というストラディバリウスによる4台の楽器をセットで貸与されている。池田菊衛さんによると、パガニーニの4本でセットにして使用するという意思を守り、財団が楽器を集めてセットで貸与しているそうだ。パガニーニは、その作曲や自ら開発した技法だけでなく現代の遠い島国に豊かな響きを結果的にもたらすという別の遺産も残したというわけである。

この演奏会を通して感じたのは、室内楽は1/4×4=1ではないということだ。ひとつの曲を分業するのではなく、ひとりひとりの演奏が1×4となり、シナジー効果をもたらし優れた演奏になる。また第一ヴァイオリンの個性が、カルテットの持ち味にかなり反映されるというのも感じた。

閑話休題。
いつものとおり、開演ぎりぎりに客席にはいった時に、真っ先に目に入ったのが、あのヴァイオリニストの樫本大進さんである。
演奏会終了後、購入したCDにサインをしてもらおうと並んでいると前の方が樫本さん。一人でコンサートにいらしたもよう。順番を待ち、第一ヴァイオリンのマーティン・ビーヴァーさんの前にくると、会話をしながら抱き合っているではないか。こんなチャンスはめったにないっっ、と「樫本大進さんでいらっしゃいますよね。」と思い切って声をかけた。
すると笑顔ではいっと即答される。この間の短くも幸福な会話をネットで公表するのは失礼にあたるので秘密だが、当日の演奏会の感想を一言披露。
「本当に今日は素晴らしい演奏で、僕は嬉しくってずっとにこにこと微笑みながら聴いていましたよ!」
ステージから離れた大進さんは、この会話や彼の音楽から推察されるとおり、大変素直で好青年そのもの。きっと将来大きな世界的ヴァイオリニストに成長されると、私は確信しましたね。
(樫本さま、なんの面識もないのに声をかけてしまい失礼しました。それにも関わらず、貴殿のきどりなく、誠意あり、また音楽への深い愛情を感じられる会話をうれしく楽しませていただきました。今後益々のご活躍を期待しております。)

------ 07/2/19 王子ホール -------------------------
マーティン・ビーヴァー(ヴァイオリン)
池田菊衛(ヴァイオリン)
磯村和英(ヴィオラ)
クライブ・グリーンスミス(チェロ)
ハイドン:弦楽四重奏曲 第76番 「五度」 ニ短調 Op.76-2 Hob.III:76
ベートーヴェン:弦楽四重奏曲 第2番 「挨拶」 ト長調 Op.18-2

プッチーニ:菊の花
シューベルト:弦楽四重奏曲 第12番 「四重奏断章」 ハ短調 D.703
ヴォルフ:セレナード ト長調
ボロディン:ノクターン(弦楽四重奏曲 第2番 ニ長調より 第3楽章)

■アンコール

ドビュッシー:弦楽四重奏曲 ト短調 Op.10 より 第2楽章
ハイドン:弦楽四重奏曲 「騎士」 ト短調 Hob.III-74 より 第4楽章

『夏物語』

2007-02-18 23:30:24 | Movie
たとえ二度と逢うことが叶わくとも、生涯たった一人の女性を愛することが貫くことができるのだろうか。
性が解放され、ものごころついた頃から不運にも情報社会とゲームに汚染されてしまった今の若者には、それは不可能ではあるまいか。しかし1969年、人類が初の月面着陸の成功にわいた韓国のこの時代に育った青年だったら、そんな時代遅れの奇跡のような純愛も”あり”・・・。

韓流四天王という中高年奥様向けキャッチ・セールスがあるそうだが、私にとっては韓流スターとは、なんといってもイ・ビョンホン(李炳憲)にはじまりイ・ビョンホンにおわる。キラー・スマイルが好みというわけではない。彼の年齢も、独身か既婚者かも興味がない。ひとえに彼の演技力にはまっているともいえよう。もってうまれた才能としか言いようのない演技力という武器が、彼には備わっている。昨年NHKが行った名優ベスト10に、ロバート・デ・ニーロやトム・ハンクスとともに韓国人で唯一ベスト10入り。ちなみに世界一キス・シーンがうまいのは、イ・ビョンホンだと私は思っている。そんな韓流ブームの一過性の人気だけではない彼が、1年半ぶりの新作映画として110本のオファーから40本の台本を読み、出演を決めたのがこの「夏物語」だった。

