千の天使がバスケットボールする

クラシック音楽、映画、本、たわいないこと、そしてGackt・・・日々感じることの事件?と記録  TB&コメントにも☆

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「愛と青春の旅立ち」

2020-05-05 14:27:39 | Movie
タイトルや題名は、顔のようなもので大事である。顔は、その人を語る。
リチャード・ギアの出世作の映画「愛と青春の旅立ち」は、もはや古典的な若者の自立と恋愛映画の名作である。ところが、今回改めて鑑賞した映画の冒頭で流れる原題の「An Officer and a Gentleman」に思わず、へっ?となった。「士官と紳士」には、恋人役のデブラ・ウィンガーの最高級の美貌も、たくましいリチャード・ギアの海軍士官学校の栄えあるご卒業の気配もない。
※このタイトルの意味は、後述。とりあえず、脳内をリセットして別の切口で映画を観ると、印象が変わるほどはるかに奥行きが深い作品を楽しんだ。

清々しいような朝、ザック・メイヨ(リチャード・ギア)は、父親の元を旅立ち、シアトルにあるレーニエ海軍士官学校へ向かう。彼は、13歳の時に母親を自殺で亡くし、その母を捨てた父親は酒と売春婦に溺れる生活破綻者で、ひとりになって自分を頼ってきた少年の息子を育児放棄。水兵の父の赴任先ではいじめられ、貧しく、孤独に育ったザック。荒んだ過去からはいあがり、カレッジを卒業して自分高い位を超えるポジションをめざす息子を嘲笑い、所詮人種が違うから無理だと諭す父親。ザックが飛び込む社会が、厳密で確固たる階級社会の軍隊であることの意味に気が付いた。
父の階級を飛び越えることは、母を捨てた父への復讐であり、父の存在を乗り越えて、これからの自分自身の人生の航海をはじめるための重要な切符なのだ。
けれども、隠した入れ墨に象徴されるように育ちは育ち。禁じられている闇商売で養成学校の仲間の小銭を徴収し、自己中心的で人種に対する差別意識もあり、とても彼は人の上にたてるいうな“器”ではない。そんな人物が管理職になるのは世間でよくある事例だが、誰よりもザックの不適切な資質を見抜いたのが、海浜隊の彼らを指導する鬼軍曹のフォーリ軍曹(ルイス・ゴセット・Jr)。けれども、まさに鬼のような厳しい13週間の訓練のあいまに、少しずつ成長していくザック。そこに登場したのが、町の唯一の産業と思われる製紙工場で働く貧しいポーラ(デブラ・ウィンガー)。時代が違う。当時のこの町の娘にとって貧困から抜け出す道は、士官候補生をうまくつかまえて結婚というゴールインをすること。計算された愛情とベッドでのテクニックは、娘たちにとって別の、中流の暮らしに登る唯一の階段だった。しかし、打算ぬきで正攻法で一途にザックを愛するポーラだったのだが。

前置きが長くなったが、ここで原題の「An Officer and a Gentleman」の意味をもう一度考えてみる。(以下、飯森盛良様のコラムを参照させていただき大変たすかりました。)
このタイトルは、本来軍隊の統一軍事裁判法の133条からの次の文章からの抜粋とのことです。
「Conduct unbecoming an officer and a gentleman」
ザックの身のこなし、表情や言動は、どう見てもちょっとしたチンピラと変わらない。鬼軍曹にとっては、この条文を遵守し、将校にふさわしくない人物を排除して卒業させないことも重要なミッションなのだ。本作は、ひとりの孤独な青年が、初めて愛を獲得するというのは甘い副作用で、アメリカ的な階級闘争でもある。氏、生まれ、人種、そして育ちも努力で超えられるのが、やはり1982年のアメリカ社会なのだ。
最後に、卒業式の後、晴れて少尉になった元訓練生たちが、自分たちよりも地位の低い軍人、すなわち下の階層に位置することになった鬼軍曹にお礼とともに1ドルを渡し、鬼軍曹が敬礼する場面には、意味を理解してこそ感動する傑作である。

監督:テイラー・ハックフォード
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アバド・イン・ベルリン~首席指揮者としての最初の1年

