千の天使がバスケットボールする

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「ダークレディと呼ばれて」ブレンダ・マックス著

2010-10-30 16:07:27 | Book
「『ロージー』はノーベル賞がとれたのか」。
1998年8月15日の「自由なオランダ」紙が投げかけた命題である。1953年にDNAの二重らせん構造をフランシス・クリックとともに解明して、62年にノーベル賞を受賞したJ・D・ワトソンの『二重らせん』を読んで、ワトソン-クリックの後に続くのは、”第3の男”のウィルキンズではなく、X線解析で彼らにヒントを与えて貢献したロザリンド・フランクリンではないかと、私は考えた。但し、もし彼女がその時、生きていたならば。

本書の著者のブレンダ・マックスはそのような仮定は無意味だと結論している。確かに、彼女が男性だったら、という”もしも”と同じように無意味だ。しかし、この質問を、彼女が生きていたらノーベル賞委員会はウィルキンズではなくロザリンドに与えたはずだ」という主張に変えたとしたらどうなるであろう。ストックホルムのノーベル賞委員会には、各国から推薦を受けて受賞者を選ぶのだが、推薦人にはその国の受賞者が含まれて、彼らは師弟関係を優遇する。「二重らせん」で序文を書いたローレンス・ブラック卿は、英国の候補者の決定に強い影響力をもち、彼がウィルキンズを推薦していたのは想像できる。37歳という若さで亡くなり、世界で最も権威のある賞には縁がなかったが、80年代以降、ロザリンド・エルシー・フランクリンが優秀な科学者だったことが再評価されている。副題に「二重らせん発見とロザリンド・フランクリンの真実」がつけられた本書は、1920年7月25日、ユダヤ人の裕福な銀行家に生まれた彼女の家族の歴史からはじまり、生い立ちから熱心に研究生活に励み、最後の日まで取り乱すこともなく次の研究課題を考えておだやかに眠るように逝った彼女の生涯が綴られている。

読むのにあたり、私が心がけたことがふたつある。「二重らせん」が売れたのは、20世紀最高の生物学的発見者による本というだけでなく、真偽のほどはともかく、赤裸々な科学者の生態と、二重らせんの解明にある意味ルール違反ではないかと思われる過程があったことも人々の好奇心に作用したのではないだろうか。クリック以上に、この本の中で重要な役割を演じているのが、ダーク・レディと呼ばれた通称ロージー。ノーベル賞という権威の裏にある暴露的なことを期待したり、フェミニズムの視点で悲劇のヒロインの象徴を求めたら、科学とひとりの女性研究者の本質を見誤る、というのが私の考えだ。著者のブレンダ・マックスはサイエンス・ライターにふさわしく、ロザリンドの業績と人となりを曇りのない視点で客観的に書いていて、私は感動すら覚えた。

ワトソンが31歳のロザリンドに初めて会った時の印象として、顔立ちはよいのに、化粧もせずにイギリスの文学少女めいた衣服を着て、母親からつまらぬ男と結婚しないですむように、職業的技能を身につけさせるように強要した結果と評価している。後に教養も高い裕福な銀行家の娘と知るのだが、”ダークレディ”というニックネームとともに、ヒステリックで頑固、周囲との協調性に欠けるやぼったい女性というイメージが、本の売れ行きとともに、当の本人が亡くなったために反論の機会すらないまま、遺族が悲しむくらいにひろまってしまった。ここで、ワトソンの言葉にある”技能”と”強要”に、私にはひっかかるものがあるが、私も本書を読まなければ、そう感じたままで終わっていただろう。自らエピローグに言い訳めいて書いているが、科学者の世界では「女性は真剣な思考から救ってくれる気晴らしの存在」としてみる傾向があるということだ。栄冠をめざして競争社会で生きる彼ら男性群にとっては、ハーバード大学ですら女性に終身在職権を与えたのが1992年のことという社会的背景もあり、女性は気楽に遊べる女の子か、ワトソンの妹やクリックの妻のように恋人や妻にふさわしい美しい女神しかいなかったことも、あまりにも聡明で男以上に勤勉なロザリンドに対して愚かな対応だった原因はある。人は誰しも、その人のすべてを知ることは難しく、ワトソンの”ロージー像”もすべてが誤りだとも思えないが、あまりにも独断による一面しか伝わってこないのは、如何なものかと思われる。