60歳をこえて引退しても人気の高い元大学教授、ユン・ソンギュン(イ・ビョンホン)。かって彼の教え子で放送作家になったイ・スジンは、初恋の相手を探す企画をもって恩師を訪問する。
「この本をある女性に返す約束をしたのだが、果たせない。彼女を探してくれませんか。」
生涯独身を貫き、今病に冒された老教授のたったひとつの依頼は、その願いにはスジンの想像をこえる激しい愛情物語がひそやかに書かれていたのだった。
1969年、韓国では軍事政権化、独裁的政治体制に圧制され自由を求める民衆でゆらいでいた。ここソウルの大学でも、そんな学生たちの政治運動が活発化していた。しかしソンギュンは、そんな政治談議を熱く語る仲間とは異なり、父親への反発心もあり一事が万事醒めているタイプ。”セイジ”よりも仏文科の女子学生との合コンの方が大事。友人の誘いにのって気楽な気持ちで参加した農村での奉仕活動も、大学生活の”ひと夏の思い出”づくりの感覚だった。運命とも言える彼女との出会いまでは・・・。

眩しいばかりの太陽がふりそそぐ農村での生活は、いたって牧歌的である。一日も早く電気が通じることが悲願でもある村民は純朴そのものなのだが、村の図書館司書を勤めるチョンイン(スエ)に対しては、なぜかよそよそしい。どこまでも美しく静かな風景がひろがる農村と素朴な農民、しかしそれに反して悲しいまでの彼女に対する村人の感情には、当時の反共産主義の激しい圧制やそこから発生するスパイ容疑におびえる集団心理が描かれている。人間の素朴さがすなわち簡単に愚かさにもつながる図式と、さらに権力に屈っせざるをえなかった暗い時代の恐怖と学生ソンギュンの弱さを描いている。その一方で、自分の命にかえても愛するソンギュンの立場を守ろうとするチョンインのつよさ。取調室でのソンギュン再会できた時のはじけるような歓喜の表情とその後の絶望とすべてを悟ったあまりにも悲しく痛々しい聡明さ、そして最後に彼を守るために嘘をつく潔さという複雑な表情を演じきったスエは、スタイル抜群で惜しいことに上品だが華やかさに欠ける容貌だが、この役をイ・ビョンホンに負けず劣らず演じきっている。それに質素でださい服装、化粧もほとんどしないナチュラルさで輝ける女性でもある。
映画のテーマーとは離れるが、共産主義の両親に生まれたチョンインの設定で思い出しのが、今は亡き翻訳家にして優れた作家であった米原万里子さんである。識字率の低い村民のために図書館を建築した両親のもと旧家の大きな家で育ったチョンインと、同じく地方の名門の旧家出身でお屋敷育ちの両親が共産主義に傾倒して党員になり、チェコで育った米原さん。裕福な資産家に生まれた育ちのよい方が、貧農で苦しむ人民のために共産主義者になり、家が没落するという話はある。理想のために財産をなくし、そんな両親の生き方をみて育ち、女性ながら強い意志と深い情愛をもつ人。チョンインにかっての米原さんが重なる。

尚、当時の時代を忠実に描いた衣装、小道具、建物は、日本の団塊世代の共感もよび感涙ものだろう。
それにしても今の時代、”純愛”を描くには、不治の病や交通事故などの理不屈さや遠い時代の軍事政権という舞台をかりることしかないのだろうか、そんなことも考えた。
イ・ビョンホンが本作品の映画出演の決め手は”情緒がある”ということだ。
「情緒」。
この慈愛に満ちた宝のような言葉自体、昔の時代におきわすれてきたのかもしれない。

「国際的な民主化を今こそ」ガリ氏は語る

2007-02-17 23:08:08 | Nonsense
明石康氏の「国際連合」を読了した今朝、日経新聞でタイムリーなことに92~96年に第6代事務総長を努めたブトロス・ブトロス=ガリ(Boutros Boutros-Ghali)氏の談話が掲載されていた。
ガリ氏は在任中、国連の財政改革やPKO改革を実施するなど業績を残すが、どちらかと言えば学者肌。二期目も立候補しながら、当時のオルブライト米国連大使の女傑との壮絶なバトルに敗れ、多数の理事国が選出していたにも関わらず米国の拒否権を発動された。これはまた国際社会から非難を浴びて当然、一国の大国の発言権の大きさに物議をかもした事件でもあった。(明石氏も作品中、昔も今もかわらず、米国中心の国連に苦言を提言している。)1922年生まれのガリ氏は、エジプト出身。カイロ大学を卒業後、パリ大学において国際法で博士課程を取得した。事務総長は安全保障理事会常任理事国や主要国首脳会議に参加しているような「大国」ではなく、所謂「小国」から選出されることを慣例に、大陸ごとに選任される。この点では、日本人の事務総長はありえない。