2020-05-03 16:44:21 | Classic
1989年、「クラウディオ・アバドがカラヤンの後任としてベルリン・フィルの首席指揮者に選出された」というニュースが、
当時の音楽界に大きな驚きをもって迎え入れられた、そうだ。
・・・そうなのか。カラヤン時代を知らない私は、クラディオ・アバド=ベルリン・フィルにすっかりなじんでいたのだが。
こんな時なので、4月末までベルリン・フィルのデジタル・コンサートホールの一部を無料で視聴できた。
そのなかから、選んだのがドキュメンタリーの今は亡きクラウディオ・アバドの首席指揮者としての最初の1年間を追った1990年製作のドキュメンタリーだったのだが、これは本当に大正解だった。

ところで、クラディオ・アバドClaudio Abbadoとはいかなる指揮者なのか。
私の乏しい知識では、ある方に教えていただいたのだが、あのヴィクトリア・ムローヴァと恋人関係にあった方。(ビデオで録画したおふたりが共演した渋いブラームスのVn協奏曲を本当に何度も愛聴していたので、あの地味~なヴァイオリニストと指揮者の情熱的な関係には衝撃を受けたことを懐かしく思い出す。)
クラシック音楽が3度の飯よりも好き、私にとって音楽は生きていくのにかかせない大切な友でありながら、指揮者の区別は顔以外は全くできない。ただ、最近、世界の著名オーケストラのコンサートマスター51人のインタヴュー集である「世界のコンサートマスターは語る」という著書で、最後にコンマスが自分の所属するオケの首席指揮者や音楽監督を語る記述に魅了された。世界のコンマスたちは、指揮者の個性や“やり方”を分析し、彼らを信頼して自信をもって我がマエストロを紹介していた。その指揮者の多様性と才能に目をみはられた。

さて、このドキュメンタリーは、様々な指揮者の候補から、オケの団員楽員による選挙という民主的方法から10月8日に選ばれた“ダークホース”という文字が当時の新聞をにぎわしていたのがわかる。そのダークホースが車に乗って、栄光の舞台カラヤンサーカス(ツィルクス・カラヤーニ)に向かっている。何と言ってもカラヤンの前も後もベルリン・フィルの音楽監督は、名実ともにあらゆる意味で現代最高の地位であり椅子である。最初、電話を受けたとき、すでに世界トップクラスとしてその名が轟いたアバドですら、2分間電話を握りしめ声がでなかったそうだ。晴れやかな喜びのオーラに包まれたアバドの物腰、そして祖父が音楽学者だと語る姿に育ちの良さを感じた。
改めて調べたところ、1933年ミラノに生まれたクラディオ・アバドは、イタリアの名門音楽一家の出身。やはりそうか、若々しく端正で、飾らない自然体の姿に名門出身の品格に納得。

やがて車はホールに到着して、インタビューを受ける前にカラヤンが長年使用していた控室に入る。「初めてこの部屋に入る」とつぶやく彼に、付き添ったスタッフの「これからは客演指揮者にも使用してもらう」という声に、これまでのカラヤンの帝王ぶりが伝わる。窓からひろがるのは、まさに1989年11月9日に壁が崩壊されたベルリンの風景である。就任記念公演の準備がすすむ。曲はマーラーの交響曲第一番ニ長調「巨人」。難しいが、素晴らしい選曲ではないだろうか。そして、協奏曲のソリストに選ばれたのが、東ベルリン出身の10代のピアニストのジーリ・シュニッツ。しかし、彼女を紹介するのにピアニストという肩書は、まだなじまない。何故ならば、彼女自身が語るところによると、東ドイツでは演奏するチャンスがないのだそうだ。アバドのモーツァルトを弾いてほしいというリクエストに応えて、本番では純白のシャツに長い髪を後ろで三つ編みできりりと結び、しなやかでほっそりと華奢な指から清々しい珠玉の音楽がころがっていく。

「やはり自分は“君臨”するタイプの指揮者の方が好きだ」という楽団の意見もあり。それでも、東西統一の新しい時代とともに、民主主義で選んだクラディオ・アバドとベルリン・フィルの高揚感と期待と、何よりも未来へのあかるい希望を感じるドキュメントだった。
調印式でフラッシュをあびるアバドと関係者たち。ようやくアバドが契約書にサインしたのは、1990年9月1日のことだった。

監督:ボブ・アイゼンハルト, スーザン・フレムケ, ピーター・ゲルプ
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映画「小さいおうち」