確かに、ケンブリッジはロザリンドに、人生を変え、専門職と哲学を与えてくれたが、ロンドン大学キングスカレッジでの彼女への扱いは不遇としか言いようがなかった。また不運が同僚との対立をうみ、礼儀正しさが育ちの違いの印象を与え孤立を深め、慎重さが猜疑心の深さ、生真面目さが頑固と思われ、よい人間関係を築きことができなかった。女性に対する偏見や周囲の無理解だけでなく、彼女がフランスで初めて愛情をもった既婚の科学者のように、尊敬に値する優秀な頭脳を上司に期待し過ぎた失望が人間関係の躓きともなったと思える。しかし、頭のよい女性にありがちなそのような厳しさは、自分がチームのリーダーとなるや、次々と論文も発表するかたわら研究費獲得のために努力し、不治の病を自覚してからは部下の生活すら配慮して彼に遺産を与える遺言状を残す、という実に有能で頼れる理想の上司として慕われる面を発揮していくことになる。

また、ワトソンがもっと化粧をした方がよいと感じた全く色気のないロージー像は、世間に女性科学者への偏見すら与えていないだろうか。実際のロザリンドは、洗練されていてとてもおしゃれだった。夜、白衣を脱いで研究室の階段を下りる彼女が、別の星からやってきたように美しいイブニング・ドレスだったことを目撃した者もいる。人間関係を築けないどころか、友人の家庭を訪問するとこどもたちとたちまち仲良く遊び、気がきく贈物を選ぶ気配りもあり、料理も大好きで、自宅でのもてなしも得意だった。そして旅行が大好きで、裕福な家庭の娘にも関わらず、元祖バックパッカーだった。フランスでの研究生活、アメリカでの招待講演をかねた旅行、最後のバークベックカレッジでの暮らしでは、毎日、生き生きと充実した日々だった。残念ながら、恋をした男性は既婚者ばかりで、唯一結婚を考えられる男性と出会った時は遅し、すでに彼女は病に冒されていてあきらめるしかなかったのだが。

研究者としてロザリンドが用心したのは、産業界から一定の距離をおくこと。自分の研究が営利目的のみの道具となることを憂慮してのことだが、これには戦争体験や裕福なユダヤ人の一族という出自にもある。そんな思慮深く人生哲学をもつ彼女が亡くなった後、研究成果が認められると、ワトソンの”職業的技能”という言葉にもあるように「地道」で「腕の良い実験者」という”ほめ言葉”で再び知性を貶められることになった。しかし、ロザリンドは炭素、タバコ・モザイク・ウィルスの研究で世界的評価をえて、数々の論文は短い人生ながらも、科学者の一生分のキャリアに並ぶものだった。そしてDNA構造の解析に決定打のヒントを与えたのは、ロザリンドの撮った51番のX線写真だ。本書の監訳をした福岡伸一氏によると、彼女はデーターをひたすら地道に積み上げていく「帰納的」アプローチでDNAの構造を解明することをめざしていたことになる。そこには野心も気負いもなく、ひらめきやセレンディピティは必要なく、クロスワードパズルをひとつひとつ緻密にうめて、その果ての全体像としておのずと立ち上がってくるものとしてDNAの構造があった。一方ワトソンとクリックは、典型的な演繹的アプローチによってDNA構造に迫ろうとした。直感やひらめきによって、先に図式を考えて正解に近づこうとする思考だ。その思考に貢献するデーターが、ウィルキンズが偶然もたらした切り札、フランクリンの撮影したDNAの三次形態を示すx写真だった。このX線写真に数学的な変換と解析をしたのは、”準備した心をもった”クリックだった。この写真のおかげでふたりは一番に正解に達したが、ロザリンドも真実のすぐ間近まで上っていたということだ。ワトソンの「二重らせん」は、帰納型よりも演繹型の方が競争には有利という意味でも功罪を残したことになる。

ロザリンドはノーベル賞をとれたかという質問を「ノーベル賞受賞者にふさわしい業績だったか」と問われたら、間違いなくYESと答えたい。しかし、ノーベル賞をとれたかという議論は、彼女にとっては瑣末なこと。ロザリンドにとって奪われた賞とは、著者のいうように結局、生命そのものだったのだろう。科学に熱中するケンブリッジ大学で学ぶ娘の行く末を案じた父に宛てた手紙には、「科学と日常生活を切り離すことは不可能ですし、そうすべきではないのです。科学は私にとっては、人生を解釈する材料を与えてくれるものともいえます。それは事実と経験、実験に基づいているのです。」と記されていた。本書を読むと、そんなロザリンドの人生観も伝わってくる。

4月19日付けの『ロンドンタイムズ』紙に、J・D・バナールによるロザリンドへの敬愛の気持ちがあらわれた学者らしい気品のある追悼文が掲載された。そこには、「彼女の人生は科学研究に一意専心に身を捧げた見本である」と結ばれていたそうだ。

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「二重らせん」J・D・ワトソン著


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