写真でみるガリ氏は、事務総長時代よりすっかり老いた感があるが、その口調には唯一の超大国になった米国のかってなふるまいに対する不満と不信感を隠さない意気軒昂ぶり。
ガリ氏によれば民主主義と開発、平和は相互補完的関係にありという。その発想を一国だけでなく、「国際的な民主主義」という概念を勧めている。グローバル化が加速する現在、どんな問題も一国だけで解決できることではなくなったのは「ハイレベル委員会」での公表にもあったが、地域紛争も世界に影響を及ぼすことからも、国家よりも国際機関の役割や指名が高まっている。「国際民主化」をすすめなければ、国際社会のルールは唯一の超大国、米国が自国の利益と照らし合わせて決定されていくと危惧を示している。この指摘は、すなわち国連の成り立ちそのものも危うくしていくと私も感じている。2006年12月に国連事務総長を引退したコフィー・アナン氏も、ブッシュ大統領とは冷たい関係になり近年の国連を無視するアメリカの覇権主義的行動を批判していた。

ドイツ哲学者イマニュエル・カントの「永遠平和のために」は、国際連盟や国際連合の基本的考えの礎となっている古典ではあるが、ガリ氏はすべての国の民主化=国際的な民主化という硬直的な考えを批判もしている。中東などで民主化を根付かせるのは多くの時間を要するので強要すべきではないとイラク問題にふれ、ブッシュ大統領の決定は誤っているとしているが、民主化がすべて正しいわけでもないと私も考えている。またグリーバル化を鐘楼と人口衛星にたとえ、外の世界におそれをなし耳慣れた鐘楼の聞こえる集落に回帰しようという矛盾は、すなわち文化や言語の多様性を認めることにもつながる。(但し、ユネスコが採択し日本も批准している「文化多様性条約」も、米国は世界貿易機関(WTO)のルールに抜け道ができると反対票を投じた。)

ガリ氏は米国の単独行動主義にブレーキをかけるためにも、日本などの力のある国が行動を起こすべきだと伝えている。勿論、我が国はそのためにも国連安全保障理事会の常任理事国入りをめざしているわけだが、国際貢献=軍事貢献ではなく、世界唯一の被爆国として非軍事化の大切さを訴えるべきだとしている。この発言の背景にある、巨額な国連分担金を支払いながらも、国際舞台ではその存在感の軽い不甲斐なさを身にしみるではないか。最後に最も印象的だたのが、「グローバル化時代にあっては、地球は一つの小さな村」という表現である。
なにかとグローバル化が世界中をかけめぐる熾烈な競争社会ととらえがちな昨今、確かに真のグローバル化のあかるい未来を想像したいものだ。

「国際連合」明石康著

2007-02-16 22:44:13 | Book
ニコール・キッドマンが国連本部に勤務する通訳者を演じた映画「ザ・インタープリター」は、国連が撮影に全面協力をしたことでも話題を提供したことが記憶に新しい。映画の舞台になった国連の総会議場は、ドーム型で高さ25メートルの大天井のもとで展開されている。総会議長や事務総長が座る大理石のひな壇が正面、それを中心に放射状に各国の議席が広がっているという。世界の殆どの国の要人が参加する国連を、著者は「世界の鏡」と呼んでいる。

著者は1957年から国連に勤務して、79年から事務次長を勤めた日本国連事務学会理事長である明石康氏の日本の加盟50年周年を期に、前作の「国際連合-その光と影」の内容を全面的に刷新したのが本書「国際連合-軌跡と展望」。我が国が国連に加盟したのは、1956年12月18日のことだった。原爆の被害を被った世界唯一の国から国連の強化と紛争解決のために日本の活躍を期待され、当時の重光外相が杖をついて不自由な脚をひきづりながら世界の桧舞台としての国連総会議場での、格調高く、すぐれた見識の加盟演説を明石氏は生涯忘れ難いという。それは以後の日本の国連外交を図る尺度、座標軸ともいえるくらい23年ぶりに国際社会に復帰した日本の決意と理念がこめられていた。本書は、文字どおり国連の歴史とともに歩んできた国連の生き字引ともいえるような明石氏が国連の誕生から、米ソのふたつの大国の冷戦時代、冷戦後の国連が果たした具体的な役割と成果、そして残念ながらルワンダ代表から「国連は我々がルワンダの歴史の中で最も無力で助けを必要としている時に、PKOの縮小を決定した」と嘆いた悲劇の過去も含めて、現代の国連の問題も浮き彫りにしている。
60年前に採択された国連憲章に記された「基本的人権と人間の尊厳および価値についてに信念を確認する」ことや、「自由の中での社会的進歩と生活水準の向上を促進する」という基本的な理念からさらに広がり、04年公表されたハイレベル委員会の報告では人類に対する6つの脅威を指摘している。