2020-03-08 15:44:01 | Movie
吉岡秀隆さんが恋愛映画の相手役って、、、マジっすかっ?
確かに、彼が現代日本を代表する名優であることには全く異論はございませぬ。
しかし、しかしですよ、そうは言っても吉岡さんの名優の軌跡にうかぶ「北の国から」の純や「男はつらいよ」の満男。何となく優柔不断で頼りなくも情けない男子。いまひとつ、恋愛映画の男としての魅力に欠けてないか。しかも青年なのに、もう40代だよね。
そんなわけでいまひとつモチベーションにかけていた映画「小さいおうち」を鑑賞。
物語は、ひとりの老いた女性タキの葬儀と彼女の回想からはじまる。雪深い田舎から上京してきた布宮タキ(黒木華)は、郊外の赤い三角屋根の小さなおうちで女中として働くことになる。当時の中産階級では、自宅に住み込みの女中をおくのは一般的だった。主人は、玩具会社の役員の平井雅樹(片岡孝太郎)と妻の時子(松たか子)に息子の恭一。まだのどかで平和な日々だったが、昭和11年正月のこと。ひとりの新入社員の青年が、挨拶に赤い三角屋根のちいさなおうちを訪問する。商売ともうすぐ開幕する東京オリンピックに向けて勇ましい談笑が続く応接間の雰囲気から、ひとり浮いているその人は芸大出身のデザイナーの板倉正治(吉岡秀隆)。男たちの威勢の良い会話からぬけた板倉と時子は、指揮者ストコフスキーと彼が出演した映画「オーケストラの少女」で意気投合して心を通わせていくのだったが、戦争の軍靴の音ともに時世も変わっていき、やがて・・・。
しばらく恋愛映画にご無沙汰していた私の心を潤し、気が付けば遠く過ぎ去った想いに涙を流していたではないか。山田洋次監督の抜群のキャスティングに感嘆させられた。吉岡さんだけでなく、物語の登場人物の推測年齢よりはずっと年上の俳優ばかりがキャスティングされているのだが、違和感なく、それぞれがとても良い味を醸し出している。今時のテレビドラマとは別格の豊かな世界が映画にはある。女中タキの日々の丁寧な手仕事に平和であたたかい暮らしぶりを感じ、小さいおうちの、小さいながら、小さいからこそ、文化的で密やかながら情熱的な思いが、赤い三角屋根に象徴されている。
但し、この映画は万人向けではない。私にとっては、5つ★の映画なのだが、感性に合わない方には、本作の真価を理解できないかもしれない。

原作は未読だが、渡辺淳一さんの批評によると恋愛にはそれほど比重がないらしい。ただ、戦争がはじまり戦局の悪化とともに人々の心は変わっていく。いや、正確には変わっていく人が多勢で、なかにはお国の言うことに従うことが正義で他人に“正論”をふりかざし攻撃的になっていく人もいる。近頃の新型コロナウィルス騒動の世の中の風潮に、不図、この映画を製作した山田監督の反戦の思いに触れたような気がする。
果たしてサントリーホールでのコンサートまで中止にする必要があったのか、こんな時こそ文化や芸術が大事だと、けれども何となくそんなことを大きな声で言えない雰囲気を感じているのは私だけだろうか。
板倉の下宿先の階段を登る時子役の松たか子さんの、着物の裾からのぞく白い足に日本女性の色気を感じ、一瞬躊躇する彼女を自室に招きいれる板倉の腕がとても清潔で美しかった。誰が何と言っても、本作の重要な板垣役を演じられるのは、吉岡さんしかいないのである。顔よし!スタイルよし!、それで演技力抜群の若手俳優がめじろ押しの中で、この役を清潔感と存在感があり、こだわりの強い女子が入り込める“恋愛映画”にできるのは、やはり彼しかいないのである。

原作:「小さいおうち」中島京子著
監督:山田洋次
出演:松たか子 吉岡秀隆
2014年製作
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法学者の小林直樹氏が死去

2020-03-03 21:54:56 | Book
憲法学者であり、法哲学者でもある東大名誉教授の小林直樹氏が亡くなった。
15年ほど前、Y新聞の書評にすっかり惚れ込んで読んだ小林氏の「法の人間学的考察」を思い出した。内容は忘却の彼方に消えてしまったが、確かにこの本に深く深く入り込んで“熟読”したことは、私の中に宝として静かに残っていると思う。
そんなわけで、以下当時のブログを再現。
訃報から検索して初めて拝んだ小林氏の在りし日の肖像は、元級友の伝えるとおり端正を絵に描いたようだった。

〈2005年7月26日〉弊ブログより
明日がいよいよ最後の検察審査会。この半年間の事件や事故の概要が走馬灯のようにめぐってくる。
前群の方達が任務をおえた日の、感慨深そうな、達成感に満ちて、それでいてちょっと寂しそうな表情を思い出す。当事者、被害者の方やご遺族の感情を考えると、感慨深いと自己満足におちてはいけないと戒めたりもするのだが。

或る日突然舞い込んだ、候補者に選ばれたという連絡。それからまもなく、さらに候補者に入り、ついに招集状がやってきた。その時から、最後の日はこの本の話をしたいと決めていた。一昨年の8月、読売新聞の1本の書評が目にとまった。その「法の人間学的考察」 という本の短い書評を読み終えた後、深い感動をおぼえ、地元の公立図書館にリクエストして、早速お買い上げいただいた。その本との出会いが、まるでこの仕事を導いたような不思議な気持ちがした。
この著書に関しては、あまりにも書評が素晴らしいので、私は何も感想を書かないでおこう。ただ、書評どおりの壮大な「知の饗宴」に圧倒され、感動させられ、「法」の哲学につかまったということだ。

昨年高校の同窓会の席で、W大学法学部に進学した(元?)男子と、著者の小林直樹さんの話題があがった。彼はさすがに小林氏の名前を知っていた。教わったことはないらしいが。。。
高名な法学者であること。顔立ちも整い、スタイルもよく、運動神経もよくてテニスも上手であること。あの時代は、そういう育ちのよい人がいた時代だ。
この言葉は、鮮烈だった。

評者・橋本五郎さんの書評↓

 ■「法の人間学的考察」 小林 直樹著------------------------------------------------

壮大な「知の饗宴」

 拝啓 小林直樹様
 今回のご著書に心から敬意を表したくペンをとりました。書名から、和辻哲郎の『人間の学としての倫理学』や尾高朝雄の『法の窮極に在るもの』を意識されているとは推測していましたが、スケールの壮大さに圧倒されました。
 哲学や倫理学、歴史学、政治学だけでなく、物理学や生物学、天文学などの学問成果も駆使し、法の根底にあるものを導き出そうとされています。さながら「知の饗宴(きょうえん)」の趣があり、失礼ながら、まもなく82歳になる方の著作とは思われない若々しさに満ちています。
 法について、存在論、時間論、空間論、価値論、構造論、機能論、文明論などあらゆる角度から先人の業績を洗い直しておられます。その幅の広さに加え、最も心打たれたのは「なぜ法なのか」「なぜ人は正義を求めるのか」「なぜ人間だけが尊厳を主張できるのか」というように、根源的な問いを発しながら、すべてに自説を披瀝(ひれき)されていることです。
 歴史とは何か。「理性と反理性とが糾(あざな)える縄のごとく、正負・明暗の彩りをなして織りあげてきたものと見るのが、正確な認識に近い」
 死刑廃止論をどう考えるか。「法には正義の理念を実現すべき使命があり、正義の原則に従い、“問うべき責任を問う”結果として、死刑を科するのは、まさに『人間を人間らしく扱う』ゆえんではないだろうか」
 一つ一つ説得力をもって響きました。法には「当為の規範」としての性格と、強制力で当為を実現する「力のシステム」の両面があるが、その根底には矛盾に満ちた人間存在があると繰り返し説いておられます。そして天使と悪魔の「中間的な存在」である人間を常に複眼的に見つめ、立体的に全体として捉(とら)えて法を考え、行う必要を力説しておられますが、とても充実した気持ちで読み終えました。心から感謝し、ますますのご活躍をお祈り致します。   敬具

評者・橋本五郎(読売新聞本社編集委員) / 読売新聞 2003.08.31 -------------------------------

さすがに”種蒔く人”岩波である。売れる本より、知の財産になるような本を出版している。12000円は、決して高くない。電車の中で立ち読むするには、ちょっと腕が疲れるが、「ハリーポッター」よりずっとはらはらする。
橋本五郎氏は、インテリジェンスなお仕事をしているにもかかわらず?、その笑顔は2代めの商売人に見える方である。そしてともすれば、知性というシックな表彰に陥りがちな新聞書評から、いつも人の機微がさりげなくのぞく名編集委員である。文章、は人を語るのである
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テンプレート変更