①経済的・社会的脅威
②国家間の紛争
③国内紛争
④大量破壊兵器
⑤テロリズム
⑥超国家的な組織犯罪

過去60年国家間の紛争は横並びだが、内戦は増加している。またハイレベル委員会では、どんな大国でも一国だけで対処できるわけではなく、世界中のどこで現れるとしてもすばやく予防的な対応措置をとる必要があると強調している。
後半は歴代の事務総長の仕事ぶりと人物評価で、それはまた興味深く読ませられる部分でもある。日本の安保理常任理事国入りは、なかなかかなわない。そこにはいみじくも、国連憲章で謳っている高く美しい理想や目的とは離れた国連の行動と、各国の利害や計算、思惑が伺われる。国際社会における理想と現実の乖離は、国内社会の理念と現実のよりも矛盾も大きい。これは世界の人々にとって、永遠の課題だ。

まさに「世界の鏡」としての国連がゆがんで、そこに映る世界像が醜いときもある。しかし著者の語るとおり、この鏡が今のところ最良の鏡であることは間違いない。

■アーカイブ

映画「ホテル・ルワンダ」
厳しい安保理常任理事国入り
「戦争広告代理店」
中国流ODAのゆくえ

ガラスのバイオリン 「玻璃王バイオリン」

2007-02-13 23:15:21 | Classic
シンデレラ姫は、かぼちゃの馬車に慌てて乗ったためにガラスの靴を忘れてきてしまった。
純真なこども心にも、シンデレラはまるで私のようにあわてん坊だと思ったが、ガラスの靴はどう履いても痛くて歩けないぞ・・・?
閑話休題。この画像は、ガラスのバイオリンである。バイオリンという楽器自体は、完璧に美しい造形であると思っているが、このガラスで製作された世界で2台しかないバイオリンも木製の楽器とは違う独特のクールな美しさがある。しかもガラスの靴とは違ってちゃんと音もでて演奏できる。

製作は耐熱ガラスメーカーのハリオグラスで、名前は「玻璃王バイオリン」。
構想から実現まで14名のスタッフが約半年がかりで取り組んだが、成功率は20~40年のベテラン職人でも10回に1回だという。製造方法は特性の金型を作って溶けたガラスを流し込み、職人が空気を吹き込んで成型する。この時に楽器の隅々までガラスの厚さを均一に2㍉しなければならない。この画像ではわかりにくいが、中央部にかけてちゃんと丸みをつくりこんでいるところが技術の高さ伺われるが、ここはかなり難しい部分だと思う。ここで厚さの調整をきちんとしておかないと、壊れやすいか音がうまく響かない楽器になってしまうそうだ。もともとの目的は、一般用の演奏目的の販売ではなく職人の技術向上と継承だそうが、素材をバイオリンやチェロを選んだのは、なかなかよい着眼点だと感心する。製作担当者の同社、村上達夫専務の「アートと技術の融合」という言葉も気障には聞こえない、納得のいくお仕事ぶりである。

ご存知のように4本の弦をはった楽器には、かなりの重力がかかる。それに耐えうる強度、またあらゆるピンポイントにおいて全く同じ厚みでぶれがない完璧さがないと楽器は弦の張力に耐えられない。しかも最後に縁に装飾を施すという見た目の芸術性もおろそかにしていない。日本人の匠の技には、心底敬服する。但し、さすがに糸巻きは木製だ。この部分は柔らかく呼吸をして、微調整できる木製に委ねるしかないだろう。以前ガラスのバイオリンで演奏された女性バイオリニストの最初にでた言葉が、重いという感想だった記憶がある。通常のバイオリンは意外なほど軽い(800g)のであるが、ガラス製は600g重い1400gほどだ。この重さは、確かにまだ実用的ではない。今後の課題があるとしたら、もう少し軽めの楽器をつくることだろうか。それと木製の楽器は、万が一破損しても状態にもよるが修復がけっこう可能であるが、さすがにガラスはわずかなひびでも致命傷になるだろう。肝心な音色の方は、共鳴板の違いによって木製バイオリンとは異なる独特の音色があり、バイオリニストの石亀協子さんによると「幻想的でファンタジックな音」に聴こえるそうだ。
ちなみにお値段は、金型費を含めて550万円。この価格が高いかどうかは、なかなか判断に迷うところである。装飾品としての価格と楽器としての価格では基準が異なるし、そもそも売るためではなく技術継承のためなので価格というよりも製作費と言った方がふさわしいのではないだろうか。それに音を聴かないと判断できないので、機会があったら一度ちゃんと聴いてみたいものだ。
幻想的な音がでるのだったらヴィニアフスキーの「レゲンデ」をリクエストしたい。。。