2020-01-22 20:16:01 | Nonsense
とりあえず、生存証明のためテンプレートを変更してみました。
嗚呼、、、ブログを更新したい。
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『キャロル』

2016-09-25 16:59:24 | Movie
人類はいつから恋愛感情を知ったのか。
そんな素朴な疑問から、つい最近知ったのだが、変形菌に詳しい方によると、変形菌は雌雄が明確にわかれていないためにプラスとマイナスという表現を使うそうだが、プラスどうしでつながっていく同性愛のような行動をとる変形菌が必ず出現するとのこと。えっっ!あの単純な変形菌で、とかなり驚いたのだった。

1952年のニューヨーク。
クリスマスシーズンを迎えたハイクラスなデパートで働くテレーズ(ルーニー・マーラ)は、美しい女性に目を奪われる。ミンクのコートをはおった女性(ケイト・ブラシェット)、透明な肌に鮮やかな真紅の口紅、そして輝く金髪が映えるその人はキャロル。そのキャロルの娘へのクリスマスプレゼントとして鉄道の模型をすすめるテレーズは、写真家を夢見る平凡で貧しい娘。そんなテレーズの人生を変えたのは、キャロルが売り場に忘れていったまだぬくもりが残っているようなグレーの皮の手袋だった。。。

アメリカという国の代名詞は、いつの頃か「自由な国」というキャッチフレーズである。
しかし、1950年当時は同性愛者は、社会的に許されない存在だった。そんな社会で出会ったキャロルとテレーズ。一目でキャロルに心を奪われたテレーズが、その心の動きが初恋であり、又、忘れ物の手袋を自宅まで届ける情熱が、まぎれもない激しい恋なのだということすら気がついていない。しかし、社会に居場所を許されないふたりは、心を自ら葬るしかないのだろうか。

キャロルとテレーズ。すべてが対照的なふたりが、対極の軸となり物語が進行していく。それぞれの衣装や暮らしぶり、たたずまい、ふるまい、それらがお互いの魅力をひきたて美しく物語りはすすんでいく。しかも、車でふたりが逃避行のように南に向かって旅にでる場面は、まるでレトロな絵画のような美しさに少しずつ緊張感がはらんでいく。脚本、衣装、背景を含めてまぎれもなく名作であることを確信してくれる場面の数々は、『エデンの彼方に』を彷彿させて、同じ監督だったということを後で知った。そして何よりも主演を演じるケイト・ブランシェットとルーニー・マーラの素晴らしい演技がいつまでも余韻を残す。


「やっぱり、ある一定の確率で同性愛者って現れるのよねぇ~。」
そう微笑んで彼女は、変形菌の観察を続ける。そして、キャロルとテレーズの最後の決断は、映画を観る私たちに、自分の人生を歩むことの大切さを思い出させてくれた。

原作:キャロル『(CAROL)』
監督:トッド・ヘインズ
出演:ケイト・ブランシェット、ルーニー・マーラ
原作:パトリシア・ハイスミス

■こんなアーカイブも
・『ブルージャスミン』

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気がつけば・・・今年も年末

2015-12-12 09:35:18 | Nonsense
2004年12月にブログを開設して、はや11年。
日記は3日坊主の私だが、これだけは続けられると思っていたのに、今年はたった4本の掲載のみ。諸々の事情があり、日々仕事、家事、勉強に追われ、まだレポート提出もやっていない!と焦りまくる年末である。
こんな本、あんな本、ただいまマット・リドレーの「フランシス・クリック」を読書中、映画『黄金のアデーレ名画の帰還』もとてもおもしろかったが、考えること多々あり、、、と来年こそはもう少しブログを更新したい。

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「十三億分の一の男」峰村健司著

2015-06-27 16:02:47 | Nonsense
世界最高峰のオーケストラのひとつであるベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の次期音楽監督が決まった。
音楽ファンにとっては一大事件の人事であるが、その栄誉あるポジションを獲得したのは、若いバイエルン州立歌劇場音楽総監督でロシア出身のキリル・ペトレンコ氏。予想外の結果に少し拍子抜けを感じたのは、私だけだろうか。

この感覚は、私の中では大本命だったできる李克強を超えて、ただの太子党のひとりだった習近平が2013年に中国の国家主席に選任された意外感を思い起こした。けれども、私の意外感が、そもそも中国や権力闘争や”力”に縁のない者の浅い感想だったことを知らせてくれたのが本書だ。朝日新聞の気鋭のシャーナリストが、ペンでなく足と汗でたどりついた、たった1回、日本人指揮者がベルリン・フィルを振る舞台にたっただけで大騒ぎしてくれる日本のマスコミには想像もつかないような、権力闘争の果てに13億分の1の中国皇帝になった男と、その闘争が描かれている。

愛人たちが暮らす村でのカーチェース、ハーバードに留学している習近平の一人娘の姿を卒業式でとらえ、といった出だしこそ、テレビの企画ものとさして変わらない印象であるが、後半になっていくとすさまじい中国の権力闘争に第一級のクライムサスペンスを見ているような勢いとおそろしさがある。

エリート中のエリートのオーラを放っていた李克強を追い落とし浮上したのも、長い長い院政で胡錦濤を支配して縛り付けてきた老獪な江沢民の壮絶な権力闘争の妥協の産物だったのだろうか。それも確かにある。しかし、国務院副総裁まで勤めた父の習仲勲が、文化大革命中に失脚し16年間も獄中で迫害され、自身も16歳であまりにも貧しい寒村の下放されて洞窟暮らし。辛苦をなめながらも村人たちと交流し、その後清華大学に進学し、指導者になるには軍人の関係も必要と教わり、人民解放軍専属に人気歌手と見合い結婚。

一方、李克強は北京大学時代から優等生ぶりを発揮し、猛勉強で常にトップ、留学を夢見て英語の辞書を手離さなかった彼が、最難関校の切符を手にした頃に、共青団の幹部に1万人をまとめられるのはあなただけとくどかれれて、迷った末に政治家となった。その後、次々と最年少で昇格し、胡錦濤とは兄弟のような関係だった。1997年の党大会では、李克強が中央委員会の候補となっていたにも関わらず、習近平は、151人の最下位の候補者だったという。

しかし、遅れてきたダークホースにもならなかった習近平が頂点にたったのも、虎視眈々と用意周到に地盤を固めていったこともあるが、やはりそれもすさまじき権力闘争が”妥協ではなく”、生まれるべくして生まれた第7代国家主席だったことが、本書から伝わってくる。市民、政界、権力者に近づいて生々しい中国ルポをものにした著者の「現場主義」には、私はやはり敬意を表したいと思う。

「李克強が優秀なのは確かだが、同じくらい頭脳明晰な党員は、我が党にはいくらでもいる。そのたくさんの優秀な党員をまとめる”団結力”が最高指導者にとって重要。」という党関係者の見方は、説得力がある。しかし、それにしてもこんな中国と中国人を相手にする日本の総理大臣のひ弱さと自己中心的な幼さには不安と情けなさを感じる。

さて、ベルリンフィルの音楽監督の選任は、実は5月に開催された123人の選挙資格を有する団員による選挙と長い議論では結果がでなかった。ドイツ出身のクリスティアン・ティーレマン、バイエルン放送交響楽団首席指揮者を務めるマリス・ヤンソンス、若手のアンドリス・ネルソンス、まさかのベネズエラ出身のグスターボ・ドゥダメルといった名だたる候補者が浮上したが、年齢、保守的、他の楽団との契約等、さまざまな理由や事情から決定打がなかったそうだ。政治には、時の女神もいるのかも。
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「ピアニストはおもしろい」仲道郁代著

2015-06-13 15:04:27 | Book
「なかみちいくよだが、まだまだ、わがみちいくよには到達できない」

ピアニスト・仲道郁代さんの、日本的な謙虚という美徳のオブラートに包まれたこんな言葉をうのみにしてはいけない。わが道を行くタフさと鍵盤の数ほど(←ちと大げさか)のバリエーションのある強さがなければ、音楽界というシビアな世界、需要も多いが層も厚いピアニストの世界では生き残れないのだから。

先日、テレビの対談番組で仲道郁代さん、川井郁子さん、吉田都さんの3人が登場して、芸術家の日常や娘のことなどたわいないお話をしていた。ゴージャスでお金をかけたつややかな川井さんの美貌に比較して、仲道さんの上品な変わらない可愛らしさは、人柄の良さが感じられた。そんな仲道さんの本を、気楽に、リラックスするため、と手に取ったのだが、これが実におもしろくって読み始めたらやめられないではないか。

私の中での仲道さんは、日本音楽コンクール優勝をきっかけに、誰からも”好感のもてる可愛らしさ”の魅力と運で生き残ってきたピアニストだった。確かに、日本で最も権威のあるコンクールの優勝歴は素晴らしいと思うが、グローバル化の昨今、その威光と輝きもうすれてきているのも事実。本書も、仲道さんの見た目どおりのプチ可愛らしく、誰にでも入りやすい、たわいないお話が綴られているかと予想したが、その語り口のうまさにどんどんひきこまれていってしまった。

ピアノやクラシック音楽にさして興味がなくても、彼女の専門的な話しも入りやすくてわかりやすい。しかし、これは実は難しい芸だと思う。専門用語を使用せずに、演奏家としての立場で、たわいないような語り口でショパンやベートヴェンの真髄にせまるような内容が、身近な単語で時にユーモラスに語られているのである。これは、お見事な芸と言ってもよいのではないだろうか。彼女のご自宅には、コンサート用のスタインウェイのフルサイズのピアノ、生徒用にヤマハ「S6」の合計2台がある。長年の友であり商売道具でもあるピアノが2台、はピアニストにとってはごく普通。しかし、その後なんと4台のピアノが次々とやってきて部屋を占拠してしまった、という顛末記はピアノの発達と作曲家の関係がよくわかり、目が開かれるようだ。

日頃の音楽観、こどもの頃やコンサートなどの思い出、予想外に多彩なお仕事、家族など、思いつくまま感じるまま続いていく。例えて言えば、テレビのゲストコメンターが大衆の胸の内を巧みに言葉で表現しているとすれば、仲道さんは、音楽好きの一般聴衆がなんとなく感じている領域から、実にセンスよく、ぴったりの単語を組み込んで、誰もが共感して楽しめる文章にしている。

ともすれば、プロフェッショナルなプライドや練習量などの努力を誇りがちなピアニストという職業だけれど、彼女の独白はもっと身近で親しめる。以前、ファッション雑誌で、ご自宅の靴の収納を公開していたけれど、同じ高さ、同じような太めのヒールの靴がずらっと後ろ向きにきちんと並んでいるのを拝見した時、いさぎよさと合理的な考え方をされる方という印象をもったが、本書でも大きなスーツケース4つを使いまわす技を披露していて、そうそう音楽家にはタフさも必要だったと納得した。

「真の美は、際立って孤独なものだと思う」

こう語る仲道さんは、上品でおっとりした佇まいな中に、美しくもタフな精神を持っている方なのだ。

ちなみにamazonの商品説明には、「ゴーイング・マイウエイ=「わがみちいくよ」、多事多端のピアノ人生」と紹介されているが、的をえていないと思う。”わがみちいくよ”は、協奏曲を演奏する際に強さがないと、時々舞台でへし折られるという背景からきた言葉であって、他人と我との違い、自分の信じる道をすすむという単純な話しではない。

■アンコール

「パリ左岸のピアノ工房」T.E.カーハート著
映画『ピアノマニア』
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背信の科学者たち 

2015-04-26 09:53:43 | Nonsense
諸般の事情により、というよりもお勉強?に時間をとられてブログを更新できない状況が続いています。
その間、あんな本、こんな映画、そして素敵な音楽と過ごした時間。
言葉や感情が溢れていますが、その前に60日間更新していなかったための広告がとうとう出没。
えっっ、、、化粧品や不動産など、それほど関心がないのに。

・・・というわけで以前のブログを再掲載。
続編として村松秀氏の「論文捏造」がお薦め!

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1981年、下院議員の若きアルバート・ゴア・ジュニアは、深い怒りをこめて「この種の問題が絶えないひとつの原因は、科学界において指導的地位にある人々が、これらの問題を深刻に受け止めない態度にある。」とざわめく法廷を制した。通称、ジョン・ロング事件でのできことだった。 論文の盗用、データーの捏造、改ざんをしていたのは、あのOさんだけではなかった。

「それでも地球が回っている」
あまりにも有名なこのセリフを後世に残し、科学者という肩書きを崇高に格上げしたガリレオ・ガリレイの実験結果は、再現不可能で今日では実験の信頼性に欠けているとみなされている。又、偉大な科学者であるアイザック・ニュートンは『プリンキピア』で研究をよりよく見せるため偽りのデータを見事なレトリックと組み合わせて並べていたし、グレゴール・メンデルの有名なエンドウ豆の統計は、あまりにも出来すぎていて改ざんが疑われる、というよりも本当に改ざんしていたようだ。しかし、いずれもこれらの行為は、ニュートンもメンデルも信頼性を高めるための作為であり、都合のよい真実を集めていたわけで、科学的真理の発見にはおおいに貢献していたとも言える。”悪意”もなかったようだし。

しかし、現代ではいかなる科学的な事実であろうとも、論文の捏造は許されるものではない。そもそも、”悪意”の定義を議論することすら見当違いであることを、本書を読んでつくづく実感する。仮に、もし仮にstap細胞が本当に存在していたとしても、論文のデータを改ざんしたり捏造したりする行為が水に流されて、最終的に結果オーライというわけにはいかない。それが、一般社会通念とは違う科学というグローバルスタンダードの戦場なのだ。

いつかはばれる。化石を捏造した犯人がいまだに謎である推理小説のようなピルトダウン事件、サンバガエルを使って嘘の実験データで強引にラマルク学説を支持したポール・カンメラー事件(余談だが、彼はアルマ・マーラーに恋をして結婚に応じないならば亡き夫・マーラーの墓前でピストル自殺をすると迫ったそうだ)、データを捏造して驚異的な論文を生産していたハーバード大学のダーシー事件、論文を盗用しまくって研究室を渡り歩いたアルサブティ事件。次々と背信の科学者たちが途絶えることがない。

本書に登場する事件を読む限りでは、いつかは偽造がばれるだろうと素人にも思えるのだ。結局、嘘に嘘を積み重ねることは、無理があり破綻せざるをえない。それにも関わらず、ミスコンダクトは繰り返されていく。何故なのだろうか。

たとえば、1960年代、全く新しい星がケンブリッジ大学の博士課程の大学院生ジョスリン・ベル・バーネルによって発見された。しかしながら、「ネイチャー」に掲載された論文の筆頭者は、最大の功労者である彼女ではなく、師匠のアントニー・ヒューイッシュだった。教え子の手柄をとった彼が、後にノーベル物理学賞を受賞すると”スキャンダル”と非難された。おりしも、金沢大学では教え子の大学院生が書いた論文を盗用していたという事件が発覚したが、ここまで悪質ではなくとも、それに近い話はそれほど珍しくない。科学の専門化、細分化がすすむにつれ、多額の助成金が必要となり、予算をとってくるベテラン科学者と、彼らの下でもくもくと実験作業を行う若手研究者。ベテランが予算をとってくるから研究できるのであり、逆に駒のように働いてくれるから研究者は真理に近づけるのである。iPS細胞でノーベル賞を受賞した山中教授と、当時大学院生だった高橋和利さんのようなよい師弟関係ばかりではない。

実は、本書は1983年に米国で出版された科学ジャーナリストによる本である。そんな昔の本なのに、登場する実際の捏造事件は、今回のstap細胞問題に重なる点が多いことに驚いた。優れた研究室で、次々と画期的な論文を連発するが、本人しか再現できないマーク・スペクター事件。stap細胞作成には、ちょっとしたコツとレシピが必要だと微笑んだ方を思い出してしまった。「リアル・クローン」の中でも、著者が再現性が重要と何度も繰り返していた。大物実力者のサイモン・フレクスナー教授の支持を受けて、充分な審査を受けることなく次々と論文を発表してもてはやされていたが、今ではすっかり価値をなくしてしまったがらくたのような研究ばかりで科学史から消えていった野口英世。

ところで、気になるのが、次の記述である。

「若手の研究者がデータをいいかげんに取り扱ったことが明るみに出ると、そのような逸脱行為によって信用を傷つけられた研究機関は、事態を調査するための特別委員会を組織することが責務であると考える。しかし、そうした委員会は結局、予定された筋書きに従って行動するのである。委員会の基本的な役割はその科学機関のメカニズムに問題があるわけではないことを外部の人びとに認めさせることにあり、形式的な非難は研究室の責任者に向けられるが、責任の大部分は誤ちを犯した若い研究者に帰されるのが常である。」

そして改ざんの予防策として、「論文の執筆者は署名する論文に全責任を負うべきである」とも。今回の茶番も、Oさんひとりの責任ではなく、そもそも科学者としての資質も能力も欠けている人を採用し、バックアップしたブラックSさんの責任も重いのではないだろうか。

「リアル・クローン」若山三千彦著
ミッシング・リンクのわな
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